戦争により、横たわり、苦しんでいる市⺠を静かに⾒守る事しかできない。迫りつつある戦争を⽬前にして、市⺠の地域と家族に生命の尊厳が失われている。それぞれの生命が戦争で割かれ分離しても、家族や地域の絆を保つのは市⺠である。他⼈や部外者などから⾒れば、市⺠は微かな存在にすぎないであろう。それぞれの戦争の持つ悲惨な歴史を他⼈や部外者には、共感できない事にもよる。 世界⼤戦から原爆による終⽌符で、市⺠は多くの悲惨な戦争の被害者となり加害者となった。戦争の経験による戦争市⺠に悲惨な戦争の記録を授けたい。戦争の荒波を渡る市⺠代弁者として、平和の羅針盤として、平和市⺠の⼼に送りたい。いつの時代も、戦争の加害者と被害者にされるのは市⺠です。JNWNの掲載における閲覧注意も慎重に留意してください。思い出の戦争は戦争の真の抑⽌⼒となります。 ⽇本から地球に向けて、地球平和市⺠連盟は地球平和を探求します。Japan No War NGO 日本平和市民連盟 @JNWN, May/12/2016 Access 700,000 2,877 July/17/2024 [NSFW: Not Safe For Work]
2018年7月29日日曜日
2018年7月28日土曜日
南ベトナムのアンケの戦闘で、アメリカ軍と北ベトナム軍兵士の多数の死体を平地に混在して集積して検死した。
ベトナム戦争にて、1965年9月18日に、南ベトナムの中部高原地帯のアンケ周辺で、アメリカ軍と北ベトナムの南ベトナム解放戦線とが戦闘した。戦闘による多数の死体が平地に集積された。アメリカ軍兵士の死体だけでなく、南ベトナム解放戦線兵士の死体も一緒に並べられて検死された。ベトナム戦争だけはは、戦闘の真実の写真は、アメリカ軍専属の撮影による写真だけの公開だけでなく、民間市民による撮影の写真も許諾されて公開された。1965年6月9日にアメリカ海兵隊が、解放戦線と初の単独交戦した。索敵行動に出た海兵隊兵士が待ち伏せで兵士7人が殺された。7月9日にアメリカ政府は、ベトナム戦争に対して地上戦闘部隊の海兵隊と陸軍の大量投入を決定した。8月2日からアメリカ軍海兵隊のライフル中隊の約6,000人が、ダナン近郊の村落の焦土化して掃討した真実がCBSテレビが放映して、アメリカ市民の反戦運動が拡大した。さらに南ベトナム軍情報部長が1968年6月2月1日に、サイゴン市内で捕虜となった解放戦線兵士を、尋問も裁判もなく、大衆市民の前で銃殺した。その真実の写真がアメリカ合衆国内で民間市民が撮影して公表された。アメリカ市民は呆然と矛盾に満ちたベトナム戦争に対する反戦運動が過激化した。
2018年7月27日金曜日
日本人兵士の膨大な死体群が、インパールから撤退する道端に散乱し、至る所に死骸は放置され腐敗した。
大東亜戦争の中期に、日本軍はインパールの戦闘で壊滅して敗退した。ビルマの首都のラングールもイギリス軍に再占領された。撤退する日本軍兵士は、衰弱して飢餓状態となり悲惨な撤退となった。骨と皮だけにやせ細り、水分も乾燥して干された日本人兵士の膨大な死体群が、撤退する道端に散乱した。至る所に、死骸は放置されて腐敗した。日本軍は1944年3月に決行した無謀で悲惨なインパール作戦で約30,000人が戦死して、戦傷者は約40,000万人に及んだ。
日本軍は、1942年1月7日にインドシナ半島西の現ミャンマーであるイギリス領ビルマに進攻して、全土を占領した。イギリス軍はインド北東部アッサム地方に位置したビルマに近いインパールに敗走した。日本軍のインパール作戦は、川幅600mにもおよぶ大河と2000m級の山を越え、ビルマからインドにあるイギリス軍の拠点であるインパールを約3週間で攻略する作戦だった。後方からの補給も途絶えた日本軍はインパールには誰1人もたどり着けず、7月1日に至り作戦が中止された。激しい雨の中で、イギリス軍の攻撃にさらされながらの撤退を余儀なくされた。チンドウィン河を越える400キロもの撤退路で兵士は次々に倒れて、死体が積み重なっていった。腐敗が進む死体、群がる大量のウジやハエ、自らの運命を呪った兵士たちは、撤退路を「白骨街道」と呼んだ。
