2025年11月3日月曜日

第二次世界大戦の欧州戦線末期のドイツのナメリングの民間住民たちに、3週間前にドイツ・親衛隊部隊による虐殺で犠牲となった800人の死体を埋葬させた。

第二次世界大戦の欧州戦線末期のドイツのナメリングの民間住民たちに、3週間前にドイツ・親衛隊部隊による虐殺で犠牲となった800人の死体を埋葬させた。死体は5日間野ざらしにされていた。埋葬はアメリカ軍政当局の命令によるものだった。

 1945年4月19日、ブーヘンヴァルトから約4,500人の囚人を乗せた貨物列車がナメリングの側線に停車した。 この列車はダッハウ行きの予定だったが、連合軍の爆撃による線路損傷のため、プラットリングでナメリング方面へ迂回させられた。ナメリング到着後、地元住民の一部が囚人たちに食料と水を渡そうとしたが、列車を警護していた150人の親衛隊員と警察官によって奪い取られた。

 ドイツ軍指揮官ハンス・メールバッハ中尉は停車中に、死体を列車から降ろして火葬するよう命じた。しかし作業が遅すぎると判断した彼は、囚人たちに死体を約500ヤード離れた渓谷の集団墓地まで運ばせた。そこで死体を運んでいた囚人たちは警備兵に射殺され、囚人自身も墓穴に埋められた。合計524人の囚人が射殺され、約800人が集団墓地に埋葬された。遺体は石灰で覆われ、分解を促進するため墓穴は水没させた。列車に残存した3,100人の囚人はダッハウへ移送され、そこで解放された。4月28日にアメリカ軍がナメリングの現場を発見した後に、現地のアメリカ軍最高司令官は、近くの強制収容所から集合させた親衛隊員に死体を掘り起こさせ、集団墓地の上にある渓谷の両側に並べさせた。その後に、ナメリングの住民は墓地を歩かされ、死体はナメリング周辺のエギング・アム・ゼー、アイヒャ・フォム・ヴァルト、ナメリング、フュルステンシュタインの各町で埋葬された。(DPLA: Digital Public Library of America, https://dp.la/)




2025年11月2日日曜日

2025年1月8日、ウクライナ南部のザポリージャ州軍事行政当は、ウクライナ・ザポリージャでロシアの空爆により死亡した地面に横たわった死体の写真を公開した。少なくとも13人の民間人が死亡し、約30人が負傷した。

2025年1月8日、ウクライナ南部のザポリージャ州軍事行政当は、ウクライナ・ザポリージャでロシアの空爆により死亡した地面に横たわった死体の写真を公開した。ロシア軍によるウクライナ南部ザポリージャ市への空爆で、少なくとも13人の民間人が死亡し、約30人が負傷した。

 キエフ当局者によると2025年1月8日に、ウクライナ南部のザポリージャ市を昼間にロシアがミサイル攻撃し、少なくとも13人の民間人が死亡、約30人が負傷した。瓦礫が散乱する市街地に市民が横たわった。救急隊員による手当てを受け、担架で搬送された。ロシア軍は民間人居住区への空爆を頻繁に実施した。知事は高速ミサイルと破壊的な滑空爆弾がザポリージャ州に向けて発射される脅威を数分前に警告した。ロシア軍は1月8日午後半ばにザポリージャへの滑空爆弾攻撃を開始し、少なくとも2発が市内の住宅ビルを直撃した。

 キエフ当局は、軍事力の抑止がなければ、停戦や和平合意はクレムリンに再軍備と再侵攻の時間を懸念した。ウクライナ軍は先ごろ、ロシア深部にある燃料貯蔵施設を攻撃した。ロシア空軍基地に燃料を供給する施設で大規模な火災が発生した。ロシア当局は大規模なドローン攻撃を認めた。ウクライナ当局は、ウクライナ国境から東へ約600km離れたロシア・サラートフ州の貯蔵施設を直撃した。西側諸国から供給されるミサイルには、ロシア国内に向けて発射できる射程に制限がある。ウクライナ軍は長距離ミサイル兵器体系とドローンの開発を進めた。ロシア当局は1月8日、核搭載可能な戦略爆撃機があるエンゲルス郊外の空港で航空便の運航を制限した。2022年2月24日に勃発したロシア軍の侵攻は初期段階からウクライナ軍のドローン攻撃を受けて、爆撃機の大半を他地域へ移転した。




