2019年1月20日日曜日

ボーア戦争にて南アフリカのモダー川の主戦場で、イギリス軍兵士は射殺された犠牲者の側から銃撃をした。

ボーア戦争において南アフリカのモダー川の主戦場にて、イギリス軍兵士は1900年12月18日で射殺された犠牲者を伴い銃撃をした。
 イギリス連合王国は、1815年のウィーン会議にて、オランダから南アフリカのケープ植民地を獲得した。1652年からケープ植民地に移住して植民地化していたオランダ系ボーア人らと対立した。ボーア人は北隣のトランスヴァール共和国とオレンジ自由国に侵攻した。トランスヴァール共和国からの金鉱とオレンジ共和国のダイヤモンドが発見された。イギリス連合王国は、両国の併合と植民地政策に乗り出した。
 イギリス軍の露骨な侵略政策により、ついに1899年10月11日から南アフリカで本格的なボーア戦争が勃発した。ボーア人の原住民による抵抗により、ボーア戦争は長期化した。近代で初めてイギリス軍は強制収容所を設置してボーア人の少年少女を含めて約34,000人を強制収容して、約20,000人が虐殺した。最終的には、イギリス帝国が膨大な犠牲を伴って1902年5月31日にボーア人が降伏して終結した。ボーア戦争の緒戦には、ナタール植民地のレディスミスにて、イギリス軍はボーア軍に包囲されて、甚大な犠牲を伴いながら、1900年2月28日に撤退させた。イギリス軍は、トランスヴァール共和国のヨハネスブルグを撃破した。ボーア人の多くは困窮して、敵国人であるイギリス人と協調して、人種隔離政策であるアパルトヘイトによりアフリカ黒人からの徹底的な収奪を通して困窮を脱出した。






2019年1月19日土曜日

広島原子爆弾により成人男性が特に身体の露出部があった顔面から両上肢に重度の熱傷を被爆して、比治山国民学校で救護された。

広島原子爆弾に被爆して、熱戦と放射能による熱傷により比治山国民学校の救護所に収容された。比治山は爆心地から東に約1.8kmに位置して、爆心地側の西側は壊滅したが、東側は比治山が遮って被災が少なかった。成人男性が、特に身体の露出部があった顔面と両上肢に重度の熱傷を被爆した。左顔面から頸にかけて重度の熱傷も伴った。両前腕の被爆創に包帯が巻かれていた。被爆者は、安全な場所となる救護を求めて比治山の救護所に避難や護送された。比治山に救護所が設置されるも、すぐに被爆者で詰まった。
 1941年に国民学校令が施行され小学校は国民学校になる。同年、広島市永年防空計画により広島市内の国民学校33校が、300 人から 5,000人を収容とする救護所にされた。 近隣の多聞院には1945年8月6日の当日に壊滅した広島県庁が臨時に避難した。1949年から比治山の頂上付近にアメリカ合衆国が開設した原爆傷害調査委員会(ABCC: Atomic Bomb Casuality Comission)が移設され、原爆症の長期的調査研究が行われた。



2019年1月18日金曜日

カンボジア人の母親が、タイに向かう列車から転落死して、息子が母親の死体の側で悲嘆して呆然となった。

カンボジアのポル・ポト政権が崩壊して逃亡した。まもなくベトナムの影響下のヘン・サムリン政権によるカンボジア人民共和国が成立した。経済政策の転換により、プノンペンからタイ国境のバッタンバンに列車やトラックで群衆が大挙した。その喧騒にて、カンボジア人の母親が、列車から転落死した。息子が母親の死体の側で悲嘆して呆然となった。
 ベトナム国内に避難していたカンボジア人により結成されたカンプチア救国民族統一戦線がベトナム軍と、1978年12月25日にカンボジア国内に侵攻した。クメール・ルージュのポル・ポト政権は、国民の粛清と弾圧の影響による混乱により、わずか2週間で崩壊した。カンボジアはベトナム軍によって、大量虐殺を招いたポル・ポト政権からやっと解放された。1979年1月7日に、ベトナム軍がプノンペンに入り、ベトナムの影響を受けたヘン・サムリン政権によるカンプチア人民共和国が樹立された。ベトナムはカンボジアを長期間にわたり影響下に置いた。クメール・ルージュ軍およびポル・ポト政権はタイの国境付近のジャングルへ逃れて潜伏した。



