2023年8月4日金曜日

第ニ次世界大戦の終戦の3ヶ月前の1945年2月3日に、アメリカ空軍の約937機の爆撃機が、ベルリンを空爆した。ベルリンは2月3日の空襲で2500人の死者を出し、約12万人のベルリン市民が、ホームレスになった。

第ニ次世界大戦の終戦の3ヶ月前の1945年2月3日に、アメリカ空軍の約937機の爆撃機が、ベルリンを空爆した。ベルリンは2月3日の空襲で2500人の死者を出し、約12万人のベルリン市民が、ホームレスになった。犠牲者の死体は路上に積み上げられた。約1,000機に及ぶアメリカ空軍のB-17の空中爆撃隊は、2月3日に第8空軍によるドイツ首都ベルリンに爆撃をした。2月3日の爆撃は官庁街に焦点を当て、ベルリン市民の意思を打ち砕くことを目的とした。ベルリンの歴史の中で最も被害が大きかった2月3日の爆撃となった。

 この爆撃は、ベルリンの南部と隣接する北西部に、風に乗って東に向かって延焼する市街火災を引き起こした。火災は約4日間続き、地域内の可燃物はすべて灰になり、火がベルリンの水路や大通り、公園にまで達した。約1854トンの高性能爆弾と約226トンの焼夷弾を投下した。空襲で使用された爆弾はほとんどが高火薬で、焼夷弾ではなかった。爆弾が落下し、周囲で爆発し、街が燃え始めると、何千人ものベルリン市民が立っていた場所で即座に火葬にされた。毎日のように1945年2月から3月に、首都ベルリンは、空襲により攻撃された。イギリス空軍とアメリカ空軍は、ソビエト軍がベルリンに入城する直前の4月16日にベルリンの空爆を中止した。

 第ニ次世界大戦にて、イギリス軍による首都ベルリンへの最初の空襲は、1940年8月25日の夜に執行された。その後の数か月間、さらに散発的な攻撃が発生した。爆撃戦の第一段階は1941年秋まで継続した。その後1943年1月までベルリンは事実上再び攻撃されなかった。1942年全体で、ベルリンの警報サイレンが約9回鳴り響いた。ベルリンは戦略航空戦の唯一の目標ではなく、非常に重要な目標であった。ベルリンはドイツ帝国の首都であり、重要な産業および兵器の拠点であった。1944年3月から、アメリカ陸軍航空軍 (USAAF) は日中に、イギリス空軍 (RAF) の空軍は夜間空襲した。1945年2月から3月に、首都ベルリンはほぼ毎日空爆された。




2023年8月3日木曜日

太平洋戦争の1945年2月16日に、フィリピンマニラ湾のコレヒドール島の戦いが勃発した。アメリカ軍約2,050人の空挺部隊は、中央部に降下して上陸した。海岸に殺害された多数の日本軍兵士の死体を、アメリカ軍兵士は、死体を偵察しながら検死した。

太平洋戦争の1945年2月16日に、フィリピンのマニラ湾のコレヒドール(Corregidor)島の戦いが勃発した。アメリカ軍の約2,050人の第503空挺部隊は、コレヒドール島のほぼ中央部に降下して上陸した。日本軍は、完全に不意をつかれて、東西に分断されて、戦闘は2月26日中に終結した。コレヒドール島の海岸には、殺害された多数の日本軍兵士の死体が散乱した。それをアメリカ軍兵士は、死体を偵察しながら検死した。その後に、生存した日本軍はゲリラ戦に転戦した。

 コレヒドール島は、フィリピンのマニラ湾防衛の要所であった。コレヒドール島を防御する約4,500人の日本軍兵士に対して、アメリカ軍は2月16日に空と海から一斉に侵攻した。日本軍が立て籠もる要塞には、猛烈なコレヒドール島の空襲により、約2.59平方kmに約3128トンも投下された。

 アメリカ軍のコレヒドール島への降下は、1945年2月16日午前8時30分に始まった。第54兵員輸送飛行隊82機(C-47)が2回の搬送で、ミンドロ島から第503部隊の約2,050人を運んだ。最初の投下は高度約198mから行われ、直後に約152m以下に下げられた。アメリカ軍空挺部隊は、日本軍が厳重に要塞化された陣地で、推定約850人(後に約5,000人以上と判明)の日本軍兵士の防衛に直面した。空挺部隊の空襲は、日本軍の守備隊を完全に強襲して、最初の目標を迅速に奪取した。2月16日当日終わりまでに、アメリカ軍は、ビーチヘッド地域の主要な地形を制圧した。増援されたアメリカ軍が、2月16日朝にサンホセ海岸に上陸し、海岸の地雷で死傷者を出した後に、丘陵を確保した。

 2月16日のアメリカ軍の2回の突撃で、多くの日本軍生存者は一時的にマリンタ・トンネルに隠れた。コレヒドール島の中心部に深く掘られた長さ約426mのトンネルは、旧アメリカ軍の補給基地であった。日本軍守備隊は集団自殺して玉砕するのために、近くの弾薬庫に点火した。爆発で日本軍兵士の大半は死亡して、約52人のアメリカ軍兵士も巻き込まれ死亡した。爆発で生き残った日本人は、野外に追い出され、アメリカ軍に全滅さけた。2月27日までに、アメリカ軍は約4,5000人の日本軍兵士を殺害し、約19人を捕虜にした。コレヒドール島を正式にアメリカ軍が支配した3月2日までに、約210人の死者を含む約1000人以上の死傷者を出した。





