2024年5月4日土曜日

ロシア・ポーランド戦争にて、ウクライナの首都キエフに侵攻するポーランド軍は、1920年4月7日にボリシェヴィキのロシア軍を攻撃して、ポーランド北東部のベイ・グロドノでロシア軍兵士を殺害して、戦死したロシア軍兵士の死体が戦場に横たわった。

ロシア・ポーランド戦争にて、ウクライナの首都キエフに向けて侵攻するピウスツキのポーランド軍は、1920年4月7日にボリシェヴィキのロシア軍を攻撃した。ポーランド軍が反撃中にポーランド北東部のベイ・グロドノでロシア軍兵士が殺害された。戦死したロシア軍兵士の死体が戦場に横たわった。

 ヨゼフ・ピウスツキ(1867-1935)によって、ロシア軍を追放するためにポーランド軍団がガリシアに設立された。ピウスツキのポーランド軍団は、ロシアの支配から祖国ポーランドを解放するために、ドイツ軍とオーストリア軍に対して武器を取った。ピウスツキのポーランド軍団はガリシア作戦の最前線に立ち、戦闘ではロシア地域に最初に侵入した。

 第一次世界大戦後のブレスト=リトフスク条約後に、ロシア軍からポーランドは解放された。ヴェルサイユ会議の条件に従って、ポーランドは単一政府を樹立した。ポーランド共和国の初代大統領はヨゼフ・ピウスツキとなった。ピウスツキは長年に抑圧されたロシア(現ソ連)との国境を越えて、ポーランドの反撃は1919年2月9日から始まり、広大な領土を軍事占領した。

 ピウスツキは、ポーランドとソ連の間に2つの緩衝国として、ミンスクを首都とする白ロシアと、キエフを首都とするウクライナを想定した。1920年4月7日に、ポーランド軍はアタマン・ペトリュラ率いる独立コサック軍を支援しながら、ウクライナの首都キエフに進軍して、同市を征服した。その後にキエフは、ソ連赤軍のブディエンヌイのコサック騎兵隊が奪還した。ソ連軍の大部分に続いてコサック騎兵隊はリヴォフに照準を合わせた。「反プロレタリア戦争」の偏見から、ポーランド軍は西欧諸国から妨害を受けた。1920年8月13日までに、ロシア軍はポーランドの首都ワルシャワに迫った。

 ロシア軍の大砲がワルシャワ郊外で炸裂した。ポーランドの若い農民、学生、女性たちは志願兵として、死傷者を乗せた路面電車が横切る中で、ロシア軍の侵略者に対して熱狂的に抵抗して、ついにポーランド国軍が反攻を開始した。シコルスキ将軍は予備軍を北からソ連赤軍の右翼を攻撃した。ピウスツキ元帥は義勇軍をソ連赤軍の南から左翼を攻撃した。奇跡的に、ソ連赤軍は解散して、ロシア軍は混乱して国境に向かって逃走した。シコルスキはリトアニアに侵入し、ヴィリニュスを占領した。

 休戦協定は1930年10月に調印された。ポーランドは、ヴォルヒニア、ポレジエ、ポドリアをポーランドを併合した。ソ連はウクライナとベラルーシを併合し、ソビエト共和国に編入した。しかし、ワルシャワ政府が編入した地域は、常にトラブルの種となった。紛争は、奪還を渇望するソ連によって煽られ、1939年末にヒトラーのドイツ軍とソ連軍によりポーランドを分割する際にポーランドは占領された。




2024年5月3日金曜日

1946年8月28日にヒンドゥー教徒とシーク教徒が多く住むカルカッタのボワニポールでカルカッタ暴動が起きた。特にイスラム教徒の犠牲者が多く、死体が十字路に横たわり、鳥が群がり、何日間も路上に放置された。

1946年8月28日にヒンドゥー教徒とシーク教徒が多く住むカルカッタ南部のボワニポールでカルカッタ暴動が起きた。特にイスラム教徒の犠牲者が多かった。その死体が十字路に横たわり、死体に鳥が群がった。死体は何日間も路上に放置されて、その周りに命が流れ出て喪失した。地域の住民の人々の生活は継続していた。

 1946年8月16日にインドでカルカッタ暴動が勃発して、直接行動の日と呼称された。ムスリム連盟のムハンマド・アリー・ジンナーは、ムスリムのイスラム教徒による全国的な抗議行動を呼びかけた。1946年にインド指導部への権力移譲を計画する内閣訪印団は、中央、州グループ、州別という3層構造を提案した。その構造では、州グループにムスリム連盟のムスリム多数派地域における独立国家の要求を受け入れた。ジンナーと同僚たちは、インド国民議会派がこの計画に不誠実と疑って、1946年7月にムスリム連盟は計画への同意を撤回した。ジンナーは8月16日にゼネストを呼びかけて、インドのイスラム教徒に独立した祖国を求める要求を押し通した。大規模な暴動はカルカッタのみで、72時間以内に約4,000人以上が死亡し、約10万人の住民が家を失った。8月17日の日中に、最悪の虐殺が行われた。ヨーロッパ人が攻撃されず無傷であった。