Warning: In this photo provided by the Zaporizhzhia regional military administration on Jan. 8, 2025, bodies lie on the ground killed in a Russian air strike in Zaporizhzhia, Ukraine. (Zaporizhzhia regional military administration via AP)

2025年11月1日土曜日

スレブレニツァ侵攻した際、ボスニア・セルビア軍勢力は1995年7月17日にイスラム教徒の家族から約8,000人の男性と少年を殺害した。犠牲者の所持品が、男性と少年たちの集団処刑後に道路に散乱した。

スレブレニツァ侵攻した際、ボスニア・セルビア軍勢力は1995年7月17日にイスラム教徒の家族から約8,000人の男性と少年を殺害した。スレブレニツァ虐殺の犠牲者の所持品が、男性と少年たちの集団処刑後に道路に散乱した。1995年7月17日スレブレニツァ町には、ボスニア・ムスリムが多数を占めた。

 旧ユーゴスラビア解体後の戦争は、1992年から1995年にかけてボスニア・ヘルツェゴビナで10万人以上の命を奪い、その大半はボスニア・ムスリム人であった。さらに200万人以上が避難民となった。スレブレニツァでの虐殺は、その戦争における最も暗い章の一つとなった。

 1995年7月、ボスニア・セルビア軍は、国連安全保障理事会決議819号により安全地帯と宣言されていたスレブレニツァを制圧し、そこで数千人の男性と少年を残忍に殺害した。スレブレニツァに残留していたボスニア・ムスリム人住民の約25,000人の女性、子供、高齢者は、この飛び地から強制的に移送された。これはホロコースト以来、ヨーロッパで起きた最大の虐殺であった。

 2004年に国際司法裁判所(ICJ)と旧ユーゴスラビア国際刑事裁判所(ICTY)は、スルプスカ共和国軍によるスレブレニツァにおけるボスニア・ムスリム人虐殺をジェノサイド行為として認定した。有能な司法機関によってジェノサイドを構成すると認定された事案はごくわずかである。2015年、国連はスレブレニツァ虐殺をジェノサイドと認定するも、ロシアによって否決されたる。2022年3月に、ウクライナのブチャにてロシア軍の戦争犯罪が暴露された後に、ロシア当局は新たなスレブレニツァと呼んだ。




2025年10月31日金曜日

太平洋戦争のタラワ環礁の戦いで、1943年11月に、ベティオ島に日本軍兵士の死体を埋葬をするために砂浜の集団墓地に集められた。

太平洋戦争のタラワ環礁の戦いで、1943年11月に、ベティオ島に日本軍兵士の死体を埋葬をするため砂浜の集団墓地に集められた。11月20日に、アメリカ軍は太平洋のタラワ環礁の占領を開始した。日本軍が防衛体制を整備したのはベティオ島のみであった。アメリカ軍は35,000人、ベティオ島にはわずか2619人の日本軍兵士と、約2200人の建設作業員しかいなかった。ベティオ島は完全に平坦で、全体が珊瑚砂で構成された。

 11月21日、アメリカ軍の艦砲は、日本軍が支配したベティオ島の残りの部分の砲撃を再開し、橋頭堡には戦車と追加の海兵大隊が到着した。アメリカ軍はさらに200m前進し対岸に到達し、飛行場を占領して日本軍の防衛部隊を二分した。11月22日に、アメリカ軍は攻撃を続け、生き残った掩蔽壕を艦砲で砲撃し、火炎放射器で機関銃座を焼き払った。日本軍兵士は死を覚悟で戦い、捕虜になることを拒み、最後の弾丸を自らに撃ち込んだ。その午後、移動可能な約170人の日本軍兵士が反撃に出た。砲撃と機関銃の集中砲火によって撃退された。11月23日の朝までに、ベティオ島には3つの孤立した抵抗拠点が残って、数十人の日本軍兵士がライフルと機関銃で防衛を続けた。アメリカ軍の戦車、航空機、艦砲が再び攻撃を加え、日本軍の防衛隊を殲滅した。13時30分に、ベティオ島の日本軍の抵抗を完全に鎮圧したと電報で報告した。ベティオ島に潜伏する日本軍兵士の掃討は、数日間続いた。

