2024年2月26日月曜日

ワルシャワ・ゲットーの路上で、1940年から1944年頃に少年が飢えて路上に倒れて餓死した。ワルシャワ・ゲットーの生活状況は最悪で、広い地域には水道も下水道もなかった。

ワルシャワ・ゲットーの路上で、1940年から1944年頃に少年が飢えて路上に倒れて餓死した。ワルシャワ・ゲットーの生活状況は最悪で、広い地域には水道も下水道もなかった。住民の20%以上が劣悪な生活環境のために死亡した。ゲットーは、ナチス政権がユダヤ人を管理し、財産を奪い、労働に従事させることを容易にした。ドイツ系ユダヤ人は占領下のポーランド、ラトビア、リトアニアのゲットーに送られ、オーストリアで逮捕されたロマ人は東部のゲットーに送られた。ゲットーは鉄条網と塀で囲まれていた。1944年8月に、ゲットーに残っていた住民のほとんどがアウシュビッツに送られた。赤軍が1945年1月19日にゲトーを解放したとき、収容所には877人しか生存者がいなかった。

 ヘンリク・ロスは約6,000枚のゲットーの写真ネガを畑に埋めた。戦争が終わると、ナチスが何千人ものユダヤ人を投獄し、ひどい環境で生き、死んでいったという、彼が捕らえた痛ましい真実を掘り起こすために戻ってきた。多くの人々はヘンリクがあえてこの写真を撮ったことに感謝した。

 写真の中には、ユダヤ人大量虐殺の嫌な真実を示すものも多い。死体が高く積み上げられ、不安げな子供たちが土の中で食べ物を探している写真もあれば、ナチスの恐怖にとらわれた人々の驚くべき回復力をとらえた写真もある。

 ワルシャワ生まれのヘンリク・ロスは、第二次世界大戦前はスポーツ写真家として働き、ウッチ・ゲットーが創設された後は、ゲットーの工場で身分証明写真やプロパガンダ写真を撮るように命じられた。その役割はヘンリク・ロスにとって完璧な隠れ蓑となり、彼はゲットー生活の写真を密かに何枚も撮っていた。

 1991年に亡くなる前、ヘンリク・ロスは写真を保存した方法と理由を、ポーランドのユダヤ人が全滅することを予期して、殉教の歴史的記録を残したかったと述べた。ヘンリク・ロスはナチス政権のために働いていないときは、壁の穴から、上着の折り目から、誰も見ていない裏通りで写真を撮っていた。




2024年2月23日金曜日

南京大虐殺で1937年12月に、後手に縛られた南京市民が日本軍に虐殺された死体が散乱した。鉄線で2人を1つにしばり、4列にならばせ、下関・草鞋峡に追いやられ、機銃で掃射し、銃剣で乱刺した。

南京大虐殺で1937年12月に、後手に縛られた南京市民が日本軍に虐殺された死体が散乱した。

 1937年12月16日に、東京朝日新聞の従軍記者の今井正剛は,12月13日に日本軍が占領した。揚子江の関の埠頭である下関は、中華民国の首都南京市の外港の舟つき場で、埠頭一面は、まっ黒く折り重なった死体の山であった。徘徊する50人から100人の人影が、死体をひきずっては, 河の中へ投げこんだ。うめき声, 流れる血, けいれんする手足、静寂に対岸がかすかに見えた。血によって碼頭一面が鈍く光った。作業を終えた苦力たちが河岸に一列にならばされた。機関銃の音で、のけぞり、ひっくりかえり, 踊るように集団は, 河の中へ落ちた。虐殺は、捕虜となった中国軍の兵士と、ふだん着をきた便衣隊が逮捕されて処刑された。

 当時に、南京虐殺は日本国民には知らなかった。日本国民は敗戦後の東京裁判で知った。南京大虐殺の証言・証拠が提出された。法廷の速記録から、事実を再現する。人々は,河の堤の上に点呼をうけ、河の堤防の上に男女は整列した。トラックが機関銃をすえて、中国人民にむけ発砲した。惨劇は、約1時間ほどつづいた。機関銃で射殺された人々は1万人あった。

 12月20日午後7時ごろ、日本軍兵士は、支那民らの手のひらを検査して、5人は手にタコがあり、銃剣で突き殺した。幕府山に連行されると、多数の支那人の約200体の死体が道路などににころがっていた。多数の小児も銃剣で突きさし殺した。

 退却しようとする中国軍および難民男女老幼の合計5万7418人を幕府山付近の村にとじこめ、飲食を断絶された。多くが凍餓し死亡した。1937年12月16日の夜間に生き残った者は鉄線で2人を1つにしばり、4列にならばせ、下関・草鞋峡に追いやられ、機銃で掃射し、銃剣で乱刺し,最後には石油で焼いた。焼却後の残屍は、みな揚子江の中に投げ入れた。






