2024年10月31日木曜日

延辺文化大革命に巻き込まれ、趙永華(趙永华)は、冤罪で殺人犯として公開処刑された。民衆が取り囲んで、抑え込まれ、銃撃された頭部から出血した死体は仰向けに倒れた。

延辺文化大革命に巻き込まれて、趙永華(趙永华)は、冤罪により殺人犯として公開処刑された。多数の民衆が取り囲んで、抑え込まれて、頭部を銃撃された。趙永華の死体は、前頭部から出血して、草原に仰向けに倒れた。中国全国で約402,000件の冤罪が発生した。

 1966年5月から中国全土を揺るがした文化大革命は、辺境の延辺朝鮮族の社会にも1966年8月から深い傷跡を残した。自らの民族性を否定され弾圧された厳しい時代であった。江青女史の指示により、漢族と朝鮮族との葛藤が助長されて、同族同士の殺し合いにまで発展した巧妙に仕組まれた民族抹殺計画であった。中国の吉林省にある豆満江沿いの延辺朝鮮族自治州は、中国政府が1952年に、中国の55少数民族の一つである朝鮮族の自治を認めた。

 毛遠新は、毛沢東の実弟である毛沢民の息子であった。1941年に新疆で生まれ、2歳の時に父親の毛沢民が、少数民族勢力に殺害された。その後、毛沢東は毛遠新を親子のように大切にした。毛遠新は北京清華大学に通って、1964年にハルビン軍事工程学院を卒業した。文化大革命が始まるとすぐに信奉者たちを連れて1966年10月末に延辺へ渡った。

 毛遠新は、毛沢東の妻である江靑の指示を直接に受けた。毛遠新は、延辺朝鮮族自治州で民族紛争を起こし、多くの犠牲者を出した。毛遠新は、東北の太上皇と呼称され、強大な権力を誇った。毛沢東の死後に、四人組と共に逮捕された。懲役17年、政治資格剥奪4年の判決を受けた。1993年に刑期を終えて釈放された。

 韓国の写真家の柳銀珪は、十数年間にわたり、延辺朝鮮族自治州など中国東北部の朝鮮族の移住と定着の歴史を掘り起こした。延辺文化大革命を記録した一人の朝鮮族写真家と出会い、膨大な量のフィルムを入手した。過ぎた時代を生々しく再現する痛恨の「延辺文化大革命」を公表した。中国では未だ発表できない事実が、朝鮮族の文化大革命であった。



















2024年10月30日水曜日

アフガニスタンのチャリカール近郊の空港にて、タリバンの砲撃で死亡したアフガニスタン人の死体を、北部同盟のアフガニスタン人の兵士達が砲弾の跡を取り囲み見詰めた。

アフガニスタンのチャリカール近郊の空港にて、タリバンによる砲撃で死亡したアフガニスタン人の死体を、北部同盟のアフガニスタン人の兵士達が砲弾の跡を取り囲み見詰めた。タリバンの攻撃で破壊された建物からは死傷者を運び出していた。

 アフガニスタン紛争の当時は、アフガ二スタン内情勢の報道はとても少なかった。報道写真家集団の「マグナム」のクリス・スティール=パーキンスは、1994年から国境なき医師団の活動で、アフガニスタンと関わり始めた。1994年から1998年までの約5年間に4回にわたり、当時タリバン政権下のアフガニスタンを記録した貴重な白黒の写真を残した。至近距離でアフガニスタンの日常を見詰めた写真は稀少である。マグナムは、約50年以上にわたり歴史に残る戦場写真を提供し続けた。しかしその50年間で一度も、戦争の勃発を無なくならなかった。

 荒廃したアフガニスタンの国土を戦車や兵士が行き来した。死者と負傷者が、あちこちに溢れた。紛争の緊張のなかで、瓦礫の日常の光景を丹念に象徴した。平和とは何か、世界から孤立すると何かを、問いかける写真である。2007年から2021年の間に推定7万3000人のアフガン軍と警察官が死亡して、数万人のタリバン戦闘員も死亡した。アフガニスタン内戦で約4万7000人の民間アフガニスタン人が死亡し、

 アフガニスタンのタリバンは1990年代初頭に設立されたスンニ派イスラム民族主義者で親パシュトゥーン勢力である。1979年にアフガニスタンに侵攻したソ連軍が、支援した政府が1992年に崩壊した。その後に、タリバンが1996年から2001年10月までアフガニスタンの大部分を支配した。タリバンが政権を取ってから,市民は見捨てられ、冷たい路上に放り出され,物乞いするか,ゴミを漁るか,あるいは死んでいった。孤児院では,就労禁止を拒否され、女性達はタリバン兵に虐待された。2001年9月11日の同時多発テロ後に、アメリカ軍は2001年10月にはテロ組織であるアルカイダを支援するタリバンを撃墜した。しかしその後に、タリバンは2021年8月にアフガ二スタンでの政権を奪還した。
