 カルカッタをはじめとする当時の未分割ベンガル地方で大規模な共同体の暴動が発生した。それからインドはわずか約11週間で分割されて、ヒンドゥー教徒が多数を占めるインドとイスラム教徒が多数を占める東西のパキスタンの独立国家が誕生した。何百万人ものイスラム教徒が西パキスタンと東パキスタン(現在バングラデシュ)に移住した。何百万人ものヒンズー教徒とシーク教徒がインドの新しい国境を越えて移動して、史上最大規模の集団移住となった。




2024年5月2日木曜日

湾岸戦争にてカフジの戦いで、1991年2月1日にカフジ中心街でサウジアラビアとカタール首長国部隊に殺害されたイラク軍兵士の死体が、路上にうつ伏せで横たわった。

湾岸戦争にて、1991年2月1日にカフジ中心街に殺害されたイラク軍兵士の死体が、路上にうつ伏せで横たわった。カフジの戦いは、湾岸戦争の最初の地上戦で、イラク軍兵士の死者は約300人に達した。

 1991年1月29日から、サウジアラビアの海岸沿いのカフジ郊外をめぐる激しい戦いは、アメリカ軍の砲撃と空爆に後方支援されたサウジアラビアとカタール首長国の部隊が、イラク軍と戦車を退け、アメリカ軍海兵隊の偵察隊2チームの12人を2月1日正午頃にカフジから解放した。

 1月17日の湾岸戦争の開戦以来、ペルシャ湾に面した人口4万5000人の町カフジは放棄され、建物はサウジアラビア海兵隊の形ばかりの守備隊が防衛した。イラク軍の湾岸戦争の大規模な地上戦で、カフジが約400から600人のイラク軍と40から45台の戦車に制圧された。12人の海兵隊偵察隊は1月29日夜以来、カフジに閉じ込めらた。イラク軍兵士は装甲兵員輸送車で機関銃を構えて、イラク軍は非常に速く進撃した。

 アメリカ軍はカジフの戦闘での死者は無言であった。サウジ筋は、12人のサウジ人と28人のイラク人が死亡したと述べた。AP通信は、サウジ軍最高司令官は、イラク人の死者は200人に上ると伝えた。イラク人捕虜は161人から400人強に及んだ。

 アメリカ軍海兵隊はカフジから西に約80km離れたクウェート国境を越えて侵入したイラク軍を2回撃退した後に、イラク軍がカフジから撤退した。西側への侵攻で海兵隊員11人が死亡、さらに2人が負傷した。イラク軍は占領下のクウェートで、地雷原、有刺鉄線、要塞の背後に陣取っている。一方、海兵隊はサウジ北部国境に接近し、将来の地上攻勢を見越して前方の陣地を占領した。




2024年5月1日水曜日

満州事変が1931年9月18日に勃発して、関東軍は、奉天の郊外の柳条湖事件に呼応して、長春の寛城子、南嶺の中国国民党軍兵営を奇襲攻撃した。関東軍は激戦の戦闘末に占領して、戦死傷者の犠牲者の処置をした。

満州事変が1931年9月18日に勃発して、関東軍の第3旅団第4連隊兵士たちは、奉天の郊外の柳条湖事件に呼応して、長春の寛城子、南嶺の中国国民党軍の兵営を奇襲攻撃した。関東軍は中国国民党軍から占領した。中国国民党軍による頑強な抵抗を受けた関東軍は、激戦の戦闘末に占領して、戦死傷者の犠牲者の処置をした。

 1931年9月18日の夜、中国東北部に進駐していた日本の小軍団関東軍は、まず夜の闇に乗じて、瀋陽市の籐湖の近くに自力で建設した南満州鉄道の線路を密かに爆破した。そして、この犯罪を当時駐留していた中国軍のせいにした。これを口実に中国東北軍北陣を砲撃し、中国内外に衝撃を与えた九・一八事件(満州事変)を引き起こしたのである。

  翌日9月19日に、日本軍は瀋陽に侵攻し、東北三省を次々と侵略し始めた。それ以来関東軍は、中国を完全に侵略しようとした。関東軍は中国国民党と約14年に及ぶ長く険しい日中戦争が勃発した。1931年9月18日の九一八事件から1945年8月15日の日本の降伏までの約14年間で、中国と日本の市民の血と涙、火と水をくぐり抜けて、日中戦を戦って、数え切れない中国腎と日本人の息子や娘たちは、英雄的とされて命を犠牲にした。

 満州事変の翌日1931年9月19日に、関東軍司令官本庄中将が布告を出した、その内容は、中華民国東北辺防軍の一部の部隊は、大胆不敵にも満鉄線を爆破して日本に敵対行動をとったため、我が軍はやむをえず対抗手段をとった布告であった。

