2019年3月12日火曜日

ナチス・ドイツ軍の親衛隊は、多数のロシア市民を見せしめの首吊りを公開処刑した。

ナチス・ドイツ軍の親衛隊により、見せしめとして多数のロシア市民を公開の首吊り処刑を執行した。SSの将校たちが隠蔽して囚人たちを兵舎に収容している時に、ボスニア・ヘルツェゴビナのブナ村で爆撃が起った。連合国がブナ村を空爆し始めたが、囚人らは解放される希望は長続きしなかった。囚人の絞首刑は即死とはならず、かなり長い間続く残酷な首吊りの公開処刑となった。
 ナチス・ドイツ軍は、抵抗運動を続けるロシア市民を、銃殺・首吊りなどで虐殺した。1人の抵抗運動でも、地域住民を集団懲罰により処刑した。1941年12月にロシア人のパルチザン抵抗運動によって、ドイツ軍兵士が殺害されると、約16の村に火を放ち、約448人の村民を虐殺した。占領地の住民は連行して、奴隷労働を強制して、役立たずは無差別に戸外に取り残されて凍死させた。降伏したロシア軍兵士の捕虜は、パルチザンの容疑をかけて虐殺した。
 1946年に絞首刑にされた国防軍作戦本部長のアルフレート・ヨードルは「戦いは好きなようにやればよい。パルチザンなどは吊るすなり、逆さにするなり、八つ裂きにするなり、好きなように始末すればよい。」とナチス・ドイツ軍兵士を強要した。




2019年3月11日月曜日

イラク戦争で、被弾した車から放り出されて腐敗した死体と運転席に残ったままの腐敗した死体が残存した。

アメリカ軍は2003年4月5日からバクダットに侵攻した。4月7日に道路脇には、黒焦げになったタンクローリー2台、大型トラック2台、バス1台などが点々とし、乗用車も残骸を残していた。タンクローリーの周辺には死臭が漂っていた。大破した車の陰に、放置されていたイラク人の死体の周りに、数人のイラク人が取り囲んでいた。
 アメリカ軍は、イラク人に死体の回収をすることを禁止していた。乗用車が中央分離帯に突っ込みガードレールの上に乗り上げてしまった。車から放り出された死体と運転席に残ったままの死体が残存していた。乗用車はあまり潰れていないので、直接の死因は被弾と推定された。乗用車から放り出された死体は、ガードレールの下で死臭が漂よいながら腐敗して膨大した。路面とレールの間に死体が食い込み取り出す処理が困難であった。ドライバーの死体も腐敗して膨大して死臭を出して車外に取り出し困難であった。イラク死人の関係者も、路肩に棺桶を用意して、埋葬する穴も掘られたが、全く死体を運び出せず、周りのイラク人は次第に立ち去った。
 アメリカ軍は国際連合の決議を無視して、2003年3月17日にバグダットに先制の空爆した。3月19日からイラクの自由作戦を実施してイラク国内に侵攻した。4月5日からバグダットにはアメリカ軍が侵攻して、4月8日にバグダットは陥落した。5月1日に戦闘終結宣言した。
 イラク軍の残党、イスラム過激派、テロリストがイラク内戦に参入した。爆撃装置、地雷、自爆、狙撃、自動車爆弾などの攻撃をした。アメリカ軍と有志連合軍は、厳しく危険な内戦に巻き込まれた。2011年末のアメリカ軍の駐留軍隊は完全に撤退するまで攻撃を受けた。混乱化は、2013年末からイスラムの新しい過激派であるイスラム国(ISIS)がイラク国内を侵略した。