2024年10月30日  
Japan No War  (JNW)
日本平和市民連盟  
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2024年10月29日火曜日

太平洋戦争末期の沖縄戦にて、1945年8月4日に沖縄戦で親を失ったり、遺棄されたりした日本の孤児たちが、アメリカ軍が解説した沖縄本島中部の孤児収容所であるコザ孤児院でわずかな配給を分け合って食べていた。

太平洋戦争末期の沖縄戦にて、1945年8月4日に沖縄戦で親を失ったり、遺棄されたりした日本の孤児たちが、アメリカ軍が解説した沖縄本島中部の孤児収容所であるコザ孤児院でわずかな配給を分け合って食べていた。コザ孤児院に裸でやせ細った孤児たちが集められた。

 アメリカ軍は4月1日の沖縄本島上陸後、戦場に取り残された孤児への保護施設を造り始め、孤児院11カ所、老人施設9カ所を各避難民の収容所に併設した。孤児は少なくとも1000人以上いるとみられるが、正確な人数は分かっていない。避難民の女性らが保母として世話したが、体力のない年少者の中では栄養失調による衰弱死が相次いだ。アメリカ軍は、沖縄本島に最大で14カ所の孤児院を開設した。多の子が衰弱死したが、全体像は不明であった。沖縄南部で戦闘が終結する6月下旬になると、南部から続々と負傷者や住民が運ばれてきて、多くの子どもたちがおり、コザキャンプ内にコザ孤児院は設立された。コザ孤児院は1945年6月から1949年11月の4年5か月まで開設され、1945年7月時点では収容人数は600人を超えていると記載された。

 アメリカ軍軍政府は1945年4月以降に、戦場をさまよう孤児の間に合あわせの対策として、沖縄本島のあちらこちらの避難地域に孤児院を設けた。孤児院は民家やテントを利用した簡単な造りであった。ひめゆり学徒隊や教育関係者、空手家、「慰安婦」らが孤児たちの世話をした。当時の孤児院に関する資料はとても少なく、全体像は明らかになっていない。コザ孤児院や旧羽地村(現名護市)の田井等孤児院では、多くの子どもが衰え弱って亡くなった。孤児の命と人権は守まもられていなかった。

 沖縄諸島を中心とした沖縄戦の戦いで82日間にわたり、1945年4月1日から6月22日まで続いた。沖縄戦は、戦闘の激しさ、日本軍の守備隊による神風特攻の激しさ、沖縄に上陸した膨大な連合軍の艦船や装甲車両で、太平洋戦争で最も血なまぐさい戦いの一つとなった。1948年の「全国孤児一斉調査」では、戦争孤児は全国で12万人であった。1950年代の琉球政府のまとめでは、沖縄に孤児は約3,000人いたとされた。調査によって数字には幅があり、実際にはもっと多いとみられる。




2024年10月28日月曜日

1982年3月に、エルサルバトル政府軍兵士が首都サン・サン・バトルの貧民街のサン・アントニオ・アバドで銃撃戦で殺害したゲリラの戦闘員の死体をトラックに載せた。

1982年3月に、エルサルバトルの首都サン・サン・バトルの近郊の貧民街のサン・アントニオ・アバドで内戦の銃撃戦が勃発した。政府軍とゲリラ側の双方で約15人が殺害された。エルサルバトル政府軍兵士が、銃撃戦で殺害したゲリラの戦闘員の死体をトラックに載せた。エルサルバドル政府軍兵士は、集めたゲリラの死体を無造作に、まるで荷物のようにトラックに投げ込んだ。死体を引き上げる兵士の手にはするどうナイフが握られ、ヘラヘラ笑っていた。兵士が銃撃を打ち込んだ路地では、兵士が殺害したゲリラの死体を引きずっていた。

 さらにサン・アントニオ・アバドでは、路地の奥には、が胸をナイフでえぐられて殺害された若い女性ゲリラ死体があり、横の水たまりが赤く血で染まった。政府軍兵士は、民家のドアを蹴破り、1組の夫婦を引っ張り出して暴行して尋問した。首都サン・サン・バトルの近郊の貧民街のサン・アントニオ・アバドはの貧民街は、ゲリラの拠点となり、政府軍との内戦に巻き込まれた。