2023年8月2日水曜日

1941年9月に、マチヴァ地域の男性ロマ人とユダヤ人がセルビア西部のシャバツ収容所に移送されて、ドイツ国防軍の銃殺隊により殺害されて、集団墓地に埋葬された。

1941年9月に、マチヴァ地域の男性のロマ人が、ユダヤ人とともにセルビア西部のシャバツ収容所に移送された。そこで彼らはドイツ国防軍の銃殺隊によって殺害されて、集団墓地に埋葬された。ロマは、ロマニ系ジプシーに由来して中東欧に居住する移動型民族であった。1935年に、ナチス・ドイツはロマを劣等民族と見なす法律を施行して、ロマ撲滅を図った。ユダヤ人に対するホロコースト、ロマに対するポライモスで絶滅政策を執行した。

 ユーゴスラビアが4月17日に枢軸国軍に降伏して、約6週間後の1941年5月末に、ドイツ軍事政権はセルビアのロマ人をセルビア系ユダヤ人と同様に特別な支配下に置いた。彼らは名前をジプシーリストに載せて、ジプシーと書かれた黄色い腕章を着用した。1941年の秋から、男性のロマ人とユダヤ人は収容所に投獄されて、ドイツ国防軍の特殊部隊によって射殺された。ロマ人も強制収容所での強制労働のためにユーゴスラビア占領地域からドイツ本土に移送された。少数派の多くのメンバーが、チトー政権下の抵抗運動に参加した。

 1941年10月2日に、トポラ近郊のドイツ陸軍部隊に対する攻撃で21人の兵士が死亡しまた。ベーメ将軍は、約2,100人の囚人を射殺対象に選ぶように命じた。約805人のユダヤ人とジプシーが、シャバツ収容所から連行された。残りはベオグラードのユダヤ人収容所から連行された。

 10月11日に、ドイツ国防軍部隊に囚人が引き渡された。10月11日夕方6時に、親衛隊SS隊員が収容所に来て、囚人をアルファベット順に整列させた。男性囚人たちは死の行進を知らずに、ザサヴィツァに向けて集合した。彼らは10月12日と10月13日にサヴァ川で撃たれた。セルビアの強制労働者は以前に、長さ約250~300メートルの溝を掘らされた。約50人ごとに男たちは、貴重品を預け、溝から約1~2m離れた溝に面して立位された。2人のドイツ軍兵士が各囚人の後ろに並び、命令に従って彼らを射殺した。

 ドイツ軍兵士は、囚人の袋を調べ、全貴重品を取り出した。手から指輪を外させた。射殺されて墓に投げ込む前でさえ、死者から金の義歯を奪い取り、ブーツのかかとで金歯を叩き落とした。強制労働者が死体に土をかぶせた後に、次の50人のロマとユダヤ人の囚人が強制連行された。シャバツ強制収容所に残った女性たちは、男性たちの運命を全く知らなかった。

 銃撃によって大量殺人が始まり、1941年12月初旬に約3万人以上が射殺された。クラドボ輸送隊の男性に加えて、すべてのセルビア系ユダヤ人男性、ロマ人と非ユダヤ人のセルビア人も含まれた。ユダヤ人男性のうち、約500人は強制収容所で保健・治安要員として、生存した。




2023年8月1日火曜日

キベホ虐殺は、1995年4月22日にルワンダ南西部のキベホ国内避難民収容所で大虐殺が発生して、多くの死体が散乱して転がった。キべホ国内難民キャンプ内で約4,000人がルワンダ愛国軍によって殺害されたと推定した。

キベホ虐殺は、1995年4月22日にアフリカのルワンダ南西部のキベホ近くの約4万人以上の国内避難民が暮らす国内避難民収容所で発生した。大虐殺で、多くの死体が散乱して転がった。右端には、国連平和維持(PKO)のザンビア軍兵士が立っていた。国連ルワンダ支援派遣(UNAMIR)の一環として32人のオーストラリア軍兵士らは、キべホ国内難民キャンプ内で少なくとも約4,000人がルワンダ愛国軍(RPA)兵士によって殺害されたと推定した。ルワンダ愛国戦線の軍事部門が率いるルワンダ新政府は死者数を約338人と推定した。国内避難民の多くは、内戦から逃れてきたフツ族の市民であった。

 4月18日に、RPAの重武装した約1,000人の軍隊が、収容所を閉鎖するためにキベホに到着した。4月22日午前10時過ぎ、大雨の中、避難民がカミソリワイヤーやバリケードに向かって殺到するなか、RPA部隊が病院敷地内の群衆に向けて発砲した。RPA部隊はその後2時間にわたり、逃げる難民に向けて発砲を続けた。RPAは当初、群衆に向けて小銃を発砲して、その後に60mm迫撃砲を使用した。ルワンダ難民は追い詰められ銃撃された。RPAは昼食後に一時的に速度を落とし、午後6時頃まで撮影を再開した。国境なき医師団(MSF)とオーストラリア軍の医療チームは、多数の負傷者の対応に苦悩した。多く負傷者はその後にキガリ病院に搬送された。ルワンダ愛国軍の歩兵部隊が、砲撃の合間に負傷者を掃討した。基地や病院に搬送している間、医療チームは救護を続けた。病院も砲撃されて、ザンビアの敷地内に移された。虐殺は一日中断続的に続いた。難民収容所内のあちこちでルワンダ難民が殺害された。RPAはさらに4月22日午後5時以降に脱出を試みた別のルワンダ国内避難民に対して自動弾丸、ロケット推進の手榴弾、50口径機関銃を発砲した。

 RPAは4月22日から23日の夜にルワンダ難民の死体の埋葬を開始した。4月23日の夜明け、オーストラリア医療隊が立ち入った地域では、約4,200人の死体を検死した。死体はすでに撤去されいた。RPAがオーストラリア軍に死体の検死を強制的に停止した。撤去された遺体を除いて、まだ400~500体あると推定した。死者は銃剣による刺傷か至近距離の銃撃で死亡した。ルワンダ政府は約330人と国連当局者は約2,000人と殺害数を最小限に抑えた。ルワンダ愛国戦線の委員会は、現地視察は行われず、虐殺は国内避難民からの発砲があったと結論づけた。RPA軍の攻撃に群衆はパニックを引き起こし、暴動を恐れたRPA軍兵士らは群衆に無差別発砲した。