 陸軍中央部からは、「満州事変の処理に関しては、必要度を越えないように閣議決定した」ことを伝達した。朝鮮軍司令部からも、参謀総長により増遣部隊を差し止められしにより(略)と戦局の拡大を極力抑止する方向で展開せよと示唆した。陸軍中央部は9月19日午後6時頃に第一五号電報で訓令を発した。関東軍司令部は、第二師団主力に対して、次なる作戦準備として長春に集結するように命令を下した。

 9月20日早朝、関東軍の独立守備第二大隊は、関東軍司令部からの命令で、四平街、昌図付近の張学良軍を攻撃した。昌図の紅頂山にあった張学良の第20旅団の激しい抵抗に遭遇するも、張学良軍を西南方に潰走させた。その後、長春に帰還して、以後、長春―吉林間を結ぶ鉄道と長春警備の任に当たった。







2024年4月30日火曜日

第二次世界大戦の東部戦線で、ポーランドのロチェ市に設置されたウッチ・ゲットーにて、ユダヤ人の死体を埋葬した。1940年4月30日から住人を収容して、1944年8月に全ての住民を強制収容所に強制送還した。

第二次世界大戦のポーランドのロチェ市に設置されたウッチ・ゲットーにて、ユダヤ人の死体を埋葬した。1939年9月8日にドイツ軍はウッチーを占領した。ウッチ・ゲトーは、1940年4月30日に163,777人の住人が収容されてから1944年8月に生存したゲットーの全ての住民を強制収容所に強制送還するまで存続した。1945年1月19日に、ソ連軍がウッチに侵攻して解放された時に、ウッチーのユダヤ人生存者はわずか877人であった。

 ワルシャワ・ゲットーでは、設立から1942年7月までに、約92,000人が死亡または殺害された。多くは、ワルシャワのオコポワ通りにあるユダヤ人の無名の墓地に埋葬された。数十人の葬儀は日常茶飯事だったが、170人ものゲットーのユダヤ人が亡くなった日もあった。1940年から44年の間に、推定45,000人の犠牲者が区画に埋葬された。ゲットーの死者の多くの人々は、墓地の路地や家族の墓の近くに埋葬された。

 ゲットーのユダヤ人の人生は狭い。ほんのわずかな時間の間に、ゲットーのユダヤ人の人生はいつものコースを外れ、死の様相を変えた。想像を絶するスピードで死を迎えた。人生は奇妙となり、死もまた奇妙となった。生き残った者は、世界はどのような場所であったか、ほんのわずかしか知ることができない。何度も繰り返される疑問があり、ユダヤ人たちがゲットーでどのように生き、どのように死んでいったかを世界に伝えることができる人はいただろうか?

 ゲットーに住むユダヤ人の中に、その様相を理解できるユダヤ人がいるかどうか、もしいたとしても、そのユダヤ人が生き残れるかどうかはわからない。ゲットーで起こることのすべてが、戦争で説明できない。戦争を目の当たりにし、大砲が人生を違った様相を見せることを知っている。基本的な日常生活の要素は変わらない。戦争中にも思想の進化があり、道徳はひび割れるが、倫理は残る。社会生活のルールは廃止されない。家庭生活の柱である家族は崩壊しない。戦争中にも思想の進化があり、それは若者たちの間にも見られる。

 ゲットーでは、すべてがひっくり返っている。戦争そのものからはかけ離れている。ゲットーは過渡期を迎えることなく過密して、世界との間に埋めがたい溝を作った。厳格な分離で完全に説明できない。ユダヤ人にとって、ゲットーは基本的な破局であった。ユダヤ人は、もはや他の人々と同じように死ぬことはできない。崇高な最期を迎える可能性はもはやない。ユダヤ人のの死は異質で醜い死となった。




2024年4月29日月曜日

ポーランドのアウシュビッツ強制収容所にて1944年8月に、ソンダーコマンドによってユダヤ人の死体が焼却される不鮮明なガス室周辺の唯一の4枚の写真が撮影された。

ポーランドのアウシュビッツ強制収容所にて1944年8月に、ソンダーコマンドによってユダヤ人の死体が焼却された。火葬場の焼却炉が、死体処理の作業量が追いつかない時に、フェンスで囲まれたエリアの窪みが死体の焼却に使われた。火葬場の建物の中に隠れなければならなかったこと、急いでドアの隙間や窓から撮影しなければならなかった。それがブレやアングルの歪みの原因になった。撮影に、火葬場の建物の中に隠れ、急いでドアの隙間や窓から撮影した。画像の端の黒い部分をトリミングされ、位置や撮影状況が削除された。

 ゾンダーコマンドの写真は、1944年8月に、ドイツ占領下のポーランドのアウシュヴィッツ強制収容所内で、4枚の不鮮明な写真が密かに撮影された。アウシュヴィッツ・アルバムに収められている数枚の写真とともに、ガス室周辺の出来事を撮影した唯一の写真である。火葬場が死体を焼却できなかったときに、死体が焼かれた。すぐにカメラを取り出し、燃えている死体の山にカメラを向け、シャッターを押した.

