2025年1月6日月曜日

広島で被爆した坪田幸雄さんは、原子爆弾の投下時に負った火傷が治った後も傷跡が残っている。

 非公開の日本原爆被爆者の写真

ーアメリカ軍原爆調査団ー

アメリカ国立公文書館 2024年2月23日

(The National Archives College Park, Maryland) 

SC-298048



































SC-298048

188 (FEO=47=73143)

11 APRIL 1947

HIROSHIMA ATOMIC BOMB SURVIVOR RETAINS SCARS FROM INJURIES:

SACHIO TSUBOTA RETAINS SCARS FOLLOWING HEALING OF BURNS SUSTAINED AT TIME OF ATOMIC BOMB EXPLOSION AT HIROSHIMA. 

HE WAS SEEN AT THE SHUDO BOYS MIDDLE SCHOOL THERE.

PHOTOGRAPHER-BLOCK

"Atomic Bomb Casualties"

RELEASED FOR PUBLICATION

PUBLIC INFORMATION DIVISION

WAR DEPARTMENT, WASHINGTON

14819

Photograph by Signal Corps US Army



SC-298048

188 (FEO=47=73143)

1947年4月11日

広島原子爆弾の被爆者に傷跡が残った。

広島で被爆した坪田幸雄さんは、原子爆弾の投下時に負った火傷が治った後も傷跡が残っている。

広島市立修道中学校で撮影。

写真撮影: ブロック

「原子爆弾被爆者」

広報局、ワシントン、戦争省

14819

写真提供:アメリカ陸軍通信部隊

2025年1月5日日曜日

ロシア・ウクライナ戦争にて2022年10月4日に、ウクライナのドンバス地方のライマンの路上で、撤退した後のロシア軍兵士の死体が遺棄された。

ロシア・ウクライナ戦争にて2022年10月4日に、ウクライナのドンバス地方のライマンの路上で、撤退した後のロシア軍兵士の死体が遺棄されていた。彼らは軍服を着て、ブーツを履いたままだった。近くには、廃棄されたロシア軍の軍服、寝袋、配給パックの山があった。ライマンから取材したAP通信は、少なくとも18体のロシア軍兵士の死体がまだ放置されているのを目撃した。ウクライナ軍は、ライマン町の支配をめぐる激しい戦闘の後に、ロシア軍兵士の死体を一時的に回収したようだが、ロシア軍兵の死体はすぐには運び出さなかった。

 2022年9月30日、ロシア政府はウクライナ東部のドネツク州とルハンシク州、南部ザポリージャ州とヘルソン州の4つの州をロシアに併合を一方的に宣言した。10月2日までに、ロシア軍はウクライナ軍に包囲されるのを避けるため、兵站と輸送の拠点として使用していた東部の戦略的な町ライマンから撤退した。ロシア軍はウクライナの主要都市を急速に放棄して、街路にロシア軍兵士の仲間の死体を放置した。先週、不法に併合したウクライナの4つの地域にしがみつこうと奮闘しているロシア軍の軍事的敗北を、10月4日により多くの証拠として提示した。

 ロシア軍からウクライナ軍が奪還したウクライナ東部の町ライマンでは、瓦礫が散乱するさびれた通りには、板張りの建物や焼けただれた建物が並んだ。壊れた屋根からぶら下がった金属板が風にあおられている。外に出る住民はほとんどいない。戦前の人口は2万人ほどだったが、犬と人間の数をほぼ同数に数えれた。ウクライナの人道支援団体に所属する2人の若いボランティアが、慎重に、そして静かに、ロシア軍の死体に番号を振り、身元を確認できるものを探していた。ロシア軍の死体を黒い遺体袋に入れ、戦場を後にした。













Warning: Bodies of Russian soldiers were abandoned by their troops after their retreat, on a street in Lyman, Donbas, Ukraine, on October 4, 2022. (ADRIEN VAUTIER / LE PICTORIUM POUR « LE MONDE »)

2025年1月4日土曜日

太平洋戦争末期にてフィリピンの首都マニラの戦いで、イントラムロスの廃墟内に、日本軍に虐殺された小さな男子とその側に女性の死体が転がっていた。

太平洋戦争末期にてフィリピンの首都マニラの戦いで、イントラムロスの廃墟内に、日本軍に虐殺された小さな男子の死体が転がっていた。側にもうひとりの女性の死体があった。イントラムロスはマニラの市内にある67平方kmの歴史的な城壁地域である。