 1994年4月から5月のわずか3ヶ月の間に推定約80万人のルワンダ人が虐殺された。大虐殺は、内戦の勃発に端を発した民族間の激しい対立が原因で、フツ族の過激派がルワンダのツチ族と穏健派のフツ族に対して大虐殺した。ツチ族が支配するRPAが、フツ族が支配した旧政府に勝利を収めた。




2023年7月31日月曜日

第ニ次世界大戦の西部戦線のバルジの戦いにて、ベルギーで1945年1月にアメリカ軍の第82空挺師団部隊との戦闘で、殺害されたドイツ軍兵士の死体が積雪の街路に散乱した。

第ニ次世界大戦の西部戦線のバルジの戦いにて、ベルギーで1945年1月にアメリカ軍の第82空挺師団の空挺部隊との戦闘で、殺害されたドイツ軍兵士の死体が積雪の街路に散乱した。ベルギーの雪道の通りを歩くアメリカ軍兵士は、雪の中に横たわるドイツ軍兵士の死体を見詰めて妍子した。ドイツ軍兵士は、アメリカ陸軍第82空挺師団の部隊に、町を奪還されまいとして殺害された。

 1944年12月16日に、霧に包まれた冬の早朝に、約20万人以上のドイツ軍と約1000台近い戦車が、連合軍がフランスのノルマンディー上陸から始まったドイツ軍の衰運を覆す最後のバルジ作戦を開始した。ドイツ軍は、アルデンヌの森で攻撃を仕掛け、戦線は約120kmに及ぶ区間であった。アルデンヌ反抗作戦とも呼ばれ、1944年12月16日から1945 年1月25日までの過酷な戦闘が約6週間続いた。極寒の気象条件下で、木々が生い茂るアルデンヌの森で、約30個のドイツ軍師団が戦闘で疲労したアメリカ軍を約137kmにわたって攻撃した。ドイツ軍がアルデンヌに侵攻すると、連合軍の前線が大きな隆起の様相を呈し、これがバルジの戦いの名前の由来となった。

 凍てつく雨、濃い霧、深い雪の吹きだまり、記録的な低温が、アメリカ軍に残虐な行為をもたらした。その冬季には、塹壕足、肺炎、凍傷などの寒冷傷害が約1万5000件以上報告された。天候がようやく回復し、連合軍の空軍が12月25日に攻撃して、12月26日までに、ドイツ軍の侵攻がムーズ川の手前で止まった。ドイツ軍は1945年1月8日にバルジの戦いから撤退を開始した。連合軍は、1945年1月25日の戦いで勝利を宣言し、ベルリンに向かって侵攻した。戦争は約5か月以内にドイツ軍の5月7日の降伏により終結した。アメリカ国防総省によると、バルジの戦いでは約50万人のアメリカ軍兵士を含む約100万人以上の連合国軍が戦い、約1万9千人が戦死、4万7千5百人が負傷、2万3千人以上が行方不明となった。約10万人のドイツ軍兵士が死亡、負傷、または捕虜となった。ノルマンディー上陸作戦、第一次世界大戦のムーズ・アルゴンヌ攻勢に次ぐ、アメリカ軍史上3番目に死者を出した戦闘となった。




2023年7月30日日曜日

ウクライナのザポリージャ地方でロシア軍との戦闘で、両目と両腕と聴力の一部を失った夫のアンドリィを、2023年7月10日に妻のアリーナがキエフの病院で抱きしめた。

2023年7月10日にウクライナのキエフにある病院で、夫のアンドリイ(Andrily)を、妻のアリーナ(Alina)は抱きしめた。アンドリィはウクライナ陸軍47旅団の航空偵察将校で、作戦コードネーム(Apostle)使徒で、ザポリージャ地方でのロシア軍との戦闘で重傷を負った。ウクライナ内務相が7月12日に、ツイッターに「多くの言葉よりも」と写真1枚を共有した。ウクライナ戦争で両目と両腕と聴力の一部を失ったアンドリーさんとその妻のアリーナさんの写真である。戦闘任務を遂行中に、アンドレイはロシア軍の銃撃を受けた。砲弾の一つが彼の足元で爆発した。彼を救護した衛生兵は、青年は助からないと確信した一方で、アンドレイ自身は最後まで意識があり命令を下した。

 27月23日には、ウクライナ南東部で激しい戦闘が繰り広げられた。ウクライナ当局は、大規模な攻勢を開始した、ロシア当局は敵対行為が著しく激化したと述べた。ウクライナ軍は、約17ヶ月前に侵攻したロシア軍に対して、NATO諸国が供給した武器と訓練した軍隊で反攻を開始した。ワシントンの戦争研究所は、ウクライナ軍が7月26日にザポリーザ西部で、大規模な機械化反攻作戦を開始し、ロシア軍の防衛陣地を突破したと報告した。ウクライナ当局は、7月27日にウクライナ軍一団がザポリージャ州に隣接するドネツク州のスタロマイオルスケ(Staromaiorske)村を制圧した動画を投稿した。ウクライナ当局は南東部の村落の支配権を取り戻した部隊を祝福した。

 ロシア当局は南東部ザポリージャ地方で攻撃を撃退したロシア軍を賞賛した。ロシア当局は国営テレビで、ウクライナ軍の攻撃は成功せずに、多くの死傷者を出したと告発した。ウクライナ軍は6月上旬に反攻を開始して以来、少しずつしか成果を上げていない。ロシア当局は、証拠を提示せずに、ウクライナ軍が大損害を被ったと繰り返し主張した。ウクライナ軍はここ数日、南東部地域に数千の軍隊を投入した。

