2023年12月30日土曜日

広島原子爆弾の爆心地から約900mの地点の兵舎外の付近で、18歳の男性の日本軍兵士が被爆した。両側の下腿後面には第3度の限局性熱傷を受傷した。露出した皮膚だけの典型的な肉やけどを合併した。

広島原子爆弾の爆心地から約900mの地点の兵舎外の付近で、18歳の男性の日本軍兵士が被爆した。両側の下腿後面には第3度の限局性熱傷を受傷した。露出した皮膚だけの典型的な肉やけどを合併した。18歳男性の被爆者は広島原子爆弾の爆心地から約900mの兵舎の野外にいた。ケロイドの形成を伴う第2度熱傷は部分的には治癒した。18歳男性の被爆者は、広島第一陸軍病院宇品分院で治療を受けた。広島原子爆弾が1945年8月6日に投下して炸裂した数日後にケロイドを伴う第3度熱傷を受傷した。

 この写真は広島原子爆弾が投下して炸裂した79日後の10月24日にアメリカ軍によってカラーで撮影された。終戦直後にアメリカ軍が原子爆弾の写真資料を日本からアメリカ本国に接収した。その後に28年間もアメリカ軍病理学研究所(AFIP: The Armed Forces Institute of Pathology)に保管された。約2万点もの資料が1973年5月に日本に返還された。返還された資料は、三つに大別された病理標本、解剖記録、写真等であった。

  原子爆弾の生体への影響は、原子爆弾の電離放射線以外の要因、他の傷害、不潔、悪臭、精神的要因などが、海水障害や嘔吐に関与した。放射線障害の症状は、被爆者内部での発生率の高さによって証明された。爆心地から約1km以内にいた被爆者の嘔吐の発生率は広島で35%、長崎で27%であった。5kmより遠かった被爆者の発生率はそれぞれ1%と2%であった。同様に、食欲不振は広島では約1km以内の被爆者の48%、長崎では37%にみられた。約5km以上ではそれぞれ7%と5%であった。

 爆心地からの距離と遮蔽に関連した吐き気、嘔吐、食欲不振の発生率は、距離とともに着実に減少した。屋外で遮蔽されない内側の区域にいた被爆者の罹患率は、重い建物内にいた被爆者の罹患率とかなり近似した。前者の多くは構造物の陰にいた可能性があり、重い線量を受けた人は致命的な損傷を受けた。防空壕やトンネル内の被爆者には嘔吐が少ない。約2km以内の屋外または日本式建物、約1km以内の重建築物にいた人の発症率は、それ以上離れた場所や防空壕やトンネル内にいた被爆者よりもはるかに高かった。その症状の発生率は、女性よりも男性で高く、特に被爆の多い集団で高かった。火傷の有無は、被爆者の吐き気と嘔吐に有意な影響を及ぼさなかった。




2023年12月29日金曜日

ワルシャワ蜂起にて、ドイツ軍は反乱した容疑者のポーランド人に絞首刑を執行した。約63日間のワルシャワ蜂起に巻き込まれ、大量殺戮は、ドイツ親衛隊、警察、流刑大隊、ロシア人民解放軍の部隊によって執行された。

ワルシャワ蜂起にて、ドイツ軍は反乱した容疑者のポーランド人に絞首刑を執行した。ワルシャワ市民は、約63日間のワルシャワ蜂起に巻き込まれ、民間人が最も苦しんだ。8月5日から6日だけでも、ヴォラ地区の4万人以上の住民が虐殺された。大量殺戮は、ドイツ親衛隊、警察、流刑大隊、ロシア人民解放軍の部隊によって執行された。

 タデウシュ・コモロフスキ司令官が指揮する約5万の部隊からなるポーランド自治軍(AK)は、1944年8月1日に比較的弱体なドイツ軍守備隊を攻撃してワルシャワ蜂起が勃発した。3日以内にポーランド軍は市内の大半を支配下に戻した。鉄道駅や道路の分岐点など、主要な交通・通信の要所を占領できなかった。ソビエト軍が攻勢を停止したために、8月20日までに、ワルシャワ市内にいたドイツ軍は反撃計画を固めて8月25日に反撃を開始した。十分な支援を受けた残忍な攻撃で、約4万人ものポーランド市民が虐殺された。ワルシャワ蜂起は約10日間続く予定であったが、装備と補給に勝るドイツ軍に有利な包囲戦に巻き込まれた。

 一方、赤軍は、蜂起の最初の数日間、ドイツ軍の攻撃によって拘束され、ワルシャワからヴィスワ川を隔てた郊外のプラガに陣地を占めて休戦した。ソ連政府は、西側連合国が苦境に立たされたポーランド人に物資を空輸するために、ソ連の空軍基地の使用を拒否した。連合国が占領したイタリアのブリンディジ飛行場からの飛行は、約1,300km以上のドイツ軍の敵地を横断したため、損害は甚大となった。最終的に、9月13日、ソ連のヨシフ・スターリン首相は、ワルシャワでの限定的な人道的・軍事的援助の空輸を開始したが、ポーランド軍を助けるには遅すぎた。