2018年7月26日木曜日
第1次世界大戦のベルギーにて膠着した塹壕戦では、ドイツ軍の突破後には、多数のイギリス人兵士の死体が塹壕内に散在した。
第1次世界大戦は、1914年7月28日にオーストリー・ハンガリー帝国がセルビアに宣戦布告して勃発した。同盟国であるオーストリー・ハンガリー、ドイツ、トルコ、ブルガリア4カ国と、イギリス、フランス、ロシアの三国協商に関連する28カ国の連合国が、人類史上初の世界大戦に及んだ。ドイツは8月3日にフランスに宣戦布告し、パリに侵攻するため、ベルギー国境から防備の薄いフランス北東部を侵略した。ベルギーの多くがドイツ軍に占領された。ドイツ軍は、中立国ベルギーの強攻突破でフランスに侵攻した。フランス軍を攻略する前に、ロシア軍を迎え撃つために軍団を東部戦線に傾注した。9月になってフランス・イギリス連合軍は、手薄なったドイツ軍の侵攻を留めた。その後の西部戦線は塹壕戦による膠着状態になった。ベルギーにおける膠着した塹壕の戦線では、ドイツ軍に突破された後には、多数のイギリス人兵士が虐殺された死体が塹壕内に散在した。1917年2月1日からドイツが潜水艦による無差別攻撃に転換して、中立を保持したアメリカが1917年4月6日にドイツに宣戦布告して連合国に参戦した。アメリカ軍の豊富な軍備に支援された連合国軍側が物資面で次第に圧倒的な優位となった。ドイツ軍は1918年7月以降は西部戦線から撤退を重ねて、11月初めには全退却を開始して、ベルギー占領地区はようやく解放された。
2018年7月25日水曜日
日本軍の無差別空爆に、重慶は防空壕が不足して空気の換気などの不良で、多く避難者が窒息死した死体が散在した。
日中戦争において、四川省の重慶は日本軍に対抗する蒋介石司令部がある中国国民党の司令部の拠点となった。日本軍により中華国民党の政府があった南京は侵略され、逃避した漢口も侵略されて、さらに内陸部の四川省の重慶に政府を撤退した。中国国民党政府となった重慶に対して、日本軍は約218回もの無差別の空爆をした。重慶は壊滅して、中国人市民も含めて約10,000人以上が爆死により虐殺された。1938年12月4日から43年8月22日まで空爆が継続された。40年だけでも約4,333トンものの爆弾を投下して爆発させた。重慶などでは防空壕が不足して、さらに空気の換気が不良により、多く避難者が窒息死した死体が散在した。無差別空爆にて、非戦闘員である重慶市民の約8割が虐殺された。重慶の空は曇り多くの霧が発生するために、日本軍爆撃からは目視空爆が困難となった。そのために重慶は、無差別爆撃の対象に転換されて無差別に空爆された。無差別爆撃は1937年のスペインに対するドイツ軍によるゲルニカ爆撃に続いて、日本軍が重慶を無差別爆撃をした。第2次世界大戦の末期にはドイツとイギリスに対する双方の無差別爆撃の報復が繰り返された。日本に対抗してアメリカ軍による無差別の空襲から広島・長崎の原子爆弾の投下により膨大なる市民が巻き込まれて虐殺された。
2018年7月24日火曜日
第4次中東戦争で、シリア軍の空爆と砲撃により、「涙の谷」と呼ばれたゴラン高原北部で、多数のイスラエル軍兵士の死体が散乱して、鳥類が食い漁った。