 アメリカ政府関係者は、ウクライナ軍は第10軍団の部隊を投入し始めた。予備軍の第10軍団を保持して、ロシア軍の防衛網を突破できた戦場に、新たな部隊が追加された。ウクライナ軍は戦闘力を温存して、ロシア軍の地雷原を慎重に突破している。ロシア軍は、ウクライナ軍の進撃を妨害する広大な地雷原を設置し、戦闘機や浮遊弾薬を使ってウクライナ軍の装甲車や大砲を攻撃した。アメリカ政府当局は、ウクライナに武器や情報を提供した。ウクライナがロシアの陣地を削り取る中、忍耐を促したが、最新の動向にコメントを避けた。














Warning: Alina, left; hugs her husband Andrily in a hospital in Kyiv, Ukraina, July 10, 2023. Andriy was a Ukrainian army 47 brigade air reconnaissance officer, code name, Apostle, who was heavily wounded in a battle with Russian troops in the Zaporizhzhia region.(AP Photo/ Libkos, File)

2023年7月29日土曜日

1945年9月下旬、アメリカから医学面での協力要請により、日米合同調査団が結成された。10月中旬に合同調査団の広島班は、広島第一陸軍病院宇品分院を拠点とした。11月7日に宇品の広島鉄道局仮家屋で、被爆者の検診が実施された。

広島原子爆弾が投下された広島市内で、日米合同調査団の医師により被爆者の検診が実施された。1945年9月下旬、アメリカから医学面での協力要請により、日米合同調査団が結成された。10月中旬に、来日して広島市を訪問した合同調査団の広島班は、広島第一陸軍病院宇品分院を拠点として合同調査を始めた。1945年11月7日に、宇品の広島鉄道局仮家屋(the temporary home of the Hiroshima Railroad Bureau in Ujina)で、被爆者の検診が実施された。

  1945年9月22日に東京帝国大学医学部で、アメリカ側軍医関係者と東京帝国大学医学部の長宮猛雄教授らが会合し、アメリカ側は医学面での協力を要請した。その結果、「日米合同調査団(the Japan-US Joint Commission)」(アメリカ側は「合同委員会(the Joint Commission)」と呼称)が結成された。日本側参加調査団のメンバーは、主として都築教授によって選出された。東京帝国大学医学部の各教室から36名の研究者と医学部生21名、理化学研究所から村地幸一、これに、陸軍軍医学校、東京陸軍病院のメンバーが協力した。

 日本とアメリカの調査団なる合同調査団の広島班(アメリカ側メイソン大佐以下10人、日本側37人)は10月12日に広島に入った。広島第一陸軍病院宇品分院(the Ujina Branch of the Hiroshima First Army Hospital)を本拠として合同調査を始めた。合同調査団のアメリカ側医師と日本側医師は共同で被爆者の検診を行なった。アメリカ側の第一次調査は、1946年9月に終り、収集した資料はアメリカに持ち帰った。

 この合同調査団の調査内容については、アメリカ側は合同委員会の報告書1946年11月「日本における原爆の医学的効果」として、日本側は、学術研究会議の「原子爆弾災害調査報告集」の中でそれぞれ報告した。







2023年7月28日金曜日

日中戦争の南京事件にて、日本軍によって石油で焼き殺された南京市民の死体が焦化した。焼死体は、日本軍の爆撃で死んだあるいは焼き殺された中国人車夫であった。

日中戦争の南京事件にて、日本軍によって石油で焼き殺された南京市民の死体が焦化した。焼死体は、日本軍の爆撃で死んだ中国人あるいは日本軍に生きたまま焼き殺された中国人車夫と、国民政府が主導して記録された(顾金亮『日寇暴行実録』Picture Record of Japanese Savagery, 1938年)。1937年12月に勃発した南京事件の写真が出回った。

 焼死体の周囲には、焼け残った車以外に火災の痕跡が見られない。爆撃の火災ではなく、車夫は明らかに人為的に焼却された。全身がくまなく焼けて、地面に横たわった状態で燃料を掛けられ、燃やされた。焼かれる前に、既に死体が激しく腐敗して、死体の四肢は屈曲せず水平に伸展し、足は炭化して崩れて、肘は伸展した。死亡後、一週間も経過した死体は、筋肉のタンパク質の腐敗が激しい為に、焼却しても四肢が屈曲しなかった。焼死体は、生きたまま焼き殺されたのではなく、手の付けられないほど腐敗し焼かれた。

 1937年12月13日に、侵攻してきた日本軍は、当時中国の首都であった南京に侵攻し、約40日以上にわたる大虐殺を行って、膨大な中国軍兵士と民間人が無残に虐殺された。中国は長い間、日本軍の残虐行為を大虐殺と据えてきた。日本では、南京大虐殺を否定する勢力が常に存在した。日本の政治や社会が右傾化する中で、南京大虐殺を否定する動きが再び強まった。日中戦争初頭の1937年12月、大日本帝国軍が中華民国の南京市を占領した際、約2カ月にわたり多数の中華民国軍の捕虜、敗残兵、便衣兵および一般市民を殺害、略奪、強姦、放火した

 日本軍は侵攻する先々で焼き討ちと略奪を尽くし、中国の街は廃墟と化し、かつての家屋は荒廃した。日本軍の残虐行為である焼却された死体が、、日本軍の残虐行為を、焼却と略奪に狂奔した映像が映し出した。邪悪な日本軍の侵略は、中国の各所を焼き払おうとて、焦土にした。爆撃の後に、日本軍は再度に火を放ち、高熱の焼夷弾、火災を誘発する油を、人口が密集した都市に、絶え間なく投下した。何度も燃やして、何千年もの中国の遺産が破壊された。炎に埋もれた中国人は、非人間的で悲惨な虐殺に遭遇した。放火による残虐行為は、盗賊や強盗よりも悲惨である。