 ワルシャワ蜂起が際限なく続くと、ドイツ軍の絶え間ない砲撃、飢餓と配給、水、電気、生活必需品の不足によってワルシャワ市民とポーランド自治軍は士気を失った。連合軍の大きな支援がないままに、ポーランド自治軍は小さなバラバラの部隊に分裂し、補給が尽きると10月3日に降伏を余儀なくされて、ポーランド自治軍兵士は捕虜となった。ドイツ軍はその後に、ワルシャワ住民を組織的に強制送還しワルシャワを破壊した。ワルシャワ蜂起では、約15,000人のポーランド軍と約250,000人の市民が死亡して、ドイツ軍は約16,000人の兵士を損失した。残った民間人約65万人はワルシャワ南部の強制収容所に強制送還された。




2023年12月28日木曜日

スペイン内戦にて1936年9月6日に、共和派の農民がスペイン北部のバスクの都市イルン郊外の農場を国民党軍から防御した。傍らには戦死した同志の共和派農民の死体があった。

スペイン内戦にて1936年9月6日に、共和派の農民がスペイン北部のバスクの都市イルン郊外の農場を国民党軍から防御していた。その傍らには戦死した同志の共和派農民の死体があった。反乱軍の国民党軍は、8月9日のイルンの戦いの最初の攻撃は失敗に終わった。8月27日に再攻撃を試みて、約9日間にわたる激戦の末に、9月5日にモラ軍がイルンを占領した。その1週間後にはサン・セバスティアンを制圧した後、戦線は数ヶ月間静寂に包まれた。

 スペイン内戦は1936年7月17日に、右翼将軍のグループがスペインの民主的に選出された共和国政府を転覆させる軍事クーデターが勃発に端を発する。クーデターはスペインの多くの都市で国民党軍部隊によって侵攻された。しかし、マドリード、バルセロナ、ビルバオといったスペインの大都市のいくつかは、依然として共和国政府の支配下にあった。

 クーデターから数日のうちに、ヒトラーとムッソリーニは反乱軍将兵の側に介入した。ソ連は共和国軍のロイヤリストを支援した。イギリス、フランス、アメリカは中立を維持し、共和国への武器売却を禁じた。スペインの覇権をめぐる戦いは、3年近く続く凄惨な大惨事となった。写真報道という新しいメディアは、世界中の人々に内戦の恐ろしい映像をもたらした。国際的連帯を示すために、50カ国から約35,000人の志願兵が国際旅団に参加し、共和国を守るために生命と身体を危険にさらした。

 イタリア軍とモロッコ軍の支援を受けた国民党軍は、南部と西部の拠点から北上し、禁輸措置で弱体化した共和国軍の都市を占領した。バルセロナとその他カタルーニャ地方は1939年初めに陥落し、フランコ軍は3月28日にマドリードは陥落して、4月1日にフランコは内戦の終結と勝利を宣言した。スペイン内戦で共和国側と国民党側で50万人もの戦闘員と民間人が殺されたと推定した。両陣営で残虐行為が行われて、フランコ将軍率いる国民党軍は、戦後にさらに数千人を処刑した。紛争中、10万人以上の男女が処刑され、無名の墓に埋葬されたと推定されている。スペイン内戦戦で、共和党の親左派勢力が、国民党の勢力に敗北し、スペインにおけるフランコ将軍の長期独裁時代が始まり、1975年11月20日に死亡するまで継続した。




2023年12月27日水曜日

1934年2月12日勃発したオーストリア内戦にて、ウィーンの「カール・マルクス・ホーフ」の段差に、銃殺された政府軍や警察官と労働者らの犠牲者たちの死体が横たわった。

1934年2月12日勃発したオーストリア内戦にて、ウィーンの「カール・マルクス・ホーフ」の段差に、銃殺された政府軍や警察官と労働者らの犠牲者たちの死体が横たわった。内戦の戦闘は主に、カール・マルクス・ホーフ、ロイマンホーフ、サンドライテン、オタックリング労働者宿舎などで、約3日間にわたり継続した。2月15日に、ドルフュス政権は政府軍の戦死者118人、負傷者486人と公表した。対抗したドイツ親衛隊は、戦死者は196人、負傷者は319人と推定した。イギリス人ジャーナリストは、戦死者は1,500~2,000人、負傷者5,000人と推定した。

 1934年2月12日早朝に、オーストリアのオーバーエスターライヒ州リンツで、社会民主党が所有するビルが襲撃された際に発砲があってオーストリア内戦が勃発した。社会民主労働党の準軍事組織である共和国防衛同盟が、ドルフュス政権に対して蜂起した。ウィーンの社会民主党はゼネストを招集して対抗したが、長年の失業と絶望的な貧困で、労働者が大勢で蜂起できなかった。

 1933年3月5日に、エンゲルベルト・ドルフュス首相のファシスト政権は、はクーデターを実行した。戦時経済実現法により、独裁政治により、報道の自由は廃止され、集会の自由は制限され、陪審裁判は廃止され、多くの産業で刑罰の脅威によりトライキが禁止され、労働会議所が廃止されて雇用保護法は弱体化され、既存の団体協約は修正され、賃金と失業手当は削減され、警察には政治犯罪の管轄権が与えられた。1934年2月12日に戒厳令が布告され、社会民主労働党、自由労働組合、社会民主党のすべての文化団体やその他の組織が解体された。2月14日からの軍法会議で9人に死刑が執行された。