 ベティオ島の占領には、アメリカ軍は海兵隊員1009人の死者と2110人の負傷者を出した。アメリカ海軍は687人の死者と溺死者を出した。その大半は11月23日に日本軍の潜水艦によって撃沈された空母「リスコム・ベイ」の乗組員であった。ベティオ島の日本軍守備隊はほぼ全滅し、生き残った捕虜は、わずか17人の日本軍兵士と129人の朝鮮人建設労働者だけだった。 




2025年10月30日木曜日

南ベトナム解放民族戦線のテロ容疑者のチャン・バンダン・チャンがサイゴン中央市場の前広場で南ベトナム政府軍により1965年6月に公開処刑された。

南ベトナム解放民族戦線のテロ容疑者のチャン・バンダン・チャンがサイゴン中央市場の前広場で南ベトナム政府軍により1965年6月に公開処刑された。チャン・バンダン・チャンは目隠しをされながらも、「アメリカ反対」と叫んだ。

 1965年1月1日、ベトコン(南ベトナム解放民族戦線)はビンザーの闘いで、南ベトナム政府軍の精鋭部隊を打ち破った。危機感を抱いたアメリカは、もはやアメリカ軍の直接介入以外に南ベトナム政府を救えないと判断し、2月7日、アメリカ軍は北ベトナム爆撃 (北爆) を開始した。さらに3月8日には、北爆を行う航空基地の防衛という名目で初のアメリカ軍の地上戦闘部隊の海兵隊を投入した。1964年8月に「トンキン湾事件」をでっち上げ、 ベトナム戦争拡大の白紙委任を獲得していたジョンソン大統領は、1965年7月28日に大規模なアメリカ軍の戦闘部隊のベトナム投入を発表して、本格的な局地戦争に突入した。6月に入り北爆は拡大した。

 1965年2月の北爆開始のきっかけは「トンキン湾事件」である。1964年7月30日、アメリカ銀の支援のもと南ベトナム軍が北ベトナムのタインホア近くのトンキン湾内の島に上陸を開始した。これに連動してアメリカ軍の駆逐艦が北ベトナム沿岸のパトロールを行った。8月2日、アメリカ軍の駆逐艦「マドックス」と北ベトナム艦艇との間に交戦した。さらに8月4日にもパトロールを強行した「マドックス」が攻撃されたと報告された。

 8月4日にに実際の攻撃にあったかどうか真偽不明である。アメリカ政府は、「トンキン湾事件」としてでっち上げ、 ベトナム戦争本格介入の口実とする。アメリカ政府の対応はきわめて早かった。直後に、南ベトナム軍とアメリカ軍の作戦行動は伏せて「北から一方的に攻撃された」と新聞発表した。8月5日には「トンキン湾事件」の報復と称して、北ベトナムの基地を初めてアメリカ軍機が爆撃した。8月7日にはアメリカ議会が「東南アジアにおける行動に関する議会決議」(トンキン湾決議)を可決して、ジョンソン大統領に強力な戦時権限を与えた。これによりジョンソン米大統領は北爆に踏み切った。

 だが「トンキン湾事件」の真実がその後、明らかになった。1968年2月21日、米上院外交委 でモース議員が、駆逐艦「マドックス」はスパイ船で「アメリカ軍ははトンキン湾で挑発者だった」と述べた。1970年にはアメリカ上院がトンキン湾決議の廃棄を可決した。




2025年10月28日火曜日

2025年5月7日、イスラエル軍によるレストラン攻撃で犠牲となった死体が、ガザ市内の現場から病院へ搬送された。イスラエル軍のレストラン攻撃で少なくとも29人が死亡した。