2024年2月22日木曜日

硫黄島の戦いで仰向けに戦死したアメリカ軍米海兵隊の死体の隣で、戦死した日本軍守備隊員の仰向けの死体が硫黄島の砂場上で散乱した。その死体に後方ではアメリカ軍の火焔放射の炎が這っている。

第二次世界大戦の太平洋戦争にて硫黄島の戦いが1945年2月19日から3月26日まで勃発した。硫黄島の戦いで仰向けに戦死したアメリカ軍米海兵隊の死体の隣で、戦死した日本軍守備隊員の仰向けの死体が硫黄島の砂場上で散乱した。その死体に後方ではアメリカ軍の火焔放射の炎が這っている。

 硫黄島に上陸して約5時間経過した2月21日午後6時に、アメリカ軍は五千余名の死傷者を2月22日に発表した。アメリカ軍の戦死者は644人、戦傷者4108人、行方不明は560人であり、死傷者の合計は5312人であった。

 硫黄島の犠牲者は、タラワの激戦やノルマンディー上陸時のときより多い。南北戦争における最大の激戦のゲティスバーグの戦い以来の犠牲者(死傷者は約4万人、捕虜または行方不明は約1万人以上に達した。)となった。日本軍約4500人が玉砕したギルバート諸島タラワ島の激戦(1943年11月)では戦死934人、戦傷者は2385人を出した。ノルマンディー上陸作戦のときは、連合軍全体では約15万人が上陸して、約9000人が死傷したが、アメリカ軍の死傷者は2500人であった。硫黄島に上陸した3日間の戦闘は、特にかなり大きな犠牲だった。

 アメリカ軍の犠牲者は増え続け、上陸翌日の2月20日から始まった摺鉢山の戦いは5日間続いた。そこだけでもアメリカ軍兵士の戦死者は1039人、戦傷者は3741人、疲労のための戦線離脱は約558人、死傷者は合計5338人に達した。上陸日の損害と合わせると死傷者は約7758人である。




2024年2月21日水曜日

沖縄戦争では、少年兵である14歳から17歳の約1,780人の学徒を鉄血勤皇隊として前線に動員した。鉄血勤皇隊の約半数は、戦車に対する自爆攻撃やゲリラ活動などで戦死した。

  • 沖縄戦争では、少年兵である14歳から17歳の約1,780人の学徒を鉄血勤皇隊として前線に動員した。鉄血勤皇隊の約半数は、戦車に対する自爆攻撃やゲリラ活動などで戦死した。
  •  大日本帝国陸軍は14歳から17歳の約1,780人の学徒を鉄血勤皇隊として前線に動員した。女子のひめゆり学徒隊などは看護隊に編成された。この動員は法律ではなく、陸軍省令によって行われた。この条例は、形式上、生徒を志願兵として動員するものであった。実際には、軍当局が学校に命じて、ほとんどすべての生徒に兵士として志願させた。必要な書類を偽造することもあった。鉄血勤皇隊の約半数は、戦車に対する自爆攻撃やゲリラ活動などで戦死した。
  •  これらの学徒隊を構成する沖縄の21の男女中等学校のうち、約2,000人の生徒が戦場で亡くなった。女子生徒は主に日本軍兵士の看護婦として活動して、沖縄戦の過酷な状況に巻き込まれた。
  •  日本軍が少年兵を鉄血勤皇隊として使い始めたのは沖縄戦役の頃だった。日本本土で民間人が参加した最初で唯一の作戦であった。沖縄がアメリカ軍の次の標的になり、日本軍は子供たちを徴兵し始めた。 日本軍は中学と高校の両方から青少年の徴兵を開始した。日本は先進的な公立学校制度を持って、沖縄の若者を徴兵するのは容易だった。高等学校の男子生徒の多くはすでに徴兵された。陸軍は小学校には入隊させなかった。中学校とは13歳以上の少年を示唆した。中学校には13歳の男子も含まれていなかった。軍関係者が若い十代の若者を徴兵は、1944年の非常に後半頃と想定された。少年の一人は、1945年3月29日に徴兵され、アメリカ軍が沖縄に上陸するわずか3日前だった。新しい軍服とサイズの合わない大きなブーツを履いて入隊した。陸軍省は法的権限なしに動員を命じて、形式は条例であった。軍が学校に対し、子供や若者に志願を強制するよう命令した。必要な書類を偽造した。多くの場合、軍は徴集兵に弟たちにも登録するよう強制した。



