2023年6月5日月曜日

第一次世界大戦にて、最も多くの空中戦の勝利数を記録していたドイツ戦闘機空軍のオズワルド・ベルケが1916年10月29日に接触事故で墜落して頭蓋骨骨折で命を落とした。

第一次世界大戦にて、最も多くの空中戦の勝利数を記録していたドイツ戦闘機空軍のオズワルド・ベルケ(Oswald Boelcke)が1916年10月29日に接触事故で墜落して頭蓋骨骨折で命を落とした。戦闘機のジャスタ2の指揮官でり、戦闘機戦術の父と尊称された。戦術の著者であるベルケは、当時に約40機もの敵軍機の戦闘機の撃墜を記録した。最後は、敵軍機の砲火ではなく、パイロットで友人であるエルヴィン・ベーム(Erwin Böhm)の戦闘機との衝突で、フラーズ上空から墜落して死亡した。 

 ベーム自身も回想した:1916年10月29日土曜日午後4時過ぎに、司令部から前線への攻撃中に呼び出された。ベルケが誘導した直後に、フレール上空を飛行し、イギリス軍の高速単座機の数機を攻撃した。激しい戦闘で、近距離で射撃した。敵のイギリス軍戦闘機を切り離して、敵を倒したいと考えた。ベルケとベームの間にすでにイギリス軍機がいた。味方の戦闘機に追われた別のイギリス軍機が横切った。ベルケもベームも素早く回避した。互いの翼が視界を遮り、衝突事故が勃発した。

 ベルケが突然にベームの右数mに傾斜面で出現した。ベームが舵を強く引っ張って、翼がベルケの戦闘機に触れた。ベルケもベームとも一瞬地面に倒れ始めた。驚異的な戦闘機のスピードが深刻な犠牲を伴った。ベームは車台の一部だけが損傷した。ベルケは左翼の大部分が引き裂かれた。ベームは数百mほど飛行した後に、戦闘機を制御できた。一緒に飛行したベルケは、少し下方に衝撃を受けて移動して、低い雲の中で強い突風が吹い出した。ベルケが次第に加速して降下し始めて、ベームの位置の後方に墜落するのを見届けた。ドイツ軍の人々はすぐに墜落したベルケを助けようと駆けつけた。ベームは事故現場のクレーターや溝のせいで着陸できず、空港に着陸した。

 ベームが車で事故現場に到着すると、ベルケの死体が運搬されていた。ベルケは、地面との衝撃の瞬間に瞬く間に即死した。ベルケはアルバトロス号の戦闘機で安全ヘルメットを着用せず、シートベルトも締めなかった。もし着用と装着したら、即死は免れたかもしれない。自らの空中戦の八箇条(Dicta Boelcke)「愚かな勇気ある行動は、死をもたらすだけである。」により、ベルケは自滅した。




2023年6月4日日曜日

ロシア軍が2023年6月1日未明に、ウクライナの首都キエフにミサイルを発射した。デスニャンスキー地区では、9歳の子供とその34歳の母親と33歳の女性を含む約3人が死亡した。

2023年6月1日午前3時頃のミサイル爆発の一つは、ミサイルの破片が緑豊かなウクライナ首都キエフのデスニャンスキー地区のアパートを裂いた。朝の光の中で、救急隊員が高齢の女性をそっと建物から遠ざけた。木々の間のロープで囲まれた場所では、攻撃で死亡した女性の裸足がビニールシートの下から突き出た。キエフのミサイル攻撃の爆発で殺害されて死亡した9歳の孫娘と34歳の娘の死体に面会して、高齢女性は慟哭して涙した。施錠されて閉鎖された防空壕に入ろうとしていた子供とその母親、もう一人の33歳の女性が死亡したと述べた。













Warning:  An elderly woman cries over the bodies of her daughter and daughter and , killed as a result of a downed missile strike on Kyiv.Sergei (Supinsky / AFP)


 施錠された防空壕の前で、ヤロスラフ・リアブチュク(Yaroslav Riabchuk)は、17年間に連れ添った33歳の妻のナタリア(Natalia)と外にいた。他の人たちと一緒に鍵のかかった防空壕に入るのを待っていた33歳の妻が、落ちてくるミサイルの破片に爆撃されて死亡したと彼女の夫のリアブチュクが語った。担当の警備員を呼び出すのに建物の裏側に回り込んだ。「私は走った時に爆発が起こった。粉々になったガラスが降って、逃げ避難して戻ったときには、女性や子供たちが流血した。」とリアブチュクは言った。キエフ警察当局は、防空壕の施錠の事実に基づきキエフ市国家管理局を、ウクライナ刑法367条-重大な結果を引き起こした公務上の過失-に基づき、刑事手続きを開始した。

 ロシア軍が2023年6月1日未明に、ウクライナの首都キエフに向けてミサイルを発射した。デスニャンスキー地区では、9歳の子供とその母親を含む約3人が死亡した。アパートや学校、小児病院が損害を受けた。1カ月間で、キエフに対する1回の攻撃で最も多くの犠牲者が出た。ロシア軍の攻撃は、短距離の地上発射型ミサイルであるイスカンダルを使用した。ウクライナ防空軍は10発のミサイルをすべて撃ち落とすも、落下したミサイルの破片が被害をもたらし、16人が負傷した。

