2024年7月10日水曜日

アメリカ軍の第1ネブラスカ義勇軍により、カロオカンで戦死したフィリピン軍兵士の死体が散乱した。1899年2月4日に、マニラ近郊でネブラスカ歩兵第1連隊が、遭遇したフィリピン軍に発砲して、比米戦争が勃発した。

アメリカ軍の第1ネブラスカ義勇軍により、カロオカンで戦死したフィリピン軍兵士の死体が散乱した。1899年2月4日に、マニラ近郊でネブラスカ歩兵第1連隊のパトロール隊が、遭遇したフィリピン軍に発砲して、フィリピン・アメリカ(比米)戦争の最初の戦闘が始まり、一日中アメリカ軍とフィリピン軍は銃撃戦を繰り広げた。翌日、アメリカ軍は攻勢に転じ、フィリピン軍の陣地を襲撃して占領した。アメリカ陸軍省の年次報告書には、カロオカンの戦いにてアメリカ人死者5人、負傷者45人、フィリピン人死者200人、負傷者800人と記された。

 アメリカ軍は、マニラの北17kmにある重要な鉄道の中心地であるカロオカンに向かった。2月10日のカロオカンの攻略で、フィリピン軍は一歩一歩頑強に抵抗したが、アメリカ軍は銃剣を突きつけて反乱軍を追い出した。カロオカン街を放棄したフィリピン人は、町の主要部分を燃やそうと、小さな家々は炎の塊と化した。教会や市庁舎に対しては、アメリカ軍がフィリピン軍による炎上を妨害し、多くの反乱軍が捕まって捕虜となった。アメリカ軍の総進撃は午後1時に始まった。時半、市庁舎の旗頭からオールド・グローリーがそよ風に向かって振り下ろされ、カロオカンにおける反乱軍の支配は終焉した。戦火の煙が晴れると、町の住民は家が灰になり、建物は取り壊され、カサ・トリブナ、教会、修道院だけが残った。カロオカンには1万7千人の住民は、第20カンザス義勇軍が席巻して、カロオカンに現存する先住民は一人もいない。4日夜に最初の戦いがあったメイパジャ村に5千人の住民は、石一つ残っていない。

 2月22日に、フィリピン軍がマニラのアメリカ軍陣地への攻撃を開始した。2日間の戦闘の後に撤退した。その後に、戦闘中にアメリカ軍がフィリピン軍捕虜を即刻に死刑を執行るなどの残虐行為の疑惑が残った。上院フィリピン委員会が調査されたが、アメリカ軍にそれ以上の問題を追及しないことを選択した。




2024年7月9日火曜日

北朝鮮の共産ゲリラは、麗水・順天事件で装備と警備力の弱い警察官署をねらって襲撃して、警察官の犠牲も甚大であった。警察署員が殺害され無惨なる死体が散乱した。

北朝鮮の共産ゲリラは、麗水・順天事件で装備と警備力の弱い警察官署をねらって襲撃した。火力の弱い警察官の犠牲も甚大であった。麗水・順天事件の当時の警察署員が殺害されて無惨なる死体が散乱した。全羅南道は麗水・順天事件で民間人犠牲者は1万1131人と推定した。

 麗水・順天事件は、韓国政府が1945年9月6日に樹立された。1948年10月に、麗水や順天に駐留した部隊の一部が、済州島の4.3事件の弾圧に派遣する李承晩政権の出兵命令を拒否して反乱が勃発した。済州に出動する命令を受けた麗水第14連隊が、同胞虐殺はできないと拒否した。韓国では、1995年から麗水・順天事件を公式名称として使用した

 麗水・順天地域にて1948年10月19日夜に、国防警備隊14連隊内の南労党細胞組織の約40人が兵器庫を占拠した。ラッパを吹いて全隊員約2000名を整列させて反乱決起を促した。国防警備隊内にいた北朝鮮シンパの多数が歓呼して応じた。反乱に反対した者をその場で射殺した。そのために反乱軍の全部隊が反乱に同調した。反乱軍は直ちに車輌に分乗して、麗水邑の麗水警察署、麗水郡庁などを占拠して、約100人の警察官、約500人の民間人を殺害した。暴動を鎮める警察官、公務員、地主らは捕らえて処刑された。警察署に収監されていた政治犯を解放して、彼らの案内でその町から警察官の他、李承晩派の韓民党員、右翼団員などを次々に捜し出し射殺した。数日間のうちに、警察官は約100人、李承晩派の市民らは約500人が、反乱軍に殺害された。