2023年12月27日  
Japan No War  (JNW)
日本平和市民連盟    

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2023年12月26日火曜日

1919年1月31日にイギリスのスコットランド最大都市のグラスゴーにて、ジョージ・スクエアの戦いの労働者のストライキで、警察官の警棒に殴られたクライド労働者委員会のデビッド・カークウッドは地面に倒れ込んだ。

1919年1月31日にイギリスのスコットランド最大の都市グラスゴーにて、ジョージ・スクエア(George Square)の戦いの労働者のストライキにて、警察官の警棒に殴られて、デビッド・カークウッド(David Kirkwood)は地面に倒れ込んだ。デイヴィ・カークウッドは、暴力行為の中止を訴えるために市庁舎を飛び出して、警察官の警棒に殴られた。

 第一次世界大戦が1918年11月11日に終結からわずか数カ月後に、労働時間をめぐるストライキがスコットランドのグラスゴーのジョージ広場に大群衆を集めた。ロンドン政府は本格的な社会主義革命の幕開けを懸念した。その結果、ストライキの群衆は警察の警棒で殴打されて、最後の一回だけ暴動法が読み上げられた。そのため、ロンドン政府はグラスゴーの街をコントロールするために必死の措置をとった。秩序を回復するために約1万人以上の軍隊が投入されて、6台の戦車と100台の自動車が北部に送られた。ロシアでは革命が起きて1年余り、ドイツでは王政が転覆する暴動が起きた直後で、ロンドン政府はグラスゴーの騒乱に動揺した。

 1月31日金曜日の朝、何万人もの人々がジョージ・スクエアまで行進した。マルクス主義社会主義の象徴である赤旗が広場に持ち込まれた。群衆は領事による政府の回答を聞こうと集まった。政府はすでに週40時間労働制の要求を拒否して、代わりに全国的な公式労働組合と話し合うことを好んだ。クライド労働者委員会(CWC: Clyde Workers Committee)のデイヴィ・カークウッドやマニー・シンウェルを含む代表団が市庁舎に入り、プロボストに面会した。

 何人かが路面電車をひっくり返そうとして、ガラスを叩いたり、車を押したりした。広場には約2万人から約2万5千人がいた。警察は群衆に突撃し、警棒で無差別に殴打した。突然、ラナークシャーの保安官A・マッケンジーが、暴動法を読み上げ、集会は違法であると宣言して、群衆に解散を命じ始めた。暴徒はグラスゴー・グリーンに撤退し、警察との戦闘が続いた。いくつかの地区では夜遅くまで散発的な戦闘が続き、路面電車が壊され、商店の窓ガラスが割られ、商品が略奪された。ギャラチャー、カークウッド、シンウェルら指導者が逮捕された。ギャラチャーは警察署長に飛びかかり、警棒で殴られて逮捕された。CWCのリーダーら6人が裁判にかけられた。

 暴動の翌朝の2月1日に、武装したスコットランド連隊の軍隊がジョージ広場をパトロールして、郵便局とノース・ブリティッシュ・ホテルの屋上には機関銃が設置された。2月3日までに、キャトルマーケットには6台の戦車が停まった。軍隊は2月17日まで市内に滞在した。ジョージ・スクエアの戦いは、わずか1週間余りでストライキは終結して、週47時間労働を基本に和解が成立した。



 

2023年12月25日月曜日

1938年10月に日本軍の戦闘機による広東省の北海の爆撃により、中国軍兵士が殺害された。日本軍が羅芳遺跡を占領した後に、屋外の階段に中国軍兵士の死体が並べられた。

1938年10月に日本軍の戦闘機による広東省の北海の爆撃により、中国軍兵士が殺害された。日本軍が羅芳遺跡を占領した後に、屋外の階段に中国軍兵士の死体が並べられた。日本軍が広東省を攻撃した時に、中国軍兵士の死体を路上の階段に安置した。中国軍兵士の服はすでに破れて、顔はほとんど判別できないほど損傷した。日中戦争がいかに悲惨であったかを示唆した。日本軍は、中国軍兵士の死体を前にしても、容赦なく侵攻した。

 1937年12月13日に首都南京の占領に勢いづいた日本軍は、1938年に入ると、一層に積極的な中国侵略に踏み出した。1938年5月には、華北と華中を結ぶ重要地点にある徐州を占領した。8月から10月にかけては華中の揚子江中流域の中心地・漢口、華南の中心都市・広東への攻撃と占領があいついだ。なかでも漢口攻撃は大激戦となり、マラリアによる犠牲者もでて、日本軍は2万2000人にのぼる戦死傷者をだした。

 日本軍の広東攻略戦は10月12日バイアス湾に奇襲上陸を敢行して勃発した。上陸した各部隊は、一挙に内陸部まで侵攻して、10月15日には恵州を占領して、10月19日には増城を占領した。広東方面の中国軍は武漢防衛のため兵力を割かれて、迎撃は散発的となった。日本軍は10月21日に広州に入城した。一方で、主力と分かれ珠江を遡行して虎門要塞と三水を占領した第5師団も広東攻略を展開して、10月29日には広東入りして第21軍主力と合流して広東攻略が完結した。