 国連のウクライナ人権監視団によると、2022年2月24日以降、少なくとも約525人の子どもが死亡し、少なくとも約1,047人が負傷した。2023年5月だけでも6人の子どもが殺され、34人が負傷した。ウクライナ国防省は、戦争による子どもの犠牲者は、少なくとも484人が死亡し、992人が負傷したと公表した。キエフのデスニャンスキー地区では、瓦礫が小児科病院と近くの多層ビルに落下した。2つの学校と警察署が被害を受けた。他の地域では、窓が吹き飛んだ。ウクライナ全土で、6月1日に合計約7人の市民が死亡して、約27人が負傷したと大統領府が発表した。








Warning: A man mourns over the body of his granddaughter killed during a Russian missile attack, next to a damaged clinic on June 1, 2023 in Kyiv, Ukraine.  (Photo by Roman Pilipey)



2023年6月3日土曜日

広島原子爆弾が炸裂した翌日の1945年8月7日に、爆心地から東南約400mにて、手前に顔面を挙上して背面に足を折り曲げてうつ伏せとなった黒焦げの少年の焼死体が硬直した。

 広島原子爆弾が炸裂した翌日の1945年8月7日に、爆心地から東南約490mにて、手前に顔面を挙上して背面に足を折り曲げてうつ伏せとなった黒焦げの少年の焼死体が硬直していた。写真は広島市本土通りから東方を望んだ。左側の建物は、大林組広島支店であり、右側の建物は安田銀行があった。中央には、下村時計店とその後方に比治山の北端部が写っていた。



 8月6日に本通りに入った岸田貢宜(29歳)は、「この世の地獄。うめき、苦しみ、助けを求める人達」を8月7日から爆心地から約500mの自宅兼写真館の跡付近から、日本軍の広島師団司令部の報道班員として写真を撮った。被爆後の市中心街を最も早く収めた原爆写真とされる。8月6日午前8時15分に広島原子爆弾が炸裂して約4時間後に、出張先の広島県高田郡吉田町から太田川の大芝土手に戻った。市内中心部から、膨大な被災者が市内中心部から列をなして避難した。頭髪はボウボウで火傷の顔は腫れ上がり、水疱がつぶれて皮膚が垂れ下がった。

 大林組広島支店は、倒壊は免れたが、爆風で屋根が押し下げられ、アーチ窓も吹き飛ばされて、内部は全焼した。建物内の犠牲者は3人が即死して、約1ケ月後に死亡した。被爆後に修復して、引き続き大林組広島支店と稼働した。1951年から山口銀行広島支店となり、1975年から本通り支店となった。2002年に建物は解体された。原子爆弾の爆風の痕跡を留める換気窓のみが、平和記念資料館に保存された。

 広島市平田屋町の煉瓦建て3階建ての安田銀行は、8月6日の原子爆弾の炸裂で、倒壊寸前となった。一部鉄筋コンクリートで原型を留めた。営業室にいた3人の死体が検死されて、広島支店全体でぬお人が死亡した。広島市中区大手町のみずほ銀行に、日本興業銀行・安田銀行原爆殉職者鎮魂碑が設置されている。



2023年6月2日金曜日

ペリリュー島の戦いでアメリカ軍の対戦車砲とバズーカ砲で、日本軍の軽戦車は大破して1944年9月15日に壊滅した。日本軍の戦車の外に、アメリカ軍の火炎放射器で黒焦げに焼死した日本軍兵士の死体が横たわった。

太平洋戦争のペリリュー島の戦いで、1944年9月15日午後4時30分に、斬り込み決死隊と師団戦車隊(軽戦17輛)で反撃した。歩兵を満載して、ペリリュー飛行場への侵攻路に突撃した。アメリカ軍の数十門の対戦車砲とバズーカ砲が一斉に火を吹いて、日本軍の軽戦車は次々と大破して、9月15日に壊滅した。日本軍の戦車の外には、アメリカ軍の火炎放射器で黒焦げに殺害されて焼死した日本軍兵士の死体が横たわり散乱した。

 サイパンを攻略したアメリカ軍は、1944年7月24日に隣のテニアン島に上陸し、8月3日に日本軍守備隊が玉砕して終結した。アメリカ軍は8月11日にグアム島を奪還して、次の目標であるパラオ諸島のペリリュー島の攻略準備に入った。 

 満州の昂々渓に駐屯した第十四師団の約11,797人が、パラオ諸島に4月24日に到着した。4月26日に歩兵第二連隊がペリリュー島の駐屯した。ペリリュー島は南北約9km、東西約3kmの南海の隆起珊瑚礁の孤島で、島の中央部には最高90mの山々で、全島要塞化の洞窟陣地で約1万人の日本軍兵士が徹底抗戦した。

 アメリカ軍は東洋一のペリリュー飛行場を狙った。フィリピンの真横で、フィリピン攻略の重要な基地になる。アメリカ軍は二個師団で約4万人をつぎ込んで、1944年9月15日午前6時15分に、アメリカ軍は西浜に上陸作戦を勃発した。ペリリュー島は約一週間前から爆撃と艦砲射撃で、ジャングルは瓦礫の山と化した。洞窟陣地の潜む日本軍守備隊はほとんど無傷であった。西浜に殺到したアメリカ軍との銃撃戦後は、敵味方入り乱れての銃剣による凄惨な虐殺が延々と展開された。アメリカ軍は多くの死傷者を出して、橋頭堡を確保した。