2023年7月27日木曜日

第ニ次世界大戦の東部戦線にて、1941年10月にZiS-3砲の側で、ソ連軍砲兵が殺害されて、倒れたとても若いソ連軍の乗組員の死体が散乱した。砲弾が命中して、破片が斜面のゴムを破壊して、銃砲が損傷していた。

第ニ次世界大戦の東部戦線にて、1941年10月にZiS-3砲の側で、ソ連軍砲兵が殺害されて、倒れたとても若いソ連軍の乗組員の死体が散乱した。砲弾が命中して、破片が斜面のゴムを破壊して、銃砲が損傷していた。

 ルジェフの戦いが、第二次世界大戦の東部戦線にて、1942年1月8日から1943年3月31日に、ドイツ国防軍に対してソ連赤軍が一連の攻撃をした。戦闘はスモレンスク州の北東部とトヴェリ州の南部で行われた。ソ連軍の損害が甚大となり、ルジェフ肉挽き作戦と呼称された。モスクワ近郊に追いつめられたソ連赤軍が、ドイツ軍に対して反攻に出て、ルジェフの戦いで、ヴャジマへ向かって侵攻し始めた。ルジェフ周辺のみを残して、ソ連軍は前線を西へ押し返して、さらに残存したドイツ軍の突出部に対して再度攻撃が行われた。激しい戦いで、ルジェフの建物は全て消滅して、その人口の6分の1以上がドイツに送られて強制労働を強要された。その他の市民の約9,000人は射殺され拷問を受けた。ルジェフ中心に設置された強制収容所で飢えて死んだ。

 ドイツ軍の武装親衛隊(SS)兵士は、苛酷で無慈悲な思想で能弁な政治思想から、隔絶された永劫の時が流れた。ヒトラー総統への忠誠と祖国必勝の信念に突き動かされて、武装SS部隊は、ロシアの侵攻にて沼沢地、森林を遮二無二に侵攻した。英雄的行為と犠牲に、身の毛のよだつ戦場物語が記録された。武装親衛隊は第ニ次世界大戦の膨大な記録の中に、自らの居場所を獲得した。南方、中央、北方軍集団のいずれの戦区でも、ソ連軍が最初の痛手から立ち直り死守した地点で、ソ連軍の反撃によりドイツ軍戦線に穴が穿たれた地点で、武装親衛隊SSに出動命令が下された。

 武装親衛隊SSは、ドイツ全軍の先頭に立った。ドニエプル河に橋頭堡を獲得し、ソ連軍のクリミア防御をペレコプで打ち破り、タガンロクを襲ってロストフへと侵攻した。武装親衛隊は、ソ連軍を追ってアゾフ海の岸辺へと達した。ボロジノの南で、ソ連軍のモスクワ防衛線を突破して、首都ワルシャワまであと数kmの地点まで進撃した。1941年末にソ連軍が初めて、大反撃を発起した時点には、武装親衛隊SSは戦史に類を見ない奮戦ぶりを示した。ソ連軍の猛射に耐え、殺到する戦車と歩兵集団の攻撃をも跳ね返した。武装親衛隊SSはドイツ東部軍の火消し役という武力を発揮した。




2023年7月26日水曜日

太平洋戦争のペリリュー島の戦いで、日本軍守備隊はアメリカ軍の水際撃滅を狙って、やっと木陰にたどり着いた2人のアメリカ軍海兵隊員も、日本軍に狙撃されて射殺された。

太平洋戦争においてペリリュー島の戦いにて、日本軍守備隊は、オレンジ海岸のアメリカ軍の水際撃滅を狙った。アメリカ軍を水際撃滅を狙って、日本軍は可及的に引きつけて爆撃するように命じられた。この2人の海兵隊員も、やっと木陰にたどり着いた地点で、日本軍に狙撃されて射殺された。椰子の木の陰に隠れていたアメリカ軍兵士は、両手で拳銃を持ち上げ、 狙いをつけようともがいた。日本軍兵士は、次から次へと倒しに、海岸へ突撃した。海岸では敵味方入り乱れての白兵戦が展開中された。軽機関銃や小銃で、狙いを定める余裕もなく、敵味方もただ引き金を引いた。

 アメリカ軍は、1944年9月15日午前8時に、ペリリュー島に上陸した。アメリカ軍兵士が、艦砲射撃に援護された上陸用舟艇や水陸両用戦車が、海岸に上がってきた。海岸にたどりついたアメリカ軍米海兵隊員たちは、予想を裏切られて、 日本軍の猛反撃に遭った。たのみの水陸両用戦車は炎上し、やむなく海岸に乗り上げた上陸用舟艇の陰に隠れた。

 至近距離で撃ち合いだけでなく、手榴弾の投げ合いとなった。海岸に上陸はしたが、日本軍の重砲火で進撃は困難となった。砲爆撃で椰子の木は全部倒されて、敵陣も不明で殺したり殺されたりの白兵戦となり、弾がつづくかぎり撃ちまくった。

 アメリカ軍の前線の第1線には、は黒人兵が多かく、かなりの黒人兵士が戦死した死体が散乱した。ペリリュー島に南洋特有のスコールが通り過ぎ、もうもうたる硝煙と火薬の異臭が洗い流された海岸線には、敵味方の死体が累々と陽に焼かれ、白波に洗われていた。死体の数は明らかにアメリカ軍兵士の迷彩服の方が多かった。アメリカ軍は、ペリリュー島の第1次上陸作戦で、上陸用舟艇約60余隻、シャーマン戦車約3輌、水陸両用戦車約26輌を損失して、約1,000人以上の死傷者を出し、午前8時すぎに、一時的な撤退のやむなきに至った。