 日本の軍部は、1938年末までに全中国の武力支配の完成をねらっていた。しかし、首都を重慶にうつした蒋介石は、「全国軍民に告ぐるの書」を発表して長期抗戦の決意をあらわし、中国共産党の毛沢東は、全民族の統一と団結で長期持久戦を戦い抜く訴えた。日本は、中国侵略のために約100万人をこえる兵力を出しているにもかかわらず、広大な国土をもつ中国では、都市とそれを結ぶ鉄道の点と線の支配を保つのが精一杯で、いつ果てるともしれない長期戦の泥沼にのめり込んでいった。




2023年12月24日日曜日

2023年9月16日に、ウクライナのドネツク州アンドリエフカ近郊の前線で、戦死したウクライナ軍兵士の死体が荒野に横たわった。ウクライナ第3突撃旅団兵士は、仲間のウクライナ軍兵士の死体の側を歩いて侵攻した。

2023年9月16日に、ウクライナのドネツク州アンドリエフカ(Andriivka)近郊の前線で、戦死したウクライナ軍兵士の死体が荒野に横たわっていた。ウクライナ第3突撃旅団の兵士たちは、仲間のウクライナ軍兵士の死体の側を歩いて侵攻した。バフムートを取り戻すために、ウクライナ第3突撃旅団は地獄の戦いで、森を生き延びて侵攻した。

 ウクライナ軍の反攻が2023年夏に始まって以来、ウクライナ軍第3突撃旅団が目標としてきたバフムトから南に約10kmのアンドリブカ村に向かって、焼け焦げた木々の間をよろよろと侵攻した。第3突撃旅団の戦闘員は、完全に枝をもぎ取られた木々が生い茂る残酷な戦場を侵攻して、周囲には、レンガや瓦礫の山が散在した。幅数十本、長さ約2kmの枯れた森が、アンドリエフカ村に向かう区間に位置した。ロシア軍が支配するバフムトへの道に無数に枯れた森があった。ロンドンの王立連合サービス研究所は、ウクライナ軍は約5日ごとに平均700~1200m前進して、ロシア軍は撤退する際に領土を掘り下げて、特に地雷を掘る時間を与えたと分析した。ロシア軍は9月16日までの1週間で約16回のウクライナ軍の攻撃を撃退し、ウクライナ軍の死傷者は約1700人以上、戦車は約16両に上ったと報告した。

 バフムトは2023年5月にロシア軍に陥落した。数百人単位で死亡した刑務所の徴兵を含む傭兵ワグネル戦闘員の波状攻撃によるものだった。ウクライナ軍第3突撃旅団はこの1月間で、地雷やブービートラップの仕掛けられた塹壕を横切り、大砲やドローン発射の手榴弾やロシア軍をかわしながら、約2kmしか侵攻できなかった。最後の攻撃が9月14日に勃発して、消耗した他の部隊の兵士も加わり、通常3~4日間の戦場となり、トネリコの木立の中を2カ月かけて少しずつ前進し、ついに森を突破してアンドリイフカ村にたどり着いた。ウクライナ軍はアンドリエフカ村を砲撃し、大通りに煙幕を張った。ロシア軍の大砲は、退却したり降伏したロシア軍兵士に命中した。最後の約100mには、血、金属、ゴミ、使用済み弾丸、ズタズタの装甲が散在した。アンドリフカ村は、レンガの山と焼け焦げた木々に死の臭いが漂った。













Warning: Ukrainian 3rd Assault Brigade servicemen walk next to the bodies of their comrades, killed at the frontline near Andriivka, Donetsk region, Ukraine, Saturday, Sept. 16, 2023.  (AP Photo/Mstyslav Chernov)


2023年12月23日土曜日

長崎原子爆弾が投下されて炸裂した翌日の1945年8月10日午後3時すぎに、長崎本線の道ノ尾駅前に設置された臨時救護所にて、日赤第713救護班の看護婦が被爆者の顔面と両腕の火傷に包帯を巻いて手当をした。

長崎原子爆弾が投下されて炸裂した翌日の1945年8月10日午後3時すぎに、長崎本線の道ノ尾駅前に設置された臨時救護所にて、看護婦が被爆者の顔面と両腕の火傷に包帯を巻いて手当をした。道ノ尾駅は、爆心地から北方に約3.6kmに位置した。救護している看護婦は、日本赤十字社の佐賀県支部で結成された、日赤第713救護班に所属していた。日赤第713救護班は、8月10日午前4時30分頃の汽車で、佐賀市から長崎市内に向かった。

  写真の看護婦は、19歳の西久保キクノ(旧姓鶴丸)であり、当時は佐賀陸軍病院に勤務していた。西久保キクノは、被爆した翌日の1945年8月10日に、道ノ尾駅の臨時救護所で、日本軍の報道カメラマンであった山端庸介によって6枚の写真が撮影された。終戦から21年目の1978年に、東京の大学に通っていた長男が、21歳の若さで白血病により急死した。原爆の救護に出たから、長男が原爆病死したと自責の念から、その後看護婦を辞めた。

 長崎に原子爆弾が投下された後に、長崎県内や他県からも救護隊が派遣された。長崎市内一帯が壊滅したために、長崎本線の小さな道ノ尾駅が被爆者を救護して移送する最前線の駅となった。爆心地から約3.5kmの距離にある道ノ尾駅は、長崎原子爆弾の炸裂時には、一部の壁が落下して、窓ガラスが飛散した。道ノ駅の駅舎に大きな被害がなく、駅前広場に臨時救護所が設置されて、長崎本線の救援列車の起点となった。臨時救護所には、瀕死の被爆者が集散した。道ノ尾駅の臨時救護所では、むしろがけの2つの小屋に約200人もの被爆者が収容された。救援列車で移送した人数は、合計約3,500人にも上った。乗る順番を待つ行列は、途絶えることなく、プラットホームも道ノ駅の広場にも被爆者で一杯となった。