 撮影者は、ガス室とその周辺で働くことを強制された収容者であるゾンダーコマンドの一員であった。写真を撮った直後、撮影者のアルベルト・エレラは収容所の土の中にカメラを埋めた。その直後に、逃亡して逮捕さそれ拷問を受けて殺害された。その後にポーランドのレジスタンスが、フィルムを歯磨き粉のチューブに入れて強制収容所から密輸した。その写真のメモには、1944年9月4日の日付があった。

 ソンダーコマンドは、ナチス・ドイツの強制収容所の囚人から構成された作業部隊である。ゾンダーコマンドの主な任務は死体の処理であった。親衛隊の方針に従って、3ヶ月ごとに、強制収容所の殺戮エリアで働くほとんどすべてのゾンダーコマンドは、秘密保持を確実にするために、ガス処刑され、新しい到着者と入れ替わった。



2024年4月28日日曜日

ロシア・ウクライナ戦争にて、ウクライナの首都キエフ近郊の町イルピンの道路に 2022年3月1日にロシア軍兵士の死体が横たり、その横を水を担いでウクライナ住民が歩いた。

ロシア・ウクライナ戦争にて、ウクライナの首都キエフ近郊の町イルピン(Irpin)の道路に 2022年3月1日にロシア軍兵士の死体が横たわっていた。ウクライナの路上に散乱したロシア軍兵士の死体の横を、水を担いでウクライナ住民たちが歩いた。各都市の死体安置所はロシア軍兵士の死体で溢れかえっていた。ウクライナ政府は、2022年3月2日にロシア軍兵士の死体写真をネットに掲載した。

 ウクライナ当局は、ロシアのクレムリン当局の検閲に対抗するために、ロシア軍兵士の陰惨な死体の写真をネット上で公開した。戦闘がエスカレートし続けるなかで、写真の画像がウクライナ内務省と治安局が運営するさまざまなテレグラム・チャンネルに投稿された。悲惨な写真の中にはには、野原に横たわるロシア軍兵士の切断された死体とその筋肉と臓器が並んで写っていた。迷彩服に身を包んだロシア軍兵士が、爆撃を受けたロシア軍の戦車や車両のそばで雪の中に凍りついて横たわっていた。黒焦げになり、血まみれになった部隊兵士の死体の残骸が、道端に横たわっていた。

 本格的な攻撃を2022年2月22日に開始してから数日経っても、ロシア軍は自国の兵士が何人殺されたか、あるいは捕虜になったかを明らかにしない。ロシア軍当局は、多少の損害があったが、その数はウクライナ軍が被った損害よりもはるかに少なかったと述べた。ロシア国防省は開戦以来、ロシア軍人の死者数は一度しか報告していない。3月2日に、ロシア国防省は、ウクライナでロシア軍兵士498人が死亡、1,597人が負傷したと発表した。















Warning: Bodies of dead Russian soldiers lie on a road in the town of Irpin near Kiev, 1 March 2022.(Profimedia.cz)

2024年4月27日土曜日

太平洋戦争末期に、21歳の少女が、長崎原子爆弾の投下時に、長崎の三菱大橋工場にいて、被爆者の右頸部から顔面に被った火傷に増殖した瘢痕組織をアメリカ軍が診察した。


   非公開の日本原爆被爆者の写真

ーアメリカ軍原爆調査団ー

アメリカ国立公文書館 2024年2月22日

(The National Archives College Park, Maryland)  

SC-273295
















SC-273295

487

FEC-47-70148

10 DECENBER 194646

THICK SCARS PRESENT IN BURNS SUSTAINED BY NAGASAKI ATOMIC BOMB SUVIVOR.

GIRL, AGE 21, WAS AT THE MITSUBISHI OHASHI FACTORY AT NAGASAKI AT THE TIME OF THE ATOMIC BOMB EXPLOSION- ABOUT 0.9 RM. FROM THE GROUND CENTER, BURNS ON CHEEK HEALED WITH THICK SCAR "ISSUE WHICH WAS EXCISED AND A SKIM GRAFT APPLIED

ON 8 OCT. 1946 BUT HEAVY SCAR TISSUE HAS RECURRED AT THE SAME PLACE.