 コンクリートで築いたり、珊瑚礁で、日本軍の防空壕や砲座が海岸のいたるところにあり、海にも陸にも機雷や地雷をギッシリと敷設した。交叉した道路には、対戦車砲と自動火器で厳重に防備した。突然と、横にいた兵士が動かなくなり、少し前まで喋っていた兵士が、もう誰が誰かわからない。砂の中に頭を埋め、足を高くして頭を低くしないとタマがよけられず、ペリリュー島の攻略はまったく地獄戦となった。

 ペリリュー島の戦いは、激烈をきわめたアメリカ軍は、ペリリュー島の占領後、上陸点の西海岸 (西浜)を、オレンジ・ビーチと名付けた。両軍兵士の血で白い珊瑚の海面がオレンジ色になってしまったからだ。オレンジ・ビーチは、いまやペリリュー島では正式名称化した。ペリリューの作戦はアメリカ軍は3日間で終了すると公言したが、11月27日に終結した。アメリカ軍は、戦死者約2,236人、戦傷者約8,450人、戦病者は約2,500人と日本軍は、戦死者約10,022人、戦傷者は約446人の犠牲を伴った。





















2023年7月26日  
Japan No War NGO  (JNWN)
日本平和市民連盟    
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2023年7月25日火曜日

1943年1月26日に、ニコライエフカ村でソ連軍の包囲網を突破するための攻勢戦により、負傷した多数のドイツ軍兵士が、雪の吹きだまりに置き去りされて凍死した。

第二次世界大戦の東部戦線にて、ニコライエフカの戦いは、1943年1月にイタリア軍がスターリングラードの戦いを巡る攻防で起こった包囲突破である。ニコライエフカ村(現ロシア・ベルゴロド州リヴェンカ)付近で、イタリア第8軍のアルピーニ(山岳)軍団がソ連軍の包囲突破した。1943年1月26日に、ニコライエフカ村でソ連軍の包囲網を突破するための攻勢戦により、負傷した多数のドイツ軍兵士が、雪の吹きだまりに置き去りされて凍死した。凍結した死体は、積雪の戦場に放置されて道路の砂利となった。ソ連軍女性カメラマンのガリーナ・サンコー(Galina Sanko)が撮影して、『レニングラード,1942年』に掲載された。

 1942年12月16日、ソ連軍はイタリア第8軍を狙って小土星作戦を開始した。ソ連軍は、ドン川沿いに強行渡河してイタリア第8軍を包囲して、コーカサスで戦っているドイツ軍A軍集団と断ち切った。12月16日、ソ連軍がイタリア第8軍を攻撃して、瞬く間に壊滅した。ソ連軍は黒海に急速に南下した。

 イタリア軍のアルピーニ軍団は、右翼のソ連軍からの攻勢を受けなかった。1943年1月13日に、ソ連軍は土星作戦で、イタリア軍の北西でドン河畔のスヴォボダ付近でハンガリー2軍を攻撃し、包囲し、撃破した。アルピーニ左翼のドイツ軍の残存部隊を押し戻し、イタリア軍アルペン軍団を包囲した。1月17日夜、イタリア軍のアルペン軍団は完全撤退を命じられた。戦闘作戦を遂行できるのはトリデンチーナ師団だけだった。イタリア軍のアルピーニ軍団とドイツ軍とハンガリー軍を加えた約4万人の集団は、わずかなドイツ軍装甲車の支援を受けながら、西方の枢軸側戦線へ向かった。

 1月26日朝、トリデンチナ師団はニコラエフカ村に到達し、ソ連軍が両側の鉄道堤防を要塞化した。午前9時30分に、イタリア軍のアルペン軍団とドイツ軍が攻撃を開始した。正午までにイタリア軍はニコラエフカ村の郊外に到達した。日没までに、イタリア軍のアルペン軍団は、強化されたソ連軍の戦線を突破するのに苦闘した。イタリア軍は、人海戦術でソ連軍の陣地を攻撃して、ソ連軍の戦線を突破した。イタリア軍の生き残り部隊はソ連軍の包囲突破して、戦闘地域から撤退できた。

 2月1日に、イタリア軍のアルピー軍団の残党は枢軸軍の戦線に帰還した。クネンセ師団は壊滅し、ジュリア師団の10分の1(約15,000人の兵力のうち約1,200人)のみが生き残り、トリデンチーナ師団の3分の1(約15,000人の兵力のうち約4,250人)のみが生き残った。ソ連軍の攻撃開始時に約10,466人を数えたヴィチェンツァ師団は、約7,760人が戦死または行方不明となった。合計すると、イタリアのアルペン軍団は戦闘開始時に約57,000人の兵士のうち34,170人が戦死し、9,400人が負傷した。ソ連軍の死傷者は約1,000人であった。




2023年7月24日月曜日

1903年に勃発したマケドニア国粋主義者によるイリンデン蜂起を鎮圧したオスマン・トルコ軍は、斬首により殺害した反乱軍の首を手前に自慢のポーズをとった。

1903年に勃発したマケドニア国粋主義者によるイリンデン蜂起を鎮圧したオスマン・トルコ軍は、斬首により殺害した反乱軍の首を手前に自慢のポーズをとった。オスマン帝国の支配下にあったマケドニアの解放のためにたゆまぬ戦いを続けた。中世ヨーロッパでは斬首は高く評価された。貴族にのみ首を切り落とされ、農民や職人は絞首刑や溺死した。20世紀になり、西洋文明によって斬首が非人道的で野蛮と認識された。現在、死刑の斬首は、中東諸国のカタール、サウジアラビア、イエメン、イランでのみ執行された。