 1980年にゲリラ闘争をした5つの左翼グループがファランド・マルチ民族会報戦線(FMLN)を結成した。1981年にFMLN側が攻勢するも、アメリカの後方支援を受けたエルサルバドル政府軍が圧倒的な軍事力でゲリラ掃討を展開した。10年間にわたる内戦で、約50万人が住居と仕事失って、約7万人が死亡した。極右の暗殺部隊によるテロで、改革派を大量虐殺した。1979年10月15日から1992年1月16日にわたる12年間にわたる内戦で、約50万人が住居と仕事失って、約7万人が死亡した。極右の暗殺部隊によるテロで、改革派を大量虐殺した。政府軍は約10,360人が死亡して、FMLM側は約12,274人から20,000人が死亡して、民間人は約65,161人が死亡した。約55万人が国内避難して、約50万人が国外難民となった。1992年1月16日に調印されたチャプルテペック和平協定で、サルバドール内戦が終結した。この条約は、サルバドル政府とFMLNの間の和平を確立して、FMLNは政党として1994年から大統領選挙に参加した。





2024年10月27日日曜日

第10軍団外科医ジョン・R・ホール大佐が1946年1月26日に、顔にやけどを負った女性への原子爆弾の影響を、極東諮問委員会に説明した。

                    非公開の日本原爆被爆者の写真

ーアメリカ軍原爆調査団

アメリカ国立公文書館 2024年2月23日

(The National Archives College Park, Maryland) 

                                           SC-241243


























SC-241243

Col. John R. Hall, Surgeon of 10th Corps, describes affects of atomic bomb on a woman with face burns to members of Far dastern Advisory Commission. 1/26/46

Signal Corps Photo APA-46-64690 (Direda), released by BPR 4/1/46. orig. neg.

Lot 13534

Pg


SC-241243

第10軍団外科医ジョン・R・ホール大佐が1946年1月26日に、顔にやけどを負った女性への原子爆弾の影響について、極東諮問委員会のメンバーに説明している。

通信兵部隊撮影 APA-46-64690 (Direda)、1946年4月1日BPRに公開。原本のネガ。

ロット:13534

Pg

2024年10月26日土曜日

イスラエル・パレスチ戦争にて2024年7月3日に、トゥルカレム近郊のヨルダン川西海岸のヌールろシャムス難民キャンプで葬儀が挙行された。7月3日にイスラエルの空爆で4人のパレスチナ人が死亡した。

イスラエル・パレスチナ戦争にて2024年7月3日に、トゥルカレム近郊のヨルダン川西海岸のヌールろシャムス難民キャンプで葬儀が挙行された。7月3日にイスラエルの空爆で4人のパレスチナ人が死亡した。4人は、イスラム聖戦の旗に包まれた弔問客は遺体に祈りを捧げた。イスラエル軍は、爆撃機が難民キャンプで爆発物を仕掛けた武装グループを空爆したと公表した。

 イスラエル軍はヨルダン川西岸地区にて、過去30年以上で最大の土地の接収を承認したと、入植地追跡グループが2024年7月3日に発表した。イスラエル軍がヨルダン川西岸地区にて占領の拡大は、ユダヤ人の入植者がベンヤミン・ネタニヤフ首相政権に強い影響力を反映した。入植地の開発に権限を掌握し、イスラエルの領土支配を強固にして、パレスチナ国家の誕生を阻止して拡大政策を加速させた。

 ヨルダン川西岸地域は、以前から入植者の暴力がパレスチナ人のコミュニティを追放していた。暴力は、2023年10月7日のハマスの攻撃がガザで勃発して以来、急増した。国連は、入植者たちは10月以来、ヨルダン川西岸でパレスチナ人に対して1,000件以上の攻撃を行った。ヨルダン川西岸に住む300万人のパレスチナ人は、イスラエルの軍事支配下にある。 

 ヨルダン西岸の占領地を国有地と宣言して、イスラエル政府は土地をイスラエル人に貸し出して、パレスチナ人の個人所有を禁止した。2024年の土地の接収は連続して、すでに存在する2つの入植地をつなげて、ヨルダンとの国境近くに強固な障壁を形成した。この土地は、国有地と宣言される前に、イスラエル軍は閉鎖区域と宣言していた。














Mourners pray over the bodies wrapped with Islamic Jihad flags, of four Palestinians who were killed by an Israeli airstrike late Tuesday, during their funeral near Tulkarem on July 3, 2024. | (Nasser Nasser/AP)

2024年10月25日金曜日

第二次世界大戦の東部戦線で、1944年7月24日にソ連軍がマジャダネク強制収容所を解放した。その後に、ポーランドのルブリンにあるマジャダネク強制収容所の敷地には、死亡した人間の人骨と頭蓋骨が散乱していた。