2019年1月17日木曜日

イラクに対する湾岸戦争で使用された劣化ウランによる放射能汚染が、弱者である幼児に被爆症を引き起こした。

イラクに対する湾岸戦争で使用された劣化ウラン(DU: Depleted Uranium)による放射能汚染が、弱者である幼児に被爆症を引き起こした。2ケ月前までは健常に家族と暮らしていた5歳の男児が、突然に死に至る重症の白血病を引き起こした。サダム中央教育病院の小児科病棟では、アメリカ軍が湾岸戦争で甚大な劣化ウラン弾による被爆により、多数の小児に癌や肉腫から特に白血病を発症していた。
 劣化ウラン弾に含まれるウラン238の放射能の半減期は約45億年である。劣化ウラン弾で貫通して破壊されて放置されていた戦車の穴からは、放射線測定器が極大値を示した。湾岸戦争直後から、特に小児に癌から肉腫の白血病、さらに異常児の出産が多発した。発症した。湾岸地域だけでなく、それ以外の非武装地域に放置された劣化ウラン弾に被爆した戦車や装甲車の車輪などの部品が、戦後の貧困の代償として各地で使用され劣化ウランの被爆がイラク各地に分散した。
 劣化ウラン弾は湾岸戦争、イラク戦争などで使用され、戦後に市民だけでなく、アメリカ軍兵士にも、癌、白血病、免疫不全など湾岸戦争症候群を発症した。劣化ウランの放射線毒性や化学毒性による危険性を指摘されている。しかし、世界保健機関(WHO)やアメリカ国防省などは科学的根拠が不十分と否定的主張をしている。



2019年1月16日水曜日

文学作家である小林多喜二は、特別高等警察に治安維持法で逮捕され、拷問と虐待で虐殺された。

文学作家である小林多喜二は、1933年2月2日に東京の赤坂の街頭で警察庁スパイからの通報により特別高等警察に逮捕された。直ちに、東京築地警察署に勾留された。官憲による拷問と虐待によって29歳の若さで虐殺された。同日には、獄中の囚人らは小林多喜二の虐殺を察知した。拘置所にて裸にした全身が強打されて、遺体には特に両方の大腿部には青黒い大量内出血が認められ、両足には刺し傷があった。通夜や告別式に参列した市民らも検挙された。
 小林多喜二は、1928年頃からプロレタリア文学作家として代表作『蟹工船』で、家畜のように弾圧される船員の実態から、国家権力の本質を暴露した。1928年3月28日に日本全国で数千人の反戦主義者を弾圧するために逮捕された。「一九二八年三月十五日」を執筆した。1930年8月には治安維持法による不敬罪で逮捕されて勾留された。1932年3月頃から文化団体は特別高等警察から狙われて思想犯として大弾圧を受けた。逃避して、潜伏して非合法な活動と執筆を継続していた。拷問から虐殺されてからも、太平洋戦争中も、市民が小林多喜二の作品を所持しただけで検挙された。



2019年1月15日火曜日

太平洋戦争にてアンガウル島の海岸の水際に、日本軍に殺害されたアメリカ軍兵死士の死体が波打ち際を漂った。

太平洋戦争にて、パラオ=マリアナ諸島では最後にアンガウル島に侵攻して、アメリカ軍は1944年9月17日に上陸した。持久戦となるも10月19日になって、日本軍兵士が全員が玉砕して全滅した。アンガウル島の海岸の水際にて、アメリカ軍兵死士は殺害されて死体が波打ち際を漂った。
 アウンガル島に配置された日本軍は約1250人に対して、アメリカ軍は約21,000人と圧倒的な武力差があった。アメリカ側の海から艦砲射撃と空からも爆撃も日本側には犠牲を伴った。水際作戦による障害物や地雷もアメリカ軍に対して一部の被害を与えた。広範囲にわたる空爆や艦砲射撃により多くの犠牲が出た。アメリカ軍の武力を前に多くの日本兵が戦闘不能になった。日本軍は生存兵を再編した夜襲をかけたが、戦車や爆撃等で、日本軍の攻撃部隊は全滅した。残りの守備部隊は持久戦に変更、島の洞窟壕に籠って抵抗を続けた。10月9日に最後の斬り込みを行って玉砕された。日本側の犠牲は戦死 1,191人と捕虜 59名、アメリカ側の犠牲は戦死 260人と負傷 2,294人にも達した。アンガウル島で行った水際作戦から持久戦に持ち込む作戦が後の硫黄島や沖縄戦へも継続された。



2019年1月14日月曜日

無差別爆撃による報復で空襲が泥沼化して、1943年のベルリン空襲で悲惨な市民ら親子が死亡した。

ドイツ空軍は1940年8月24日にロンドンに対して無謀な市民への無差別爆撃をした。イギリス空軍は直ちに報復として8月25日にベルリン空爆をした。被害は軽微であったが、市民への無差別爆撃を激怒して空襲が泥沼化した。
 1943年にベルリン大空襲が勃発した。ベルリン爆撃は1943年3月24日の夜に開始され、1944年3月24日に終わるまで約16回にも達した。イギリス空軍が1943年3月1日夜にベルリンを空襲して甚大な被害を与えた。悲惨な空襲により、約500名を越す市民が犠牲となった。イギリス空軍は3月27日夜と29日夜にも、再びベルリン空襲を行った。
 ベルリンの攻防における1943年の最後の2ヶ月は8回にも渡る空襲で、イギリス空軍は延べ3,656機から約14,074トンの爆弾をベルリンに投下した。この空襲によるベルリン市民の死者は約6,000名で、約470,000人を超す人々が家を失った。1944年には連合軍の空襲も新たな凶悪な段階へと至り、ドイツ全土に爆弾が通り雨のように降り注ぐことになった。