 1週間後に韓国軍は反乱軍鎮圧して、その過程で439人から2000人の民間人を殺害した。李承晩を大統領と認めない将校を弾圧して、1948年には18人の将校と1,693人の下士官、1949年には224人の将校と2,440人の下士官が兵役を打ち切られた。李承晩政権は、1948年12月1日国家保安法を制定し、社会全体を弾圧した。








2024年7月8日月曜日

第二次世界大戦の東部戦線のバルバロッサ作戦中にブリャンスクの戦いで、ブリャンスクの森でドイツ軍兵士が殺害された。戦死したドイツ軍兵士の死体が、荒野に散乱した。

第二次世界大戦の東部戦線にて、バルバロッサ作戦中にブリャンスクの戦いにて、ブリャンスクの森でドイツ軍兵士がソ連赤軍に殺害された。戦死したドイツ軍兵士の死体が、荒野に散乱した。ドイツ軍に包囲されたソ連赤軍部隊は戦闘を続けて、ドイツ軍のモスクワへの侵攻を約2週間遅らせて、厳寒の冬期が到来した。ドイツ軍がソ連軍の陣地の破壊に伴う死傷者の犠牲が、危機的状況の首都モスクワの門前でドイツ軍が崩壊する一因となった。

 ブリャンスクの戦いが1941年10月2日-21日に勃発した。ブリャンスク州で、モスクワ攻略戦の一環として戦闘した。ウクライナのキエフ攻略から帰還したドイツ国防軍は、予想外の方向かソ連軍を攻撃てし、ブリャンスクとオリョールをほとんど死傷者を出さずに占領した。ドイツ軍は、ソ連軍の第3軍と第13軍の2つの陣形を包囲して、 さらに第3のソ連軍の第50軍が、ブリャンスクの北でドイツ軍第2軍の歩兵に包囲された。この戦闘の結果、ドイツ軍はスモレンスク作戦の一環として1943年9月17日にソ連赤軍によって追放されるまでブリャンスクを占領した。ブリャンスクの戦いで、ドイツ軍は48,000人の死傷者 ソ連軍は100,000人が戦死して、600,000人が捕虜となった。

 カラシニコフ銃を開発したミハイル・カラシニコフは、ブリャンスクの戦い中に戦傷したが、歩いて病院にたどり着き手当てを受けた。負傷から回復する間に、カラシニコフはソ連からドイツ軍を追い出すマシンガンの開発に夢中になった。カラシニコフ銃は、人類史上最も多くの人を殺した武器となった。ソ連で密かに生まれ、誰でも簡単に扱え、故障知らずで、1丁10ドルから手に入り、世界中に広がった。ベトナム戦争でも、アフリカ内戦でも、テロでも、カラシニコフ銃が使用された。ミハイル・カラシニコフ自ら罪を否定し続けた。死後に、彼が教会に送った手紙に、「心の痛みは耐え難い。私の銃は人々の命を奪った。たとえ敵にわたった銃であっても、『人々の死への罪』は、私にあるのだろうか。」今なおカラシニコフ銃による殺し合いの連鎖は止まらない。




2024年7月7日日曜日

ウクライナのスロビアンスク地方の前線で横たわり既に腐敗して白骨化したロシア兵の遺体を、ウクライナ死体回収部隊が2023年10月24日に戦死体を一体ずつ検死した。

ウクライナのスロビアンスク地方の前線で横たわり既に腐敗して白骨化したロシア兵の遺体を、ウクライナ死体回収部隊が2023年10月24日に検死した。ロシア・ウクライナ戦争の真の犠牲者は死体である。死体を回収するウクライナ部隊は、戦死体を一人ずつ検死した。戦死したロシア軍兵士の死体は冷凍トラックに積み込んだ。

 ドンバス戦争にてスロビアンスク包囲戦が、2014年4月12日から2014年7月5日に勃発した。スロビアンスクがロシアからの支援を受けた分離主義派が、4月7日にドネツク人民共和国がウクライナからの独立を宣言した。ウクライナ軍とドネツク人民共和国軍の3ヶ月にわたる激しい戦闘の後に、親ロシア派の反乱軍がドネツクに退却して、ウクライナ軍はスロビアンスクを7月5日に奪還した。スロビアンスクはドネツク州の都市であり、ドンバス地域の北部であ。第二次世界大戦時には、ドイツ軍兵士やソ連軍兵士の死体で埋め尽くされた。