2019年3月10日日曜日

ベトナム北部で大飢饉により、農村部でも都市部でも無差別に女性子供も含めて約30万人以上も餓死が推定された。

1944年から1945年にベトナム北部で大飢饉が発生した。農村部でも都市部でも無差別に女性子供も含めて約30万人以上もの大量餓死が推定されている。台風などの天候不良と伝染病の蔓延、日本とフランスによる米の強制供出、水田を潰して軍事物資の栽培、アメリカ軍の空襲で食料が入手困難などから大飢饉に拍車をかけた。
 ベトナム1945年時点はフランスの植民地で、トンキン(東京・北部)、アンナン(安南・中部)、コ-チシナ(交趾支那・南部)の3つに分分割された。フランスはこの他にはカンボジアとラオスを支配した。1940年6月にフランスがドイツに占領されて、日本軍は1940年9月にベトナムに北部仏印進駐をして侵略した。
 日本軍がベトナムを占領した理由の一つはベトナムからの中国を支援を阻止した。1941年7月に、弱体したフランスに日仏共同防衛協定を締結して、南部仏印にも進駐した。ベトナム市民は、フランス日本の両方から支配された。1940年3月月9日に、日本軍はフランス軍を攻撃してベトナムから撤退させて、日本による単独支配のために、ベトナム解放をして3月11日の王朝復帰の独立宣言をさせた。連合国軍は、報復として3月10日に東京大空襲を執行した。9月21日にフランスに対して日仏協定を締結させ、11月20日大本営は、大東亜共栄圏を武力による占領地に対して、日本軍政を実施する南方施政方針を決定した。




2019年3月9日土曜日

日本軍がイギリスとフランスの天津租界を封鎖して、中国市民が高圧電流に触れて感電死した。

イギリスとフランスの天津租界を1939年6月14日にバリケードで封鎖して監視をした。日本軍は、天津租界の周囲に約50kmにおよぶ電線を張り巡らせ、それに約220Vの高圧電流を流した。中国人市民が、高圧電流の電線に触れて感電死した。
 中国に治外法権がある租界の事件により、日本とイギリスの緊張関係が悪化した。日本軍は、中国各地の租界に抗日運動の拠点を支援していると容疑した。1939年4月9日に、天津租界で親日派の中国人幹部が殺害された。天津租界に対して、暗殺者の引き渡しを要求した。イギリス領事館は、暗殺の証拠が無いとして、拒否した。日本軍は、さらに天津租界から流出している偽札が、連銀券の価値を暴落させることの禁止を要求するも拒否していた。
 イギリス租界は、やむなく現地の解決のために、7月25日に日英協議をした。その直後の7月26日に、日本の輸入の約4割も占めるアメリカが日米通商航海条約を一方的に破棄した。中国人だけでなくイギリス人に対する虐待の現地情報が報道されて、イギリスの反日世論に影響した。8月21日には日英協議は決裂して頓挫した。逆に、日本軍は日本国内では反イギリス運動を高めて、国民を反イギリスと反アメリカに誘導した。




2019年3月9日 Japan No War (Nonfiction) 日本平和の市民連盟 視聴回数 1,054回/日

2019年3月8日金曜日

日本軍の上海特別陸戦隊が多数の中国軍兵士を、捕虜として両手を絞って集結させた写真は不許可となった。

日中戦争における日本軍の不許可写真である。写真は、1937年7月23日に日本軍の上海特別陸戦隊は多数の中国軍兵士を、捕虜として両手を絞って集結させた。両手を背中で絞った捕虜とした。その足元に1人の中国人兵士が虐殺された死体が横たわっていた。写真には、日本軍新聞審査局により「不許可」のスタンプがされた。
 1938年5月頃から、毎日新聞社の従軍記者が自ら撮影したり,戦地で兵士が撮影した写真を集めたりして,報道写真とした。公開前には,陸軍の報道部で検閲を受けた。赤色で「不許可」と印章された写真は,公開できなかった。不許可の理由は、8月16日に海軍省令にて、「わが軍に振りになる写真・残虐なる写真は掲載せざること」と厳命された。記者は、「八月二三日竹下部隊に捕えられた正規兵の捕虜」と記載した。中国人捕虜が、1人の中国人兵士のように殺害されたかどうかは記載がない。
 1937年7月7日に北京郊外で盧溝橋事件が起こり、日本が華北に陸軍兵力を派遣して、日中戦争が勃発した。第2次上海事変は、1937年8月9日に日本軍の上海海軍特別陸戦隊西部派遣隊長が、中国保安隊の警備する虹橋飛行場へ突入しようとして銃殺されて勃発した。諸外国の権益が錯綜し、多数の外国人居留民のいる上海で、日本軍と中国軍が武力衝突した。





