2019年5月21日火曜日

レニングラード包囲戦に参戦したスペイン義勇軍兵士が、出口にドイツ軍兵士の死体が散乱した塹壕から両手を上げてソビエト赤軍に降伏した。

第2次世界大戦の東部戦線におけるレニングラード包囲戦に参戦したスペイン義勇軍の兵士が、塹壕から両手を上げながら出て、1943年2月10日にソビエト赤軍に降伏した。塹壕からの出口には、多数のナチス・ドイツ軍の親衛隊の戦死した死体が散乱していた。ソビエトの内務人民委員部(NKVD)は、降伏したドイツ軍兵士は捕獲せずに、その場で射殺する指令を出していた。
 スペインは青師団と呼称されて、第二次世界大戦中に東部戦線におけるドイツ軍に国軍ではなく青師団と呼称された義勇兵を参戦させた。スペインは西部戦線の連合軍とは対戦せずに、東部戦線のソビエト共産主義のみに約45,000人のスペイン義勇兵が対戦した。レニングラード包囲戦には、1942年8月から1943年10月まで参戦して、戦死者は約4,954人と戦傷者は約8,700人に達した。
 レニングラード包囲戦は、ナチス・ドイツ軍が1941年9月8日から1944年1月18日までの872日にわたり、レニングラード(現サンクトペテルブルク)を包囲して、ソビエト赤軍とレニングラード市民の約150万人が犠牲となった。ソビエト赤軍は1943年1月12日にイスクラ反攻作戦を決行して、1月18日に完全に周囲から包囲されて陸の孤島と化していたレニングラードに続く陸上ルートが確保されて、ナチス・ドイツ軍の包囲線が一部消滅した。さらにソビエト赤軍は1943年2月10日にクラスノボルスカヤ作戦にて、レニングラードを包囲しているナチス・ドイツの第18軍部隊を攻撃した。その結果、ソビエト軍が一時的にレニングラードから約5km離れた地点でナチス・ドイツ軍を撤退させた。その後にナチス・ドイツ軍は増援を受けて、それ以上にソビエト赤軍は侵攻することはできなかった。その戦闘では、ソビエト赤軍兵士は約10,000人が死亡や行方不明となり、ナチス・ドイツ軍部隊は約3,600人の兵士が戦死して、その一部はスペイン義勇兵が含まれた。



2019年5月20日月曜日

アメリカ海軍は沖縄沖で沈没した特別攻撃機を引き上げて、操縦士の遺体の検死をして、無残な死体を太平洋に投げ入れて水葬した。

太平洋戦争の沖縄戦にて、日本軍の特別攻撃機による体当たり攻撃がアメリカ海軍の艦艇に突撃した。日本軍の一機の特別攻撃機が、沖縄沖でアメリカ軍の攻撃輸送艦のアルパイン(USS Alpine, APA-92)に突入した。特別攻撃機は体当たりできずに、アルパインを飛び越して沖縄沖の海中に墜落した。その後に、アメリカ海軍は日本軍兵士の操縦士を載せて沈没した特別攻撃機を引き上げた。操縦士の遺体の検死をしてから、無残な死体を太平洋に投げ入れて水葬した。アルパインは、レイテ沖と沖縄沖の合計2回の特別攻撃機による攻撃を受けて、戦死者は約21人と戦傷者は約31人に達した。
   1944年10月19日にレイテ沖に向けて特別攻撃がマニラ近郊の航空隊本部で最終決定されて、10月21日から突撃した。レイテ沖では、アルパインは1944年11月18日の午前7時28分に、日本軍の特別攻撃機を発見して、攻撃輸送機の砲手たちは約3,000ヤードの範囲から発砲した。特別攻撃機は右に寄り、右舷から飛び散った。その後、2番目の特別攻撃機が接近して、再び砲撃した。左へ旋回を始めて、全馬力の突入に入ったとき、テールアセンブリの前方に衝突した。高度約1,200フィートで、航空機は炎上しながら、攻撃輸送機のアルバインの左舷側に墜落した。消防隊員は約30分で消火するも、5人の乗組員が殺害され、12人が負傷した。
 沖縄沖では、アルパインはアメリカ軍による沖縄の侵略を支援するために、軍艦に軍事荷物を積み、1945年3月27日から沖縄へ向かった。4月1日の午後7時10分に、日本軍の特別攻撃機機が港湾地区からアルパインに接近した。メインデッキの右舷側にて爆弾が炸裂した。その後、特別攻撃機が戦艦に激突し、2番と3番ホールで爆発した。別の戦艦が並走してアルパインを消防して、火災は沈下した。死傷者の捜索で、約16人の乗組員が殺害されて、19人の乗組員が戦傷した。