 ペリリューの日本軍守備隊は、バンザイ突撃は行わず、敵を殺す一発一殺、一人一殺主義を貫いた。上陸第一陣のアメリカ軍は、約半数以上も死傷者を出した。約一週間後からは、日中は洞窟陣地に、夜にゲリラ戦となった。ついに日本軍は11月12日には、わずか300人となった。洞窟内の日本軍には小銃弾がわずかに残存して、11月12日午前7時過ぎ、アメリカ軍は最後の一斉掃討を開始した直後の午前7時40分に、日本軍の集団司令部に至急電報の「サクラ、サクラ」を連続送信した。最後に11月24日午後4時に連送して、ペリリュー守備隊は硝煙の大山の洞窟陣地で玉砕した。




2023年6月1日木曜日

太平洋戦争にて1944年11月10日に弾薬艦であるUSSマウントフッドが大爆発して、全乗組員の約304人全身が死亡した。マニス島のロレンガウ海岸にて、積み上げたアメリカ軍兵士の死体が、埋葬のための移送を待機した。

太平洋戦争にて1944年11月10日に弾薬艦であるUSSマウントフッド(Mount Hood A-11)が大爆発して、全搭乗員の約304人全身が死亡した。アメリカ海軍基地があるマニス(Manus)島のロレンガウ(Lorengau)海岸において、水牛のように積み上げられたアメリカ軍兵士の死体が、埋葬のための移送を待機した。アメリカ軍によって戦争写真が検閲されて非公開となった。アメリカ軍当局は、11月10日の爆発後に、乗組員の遺体は一切見つからず、乗組員全員が公式に死亡したと発表していた。



 大量の死体を、戦場から遠隔地のアメリカ文化と結びつける視覚的情報は、アメリカ国民にとって受容が困難であった。ナチス・ドイツ軍のユダヤ人の絶滅政策や連合軍により遠くのヨーロッパや日本本土の都市への砲撃によって引き起こされた大量虐殺の残酷性を理解させなかった。第二次世界大戦にて、人間の苦しみを理解することが、すでに困難な課題であることが、戦争写真の検閲を複雑にした。日本軍による襲撃の可能性は低かった。日本軍当局の女性アナウンサーの東京ローズは、爆発発生から2時間以内に、弾薬艦はミゼット潜水艦によって破壊されたとラジオ英語放送した。

 1944年11月10日午前8時55分に、太平洋のニューギニア島近海のマニス島の嶼基地のシードラー港に停泊中のアメリカ軍の弾薬艦であるUSSマウントフッドが大爆発した。約3,800トンの爆弾を搭載した弾薬艦から巨大な炎の閃光後に、2回の爆発があった。弾薬艦は、船と乗組員全員が吹き飛ばされて、瓦礫に消滅した。死亡者の多くは、弾薬戦から水中に吹き飛ばされ、マニス島の陸上に運ばれたときに死体は油まみれになった。約296人の乗組員と約22人の将校のうち、マニス島に上陸した14人以外の約304人全員が死亡した。周囲にいた22隻の戦艦にも損害を与えた。弾薬艦の大爆発に巻き込まれて、合計で約372人が死亡して、そのうち327人が行方不明となり、約371人が負傷した。





2023年5月31日水曜日

1944年10月20日早朝から、アメリカ軍はフィリピンのレイテ島のドラック海岸から上陸した。日本軍の爆撃に伴って、多数のアメリカ軍の戦死者が発生した。その死体を処理するために、トラックの荷台に積み上げた。

1944年10月26日の夜に、日本軍の爆撃機がフィリピンのレイテ島のドラック海岸周辺のアメリカ軍陣地を爆撃した。1944年10月20日早朝から、アメリカ軍はフィリピンのレイテ島のドラック(Dulag)海岸から上陸した。日本軍の爆撃に伴って、多数のアメリカ軍の戦死者が発生した。その死体を処理するために、トラックの荷台に積み上げた。アメリカ軍は、10月20日午前10時に、アメリカ軍はレイテ島東岸のタクロバンに、続いてその南方約27kmのドラッグから上陸を開始した。

  アメリカ軍がレイテ島に深く侵入すると、日本軍は空と海から反撃した。10月24日に、約200機の日本軍機が北からアメリカのビーチヘッドと船舶に接近した。約50機のアメリカの陸上機が迎え撃ち、66機から84機の攻撃機を撃墜した。日本軍による昼夜の空襲はその後4日間続き、陸上の物資集積所に損害が与え、アメリカ軍の船舶を脅かした。10月28日までに、アメリカ軍機が日本の飛行場や他の島の船舶を反撃して、日本軍の航空戦力が低下し、従来の空襲は大きな脅威ではなくなった。レイテ島の戦いは、日本軍約8万人は全滅して、生還者はわずか約2,500人であった。アメリカ軍は、約3,504人が戦死して、戦傷者が11,191人であった。