2023年12月22日金曜日

クメール・ルージュによる処刑、強制労働、飢餓、病気から生還したカンボジア人が、タイとの国境を越えた。タイでは、カンボジア難民の弱者は疲労と病気で死亡した。

クメール・ルージュによる処刑、強制労働、飢餓、病気から生還したカンボジア人が、タイとの国境を越えることもあった。タイでは、カンボジア難民の弱者は疲労と病気で死んでいった。1979年11月までには、ジャーナリストがタイの国境に集まり始めた。そのうちの一人が、ガンマ/リアソン社で働くフランス人写真家であるアルノー・デ・ウィルデンバーグ(Arnaud de Wildenberg)が撮影した。カンボジア難民の多くはタイのアランヤプラテートの南にあるバン・タプリックに到着した。赤十字はそこで難民を選抜して、新しい難民キャンプが建設されたサカオに運送した。多くの人が周囲の森で倒れ、それ以上歩くことができなかった。サカオでは、クメール・ルージュが他の難民を脅し続けて、しばしばカンボジアのクメール・ルージュ支配地域への自発的送還を受け入れさせた。

 1979年半ばは、クメール・ルージュはまだカンボジア地域を支配していた。ベトナム軍のカンボジア侵攻が迫りつつあった。クメール・ルージュはタイ国境沿いの救援活動が利益になると考えた。クメール・ルージュは、国境を越えたところに武器を隠し、罪のない難民を装った。ベトナム軍に対するゲリラ攻撃に戻った。1978年12月25日に、ベトナム軍はカンボジアに侵攻し、間もなく国土の大部分を占領し、親ベトナム政府を樹立してカンボジアを統治し、1979年1月10日にカンボジア人民共和国が成立した。クメール・ルージュの残党はタイとの国境近くのカルダモン山脈に退却し、カンボジア西部では他の抵抗運動が勃発した。

 クメール・ルージュが以前に仕掛けた地雷やブービー・トラップが、カンボジア難民たちに大きな犠牲をもたらした。食料と新鮮な水の不足は、難民の疲労や病気に拍車をかけた。カンボジア難民がタイに押し寄せるようになってから、カンボジアの悲劇の犠牲者の増大が国際的に広く知られた。

 カンボジアの荒廃は、ベトナム共産主義者がカンボジア領土をゲリラ活動の拠点として使い始めたベトナム戦争に端を発した。アメリカ軍は疑われたカンボジア拠点地域を攻撃することで対抗した。ベトナム人は拠点を離れると、カンボジア政府軍との戦闘に巻き込まれた。ベトナム人はやがて、カンボジアの反政府勢力の代理人として登場した。戦闘がエスカレートするにつれ、反乱軍であるクメール・ルージュは急速に勢力を伸ばした。包囲されたカンボジア政府は1975年4月17日に降伏した。




2023年12月21日木曜日

第一次世界大戦中のソンムの戦いにて1916年7月に、イギリス軍兵士の戦死傷者は西部戦線の基地病院に搬送される前に処置を受けた。

第一次世界大戦中のソンムの戦いにて1916年7月に、イギリス軍兵士の戦死傷者は西部戦線の基地病院に搬送される前に処置を受けた。第一次世界大戦にて史上最悪の戦いの一つとなったソンムの戦いでは、イギリス・フランス両軍は終結に失敗して、約100万人の兵士が命を落とした。戦争中に使用された爆発物によって、イギリス軍兵士たちは火傷を負った。戦場では多くの兵士が砲弾の爆発で死亡し、生き残った兵士も顔や体に榴散弾の傷を負った。

 ソンム攻防戦は1916年4月1日から11月19日まで約4ヶ月間続いた。戦争以前に義務教育を受けたフランスの軍隊に比較して、イギリス軍兵士は素人同然で、戦闘訓練の不足を数で補った。第一次世界大戦が勃発した1914年7月28日の時点でイギリス軍兵士数は約25万人だった。ソンム攻勢戦が始まる頃には、戦闘に参加するイギリス軍の数は約150万人以上に膨れ上がった。ソンムに集結したフランス北部の連合軍には、イギリス軍に加えて、カナダ、ニュージーランド、南アフリカ、インドなど大英帝国全域からの部隊が含まれた。

 第一次世界大戦で最も血なまぐさいソンムの戦いが勃発した1916年7月1日は、イギリス軍で最も血なまぐさい日となった。フランスのソンム川で連合軍によるソンムの戦いが勃発した。戦闘は激しい砲撃で始まり、午前7時30分の攻撃開始時刻になるまで、大砲を容赦なくドイツ軍に降り注いだ。イギリス軍第4軍の約10万の兵士たちは、塹壕の頂上を越えて、ドイツ軍の最前線に向かった。防衛戦術に慣れたドイツ軍は、塹壕に深く潜り込んだ。戦線は地下壕によって強化され、イギリス軍は大砲で潰れると考えていた。多くのドイツ軍は地下壕を持ちこたえ、ドイツ軍は戦闘態勢を整えた。砲兵は目標を変え、イギリス軍歩兵の突進が始まったとき、ドイツ軍機関銃兵は攻撃を受ける準備ができていた。ソンムの初日が終わるまでに、約57,000人のイギリス兵が死傷して、約19,240人が死亡した。