2019年3月7日木曜日

チェコスロバキアのプラハ蜂起によって、ドイツ軍に対抗したチェコ市民の死体がプラハの街路に散乱した。

チェコスロバキアの首都で、1945年5月のプラハ蜂起によって、崩壊したドイツ軍に対抗したチェコ市民の死体がプラハの街路に散乱した。
 第2次世界大戦の直前に、ナチス・ドイツは、チェコスロヴァキア共和国は謀略により1939年3月に滅亡した。スロヴァキア共和国をチェコから独立させて植民地となった。チェコのパルチザンは、支配者のハイドリヒをプラハ郊外で暗殺した。ナチス・ドイツはチェコに対する猛烈な報復により、プラハの北部のテレジーン強制収容所で、ユダヤ人とチェコスロバキア市民を無差別に大量虐殺した。
 ナチス・ドイツは崩壊した1945年5月8日に、チェコに駐留したドイツ軍も5月8日にソ連の赤軍に降伏した。1945年5月5日にチェコのラジオは6年ぶりの放送で反乱を呼びかけた。チェコのパルチザンとチェコ市民らは5月5日に蜂起してから、ソ連の赤軍と5月11日までプラハに残留したドイツ軍を最終攻撃した。遺恨の報復からプラハのドイツ系市民を拷問と虐殺した。チェコスロバキアは解放されないままに、ソ連の赤軍による侵略で支配されて。ドイツ人に対する虐待と虐殺は秋期まで継続した。




2019年3月6日水曜日

日露戦争の黒溝台会戦で、雪原は隠れる場所もなく狙撃され両軍の戦死者で埋まった。

満州戦争にて、約10万人ものロシア大軍が突如に満州南部の北方から日本軍に回り込み、1905年1月25日から29日まで黒溝台会戦が勃発した。日本軍は沈担堡から黒溝台までの約40kmの戦線を約8000人だけの日本軍で防衛した。最も手薄となっている戦線に約10万人ものロシア軍が1905年1月25日突如に奇襲した。雪原を進軍すると隠れる場所がないため、容易に狙撃されて、両軍の戦死者で埋まっていった。黒溝台の戦場には哀れなロシア軍兵士の約1万人の死体が散乱した。黒溝台会戦で日本軍の死傷者は約9,300人にも達して、厳寒のために戦傷者の約半分は凍傷を伴った。
 ロシア軍に突破されて撃破された日本軍は、ロシア軍の奇襲の効果が薄れると、戦線の危機を繕えた。膠着状態となり、突如1月28日からロシア軍は内紛や革命などにより退却した。ロシア本国では、1905年1月9日に発生した血の日曜日事件からロシアの第1革命が勃発していた。ロシア国内に蔓延していた日露戦争に対する厭戦気分に大きく影響した。
 


2019年3月5日火曜日

国連軍が占領した北朝鮮地域で、国際婦人連合は、大量虐殺された朝鮮人の死体が発掘された塹壕を視察した。

アメリカ軍を主体とする国連軍が占領した北朝鮮地域で、国際婦人連合の一行は、大量虐殺された朝鮮人の死体が発掘された塹壕を視察した。大量虐殺されて埋められた市民の死体は腐敗して異臭が発生した。
 1950年6月に北朝鮮から突如に侵攻を受けた韓国軍は崩壊して、政府と南部の大邱付近まで退却した。大邱付近まで撤退して、7月からアメリカ軍(国連軍)の参戦した。韓国軍と警察は左翼勢力の暴動を恐れて、保導連盟事件で市民を大量虐殺した。1950年7月には、アメリカ軍は避難民の暴発を恐れて、老斤里事件で市民を大量虐殺した。韓国地域に侵略した北朝鮮軍と左翼勢力も、韓国軍・警察だけでなく市民と家族などを大量虐殺した。9月に国連軍の仁川上陸作戦で戦局が激変して、撤退する北朝鮮軍は、韓国の市民を無差別に大量虐殺と大量拉致をした。
 北朝鮮軍が北朝鮮の奥地まで撤退した1950年11月に、中国義勇軍(中共軍)の参戦で戦局が激変した。1951年1月にソウルが再び陥落して、韓国の中部まで中国軍が南下した。3月からは北緯38度の休戦ライン辺りで戦線が膠着した。
 韓国軍は、南部地域の智異山などの山岳地域のパルチザンと戦闘した。朝鮮戦争で南部から退却しなかった北朝鮮軍がパルチザンと合流して戦闘が激しくなった。パルチザン掃討作戦の韓国軍によって、北朝鮮のパルチザンによって、市民が大量虐殺された。北朝鮮のパルチザンに市民が協力すれば韓国軍に虐殺された。北朝鮮のパルチザンに市民が協力しなければ、パルチザンに虐殺された。1951年2月に韓国軍は、慶尚南道居昌で居昌虐殺事件により、市民を大量虐殺した。朝鮮戦争が1953年7月に休戦後も、南部山岳地帯で1955年頃まで戦闘が続いた。