2024年2月19日月曜日

1943年7月、クルスクの戦いの戦場で、ドイツ軍兵士が中央ロシア高地の南部にて流血して戦死した。両軍ともに損害は甚大で、ソ連軍ではなくドイツ国防軍が流血した。

1943年7月、クルスクの戦いの戦場で、ドイツ軍兵士が中央ロシア高地の南部にて流血して戦死した。両軍ともに損害は甚大で、ソ連軍ではなくドイツ国防軍が流血した。ロシア軍は、スターリングラードで始まった東部戦線の立て直しが完了した。クルスクからのソ連軍の前線進出を断ち切り、戦略的主導権を取り戻そうとしたドイツ軍国防軍の試みは、数日のうちに失敗に終った。

 ソ連軍はスターリングラードの戦いでドイツ軍を粉砕したものの、ドイツ国防軍の夏の攻勢を押し返すまでには至っていなかった。ソ連赤軍は、1940年1月のモスクワの戦いと1942年3月のスターリングラードの戦いに勝利した。しかし、1941年夏の初期侵攻と1942年夏のブルー作戦でドイツ軍に敗北する不穏なパターンに陥った。1943年の暑い夏のクルスクの戦いで初めて決定的な勝利が出ることになった。

 貴重な軍事情報を武器に、ソビエトは自国の前線後方に6つの防衛線を建設した。約4,000個の地雷を敷設して、約3,000マイルに及ぶ信じられない塹壕を掘った。約130万人以上のソ連軍が、ドイツ軍の攻撃を待ち構えた。

 クルスクで戦ったドイツ軍戦車隊長は、ドイツ軍は川を渡って、直後に地雷原に入った。第12両のタイガー戦車が消えてしまった。1943年7月9日までにドイツ軍の進撃は北部で食い止められた。その3日後にソビエト軍が反撃に転じた。しかし、南方では赤軍の方がドイツ軍の戦車隊に苦戦を強いられた。ソ連軍の戦車は、ドイツ戦車の射程距離に対抗するために、ドイツ群の戦車隊に向かって突進して、至る所で両軍の戦車が燃えていた。7月中旬には戦闘は終結して、ソ連軍は約30万人、ドイツ軍は約10万人の戦死者を出した。

 軍事的には互角だったが、士気的にはソ連赤軍の大勝利だった。スターリンは1943年末に、クルスクがドイツ軍の東部戦線における最後の大攻勢になると約束した。1944年6月に、ソビエト軍は東部戦線で大規模な攻勢を開始して、赤軍はついにドイツ軍をソ連から追い出した。1943年7月、ロシアの戦場では、スターリングラードで始まった東部戦線の立て直しが完了する。クルスクからのソ連軍の前線進出を断ち切り、戦略的主導権を取り戻そうとしたドイツ軍首脳部の試みは、数日のうちに失敗に終わる。損害は甚大で、ソ連軍ではなくドイツ国防軍が流血した。 



2024年2月19日  
Japan No War  (JNW)
日本平和市民連盟  
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2024年2月18日日曜日

2022年10月に、ウクライナ軍が奪還したルハンスク地域のライマン市の路上で、地元住人が放棄されたロシア軍兵士の死体の横を通り過ぎた。10月1日に、ウクライナ軍は、ロシア軍がドンバス北部でドネツク州のライマンを解放した。

2022年10月に、ウクライナ軍が奪還したルハンスク地域のライマン市の路上で、地元住人が放棄されたロシア軍兵士の死体の横を通り過ぎた。10月1日に、ウクライナ軍は、ロシア軍がドンバス北部での兵站・輸送拠点であるドネツク州のライマンを解放した。ウクライナ軍もハリコフ地方で前進を続け、クピアンスクとボロヴァ周辺の集落を制圧し、ルハンスク地方との国境に迫った。ウクライナ軍司令部はケルソン地方のベリスラフスキー地区で10以上の町を奪還した。ロシア・ウクライナ戦争により、それまでに約31万5000人のロシア軍兵士が死傷したとアメリカ防衛当局は付け加えた。

 ロシア軍はその先週に、砲撃や空爆で民間インフラを狙い続け、数十人の民間人を殺害した。ザポリツィアでは、ロシア軍が10月6日に住宅を砲撃し、17人が死亡した。さらに、ハリコフ、ドネツク、スミ、チェルニヒフ地域では、地雷の爆発で少なくとも6人の市民が死亡して、7人が負傷した。先週、ライマンとスヴィアトヒルスクで、ロシア軍の占領中に殺害された市民の遺体が埋められた複数の集団埋葬地が発見された。10月6日に、ウクライナ警察は、占領解除されたハリコフ地方全域で、22のロシア軍のり拷問部屋を発見した。

 プーチン大統領は10月1日に、ロシアがウクライナのほぼ5分の1を掌握したと発表して、数百万人の住人が永遠にロシア国民になると宣言した。国際法上違法な併合により、ロシアはウクライナの4つの地域をロシア領して、ルハンスクとドネツク(2014年以来戦闘が継続してるロシア軍が支援する2つの分離共和国の本拠地)、そしてケルソンとザポリツィア(侵攻開始直後からロシア軍に占領されたウクライナ南部の2つの地域)となった。