2025年5月7日、イスラエル軍によるレストラン攻撃で犠牲となった死体が、ガザ市内の現場から病院へ搬送された。イスラエル軍のレストラン攻撃で少なくとも29人が死亡した。映像には、料理店内で椅子に座ったままの男性を含む複数の死体や、地面に血まみれで動かなくなったままの数人の子供たちの死体の惨状が映っていた。

 5月7日午後、ガザ市内のアルワフダ通りは、仮設市場でいつも賑わっていた。最初のミサイルが露店を直撃し、数分後には「タイランド」の愛称の人気サンドイッチ店に2発目が命中した。軽食店のテラスには、椅子から転げ落ちた遺体が無残に散乱していた。今回の新たな流血事件は、イスラエル軍がパレスチナ自治区における作戦強化計画を承認した数日後に発生した。イスラエル軍は、計画を実行するために数万人の予備兵を召集した。

 5月7日のイスラエル軍による爆撃で、市場と避難民の避難所として使われていた2つの学校が壊滅的な被害を受けて、死者はジャーナリスト2人を含む92人に及んだ。イスラエル軍が3月中旬に停戦を破って以来、毎日のように数十人のパレスチナ人が空爆で命を落としている。戦闘の激化は死者の増加を招く可能性が高い。イスラエル軍が既にガザ地区の約50%を支配している状況下で、同地域への支配を無期限に強化することは軍事占領の可能性を招きかねない。




2025年10月27日月曜日

連合軍は第二世界大戦後の1946年5月14日にベルギーのブリュセルで、第二次世界大戦の戦争犯罪人に対する絞首刑の執行をした。

連合軍は第二世界大戦後の1946年5月14日にベルギーのブリュセルで、第二次世界大戦の戦争犯罪人に対する絞首刑の執行をした。戦争犯罪人は、ナチス・ドイツの協力者であった。戦争犯罪人に絞首刑が執行され、立会人が見守る中で、ハネ板が開いて、戦争犯罪人の死刑囚は落下した。絞首刑された戦争犯罪人の囚人の死体は御棺に入れられて死刑場から搬送された。

 戦争犯罪人は、神父から最後の祝福として差し出された十字架に接吻した。アメリカ軍の憲兵に両腕を抱えられて13階段を登った。段上では死刑執行人が絞首刑のロープを最終確認した。アメリカ軍の絞首刑の規格では、高さ8フィート(2.4m)、台は8フィート(2.4m)四方であった。ニュールンベルグ・巣鴨も同様の規格であった。

 戦争犯罪人の死刑囚には、黒い頭巾、首にはメープ、手足には革紐をつけられた。戦争犯罪人の死刑囚は、死刑のハネ板の上に立つ。立会人が見守る中で、ハネ板が開いて、戦争犯罪人の死刑種はは落下した。落下式の絞首刑により、死刑囚は窒息ではなく、頚椎の断裂により、即死で苦痛は少ないとされる。その他に裁判をした上での死刑の他に、リンチによって殺害された者も多かった。


















2025年10月26日日曜日

長崎原子爆弾により少年は長崎の病院に収容された。1945年8月9日の炸裂から約5カ月がたっても、少年は重度の火傷とケロイドに苦しんでいた(にんげんをかえせ 1982年)。

長崎原子爆弾により少年は長崎の病院に収容された。1945年8月9日の炸裂から約5カ月がたっても、少年は重度の火傷とケロイドに苦しんでいた。カラー映画フィルムの記録『にんげんをかえせ(1982年)』である。

 アメリカ国立公文書館に原子爆弾の核被害を記録した未公開のカラー映画フィルムが保存された。10そのフィルムを、10フィートを1単位に、市民からのカンパにより市民運動によって日本に戻した。反核・平和の記録映画三部作『にんげんをかえせ』、『予言』、『歴史 核狂乱の時代』が製作された。国際的に上映する運動が展開されたこの「10フィート映画運動」は1980年度の日本ジャーナリスト会議特別賞を受賞した。

