2023年5月29日月曜日

湾岸戦争でイラクの首都バクダットの空襲により、顔中に重度の火傷を受傷したイラク人の重態の子供が、バグダットのサダム小児科病院に1991年2月20日に救護されていた。

湾岸戦争にて、イラクの首都バクダットの空襲により、顔中に重度の火傷を受傷したイラク人の重態の子供が、バグダットのサダム小児科病院に1991年2月20日に救護されていた。サダム小児科病院内では緊急時以外は、自家発電も保育器も停止して、停電していた。母親は、寒さをしのぐために、ろうそくなどをかざしていた。湾岸戦争の1991年のイラク爆撃は、イラク軍のクウェート侵攻に対抗して1991年1月17日から2月23日まで大規模な空爆が執行した。アメリカ軍が主導して、湾岸戦争連合は約10万回以上の出撃を行い、約88,500トンの爆弾を投下し、軍事・民間インフラを広く破壊した。 

 国連安全保障理事会は1990年11月29日に決議678号を採択し、イラクに1991年1月15日までに、クウェートからの撤退を認めた。その期限後にイラクをクウェートから撤退させるために、あらゆる必要な手段を用いる権限を連合国に与えた。国連安全保障理事会決議678で定められた期限の1月15日の翌日から、連合軍は大規模な航空作戦を開始した。1日に約1000回以上の出撃が行われた「砂漠の嵐作戦」の総攻撃を開始した。

 最初のバクダット攻撃は1991年1月17日午前2時38分に、イラク・サウジアラビア国境付近のイラクのレーダーサイトの破壊から総攻撃が勃発した。1月17日午前3時、EF-111の3隻編隊に守られた10機のアメリカ空軍F-117ナイトホークが、イラクの首都バグダッドを爆撃した。最初の総攻撃から約5時間後に、イラクの国営ラジオは、サダム・フセインと名乗る音声を放送した。「偉大なる決闘、すべての戦いの母が始まった。この偉大な対決が始まれば、勝利の夜明けは近い。」と宣言した。

 アメリカ海軍のBGM-109トマホーク巡航ミサイルが、1月17日の総攻撃に同期して、イラクの首都バグダッドの標的を攻撃した。他の連合軍の爆撃機もイラク全土の標的を攻撃した。政府庁舎、テレビ局、飛行場、大統領官邸、軍事施設、通信回線、補給基地、石油精製所、バグダッド空港、発電所、イラク軍装備の製造工場などが、連合軍の大規模な空爆とミサイル攻撃で破壊された。

 湾岸戦争の終了時、アメリカ当局は、イラク市民の推定死者数は約2,278人、負傷者約5,965人と報告した。1991年2月13日に、アメリカ空軍 (USAF) の戦闘機がバグダッドのアルアミリヤ地区の空襲用シェルターに向けてレーザー誘導ミサイルを2発発射して、そこに避難した約408人の民間人が死亡した。アメリカ当局は、シェルターはイラク軍の通信センターと主張した。




2023年5月28日日曜日

ウクライナ軍の第24機械化旅団の兵士が、2023年3月7日にウクライナのトレツク近郊で、ロシア軍が包囲したバフムトを切り崩した。ウクライナ軍に殺害されたロシア分離主義者の戦闘員の死体の直前を移動した。

ウクライナ軍の第24機械化旅団の兵士が、2023年3月7日にウクライナのトレツク近郊で、ロシア軍が包囲したバフムトを切り崩そうとした。ウクライナ軍に殺害されたロシア分離主義者の戦闘員の死体の直前を移動した。ウクライナ軍によると、ロシアの傭兵集団ワグナーには、刑務所から徴収した戦闘員が、バフムト攻撃の損失によって不足して、ウクライナ軍も大きな犠牲を出した。ロシアのワーグナー傭兵部隊は、ウクライナ侵攻で最も長く継続したバフムトの戦いで数千人単位で戦死した。枯渇した傭兵の在庫を補うために、バクムトでは新人の傭兵をさらに送り込んだ。













 



Warning: A soldier from the 24th Ukrainian Mechanized Brigade walks past the body of a Russian separatist fighter killed in action as Russian forces try to cut off the besieged town of Bakhmut near Toretsk, Ukraine, on Tuesday. (Tyler Hicks)

ウクライナ軍は、ウクライナ東部の都市で受けた大きな損失にもかかわらず、ワグナーの自殺攻撃に近い囚人の傭兵へ攻撃をした。ロシア軍とウクライナ軍の間で数ヶ月にわたる激しいバフムトの戦闘により、ワグナーの傭兵の数千人の兵士が戦死して、街が廃墟となった。ウクライナ軍によると、ワグナー傭兵部隊の約5万人のうち約3万人近くが脱走あるいは戦死傷して、その大多数はバクムト周辺で戦死傷した。ロシア軍もウクライナ軍も、バフムト地域での戦死傷者数を発表しない。ロシア国防相は、ウクライナ軍は2023年2月には約11,000人以上の兵力を失ったと述べた。