 ロシア・ウクライナ戦争が2022年2月24日に始まって以来、5万人以上のロシア軍人がウクライナで戦死したと、BBCは独自の調査に基づいて2024年4月17日に報告した。これはロシア軍が公式に認めた戦死者数の8倍以上である。 BBCはロシア軍の兵士の配置方法をミンサー戦術と呼称した。

 ロシア・ウクライナ戦争の開戦以来に、ロシアの独立系ニュースメディアの『メディアゾナ』と『BBCロシア』は、ボランティアとともに戦死者数を調査した。そのために、公式報告書、ソーシャルメディア、新聞報道などの公的資料を解析した。ロシアの墓地にある墓石を調べることで、多くの軍人の名前を確認できた。調査団は、すべての死体の出所を突き止めることができないために、絶対的な戦死者数はさらに多くなる。ウクライナ東部のロシア軍の占領地域であるドネツクとルハンスクで戦死した軍人も含まれていない。

 ロシア軍もウクライナ軍も、戦争の犠牲者の規模はほとんど明らかにしない。ウクライナのヴォロディミル・ゼレンスキー大統領は2024年2月に、31,000人のウクライナ軍人が死亡したと発表した。これまでの分析では、ウクライナ軍はもっと多くの犠牲者が出たとされた。















Warning: Oleksii Yukov examines the body of a Russian soldier he collected on the frontline in the Sloviansk region, Ukraine, Oct. 24, 2023. (AP Photo/Bram Janssen)

2024年7月6日土曜日

広島原子爆弾の被爆者は、広島における原子爆弾による被害と廃墟の中で、仮設の病院として使用されていた勧業銀行ビルに居住していた。

    

    非公開の日本原爆被爆者の写真

ーアメリカ軍原爆調査団ー

アメリカ国立公文書館 2024年2月22日

(The National Archives College Park, Maryland) 

SC-473738






















TR 15624

U.S.NAVY  No.473737

SC-473738   Sept. 1945

SUBJECT:

CAPTION:

NAVY PHOTOGRAPHER PICTURES SUFFERING AND RUINS THAT RESULTED FROM ATOM BOMB BLAST IN HIROSHIMA, JAPAN.

VICTIMS LIVE IN BANK F BUILDING, SERVING AS HOSPITAL.

LOCATION: HIROSHIMA JRPAN

PHOTOGRAPHER:MILLER, WAYNE, LT. 

TAKEN BY (UNIT)

LOCAL NO: TR 15624

CLASSIFICATION: RELEASED


TR 15624

U.S.NAVY No.473738

SC-473738 1945年9月

件名

キャプション

海軍カメラマンが撮影した広島における原子爆弾による被害と廃墟であった。

広島原爆の被爆者は、仮設の病院として使用されていた勧業銀行ビルに居住していた。

撮影地:広島

撮影者:ミラー、ウェイン、LT. 

ローカルナンバー:TR 15624

分類:リリース


2024年7月7日  
Japan No War  (JNW)
日本平和市民連盟  
閲覧回数 700,000    (投稿数 2,877)

2024年7月5日金曜日

1921年の中国北部の深刻な干ばつによって、数万人の子供が餓死した。農民の子供たちが、道端で餓死して、死体が散乱した。途中で餓死した者は、誰も埋葬されなかった。死体は荒野にさらされていた。

1921年の中国北部の深刻な干ばつによって、数万人の子供が餓死した。農民の子供たちが、道端で餓死して、死体が散乱した。村や町の人影もまばらで、朽ち果てた状態の家屋が立ち並んでいた。飢饉から逃れてきた難民は最低限の生活を維持することもできず、逃げ回った。高齢者、病人、障害者、子供たちの生命はさらに不安定となった。統計によると、1921年5月中旬までに12,377人の子供が餓死した。人身売買された人の数は約5,057人であった。その料金は安く、子供1人につき最低1元から最高50元であった。

 1921年5月中旬までに、張作霖による中国東北部3省を統合して豊かにする政策を是正する武装政策の結果として、子供たちらが餓死した。1921年5月19日付の『宣言』によると、1921年の春以降に、干ばつが続いた結果、中国北部の飢饉が深刻化した。唐山、内連など5県の飢饉は特に深刻となり、子供が1元で人身売買された。どこに行っても、行く先々で木の樹皮を剥がされて、きれいに食べられた。途中で餓死した者は、誰も埋葬されなかった。死体は荒野にさらされていた。野原では、収穫物は枯れ果て、緑の跡形もなかった。