第二次世界大戦の東部戦線にて、1944年7月24日にソ連軍によりマジャダネク強制収容所が解放された。その後に、ポーランドのルブリンにあるマジャダネク強制収容所の敷地には、死亡した人間の人骨と頭蓋骨が散乱していた。アウシュビッツに次いでポーランドで2番目に大きな死の収容所となった

 ナチス・ドイツの親衛隊は1944年春に、ほとんどの囚人をさらにマジャダネクから西の強制収容所に避難させた。1944年7月下旬に、ソ連軍がルブリンに近づくと、残っていた収容所のドイツ人職員は、収容所を完全に解体することなく、至急にマジャダネクを放棄した。ソ連軍は7月22日から7月23日の夜に初めてマジャダネクに到着して、7月24日にルブリンを占領した。ほぼ無傷で捕獲されたマジュダネクは、解放された最初の主要な強制収容所であった。ソ連当局はジャーナリストを招いて、収容所と恐怖の証拠を視察させた。

 ドイツ占領下のポーランド、ルブリン郊外にあったマジュダネク強制収容所では、ヨーロッパ各地から約8万人の囚人が死亡した。収容されたユダヤ人、ロマ人、シンティ人、同性愛者、身体障害者、反対運動家はガス室で殺害された。その他に銃殺、殴打、火刑、飢餓、労役で死亡した。ソ連軍は1944年7月7月24日に、現在のウクライナとベラルーシの国境の近隣にあった収容所を解放した。その4年間で、50万人近くの囚人が収容所に入った。 推定36万人がそこで、飢餓、病気、銃殺、ガス室で死亡したと推定された。2005年には、78,000人の犠牲者(そのうち59,000人はユダヤ人)という公式に推定された。





2024年10月24日木曜日

1952年7月21日夜に、ベトナムでフランスのキャップ・サン・ジャック軍事休憩所が襲撃されて、フランス軍の下士官および将校8人、フランス人の子供6人と女性2人、ベトナム人の子供4人が死亡した。

1952年7月21日夜に、ベトナムでフランスのキャップ・サン・ジャック軍事休憩所が襲撃されて、フランス軍の下士官および将校8人、フランス人の子供6人と女性2人、ベトナム人の子供4人が死亡した。ベトナムのバオダイの手前で7月8日から7月10日にかけて開かれた会議で、フランス軍のサラン将軍はベトナムの軍事状況は満足のいくものであると繰り返して、フランス軍隊による「ベトナム化」を加速させたいと述べた。しかし、悪天候にもかかわらず行われたフランス軍の掃討作戦に対して、ベトミン(ベトナム民主共和国)はテロ行為を続けた。第一次インドシナ戦争は、1946年12月19日から1954年7月21日まで、フランスとベトミン(ベトナム民主共和国)および同盟国との間で戦われた。

 ベトミンは、40万人の民間人死者総数のうち、10万人から15万人を暗殺した。ベトミンの戦闘員は、この紛争全体を通じて、組織的な慣行としてテロ攻撃を実行し、しばしばヨーロッパ系およびユーラシア系の民間人を標的にした。ヨーロッパ人に対する最悪の攻撃の一つは、1952年7月21日に、ベトミンの武装勢力が手榴弾、ステンガン、ナタを使って、キャップ・サン・ジャックの軍事病院で、病気休暇中の将校8人、子供6人、ベトナム人使用人4人、女性2人の非武装の20人が虐殺された。ベトミンの捕虜収容所では、フランス連合軍やベトナム国民軍の捕虜の多くが拷問により死亡した。 

 第一次インドシナ戦争中に、フランス軍兵士によるベトナム民間人に対する虐殺強姦事件が数多く発生した。1945年8月のフランス軍のベトナム帰還後に、サイゴンで強盗や殺人事件が発生した。ベトナム北部でも、1948年にベトミンが敗北した後に、フランス軍兵士によってベトナム人女性が強姦された。バオハー、バオイエン郡、フールーなどの地域である。1948年6月にはフランス軍の訓練を受けたベトナム軍兵士400人がベトミンに寝返った。フランス軍により、ベトミン軍が民間人の居住地に身を隠すため、多数のベトナム民間人が殺害された。フランス軍による最大規模の虐殺のひとつは、1947年11月29日に起きたミー・トラック虐殺事件で、フランス兵士が200人以上の女性と子供を殺害した。