PHOTOGRAPHER-DR. HENSHAW

RELEASED FOR PUBLICATION

BUREAU OF PUBLIC RELATION

 Photograp WAR DEPARTMENT, WASHINGTON

PAR RELATIONS 4468

Photogaraphy by Signal Corps U.S.Army 487

Atomic Bombing Casualities

14468



SC-273295

487

FEC-47-70148

1946年10月

長崎の原爆被爆者が被った火傷跡。

少女、21歳、原爆投下時、長崎の三菱大橋工場にいた。

1946年10月8日に切除され、スキムグラフトが施されたが、同じ場所に重い瘢痕組織が再発した。

撮影者:ヘンショー医師

出版用にリリース: 広報局

ワシントンの陸軍省が撮影。

パー・リレーション 4468

米陸軍通信部隊による写真撮影 487

原爆犠牲者

14468

2024年4月26日金曜日

第二次世界大戦の東部戦線で、1943年7月11日からのプロホロフカの戦いで人口密集地での戦闘が勃発した。多数の戦死傷者が出た第ソ連軍の44衛兵戦車旅団歩兵は攻勢を継続するために、ソ連戦車の支援を待機した。

第二次世界大戦の東部戦線で、1943年7月11日からのプロホロフカの戦いで人口密集地での戦闘が勃発した。多数の戦死傷者が出た第ソ連軍の44衛兵戦車旅団歩兵は攻勢を継続するために、ソ連戦車の支援を待機した。44衛兵戦車旅団歩兵は、クルクスの戦いから近郊のウクライナをドイツ軍から解放するために戦闘した。

 1943年夏に、ドイツ軍司令部はクルスク・バルジ方面への大攻勢を計画した。ドイツ軍は、オレル地域とハリコフ北部のソ連軍を壊滅させることを望んだ。7月10日から16日にかけて、プロホロフカ地区で大規模な戦闘が繰り広げられた。

 クルスクの戦いの防御戦の一部は、プロホロフカでの史上最大の戦車戦であった。ドイツ軍は、オボヤンスク方面でソ連赤軍を撃破は不可能と確信し、主撃の方向を変えて、プロホロフカを通ってクルスクに進撃し始めた。ドイツ軍の第3パンツァー戦車軍団の一部を含む第2SSパンツァー戦車軍団が侵攻した。ソ連軍はプロホロフカから2kmの地点でドイツ軍を阻止した。プロホロフカの戦いの最初の衝突は7月11日の夕方に行われた。7月12日朝、ソ連軍の第一部隊隊は4個戦車軍団を率いてドイツ軍を攻撃した。プロホロフカの南西に位置するソ連軍第2軍団には2個戦車軍団が参戦した。史上最大の一つである対戦車戦闘は、鉄道とプショル川の湾曲部の間で勃発した。上空からドイツ軍は戦闘機攻撃を受けた。地上は煙と煤煙で不明となった。プロホロフカの戦いでは、戦車の量と質が真っ向から戦った。ドイツ軍はクルスクを突破できず、第5衛兵戦車軍もヤコブレヴォ方面に到達できず、ソ連軍を撃破ができなかった。クルスクへの道はソ連軍に閉ざされた。

 プロホロフカの戦い参戦者数と犠牲者数は、いまだに議論がある。ソ連軍戦車は約800両、ドイツ軍戦車は約400両の合計約1.2千両を損失した。ロシア国防省によれば、ソ連赤軍は7月12日のプロホロフカ近郊の反撃で参戦した約670両の戦車と自走砲部隊の約470両を失った。ドイツ軍は490両の戦車のうち50両を失った。この戦闘でソ連赤軍兵士は約3万5千人が戦死し、ドイツ軍第2SS戦車軍団は約7万人を損失した。次の3日間は、戦闘はプロホロフカの南に移動し、ドイツ軍はセヴェルスキー・ドネツとリポヴィー・ドネツの間の地域でソ連軍のハローを突破しようとしたが、ドイツ軍の猛攻は抑えられた。7月16日、ドイツ軍は攻撃を中止して、ベルゴロドに向かって撤退を始め、クルスクの戦いで決定的なドイツ軍の撤退が訪れた。






2024年4月25日木曜日

1953年6月23日に、西ドイツのシェーネベルク市庁舎前で、6月16日から勃発した東ドイツ蜂起のソ連軍による民間犠牲者が葬儀され、西ドイツ側でしか追悼できなかった。

1953年6月23日に、西ドイツのシェーネベルク市庁舎前で、東ドイツ蜂起のソ連軍による犠牲者が葬儀された。蜂起の犠牲者は西ドイツ側でしか追悼できなかった。1953年6月16日の建築現場の労働者のデモから東ベルリンから勃発した東ドイツ蜂起で殺害された犠牲者は、西ドイツ側でしか追悼できなかった。東ベルリンでの蜂起は6月17日には、東ドイツ政府と社会主義統一党に対する広範な蜂起に発展し、全国約700の地方で100万人以上が参加した。東ベルリンの蜂起は、東ドイツ在留のソ連軍の戦車と東ドイツ陸軍憲兵隊によって6月17日に暴力的に弾圧と鎮圧された。ソ連軍は6月17日午前10時にベルリンに到着し、ドイツ民主共和国の他の地域では6月17日正午から午後に到着した。ソ連軍の戦車の到着で東ドイツ蜂起が急速に勢いを失った。