 1920年から華北地方で発生した干ばつにより、被災者約2000万人、犠牲者約50万人の華北大飢饉が勃発した。広大な地域の農村が大飢饉に陥った。中国が政治的に統一されず、地方に軍事政権が介在していた。北京政府内部では、1920年7月14日から7月19日に大飢饉の被災地を舞台として、直皖戦争が勃発した。他方で広東軍政府も分裂していた。中国の北京政府の主導権を巡って、華北地方で安徽派の段祺瑞と直隷派の曹錕が戦った。直皖戦争で安徽派は大敗して、段祺瑞の政権は崩壊した。直隷派(曹錕)と奉天派(張作霖)が、結局政権の主導権で内部対立して、1922年4月の第一次奉直戦争で、直隷派が奉天派を破って直隷派の単独政権を樹立した。1924年9月15日の第二次奉直戦争で、張作霖は北洋政府を掌握した。1928年6月4日に、日本の関東軍が満州を支配するために張作霖爆破事件で暗殺した。




2024年7月4日木曜日

第二次世界大戦のイタリア戦線のサレルノの戦いで、グリーンビーチのフォックスホールに連合軍兵士の死体が散在した。アメリカ軍第5軍の埋葬部隊の2人が、軍用毛布で覆われた仲間であった戦死した兵士の死体のそばで、その労苦を一時中断した。

第二次世界大戦のイタリア戦線のサレルノの戦いで、最も暑い場所であるグリーンビーチのフォックスホールに連合軍兵士の死体が散在した。日が暮れる頃に、アメリカ軍第5軍の埋葬部隊の2人が、軍用毛布で覆われた仲間であった戦死した兵士の死体のそばで、その労苦を一時中断した。その背後では、疲労困憊したもう一人の仲間が、戦闘の余波の中で眠っていた。

 連合軍の主侵攻部隊はアバランチ作戦の一環として1943年9月9日にサレルノのイタリア西海岸に上陸した。サレルノからのイタリア本土侵攻の際に、ドイツ軍から砲撃を受けながら、アメリカ軍とイギリス軍の部隊と戦車が上陸した。サレルノの戦いはアバランチェ作戦の舞台となり、連合軍によって開始され、イタリア侵攻作戦で大きな被害を被った。9月9日から9月18日の約1週間の戦闘の結果、連合軍の損害は戦死者2,349人、戦傷者7,366人、行方不明者4,100人という大惨事となった。ドイツ軍は、戦死者840人、戦傷者2,002人の犠牲者となった。

 1943年9月9日にアバランチ作戦の開始とともに、アメリカ軍はナポリ近郊のサレルノで歩兵上陸用船艇(LCI)で上陸した。ドイツ軍により戦車揚陸艦(LST)が攻撃された。ドイツ軍の88砲弾がサレルノの海岸で煙と水煙を上げた。その中で、兵員上陸用船艇(LCVP)が海岸に向かって、連合軍の巡洋艦と駆逐艦が火力支援に入った。イタリア軍は侵攻の前日の9月8日にサレルノから撤退したが、連合軍はドイツ軍が守る地域に上陸した。サレルノ上陸作戦は、事前の艦砲射撃や空爆なしに奇襲したが甚大な犠牲を伴った。9月12日から14日に、ドイツ軍は6個師団の機動部隊による総力反撃をして、連合軍の兵力は薄く分散して、集中攻撃には対抗できず甚大な死傷者を出した。9月13日から、アメリカ軍は重火器を投入し始めて、ドイツ軍に死の雨を降らせ、ドイツ軍の攻勢の回復を阻み、サレルノのビーチヘッドを粉砕して奪還した。




2024年7月3日水曜日

第一次世界大戦の西部戦線にてサン=ミヒエルの戦いでコンブルの丘で、戦死したアメリカ陸軍のブラントン・バレット大尉の死体を、1994年7月22日にドイツ軍はフランスのヌルテ=エ=モーゼルに埋葬した。

第一次世界大戦の西部戦線にて、アメリカ陸軍のブラントン・バレット大尉の死体を、1994年7月22日にドイツ軍はフランスのヌルテ=エ=モーゼルに埋葬した。ブラントン・バレット大尉のポケットから発見されたカードには、バレット大尉夫妻にキャロラインという娘が生まれたことが記されていた。カードは、ブラントン・バレット大尉の死体の身元確認に使われた。

 ブラントン・バレット大尉は、1918年4月3日にフランス北東部のサン・ミエルに位置するコンブルの丘にて戦死して、第一次世界大戦の犠牲者となり、ゴールドスター勲章を授与された。多数に散乱する地雷クレータ等に埋もれて行方不明となった。ドイツ軍が1918年7月にコンブルの丘で発掘した。その時には、ブラントン・バレット大尉の死体は腐敗して無残な遺体となっていた。コンブルの丘には、点在する爆弾や大砲のクレーターが散在した。第一次世界大戦の中でも、最も激しい戦闘が4年間行われた戦場の一つであった。