2019年5月19日日曜日

ベトナム戦争で戦死したアメリカ軍兵士の死体はまだ死後硬直もなく、移動するたびに鮮血が流れ落ちた。

ベトナム戦争にて、クチのホーボーウッドにおいて、アメリカ軍兵士が1968年に戦死した。森林のジャングルにおける接近戦により、北ベトナム軍兵士らに銃殺された。同僚のアメリカ軍兵士は、戦死した直後の死体を抱えた。死体はまだ死後硬直もなく、死体は移動するたびに鮮血が流れ落ちた。近くの仲間のアメリカ軍兵士は、ヘルメットを取って、目頭を抑えながら慟哭した。
 クチは、南ベトナムから北西へ約70km場所に位置した。ベトナム戦争では、クチには全長約250kmに及ぶ地下に無数にはりめぐらされた地下トンネルにより難攻不落で、鉄の三角地帯と呼ばれた。南ベトナム解放戦線の兵士らは見通せない湿潤のジャングルに身をひそめては、入り込んだアメリカ軍を攻撃するなどゲリラ作戦を展開して、ベトコンの拠点となった。に向けて、クチから出撃して1968年1月31日のテト攻勢した南ベトナム解放戦線は、その直後からのアメリカ軍の無差別な爆撃で大きな犠牲を伴った。その後クチを含むロンアン省には南ベトナム解放戦線が北ベトナム正規軍により再建された。クチ北方のホクモン橋で1968年3月25日に、アメリカ軍1個小隊が南ベトナム解放戦線に攻撃を受けて壊滅した。
 ベトナム戦争は、第一次インドシナ戦争の延長上に勃発した宣戦布告なき戦争であった。南ベトナム解放民族戦線が南ベトナム政府軍に対する武力攻撃を開始する1960年12月20日に始まり、1965年2月7日からアメリカ合衆国と北ベトナムの戦争を経て、1975年4月30日のサイゴン陥落まで続いた長期間にわたる悲惨で残酷な消耗戦争となった。北ベトナム軍兵士を抹殺するために、アメリカ軍兵士は最も危険な農村、山岳からジャングルを偵察した。アメリカ軍兵士は、「なぜおれたちはここにいる。おれたちはここで何をしてるのか。いつまで続くのか。戦争では個人の存在が認められない。その疑問がいつも頭の中にある。」とベトナム戦争の正義を見失った。ベトナム戦争の意義もわからず戦い続けるアメリカ軍兵士は戦争の正義を疑い、行動と役割を疑い、徐々に不安と疑惑が増し、士気が低下し、戦う勇気を失った。ベトナム戦争で戦死した味方も敵も含めた人間の悲惨な死体を目撃したことが生き残った兵士にとって、脳裏に深い傷跡となった。