 日本軍の航空戦力が低下すると、爆弾を積んだ戦闘機を直接にアメリカの戦艦に墜落させて自爆する神風特攻隊を編成した。神風特攻隊は、1944年10月25日にレイテ湾に集結していたアメリカの大規模な輸送・護衛艦隊を最初の目標に選択した。1944年10月25日に護衛空母USSセントロールを撃沈した。これは、神風攻撃によって主要な軍艦が沈められた最初の例であった。その他多くの艦船に大きな損害を与えた。神風特攻隊は、アメリカ軍がレイテ島に上陸する前日の10月19日の晩に編成された。大西瀧治郎中将がクラーク飛行場群の一つであるマバラカットの海軍201航空隊で編成した。敷島隊、大和隊、朝日隊、山櫻隊と命名され、隊長は江田島海軍兵学校第70期生の関行男大尉となった。




2023年5月30日火曜日

クロアチア東部のヴコヴァルの戦いで1991年11月18日に、セルビア人民兵士が捕虜にした民間クロアチア人を強制連行した。陥落直前のヴコヴァルは崩壊して瓦礫の中には、殺害されたクロアチア人の死体が放置された。

ユーゴスラビア紛争の内戦にて、クロアチア東部にてヴコヴァルの戦いで、1991年11月18日に、セルビア人民兵士が捕虜にした民間クロアチア人を強制連行した。陥落直前のヴコヴァルは崩壊して瓦礫の中には、殺害されたクロアチア人の死体が放置された。捕虜となった多くのクロアチア兵と市民が即座に処刑されて、戦後に戦争犯罪と判決された。

 ヴコヴァルの戦い(Battle of Vukovar)は、1991年8月25日から11月18日にかけて、セルビアの準軍事勢力の支援を受けたユーゴスラビア人民軍(JNA)が、クロアチア東部のヴコヴァルを約87日間包囲した戦闘が勃発した。クロアチア独立戦争以前は、ヴコヴァルは、クロアチア人、セルビア人、その他の民族が混在していた。ユーゴスラビアが、1991年6月25日にクロアチアとスロベニアが独立宣言して崩壊し始めた。セルビアのスロボダン・ミロシェヴィッチ大統領とクロアチアのフランヨ・トゥジュマン大統領が、民族主義政治を追求した。1990年に、セルビア政府と準軍事組織の支援を受けたクロアチアのセルビア人民兵が武装蜂起して、クロアチアのセルビア人居住地域を占領した。ユーゴスラビア人民軍は反乱軍に有利な介入を開始した。1991年5月にはクロアチア東部のスラヴォニア地方で紛争が勃発した。1991年8月に、ユーゴスラビア人民軍はヴコヴァルを含むスラヴォニア東部のクロアチア人支配地域に対して本格的な攻撃を開始した。

 ヴコヴァルは、重装甲車と大砲を装備した約36,000人ものユーゴスラビア人民軍とセルビア人準軍事組織の攻撃に対して、クロアチア国家警備隊(ZNG)の軽装備兵と市民ボランティア約1,800人が防衛した。戦闘中には、1日に約12,000発もの砲弾やロケットがヴコヴァルに撃ち込まれた。最も長引く戦闘となり、ヴコヴァルは全壊した。1991年11月18日のヴコヴァルが崩壊した時に、クロアチア国家警備隊や市民数百人がセルビア軍に虐殺されて、少なくとも約2万人の住民が追放されて難民となった。両軍では約3000人がヴコヴァルの戦いで殺害された。ヴコヴァルの大部分で、セルビア人以外の住民は民族浄化されて、セルビア・クラジナ共和国と自己宣言した原始国家の一部となった。ミロシェヴィッチを含む数人のセルビア人軍人と政治家は、戦闘中および戦闘後に犯した戦争犯罪のために後に起訴されて投獄された。

 ヴコヴァルの戦いでユーゴスラビア人民軍は疲弊し、クロアチア独立戦争の転機となった。数週間後に、停戦が宣言された。ヴコヴァルは1998年までセルビア人に占領された。その後にエルデュト協定の締結により、平和的にクロアチアに再統合された。再建されたものの、人口は戦前の半分以下となり、多くの建物が戦闘の傷跡を残した。セルビア人とクロアチア人の2つの主要な民族が深く対立している。





2023年5月29日月曜日

湾岸戦争でイラクの首都バクダットの空襲により、顔中に重度の火傷を受傷したイラク人の重態の子供が、バグダットのサダム小児科病院に1991年2月20日に救護されていた。

湾岸戦争にて、イラクの首都バクダットの空襲により、顔中に重度の火傷を受傷したイラク人の重態の子供が、バグダットのサダム小児科病院に1991年2月20日に救護されていた。サダム小児科病院内では緊急時以外は、自家発電も保育器も停止して、停電していた。母親は、寒さをしのぐために、ろうそくなどをかざしていた。湾岸戦争の1991年のイラク爆撃は、イラク軍のクウェート侵攻に対抗して1991年1月17日から2月23日まで大規模な空爆が執行した。アメリカ軍が主導して、湾岸戦争連合は約10万回以上の出撃を行い、約88,500トンの爆弾を投下し、軍事・民間インフラを広く破壊した。 

 国連安全保障理事会は1990年11月29日に決議678号を採択し、イラクに1991年1月15日までに、クウェートからの撤退を認めた。その期限後にイラクをクウェートから撤退させるために、あらゆる必要な手段を用いる権限を連合国に与えた。国連安全保障理事会決議678で定められた期限の1月15日の翌日から、連合軍は大規模な航空作戦を開始した。1日に約1000回以上の出撃が行われた「砂漠の嵐作戦」の総攻撃を開始した。