 1903年8月に、イリンデン・プレオブラジェニエ蜂起が勃発した。約26,408人の反乱軍が、約35万人のトルコ正規軍と非正規軍を相手に生死をかけた戦いを繰り広げた。約3ヶ月の抵抗の後、蜂起は血に染まって鎮圧された。反乱軍は約994人が戦死傷して、民間人が約4,694人が死亡した。オスマン・トルコ軍は、約5,328人が戦死傷した。 

 19世紀にオスマン帝国の力が低下すると民族主義的思想が普及し、バルカン半島全体に動揺をもたらした。ギリシャ人、ブルガリア人、セルビア人などが独自の学校を設立し、言語を基にして民族性を築いた。ブルガリア正教とセルビア正教がギリシャ正教から独立した。バルカン半島のスラヴ人がギリシャ語でなくスラヴ語で説教をする教会に行けた。バルカン半島では国籍の概念が浮上し始めた。19世紀の蜂起と戦争の結果、ギリシャ王国、セルビア王国とブルガリア王国がオスマン帝国から独立した。マケドニア地方はオスマン帝国の領土内に留まった。

 1893年にオスマン帝国のマケドニア地方に住むスラヴ系の革命家が、マケドニア地方と住民の独立を目指した政治的革命組織である内部マケドニア革命組織(VMRO)を設立した。VMROは民族や宗教に関係なく、マケドニア地域の住民であれば誰でも参加できたが、主にブルガリア人で構成された。VMROが設立され、言語や宗教的な区分を基に成立したブルガリア人やギリシャ人という民族性とは別に、新たなマケドニア人という民族性が築かれた。

 VMROは1903年にオスマン帝国に対する大規模な蜂起を起こした。イリンデン蜂起と呼ばれた。イリンデン蜂起は、マケドニア地方全体に広まった。オスマン軍によって瞬く間に鎮圧された。VMROは、マケドニアの独立を主張し続けるグループと、ブルガリアの首都ソフィアを拠点としてブルガリアへの併合を目指す、より過激なグループに分かれた。

 1910年代に、バルカン半島は第一次世界大戦を含む戦争に巻き込まれた。オスマン帝国は崩壊して、現代のトルコ共和国の領土以外を失って、バルカン半島一帯に大きな変化をもたらした。1918年には、中央ヨーロッパを支配したオーストリア=ハンガリー帝国の解体に伴って、主にスラヴ人が居住するオスマン帝国の南端部は、セルビア王国と一体化して、ユーゴスラビア王国が成立した。オスマン帝国の崩壊に伴ってマケドニア地方は分割され、現代の北マケドニア共和国の領土がユーゴスラビアの一部、マケドニア地方の南部はギリシャの一部、北西部はブルガリアの一部となった。ユーゴスラビアの下で、マケドニア地域の領土は南セルビアと改称され、言語はセルビア語の方言と見なされた。

 第二次世界大戦後1946年に、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国を構成する6つの国家の一つとして、マケドニア社会主義共和国が現代の北マケドニア共和国にあたる領土で設立された。セルビア、ブルガリア、ギリシャの教会とは別にマケドニア正教の教会も設立された。新しい国での民族意識が作られ、ギリシャとブルガリアの領土に当たったマケドニア地方の住民は、徐々にそれぞれの国民と同化した。




2023年7月23日日曜日

ウクライナ軍に解放されたドネツク州ストロジェヴェ村への野原や道端には、破壊されたロシア軍の戦車の近隣に搭乗員の死体と燃えた装甲車が散乱していた。

ウクライナ軍は2023年6月12日に、2022年3月からロシアの占領下にあったドネツク州ストロジェボエ(Storozheve)村の解放を発表した。ウクライナ軍に解放されたストロジェヴェ村への野原や道端には、破壊されたロシア軍の戦車の近隣に搭乗員の死体と燃えた装甲車が散乱していた。ウクライナ軍の報告によると、解放の掃討の際に約50人のロシア軍兵士が戦死して、4人が捕虜になったと。ストロジェヴェ村自体には、砲撃によって損壊した家屋が見られる。












Warning: The body of a Russian soldier is seen near a destroyed Russian tank near the front line in the newly liberated village Storozheve in Donetsk region, Ukraine, June 14, 2023. (REUTERS/Oleksandr Ratushniak)

 ウクライナ軍の反撃の開始日は、ロシア郡は6月4日に大規模な攻撃を阻止したと主張し、ウクライナの反撃の開始日とみなした。6月5日、ウクライナ国防副大臣は、ウクライナ軍がいくつかの方向で攻撃的行動を行ったと述べた。アメリカの戦争研究所は、ウクライナ軍が6月4日から広範な反撃を開始したと公表した。6月6日には、ヘルソン州のドニプロ川にあるカホウカダムが決壊した。

 イギリスBBCとロシアの独立系メディアMediazonaのプロジェクトによると、ウクライナとの戦争で約25,528人のロシア軍兵士の死亡を確認した。そのうち約2,498人が動員されていた。犠牲者の中には、ロシア軍やその他の法執行機関に所属する約2,150人以上の将校が含まれた。約161人の軍用パイロットの死亡も確認された。イギリスBBCとロシアMediazonaの共同プロジェクトは、2023年6月16日に公表した。文書、親族からのメッセージ、墓のデータなど、公開された情報源によって確認された死亡者のみが分析された。ロシア国防省は、人的損失に関するデータを公表しておらず、ジャーナリストが報告した数字もコメントしていない。

 死傷者の中で最も多いのは囚人であると指摘した。クラスノダール(Krasnodar)・クライ地方、スヴェルドロフスク(Sverdlovsk)地方、チェリャビンスク(Chelyabinsk)地方、バシキリア(Bashkiria)地方、ブリヤート(Buryatia)地方、ヴォルゴグラード(Volgograd)地方から出身者の死者が最も多かった。