第4次中東戦争が、1973年10月6日にユダヤ教で最も神聖な日「ヨム・キプール(贖罪の日)」に勃発した・エジプト・シリア軍が、6年前の第三次中東戦争でイスラエルに占領された領土を奪回するために侵攻した。シリア軍はゴラン高原、エジプト軍はスエズ運河、のイスラエル軍)を奇襲した。第三次中東戦争で過信したイスラエル軍はアラブ側から奇襲を受け、かなりの犠牲と苦戦を強いられた。イスラエル軍の予備役部隊とアメリカの支援等から、次第にイスラエル優位な戦果となった。10月24日に国際連合による停戦決議で停戦が成立して、イスラエル軍は逆にエジプト・シリア領に侵攻した。アラブ側が緒戦でイスラエルを圧倒したという事実は「イスラエル不敗の神話」を崩壊させた。イスラエルに対して対等な立場ったエジプトは1979年に平和条約を締結し、1982年にシナイ半島はエジプトに返還された。同年に元シリア領であったゴラン高原はイスラエルが一方的に併合した。戦争時中のアラブ石油輸出国機構(OAPEC)は石油禁輸措置と石油価格引き上げで、第1次石油危機を引き起こし、諸外国は多大な経済混乱に至った。ゴラン高原方面はシリア軍の空爆と砲撃から、「涙の谷」と呼ばれたゴラン高原北部で激戦で、イスラエル軍兵士の多量にな戦死した死体が散乱して、鳥類が食い漁った。ゴラン高原中部・南部にシリア軍は侵攻して、イスラエル軍を囲した退却させた。6日夜にイスラエル軍は予備役部隊をゴラン高原に投入して、10日までにシリア軍を撤退してゴラン高原を再占領した。
2018年7月23日月曜日
サイパン島でバンザイ突撃の翌日に、アメリカ軍兵士が岩場に逃げて隠れ日本軍兵士を銃殺して平然と死体を見下した。
太平洋戦争のサイパン島の戦闘で1944年6月15日から7月9日に、アメリカ軍より日本軍は全滅した。最後的な戦闘において、アメリカ軍兵士により撤退した日本軍兵士は最北端のマッピ岬の約5km南方のマタンシャ周辺まで追い込まれた。1944年7月7日未明に約3,000人以上もの日本軍兵士が最後の突撃した。約10km先のガラパンを目指してアメリカ軍にバンザイ突撃を強行した。「天皇陛下万歳!」と叫びながら、全身を伏せることなくアメリカ軍兵士に突撃した。アメリカ軍は、事前に察知した日本軍の最終的なバンザイ突撃に対して、照明弾を放ちながら、無差別に重砲爆撃を浴びせほぼ全員を虐殺した。日本軍兵士が戦死した約4,301人の死体数をアメリカ軍は検証した。バンザイ突撃をした翌日の7月8日には、アメリカ軍兵士が岩場に逃げて隠れていた日本軍兵士を銃殺して、満面に自慢げに死体を見下した。サイパン島の戦闘の犠牲になった戦死者数は、日本軍兵士が約41,000人、アメリカ軍兵士は約3,216人に及んだ。サイパン島に在留していた日本人市民は、約8,000以上が戦闘に巻き込まれて虐殺されたと推定された。
2018年7月22日日曜日
韓国軍兵士は、強姦して両目を抉って虐殺した若いベトナム人女性の死体を取り囲んで、快感しながら見下した。
ベトナム戦争にて、北ベトナムはソ連などが支援して、南ベトナムに最大で約540,000人のアメリカ軍が派遣された。アメリカ軍には、韓国軍、タイ軍、フィリピン軍、ストラリア軍が派兵されるも、ベトナム戦争は泥沼化した。特に韓国の朴正煕大統領は自ら1964年から約30,000以上の猛虎部隊と呼称した韓国兵士をベトナムに派遣して、約5,000が戦死して、約10,000が戦傷した。韓国軍は、ベトナム中南部のビンディン省において、ゴダイ集落を1966年2月26日に襲撃して約380人以上もベトナム人市民を無差別に1時間以内に大虐殺した。さらに近日中に韓国軍は、タイヴァン村で約1,200人のベトナム人市民、タイビン村で約65人のベトナム人市民、ハミで約135人のベトナム人市民、フォンニィ・フォンヤット村で約69人以上のベトナム市民を大虐殺した。韓国軍兵士は、強姦して両目を抉って虐殺した若いベトナム人女性の死体を取り囲んで、快感しながら見下した。当時の韓国軍は、ベトコンによる陰謀と公表して隠蔽した。韓国では、ベトナム戦争による特需を、三星、現代、韓進、大宇などの大財閥が独占した。韓国政府は現時点でも隠蔽して、ベトナム戦争での大量虐殺と虐待を公式に認めない。アメリカ軍も、1968年3月16日にクアンガイ省ソンミ村で、ベトナム人市民の約504人を無差別に大量虐殺した。