 バフムトの戦いが決定的局面を迎えても、両陣営は戦略的重要性の低い小さな町バフムトでの驚異的な損失を、自軍の大義と提示して、正当化した。敵の疲弊こそ、犠牲を払う価値があると両軍は主張した。ワーグナーの傭兵は、主に元囚人をウクライナに投入して、多大な犠牲を払って、ウクライナ軍を消耗させて、ロシア軍のバクムト包囲網の侵攻を手助けして、バフムトは、ほとんどすべてが破壊された。













A screen showing footage of the Ukrainian army from a drone in Bakhmut in January, 2023. (Nicole Tang)

プリゴジン自身が警鐘を鳴らし、3月6日にウクライナの反撃に対抗する緊急増援と弾薬をロシア軍に要求した。アメリカ情報当局は2022年12月に、ワグナーはロシアの治安部隊の退役軍人を中心に集められた約1万人の職業軍人と4万人の元受刑者で構成されたと推定した。囚人たちはわずか2週間の訓練で戦闘に投入されて、主に小規模で無防備な集団で、ウクライナ軍の陣地を攻撃し、暴露して攻撃波のための塹壕を掘るのに使用された。ワグナーとの6ヶ月の契約を終えて帰国した投獄中の新兵のうち、例えばロシアのイワノボ地方にあるコロニーから到着した約170人ほどの囚人のうち、約80人が大きな負傷をせずに帰国した。バクムトにおけるワグナーの主な目的は領土の征服ではなく、約960kmの前線の他の戦場で戦いができる経験豊富なウクライナ人部隊を枯渇させることであった。

2023年5月27日土曜日

1945年8月7日に、広島城の本丸付近の中国軍管区司令部は、机と椅子を集めて携帯用テントで屋根を設置して、広島原子爆弾被爆後の中国軍管区の仮事務所を地下作戦室の前に急造した。

1945年8月6日午前8時15分に一発の広島原子爆弾がアメリカ軍が投下して炸裂させた。太平洋戦争の遂行中のために、広島の軍隊は壊滅した中枢機能の再建に全力をあげた。8月7日に、広島城の本丸近くにあった中国軍管区司令部は、松村参謀長ら重症者約15人らが、古ぼけた机2つ、椅子3つを集めて、携帯用テントをつなぎ合わせて屋根を設置した。中国軍管区の仮設司令部を地下作戦室の前に急造した。同日8月7日に、同じ焼け跡に広島連隊区司令部の広島地区司令部の仮設事務所も設置された。

 広島城・第一補充隊正門よりも東側にあった広島連隊区司令部の焼け跡に作られた仮事務所のテントを南から北に向かって写真撮影した。門柱には「広島連隊区司令部 広島地区司令部 仮事務所」と垂れ幕がかかっている。テントの奥にうっすら、広島逓信局と広島逓信病院の建物が見える。写真右端には、負傷したのか、座り込んでいるような姿の男性が見える。

 広島師団司令部の報道班員の岸田貢宜が8月7日から写真撮影した。広島城の天守閣も消えてなくなっていた。傍の溝の中には、白衣や褌のままの日本軍兵士が、頭を突っこんで死んでいた。溝の黒い水を求めて、腹ばいでやっとたどりついて、そのままこと切れたのであろう。傷ついた無残な格好の兵士たちが、あちらこちらから寄ってきた。まともな服装で負傷もしていないのをみて、救助を求めにくるのであった。29歳の岸田貢宜は、8月13日頃から高熱に襲われて、数カ月にわたり療養した。




2023年5月26日金曜日

1989年6月5日に、北京西部の郵電病院の仮設死体安置所に、天安門事件で中国人民解放軍が殺害したデモ隊員の死体が横たわった。6月4日の天安門(六四)事件で、デモ参加者が中国人民解放軍兵士らにより殺害された。

1989年6月5日に、北京西部の郵電病院の仮設死体安置所に、天安門事件で中国人民解放軍により殺害されたデモ隊員の死体が横たわった。6月4日の天安門(六四)事件で、デモ参加者が中国人民解放軍兵士らにより殺害された。中国共産党は6月4日に、北京の天安門広場とその周辺に約30万人の中国人民解放軍の戒厳部隊を配備した。機関銃や戦車を使って、学生や市民を強制的に虐待と虐殺した。流血の大虐殺は、中国共産党が今日も隠蔽する事件となった。