2024年10月23日水曜日

太平洋戦争末期の沖縄戦にて戦死した日本兵士の死体は、弔う者もなく、そのまま埋葬もされずに放置されていた。沖縄戦の戦闘は激しく、通常は至近距離で行われた。

太平洋戦争末期の沖縄戦にて戦死した日本兵士の死体は、弔う者もなく、そのまま埋葬もされずに放置されていた。(アメリカ軍通信部隊, 米国国立公文書館、NARA-2)アメリカ軍と日本軍の一進一退の砲撃戦は、昼夜を問わず沖縄を揺るがした。アメリカ第10軍は戦闘中に110万発の105ミリ榴弾砲を発射し、戦争中には最大規模の砲撃を行った。沖縄戦の戦闘は激しく、通常は至近距離で行われた。アメリカ軍と日本軍は多くの丘の斜面で交戦し、洞窟、塹壕、壕、ピルボックスなどで対戦した。アメリカ軍は1945年4月1日から6月22日まで、日本本土からわずか約550kmしか離れていない琉球諸島の約1660平方kmを支配するため、沖縄戦で情け容赦ない戦闘を繰り広げた。

 1945年4月1日、米第10軍が沖縄に侵攻して、太平洋戦争の最後の水陸両用上陸作戦が行われた。アメリカ陸軍4個師団とアメリカ海兵隊3個師団からなるアメリカ第10軍は、日本本土への侵攻に備えて、沖縄本島を占領するため、アイスバーグ作戦を実行した。アメリカ軍の兵士と海兵隊員は82日間戦闘をして、大日本帝国軍と戦いながら、途上にて欧州戦線の終結した1945年5月8日の欧州戦勝記念日(VEデイ)を知った。アメリカ軍は1945年6月22日に、ついに沖縄を占領して、ほとんどの日本軍の抵抗勢力を壊滅した。

 沖縄戦は、太平洋戦争で最も激しい戦闘の一つであった。沖縄戦は英語では "typhoon of steel"(鋼鉄の台風)、日本語では"tetsu no ame(鋼鉄の雨)"または"tetsu no bōfū(鋼鉄の暴風)と呼称された。ニックネームは、戦闘の激しさ、日本軍の神風攻撃の激しさ、沖縄島を襲撃した膨大な連合軍の艦船や装甲車を象徴した。

 沖縄戦は、太平洋戦争で最も血なまぐさい戦いの一つで、連合軍5万人以上、日本軍8万4166~11万7000人以上、日本の軍服を着た徴兵防衛隊員を含む約16万人の死傷者を出した。沖縄戦にて、アメリカ軍兵士が7,374人が戦死して、約31,807人が戦傷した。約149,425人の沖縄県民が死亡、自決、行方不明となり、沖縄戦の戦前の推定人口300,000人のおよそ半分を占めた。沖縄戦争の日本人の戦没者数は、日本軍兵士は94,208人、沖縄県民は約94,000人とアメリカ軍は約12,520人と推定された。




2024年10月22日火曜日

1911年12月23日に、黒人男性のフランク・リチャードソン(26歳)は、アラバマ州タスカルーサでの2人の白人男性を殺害した罪に問われ、リンチで残酷な死刑が郡拘置所で執行されて、多くの人々が立ち会った。

1911年12月23日に、黒人男性のフランク・リチャードソン(26歳)は、アラバマ州タスカルーサで2人の白人男性を殺害した罪に問われ、十分な正規の法手続き無しのリンチで、残酷な刑罰の死刑執行で殺害された犠牲者となった。彼は逮捕され、アラバマ州にて絞首刑に処された。リチャードソンは1884年にタスカルーサのノースポートで生まれ、農夫として働いていた。 シャーロット・リチャードソンと6年間結婚し、二人ともタスカルーサのノースポート、クラブ・ロードに住んだ。

 タスカルーサ郡で8年ぶりに死刑が執行され、黒人のリチャードソンが殺人罪で絞首刑に処せられた。絞首刑に処されて、17分後に医師によって死亡が宣告された。処刑は郡拘置所で行われ、多くの人々が立ち会った。1877年から1950年までにアメリカの800の郡で、黒人に対して4,400件のリンチされ、ほとんど加害者は起訴されなかった。

 アラバマ州タスカルーサ郡で、その数週間前に、黒人が白人に鞍を貸すのを拒否して喧嘩の末に白人が射殺された。白人を殺害した黒人は、ウィンチェスター・ライフルで武装して森に逃げ込んだ。警察隊が組織されて、逃亡者の追跡に猟犬が配置された。発砲が交わされ、隊長のブラウン・ホートンが致命傷を負った。その後に、黒人のリチャードソンが捕まった。最初に殺害されたのはトム・クーパーという元副保安官である。リチャードソンは捕まった後に、リンチを防ぐためにバーミンガムに強制送還された。リチャードソンが罪状認否を受けて、ホートン殺害の罪だけで裁かれた。世間は二重殺人で非常に興奮した。