 連合軍全体としてはあまり前進できず、部隊は孤立を余儀なくされた。連合軍には約4.8平方kmの土地をもたらした。ソンムの戦いの初日が終わった後に、多くのイギリス軍ヘイグ司令官は損害に慄然とし、攻撃を放棄するつもりだった。しかし、ベルダンでのフランス軍の壊滅が目前に迫っていたヘイグは、ソンムの戦闘を続けなければならないと考えた。イギリス単独では戦争に勝つことはできず、ヴェルダンで泥沼にはまり込んだジョフルフランス軍司令官やフランスのペタン将軍、ニヴェル将軍からの緊急の嘆願によって、ドイツ軍が全戦力をヴェルダンに集中させるとフランス軍は敗北することが明らかになった。ソンムの戦いの死者数は、イギリス軍は約42万人(うち死者12万5000人)、フランス軍は約20万人、ドイツ軍は約50万人の死傷者を出した。ソンムの戦いで、戦車が初めて戦闘に使用され、主要な新技術が導入された。




2023年12月20日水曜日

大隅重信は、外務大臣の時に1889年10月18日には国家主義組織である玄洋社の一員である来島恒喜に爆弾による襲撃を受けて、一命はとりとめたものの、右脚を大腿下三分の一で切断することとなった。

早稲田大学の創設者である大隅重信は、外務大臣の時に1889年10月18日には国家主義組織玄洋社の一員である来島恒喜に爆弾による襲撃を受けて、一命はとりとめたものの、右脚を大腿下三分の一で切断することとなった。来嶋恒喜は、大隅重信を狙撃した後に、現場で自刃して自殺した。赤十字社により、アルコール漬より取り出した右下腿が撮影された。大隈重信は10月18日に内閣より外務省へ帰る途中で、外務省の門前において来嶋恒喜が爆裂弾を投げて、左脚を傷けて、遂にこれを切断するのやむなきに至った。これを機として黒田清隆内閣は総辞職し、次いで一時的に三条実美が総理大臣となった。12月には山県有朋内閣が成立した。右翼国粋主義団体の活動が頻繁に見られはじめた。未だ自由民権運動的な色彩をも加味するものから、急速に国権主義日本主義侵略主義的な運動となった。玄洋社はその代表的な日本で初めて創設された右翼団体であった。 

 1886年7月、猛烈な世論の反対を受けて外相の井上馨の条約改正案は中止となり、井上馨は辞職して首相の伊藤博文が兼摂した。1887年2月に大隈重信は外相となり、条約改正案に当り、11月に改正の趣旨を在外諸公使に訓令した。まずはアメリカの同意を得た。この間に、後藤象二郎を中心とする大同団結運動は、強硬外交を主張しながら華々しく展開した。当の後藤は、1889年2月に黒田清隆内閣 (88年4月成立)に逓相として入閣して、その変節は世人を驚かせた。大隅重信は、日本が江戸時代に締結した不平等条約にて、外国人が在留国にて外国の領事による裁判を受ける領事裁判権を改正を提案した。

 大隈重信の改正案は、1889年4月19日、イギリスの「ロンドンタイムス」に暴露された。外人の内地雑居、外国判事の任用の規定等が、いたく朝野の人士を刺激し、時論は俄かに沸騰して、しきりに反対運動が起った。内は枢密院議長の伊藤博文をはじめ、逓信大臣の後藤象二郎、法制局長官の井上毅等、外は自由民権派、国粋保守派を問わず、反対運動は猛烈を極めた。8月には在野の熊本国権党、福岡玄洋社等保守団体の全国非条約大懇親会が開かれた。10月15日遂に明治天皇の御前会議の開催となった。賛成者は僅かに総理大臣黒田清隆等数人を数えるのみであった。10月18日閣議は改正商議の中止と決した。

 大隅重信の右脚の切断は、直ちに外務省のソファ上で海軍軍医の高木兼寛が処置して、赤十字病院の佐藤勇主任等が切断して、ベルツ博士が支援した。切断手術がすんでから大隅の脚は大きなガラス瓶にアルコール漬となった。「邸へ届けて下さい」と命のままに早稲田の大隈邸へかつぎ込まれた。大隈は元来は酒は余り呑まない方であが、分身たる切断された脚は1月間に6.70円に上るアルコールを必要とした。大名生活の会計係もすっかり音をあげた。アルコールを飲んだくれた脚は、赤十字中央病院に参考品として引取られた。病院の「開かずの部屋」と云う薄気味悪い一室に安置された。




2023年12月19日火曜日

アメリカ軍の海兵隊員は、ハイチにてシャルルマーニュ・マセナ・ペラルテを1919年11月1日に暗殺した。ペラルテの死体は、ヒンチ町のドアに釘で打ち付けた写真を公開した。

アメリカ軍の海兵隊員は、ハイチにてシャルルマーニュ・マセナ・ペラルテ(Charlemagne Masséna Péralte)を1919年11月1日に暗殺した。ペラルテの死体は、ヒンチの町のドアに釘で打ち付けられた。アメリカ軍が死体を撮影して写真を公開して、ペラルテの残存信者の士気を下げようとした。アメリカ軍による処刑後に、カコスの指導者ペラルテの死体が展示された。逆効果で、イエスの十字架からの降下に類似して、ペラルテは国民的殉教者の栄誉を得た。