2019年3月4日月曜日

日清戦争において、牛荘の民家に立てこもって抵抗した清国軍兵士の殺害された死体が市街地に散乱した。

中国の遼東半島の下端付近の牛荘で、日清戦争において日本軍と清国軍とが攻防した。牛荘の民家に立てこもって抵抗した清国軍兵士の殺害された死体が市街地に散乱した。
 牛荘作戦は、日清戦争の戦闘である。遼陽平原の清国軍を掃討するために、牛荘に進出して営口を占領した。1895年3月4日に日本軍は牛荘城内で日清戦争で最初の市街戦が勃発した。清軍の抵抗は激しく、いたるところで猛烈な射撃の応酬をした。清国軍は、牛荘城の東南面からの退路が遮断され、「周章狼狽、遂に市街の各戸に鼠入し、決死の抵抗を為」した。城内は至る所で激し市街戦となり、3月5日に日本軍はようやく牛荘を完全に占領した。日本軍は、抵抗あるいは敗走する清国軍兵士を殺害して、投降する者は捕虜にした。清国軍は、遺棄された死体は約1880人、捕虜は約698人で、牛荘城の守備部隊は過半数の兵力を失って、犠牲者は最大となった。日本軍側は死傷者は約389人で、うち戦死者は約72名であった。
 牛荘鎮は遼河の河口に位置して、遼代以来満州の海の玄関として栄えて、清代中頃に繁栄した。第2次アヘン戦争後の1858年6月に締結された天津条約と1860年の北京条約に基づき、遼東半島の下端の牛荘(Newchwang)が開港されるも、商港に不適のために遼河河口の営口を、外国人貿易に解放された。営口が栄えて、牛荘が寂れた。
  


2019年3月3日日曜日

カレリア地峡のフィンランド陣地が突破されて、塹壕に多数のフィランド兵士が虐殺された死体が散乱した。

第2次世界大戦ではフィンランドは、1941年6月に独ソ戦と同時に枢軸国側として、ソ連に対して冬戦争に次いで継続戦争を再開して、約65,000人もの戦死者を出した。ソ連軍に、1944年6月にカレリア地峡の陣地が突破されて、塹壕に多数のフィランド兵士が虐殺された死体が散乱した。
 フィンランド軍は継続戦争から、クーテルセルカ近郊にて連結するVT線を防衛するフィンランド側とソ連側が衝突した。1944年6月14日午前に、ソ連軍はクーテルセルカ近郊を爆撃して侵攻した。フィンランド軍は猛砲撃を受けて敗走した。フィンランド側は戦力を再投入して防衛線を張って、ソ連軍の突破口の拡大は抑えた。ソ連軍は6月14日昼には防衛線を突破して、ソ連軍はクーテルセルカ近郊を素通りしてVT線を包囲した。
 フィンランド軍は、クーテルセルカ近郊の突破口を塞ぐため、6月14日夜からソ連に攻撃を行った。ソ連軍の反撃を受けた6月15日午後には攻撃を中止して、クーテルセルカ近郊から撤退した。ソ連軍がクーテルセルカ村を占領したことで、フィンランド軍は防衛線を包囲されて、連鎖的に戦線が崩壊して、フィンランド軍は全部隊ともVT線を放棄して、ソ連軍の進攻を遅延させて、次の防衛線であるVKT線まで撤退した。