2019年5月18日土曜日

長崎市西坂町26聖人の高台にて、長崎原子爆弾の被爆犠牲者に対するキリスト教による野外ミサが挙行された。

長崎市内に1945年8月9日に原子爆弾が投下して炸裂した。第2次世界大戦後では初めて、長崎市西坂町26聖人の高台にて、長崎原子爆弾の被爆犠牲者に対するキリスト教による野外ミサが1945年3月に挙行された。西坂町は長崎原子爆弾の爆心地から約2.1kmで、一面が壊滅して廃墟となった。被爆後に、西坂町の高台は、被爆者の遺骨の集積と埋葬の丘となった。
 キリスト教を京阪地方へ伝導していたフランシスコ会宣教師6人と日本人信徒20人が、1597年2月5日に豊臣秀吉によるキリシタン禁止令により、十字架の磔で処刑された丘であった。キリストが十字架に架けられたゴルゴタの丘に似て、キリスト教信者達がこの地を処刑の場に願い出た。26聖人の殉教以降も多くの人々が、火あぶり、水責め、穴吊りなどでこの地で虐待と虐殺の処刑がされた。第2次世界大戦後に、原子爆弾の被爆から復興して、殉教地であった小高い丘を公園にかえて、昭和31年、長崎県はこの丘を史跡に指定した。26人の殉教者は、1862年に列聖となり、100年目の1962年に26聖人等身大のブロンズ像嵌込記念碑と記念館が西坂公園に建立された。1950年には、ローマ教皇・ピオ12世がこの地をカトリック教徒の公式巡礼地と定めた。



2019年5月17日金曜日

日露戦争の遼陽の会戦にて、黒英台附近の荒野には多数の日本軍兵士の戦死体が散乱した

日露戦争の初戦の遼陽会戦において、戦場となった黒英台附近の戦状では、1904年9月4日の黒英台附近の荒野には多数の日本軍兵士の戦死体が散乱した(「日露戦争写真画報, 第14巻」)。荒野に散乱した戦死者の死体を検死して処理をした。戦場では日本軍兵士は死と隣合わせであることを、残酷で悲惨な日露戦争の結末を示した。戦争による死の真実は、百聞は一見にしかずである。日露戦争で戦勝している場合には、戦争をより誇張と称賛するために、戦死者の真実を捧げた。しかし、厳しく不利な戦争になるに従って、戦死者の真実は隠蔽されて抹消された。
 日露戦争の初期に、ロシア軍は約158,000人を中国東北部の遼陽付近に布陣して、日本軍は約125,000人と遼陽会戦した。日本軍は、1904年8月26日に夜襲して弓張岑付近のロシア軍前進陣地を占領した。8月30日には遼陽を包囲する総攻撃して、激戦の後の9月4日に日本軍は遼陽を占領して、南満州は日本の勢力下に置いた。日本軍は8月30日に各方面から攻撃を開始した。8月30日夜、連刀湾から太子河を渡河し、皇姑墳に進出した。主力は、8月31日に本渓湖を占領して、9月1日に黒英台・五頂山を占領して、ロシア軍の左側背を脅かした。動揺したロシア軍が9月3日の夕方から退却を始めた。日本軍は9月4日朝までに遼陽付近一帯の陣地を占領した。遼陽会戦で、日本軍兵士は約23,615人、ロシア軍兵士は約17,900人が犠牲となった。遼陽会戦は日本軍は遼陽に入城して、ロシア軍は遼陽駅を放火後に撤退した戦略的後退であると、世界中に対して両軍は勝利宣言を行った。機関銃から大口径砲などの近代兵器を揃えた大規模な戦争としては、近代史では遼陽会戦が初発となった。