 ロシア軍の侵攻によって2月24日に始まったロシア・ウクライナ戦争に特化したロシアのブロガーたちは、2022年11月にクレムリンの最高軍事指揮官に対する批判を発表した。ウクライナのドネツク地方の攻防で、ロシア軍当局が莫大な物的・軍事的損失を被った。パブリフカ近郊の第155旅団を指して、ロシア軍指導部が旅団を理解不能な攻勢に放り込んだと主張した。ロシア軍は4日間しか続かなかった攻撃で、合計約300人以上のロシア軍兵士が死亡、行方不明、負傷した。












Warning: Local residents pass by the dead bodies of Russian soldiers on a street in the recaptured city of Lyman in the Luhansk area of Ukraine in October 2022.

2024年2月17日土曜日

長崎原子爆弾に被爆した少年は、多くの火傷患者と同様な典型的なケロイド傷跡を示した。初期には火傷患者の67%、外傷患者の21%の瘢痕ケロイドを発見した。ケロイドを手術的に切除しても大多数に於て再発を来すことを認めた。

長崎原子爆弾に被爆した少年は、多くの火傷患者と同様な典型的なケロイド傷跡を示した。

 長崎市における原子爆弾の被爆者の7年後の外科的後遺症調査が、長崎大学医学部(調来助)が実施した。1946年8月、1947年9月、1949年1月にて、合計3回にわたり長崎原子爆弾の後遺症の調査を行った。初期には火傷患者の67%、外傷患者の21%の瘢痕ケロイドを発見した。しかもケロイドを手術的に切除しても大多数に於て再発を来すことを認めた。

 時日の経過と共にケロイドは自然治癒の傾向を示し、手術後の再発も著しく減少したことを1949年1月の第3回調査において確認できた。長崎原子爆弾後の満7ヵ年を経過した1952年の時点で、原子爆弾ケロイドの状態、原子爆弾によって受けた火傷および外傷の経過、肢体不自由の運動障害の手術による経過を観察した。後遺症患者は男123、女167、計290人に過ぎなかった。受傷当時の損傷種類は熱傷が最も多く、硝子創が之に次ぎ、骨折及び脱臼は少ない。原子爆弾に特有の手関節及び膝関節の脱臼が見られた。

 損傷の後遺症は、肥厚性瘢痕の状態を呈するも、ケロイドは極めて少く、多くは普通の單純性瘢痕となった。拘縮は肥厚性瘢痕が大部分を占め、他は骨折及び脱臼による。神経麻痺は硝子破片による神経幹の離断で、尺骨神経麻痺が大多数である。異物はすべて硝子片で、耳殻奇形は顔面火傷の化膿により軟骨炎を起して、耳の変形を生じた。

 原爆ケロイドは多くは單純性乃至肥厚性瘢痕に移行し、辺縁の一部に小ケロイドを殘すものは、わずかに火傷の6.3%、外傷の0.9%に過ぎない。しかも12例中3例(火傷の2例及び外傷の1例)は灸痕あるいは昆虫刺痕にケロイドを生じた先天性ケロイド体質であった。原子爆弾により発生したケロイドは先天性体質の所有者を除いて、他はすべて完全に自然治癒を営む傾向にあった(1952年原爆班研究報告、長崎大学医学部調来助を一部加筆修正)。



2024年2月16日金曜日

1927年4月に、上海クーデタで共産主義者の共産党指導者が、国民革命軍に捕らえられて、斬首された。国民革命軍が、検挙の過程で暴動を引き起こした多くの共産党党員と工場労働者を死傷した。

1927年4月に、上海クーデタで共産主義者の共産党指導者が、国民政府軍に捕らえられて、斬首された。上海クーデターは1927年4月12日に中華民国にて、武装労働者糾察隊が北伐に呼応して第三次上海暴動を引き起こした。国民革命軍右派による武装解除の命令に応じないで抵抗を試みた。国民革命軍から武力行使を武装労働者糾察隊が受けた。武力行使に対して抗議のためのデモを行った労働者・市民に対して、国民革命軍が発砲・虐殺した。国民党左派と共産党系労働組合の解散を命じて、総工会の建物を占拠した。中国国民党は清党と称する一方で、中国共産党は四・一二反革命政変、四・一二惨案と呼称した。国民革命軍が、検挙の過程で暴動を引き起こした多くの共産党党員と工場労働者を死傷した。

