戦争により、横たわり、苦しんでいる市⺠を静かに⾒守る事しかできない。迫りつつある戦争を⽬前にして、市⺠の地域と家族に生命の尊厳が失われている。それぞれの生命が戦争で割かれ分離しても、家族や地域の絆を保つのは市⺠である。他⼈や部外者などから⾒れば、市⺠は微かな存在にすぎないであろう。それぞれの戦争の持つ悲惨な歴史を他⼈や部外者には、共感できない事にもよる。 世界⼤戦から原爆による終⽌符で、市⺠は多くの悲惨な戦争の被害者となり加害者となった。戦争の経験による戦争市⺠に悲惨な戦争の記録を授けたい。戦争の荒波を渡る市⺠代弁者として、平和の羅針盤として、平和市⺠の⼼に送りたい。いつの時代も、戦争の加害者と被害者にされるのは市⺠です。JNWNの掲載における閲覧注意も慎重に留意してください。思い出の戦争は戦争の真の抑⽌⼒となります。 ⽇本から地球に向けて、地球平和市⺠連盟は地球平和を探求します。Japan No War NGO 日本平和市民連盟 @JNWN, May/12/2016 Access 700,000 2,877 July/17/2024 [NSFW: Not Safe For Work]
2018年8月8日水曜日
2018年8月7日火曜日
サブラー・シャティーラの難民キャンプで、親イスラエルのレバノン軍団が、パレスチナ人市民を大量虐殺した。
サブラー・シャティーラの難民キャンプで、1982年9月16日から18日にレバノンの親イスラエルの民兵組織「レバノン軍団」が、パレスチナ難民を大量虐殺した。1975年から混迷したレバノン内戦に、イスラエル軍が6月6日にパレスチナ開放機構(PLO)を撤退させるためにレバノンに侵攻した。親イスラエルのバシール・ジェマイエル大統領が9月14日に爆弾で暗殺された。PLOの容疑として、レバノン軍団は9月16日午後6時のイスラエル軍の照明弾により、レバノン軍団は一斉にキャンプに侵入して大量虐殺をした。その虐殺は2日間に及び、虐殺者数は約762人以上と推定された。虐殺事件が国際的非難を受けて、12月16日に国連総会は「ジェノサイド」として非難決議は、採決の棄権により反対無しで123か国の賛成多数で可決した。イスラエル国防相のアリエル・シャロンは辞職した。悲劇は、1982年の虐殺だけではなく、サブラー・シャティーラの難民キャンプは1975年から90年までレバノン内戦の間に7回も攻撃された。イスラエル軍だけでなく、85年から87年にはシーア派民兵組織の包囲攻撃も受けた。「サブラ・シャティーラ」は、市民の戦争犠牲の典型例でもある。軍隊や武装勢力の兵士により、市民の人権は虐待と虐殺を受ける。軍事的に衝突するほど、その犠牲者になっているのはいつも市民であった。
2018年8月6日月曜日
広島原子爆弾の無差別な広島市民に対する無差別なきのこ雲と除外された海軍の江田島町や呉市が撮影された。
広島原子爆弾は、エノラ・ゲイと呼称されたアメリカ軍の戦略爆撃機B-29から1945年8月6日8時15分17秒に投下された。機体名称は、機長のポール・ティベットの母親の名前であるエノラ・ゲイ・ティベットに由来した。広島原子爆弾は、投下して約43秒後の8時16分前後に、爆心地は広島市細工町29-2 島病院で、その上空約680mの爆心点で炸裂した。炸裂から約30秒ほど過ぎた時に、きのこ雲が紫かがった灰色の雲がもくもくと塊になって立ち上った。その中心には、赤い芯が閃光を放って、その内部は全てが燃え上がった。機体高度の30,000フィート、約9,144mよりも高く舞い上がり、広島原子爆弾のきのこ雲とその周辺の市町村が撮影された。手前には日本海軍の重要な関連施設がある江田島町や呉市、遠方には厳島が見渡せた。広島原子爆弾は、非戦闘員である広島市民が主に居住している地域で炸裂する無差別爆弾となった。1945年12月末までに、約140,000人もの被爆者が死亡して、広島市民の約40%が死亡した。