2018年7月21日土曜日
クメール ルージュによる大量殺戮した処刑場のチェーン・エックに犠牲者の頭蓋骨などの遺骨が敷き詰め分別された。
カンプチア (旧名: カンポジア)のチェーン・エック(Choeng EK)には、クメール ルージュによる大量殺戮した処刑場および被害者の墓地であった。1988年になっても処刑された犠牲者の頭蓋骨などの遺骨が敷き詰められて分別された。クメール・ルージュ政権は、強制労働や飢饉により、カンボジア人が大量虐殺に至った。クメール・ルージュによる大量殺戮や国内難民の死者数は、1962年から1975年まで人口動態が皆無で不明である。フィンランドは、ポル・ポト以前の内戦の死者数を約600,000人、ポル・ポト以後の死者数を約1,000,000人と推定した。クメール・ルージュは、反シアヌーク勢力で、赤いクメール(カンボジア人)と呼称された。1951年に北ベトナムから分離して、1960年9月にカンボジア共産党を設立して、1963年からポル・ポトが指導者となった。アメリカ軍が侵攻して、1970年4月に反米・非同盟のシアヌーク政権が排除され、親米・反北ベトナムのロン・ノル政権が樹立した。1964年から1975年のベトナム戦争からアメリカ軍が敗退して、クメール・ルージュがロン・ノル政権を軍事制圧した。1976年4月にポル・ポト政権を樹立した。カンボジア全土を虐殺刑場(Killing Field)とするジェノサイド(集団虐殺)を執行した。1978年12月にベトナム軍が侵攻して、親中国・反ベトナムのポル・ポト政権を打倒し、親ベトナム派のヘン・サムリン政権を樹立した。1989年に冷戦構造が崩壊して、1991年にベトナム軍は撤退し、1991年10月にパリ和平協定により、1993年の国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)の総選挙で、シアヌークを国王とする「カンボジア王国」が成立した。クメール・ルージュは1998年のポル・ポト死去を経て1999年3月に崩壊した。
2018年7月20日金曜日
ハンガリーの矢十字党により虐殺された市民や膨大なユダヤ人の死体が発掘された。
ハンガリーには、1939年から1945年まで、ファシズム政党である矢十字党(ハンガリー主義運動)政権がハンガリー王国を帝国主義化した。サーラシ・フェレンツが指導する反ユダヤ的なハンガリー主義(Hungarizmus)を掲げた民族主義政党となった。ナチス・ドイツの支援を受けて、1944年10月15日にナチス・ドイツ軍と矢十字党員はブダペスト市内を占領して、1945年1月までハンガリーを統治した。サーラシ政権はドイツの反ユダヤ主義に協力し、国内に居住する約100,000人以上ものユダヤ人を虐殺して、約80,000人のユダヤ人市民をアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所に移送した。サーラシは首相兼国家元首に就任して、ソビエト軍およびルーマニア王国軍と戦って、東部戦線のナチス・ドイツ軍と同盟した。矢十字党の虐殺部隊が闊歩して、ユダヤ人市民らを捕まえては銃殺して土中に埋め込み、凍りついたドナウ河にも投げ込んだ。ブダペストの戦いが1944年12月に始まり、矢十字党政権はナチス・ドイツ軍と共に1945年4月30日の終戦までハンガリーの西端で戦い続けた。大戦後には、矢十字党により虐殺されたハンガリー市民の犠牲者の死体が発掘された。大戦後にはサーラシらの矢十字党の指導者は、ハンガリーの法廷で戦犯として処刑された。
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