 1925年3月12日に北京で孫文の死の前後から、中国の労働者は上海でまた青島で、日本の資本家が経営している紡績工場を中心に、はげしいストライキにはいった。ストライキに対して、日本人資本家・北方軍閥・イギリス人警官隊は、力を合わせて弾圧にのりだした。上海では、1925年5月15日に日本人監督とイギリス人警官隊が、ストライキ中の十数人の中国人労働者を殺傷した。5月30日に学生約2000人を中心にした大抗議デモが行われ、1万人近い上海市民大衆が打倒・帝国主義を叫んだ。イギリス人警官隊は発砲し、10人の死者と15人の重傷者をだした5.30事件が勃発した。

 1926年9月7日に国民革命軍は、揚子江沿岸の工業都市、漢口を解放した。1927年1月4日には、漢口のイギリス租界が中国民衆によって奪還された。2月19日から3月21日に3回の大ストライキをした上海総工会の労働者は、3月22日に武装蜂起して、国民革命軍の上海解放を可能にした。3月24日についに南京が、国民革命軍が奪還した。やがて4月18日に、蒋介石らの指導する国民政府が、南京に誕生した。

 北伐は多くの中国人の血を流しつつ進展した。イギリスの勢力範囲であった華南・華中は, 国民革命軍によって解放された。次の北伐が、主に日本軍の勢力範囲である華北・満州に向いた。日本軍の支配者に、日中戦争の武力闘争に火をつけた。




2024年2月15日木曜日

1945年4月12日に、アメリカ陸軍高官が解放されたばかりのドイツのテューリング州オールドルフにあるオールドルフ強制収容所を視察した。親衛隊により線路の一部で焼却された囚人らの死体と焼け跡を見詰めた。

1945年4月12日に、アメリカ陸軍高官が解放されたばかりのドイツのテューリング州オールドルフにあるオールドルフ強制収容所を視察した。ドワイト・アイゼンハワー将軍と、ブラッドリー将軍、パットン将軍、エディ将軍を含むアメリカ陸軍高官一行は、親衛隊により強制収容所を囚人を退去させる途上で、線路の一部で焼却された囚人らの死体と焼け跡を見詰めた。その他にアメリカ陸軍ニュース紙『星条旗』の特派員ジュール・グラッドと、通訳を務めたウィスコンシン州アップルトンのアロイス・J・リーテンも写った。

 オールドルフ強制労働収容所は、ドイツ・チューリンゲン州ゴータの南、オールドルフ近郊にあった。ブッヘンヴァルト強制収容所の関連施設の一部であった。アメリカ軍がオールドルフに向かって前進すると、親衛隊はほとんどすべての捕虜を死の行進でブッヘンヴァルトに避難させ始めた。親衛隊の看守は、鉄道車両まで歩くには病気が重すぎると判断した残りの囚人の多くを殺した。アメリカ軍が接近し始めると、ドイツ軍は戦争犯罪の証拠を取り除いた。何人かの囚人に死体を掘り出させ、レンガの土台の上に敷かれた線路でできた巨大な鉄板の上に置いた。死体にピッチをかけ、その下に松の木と石炭で火を焚いた。鉄板の上や下には人骨や頭蓋骨、黒焦げになった胴体などが山積みになった。

 1944年11月に、ドイツのチューリンゲン州ゴータの南、オールドルフの町の近くに強制収容所が作られた。オールドルフ強制収容所は、当初は親衛隊の主要経済管理局が直接管理する別の強制労働収容所であった。その後にワイマール近郊のブッヘンヴァルト強制収容所の下部収容所となった。1940年に設置されたドイツ国防軍部隊のために小屋が使用された。コードネームはAußenlager S IIIと呼称された。オールドルフ収容所は、北部収容所と南部収容所から構成され、その後にエスペンフェルトのテント収容所とクラウィンケルの収容所が加えられた。オールドルフ収容所は、オールドルフのミュールベルク城の地下に巨大な通信センターを建設するための鉄道建設を計画した。強制収容所の囚人により強制労働力を供給した。収容者たちは、ミュールベルク城を主要鉄道路線に接続して、近くの山にトンネルを掘った。総統広場を含む列車の緊急避難所として使用するために強制労働させられた。計画されていた通信センターは、アメリカ軍の急速な進撃により完成することはなかった。




2024年2月14日水曜日

太平洋戦争の末期の沖縄戦にて女性や子供なども、アメリカ軍と日本軍の戦闘に巻き込まれて犠牲となって、殺害された死体が折り重なって倒れていた。その死体群は、集団自決をした家族に巻き込まれた可能性もある。

沖縄戦にて女性や子供が、アメリカ軍と日本軍の戦闘に巻き込まれて犠牲となって、殺害された死体が折り重なって倒れていた。その死体群は、集団自決をした家族に巻き込まれた可能性もある。家族・親類・友人・知人同志で殺しあった凄惨な集団自決の現場と考えられた。