 1945年1月に、アメリカ軍がフィリピンに帰還すると、マニラ解放の戦いが始まった。日本軍は押し戻されて、最終的にはイントラムロス城壁内まで後退した。アメリカ軍は、城壁に囲まれたマニラ都市に激しい砲撃をして、イントラムロス内で16,665人以上の日本軍兵士が死亡した。イントラムロスの8つの門のうち2つがアメリカ軍の戦車によって大破した。爆撃はイントラムロスの大部分を崩壊して粉砕した。マニラの戦いでは、1945年2月3日から3月3日に、100,000人以上のフィリピン人男性、女性、子供が死亡した。

 イントラムロスへの攻撃は2月23日午前に140門の砲撃で開始され、その後アメリカ軍の148部隊がケソン門とパリアン門の間の城壁を破って攻撃し、129部隊がパシッグ川を渡り、政府造幣局付近を攻撃した。イントラムロスの戦闘は2月26日まで続いた。2月23日、日本軍は人質として捕らえられていた約3000人の民間人を、グループの男性のほとんどを殺害した。野口大佐の兵士と水兵は1,000人の男女を殺害した。

 3月4日に、アメリカ軍はイントラムロスを確保して、マニラは正式に解放された。この戦いでアメリカ軍兵士1,010人が死亡、5,565人が負傷した。日本軍による故意のマニラ大虐殺と日米軍による砲撃と空爆の両方で、少なくとも10万人のフィリピン民間人が死亡した。日本軍はマニラの戦いに参戦した17000人のうち、16,000人が戦死した。




2025年1月3日金曜日

1994年4月15日にルワンダのニャルブエ村においてジェノサイドが勃発した。フツ族民兵により大量虐殺されたツチ族の死体がニャマタ・カトリック教会内に散乱した。

1994年4月15日にルワンダのニャルブエ村においてジェノサイドが勃発した。フツ族民兵により大量虐殺されたツチ族の死体がニャマタ・カトリック教会内に散乱した。

 1922年からルワンダを統治したベルギー軍と行政官が1944年4月7日に撤退した際に、フツ族の指導者がルワンダを支配した。ツチ族に対する攻撃があり、一部のツチ族がウガンダとの国境を越えて逃げ、ゲリラ部隊を結成して政権奪還を目指した。1996年の夏に、ツチ族のゲリラ軍勢がザイールから首都まで席巻した。モブツのフツ族軍隊は崩壊して、国外に逃亡した。カビラが国家の統制権を握り、国名をコンゴ民主共和国に改称した。全アフリカ同盟と呼ぶ戦争で、サハラ以南のアフリカ最大のコンゴ政府が交代した。

 1994年4月6日に、フツ族の大統領の飛行機が撃墜され、死亡した。数ヶ月前から、若いフツ族の村人が武装した民兵組織に加わり、槍やマチェーテと呼ばれる大型ナイフで武装した。国内の他の地域では、フツ族集団がツチ族の殺害を開始した。

 フローラ・ムカンポレの夫は、ニャルブエの村長に保護を求めるも、村長は拒否し、教会に避難するよう伝えた。最終的に3,000人のツチ族が集まり、教会の周りに避難場所を求めて集まった。何人かの男性は弓矢や槍で武装しが無駄であった。1994年4月15日にフツ族民兵が教会を襲撃した際に、先頭に立った村の市長が、フツ族政府軍兵士と警察にツチ族に銃と手榴弾を使用を命じた。ツチ族はパニックに陥り逃げ出し、フツ族民兵はナタで追いかけツチ族を殺害した。ツチ族の人々が切り刻まれ、死傷者が山のように倒れた。

 頭部をナタで殴られたフローラ・ムカンポレは死体の山の中に倒れた。フツ族民兵たちは生存したツチ族を追い詰めて殺害した。彼女はじっと横たわって、数日間、彼女は教会の敷地から一歩も外に出なかった。教会内は死体で埋め尽くされた。彼女は、腐乱死体が数千体転がる中、子供たちと一緒に留まり、1週間後、ツチ族の反乱軍の兵士たちが教会に到着し、病院に連れて行かれた。




2025年1月2日木曜日

第二次世界大戦にてドイツのブーヘンヴァルト強制収容所で殺害された服を着ていない囚人の膨大な死体が、1945年4月14日にブーヘンヴァルト強制収容所内の荒れ地に死体の山が並べられて散乱した。