 第一次世界大戦の間、フランス北東部のサン=ミヒエルは1914年にドイツ軍によって占領された。1918年9月12日から19日までアメリカ遠征軍(AEF)によってサン=ミヒエルの戦いの間に奪還された。1918年9月12日、フランスのヴェルダンの南東で、最初のアメリカ軍主導の攻撃を開始した。アメリカ軍指揮下で組織されたアメリカ軍兵士50万人の第一軍とフランス軍4個師団)を、ドイツ軍が約4年近くサン・ミヒエル町周辺を占領した陣地を攻撃した。三方から正面攻撃を仕掛けたアメリカ軍は、ドイツ軍が撤退している最中に攻撃した。ほとんどドイツ軍の抵抗は少なく、アメリカ軍は約7,000人の死傷者、ドイツ軍は約17,000人の死傷者を出した。9月16日、アメリカ軍の攻撃は勝利に終わった。




2024年7月2日火曜日

太平洋戦争中の1945年1月21日に空母ハンコックの格納庫甲板にて、不幸な事故の犠牲者で死亡した10数名に対して海洋集団埋葬を執行した。アメリカ軍のUSSハンコックの乗組員たちが黙祷を捧げた。

太平洋戦争中の1945年1月21日に空母ハンコックの格納庫甲板にて、不幸な事故の犠牲者で死亡した10数名に対して海洋集団埋葬を執行した。アメリカ軍のUSSハンコックの乗組員たちが黙祷を捧げた。1月23日午後には7人の将校と43人の下士官の太平洋に海洋集団埋葬式がデッキ甲板上で執り行われた。

 太平洋戦争にて1945年1月21日に、アメリカ軍のUSSハンコック艦内で、航空機が着艦して、アベンジャー魚雷機の格納庫にあった爆弾を武装する直前に、装着して爆弾が落下して爆発した。パイロットに再装填するために爆弾倉を開ける合図をして、未使用の爆弾が甲板の爆弾庫に落下して猛爆発した。爆発から数秒後には、飛行甲板には死傷者が散乱した。消防隊員は急行して燃え盛る残骸にホースラインで消火した。爆発で機体の破片と破片が四方八方に飛び散った。飛んできた破片で身体が裂けた死傷者に、防護服を着用した隊員が応急処置を施した。墜落後に、素早く反応した隊員たちは、燃え盛り猛暑の飛行機を取り囲み、残骸に泡をかけて沈下した。

  航空機が空母の艦橋の横の地点に到達したときに、激しい爆発が発生した。アメリカ軍兵士の死者62人、重態者46人、重傷者25人、軽傷者20人に達した。飛行甲板には3m×4.8mの穴が開いた。爆発付近の甲板エリアは取り壊され、機内側の信号ブリッジは大破した。航空機3機が破壊された。艦橋の構造物全体に多数の榴散弾の穴がある。飛行甲板、回廊甲板、格納庫甲板から火災が発生した。

 USSハンコックの飛行甲板には残骸が散乱し、約227kgの爆弾が爆発した直後には、無線アンテナに飛行機の破片がぶら下がった。事故は事実上、日本軍の攻撃ではなく、日本軍の攻撃に先立つ警告はなかった。死傷者は迅速に送還されて応急治療を受けた。火災は鎮火した後にし、飛行甲板はすぐに修復され、通常の運航が再開された。




2024年7月1日月曜日

レニングラード包囲戦で、約100万3000人が死亡して、飢えと厳寒の中で、特に食料の配給を絞られた幼弱な幼児が死亡した。レニングラード住民である母親は、その死体の側でうつ伏せになり、嘆き悲しんで、慟哭した。

第二次世界大戦の東部戦線にて、ドイツ軍による約900日間にわたるレニングラード包囲戦で、100万3000人が死亡した。飢えと厳寒の中で、レニングラードの幼弱な幼児は死亡した。母親は、その死体の側で、ロシア人の母親が、嘆き悲しんで、慟哭した。特に子供、高齢者、失業者は、食料の配給を絞られた。