 原子爆弾関連で1980年からの市民運動で実現した10フィート運動の作品である。第1作は、被爆時と1980年代の被爆者の映像から核問題の本質に迫った「にんげんをかえせ」(1982年)である。第2次大戦の原爆投下直後にアメリカ軍戦略爆撃調査団が撮影した85,000フィートのフィルムの一部を日本が買い戻した。記録映画を作って国際的に上映した草の根の「10フィート運動」により、市民からの寄付をもとに3本が作られた。第2作は、核実験や原爆後遺症に悩む被害者の姿を描き、欧米8カ国で上映された「予言」(1982年)、アメリカ・マンハッタン計画、第2次世界大戦、ベトナム戦争、80年代の核配備の実態をえぐる「歴史=核狂乱の時代」(1983年)の3部作である。




2025年10月25日土曜日

1941年6月30日に、ドイツ国防軍がウクライナのリヴィウを征服した。6月30日に、リヴィウの住民たちは、リヴィウ市内の刑務所で、ソ連軍当局によって殺された人々の死体の中から親族を探した。

1941年6月30日に、ドイツ国防軍がウクライナのリヴィウを征服した。6月30日に、リヴィウの住民たちは、リヴィウ市内の刑務所で、ソ連軍当局によって殺された人々の死体の中から親族を探した。ウクライナ民族主義者の補助部隊は、ドイツ軍によるリヴィウ征服直後に、ユダヤ人市民への大量射殺を執行した。

 ドイツ軍がソ連軍を攻撃した最初の数日間は、リヴィウで反ユダヤ暴力が勃発した。イデオロギーの対立によって蒔かれ、ソビエト政権の犯罪により煽られた憎悪に街は陥った。1941年6月30日、リヴィウはドイツ国防軍部隊と、ステパン・バンデラのウクライナ民族主義者組織(OUN-B)の戦闘員を中心とするナハトイガル大隊によって占領された。1939年に始まったソ連軍の占領による赤い恐怖の後に、特にウクライナ人は、ドイツ軍とその配下のウクライナ人部隊を歓迎した。ウクライナ民族主義者にユダヤ人の登録とアーリア人からの分離を移譲した。ドイツ国防軍は、ユダヤ人を強制労働に従事させた。

 ソ連のNKVDによる囚人虐殺の犠牲者の遺体が、リヴィウの3つの刑務所で数千体が発見されたことに端を発した。ユダヤ人ボリシェヴィキと非難した後の大虐殺は、東ヨーロッパにおけるホロコーストが、ドイツ軍によって指示された。ドイツ占領後の6月30日から、リヴィウの路上でユダヤ人に対する集団暴力が起こった。ポグロムがウクライナ警察と共謀して街頭で行われた間に、ドイツ軍部隊はすでにユダヤ人が働いていた刑務所で処刑を始めていた。7月5日には最大規模に達し、約2000人のユダヤ人が街のさまざまな場所で銃殺された。




2025年10月24日金曜日

パレスチナのガザ地区のジキム検問所付近でパレスチナ人が、2025年5月27日から10月19日にかけて、パレスチナ人が支援物資の配布を受け取るときにガザ人道財団(GHF)の請負業者などに殺害された。

パレスチナのガザ地区のジキム検問所付近でパレスチナ人が、2025年5月27日から10月19日にかけて、パレスチナ人が支援物資の配布を受け取るときにガザ人道財団(GHF)の請負業者などに殺害された。2025年5月27日以降に、ガザ地区における飢饉の中、請負業者による銃撃を受けて死亡し、さらに数千人が負傷している。致命的な事件の大半は、アメリカ軍とイスラエル軍が支援するガザ人道財団(GHF)が運営する新設の支援物資配布所周辺で発生している。

 2025年5月27日から10月9日にかけて、飢饉に見舞われたガザ地区において、支援を求めた2,600人以上のパレスチナ人民間人が殺害され、さらに数千人が負傷した。イスラエル国防軍(IDF)、武装集団、ガザ人道財団(GHF)が雇った請負業者が発砲した。致命的な事件の大半は、アメリカ軍とイスラエルが軍支援するGHFが運営する短期間の援助配布拠点周辺で発生した。