第二次世界大戦にてドイツのブーヘンヴァルト強制収容所で殺害された囚人の膨大な死体が、1945年4月14日にブーヘンヴァルト強制収容所内の荒れ地に死体の山が並べられて散乱した。服を着ていない死体の山がいくつもあった。1937年にワイマール近郊の森の中に開設されたブーヘンヴァルト強制収容所は、ドイツのワイマールの北西約8kmに位置する。最終的には88の小収容所を管轄して、ブーヘンヴァルトはドイツ国内最大の強制収容所の一つとなった。 収容所にはユダヤ人、ポーランド人、スラブ人、精神病者、身体障害者、政治犯、ロマ人、犯罪者、エホバの証人、捕虜などが収監された。収容所の開設の数年後は、1943年末か1944年初めまで、女性の囚人はいなかった。

 ブーヘンヴァルト強制収容所は、最盛期の1945年2月には、囚人数は112,000人に上った。囚人たちは強制労働者として、ワイマール周辺の軍需工場や軍需工場、採石場、さまざまな収容所の作業場で12時間交代で働いた。収容所には毒ガス室はなかったが、数百人が病気、栄養失調、疲労、殴打、処刑のために死亡した。1937年7月から1945年4月までの間に、親衛隊SSは25万人をブーヘンヴァルトに収容した。

 1945年4月初旬に、アメリカ軍兵士たちがブッヘンヴァルトに近づいた。ドイツ軍兵士は囚人たちに本収容所からさまざまな小収容所への行進を強制した。多くの囚人が疲労のために途上で死亡した。解放を予期して、何人かの囚人は強制収容所を掌握するために監視塔を襲撃した。他の囚人たちは、強制収容所にいた約900人のユダヤ人少年を守るために持続的な奮闘をした。

 ドイツ軍の看守や将校の多くは、連合軍の接近を前に逃走した。1945年4月11日に、アメリカ第83歩兵師団はブーヘンヴァルトに入り、強制収容所内に21,000人以上の囚人を発見した。ダッハウ (ミュンヘン近郊)、ザクセンハウゼン(ベルリン)とともに、強制収容所運営幹部会指揮下の三大収容所の一つであった。1945年には30カ国に4万7500人の囚人を収容していた。その中で、解放された1945年4月には2万人が生存していた。全強制収容所での死者は600万人といわれている。




2025年1月1日水曜日

1944年6月6日の連合軍のノルマンディ上陸作戦で、フランスのオマハビーチに突撃したアメリカ軍第1歩兵師団兵士が、ドイツ軍に殺害され死体が倒れて砂浜に散在した。

1944年6月6日の連合軍のノルマンディ上陸作戦で、フランスのオマハビーチの波打ち際に突撃したアメリカ軍第1歩兵師団兵士が、ドイツ軍に殺害されてその死体が倒れて砂浜に散在した。アメリカ国立Dデイ記念碑には、戦死した2,510人のアメリカ軍兵士と1,917人の同盟国兵士の合計4,427人の名前が刻まれた。ドイツ軍は、約2000人が戦死した。

 第二次世界大戦の西部戦線で1944年6月6日に、連合国はドイツ占領下のフランスに侵攻し、ノルマンディー上陸作戦を決行した。オマハビーチは、フランスのノルマンディー海岸からイギリス海峡に面した8kmの区間である。オマハビーチの上陸部隊の主体はアメリカ軍陸軍であり、セーヌ湾のノルマンディー海岸に連続的な8kmの橋頭堡を獲得した。オマハビーチに上陸したアメリカ陸軍は、東はイギリス軍と、西はユタの第7軍団と連携した。

  ノルマンディ上陸作戦に対抗したのはドイツの第352歩兵師団であった。その12,020人のうち6,800人は戦闘経験のある部隊で、53kmの前線を守るために派遣された。ドイツ軍の攻撃は、水際での連合軍の海上攻撃を撃退して、防御を主に海岸沿いの強襲拠点に展開した。

 連合軍による最初の突撃はノルマンディ沿岸の防御を弱めずに、後続で艦船が上陸できなかった。航行に難があった上陸用舟艇のほとんどが6月6日は目標を外した。ドイツ軍の防御は予想外に強固であり、上陸したアメリカ軍にかなりの犠牲を伴った。ドイツ軍の激しい砲火の中で、アメリカ軍工兵部隊は海岸の障害物を取り除くのに苦労した。上陸直後の戦死傷のために弱体化した残存の突撃部隊は、ノルマンディ海岸の出口を取り除けなかった。後続の上陸に遅れをもたらし、最終的には生存者の部隊が即日の突撃を行った。最も防御の固い地点間の断崖をよじ登り、小規模な侵略が達成された。6月6日当日終わりまでに、2つの小さな孤立した足場を獲得した。その後に、内陸の弱体化したドイツ軍の防衛線を攻略して、6月7日には当初のノルマンディD-Day目標を達成した。