2018年8月6日 Japan No War (Nonfiction) 日本平和の市民連盟 視読回数 140,000回
2018年8月5日日曜日
第1次世界大戦のソンムの戦いで、イギリス軍はフランス西部戦線の塹壕にて膨大な犠牲者を出して、ビーモント・ハメにおいて塹壕の前には白骨死体が放置された。
第1次世界大戦でソンムの戦いで、イギリス軍はフランス西部戦線の塹壕にて膨大な犠牲者を出して、ビーモント・ハメにおいて塹壕の前には白骨死体が放置された。第1次世界大戦に、フランス北部のソンム川で、連合軍とドイツ軍との戦闘で膨大な犠牲者を出した。1916年7月1日にイギリス軍の歩兵が突撃し、イギリス軍の史上最大となる1日に約19,000人の戦死者と41,000人の戦傷の犠牲者を出した。7月13日にイギリス軍騎兵部隊が史上最後の大規模な騎兵突撃を行なったが、ドイツ軍の機関銃の前に膨大な犠牲を伴った。9月15日にイギリス軍が世界で初めてキャタピラを装備した戦車を投入したが,ドイツ軍戦線の突破にまたも頓挫した。約5ヵ月間の戦闘で連合軍は,イギリス軍が約420,000人、フランス軍が195,000人の戦死傷者を出しても,約10km前進に留まった。ドイツ軍の死傷者は 65万人であった。翌年1918年3月 21日にはドイツ軍が大攻勢に出て,連合軍の戦線が突破されて、たちまちソンム川を渡られた。連合軍は危機に陥ったが、4月5日までにドイツ軍は最深部で約 65kmに達する突出部が阻止され,攻勢が中断した。サカンタンと呼称される翌年の戦闘では、イギリス軍が約163,000人、フランス軍が77,000人を戦死傷者 (うち捕虜は両軍合せて約70,000人) 、ドイツ軍の死傷者は 約240,000万人に達した。
2018年8月4日土曜日
戦地の2人のアメリカ軍兵士が、日本人兵士の死体の頭部を切断して、鍋で煮て組織を取り除き、頭蓋骨だけを抽出した。
太平洋戦争中に、1944年5月22日号の『ライフ』雑誌に、恋人のアメリカ軍兵士から贈呈された日本軍兵士の頭蓋骨を興味深く眺めたアメリカ婦人が掲載された。日本人の頭蓋骨を置いた横の机上で、彼に手紙を書いていた。あるアメリカ軍兵士は、日本軍兵士の死体は、森林で狩猟した獲物あるいは動物に過ぎないと認識していた。2人のアメリカ軍兵士が、戦地に転がっている日本人兵士の死体の頭部を切断して、鍋で十分に煮て組織を取り除き、頭蓋骨だけを取り出した。頭蓋骨は約35ドルで転売されていた。特に、マリアナ諸島から返還された多数の死体の中には、切断されて頭部部が喪失していた。日本人の頭蓋骨は、土産や売買品だけでなく、遊び道具にもなった。第2次世界大戦にドイツ軍による強制収容したユダヤ人の大量虐殺にも相当する非道で残虐行為であった。戦時下の非道で残虐行為は、太平洋戦争だけでなく、朝鮮戦争、ベトナム戦争、イラク・アフガニスタン戦争など戦時下に潜在していた。
2018年8月3日金曜日
ファレーズで連合軍に包囲された約10,000人以上ものドイツ軍兵士が戦死した死体が散乱して溢れた。
ノルマンディーに上陸した1944年6月6日から進撃してきた連合軍にドイツ軍は包囲された。連合軍のファレーズ・ポケットの隙間からドイツ軍は脱出した。連合軍はセーヌ川西岸のドイツ軍の大半を撃破して、パリからドイツへの進撃路を確保した。ノルマンディー上陸後に、連合軍による迅速な進撃が南方面、南東方面、ブルターニュへと向かった。カーンへの、イギリス軍、カナダ軍、アメリカ軍の進撃にドイツ軍は、1944年8月8日、ドイツ軍を包囲する機会をつかんだ連合軍はファレーズからシャンボワに集結して、イギリス軍とカナダ軍とポーランド軍がドイツ軍を包囲した。