 最初のバクダット攻撃は1991年1月17日午前2時38分に、イラク・サウジアラビア国境付近のイラクのレーダーサイトの破壊から総攻撃が勃発した。1月17日午前3時、EF-111の3隻編隊に守られた10機のアメリカ空軍F-117ナイトホークが、イラクの首都バグダッドを爆撃した。最初の総攻撃から約5時間後に、イラクの国営ラジオは、サダム・フセインと名乗る音声を放送した。「偉大なる決闘、すべての戦いの母が始まった。この偉大な対決が始まれば、勝利の夜明けは近い。」と宣言した。

 アメリカ海軍のBGM-109トマホーク巡航ミサイルが、1月17日の総攻撃に同期して、イラクの首都バグダッドの標的を攻撃した。他の連合軍の爆撃機もイラク全土の標的を攻撃した。政府庁舎、テレビ局、飛行場、大統領官邸、軍事施設、通信回線、補給基地、石油精製所、バグダッド空港、発電所、イラク軍装備の製造工場などが、連合軍の大規模な空爆とミサイル攻撃で破壊された。

 湾岸戦争の終了時、アメリカ当局は、イラク市民の推定死者数は約2,278人、負傷者約5,965人と報告した。1991年2月13日に、アメリカ空軍 (USAF) の戦闘機がバグダッドのアルアミリヤ地区の空襲用シェルターに向けてレーザー誘導ミサイルを2発発射して、そこに避難した約408人の民間人が死亡した。アメリカ当局は、シェルターはイラク軍の通信センターと主張した。




2023年5月28日日曜日

ウクライナ軍の第24機械化旅団の兵士が、2023年3月7日にウクライナのトレツク近郊で、ロシア軍が包囲したバフムトを切り崩した。ウクライナ軍に殺害されたロシア分離主義者の戦闘員の死体の直前を移動した。

ウクライナ軍の第24機械化旅団の兵士が、2023年3月7日にウクライナのトレツク近郊で、ロシア軍が包囲したバフムトを切り崩そうとした。ウクライナ軍に殺害されたロシア分離主義者の戦闘員の死体の直前を移動した。ウクライナ軍によると、ロシアの傭兵集団ワグナーには、刑務所から徴収した戦闘員が、バフムト攻撃の損失によって不足して、ウクライナ軍も大きな犠牲を出した。ロシアのワーグナー傭兵部隊は、ウクライナ侵攻で最も長く継続したバフムトの戦いで数千人単位で戦死した。枯渇した傭兵の在庫を補うために、バクムトでは新人の傭兵をさらに送り込んだ。













 



Warning: A soldier from the 24th Ukrainian Mechanized Brigade walks past the body of a Russian separatist fighter killed in action as Russian forces try to cut off the besieged town of Bakhmut near Toretsk, Ukraine, on Tuesday. (Tyler Hicks)

ウクライナ軍は、ウクライナ東部の都市で受けた大きな損失にもかかわらず、ワグナーの自殺攻撃に近い囚人の傭兵へ攻撃をした。ロシア軍とウクライナ軍の間で数ヶ月にわたる激しいバフムトの戦闘により、ワグナーの傭兵の数千人の兵士が戦死して、街が廃墟となった。ウクライナ軍によると、ワグナー傭兵部隊の約5万人のうち約3万人近くが脱走あるいは戦死傷して、その大多数はバクムト周辺で戦死傷した。ロシア軍もウクライナ軍も、バフムト地域での戦死傷者数を発表しない。ロシア国防相は、ウクライナ軍は2023年2月には約11,000人以上の兵力を失ったと述べた。

 バフムトの戦いが決定的局面を迎えても、両陣営は戦略的重要性の低い小さな町バフムトでの驚異的な損失を、自軍の大義と提示して、正当化した。敵の疲弊こそ、犠牲を払う価値があると両軍は主張した。ワーグナーの傭兵は、主に元囚人をウクライナに投入して、多大な犠牲を払って、ウクライナ軍を消耗させて、ロシア軍のバクムト包囲網の侵攻を手助けして、バフムトは、ほとんどすべてが破壊された。













A screen showing footage of the Ukrainian army from a drone in Bakhmut in January, 2023. (Nicole Tang)

プリゴジン自身が警鐘を鳴らし、3月6日にウクライナの反撃に対抗する緊急増援と弾薬をロシア軍に要求した。アメリカ情報当局は2022年12月に、ワグナーはロシアの治安部隊の退役軍人を中心に集められた約1万人の職業軍人と4万人の元受刑者で構成されたと推定した。囚人たちはわずか2週間の訓練で戦闘に投入されて、主に小規模で無防備な集団で、ウクライナ軍の陣地を攻撃し、暴露して攻撃波のための塹壕を掘るのに使用された。ワグナーとの6ヶ月の契約を終えて帰国した投獄中の新兵のうち、例えばロシアのイワノボ地方にあるコロニーから到着した約170人ほどの囚人のうち、約80人が大きな負傷をせずに帰国した。バクムトにおけるワグナーの主な目的は領土の征服ではなく、約960kmの前線の他の戦場で戦いができる経験豊富なウクライナ人部隊を枯渇させることであった。

