第二次世界大戦の欧州戦線末期のドイツのナメリングの民間住民たちに、3週間前にドイツ・親衛隊部隊による虐殺で犠牲となった800人の死体を埋葬させた。死体は5日間野ざらしにされていた。埋葬はアメリカ軍政当局の命令によるものだった。
1945年4月19日、ブーヘンヴァルトから約4,500人の囚人を乗せた貨物列車がナメリングの側線に停車した。 この列車はダッハウ行きの予定だったが、連合軍の爆撃による線路損傷のため、プラットリングでナメリング方面へ迂回させられた。ナメリング到着後、地元住民の一部が囚人たちに食料と水を渡そうとしたが、列車を警護していた150人の親衛隊員と警察官によって奪い取られた。
ドイツ軍指揮官ハンス・メールバッハ中尉は停車中に、死体を列車から降ろして火葬するよう命じた。しかし作業が遅すぎると判断した彼は、囚人たちに死体を約500ヤード離れた渓谷の集団墓地まで運ばせた。そこで死体を運んでいた囚人たちは警備兵に射殺され、囚人自身も墓穴に埋められた。合計524人の囚人が射殺され、約800人が集団墓地に埋葬された。遺体は石灰で覆われ、分解を促進するため墓穴は水没させた。列車に残存した3,100人の囚人はダッハウへ移送され、そこで解放された。4月28日にアメリカ軍がナメリングの現場を発見した後に、現地のアメリカ軍最高司令官は、近くの強制収容所から集合させた親衛隊員に死体を掘り起こさせ、集団墓地の上にある渓谷の両側に並べさせた。その後に、ナメリングの住民は墓地を歩かされ、死体はナメリング周辺のエギング・アム・ゼー、アイヒャ・フォム・ヴァルト、ナメリング、フュルステンシュタインの各町で埋葬された。(DPLA: Digital Public Library of America, https://dp.la/)