 太平洋戦争では、日本で唯一の地上戦が沖縄で繰り広げられた。アメリカ軍が上陸した際、沖縄本島や慶良間諸島では集団自決が行われた。最も自決した人数が多かった渡嘉敷島では、村長の号令のもと329人が全滅して絶命した。沖縄戦では、一般住民が集団で自殺する行為が発生し、集団自決と呼称した。主な集団自決は、伊江村のアハシャガマなどで約100人、恩納村で11人、読谷村のチビチリガマなどで121人以上、沖縄市美里で33人、うるま市具志川で14人、八重瀬町玉城で7人、糸満市のカミントウ壕などで80人、座間味島で234人、慶留間島で53人、渡嘉敷島で329人などが集団自決の犠牲となった。

 1945年3月23日から始まったアメリカ軍の沖縄大空襲と引き続く艦砲射撃は、第二次世界大戦で、日本で唯一の住民を巻き込んだ国内戦の幕明けとなった。慶良間諸島に、アメリカ軍の大艦隊が押し寄せた。慶良間諸島に大艦隊で攻め込んで来るアメリカ軍を見れば、住民は捕虜になる前に集団自決にて自殺することが、すでに用意されていた。

 壕にいた人々は、晴着を付けて集団自決の覚悟を決めて、もう今頃は集団自決で全員が死んだはずであった。たどり着いて壕内を覗き込むと、晴着をつけて、何十人という人々が全員死んで、生存者は一人もいなかった。その後からも集団自決のために、壕に入った住民がたくさんいた。

 老夫婦で、妻を先に殺した時に、夫はアメリカ軍の捕虜になった。夫は、もう妻を死なして、生きていてもしかたがないと言って、約30mほど離れた壕に行った。豪に置いてあった竹槍を取り出し、アメリカ軍兵士にめがけて突撃した。目の前で射殺された。響いた銃声は、その夫が殺された瞬間であった。慶留間島での集団自決の方法は、その他にカミソリを使って集団自決していた。全員が木に首を吊って集団自決した。ネズミを殺すための薬剤であると猫要らずの毒物で集団自決した。




2024年2月13日火曜日

ウクライナ人民共和国が成立したウクライナ南部のニコポリで、1918年4月4日にソ連赤軍を支援する地下パルチザンの戦闘員は、オーストリア軍に捕らえられて銃殺された。

1918年4月4日に、ウクライナ南部のニコポリで、ソ連赤軍を支援する地下パルチザンの戦闘員はオーストリア軍に捕らえられて、銃殺された。ニコポリ地方は4月10日に、ソ連赤軍による支配から解放された。

 1918年1月にウクライナの中央ラーダ軍とオーストリア軍が、ウクライナ南部のニコポリに侵攻した。その後もニコポリ地域のボリシェビキ部隊は、ソビエト赤軍を支援し続けて、パルチザン部隊を編成した。3月末にニコポリからソ連赤軍部隊が反攻した。ニコポリのオーストリア軍は敗退して、ニコポルから余儀なく退却をした。ポリシェビキは反政府運動をした。ウクライナ・オーストラリア軍に占領された地域には、地下パルチザン集団が残存した。ニコポリ地方では、イゴルキンらが地下パルチザンを率いた。カミアンカ川に架かるノヴォパヴリフカ鉄道橋を爆破した。

  1917年から1921年にかけてウクライナ史では、ロシア⾰命,内戦期は,⺠族解放運動の時代とされる。ロシア⼆⽉⾰命後に,キエフにはウクライナ⼈の代表機関の中央ラーダが形成された。臨時政府との交渉の末,中央ラーダの執⾏機関事務総局が,ウクライナの統治機関として承認された。⼗⽉⾰命後に、中央ラーダはウクライナ⼈の帰属地域からなるウクライナ⼈⺠共和国の成⽴を表明して,1918年1⽉に第四ウニヴェルサル(宣⾔)を発して、ウクライナの独⽴を宣⾔した。

 その後に,1918年4⽉には保守派のクーデターによって、ヘトマンを君主として戴くウクライナ国,通称ヘトマン国家が成⽴した。しかし、中央ラーダ派の蜂起によって12⽉にウクライナ国は打倒されて,ウクライナ⼈⺠共和国が復活した。いわゆるディレクトリア政権が成⽴した。この間,反動勢⼒や外国勢⼒の介⼊を受けながらも,ウクライナ⼈は第四ウニヴェルサルで獲得した⾃らの独⽴国家を維持して,ウクライナを建設するために苦闘した。しかし,1921年にはソ連⾚軍に敗北を喫して,ウクライナはソ連が支配する領土の⼀部となった。2022年2月24日に勃発したロシア・ウクライナ戦争には、⺠族解放運動の複雑な歴史がある。 