2019年5月16日木曜日

最終的なモンテ・カッシーノの戦い後に、戦死したポーランド軍兵士の多数の死体を、埋葬するために戦場から運び出した。

最終的なモンテ・カッシーノの戦い後に、戦死したポーランド軍兵士の多数の死体を、埋葬するために戦場から運び出した。ポーランド軍は、1944年5月11日からカッシーノ上方の山地で3日間かけても前進できず、多大な犠牲を受けた。沿岸や山地でも多くの犠牲をと伴った消耗戦が続く中で、5月17日からポーランド軍は山地での攻撃を再開した。18日早朝に、ポーランド軍は修道院が既に放棄されているのを発見し、廃墟に連隊旗を揚げた。ドイツ軍空挺隊は、新しい防衛陣地ヒトラー・ラインが完成する直前の夜間に撤退していた。ドイツ軍の守備隊で残ったのはやせ衰えて動けない病人と重傷者だけだった。
 第2次世界大戦で、イタリア戦線にてモンテ・カッシーノの戦い(Battle of Monte Cassino)は、1944年1月17日から5月19日にかけて勃発した。連合軍はイタリア戦線におけるグスタフ・ラインの突破およびローマの解放をした。約105,000人の連合軍と約80,000万人の枢軸国軍の戦闘により、約55,000人の連合軍と約20,000人以上の枢軸国軍に犠牲を伴った。ポーランド兵はモンテ・カッシーノの戦いにも参戦して、約3,000名近くの戦傷者者と約1,000名近くの戦死者を出して、重要拠点の占領した。
  モンテ・カッシーノ修道院は、ベネディクトゥスが529年頃にローマの南方の標高約500mの山上に建立した。ベネディクト派の修道士は、禁欲を理想とする6世紀の修道院運動の震源地となった。ランゴバルド王国のゾトにより581年頃に破壊されて、その後2回はイスラーム教徒の襲撃で破壊され、ナポレオンのイタリア遠征で破壊された。モンテ・カッシーノの戦いで、アメリカ軍の空襲のため修道院は完全に破壊され、その地にドイツ軍が立て籠もりイタリア戦線の最大の激戦地となった。 モンテ・カッシーノの戦いに先立って、ドイツ軍とオーストリア軍は、修道院の遺品、図書館の資料と文書と他の多くの貴重な遺産をバチカンで戦時中に安全に保管するために移動した。バチカンで保管された貴重品や書類は、1964年に教皇パウロ六世によって再奉献された。



2019年5月15日水曜日

日露戦争にて、日本軍兵士は清国の中国人夫妻を、ロシアのスパイ容疑者である露探として公開処刑した。

日露戦争にて、日本軍兵士は清国の中国人夫妻を、ロシアのスパイ容疑者として公開処刑した。日本軍兵士は、スパイ容疑者を首切り役人に切断させて処刑させた。清国の中国人夫妻の2人の死体は血溜まりの中にうつ伏せに倒れた。日本軍兵士が清国の中国人を公開処刑に前列に整列して見物した。膨大な清国の中国人が参集して、公開処刑を見物するために周りを取り囲んだ。公開処刑されて、虐殺された死体を見守った。
 日露戦争では、敵国ロシアのスパイである「露探」と名指しされると、どのように弁護しても、スパイ容疑で逮捕されて、極刑に至ると殺害された。露探を過剰なロシアのスパイと非難して、何かにつけてロシアのスパイである露探の容疑をかけて糾弾して、満州だけでなく日本の市民らも巻き込んで恐怖に陥らせた。日露戦争に、露探は常軌を逸脱した危険人物の指名用語となった。
 売上するために、新聞、雑誌、月刊誌なども露探の嫌疑と容疑をかけては、処刑を見世物にしていた。『軍国画報』(第二年第五巻、1904年4月3日、冨山房)にて、「露探清人夫妻の所刑」として写真を掲載した。日露戦争を勝利に導いた日本軍を称賛して、悲惨な戦争を興味本位な劇的な戦争に導く見世物として公開処刑した。戦時下においては、まず迅速にニュースを伝える新聞が購読され、刊行間隔の短い雑誌がそれに続き、戦闘の記憶が薄れた頃に刊行される月刊誌が、戦争を見世物として興味本位に導くように刊行された。


2019年5月14日火曜日

23歳の青年は日本の信州木曽村で1867年に主人を殺害した反逆罪で磔刑により公開処刑で殺害された。

23歳の青年の壮吉が、信州の木曽村で1867年に主人を殺害した反逆罪で、磔刑で公開処刑された。壮吉は磔付けされた後に、喉元へ槍を突き刺せられて絶命した。社会的地位の高い個人や家族に対する犯罪ほど激烈な処罰となった。
 公開処刑は、権力者側には反逆者へお仕置きを見せしめて民衆を制圧した。公開処刑により、権力者としての民衆に対して権力の誇示をした。そのために、より残酷な虐待と虐殺を処刑するほど、支配者の権威が引き立った。権力を示威するために、虐待と虐殺の趣向が掻き立てられた。逆に、より崇高と畏怖される権力者になるためには、残酷な処刑の興味を持って、民衆を処刑で支配した。畏怖される権力者ほど、残酷な虐待と虐殺を繰り返している。社会的地位の高い個人や家族に対する犯罪ほど激烈な処罰となった。
 民衆側には、虐殺される残酷な実演が興味本位の見物となった。処刑日の刑場には、多数の庶民が参集した。処刑する前に、市中の見物者の群衆の中を引き回してから、磔刑にされた。処刑場に群衆が押し寄せて混乱を引き起こすと、警備の役人が取り締まった。磔だけでは、その場で死亡しないので、最後に殺害するまで、槍を内蔵に突き立てた。槍で一発で絶命しないので、何度も槍を突き刺しを繰り返した。そのために、罪人は、絶命するまで、絶叫して悲鳴を上げ続けた。