 ペラルテはハイチの民族主義指導者で、1915年のアメリカ軍によるハイチ占領に抵抗した。カコス(Cacos)と呼ばれるゲリラ戦闘員を率いて、ハイチに駐留するアメリカ軍に挑戦を叩きつけた。深刻な内紛が始まり政府が再び転覆したハイチに、ウッドロー・ウィルソン米国大統領は、1915年7月にアメリカ海兵隊を派遣して、ハイチを侵攻した。アメリカは1915年から1934年までハイチを占領した。ペラルテはレオガン市軍司令官だった。1918年9月に強盗事件の逮捕から逃亡して、ペラルテはハイチ北部に臨時政府の樹立を宣言した。数千人の農民非正規兵を動員して、1919年10月7日にポルトープランスを含むアメリカ軍の軍事施設を攻撃した。ペラルテは将校の一人であるジャン=バティスト・コンゼの裏切りに遭い、変装したアメリカ海兵隊軍曹ハーマンH.ハンネケン(後にその功績により少尉に昇進)とウィリアム・バトン伍長を率いて、グラン=リヴィエール=デュ=ノールは、変装して夜陰にまぎれてグラン・リヴィエール近くの反乱軍キャンプに侵入した。1919年11月1日にペラルテは至近距離から背中の2発から心臓を撃たれて暗殺された。ハンネケンとその部下たちは、ペラルテの死体をロバに縛り付けて逃走した。

 殺害されたペラルテの遺体はヒンチェで公開された。ハイチ住民からの反政府勢力の支持を思いとどまらせるため、アメリカ軍はペラルテの死体をドアに縛り付けた写真を撮影し、国内で配布した。しかし、それは逆効果となり、十字架刑に似たその画像はレジスタンスの象徴となり、ペラルテを殉教者として定着させた。1934年には世界恐慌の影響や、ニカラグアでのサンディーノ軍への苦戦などもあって、ルーズベルト米国大統領の善隣外交政策により、ハイチからも海兵隊が撤退することになった。




2023年12月18日月曜日

第1次世界大戦の西部戦線にて、1917年10月12日の夜明け前に、ベルギーのパッシェンデールの戦いはぬかるんだ凄惨な戦場となった。オーストラリア軍歩兵士が戦死した連合軍の兵士を死後処置をして、毛布を敷いた。

第1次世界大戦の西部戦線にて、1917年10月12日の夜明け前に、パッシェンデール(Passchendaele)の戦いはぬかるんだ凄惨な戦場となった。ベルギーのゾンネベケ駅付近のブロックハウスの周囲で、オーストラリア軍歩兵が戦死した連合軍の兵士を死後処置をして、毛布を敷いた。イーペルの町からほど近く、湿地帯であるイーサー渓谷とライエ渓谷を隔てる丘の尾根に位置した。背景には、雲の向こうから太陽の光が射していた。10月12日はさらに深い目標を掲げた再攻撃は、泥にまみれて死んだ部隊を除き、攻撃部隊が振り出し地点に戻って終わった。

 第1次世界大戦中に、パッシェンデールの戦いは泥の戦いとして知られた。ベルギーのイーペルで行われた3回目の最も長期間の戦いとなった。約3年間にわたる激しい戦闘にて、排水システムは完全に破壊された。何百万発もの砲弾でかき回された地面は、雨に濡れると粘り気のある泥沼に化した。この戦いは1917年7月31日に、イギリス軍は潜水艦の檻を破壊するために、フランドルを突破してベルギーの海岸に向かって砲撃した。ドイツ軍はこの攻撃に完全に備えて、連合軍はドイツ戦線を突破できなかった。1917年8月に雨が降り始め、約30年間で最大の降雨量となり、フランドル地方は沼地と化した。10月中旬には、カナダ軍団がイギリス軍からパッシェンデール戦線への出撃を命じられた。新しい道路や砲台の建設、路面電車の修復をして、何十万発もの砲弾が馬やラバで前線に運ばれた。パッシェンデール稜線の頂上では、ドイツ軍が継続的に砲撃を行い、何百人ものカナダ兵が死傷した。カナダ軍団は、11月10日までに15,654人を損失しながらもパッシェンデールを占領した。

 パシェデーレの戦いは、第一次世界大戦の恐怖と多大な人的犠牲を象徴した。塹壕の中も、塹壕の前も、塹壕の後ろも泥だらけだった。どの砲弾の穴も、不潔なにじみ出る泥の海だった。歩兵が泥沼に沈んで二度と生き返らなかった。殺戮の数々、わずか約20mの距離を得るために犠牲になった。泥の中での疲労はひどいもので、泥に足を取られて、もうこれ以上進めなかった。イギリス軍の死傷者は約275,000人、オーストラリア軍は約36,000人、ニュージーランド軍は約3,500人、カナダ軍約16,000人であった。ドイツ軍は、約22万人の死傷者を出した。約90,000人の死体が確認されず、約42,000人が回収されなかった。