 2023年6月14日に、ウクライナのドネツク州で新たに解放されたストロジェヴェ村の前線近くにあるロシア兵の死体を検証した(REUTERS/Oleksandr Ratushniak)。ストロジェヴェ村は、モクリ・ヤリ川近くの集落の一つで、ロシア軍兵士の死体の一部は、近隣の畑の湿地帯に放置されていた。














Warning: The body of a Russian soldier is seen near the front line in the newly liberated village Storozheve in Donetsk region, Ukraine, June 14, 2023. (REUTERS/Oleksandr Ratushniak)

2023年7月22日土曜日

大村海軍病院の病室に収容されてベット上で横たわった幼い長崎原子爆弾の被爆者の弟を、もんぺ姿の姉が見舞った。弟は、顔面ならびに前腕に長崎原子爆弾による火傷を受傷していた。 

 長崎原子爆弾が1945年8月9日に投下されて炸裂した。8月9日当日に、長崎県大村町の大村海軍病院には、約758人の被爆者が収容された。その後は、長崎市内の救護所からの被爆者を合わせると、千数百人の被爆者を収容した。大村海軍病院の病室に収容されてベット上で横たわった幼い長崎原子爆弾の被爆者の弟を、もんぺ姿の姉が見舞った。弟は、顔面ならびに前腕に長崎原子爆弾による火傷を受傷していた。 

 太平洋戦争中に、長崎県全体が海軍の基地になっていた。長崎市は軍需工場があり、佐世保市には海軍佐世保鎮守府があり、大村市には海軍航空隊があった。そして、戦地で戦傷した日本軍兵士を収容していたのが大村海軍病院であった。佐世保鎮守府に近い平坦地で、長崎県東彼杵郡大村町(現・大村市)の海岸に滑走路を設置し、大陸に最も近い航空基地として、大村海軍航空隊が設置された。

 戦時災害保護法で、救護所の開設の期間は、2カ月間以内と定められていた。10月中旬頃から、長崎市内の各地の救護所が閉鎖となった。長崎駅まで運ばれて、汽車に乗せられた被爆者が、長崎原子爆弾の投下直後から被爆者収容の拠点になっていた大村海軍病院に搬送された。長崎県東彼杵郡大村町久原の小高い丘に立つ大村海軍病院は、千数百人規模の被爆者を救護した。

 1945年8月9日に、長崎市への原子爆弾投下に伴って約758人ほどの被爆者が大村海軍病院に収容された。終戦直後から治療を担当した医師らが避難した。残った医師も業務障害状態となったため、8月末で約450人の重症被爆者を退院させた。10月時点の入院患者は約2000人収容の病院に、約3人のみの状況となった。当時、長崎原子爆弾の被害が及んだ長崎医科大学 (旧制)は、大村海軍病院へ教室を移転した。大村海軍病院を医大に転用するように佐世保鎮守府に対し要請を行った。「目下の日本の情勢では大学教育を必要としない」「南方から引き揚げてくる傷痍軍人の病院として残さねばならない」として却下された。1945年12月に、厚生省へ移管されて、厚生省所管の国立病院化により、国立大村病院となった。2001年4月に、現在の国立病院機構長崎医療センターに名称変更となった。



2023年7月21日金曜日

太平洋戦争の硫黄島の戦いにて、1945年2月25日の戦闘で、切り裂く日本軍の機関銃の中を、アメリカ軍兵士は低い姿勢で前進して、1時間前の攻撃で殺害された日本軍兵士の死体が、地面に横たわった。

太平洋戦争の硫黄島の戦いにて、1945年2月25日に硫黄島での戦闘の最中に、日本軍の機関銃の弾丸が、アメリカ軍兵士の頭上の木々を切り裂いた。その中を、ライフル銃を所持しながらアメリカ軍兵士は低い姿勢で前進した。その1時間前に、アメリカ軍海兵隊の前進による攻撃で、殺害されて死亡した日本軍兵士の死体が、硫黄島の地面に横たわっていた。太平洋戦争で硫黄島は日本軍は最も強固な防御をして、アメリカ軍と日本軍ともに約2万数千人の兵士が死傷して倒れた。

  同日の2月25日には硫黄島の戦闘の最中に、アメリカ軍海兵隊戦闘工兵士は、硫黄島で日本軍の防御陣地を爆破する砲弾を放った。多くの日本軍の防御陣地は、日本軍兵士が塹壕に戻って、アメリカ軍海兵隊の側面に砲撃を加えていた。

  アメリカ軍第3海兵隊は2月24日に上陸して、硫黄島北部の台地の比較的平坦な中央部を侵攻した。硫黄島の台地の砂岩は、風雨と火山の隆起によって破壊された。2月25日9時30分頃から、海兵隊の攻撃が開始され、日本軍の主防衛線に殴り込みをかけた。海兵隊の砲弾が発射された。火炎放射戦車は、防弾坑道で日本軍兵士を焼却した。絶え間ない攻撃が、ついに日本軍の戦線に亀裂を入れた。2月26日、摺鉢山の北方で野戦砲と対戦車陣地であった382高地で、日本軍の防御陣地を攻撃した。2月27日夜に、第2飛行場北側の双子の丘を制圧した。2月28日午後に、本山村の廃墟を制圧し、第3飛行場を支配する丘を占領した。3月1日に382高地を必死に奮闘して奪還した。

 硫黄島の戦いの犠牲者は、アメリカ軍は約2万1千人の死傷者、護衛空母1隻沈没、船舶30隻大破、戦闘機約168機が損害を受けた。日本軍側は、守備隊全員の約2万3千人が全滅して玉砕した。