 1953年3月5日のヨセフ・スターリンの死後に、1953年の東ドイツ蜂起は自由の代わりにソ連軍から弾圧を受けて、団結の代わりに東西ドイツ分裂だけが深まった。連行された東ドイツ民主共和国の市民は、4年から10年の懲役刑が言い渡された。ソ連の軍事法廷によって下された判決の結果、どれだけの市民が警務所の塀の中で虐殺されたかは、まだわかっていない。

 蜂起関係者の多くにとって、最も痛烈な失望は西側の無策だった。連合国は火に油を注ぐようなことを避けた。ソ連軍の戦車が東ベルリンを走り抜けても、アメリカ軍、イギリス軍、フランス軍は、誰ひとりとして指一本触れなかった。アメリカ政府のドワイト・D・アイゼンハワー大統領とジョン・フォスター・ダレス国務長は、「ソ連軍を封じ込めるのではなく、追い返す」の宣言は、少なくとも東ドイツ民主共和国には無策であることが判明した。

 第3次世界大戦への恐怖から、誰もが麻痺状態に陥った。6月17日にウィーンにいたエルンスト・ロイター西ベルリン市長は、西ベルリンに戻るのに、アメリカ軍機の搭乗する座席さえ拒否された。西ベルリンでは、連邦全ドイツ問題担当大臣のヤコブ・カイザーが、東ベルリン市民に冷静さを保つよう呼びかけた。警察部隊は西側地区の境界線を守り、西ベルリン市民がデモに参加するのを防ごうとした。その時、西ドイツがいかに無力であったかを示唆した。





2024年4月24日水曜日

バルカン半島で起こったコソボ紛争にて、ジャヴィツァ村でNATO軍の1991年4月14日の爆撃で殺害されたコソボからのアルバニア難民一家の裂傷した死体が、わずかな荷物を積んだ荷車の横に横たわっていた。

バルカン半島で起こったコソボ紛争にて、ジャヴィツァ(Djakovica)村で、NATO軍の爆撃で殺害されたコソボからのアルバニア難民一家の裂傷した死体が、わずかな荷物を積んだ荷車の横に横たわっていた。1999年4月14日午後1時29分から2時間にわたり、NATO軍によるユーゴスラビア空爆中に、NATOがアルバニヤから5キロ離れたジャコヴィツァ村を爆撃した。多数の難民が殺害されて死体が散乱した。NATOは4月14日にコソボ西部の難民に対する空爆で、少なくとも64人が死亡し、20人が負傷したことを認めた。

 1999年4月14日の昼間の時間帯に、NATO軍機がコソボ西部のジャコヴィツァとデチャニの間の19kmの道路で、アルバニア難民の移動を繰り返し爆撃した。ヒューマン・ライツ・ウォッチ(HRW)が記録しただけでも、73人の市民が死亡し、36人が負傷した。攻撃は午後1時29分に始まり、約2時間にわたって続いた。ビストラジン、グラディス、マダナジ、メジャの村近くの車列ルート上の多数の場所で民間人に死者が出た。当初、NATOは戦闘機が軍用車両を標的にしたと発表した。その後、アメリカ軍は、F16パイロットが軍用トラックと思われるものに爆撃したと報じた。NATOは "深い遺憾 "を表明した。攻撃で3人のセルビア人警官も死亡した。

 コソボ紛争は、1998年2月28日から1999年6月11日までコソボにて武力紛争が勃発した。ユーゴスラビア軍とコソボ・アルバニア解放軍が戦闘した。北大西洋条約機構(NATO)は、コソボ紛争中にユーゴスラビア軍に対して空爆作戦を実施して、空爆は1999年3月24日から6月10日まで続いた。コソボからのユーゴスラビア軍を撤退して終結した。ユーゴスラビア軍によるアルバニア人の民族浄化に対抗した。NATOは、国連の承認もなく、人道的介入とした。ユーゴスラビア政府は、NATOの空爆の結果、民間人1,200人以上、最大2,500人が死亡し、5,000人が負傷したと推定した。






2024年4月23日火曜日

太平洋戦争の硫黄島の戦いで、日本軍兵士が手榴弾を握りしめたまま自爆して戦死した。日本軍兵士は、自殺を選んで手榴弾を体に当てて爆発させて自決した。

太平洋戦争の硫黄島の戦いで、日本軍兵士が手榴弾を握りしめたまま自爆して戦死した。日本軍兵士は、手榴弾を体に当てて爆発させて自決した。先の大戦では大勢の日本勢が自決によって絶命した。1941年に東条英機陸相が説いた戦陣訓に、生きて虜囚の辱を受けず、日本軍兵士は忠実に守り、捕虜を拒み、自決を選んだ。