ドイツ軍は撤退路の確保のために激しい反撃を加えて、8月17日から撤退した。連合軍は8月19日にシャンボワでドイツ軍の退却路を塞いだ。狭い脱出路を通るためにドイツ軍は地獄の戦場となった。約10,000人以上もの膨大なドイツ軍兵士が戦死した。包囲網の内側には戦車・車輌の残骸、ドイツ軍兵士や民間人市民の死体が散乱して溢れて、夏で腐敗匂がひどく、ウジが湧き、ハエが死体に群がり、川は血で赤く染まった。8月21日までにドイツ軍兵士の約50,000人が完全に包囲された。ドイツ軍の兵力等、軍事的損失は膨大であり、連合軍は決定的な勝利を挙げた。8月25日にパリが解放され、8月30日までにセーヌ川西岸からドイツ軍は完全に撤退した。

2018年8月2日木曜日
ハリコフの最悪の戦場で、膨大なソ連の赤軍兵士は戦死して、ドイツ軍から撤退するため、戦死体を放置して踏みつけて撤退した。
第2次世界大戦の東部戦線では、ハリコフの最悪の戦場では、ドイツ軍により膨大なソ連の赤軍兵士が戦死した。ソ連兵士は、ドイツ軍から撤退するために、戦場の死体を無視して放置しては、死体を踏みつけながらも撤退した。1943年2月から3月まで、工業都市であるハリコフを中心にウクライナで行われたドイツ軍とソ連の赤軍と戦闘が勃発した。スターリングラードにてドイツ軍を包囲している間に、赤軍は南方に対して広範囲で攻撃した。赤軍は1943年2月初旬にドイツ軍の戦線を破って、ハリコフ、クルスク、ベルグラードに加え、イジュームルとルハーンシクの再占領した。ソ連の赤軍はさらなる無理な侵略に対して、ドイツ軍は、2月25日に赤軍に対して突然の反撃した。数ヶ月にも及ぶ戦闘により、ドイツ軍はハリコフ南部の赤軍に対し攻撃をして、包囲して壊滅した。ドイツ軍は、3月11日にはハリコフに直接攻撃を行って、3月15日にハリコフを再占領した。ドイツ軍はさらにベルグラードも再占領した。ドイツ軍は約4,300人の犠牲者に対して、赤軍は約23,000人以上の戦死者を含めて約90,000人もの犠牲者を受けた。ドイツ軍は余勢から、7月からの泥沼のクルスクの戦いに陥った。
2018年8月1日水曜日
日本軍は北側のマレー半島に戻り、1942年3月16日にクアラピラー南西部のカンウェイ村を大虐殺した。
太平洋戦争を1941年12月8日に宣戦して、日本軍は1942年2月5日にはシンガポールを侵略して沼南島と呼称した。シンガポールで華人を数万人も大虐殺してから、日本軍は、北側のマレー半島に戻って、多数のマレーシア人を大虐殺した。マレー半島には、約30ケ所以上に虐殺の遺碑が残存している。日本軍の公文書である陣中日誌では、マレー半島で1942年3月に約3週間に治安粛清として華人約584人を刺殺し、8月にも華人の村で約80人を虐殺したと記録した。特に3月16日にはクアラピラー南西部のカンウェイ村で、全村民を集めて、不偵分子の容疑で156人を刺殺した。カンウェイ村からは、日本軍により虐殺された多数の白骨が発掘された。
<一枚の家族写真>
だから せめて 知ってください。今はないクアラピラー・カンウェイ村を
惨劇から40年後につぎつぎと発掘された 物いわぬ されこうべを ああ たくさんの布袋に 大きな棺に はみだすほどの骨が
1942年3月16日早朝まで ここは 静かな村であったと ゴム園やヤシ林に囲まれ ひとびとは 豊かに 聡明に 生きていたと
なのに 幸せは一夜にして壊され 5人のうち4人は 物いわぬされこうべとなって その父がどれか その母がどれか 永遠に探すすべもない
だから せめて 祈ってください 今はない クアラピラー・カンウェイ村を 心に刻んでください 一枚の幸福な家族写真を
2018年7月31日火曜日
アメリカ軍の若い海兵隊員が、沖縄の首里陣地の激烈な攻防戦で戦死したアメリカ軍兵士の死体に向かい悲嘆に暮れた。