 裁判では世間はリチャードソンに反感を抱くも、裁判の証人たちは、クーパーと揉めるまで、リチャードソンの人柄はおとなしいと証言した。リチャードソンの弁護には裁判所から若い弁護士事務所が任命された。陪審は第一級殺人の評決を下し、リチャードソンの死刑執行日は12月22日の金曜日に決まった。死刑囚の黒人のリチャードソンには多くの同情が寄せられた。彼が暴走する前の善良な性格と最初の殺人の状況が、無期懲役に減刑も強く訴えらた。




2024年10月21日月曜日

ファシストによりイタリアを戦争に引きこんだベニート・ムッソリーニの脳味噌が、1945年4月30日にミラノ中心部のきたないロレート広場の汚泥の上に流れ出た。

ファシストによりイタリアを戦争に引きこんだベニート・ムッソリーニの脳味噌が、1945年4月30日にミラノ中心部のきたないロレート広場の汚泥の上に流れ出た。午後にアメリカ軍は死体を撤去して、銃弾の跡だらけのムッソリーニ等のひどく損傷した死体をミラノの死体安置所に運ぶように命じた。アメリカ軍は、ムッソリーニと愛人クラ・レッタペタッチの死体を互いに並ばせて、不気味なポーズをとらせて撮影した。

 第二次世界大戦にて連合国軍は北アフリカで勝利した後に、1943年夏にシチリア島へ上陸した。イタリア半島を首都ローマへ向かって攻めのぼった。1944年6月5日に首都ローマを解放した。1922年以来に絶対的権力を握ってきたイタリア・ファシスト党の独裁者ベニート・ムッソリーニは、シチリア陥落後政権の座を追われて監禁された。

 1943年後半に、ナチス・ドイツ軍の降下部隊が、アペニン山脈のスキー場に幽閉されたムッソリーニの救出に成功した。ムッソリーニはイタリア全土の権力者に再びに返り咲けなかった。当時イタリア政権はすでに方針を転換して、連合国側で戦っていた。ムッソリーニはヒトラーに命令のままに、北イタリアにイタリア社会共和国を樹立して傀儡の元首におさまった。

 1945年に第二次世界大戦の戦況が、ナチス・ドイツ軍は著しく戦況が不利になるにつれ、ムッソリーニを支える余力はなかった。1945年の4月末に、ムッソリーニの一行はミラノの拠点を脱出した後に、反ファシストのパルチザンがムッソリーニーを追った。極右の指導者たちに対して長年の戦争犯罪を償わせる指令が出された。1945年4月27日にスイス国境近くのコモ湖畔の路上で、ムッソリーニと愛人クラ・レッタペタッチはともにパルチザンに捕まった。翌日の4月28日午後でヒトラーが自殺する2日前に、2人は略式裁判により機関銃で銃殺された。ミラノのロレート広場に運ばれたムッソリーニとペタッチと、14人のファシストの死体は、群衆の暴徒により文字どおり殴る蹴るの暴行を加えられた後に、ロレート広場のガソリンスタンドで逆さ吊りにされた。それは、ナチス・ドイツの親衛隊によりファシストが、8月前に15人のパルチザンを処刑して死体を公開したロレート広場であった。




2024年10月19日土曜日

2024年4月9日に、ウクライナの首都キエフの独立広場で行われた葬儀で、ロシア軍との戦闘で死亡した2人のウクライナ軍兵士に弔意を表する人々が集結した。

2024年4月9日に、ウクライナの首都キエフの独立広場で行われた葬儀で、ロシア軍との戦闘で死亡した2人のウクライナ軍兵士(セルヒイ・コノバルとタラス・ペトルシュン)に弔意を表する人々が集結した。ウクライナのいたるところで、戦死したウクライナ人の死体が毎日故郷に帰った。首都キエフでは、ウクライナ軍兵士の死体を乗せた2つの木製の棺が、2014年のウクライナの民主化デモの中心地である独立広場に厳粛なパレードで運ばれて、弔問客がひざまずく中で、ウクライナ塀の死体の逝去を見送った。