2024年12月31日火曜日

サイパンの戦いで、1944年6月23日に戦傷して重態の日本軍兵士にアメリカ軍が応急手当てをした。その後に担架上に、日本軍兵士を仰向けに寝かせるも、手遅れとなり戦死した。

サイパンの戦いで、1944年6月23日に戦傷して重態の日本軍兵士にアメリカ軍が応急手当てをした。その後に担架上に、日本軍兵士を仰向けに寝かせるも、手遅れとなり戦死した。その隣には、戦死した日本軍兵士の死体が、サイパン西海岸の路上に散乱した。

 1944年6月15日からアメリカ軍が上陸したサイパンの戦いは、6月21には日本軍の防衛線はが、西海岸のガラパンからタパチュ山の南斜面から東海岸のマジシャン湾まで伸びた。日本軍はサイパン島の高台を占めて、アメリカ軍の動態を監視して、荒れた地形には草木に隠された洞窟で埋め尽くさた。アメリカ軍の攻撃は6月22日に再会された。西海岸の第2海兵師団はガラパンとタパチュ山に向かって侵攻し、第4海兵師団は東海岸に沿って侵攻した。その夜に、第27歩兵師団はナフタン地点に侵攻して、2つの海兵師団の間の困難な地形に移動した。

 6月22日に側面の海兵師団は侵攻したが、遅れて攻撃を開始した第27歩兵師団は、約4,000人の日本軍兵が防御する低い尾根を囲む谷への攻撃が行き詰まった。アメリカ軍兵士が「デスバレー」と「パープルハートリッジ」などに呼称した地形周辺の戦闘は、アメリカ軍の進撃を馬蹄形に曲げ始めた。海兵師団の側面には隙間を作り、停止を余儀なくされた。

 ホーランド・スミス中将は、第27師団に苛立ち、第27師団長のラルフ・スミス少将を解任して、別の陸軍サンダーフォード・ジャーマン少将に交代させた。ホランド・スミスの解任の妥当性は、軍間論争を引き起こした。司令官が交代しても、谷の攻略には6日間を要した。ジャーマン師団長に挿げ替えても、戦況に大きな進展も無かった。ジャーマンは進撃遅延の責任から第106連隊長ラッセル・G・エアーズ大佐を更迭するも、逆に第27歩兵師団の士気は下がり、4日後の6月28日にはジョージ・W・グライナー少将に師団長が再度変更になった。更迭は『スミスVSスミス事件』と呼称されて、アメリカ軍内で大問題に発展し、その後の3軍の連携に大きな支障を与えた。3軍連携の大規模作戦となった沖縄戦では陸上作戦の総指揮官は陸軍のサイモン・B・バックナー中将となるも、陸軍に対して海軍や海兵隊は気兼ねして、積極的な作戦提案等が困難となり、沖縄戦苦戦の一因となった。

 サイパンの戦いで日本軍守備隊のほぼ全員、約3万人が死亡した。最終的に1,700人とその約半数の朝鮮人労働者が捕虜となった。アメリカ軍は約16,500人の死傷者を出し、3,100人が死亡、13,000人の負傷者sなり、攻撃部隊の一部であった71,000人のうち、死傷率は20%以上であった。




2024年12月30日月曜日

第二次世界大戦末期の1945年4月28日に北イタリアのコモ湖畔ドンゴで、15人のファシスト幹部が、リッカルドが指揮した12人のパルチザンの銃殺隊により射殺された。

第二次世界大戦末期の1945年4月28日に北イタリアのコモ湖畔ドンゴで、15人のファシスト幹部が、戦闘名と呼称したリッカルドが指揮したパルチザンの銃殺隊により射殺された。4月27日朝に、ヴァルテッリーナに向かって逃走するファシスト階層の隊列が、ドンゴのパルチザンによって拉致された。4月28日17時47分に、ドンゴの湖畔に並んだ15人のファシストの幹部たちを銃殺した。15人のファシストは、湖に顔を向け、銃殺隊に背を向けて、町の湖畔の金属製の手すりに並べられて、銃殺で処刑された。夕方に、処刑された死体はミラノに運ばれた。