2023年5月27日土曜日

1945年8月7日に、広島城の本丸付近の中国軍管区司令部は、机と椅子を集めて携帯用テントで屋根を設置して、広島原子爆弾被爆後の中国軍管区の仮事務所を地下作戦室の前に急造した。

1945年8月6日午前8時15分に一発の広島原子爆弾がアメリカ軍が投下して炸裂させた。太平洋戦争の遂行中のために、広島の軍隊は壊滅した中枢機能の再建に全力をあげた。8月7日に、広島城の本丸近くにあった中国軍管区司令部は、松村参謀長ら重症者約15人らが、古ぼけた机2つ、椅子3つを集めて、携帯用テントをつなぎ合わせて屋根を設置した。中国軍管区の仮設司令部を地下作戦室の前に急造した。同日8月7日に、同じ焼け跡に広島連隊区司令部の広島地区司令部の仮設事務所も設置された。

 広島城・第一補充隊正門よりも東側にあった広島連隊区司令部の焼け跡に作られた仮事務所のテントを南から北に向かって写真撮影した。門柱には「広島連隊区司令部 広島地区司令部 仮事務所」と垂れ幕がかかっている。テントの奥にうっすら、広島逓信局と広島逓信病院の建物が見える。写真右端には、負傷したのか、座り込んでいるような姿の男性が見える。

 広島師団司令部の報道班員の岸田貢宜が8月7日から写真撮影した。広島城の天守閣も消えてなくなっていた。傍の溝の中には、白衣や褌のままの日本軍兵士が、頭を突っこんで死んでいた。溝の黒い水を求めて、腹ばいでやっとたどりついて、そのままこと切れたのであろう。傷ついた無残な格好の兵士たちが、あちらこちらから寄ってきた。まともな服装で負傷もしていないのをみて、救助を求めにくるのであった。29歳の岸田貢宜は、8月13日頃から高熱に襲われて、数カ月にわたり療養した。




2023年5月26日金曜日

1989年6月5日に、北京西部の郵電病院の仮設死体安置所に、天安門事件で中国人民解放軍が殺害したデモ隊員の死体が横たわった。6月4日の天安門(六四)事件で、デモ参加者が中国人民解放軍兵士らにより殺害された。

1989年6月5日に、北京西部の郵電病院の仮設死体安置所に、天安門事件で中国人民解放軍により殺害されたデモ隊員の死体が横たわった。6月4日の天安門(六四)事件で、デモ参加者が中国人民解放軍兵士らにより殺害された。中国共産党は6月4日に、北京の天安門広場とその周辺に約30万人の中国人民解放軍の戒厳部隊を配備した。機関銃や戦車を使って、学生や市民を強制的に虐待と虐殺した。流血の大虐殺は、中国共産党が今日も隠蔽する事件となった。

 天安門事件は1989年4月15日に、中国共産党の前総書記である胡耀邦が急死したことが起点となった。中国人の学生や市民が天安門広場で自発的に追悼活動を始めた。それが報道の自由、汚職、インフレ、失業の解決などを求める大規模で過激なデモ活動に変貌した。天安門広場に民衆が集まった参加者は、約100万人と推察された。1989年4月15日、改革派指導者だった胡耀邦・元総書記が死去した。その追悼を機会に、学生と市民らが天安門広場に集まり、大規模な民主化運動に発展した。5月20日、中国政府当局は北京市に戒厳令を宣言した。6月3日夜から4日未明に中国人民解放軍を投入し、排除して鎮圧し、当局は死者を319人と発表した。

 当時の中国共産党総書記であった趙紫陽などの穏健派は、民衆との対話と融和を望んだ。中国共産党の軍事委員会主席である鄧小平などの強硬派は、武力での弾圧を決定した。結局、6月4日未明に、中国人民解放軍が天安門広場を制圧し、武力で天安門広場を片付けた。非武装の学生や民衆を大量に殺害した。 平和な時期に中国共産党が中国本土の住民に対して行った凄惨で流血の大虐殺であった。

 6月4日の天安門事件をきっかけに、趙紫陽はすべての役職から解任された。江沢民上海党書記は、学生の大弾圧を機に共産党の国家主席に上り詰めて、第三世代の共産党指導者となった。2017年12月のBBC放送によると、機密解除されたイギリス国家文書によると、天安門(六四)事件で、中国軍は少なくとも1万人の殺害を示唆した。1万人の数値は、駐中国イギリス大使のアラン・ドナルドが、中国共産党の国家評議員の友人を通じて入手した。秘密の外交ケーブルでイギリス本土に電報が伝送された。

 電報は1989年6月5日以降に送られて、ドナルドは学生たちは1時間で広場を離れろと通告するも、5分後に装甲車が学生たちを攻撃し始めたと記録した。学生たちは手をつないだが、中国人民解放軍兵士に振り回された。装甲車は学生たちを殺害した死体をパイのように繰り返し轢き、残骸はブルドーザーで転がされた。その後に、死体は焼却され、灰は下水道から流されて隠滅した。




2023年5月25日木曜日

第一次世界大戦のカポレットの戦いにて、チヴィダーレ近郊の山地の斜面の塹壕で、激しい戦闘からイタリア軍兵士が殺害された。多数のイタリア軍兵士の死体が、塹壕に散乱した。