  人口4400万人のウクライナ国が、隣国のロシアによる全面的な侵攻を2年以上の間は防御してきた。議会の内紛で重要なアメリカの援助が滞って、世界の注目が明らかに弱くなり、深刻な戦争疲れ、すべてがウクライナに大きな犠牲を強いた。最前線では、疲弊したウクライナ軍兵士がロシア軍の進撃をかわしながら、軍民の犠牲とともに不安も高まった。2024年4月頃に毎日、私たち兵士は戦死していると、33歳のマルタ・トマキフは、数日前に東部で戦死したウクライナ西部の故郷の友人を悼んだ。

 戦地から何百kmも離れた首都キエフではあるが、戦死した兵士を追悼する青と黄色の旗が戦争の象徴としてはためいた。国連のウクライナ人権監視団によると、ロシア軍の攻撃で、2024年3月には少なくとも604人のウクライナ市民が死傷した。ウクライナの広大な領土がますます脆弱になる中で、東部の町アブディフカは2024年2月にロシア軍に陥落した。ウクライナ政府は、進行中のイスラエルに対する大規模なイランのミサイル攻撃とドローン攻撃を阻止したイスラエルとアメリカの同盟軍に、公の場で沈黙した。

  2022年2月24日からロシア軍の全面侵攻以来最大の501人のウクライナ軍兵士の死体をウクライナに返還した、ウクライナ当局が2024年10月18日に発表した。ウクライナの捕虜待遇調整本部は、死体のほとんどはウクライナ東部のドネツク地方、主にアヴディフカの都市周辺で戦死したと述べた。法執行機関と法医学の専門家が、犠牲者の身元を確認して、遺族に引き渡されて埋葬されるという。



















Warning: People pay their respects to two Ukrainian servicemen killed in a battle with Russian troops during the funeral ceremony in Independence Square in Kyiv on April 9, 2024. (Efrem Lukatsky / Associated Press)

2024年10月18日金曜日

ドイツのライプツィヒの副市長兼市会計であり53歳の夫のエルンスト・クルト・リッソが机で、50歳の妻のレナーテ・ステファニーと20歳の娘のエバートが1945年4月18日に執務室で自殺した。

ドイツのライプツィヒの副市長兼市会計である53歳の夫のエルンスト・クルト・リッソが机で、50歳の妻のレナーテ・ステファニーと20歳の娘のエバートが1945年4月18日に執務室で自殺した。リッソは机で、レナーテとエバートはソファーで毒薬の青酸カリを服用して自殺した。アメリカ軍兵士による捕縛を避けるため、ライプツィヒ新市庁舎で青酸カリによる自殺を遂げた。リッソは、ドイツ赤十字の腕章をつけた。死の写真に、妻のレナーテ・リッソは夫の向かって座り、赤十字の腕章をつけた娘のレジーナがベンチに座っていた。

 アメリカ軍は1945年4月18日にラートハウスを突破して、4月19日朝から攻撃を開始した。 アメリカ軍の戦車は7時30分から9時10分までラートハウスに向けて砲撃を行って、捕虜となったドイツ軍将校が降伏の最後通牒を持ち込んだ。別の部屋で青酸カリで自殺した市長アルフレッド・フライベルクとその妻、娘、前市長でフォルクススツルム大隊長のクルト・ヴァルター・デニッケとその将校数名も新市庁舎で発見された。アメリカ軍はドイツ軍少将1名、下士官175名、ゲシュタポ13名を捕らえた。アメリカ国旗は正午頃に、ラートハウスに掲げられた。リッソの自殺の現場は、ロバート・キャパ、マーガレット・バーク=ホワイト、リー・ミラー、アメリカ陸軍信号隊によって特に広範囲に撮影された。

  ソ連赤軍と西側連合軍がベルリンに迫ってくると、自殺者が増えた。1945年春に、何千人ものドイツ人が、占領や勝者による虐待に避けて自殺した。 ベルリンの戦いでは4月中に約3,881人が自殺したと記録された。動機は「ロシア軍の侵攻への恐怖」だけでなく、連合軍によって解放された地域でも自殺は起きた。アメリカ群は、1945年7月にソ連軍との国境線から占領区域の境界まで撤退した。ライプツィヒはソ連赤軍に引き渡された。ライプツィヒは東ドイツ(ドイツ民主共和国)の主要都市の一つとなった。