 1945年4月10日からイタリアのパルチザン、愛国者および民衆は、連合軍の意向にこだわらず、主要都市を次々に解放した。孤立したドイツ軍を降伏させて、ベニート・ムッソリーニの共和国政体は末期的症状を呈した。4月28日に、12人のパルチザンから構成された銃殺隊を結成して、本名アルフレッド・モルディーニである戦闘名のリッカルドは、銃殺隊の指揮官に任命された。 

 ムッソリーニは1945年4月18日夕刻に、ミラノに着き、県庁に住居を定めた。4月25日にイタリア国民解放委員会は、ミラノ大司教邸で共和国政体に無条件降伏を要求した。ムッソリーニを、イタリア人民裁判にかけた。4月26日に、国民解放委員会が政権を掌握した。4月27日に、コモ湖からムッソリーニらをミラノに強制連行した。ムッソリーニは4月28日朝、ボンザニーゴのデ・マリア邸の中庭で、9時過ぎから10時少し前の間に銃殺された。4月29日に、ミラノ・ロレート広場で、ムッソリーニと愛人のクララ・ベッタおよびファシスト幹部の死体が逆さ釣りにされた。

 1945年4月29日にカゼルタの降伏の文書による合意は、イタリア戦線のドイツ軍とイタリア・ファシスト軍の降伏を正式に決定した。5月2日に、ドイツ軍南西集団がイギリス陸軍元帥に無条件降伏してイタリア戦線は終結した。



















2024年12月30日  
Japan No War NGO  (JNWN)
日本平和市民連盟  
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2024年12月29日日曜日

2024年11月21日に、パレスチナのガザ地区のカン・ユーニスで、父親のマフムード・ビン・ハッサンは、葬儀を前に長子2人と女子1人の子どもたちの死体を悼んだ。

2024年11月21日に、パレスチナのガザ地区のカン・ユーニスで、父親のマフムード・ビン・ハッサンは、葬儀を前に3人の子どもたちの死体を悼んだ。11月21日に、パレスチナのガザ地区のカーン・ユーニスで、男性が埋葬のために運ばれる3人の子供の遺体にキスをした。7歳のハムザ、5歳の弟アブデラジズ、4歳の妹ライラ・ハッサンの3人は、11月20日のカーン・ユーニスでイスラエルの攻撃により死亡した9人のうちに含まれた。11月21日木曜日のガザ地区のカン・ユニスで、イスラエル軍の空爆で死亡した同じ家族の3人の子どもの墓が埋葬の際に土で覆われた。パレスチナの保健当局によると、イスラエルとハマスの13ヶ月に及ぶ戦争によるガザ地区の死者は44,000人を超えた。

 2024年11月21日に、ガザ地区のカーン・ユーニスで、3人の子供の葬儀の後に、母親のアリージ・アル・カディは、子供の服を着て涙を流した。母親のアリージ・アル・カディは、娘のライラのドレスを見せる11月21日に、ガザ地区のカン・ユーニスの難民キャンプにあるテントで、父親のマフムード・ビン・ハッサンが生存している4番目の子どもを抱きながら、亡くなった3人の子どものうちの1人の写真を見せた。

 2024年7月21日以来、イスラエル軍の空爆がパレスチナ北東部のカン・ユーニスで激化している。パレスティナ人難民が、カン・ユーニスのアル・マワシ地区へ向かった。アル・マワシ地区には、大勢の市民を支える資源がなく、避難所や命を救う人道支援もない。イスラエル軍は人道地帯と宣しても、空爆や砲撃が続けられ、国連人権事務所は、ガザ地区に安全な場所はないと述べた。パレスチナの保健当局によると、イスラエルとハマスの13ヶ月に及ぶ戦争によるガザ地区の死者は44,000人を超えた。ガザ保健省は、民間人と戦闘員を区別してカウントしていないが、死者の半数以上が女性と子どもであるとしている。 イスラエル軍は、17,000人以上の武装勢力を殺害したとしているが、証拠は示していない。












Warning: A man kisses the body one of three children as they are carried for burial in Khan Younis, Gaza Strip, Thursday Nov. 21, 2024. Seven-year-old Hamza, his five-year-old brother Abdelaziz, and his four-year-old sister Laila Hassan were among 9 people killed by an Israeli strike in Khan Younis on Wednesday. Palestinian health officials say the death toll in the Gaza Strip from the 13-month-old war between Israel and Hamas has surpassed 44,000. (AP Photo/Abdel Kareem Hana)

2024年12月28日土曜日

広島原子爆弾の投下による被爆で、広島郵便局で被爆した山口明さんは両方の前腕に火傷のケロイド後遺症が1947年4月8日に残った。

 非公開の日本原爆被爆者の写真

ーアメリカ軍原爆調査団ー

アメリカ国立公文書館 2024年2月23日

(The National Archives College Park, Maryland) 

SC-298047








































SC-298047

14819 X(FEO-47-73152)X

8 APRIL 1947

HIROSHIMA ATOMIC BOMS SURVIVOR 

RETAINS SCARS FROM INJURIES:

AKIRA YAMAGUCHI RETAINS HEAVY SCARS FOLLOWING THE HEALING OF BURNS SUSTAINED FROM THE ATOMTO BOMB EXPLOSION AT HIROSHIMA. 