 1941年9月8日から1944年1月27日の872日間にわたりレニングラードはドイツ軍に包囲された。極限状態に陥ったレニングラードは、廃墟の中、爆発する爆弾の中、大砲の砲撃の中てぜ、寒さと飢えに毎日さらされながら、住民は必死に生きていた。生死が一切れのパンよりもありふれた。死体が無蓋のままソリに乗せられて引きずられた。絶対に必要でないものはすべて消滅した。戦前は当たり前であった熱い炊飯器の食事、燃え盛る明かり、開いた窓さえも、突然に、消え去った。絶えず電気、水道、暖房の問題が発生して、住民はあらゆる物を食べて文字通り生き延びた。暖をとるために本や家具を燃やし、凍ったネヴァ川の氷の中で水浴びをして、壁紙の糊でスープを作った。

 レニングラードの封鎖は900日間にも及び、コムソモリスカヤ・プラウダの写真家と記者であったボリス・クドヤロフは、900日間にわたり、レニングラードの市民とともに生き、苦しみ、戦った。包囲された街の近くでの戦闘や、通り、工場、学校、アパートでの日常生活を撮影した。開戦初日にモスクワからレニングラードへ送られた。空の旅が中断され、ヴォログダ経由の列車とラドガ湖周辺の迂回路で移動した。その時、レニングラードは警戒態勢にあり、ドイツ軍の進攻を待ち構えた。レニングラード包囲戦と防衛戦、家族、女性、子供たちの苦しみを撮影したソ連のユダヤ人であるクドヤロフは、3000枚もの写真を撮影した。

 1941年は最悪の年で、何百万人もの難民がバルト三国から逃れて、レニングラードに押し寄せた。ドイツ軍はレニングラードを封鎖して、食料と弾薬の唯一の補給路はラドガ湖の向こう側に続いた。ラドガ湖を横断する補給路は、命の道(ドロガ・ズィズネ)と呼称された。夏は水の上を、冬は氷の上を通った。一日のパンの配給量は、一人当たり85グラム強に設定された。




2024年6月30日日曜日

イスラエル軍によるラファ人道回廊の閉鎖で、ガザ地区の13歳のパレスチナ人少年が、デイル・アル=バラにあるアル・アクサ病院で2024年5月31日に栄養失調で餓死した。

イスラエル占領軍によるラファ人道回廊の閉鎖によって、ガザ地区の13歳のパレスチナ人少年が2024年5月31日に餓死した。戦争で荒廃して閉鎖されたガザ地区の人道的危機が悪化した。パレスチナの公式通信社(WAFA)の報道によると、子どもはアブドゥル・カーダー・アル・サルヒで、デイル・アル=バラにあるアル・アクサ病院で栄養失調により餓死した。

 ラファの医療情報筋によると、イスラエル占領軍の侵略が南部の都市ラファで継続しているため、ガザ地区での栄養失調と脱水症状による死者は37人に上った。ガザ地区の悲惨な健康状態はさらに悪化した。ガザ地区全域の病院が機能停止に陥り、必要な医療を提供できなかった。病院に届けられた帰省者数を反映したもので、何十人もの人々が飢饉で、病院にたどり着けずに餓死した。

 イスラエル軍によるガザ地区封鎖によってミルクと医薬品の深刻な不足が生じた。同様に5月30日にガザ中心部で生後7ヶ月のファイズ・アブ・アタヤが餓死した。父親がデイル・アル・バラのアル・アクサ病院でわが子の死を悼む中、ファイズは父親に担がれ、剥き出しの骸骨のような生気のない体で暴れていた。

 人道支援物資の輸送に不可欠なラファ国境を閉鎖し続けるイスラエル軍が危機を悪化させ、何千人ものパレスティナ人々が食料、水、医薬品を入手できない。ラファは、5月6日からイスラエル軍が侵略を拡大させ、パレスチナ側から人道回廊の管理権を奪った。援助物資の滞留は、エジプト側の国境と、ラファから西におよそ45km離れたアルアリシュの町を結ぶ道路にたまった。国連によると、5月5日以降に、ラファを経由して移動した車両はなく、隣接するイスラエル国境のカレム・アブ・サレム交差点を通過した車両はわずかである。



















Warning: Palestinian child Abdul Qader al-Sarhi's body at the morgue of al-Aqsa Hospital in Deir al-Balah, occupied Parestine, on May 31, 2024. (Social Media: Ashraf Amra/Anadolu)

2024年6月29日土曜日

広島原子爆弾の被爆後の1945年9月に、看護助手が銀行ビルの間に合わせの病院の廃墟で頭部に火傷の被爆をして布団に伏した子供に手当をして、母親が見守った。

 


    非公開の日本原爆被爆者の写真

ーアメリカ軍原爆調査団ー

アメリカ国立公文書館 2024年2月22日

(The National Archives College Park, Maryland) 

SC-473737



















TR-15623

U.S.NAVY  No. 473737

SC-473737 Sept.1945.