2019年1月13日日曜日

広島原子爆弾の被爆者の収容者名簿の掲示板に、被爆者の親族や関係者が群がり名前を捜した。(広島)

広島原子爆弾で、行方不明になった肉親をや被爆者を捜すために、焼け残った日本銀行のビル前に親族が群がった。そこには多数の収容者名簿が掲載されていた。そこで抹消されていた我が子の名前を見出して、その場に泣き崩れる母親の姿も多かった。肉親の名前が見い出せなかった親族は、その他の焼け残りのビルや、国民学校などの収容所や救護所の掲示板や収容所内に肉親の名前や生存を捜し巡った。
    焼跡には親類や縁故者の安否を探ねる多く人々が、広島市街から広島市内に入って来て、収容所はいずこも混雑をきわめた。収容所でも、発見できずむなしく帰っていく人々も多くあった。原爆爆発直後に被災者が避難するだけでなく、家族や親族の安否を気遣って逆に爆心地に向かった。救援と救護のために被害の中心地へ赴いた人々もあった。



2019年1月12日土曜日

ボスニアのNATOから支援されたムスリム人は中東の聖戦として、ボスニア人の首断して虐殺して頭部を右足で押さえつけた。

ボスニア紛争にて民族浄化の名目のもとに、敵対する民族が他の民族の虐殺が横行した。ボスニアの西部から支援されたムスリム人は中東のムジャヘディーン(聖戦)として、1992年にボスニア人の囚人の首を切断して虐殺して、その頭部を右足で押さえつけた。NATO軍はセルビア人を囚人と悪魔化して戦闘行為を正当化した。
 ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争は、1991年からユーゴスラビアから独立したボスニア・ヘルツェゴビナで1992年から1995年まで内戦が継続した。1992年3月にボスニア・ヘルツェゴビナは独立を宣言した。ユーゴスラビアは約430万人が、約44%がボシュニャク人(ムスリム人)で、33%がセルビア人、17%がクロアチア人と異なる民族が混在した。セルビア人は反対し分離を目指した。ボスニア内戦で、クロアチア内戦と同様に厳しい民族浄化が勃発した。セルビア勢力・クロアチア勢力・ムスリム勢力の3つの民族が、各々に民族浄化で対立した。市町村で、勢力の多い民族が、支配してその他の民族を追放・虐待・虐殺が頻発した。プリエードルでは、セルビア勢力が幹線を挟んだムスリム勢力を追放・虐待・虐殺した。逆にムスリム人が支配するゴラジュスやスレブレニッッツアなどではモスリム人によってセルビア人が追放・虐待・虐殺された。ムスリム人の傭兵や私兵部隊も民族浄化を遂行した。ムスリム人から逃避できなかったセルビア人は、民族浄化による追放・虐待・虐殺を受けた。
 民族浄化するために、セルビア人の人家には☓印、クロアジア人には十字架を、イスラム教徒には緑の印章が付けた。ボスニア内戦の緒戦では、その印章を目印に民族浄化による追放・虐待・虐殺が横行した。ボスニアの北東部の町でも、セルビア勢力にイスラム教徒が共存した。セルビア勢力が反乱分子と決め付け、イララム教徒も反抗して。敵対攻撃をした。オジャッツ町では、クロアチア勢力が突然にセルビアの人家を襲撃して焼き尽くした。




2019年1月11日金曜日

イラク戦争後にもアメリカ軍はサマラ北東部の無差別攻撃をして、子供や女性を含む一族11人のイラク人が機銃掃射された。

イラク戦争にて、アメリカ軍はバクダット北方約100kmのサマラ北東部に対して2006年5月16日に猛烈な無差別の攻撃をした。手始めに子供や女性を含む一族11人を集めて機銃掃射した。その虐殺された子供の死体を父親が悲しみながら抱いた。「イラクを解放するのに、何人の子供が死なねばならないのか?}とイラーキ・リーグが6月28にに広報した。アメリカ軍は、攻撃はアルカイダの外国人同士を連絡調整する幹部の拘束と対抗した。
 皆殺しにあった家族の隣人のムハンマド・ムジユマイは、「アメリカ軍のヘリコプターに援護されたアメリカ軍部隊が2006年5月16日午前1時半に、イスハーキ小学校の教員のファイーズの自宅を急襲した。周辺の自宅も制圧し、家族をしばり、殴打した。主人夫妻と子供3人、主人の妹とその子供3人、主人の父親、親族の女性の1族を全員を射殺した。子どもたちの年齢は2ケ月から6歳であった。」一族殺害後にアメリン軍部隊は、この自宅に爆発物を仕掛けて犠牲者もろとも爆破は、ヘリコプターが爆撃した。
 駐留部隊がアメリカ人軍兵士にイラク人に対する蔑視、暴力的傾向と差別感を助長した。サマラ事件に対して、4人のアメリカ軍兵士が有罪となった。当初に、民家の窓ぎわに立っていた老人を虐殺した。民家の中の3名を外で殺害した。殺害を実行した兵士が、公報すると殺すとアメリカ兵を脅迫した。



2019年1月11日 Japan No War (Nonfiction) 日本平和の市民連盟 視聴回数 190,000回