 パレスティナ人の殺害はGHFの活動初日に発生し、2025年3月初旬から11週間にわたるイスラエル軍による封鎖に続いた。封鎖はガザ地区への人道支援を厳しく制限し、ガザ人道危機を悪化させた。2025年7月31日に、国連人権高等弁務官事務所 (OHCHR)は、7月31日時点で少なくとも1,373人のパレスチナ人援助要請者が死亡したと報告した。859人はGHF施設付近で、514人は国連及びその他の組織の援助輸送隊付近で死亡した。7月5日、ガザ保健省は少なくとも743人のパレスチナ人が死亡し、4,891人以上が負傷したと報告した。7月1日には同省は、死亡した犠牲者の約70%がガザ保健省(GHF)の施設で殺害されたと指摘した。批判派は、GHF配給所での定期的な大量殺戮を、ハンガー・ゲームと呼称した。



























Warning: Palestinians killed near the Zikim crossing: 2025 Gaza Strip aid distribution killings (From Wikipedia, the free encyclopedia)

2025年10月23日木曜日

1927年4月12日の上海大虐殺で、上海の支配的な犯罪組織であるグリーン・ギャングの団員による共産主義者を処刑して殺害した。

1927年4月12日の上海大虐殺で、グリーン・ギャング(上海の支配的な犯罪組織)の団員による共産主義者を処刑して殺害した。上海大虐殺事件は、蒋介石とその同盟者・支持者が共産党を虐殺して血みどろの決別を果たした。上海大虐殺は、蒋介石の軍司令部からのラッパの音を合図に、4月12日の日の出前に始まった。白い腕章をつけ武装した三合会の一団が、労働組合員や共産党員を追い詰めた。

 1927年4月12日未明に、犯罪組織の団員は閘北、南市、浦東など、労働組合が管理する区役所を襲撃し始めた。その結果、300人以上が死傷した。労働組合は4月13日に、蒋介石を糾弾する大衆集会を組織し、数千人の労働者と学生が第26軍第2師団司令部に抗議に向かった。国民党兵士が発砲し、100人が死亡して、多数の負傷者が出た。蒋介石は上海臨時政府、労働組合、その他共産党の支配下にあったすべての組織を解散させ、国民党に忠誠を誓い、杜躍成の支配下にある労働組合を再編成した。1000人以上の共産党員が逮捕され、約300人が処刑され、5000人以上が行方不明になった。

 共蒋介石は国民党軍と上海の犯罪組織に共産主義者の粛清を命じた。1927年4月12日に上海大虐殺が勃発して、推定5~1万人が殺害された。共産主義者は国民党政府から組織的に排除され、影響力を国家から一掃され、中国全土で数百万人が処刑された。共産党側は、紅軍の創設と18年にわたる内戦に至った。1928年までに蒋介石は中国を統一し、軍閥の多くを国民党軍に編入した。共産党新生赤軍と国民党の戦いは1931年に本格化した。1931年、日本は満州に侵攻し、イギリスに代わり、中国の帝国主義の作戦を開始した。日中戦争は1937年に勃発し、日本軍は上海と南京を占領した。




2025年10月22日水曜日

2025年4月4日のウクライナ中部の都市クリヴィイ・リにおけるロシア軍のミサイル攻撃による死者は、子供9人を含む18人に上り、72人が負傷し最年少は生後3ヶ月だった。

2025年4月4日のウクライナ中部の都市クリヴィイ・リにおけるロシア軍のミサイル攻撃による死者は、子供9人を含む18人に上ったと、ドニプロペトロウシク州のセルヒイ・リサク知事は土曜日に発表した。4月4日のロシア軍の攻撃でさらに72人が負傷し、最年少は生後3ヶ月の子供だった。そのうちの約半数が病院に残り、17人が重体である。クリヴィイ・リはゼレンスキーの故郷であった。ミサイルは住宅地のすぐそばを直撃し、遊び場や普通の道路を直撃した。