沖縄戦の首里攻防戦の緒戦で、1945年4月20日にアメリカ軍は嘉数高地を占領した。アメリカ軍の空前絶後の猛爆で与那原から首里は一面焼け野原になり、跡形もなく壊滅した。地下壕の入り口付近の日本軍兵士は狙い撃ちにされた。壕内に封じこめ、火焔放射を浴びせ、強力な爆雷やガス弾を大量に投入され、多くの日本軍兵士が虐殺された。5月4日早朝には日本軍は全軍を挙げ総反撃して、一帯はたちまち修羅場と化したが、5月5日の午後六時に反撃を断念した。総攻撃が中止されても、日米双方には多数の犠牲者が続出した。日本軍は首里攻防戦全体を通じて兵力の75%を失った。アメリカ軍は5月11日に総攻撃をして、首里の日本軍に対して激烈な昼夜の別なく砲撃した。激烈な戦闘のために、アメリカ軍第六海兵師団は2,66人もの死傷者と1,289人もの戦闘発狂者を出した。アメリカ軍のある中隊は総員204人で石嶺高地に夜襲をかけたが、156人を失った。129人からなる別の攻撃隊は生存者が30人だけ、交替要員58人の小隊などは、わずかに3人が生還した。アメリカ軍は、首里の司令部陣地を取り巻く高地を占拠した。5月27日夕刻から28日に日本軍は南部撤退した。5月29日にアメリカ軍が首里城址に突入するも、首里要塞はもぬけの殻になっていた。首里攻防戦のあと、多くの島民を巻き込んだまま南部に日本軍兵を引いて持久戦を展開して、十万人を超える民間人犠牲者を出した。日本軍の撤退で沖縄の市民は、恐慌状態に陥って、民間人市民の群れが軍のあとを追って南へ逃げ、砲爆撃などで虐殺された。何千もの死体が、ぬかるみの道端に置き去りにされた。
2018年7月30日月曜日
エチオピアの小作人は農作物の半分以上を地主に納め、極貧で最下層の農民は1973年の旱魃と内乱で約200,000人以上は餓死した。
エチオピアの最後の皇帝となったハイレ・セラシエは、1972年から1973年の大飢餓に対して、市民の窮状を救わず、無責任にも飢餓を厳しく統制した。エチオピアの8割が農民で、大半が小作人であった。小作人の農作物の半分以上は地主に納め、残りの農作物で極貧に陥った。最下層の農民は、慢性的貧困から、飢餓状態で生きていた。1972年から73年には大干魃に襲われ、農作物は全滅して約200,000人以上が餓死して、エリトリア州で内戦が勃発した。世界的な石油ショックで食品価格が急騰した。貧困の市民は食物を買えず、約2,000,000人以上が飢餓状態に陥った。アディスアベバでデモ騒乱が発生して内乱に陥った。皇帝が宮殿のライオンに肉を与える写真が公表され、深刻な食糧難に苦しむ市民を激怒させた。1974年年9月に陸軍が反乱を起こして、ハイレ・セラシエ皇帝を逮捕して強制的に廃位さした。軍部は12月にエチオピア連邦民主共和国を宣言し、1977年2月にメンギスツ・ハイレ・マリアムが共産主義の軍事独裁政治を始めた。約20年間で反対勢力の数十万人を粛清した。マリアム政権は共産主義を実行して、農地を国有化し小作制を廃止して、土地を再配分しても、飢餓民の大移動が、部族間の対立を煽り、内戦をさらに深めた。マリアム政権は、飢餓民救済より政権維持を優先し、軍事費を増大して中間層に重税を課した。1984年から1985年にエチオピア北部で大旱魃が発生して、約2,000,000人以上が餓死し、飢餓難民が周辺諸国に避難して、国際社会はがエチオピアの深刻な飢餓を知った。セラシエ派は、マリアム政権の共産主義を非難して内乱を起こした。エチオピアは、前皇帝派と共産主義派の戦いと部族間の紛争で複雑な内戦状態に突入した。市民が殺し合う内戦が飢餓を深刻化して膨大な餓死者を排出した。
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