2024年2月12日月曜日

日本軍の神風特攻機が、1944年10月25日と10月26日に、護衛空母のスワニーに激突して炎上した。護衛空母スワニーのアメリカ軍の乗組員には、大量の死者と悲惨な重度の火傷を伴って、兵員輸送船内で治療を受けた。

日本軍の神風特攻機が、1944年10月25日と10月26日に、護衛空母のスワニーに激突して炎上した。護衛空母スワニーのアメリカ軍の乗組員には、大量の死者と悲惨な重度の火傷を伴って、アメリカ軍兵士は兵員輸送船内で治療を受けた。アメリカ軍兵士の乗組員の多くは、爆発で吹き飛ばされていた。船尾に閉じ込められた他の乗組員はガソリンの炎に閉じ込められて絶命した。

 太平洋戦争にて1944年10月25日にフィリピンのサマール沖で、日本軍による史上初の自爆攻撃まによる初めての組織的な神風特別攻撃を空母スワニーに突撃した。日本軍の神風特攻機が、アメリカ海軍の護衛空母USSスワニー(CVE-27)の前方飛行甲板上に命中した。神風特攻機は10月25日午前7時40分に、6機の零戦がただちに急降下で空母スワニーに突入して、対空砲火で応戦した。午前8時4分に被弾した神風特攻機が、前方の飛行甲板に激突して炎上して、アメリカ軍兵士は71人の戦死者と約82人の戦傷者を出した。

 10月26日正午過ぎに、別の神風特攻部隊の攻撃により、神風特攻機体が12時40時に、空母スワニーの飛行甲板に墜落した。甲板に回収されたグラマン雷爆撃機に激突した。2機は接触と同時に噴火して、飛行甲板上の他の9機も同様に噴火した。その結果、火災は数時間にわたり燃え続けた。10月25日から26日のアメリカ軍の死傷者は、死者107人、戦傷者は160人に上った。神風特攻機の爆弾は、空母スワニーの飛行甲板と格納庫甲板の間で爆発し、艦に約7.6mの傷をつけ、多数の死傷者を出した。10月26日の正午過ぎに、神風特攻機の別のグループが空母スワニーの飛行甲板を墜落させ、回収したばかりの魚雷爆撃機に激突した。2機は飛行甲板上の他の9機とともに炎上して、火災は数時間にわたり燃え続けた。




2024年2月11日日曜日

イスラエル・ハマス戦争で2023年10月23日に、パレスチナのガザ地区南部の都市ラファで、親族の男性がイスラエル軍の空爆で死亡した子供の死体を抱きしめながら追悼した。

2023年10月23日に、パレスチナのガザ地区南部の都市ラファ(Rafah)で、親族の男性がイスラエル軍の空爆で死亡した子供の死体を抱きしめながら、追悼した。

 パレスチナ当局によると、ガザ南部で一晩の空爆により少なくとも28人が死亡した。ハマスが支配するガザのパレスチナ内務省が10月24日早朝に発表した。イスラエル軍の空爆により、南部の都市ラファで、一夜にして少なくとも28人が死亡して、数十人が負傷した。イスラエル軍の空爆は、北部のベイトラヒアや南部のカーン・ユーニスなど、ガザの他の地域でも一夜にして家屋を攻撃した。

 イスラエル軍当局は以前に、ガザへの空爆を強化すると発表した。ガザ地域の保健当局によれば、10月23日までにイスラエル軍による空爆で少なくとも5,087人が死亡して、そのうち2,055人の子どもと1,119人の女性が死亡し、15,000人以上が負傷したと公表した。イスラエル軍軍は、包囲したガザ地域で 地上作戦を展開するために、膨大な数の軍隊と戦車がガザ地区の国境に集結した。

 パレスチナ当局者や目撃者によると、激しい空爆は、パレスチナ人が避難する地域を含むガザ全域の建物を破壊し、数百人を殺害し、すでに満員の病院に新たな負傷者の波を送り込んだ。ガザ地区では少なくとも約140万人のパレスチナ人が家を離れて、そのうち約58万人近くが、国連が運営する学校や避難所に身を寄せたと国連は10月23日に公表した。

 イスラエ軍ルが、最終的な地上攻撃に備えて建物を崩壊して平らにする空爆を強化したため、ガザ地区での死者数は急速に増加した。アメリカはイスラエルに対し、10月7日の残忍な侵攻の際にハマスがさらった人質の解放を交渉する時間を確保するために、侵攻を遅らせるよう勧告した。