2019年5月13日月曜日

ルーマニアのブカレストにおける民族集団的な暴動により、ユダヤ人大量虐殺により森の中で虐殺された死体が散乱した。

ルーマニアのブカレストにおける民族集団的な暴動により、ユダヤ人大量虐殺のにより近隣の森の中でユダヤ人が虐殺された死体が散乱した。
  ルーマニアにおいて、ファシスト独裁党である鉄衛団に先導された大量虐殺により、1941年1月21日から23日にかけて、約数百人ものユダヤ人が大量虐待と虐殺された。ルーマニア在郷軍人会が、1941年1月21日に政権側に対抗する反乱を組織して、政権軍との戦闘が勃発した。政権軍がファシスト党鉄衛団に弾圧をするまでに、ファシスト党鉄衛団は、政権軍との衝突の原因を、ユダヤ人に押し付けた。ファシスト党鉄衛団は報復のために、ユダヤ人の家屋に踏み込み、略奪、虐待、虐殺を繰り返した。首都ブカレストにおけるユダヤ人街に虐待と虐殺が拡大した。7つのユダヤ教の集会場であるシナゴーグは全壊した。大規模な大量虐殺がブカレストの郊外の森で、鉄衛団によるユダヤ人の集団虐殺が執行された。
  鉄衛団は約200人以上のユダヤ人集団を、1月21日に本部に連行してから、略奪、殴打、拷問等で処刑した。1月22日には、ユダヤ人集団を2つのグループに分割した。その1グループは郊外に連行して、虐待してから虐殺した。その他の約90人のユダヤ人はトラックで郊外の森には運搬されてから銃殺された。その直前に数人が逃亡して、大戦後にユダヤ人大量虐殺を立証した。1月22日に政権軍が暴動を収束してから、ファシスト党鉄衛団は撤退した。翌日の1月23日までに、少なくともユダヤ人の約1,107人が犠牲となり、約120人以上が虐殺された。































【閲覧留意】

日本平和の市民連盟は2019年5月13日にBloggerの投稿数は1,000回に達した。

2019年5月12日日曜日

ナチス・ドイツ軍は、ポーランドのボフニアとその近郊の市民約52人を、ウズボルニアの森へ連行してライフル銃で銃殺した。

ナチス・ドイツ軍は1939年12月18日に、ポーランドのボフニアとその近郊の市民ら約52人を、ウズボルニアの森へ連行して、ライフル銃で銃殺した。ナチス・ドイツ軍の大量虐殺は、強制収容所の中だけでなく、侵略した各地域でも、大量虐殺をした。戦後にナチスドイツ軍兵の逮捕により没収された処刑の記録写真の24枚「SühnefürBochnia 18 XII 1939」が1940年に公表された。第2次世界大戦中のポーランドにおける最初の大量虐殺となった。
 地下組織のポーランド人が、12月16日にボフニアのマーケット広場の近隣にある警察署を攻撃してドイツ軍親衛隊の武器を窃盗した。約2時間の戦闘により、2人のドイツ人警官が殺害されて、負傷て捕獲された2人のポーランド人は、12月17日に虐殺された死体が街灯に吊り下げられた。ドイツ軍親衛大隊は報復処置として、12月18日に監視されたボフニアの路上や家屋の市民ら約23人と周辺地区の被監護者の約29人が拘束された。約52人がウズボルニアの森で全員を虐殺した。順番に約6人ごとに至近距離から銃殺された。事前に掘った2つの塹壕の集団墓地に死体を埋めた。