 地元当局によると、ロシア軍の攻撃で約20棟のアパート、30台以上の自動車、教育施設、レストランが被害を受けた。ロシア国防省は4月4日に、部隊指揮官と西側指導者との会合が行われたレストランを、高精度ミサイルで高爆発弾頭で攻撃したと主張した。ロシア軍は、この攻撃で85人の軍人と外国人将校が死亡し、20台の車両が破壊されたと主張した。ロシア軍の主張は独自には検証できない。ウクライナ軍参謀本部はこの主張を否定した。

 その後、クリビイ・リへの無人機攻撃で女性1人が死亡、7人が負傷した。ウクライナ空軍は4月5日のソーシャルメディアに、ロシア軍は一晩で92機の無人機をウクライナに向けて発射し、51機が防空ミサイルによって撃墜されたと公表した。さらに31機のおとり無人偵察機も目標に到達しなかった。ウクライナのドネツク地方にあるロシア軍占領下の町ホルリフカでは、砲撃により1人が死亡したとモスクワのデニス・プシーリン知事が伝えた。治安当局はロシアの国営ニュースチャンネルに、ドネツク地域上空で一晩のうちにウクライナの無人機28機を破壊したと伝えた。














Warning: A dead body of a man lies on the ground after Russian rocket strike on residential neighbourhood killing civilians including children, in Kryvyi Rih, Ukraine, April 4, 2025. (Na Chasi media via AP)

2025年9月19日  
Japan No War NGO  (JNWN)
日本平和市民連盟  
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2025年10月21日火曜日

1949年1月9日に佐世保にマニラからボゴダ丸で還送された死体は4515体であり、遺骨は307柱もあった。火葬は1月13日から2月13日まで約1ヵ月もかかった。

1949年1月9日に佐世保に還送された死体は4515体であり、遺骨は307柱もあった。火葬は1月13日から2月13日まで約1ヵ月もかかった。収容所南西の海岸で、1日も早い納骨をと援護局職員は作業をつづけ、風の日も、雪の日も日曜日にも荼毘の煙が海に流れた。骨箱におさめられた後の灰は、佐世保近くの景勝の地に集められた。海外の異郷地での戦いで戦死した日本軍の戦死者の供養塔ができて、やっと故国の日本に土に還った。アメリカ軍は、それ以前には、太平洋戦争の戦場にて日本軍兵士の戦死者リストとの確認が慎重に行なわれた。その遺体の一部は マニラ郊外にてアメリカ軍の手で仮埋葬されていた。

 引揚げは生還者だけではなかった。戦没者あるいは引き揚げ途中で死亡した者も少なくない。未火葬の遺体・遺骨も帰ってきた。激戦地だったマニラから、戦没遺体が遺族に還されることになった。1949年1月9日に佐世保へ帰還したアメリカ軍の輸送船の「ボゴタ丸」に、一般人を含む遺体は佐世保郊外・野天火葬場で荼毘にふされた。火葬後、遺骨は氏名不詳者を除き、家族に引き渡された。海外戦没者の本格的な遺骨収集は、1953年から始まり現在も行われている。

 1949年1月9日に、フィリピンでの戦死者4834人の遺骨が、アメリカ軍輸送船ボゴタ丸で佐世保港に帰着した。アメリカ軍の輸送船あるボゴタ丸は、フィリピン方面で戦死した遺体・遺骨を運んだ。ボゴタ丸はもともと貨物船だった。貨物船と戦艦は造りが違い、胴の厚みも薄く、弾が当たると水圧で船が沈没する貨物船は壁がなく大きな船室であった。ボゴタ丸はフィリピン、バンコク等から日本まで1万人以上の生存した引揚者も日本の内地に運んだ。




2025年10月20日月曜日

太平洋戦争の沖縄戦にて、1945年5月にアメリカ軍の大砲の直弾を受け殺害された日本軍兵士の死体が、重機関銃の下敷きとなった。

太平洋戦争の沖縄戦にて、1945年5月にアメリカ軍の大砲の直弾を受けて殺害された日本軍兵士の死体が、重機関銃の下敷きとなった。日本軍は沖縄島の防御が強固にして、地雷を埋めて、大砲を設置して、戦闘陣地を配置した地形で攻撃をした。地下から多くの日本軍兵士が出現して、アメリカ軍は反撃を受けた。5月下旬までに日本軍も甚大な損害を被り、徐々に屈服して、5月23日の首里線から撤退した。日本軍第32軍司令官牛島満は6月22日に自決して沖縄戦は終結した。 