2024年10月17日木曜日

ロシア軍は、1905年に奉天会戦でのロシア軍兵士の67人の死体群を集団埋葬地の近くで取り囲んだ。死体群の周囲では、ロシア軍兵士がシャベルで集団墓地を掘った。

ロシア軍は、1905年に奉天会戦でのロシア軍兵士の67人の死体群を集団埋葬地の近くで取り囲んだ。死体群の周囲では、ロシア軍兵士がシャベルで集団墓地を掘った。奉天会戦は、日露戦争の最大の陸上戦の一つであり、最後の終結的な陸上戦闘となった。1905年2月20日、日本軍がロシア軍の左翼を攻撃して勃発した。2月27日、日本軍第4軍が右翼を攻撃し、他の日本軍もロシア軍の前線を攻撃した。同日、日本軍は奉天の北西で広範囲にわたる移動を開始した。1905年2月20日から3月10日にかけて、満州国の奉天(現在の瀋陽)付近で日本軍とロシア軍の間で戦われた。約61万人が参戦して、約16万4000人が戦死傷した。当時の世界史上最大の戦闘でもあった。3月7日までに、クロパトキン将軍は奉天の西側で日本軍から退避するため、奉天会戦から完全撤退し始めた。

 帝政ロシアにてヴィクトル・ブッラは、1904年から05年にかけての日露戦争で、19歳の少尉としてシベリア予備旅団の従軍カメラマンとなった。日露戦争にて、ダリン峠と奉天の戦い、エルダゴウ、ズニオ、サンデプ、ラナファン、プチロフの丘での行動、ミシェンコ将軍の襲撃、その他戦争の重要な事件を撮影した。ヴィクトルの前線レポートは、最も人気のあるイラスト雑誌「ニーヴァ」(戦場)、「イスクリ」(火花)、ロシアの主要新聞に広く掲載され、世界中で再版された。

 ロシアに帰国後に、ロシア皇帝の宮廷、政府、軍事活動の公式写真を独占的に制作する権利を持つカール家の写真代理店に入社した。ヴィクトルは、第一次世界大戦、ロシア革命、内戦の大規模な写真ギャラリーを制作し、事実上、初期のソビエト政府の公式写真家となった。要注意として、1935年までに写真約20万点が政府公文書館に接収された。1938年6月23日には冤罪で逮捕され、拷問によりソ連に対するスパイ活動を自白させられ、1938年10月に銃殺された。ヴィクトルの名前は、1980年代後半のゴルバチョフのペレストロイカまで、すべての公式資料から抹消された。






2024年10月16日水曜日

1945年9月5日にカナダに亡命したウクライナ人のイゴール・グゼンコは、防護服を着用して、カナダで活動するソ連のスパイ・ネットワークを証言して暴露した。

ウクライナ人のイゴール・グゼンコは、防護服を着用して、カナダで活動するスパイ・ネットワークを証言して暴露した。スパイ以外では知ることのできない核兵器の原子力の秘密を盗み出した。カナダのオンタリオ州の首都のオタワ大使館で、暗号担当職員を務めていたウクライナ人のイゴール・グゼンコは、1945年9月5日にカナダに亡命した。ソ連のクレムリン当局は第二次世界大戦直後にかつての第二次世界停戦の同盟国と表面上は友好的な関係を保ちつつ、慎重にスパイ活動を活性化させた。グゼンコ事件はオタワの世論から世界の冷戦が勃発した。

 首都ワシントンのFBIは、アメリカにおけるナンバーワンの赤のスパイとしてゲルハルト・アイスラーを摘発した。彼はポーランドの客船に密航して、イギリスで引きずり降ろされて尋問を受けた。その後にモスクワに送還された。ワシントンFBIはまた、国務省高官であったアルジャー・ヒスを含む数人のアメリカ政府職員を破壊活動家と断定し、ヒスは偽証罪で投獄された。

 エセルとジュリアス・ローゼンバーグ夫妻は、マンハッタンの機械工で、デビット・グリーングラスの義理の兄弟が、ロスアラモスで原子爆弾開発に携わっていた。夫妻は裁判で、有罪判決を受けて、最高裁判所への上告を経て、死刑が確定して電気椅子で処刑された。

 ロシアでは、鉄のカーテンの中でスパイ行為を行ったとして多くの人物を告発し、投獄したり、即決で処刑した。無実の罪で有名な2つの事件は、ハンガリーのヨセフ・ミンデント枢機卿と、プラハにいたAP通信のウィリアム・オアティス特派員がいた。

 ソ連のクレムリンは1946年にアメリカのミズーリ州フルトンで行った有名な演説で、ウィンストン・チャーチルは「鉄のカーテン」と名付けた国境の壁を構築した。バルト海から黒海にわたる新たな国境に沿って延びる構造物を構築した。ソ連の内務人民委員部(MVD)やその他の特殊部隊によって警備され、物理的には、監視塔、サーチライト、地雷、機関銃、警察犬と警備員が配備され、無人の土地に張り巡らされた電流の流れた有刺鉄線が設置された。鉄のカーテンは、西側の思想に対するイデオロギーの障壁でもあった。