SUBJECT:

CAPTION:

NAVY PHOTOGRAPHER PICTURES SUFFERING AND RUINS THAT RESULTED FROM ATOM BOMB BLAST IN HIROSHIMA, JAPAN.

NURSE'S AIDE AND MOTHER ADMINISTER AID TO VICTIM IN MAKESHIFT HOSPITAL IN BANK BUILDING.

LOCATION: HIROSHIMA, JAPAN

PHOTOGRAPHER:MILLER, WAYNE, LT.

TAKEN BY (UNIT)

LOCAL NO: TR 15623

CLASSIFICATION RELEASED


TR-15623

アメリカ海軍 第473737号

SC-473737 1945年9月 

件名

キャプション

海軍カメラマンが広島での原爆による被害と廃墟を撮影。

看護助手と母親が銀行ビルの間に合わせの病院で被害者に手当をする。

撮影地:日本、広島

撮影者:Miller, Wayne, lt.

現地番号:TR 15623

分類:公開

2024年6月28日金曜日

1970年5月9日に、ベトナム戦争中にカンボジアに侵攻入するアメリカ軍の装甲兵員輸送車と乗組員が、道端で死亡して散乱した2人の民間人の死体の脇を見詰めて通過した。

1970年5月9日に、ベトナム戦争中にカンボジアに侵攻入するアメリカ軍の装甲兵員輸送車と乗組員が、道端で死亡して散乱した2人の民間人の死体の脇を見詰めて通過した。カンボジアは中立国だったが、ベトナムで戦う共産主義勢力の聖域として長い間機能していた。南ベトナム軍のベトナム共和国陸軍(ARVN)とアメリカ軍は1970年春に、共産主義者の拠点地域を破壊し、ガンボジアの「北ベトナム化」を阻止するためにカンボジアに侵攻した。

 ベトナム戦争が継続中の1970年3月18日に、カンボジアのロン・ノル首相兼国防相が、パリに滞在中のノロドム・シアヌーク王子に対するクーデターを起こした。ロン・ノルはアメリカと同盟を結び、ベトナム人民軍(PAVN、北ベトナム軍)と南ベトナムの共産主義組織のベトコン(VC、ベトナム共産軍)をカンボジアからの撤退を要求した。

 シアヌークビル港からベトナム民主共和国(DRV、北ベトナム)の補給活動を閉鎖し、南ベトナム国内のPAVNとVC軍に供給するホーチミンルートを閉鎖した。ロン・ノルはその後、カンボジア国境3県にいる推定4万~6万のPAVN軍に対し、絶望的に弱体のカンボジア軍を派遣した。アメリカはカンボジア軍に装備を提供し、10万人以上の兵員を抱えるも、共産主義勢力に都市部に追いやられた。

 1970年4月14日から20日に、ベトナム共和国陸軍(ARVN、南ベトナム軍)は、国境を越えた数個大隊の作戦を展開して、共産主義者の主要な補給物資貯蔵庫を押収した。ベトナム人民軍(PAVN、北ベトナム軍)とベトコン(VC、ベトナム共産軍)部隊は、カンボジア内陸部に撤退した。カンボジア国内に最大約30kmまで、約5万人の南ベトナム軍(ARVN)と3万人のアメリカ軍が参戦した。アメリカ地上軍は6月30日までにカンボジアを撤退した。南ベトナム軍(ARVN)は1971年まで残り、数十万人の新たなカンボジア難民を生み出した。1970年4月29日から7月22日のカンボジア侵攻で、南ベトナム軍は638死亡して、アメリカ軍は338人死亡して、共産主義勢力は約11,369人が死亡した。




2024年6月27日木曜日

南京大虐殺により、武装解除された国民党軍の中国人兵士は、日本軍によって南京市郊外で両手を後ろ手に縛られた状態で殺害された。その後に池に投げ込まれて、300人以上の死体の血で池は満たされた。

南京大虐殺により、武装解除された国民党軍の中国人兵士は、日本軍によって南京市郊外で両手を後ろ手に縛られた状態で殺害された。その後に池に投げ込まれて、300人以上の死体の血で池は満たされた。大虐殺の後、日本軍兵士は虐殺を隠すために、死体を池や川に投げ捨てたり、焼いたり埋めたりした。