第一次世界大戦のカポレットの戦いにて、チヴィダーレ近郊の山地の斜面の塹壕で、激しい戦闘からイタリア軍兵士が殺害された。多数のイタリア軍兵士の死体が、塹壕に散乱した。カポレットの戦いは、アルプス戦線とも呼ばれ、イタリア戦線にて第一次世界大戦の最も犠牲を招いた戦いとなった。イタリア戦線は、イタリアとオーストリア=ハンガリーの国境に沿った地域で、山脈や谷間で発生した。カポレットの戦いは、第12次イソンゾの戦いとも呼ばれた。イタリア軍とオーストリア・ハンガリー軍の間で行われた大規模なイソンゾの戦いの一部で、膠着状態に陥った。

 イソンゾの戦いは全部で12回あり、スロベニアとイソンゾ川沿いで戦われた。12回の戦いは、イタリア軍とオーストリア=ハンガリー軍の間で、1915年から1917年まで継続した。オーストリア=ハンガリー軍は主に防御側で、山中に防御陣地を取り、イタリア軍は攻撃側であった。イタリア軍はイソンゾの戦いにて、山岳地帯と河川の攻撃に苦戦した。12回のイソンゾの戦いの間に、両軍は一進一退の攻防を繰り広げ、ともに多大な損害を被った。

 イソンゾの戦いで、イタリア軍は約95万人以上の死傷者を出し、オーストリア・ハンガリー軍は約52万人の死傷者を出した。オーストリア・ハンガリー軍は、第12次イソンゾの戦い(別名カポレットの戦い)で決定的な勝利を収めた。カポレットの戦いで約30万人のイタリア軍兵士が死亡した。第12次イソンゾの戦いは、1917年10月24日から11月19日にかけて行われ、最後にして最も犠牲を伴った。

 1917年秋には、イタリア軍もオーストリア・ハンガリー軍も、11回までのイソンゾの戦いによって疲弊した。オーストリア=ハンガリー軍は、ドイツ軍の支援によりイタリア軍の防衛線を突破し、イタリア軍を国境から撤退させた。カポレットの戦いは10月24日早朝に始まり、オーストリア=ハンガリー軍とドイツ軍は、イタリア軍の塹壕に対して毒ガス攻撃を行って、イタリア軍を撤退させた。ガス攻撃に続いて、オーストリア軍とドイツ軍は火炎放射器、手榴弾、機関銃、迫撃砲を使用した激しい攻撃を行った。中央同盟国の2つの軍隊は、イタリア軍が支配する地域を素早く侵攻した。

 カポレットの戦いは、1917年11月19日に終結した結果、イタリア軍は約150Km後退し、約13,000人のイタリア軍兵士が死亡し、約30,000人が負傷、約275,000人近くが捕虜になった。カポレットの戦いは、イタリア軍にとって大きな損失であり、イタリア軍兵士の士気が大きく低下した。オーストリア=ハンガリー軍はカポレットの戦いで2万から7万人の死傷者を出した。



2023年5月24日水曜日

ドイツ軍は1945年4月28日に、アメリカ軍が解放する直前にラーンツベルグ地域のカウフェリングⅣ強制収容所を放火した。強制収容所内に監禁された約500人のユダヤ人の囚人は、放火で黒焦げになり焼死した。

第ニ次世界大戦の末期に、連合軍のドイツ侵攻によって、ドイツ軍は余儀なく撤退した。ドイツ軍は1945年4月28日に、引き払う直前にラーンツベルグ地域のカウフェリング(Kaufering)Ⅳ強制収容所を放火した。強制収容所内に監禁された囚人は、放火によって黒焦げになって焼死した。解放軍らは、約500人の黒焦げの死体を発見し、その多くは裸で、地元のドイツ人住民に埋葬を強制した。

 ランツベルクから撤退する直前に、ナチスの看守が牢屋小屋に放火した。ユダヤ人囚人の黒焦げの死体が、牢屋小屋の灰の中に横たわっていた。ユダヤ人の囚人は、木造の小屋に閉じ込められ、逃亡すれば看守に銃殺されると脅迫された。生きたまま焼かれて、やせ細った身体には、焼け焦げた衣服の破片が付着した。衣服が完全に焼失した裸のユダヤ人囚人もいた。

 カウフェリング強制収容所は、ダッハウ強制収容所の11の小収容所の中で最も大きく、最も劣悪な環境にあった。1944年6月18日から1945年4月27日まで運営された強制収容所で、3万人の囚人のうち約半数が飢えや病気、処刑、死の行進の中で死亡した。約3万人の囚人のうち、約半数が飢えや病気、処刑、死の行進で命を落とした。

 1944年6月20日に、アウシュビッツからのユダヤ人強制収容所の囚人1000人がカウフェリングに到着した。彼らは、3つの巨大な地下壕の建設に強制労働した。3つの地下壕では、ジェット推進のメッサーシュミット機「Me262」などが生産される予定だった。ランツベルク地区に、ダッハウ強制収容所に併設した11の強制副収容所が建設され、カウフェリングI~XIと命名された。終戦まで、最大で約23,500人が収容された。約6.400人以上の囚人がカウフェリング収容所で死亡した。約3,500人の囚人がアウシュビッツなどの他の収容所に強制送還され、到着後ほとんど虐殺された。1945年4月27日、カウフェリングの強制収容所はアメリカ軍により解放された。