2023年12月17日日曜日

パレスチナのガザ地区中部のアル・マガジ(al-Maghazi)難民キャンプの民家を狙ったイスラエルの空爆で、2023年11月4日深夜に子どもを含む50人以上のパレスチナ人が死亡した。

パレスチナのガザ地区中部のアル・マガジ(al-Maghazi)難民キャンプの民家を狙ったイスラエルの空爆で、2023年11月4日深夜に子どもを含む50人以上のパレスチナ人が死亡した。イスラエル軍はガザにある少なくとも3つの難民キャンプを空爆した。イスラエル軍は、10月7日のパレスチナ抵抗組織ハマスによる奇襲攻撃以来、ガザ地区への空爆と地上攻撃を拡大した。アル・マガジ難民収容所に対するイスラエル軍の攻撃で、ガザ保健省は約47人が死亡して、アル・アクサ病院は約52人が死亡したと公表した。犠牲者の多くは女性と子供であり、病院に運び込まれる死体が増大した。

 ガザ保健省によると、イスラエル軍によるガザ地区への攻撃は、2023年11月6日までの約31日間の時点で、約10,022人のパレスチナ人(約4,104人の子供を含む)が殺害された。イスラエル軍は11月6日の数時間だけで19件の攻撃を行って、約292人が死亡したとガザ保健省は述べた。ガザ保健省は、ガザ地区への医薬品、燃料、医療視察団の輸送のために、安全かつ緊急の人道的通路の提供を求めた。数千人のパレスチナ人の負傷者をガザ地区からエジプトや他のアラブ諸国に避難させるように求めた。ガザ地区の医療チームは、食料や基本的生活必需品が不足して、悲惨な状況に直面した。国連と世界に対し、侵略を止め、占領者の拘束を直ちに行動するように訴えた。

 ハマス武装勢力は、イスラエル軍がガザ地区北部の複数の病院付近を集中的に爆撃した伝えた。イスラエル軍は攻撃の前に電話やインターネットを遮断した。爆撃は、包囲された地区で最大のアル・シファ病院付近で特に激しかった。パレスチナのメディア情報によると、イスラエル軍機は、アル・シファ病院の本館にあるソーラー・エネルギー・ユニットを標的とした。イスラエル軍は、ガザ地区北部のインドネシア病院付近も急襲した。イスラエル軍の空爆は、ガザの他の地域から強制退去させられた人々が避難していた数軒の集合住宅を崩壊した。ハマスは10月7日にガザ国境付近の地域社会や軍事拠点に攻撃を仕掛け、民間人を中心に1,400人以上が死亡し、240人以上のイスラエル人と外国人の人質が拉致された。イスラエル軍は、報復と懲罰としてハマスの壊滅を宣言した。





















Warning: more than 50 Palestinians killed, including children, in an lsraeli airstrike targeting a house in al-Maghazi refugee camp, central Gaza Strip.

2023年12月16日土曜日

広島原子爆弾が炸裂した後に、婦人が自宅に戻ってから焼け野原で焼滅した広島市内で洗濯に出ていた。婦人の背中には、児童を抱えながら、バケツの中でしゃがみ込んで手もみで洗濯をした。

広島原子爆弾が炸裂した後に、婦人が自宅に戻ってから焼け野原で焼滅した広島市内で洗濯に出ていた。婦人の背中には、児童を抱えながら、バケツの中でしゃがみ込んで手もみで洗濯をした。お風呂に入る、髪や体を洗う、衣服を洗濯することは、日常的除染を行っていた。水で洗い流すことにより、放射性物質はかなりの量を落とすことが可能であった

 1945年8月15日午前8時15分に、高度約9,630mから広島市内に原子爆弾が投下されて、地上に落ちる直前に爆発した。突然に、空に白っぽく、ピンクがかったまぶしい光が現れて、不自然な揺れを伴った。数秒のうちに、広島市の中心部の通りや庭にいた何千人もの人々が、焼けつくような熱の波に焦がされた。多くの人が即死して、他の人たちは火傷の耐え難い痛みに悶え苦しみながら地面に横たわった。壁、家屋、工場、その他の建物など、爆風に直立していたものはすべて破壊された。瓦礫が渦を巻いて空中に舞い上がった。路面電車は拾い上げられ、まるで重さも固さもないかのように放り投げられた。生きとし生けるものすべてが、筆舌に尽くしがたい苦しみの中で死滅していた。梁、レンガ、桁が渦を巻いて家々を倒壊した。原子爆弾の爆発の中心である爆心地から、3マイル以内の家々がまるでボール紙で建てられたかのように平らになった。安全な場所まで逃げ延びた数少ない人たちは、被爆後の約20日から30日後にガンマ線の放射線障害によって死亡した。

 原子爆弾の爆発から約30分後に、広島一帯の空が雲ひとつない中に、町には細かい雨が降り始めて、約5分間降り続いた。この雨は、熱せられた空気が突然高いところまで上昇し、そこで凝縮して雨となって降った雨である。雨が降ると上空に漂っている放射性物質が雨と一緒に落ちてくるために放射能の検出値は上がった。その後、激しい風が吹き荒れ、火は恐ろしい速さで燃え広がった。夕方には火は消え始め、そして消えた。燃えるものは何も残っていなかった。広島は消滅していた。広島・長崎の原子爆弾は核分裂反応が空中で起き、なにもさえぎるものがない状態で、大量の放射性物質が地上に降り注いだ。