1989年4月7日午前7時30分に、台湾国民党政府の警察当局は、鄭南榕を逮捕作戦を実施するために、多数の人員を『週刊フリーダム・タイムズ』誌の出版事務所に派遣した。鄭南榕は平然と編集室で焼身自殺を図り、徹底した最後の抗議を執行した。鄭南栄は編集長室のテーブルの下にガソリン3樽を置き、テープに緑色のライターを貼り付け、雑誌の内外に要塞を築いた。4月7日早朝に、国民党軍が厳しく包囲して、軍と警察が実弾で雑誌を取り囲んだ。鄭南栄が引き返して編集長室に入ると、燃え盛る炎が上がった。1989年5月19日の鄭南榕の葬儀日に、台北の総統府ビル前で、詹益樺(Chan I-hua)が同じように焼身自殺した。
鄭南栄は台湾国民党政府によって課された38年間の戒厳令に抗議して、台湾の民主主義と独立を主張した。1947年2月28日に台湾の台北市で抗議デモが発生したニ・ニ八事件が勃発して、その後に台湾全土の戒厳令下で国民党軍による台湾人の武力弾圧が広がった。1988年12月10日に、台湾の鄭南栄(Cheng Nang-rong)は、徐世凱博士の『台湾民国新憲法草案』を自身が創刊した雑誌『自由時報週刊』に掲載した。40日後、台湾高等検察庁は「反乱の疑い」で召喚状を発行した。鄭南栄は出廷を拒否して、「国民党は私の国民を逮捕できない。国民党が逮捕できるのは私の体だけだ」と大胆に宣言した。「自己投獄」を雑誌に71日間掲載した。
1984年3月12日に、完全なる言論の自由を目指して、自由時報週刊誌(Liverty Times Weekly)シリーズを創刊した。自由時報週刊誌は鄭南栄の焼身自殺から半年後まで刊行されて、5年8か月で302号を発行した。国民党の言論弾圧にも関わらず、政治的暴露し、客観的かつ忠実に報道し、発禁・発行停止回数の最多記録を樹立した。