2023年5月23日火曜日

中国の清朝末期に、焼き討ち、殺し合い、略奪などの重罪を犯して、民家を襲っては生計を立てていた2人の馬賊が公開された死刑が執行された。

中国の清朝末期に、焼き討ち、殺し合い、略奪などの重罪を犯して、民家を襲っては生計を立てていた2人の馬賊が死刑が執行された。馬賊は重犯罪者として、木の杭に縛り付けられた。野次馬の民衆の面前で公開処刑された。処刑者は将校や兵士ではなく、地元の村人によって組織された民兵集団であった。公開処刑することで他者への犯罪の抑止力の見せしめにもなった。

 重罪を犯した者は、斬首による死刑を宣告されて、民衆に刑罰を広めて、犯罪を抑制するために、民衆に公開で処刑が実行された。見物人の多数の民衆が集合して取り囲んで、処刑による報復に喝采を浴びせた。清朝末期には、治安が悪化して、馬賊が多発した。その撮影された写真に、「銃殺前の馬賊」と添え書きした絵葉書が、済南の愛屋から発行された。

 日本軍が占領した満州には、中国の抗日ゲリラが活動した。民衆自衛抗日軍と呼称して、日本軍は匪賊とか馬賊と呼んだ。満州各地で、日本軍や日本人を襲撃する事件が多発した。1932年9月16日午前1時5分, 平頂山事件が勃発した。撫順炭鉱の事務所、警官派出所、宿舎を抗日ゲリラが襲った。満鉄の職員と家族に死傷者がでた。日本軍は、抗日ゲリラが集結していた平頂山一帯の住民は、抗日ゲリラと通じていると断定した。村の住民約3000余人全員を集め、崖に追い詰めて、機関銃で銃殺した。死体の山に石油をかけ火をつけた後に、崖を爆破して埋めた。満洲国が崩壊した後は、馬賊も衰退していった。その後の国共内戦では、両陣営に取り込まれた。




2023年5月22日月曜日

第ニ次世界大戦の太平洋戦争の終戦直前の1945年8月14日に、ビルマのジャングルでアメリカ軍が仮設した墓地から、戦闘機事故で戦死したアメリカ軍兵士の死体を発掘した。

第ニ次世界大戦の太平洋戦争の終戦直前の1945年8月14日に、ビルマのジャングルにあるアメリカ軍が仮設した墓地から、戦死したアメリカ軍兵士の死体を発掘した。その死体は、1945年初頭の戦闘機の事故で死亡したアメリカ軍の飛行士の死体であった。その死体を2人のアメリカ陸軍の兵士が発掘作業を執行した。この写真は、1945年8月14日に、連合国首脳が、日本に対する降伏を宣言した日に撮影された。この写真は、第二次世界大戦の戦闘段階において、最後に検閲された写真の一つで、アメリカ軍が検閲して非公開にされていた。もし写真が公開されていたら、発掘されるアメリカ軍の飛行士の死体の下肢や上腕など、写真全体に見られるV字の形状は、アメリカ本土の家族らによっては、第2次世界大戦の大東亜戦争の勝利の意味は、全く異なっていることを痛感させた。

 第二次世界大戦は、アメリカ国民ならば誰でも参加できる最初の画像や映像であった。アメリカ政府やニュース、娯楽メディアなどによって、アメリカ国民に公表された第二次世界大戦の画像や映像には、説得力のある戦争の筋書き、アメリカ軍服を着た大勢のアメリカ軍兵士たち、わかりやすい善玉の連合軍と悪玉の枢軸国軍などが紹介された。アメリカ国民は、第二次世界大戦の画像や映像を視聴者として参加した。

 第ニ次世界大戦の連合国軍の勝利をアメリカ国民は予測はできても、当然とは言えない結末が勃発していた。1945年8月6日午前8時15分に広島市に、8月9日午前11時2分に長崎市に原子爆弾が投下されて炸裂して、広島市も長崎市も一瞬にして壊滅した。その約1ケ月以内の9月2日に、東京湾において約2000機近いアメリカ軍の戦闘機が集結た中で、アメリカ軍の戦艦USSミズーリ号で、日本軍が降伏する光景が映し出された。太平洋戦争が、パールハーバーでの始った日本軍の真珠湾攻撃と同じくらい劇的な結末を迎えていた。どの戦争の写真や映像は、第二次世界大戦をアメリカ国民一人一人に、戦争の観客と戦争の参戦者という二重の役割を効果的に与えた。

 世界中の何千万人もの人々を巻き込んだ激しい第二次世界大戦の戦闘の画像や映像は、全世界の観客を惹きつけないわけがない。世界中で何千万人もの人々を巻き込んだ激しい戦闘は、全世界の観客を惹きつけずにはおかない。戦争に対する欲求とその表現方法で、ほとんどの全世界の観客が、自分も第二次世界大戦の参加者であると洗脳することを保証した。戦争宣伝のアメリカ軍担当者が、最も強く訴えたテーマは、アメリカ国民に誰もが戦争に果たすべき役割を担っていると思い込ませることであった。アメリカ社会への平等な参加から排除されているアメリカ国民に、多くの人々を怖がらせることなく、いかにして戦争への完全なる参加を促すことができるかを訴えた。逆に戦争の画像や映像は、アメリカ国民に深刻な問題を突きつけた。