 1945年4月1日、アメリカ軍第10軍の6万人以上のアメリカ軍兵士と海兵隊員が沖縄に上陸して、日本本土侵攻前の最後の沖縄戦に突入した。ほぼ無抵抗で進撃したアメリカ軍は、まもなく日本軍の内陸防衛網に遭遇した。沖縄島の南端では激しい戦闘が繰り広げられた。豪雨と険しい地形が容易な移動を妨げて、自然の防御陣地が沖縄島を覆っていた。陸、海、空での激しい戦闘が3ヶ月近く続いた。硫黄島での流血と同じように、沖縄戦の惨状は、予想される日本本土への侵攻における恐ろしい死者の数を予見させた。

 アメリカ軍は4月18日までに沖縄北部の日本軍の防御を克服した。南部の日本軍の抵抗は手強いものであった。日本軍は歴史的な首里城を防御の拠点とし、防御力の高い尾根に支えられた。日本軍の防御は、散発的な日本軍の反撃と相まって、アメリカ軍の侵攻を阻んだ。最終的に、第10軍の執拗な攻撃により、沖縄の首里城は5月29日に陥落した。海兵隊は1945年6月4日から始まった水陸両用攻撃により那覇の飛行場を奪取した。

 沖縄戦は、12,000人以上の戦死者を含む49,000人以上のアメリカ軍兵士の犠牲をもたらした。戦死者の中には、最高位となった第10軍司令官サイモン・ボリバール・バックナー・ジュニア中将も含まれた。彼は6月18日、最終攻撃中に砲弾によって戦死した。この戦闘で約90,000人の日本軍兵士が戦死したが、沖縄の民間人の死者は150,000人に達した。




2025年10月19日日曜日

太平洋戦争のマニラ市街戦で、アメリカ軍に殺害された日本軍兵士の死体が1945年2月23日にイントラムスの市街路に倒れ込んだ。

太平洋戦争のマニラ市街戦で、アメリカ軍に殺害された日本軍兵士の死体が1945年2月23日に市街路に倒れ込んだ。マニラ最古の16世紀にスペインが構築した旧城壁であるイントラムロスへアメリカ軍の攻撃は2月23日午前7時30分に始まった。アメリカ軍歩兵がケソン門とパリアン門の間の城壁を破って日本軍を攻撃した。パシッグ川を渡り、政府造幣局の近くで日本軍と交戦した。 
 1945年2月3日は、アメリカ軍はサント・トーマス大学に収容された約3,700人以上の連合軍兵士を解放して。マニラの戦いが勃発した。1945年3月3日には、アメリカ軍がマニラのダウンタウンにある立法府と大蔵省のビルを占領するまで、第二次世界大戦で最も激しい市街戦が勃発した。市街戦がマニラの通りごと、ビルごとで繰り広げられた。マニラ市街地は廃墟と化した。マニラの戦いで、1010人のアメリカ軍が死亡し、5500人以上が戦傷した。アメリカ軍と日本軍の占領と奪還の戦いの余波から、10万人以上のマニラ市民もフィリピンの首都解放の戦いで命を落とした。日本軍兵士は少なくとも16,000が戦死した。
 アメリカ軍は、戦車と砲兵が至近距離で直接射撃を行い建造物を破壊した。爆発物を携行する工兵と、火炎放射器・手榴弾・バズーカ砲・その他の小火器で武装した歩兵が侵攻を支援した。建物内に入ると、火炎放射器と小火器射撃を用いて建物を制圧した。川南岸の日本軍が籠城する地域では、男女や子供に至るまでが組織的に虐殺される事態が発生した。マニラの戦いでは、戦火に巻き込まれた民間市民の危険性と犠牲も浮き彫りにした。