HE WAS SEEN AT THE POST OFFICE THERE.

PHOTOGRAPHER - BLOCK

Atomic Bomb Casualties

RELEASED FOR PUBLICATION, PUBLIC INFORMATION DIVISION,WAR DEPARTMENT, WASHINGTON

Photograph by Signal Corps US. ARMY



SC-298047

14819 X(FEO-47-73152)X

1947年4月8日

広島原爆被爆者 

傷跡が残る

広島での原子爆弾の投下による被爆により、山口明さんは火傷の後遺症が残った。

広島郵便局で被爆した。

カメラマン - ブロック

原爆死傷者

ワシントンの陸軍省広報部より公開

写真提供:アメリカ陸軍通信兵団 陸軍

2024年12月27日金曜日

サイパンの戦いにて、アメリカ軍が破傷風に罹患して重態の日本軍兵士を、空母サージェント・ベイ上で、1944年7月28日に破傷風の治療を受けた。まもなく破傷風菌の感染症で病死して、死体が太平洋に葬られた。

第二次世界大戦の太平洋戦争のサイパンの戦いにて、アメリカ軍が破傷風に罹患して重態の日本軍兵士を捕虜にした。空母サージェント・ベイ上で、1944年7月28日に捕虜の日本軍兵士は、破傷風の治療を受けた。まもなく破傷風菌の感染症で病死して、死体が太平洋に葬られた。破傷風菌に感染して3日から3週間から無症状の期間後に、口を開けにくい、首筋が張る、体が痛いなどの症状が出現する。その後に、体のしびれや痛みが体全体に広がり、全身を弓なりに反らせる姿勢や呼吸困難が出現した後に死亡する。

 サイパンの戦いの日本軍の戦局が悪化するとともに、連合国軍の大量の投降呼びかけのビラや新聞が大量に制作され、投降の仕方を記載した投稿票が多数の日本軍兵士の手許に舞い降るようになった。四面楚歌の戦況で、ビラや拡声器の甘いささやきに心を動かす日本軍兵士が増加した。日本軍兵士の心理にビラの主張を理解して、呼応しようとする先有傾向が培養された。日本兵捕虜は、捕獲時や収容所での適応の仕方や知恵を、日本降伏後の帰還時に日本人全体に伝播する役割を担うことになった。

 アメリカ軍の戦時情報局(OWI)はじめアメリカ軍の機関や部隊は ビラや拡声器などが投降者を促すことから、一層プロパガンダ活動に力を入れた。投降票をもってジャングルから姿を見せる兵士が増加した。投降に逡巡する多くの日本軍兵士のなかから、少数ながら自発的な投降者が現れた。さらに戦局が悪化すると、戦力が残った部隊からも奔敵する敵前逃亡者もでてきた。病気や飢餓によって動けなくなった戦傷者が、敵であるアメリカ軍につかまり捕虜となる事例が増えた。日本軍本隊から離れて寝入って、アメリカ軍側原住民ゲリラに襲われて、捕虜となる者も増えた。手榴弾やカミソリで自殺を失敗する者から投降者があらわれた。




2024年12月26日木曜日

第一次世界大戦の西部戦線にて、イギリス軍が1916年7月のベルギーとの国境近郊のフランスのフロメルの戦いで、ドイツ軍に殺害されて戦死したイギリス軍兵士の死体が塹壕の中に散乱した。

第一次世界大戦の西部戦線にて、イギリス軍が1916年7月のベルギーとの国境近郊のフランスのフロメルの戦いで、ドイツ軍に殺害されて戦死したイギリス軍兵士の死体が塹壕の中に散乱した。1916年7月19日のフロメル攻撃は、イギリス軍とオーストラリア軍が西部戦線で戦った大規模な残酷な戦闘になった。連合軍は7月1日に、大攻勢をかけるソンム方面へのドイツ軍の増援を阻止するも、大惨事となった。