 アメリカ軍海兵隊が1945年2月19日に上陸後から激しい戦闘が続いた。2月23日15児20分に、アメリカ軍が多大な死傷者が続出する中で、擂鉢山に星条旗が掲げられた。2月23日夜に、日本軍の摺鉢山守備隊の生き残り300人は、北部の日本軍と合流するため陣地を脱出しようとした。しかし、途中で120人が殺害されて120人が倒された。日本軍本隊の混成第二旅団に合流を確認できたのは25人に過ぎなかった。2月24日には、岩場に身を隠した日本軍兵士に対して、容赦なく火炎放射を浴びせた。

 2月23日は、硫黄島の元山飛行場付近では早朝からアメリカ軍と戦闘が始まっていた。摺鉢山の戦闘は終結を告げた。主戦場は元山飛行場に移っていた。アメリカ軍は砲兵八個大隊を含む二個師団の大部隊で、タコ岩ー千鳥集落ー霧島集落ー西集落の線と阿蘇台周辺の日本軍を徹底的に攻撃した。しかし、日本軍の第二旅団を中核とする守備隊は、アメリカ軍歩兵部隊の進撃を辛うじて阻止した。午後3時ごろからになるとアメリカ軍は全線にわたり塹壕を造り始めた。

 硫黄島の戦いで、アメリカ軍兵士は約7,000人が戦死して、戦傷者は約22,000人で、約9割れが重態であった。全体で約21,000人の日本軍兵士がいて、そのうち爆死や病死で約17,000人が犠牲となった。戦闘により戦死したのは、その内の約3割の約5,000人であった。残りの約1割は、投降で後方から撃たれ、上官に嫌われ殺害された。約6割は、水が無くて、焦熱地獄で、手榴弾を使って 爆死した自殺であった。全ての日本軍戦死者は約19,000人で、硫黄島には、まだ約12,000体の遺骨が残存した。




2024年4月22日月曜日

第二次世界大戦で、ソ連軍により1945年5月10日に開放されたポーランドのゲシア通りのゲンシウスカ(Gęsiówka)強制収容所の中庭に、殺害された囚人の死体が散乱していた。

第二次世界大戦で、ソ連軍により1945年5月10日に開放されたポーランドのゲシア通りのゲンシウスカ(Gęsiówka)強制収容所の中庭に、殺害された囚人の死体が散乱していた。ナチスは監獄の中庭で数多くの処刑を行った。西ヨーロッパ諸国からの避難民を含むユダヤ人の集団が収容された。ナチスは強制収容所の中庭で数多くの処刑を行った。

 1940年11月15日、Gęsia通り24番地の旧軍事刑務所の建物には、ナチスはユダヤ人のゲットーの中央刑務所を設立した。強制収容施設は数棟の建物と、周囲は壁で囲まれた。ユダヤ人とロマ系の人々も収容された。その収容人数300人の独房には、最大で1300人の囚人が収容された。さらに、ナチスは監獄の中庭で数多くの処刑を行った。1944年の春からは、近くのパヴィア通りの刑務所、いわゆるパヴィアックの囚人も大量処刑された。遺体はその場で焼かれた。ワルシャワ・ゲットーの最初の集団処刑は、ゲシオフカ強制収容所の敷地内で行われた

 ゲンシウスカ(Gęsiówka)は口語的名称で、ポーランドの首都ワルシャワのGęsia(ガチョウ)通りにかつて存在したポーランド陸軍の軍事刑務所であった。第二次世界大戦中のドイツ軍占領下のポーランドでは、1939年にドイツ治安警察の収容所から、1943年にナチスの強制収容所となった。運営期間中に、約8,000~9,000人の囚人が収容されて、奴隷労働に従事した。約4,000人〜5,000人の囚人が、収容所からの死の行進中、ワルシャワ蜂起中、蜂起後の潜伏中に殺害された。

 第二次世界大戦後の1945年から56年にか、ゲンシウフカは刑務所と労働収容所として使用され、最初はソ連のNKVDにより、ポーランドのレジスタンスの内軍戦士や、ポーランドの新スターリン主義政権の反対者が投獄され、その後に、ポーランドの共産主義秘密警察によって運営された。 




2024年4月21日日曜日

パレスチナのガザ地区南部のラファ都市で、生後5ヶ月の双子の赤ちゃんがイスラエルの2024年3月2日の空爆で死亡した。母親のラニア・アブ・アンザが双子の死体を抱いて、埋葬を前に慟哭した。

パレスチナのガザ地区南部のラファ都市で、生後5ヶ月の双子の赤ちゃんがイスラエルの2024年3月2日の空爆で死亡した。母親のラニア・アブ・アンザが双子の死体を抱いて、埋葬を前に慟哭した。彼女は目を閉じ、壁に頭をもたせかけ、束をなでる仕草をした。イスラエル軍の空爆は3月2日の遅くから、ガザ南部の都市ラファにある彼女の親戚の家を襲った。彼女の子供たち、彼女の夫、その他11人の親戚が死亡して、さらに9人が瓦礫の下で行方不明となった。