 南京の上新河地区では捕虜や逃亡中の民間人の死体が野原に散乱して、血の川が見られた。日本軍は数百人を逮捕した後に、中国人を一人一人検閲して、約300人以上の国民党軍の兵士とされた全員が連れ出され機関銃で射殺され、死体は池に投げ込まれて、水西門には五つの穴の橋があり、死体が二つの橋の穴を埋めた。南京の街は死体で埋め尽くされ、滔々と流れる長江には多くの犠牲者の死体が漂流した。

 日中戦争中に、中国東部の南京で日本軍によって中国人が虐殺されて、中国人の死体が散乱した。南京大虐殺は、日中戦争中の日本軍による中国占領を通じて行われた残虐行為の中で、最も残忍で野蛮な虐殺であった。1937年12月13日に、日本軍が侵攻して初めて南京を占領した。日本軍によって計画、組織化され、意図的に実行された約6週間にわたる破壊、略奪、虐殺が勃発した。無防備な市民や非武装の兵士を含む30万人以上の中国人が殺害され、無数の強姦、略奪、放火が示唆された。南京での略奪と大量処刑により、南京城内では略奪、強姦、殺人、騒乱が勃発した。

 さらに数百人の武装解除された国民党軍兵士が、射殺されるために南京地域から連れ出された。南京の霞湾への道は、国民党軍の軍備の残骸と死体が散乱した野原と化した。南京通信省は国民党軍により放火されて、南京の長門は砲撃された。長門の外には中国人の死体の山がある。日本軍は中国人の死体を片付けない。紅卍字会も死体の処理を禁じられて手を挙げなかった。日本軍に武装解除された中国人兵士は、あちこちで処刑が行われた。南京陸軍省の兵舎の外では機関銃で中国人兵士は処刑された。




2024年6月26日水曜日

太平洋戦争にて、アメリカ軍のサイパン島の侵攻作戦で、多数の日本軍兵士の死体が近くに散乱する中で、アメリカ軍海兵隊員は、下り坂で日本軍兵士を狙撃した。

太平洋戦争にて、アメリカ軍のサイパン島の侵攻作戦で、多数の日本軍兵士の死体が近くに散乱する中で、アメリカ軍海兵隊員は、下り坂で日本軍兵士を狙撃した。日本軍兵士の死体を横目に、アメリカ軍第2師団の海兵隊員が、M1カービン銃を構えて、マーピ山に侵攻中にサイパン島で後退する日本軍兵士を狙撃した。アメリカ軍海兵隊は、日本軍兵士の死体に囲まれながら、サイパン島の西側の海岸に向かって侵攻中に、日本軍の陣地に向けて砲撃を浴びせた。

 1944年6月15日朝からのサイパン島へのアメリカ軍の上陸を阻止できなかった日本軍は、島を支配する山、タポチャウ山に撤退した。サイパンの中心に位置するタポチャウ山は、約1,550フィートの高さを誇るサイパン島の最高峰である。集中的な戦闘の中で、アメリカ軍は高台のほぼ難攻不落の位置から日本軍の防衛陣地を徐々に追い詰めていった。戦闘が激しさを増す中で、アメリカ軍部隊は、大きく露出した谷間を横切って日本軍の陣地を攻撃した。この「デスバレー」と呼称された谷間の地域は、尾根に囲まれており、防御が万全で重武装した日本軍兵士が、近づいてくるアメリカ軍兵士を直接に発砲してきた。アメリカ軍海兵隊は、この尾根で多くのアメリカ兵が負傷したことから、この尾根を「パープルハート・リッジ」と呼称した。険しいジャングルの中を戦い抜き、アメリカ軍海兵隊は6月末までについにタポチャウ山を制圧した。日本軍はさらにサイパン島北方にの撤退を余儀なくされて、サイパン島の戦いの転換点となった。

 7月初旬までに、日本軍部隊は、サイパン島の北部に撤退し、アメリカ軍に包囲された。7月6日早朝、最終的な「バンザイ!」と叫ぶ推定4,000人の日本兵が、タナパグ港近くのアメリカ軍陣地に向かって万歳攻撃した。日本軍兵士は至近距離の白兵戦で全滅して、アメリカ軍兵士は1000人以上が死傷した。7月9日に、アメリカ軍はサイパン島を制圧した。残酷な3週間のサイパン島の戦いで、3,000人以上のアメリカ軍戦死者と13,000人以上の戦傷者を出した。日本軍側は少なくとも27,000人の兵士が戦死したと推定された。アメリカ軍に殺されると警告する日本軍のプロパガンダに怯えた何千人ものサイパン市民が、サイパン島の北端の高い崖から飛び降り自殺した。