 1916年7月19日夕方に、イギリス軍とオーストラリア軍は、シュガーローフの前線を占領を目指した。7月16日に開始したイギリス軍の砲撃が、ドイツ軍に侵攻を察知された。イギリス軍は7月19日に陣地に移動が、至近距離でドイツ軍に監視された。ドイツ軍はイギリス軍とオーストラリア軍の集合場所と通信塹壕に激しい砲撃を加えて、何百人もの死傷者を出した。

 他のオーストラリア軍はシュガーローフの反対側の無人地帯を攻撃した。イギリス軍の砲撃を防御したドイツ軍は機関銃を構えて攻撃して、攻撃するオーストラリア軍を壊滅させた。シュガーローフの南側を攻撃したイギリス軍も同様に壊滅した。作戦の中止が遅れ、オーストラリア軍は再び攻撃を開始して、同様に悲惨な壊滅を招いた。

 7月20日朝、ドイツ軍陣地を突破したオーストラリア軍は元の自陣へ余儀なく撤退をした。 オーストラリア軍は一晩で5,533人の死傷者を出して、史上最悪の24時間となった。その多くがドイツ軍の機関銃の餌食の犠牲になった。フロメルの戦いでの豪軍の犠牲者は、ボーア戦争、朝鮮戦争、ベトナム戦争を合計したオーストラリア軍の犠牲者数に匹敵した。フロメルの戦いは、戦術的な正当性など皆無であり、驚異的な大惨事となった。 




2024年12月25日水曜日

太平洋戦争の硫黄島の戦いにて、日本軍兵士が火山地形上の斜面で1945年2月にうつ伏せになって、自分の胸部に当てた自分の手榴弾を炸裂させて自殺した。

太平洋戦争の硫黄島の戦いにて、日本軍兵士が火山地形上の斜面で1945年2月にうつ伏せになって、自分の胸部に当てた自分の手榴弾を炸裂させて自殺した。日本軍兵士はアメリカ軍に追い詰められて、殺害されるのも降伏するのも拒否して自殺した。1945年に、アメリカ軍は中部太平洋まで侵攻して、日本軍との戦闘はますます血なまぐさくなった。硫黄島の戦いでは、海兵隊は硫黄島の火山地形に食い込んだ日本軍の粘り強い守備と格闘しながら、多大な犠牲を伴った。

 硫黄島の戦いは、マリアナ諸島と日本の間に位置する戦略的航空基地のある硫黄島で、日本軍は火山島を侵攻してくる米海兵隊の死の罠にする地下要塞のネットワークを切り開いた。1945年2月19日に米海兵隊の師団が上陸して侵攻したとき、アメリカ軍は短期間の戦闘で終わると予想した。しかし、3月26日まで日本軍は5週間以上にわたり激しい防衛戦を展開した。日本軍は洞窟やその他の拠点から、容赦ない近接攻撃をした。アメリカ軍は根こそぎ破壊して掃討した。硫黄島の大虐殺は、アメリカ軍兵士とアメリカ市民を恐怖に陥れた。連合軍は日本本土への侵攻に遥かに大きな虐殺が伴うことを恐れた。

 硫黄島の日本軍司令官であった栗林忠道将軍は、アメリカ軍の上陸を打ち破るのは不可能と認識した。その代わり、硫黄島の戦いを引き伸ばすことで、日本本土に侵攻するアメリカ軍の決意を揺るぐように長く犠牲のかかる防衛戦を展開した。海岸に致命的な砲火を浴びせる兵器を配置した。硫黄島の北部にある地下壕とトンネルで結ばれた砲陣地に兵力を集中させた。致命的な孤立主義の防衛網は、両軍に恐ろしい犠牲者を出した。

 アメリカ軍海兵隊は、硫黄島での最も血なまぐさい戦闘を、残酷な戦闘を描写して呼称した。850人近い海兵隊員が日本軍の砦を占領しては死んだ肉挽き機や、日本軍の防衛隊が最後の抵抗をした血まみれの峡谷などと呼称した。アメリカ軍上陸部隊のうち6,821人が死亡、19,217人が負傷した。約2万人の日本軍守備隊のほとんどは徴兵兵士であった。彼らは降伏を拒否して、数百人だけが捕虜になるまで粘り強く戦った。




2024年12月24日火曜日

第二次世界大戦にて1941年4月にシリアで戦闘が勃発した。シリアのサイダ近郊で死亡したヴィシー軍のセネガル兵の死体が散乱した。

第二次世界大戦にて1941年4月にシリアで戦闘が勃発した。シリアのサイダ近郊で死亡したヴィシー軍のセネガル兵の死体が散乱した。1941年10月に、フランソワ・ダルラン提督は、シリアでの功績を称え、デンツ将軍にレジオン・ドヌール勲章を授与した。