 人口約230万人のガザ地区では、イスラエルの国境封鎖により食料、水、医薬品が不足している。イスラエルが依然として燃料の持ち込みを禁止して、国連はガザ地区内のトラックに燃料を供給できなくなれば、数日以内に援助物資の配給が停止すると述べた。死傷者が絶え間なく押し寄せる病院では、救命のための医療機器や未熟児用の保育器に電力を供給するための発電機を稼働させ続けるのが困難となった。数十万人が残るガザ市や北部の他の地域では、援助物資は配布されない。














Warning: Palestinians mourn their relatives killed in the Israel bombardment of the Gaza Strip in Rafah, Monday, Oct 23, 2023. (AP Photo/ Hatem Ali) 

2024年2月10日土曜日

広島原子爆弾による原爆症に苦悩した娘の12歳の少女の竹内ヨウは、広島市の大芝国民学校に設置された臨時特設救護病院で1945年10月11日に、右股関節脱臼、右膝外側、左足に外傷、潰瘍状の挫傷を受傷した。

広島原子爆弾による原爆症に苦悩した娘の12歳の少女の竹内ヨウの両下肢である。広島市の大芝国民学校に設置された臨時特設救護病院で、1945年10月11日に菊池俊吉が撮影した。娘の竹内ヨウは、右股関節脱臼、右膝外側、左足に外傷、潰瘍状の挫傷を受傷した。




  竹内ヨウは、爆心地より南西約2km付近で被爆した。冷蔵庫が倒れて、その下敷きとなり、一時的に失神した。そのために右股関節が脱臼して、右膝と左足内側に外傷を受けた。その傷が化膿して重篤となった。後頭部にも、そいだ傷を受けていた。母も娘も原爆症が発現した9月18日から大芝国民学校に入所した。被爆後約2ケ月経過して、原爆症を呈した。脱毛、下痢、発熱が続いた。母親の竹内ヨネは10月14日に原爆症で死亡して、娘の竹内ヨウは1945年11月に原爆症により死亡した。

 大芝国民学校に臨時特設救護病院が設置され、爆心地から北2.4kmにあり、広島市西区大芝1丁目に位置した。校舎は大破して、一部が焼失した。校庭に避難者があふれたため臨時救護病院に転換した。被爆した8月6日当日にこの周辺は火災にかこまれ、救護に当たった者は、動かせない重傷患者を残して、一時避難しなければならなかった。しかし、火の勢いが鎮まるとともに、医療関係者は引き返して再び医療活動の任務に付いて、医師2人、歯科医3人、薬剤師2人、助産婦1人が配置された。




2024年2月9日金曜日

沖縄戦にて夜襲して突撃した日本軍兵士が、45口径の拳銃で殺害された。アメリカ軍兵士は日中になって上半身裸で日本軍兵士の死体を見詰めた。

沖縄戦にて夜襲して突撃した日本軍兵士が、45口径の拳銃で殺害された。アメリカ軍兵士は日中になって上半身裸で日本軍兵士の死体を見詰めた。

 アメリカ軍第六海兵師団は、沖縄本島の小禄半島に6月4日に上陸した。生残した日本軍兵士の頑強な抵抗と困難な地形で、海兵隊の死傷者は約1,608人に及んだ。日本軍兵士の死者も増して、小禄半島南部の小さな袋地に押しこめられた。アメリカ軍は6月13日に、日本軍が保持した小禄地域を掃討し制圧した。

 小禄地区では日本海軍沖縄方面根拠地隊(海軍沖方根)とアメリカ軍の死闘激戦が続いた。豊見城地区ではアメリカ軍が高安、高入端付近まで南下した。日本海軍部隊はそれ以上の南進を阻止するため、平良付近に増援部隊を派遣した。アメリカ軍は陣地構築に集中して同方面の戦線の動きは活発ではなかった。小禄地区ではアメリカ軍は軍用機の爆撃の支援の下、戦車約70両、兵員1,000人以上が猛攻して激戦となった。日本海軍部隊は挺身斬込みで応戦した。

 日本第32軍はかねてより日本海軍沖方根に南部撤退を命じていた。日本海軍沖方根は6月4日に、小禄、豊見城地区で最後まで戦うとの電報を発した。小禄、豊見城地区で日本海軍沖方根が奮戦することは、アメリカ軍の南進を遅らせた。すでに日本軍の命運は決して、日本第32軍牛島司令官は、日本海軍部隊を南部撤退を再三に渡り南部撤退を呼びかけ、最後は親書を送って撤退を求めるも、南部撤退はかなわなかった。

 小禄村には日本海軍小禄飛行場があり、海軍沖方根が駐屯した。多くの住民が避難せず村に留まって、住民が戦闘に巻き込まれた。小禄村の人口約9,723人のうち沖縄戦での戦死者は約2,917人に及んだ。そのうちの約32%となる約920人が小禄村内で死亡した。アメリカ軍は住民が避難する壕を、片っ端から手榴弾やガス弾で攻撃し、沖縄の住民を殺害していった。