 彼女は3月2日午後10時頃に、男乳児のナイームに授乳するために目を覚まし、片腕に彼を、もう片腕に女乳児のウィッサムを抱いて眠りについた。夫はその横で寝ていた。爆発は1時間半後に起きて、家は崩壊した。死体が収容された病院によれば、彼女の家で殺された14人のうち、6人が子供、4人が女性だった。ラニアの夫と子供たちに加え、妹、甥、妊娠中のいとこ、その他の親族も殺害された。泣きながら赤ん坊の毛布を胸に抱いた。「子供たちと夫のために叫びました。イスラエル軍は父親と子供たちを連れ去り、私は置き去りにされ、みんな死んでいた。」と、彼女は言った。この家には約35人が滞在して、何人かは他の地域から避難してきた。全て一般市民で、ほとんどが子どもで、武装勢力はいない。ラニアと夫のウィッサムはともに年齢は29歳で、10年間妊娠を試みて、2回の体外受精は失敗したが、3回目の体外受精で、2023年初めに妊娠が判明して、双子を10月13日に出産した。

 イスラエルによる空爆は、ガザでの戦争が始まって以来、混雑した民家を定期的に攻撃してきた。10月にイスラエルが安全地帯と宣言したものの、ラファも壊滅的な地上攻撃の標的となった。爆撃は前触れもなく、真夜中にやって来た。イスラエル軍は、戦闘機やトンネル、ロケットランチャーを住宅密集地に配置した。イスラエル軍は、民間パレスチナ人を傷つけるのは、過激派組織ハマスが原因と言い訳した。イスラエル軍部は、女性や子どもを殺害した攻撃を無言となり、国際法に従い、民間人の被害を軽減するために実行可能な予防措置をとったと述べた。 

 彼女が出産する1週間も前の10月7日に、ハマス率いる武装勢力はイスラエル南部に奇襲攻撃を仕掛け、イスラエルの民間人約1200人を殺害し、子どもや新生児を含む約250人の人質を取った。イスラエルは致命的で破壊的な軍事作戦で報復した。ガザの保健省によれば、この戦争で3万人以上のパレスチナ人が死亡した。ガザの人口230万人の約80%が家を離れ、人口の4分の1が飢餓に直面している。2023年2月は、戦争で死亡したパレスチナ人の子どもや10代の若者は1万2300人を超え、犠牲者全体の約43%を占めた。女性と子どもは、犠牲者の4分の3を占めた。国連報告書は、主な犠牲者は女性と子どもで、16,000人が死亡した。イスラエルは1万人以上のハマス戦闘員を殺害した証拠は示していない。3月2日まで、ラファは、ガザ北部や南部の都市の甚大な破壊を免れていた。ラファは人道援助が届くガザの縮小地域にあり、イスラエル軍は次はラファを目標としていた。










Warning: A mother was mourning the death of her five-month-old twin babies on Sunday in Rafah, after they died in an Israeli airstrike. It took 10 years and three rounds of in vitro fertilization for Rania Abu Anza to become pregnant with a boy and a girl. (AP video/Mohammad Jahjouh)



2024年4月20日土曜日

広島原子爆弾の爆心地から約2キロに位置する広島赤十字病院では、1946年中に、耳鼻咽喉科の多くの被爆した患者を外来で治療にあたっていた。


   非公開の日本原爆被爆者の写真

ーアメリカ軍原爆調査団ー

アメリカ国立公文書館 2024年2月22日

(The National Archives College Park, Maryland) 

SC. 273261





















SC. 273261
484
FEC-47-70123
17 DEC 1946

* HIROSHIMA RED CROSS HOSPITAL TREATS MANY PATIENTS:*
THE HIROSHIMA RED CROSS HOSPITAL LOCATED ABOUT 2 KM FROM THE GROUND CENTER OF THE ATOMIC BOMB EXPLOSION HAS BEEN TREATING PATIENTS DURING ALL OF 1946. SHOWN HERE IS THE EAR, NOSE, AND THROUT OUT-PATIENT CLINIC IN OPERATION.

PHOTOGRAPHER Dr. HENSHAW
RELEASED FOR PUBLICATION
BUREAU OF PUBLIC RELATIONS
WAR DEPARTMENT, WASHINGTON.
14468
AOMIC BOMB CASUALTIES.
Photograph by Signal Corps U.S. Amy


SC. 273261
484
FEC-47-70123
17 DEC 1946

* 広島赤十字病院、多くの患者を治療:*。
原爆爆心地から約2キロに位置する広島赤十字病院は、1946年中、患者の治療にあたっていた。写真は耳鼻咽喉科の外来診療所。

撮影者 Dr. HENSHAW
出版用リリース
広報局: ワシントンの陸軍省
14468
原爆犠牲者
写真提供:米軍通信隊



2023年4月20日  
Japan No War NGO  (JNWN)
日本平和市民連盟    
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