 1941年4月3日に、イラクにて民族主義者のラチッド・アリが宮殿革命を試みた。イギリスの利益に敵対する反乱を支援するために、ドイツは傀儡国家であるヴィシーにシリアの空軍基地の使用許可を求めた。フランソワ・ダーラン提督は即座に許可して、パリ議定書を5月27日から28日に締結した。3つの協定の下で、ヴィシーはイラクの反乱軍に武器を引き渡すことに同意した。ドイツ空軍にシリアの飛行場へのアクセスを認めた。ドイツ軍がビゼルタ経由でアフリカ・コルプスに援軍を送ることを許可した。ドイツ海軍はダカールで解放できた。引き換えに、ドイツ帝国は占領費用を削減し、10万人近い捕虜を釈放し、艦船の再武装を許可した。イギリス軍は軍事施設を詭弁と見なして、交渉によってイギリスはヴィシーへの迎合をやめて、武力により1941年6月から7月にシリア征服に踏み切った。

 1940年6月10日に、わずか4週間で連合軍が敗北して、フランス政府はパリからボルドーに向かった。6月22日、フランスは休戦協定に調印して、パリと北部と西部をドイツ軍に占領された。モントワールで、1940年10月24日にヒトラー総統と握手を交わしたフィリップ・ペタン元帥は、最高レベルの協力体制をスタートさせた。会議はモントワール町の鉄道駅を付近にある鉄道車両で行われた。その象徴的な会談は、プロパガンダに利用された。ペタン派は、レジスタンスの闘士たちにとり、裏切りと考えた。




2024年12月23日月曜日

ナチス・ドイツの国民啓蒙・宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッペルスの長女ヘルガ・ゲッベルスの死体は、兄弟と地下壕で1945年5月2日に発見されて、ソ連の専門家による病理解剖され、青酸カリで毒殺されたと結論づけた。

第二次世界大戦終末期に、ナチス・ドイツの国民啓蒙・宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッペルスとマグダ・ゲッペルス夫妻の長女ヘルガ・ゲッベルスの死体は、兄弟とともに地下壕で1945年5月2日に発見されて、ソ連の専門家による病理解剖されて、青酸カリで毒殺されたと結論づけた。

 ゲッペルス一家の死体発見の報告書は、1945年5月3日付の文書に要約された。1945年5月2日に、ベルリンの中心部のドイツ総統官邸の地下壕で、部分的に焼けただれた男女の死体、男性の小さな死体、金属製の義足で曲がった右足、部分的に焼けただれた死体が散乱した。死体には国家社会党員の制服の焼け跡と焼けただれた金の党員バッジ、女性の焼けただれた死体の隣には、金のタバコケース、金のNSDAP党員バッジと金のブローチが発見された。死体の頭には2丁のリボルバーがあった。5月3日には、総統官邸の地下壕の別室で、ベッドに横たわった3歳から14歳までの5人の少女と1人の少年の死体を発見した。薄手の寝間着姿で、毒殺の形跡があった。

 死体はゲッベルス博士とその妻、子供たちの死体と確認され、すべての死体は、死後に防諜部門に送られ、身元が確認された。尋問と死体検分で、死体がゲッペルスとその妻と子供たちの死体と確認した。部分的に焼かれた女性の死体からゲッベルスの妻を確認した。

 子供の死体は、ゲッベルスの子供と確認した。子供の死体の医学検査では、死因は一酸化炭素中毒と立証した。部分的に焼かれた死体、男性、女性、6人の子供は、ドイツの宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルス博士、その妻、および子供たちの死体である文書が5月3日に作成された。6人の子供たちの死体を検死した軍医が、子供たちは一酸化炭素によって中毒されたと誤り、青酸カリ中毒に気づかれなかった。脳からは青酸の臭いがし、青酸中毒が確認された。5月7日の尋問の議定書から、親衛隊の歯科医が、5月1日に子供の肘から下の腕にモルヒネを0.5ccずつ注射して眠らせ、青酸カリのアンプルを子供たち一人一人に刺した。ゲッベルス一家の死因は青酸カリによる中毒死であり、銃殺ではなかった。地下壕エリアで発見できた第一家の死体の病理学的検査で、ヨーゼフ・ゲッベルスと婦人とその子供たちと結論づけた。