 天安門事件は1989年4月15日に、中国共産党の前総書記である胡耀邦が急死したことが起点となった。中国人の学生や市民が天安門広場で自発的に追悼活動を始めた。それが報道の自由、汚職、インフレ、失業の解決などを求める大規模で過激なデモ活動に変貌した。天安門広場に民衆が集まった参加者は、約100万人と推察された。1989年4月15日、改革派指導者だった胡耀邦・元総書記が死去した。その追悼を機会に、学生と市民らが天安門広場に集まり、大規模な民主化運動に発展した。5月20日、中国政府当局は北京市に戒厳令を宣言した。6月3日夜から4日未明に中国人民解放軍を投入し、排除して鎮圧し、当局は死者を319人と発表した。

 当時の中国共産党総書記であった趙紫陽などの穏健派は、民衆との対話と融和を望んだ。中国共産党の軍事委員会主席である鄧小平などの強硬派は、武力での弾圧を決定した。結局、6月4日未明に、中国人民解放軍が天安門広場を制圧し、武力で天安門広場を片付けた。非武装の学生や民衆を大量に殺害した。 平和な時期に中国共産党が中国本土の住民に対して行った凄惨で流血の大虐殺であった。

 6月4日の天安門事件をきっかけに、趙紫陽はすべての役職から解任された。江沢民上海党書記は、学生の大弾圧を機に共産党の国家主席に上り詰めて、第三世代の共産党指導者となった。2017年12月のBBC放送によると、機密解除されたイギリス国家文書によると、天安門(六四)事件で、中国軍は少なくとも1万人の殺害を示唆した。1万人の数値は、駐中国イギリス大使のアラン・ドナルドが、中国共産党の国家評議員の友人を通じて入手した。秘密の外交ケーブルでイギリス本土に電報が伝送された。

 電報は1989年6月5日以降に送られて、ドナルドは学生たちは1時間で広場を離れろと通告するも、5分後に装甲車が学生たちを攻撃し始めたと記録した。学生たちは手をつないだが、中国人民解放軍兵士に振り回された。装甲車は学生たちを殺害した死体をパイのように繰り返し轢き、残骸はブルドーザーで転がされた。その後に、死体は焼却され、灰は下水道から流されて隠滅した。




2023年5月25日木曜日

第一次世界大戦のカポレットの戦いにて、チヴィダーレ近郊の山地の斜面の塹壕で、激しい戦闘からイタリア軍兵士が殺害された。多数のイタリア軍兵士の死体が、塹壕に散乱した。

第一次世界大戦のカポレットの戦いにて、チヴィダーレ近郊の山地の斜面の塹壕で、激しい戦闘からイタリア軍兵士が殺害された。多数のイタリア軍兵士の死体が、塹壕に散乱した。カポレットの戦いは、アルプス戦線とも呼ばれ、イタリア戦線にて第一次世界大戦の最も犠牲を招いた戦いとなった。イタリア戦線は、イタリアとオーストリア=ハンガリーの国境に沿った地域で、山脈や谷間で発生した。カポレットの戦いは、第12次イソンゾの戦いとも呼ばれた。イタリア軍とオーストリア・ハンガリー軍の間で行われた大規模なイソンゾの戦いの一部で、膠着状態に陥った。

 イソンゾの戦いは全部で12回あり、スロベニアとイソンゾ川沿いで戦われた。12回の戦いは、イタリア軍とオーストリア=ハンガリー軍の間で、1915年から1917年まで継続した。オーストリア=ハンガリー軍は主に防御側で、山中に防御陣地を取り、イタリア軍は攻撃側であった。イタリア軍はイソンゾの戦いにて、山岳地帯と河川の攻撃に苦戦した。12回のイソンゾの戦いの間に、両軍は一進一退の攻防を繰り広げ、ともに多大な損害を被った。

 イソンゾの戦いで、イタリア軍は約95万人以上の死傷者を出し、オーストリア・ハンガリー軍は約52万人の死傷者を出した。オーストリア・ハンガリー軍は、第12次イソンゾの戦い(別名カポレットの戦い)で決定的な勝利を収めた。カポレットの戦いで約30万人のイタリア軍兵士が死亡した。第12次イソンゾの戦いは、1917年10月24日から11月19日にかけて行われ、最後にして最も犠牲を伴った。

 1917年秋には、イタリア軍もオーストリア・ハンガリー軍も、11回までのイソンゾの戦いによって疲弊した。オーストリア=ハンガリー軍は、ドイツ軍の支援によりイタリア軍の防衛線を突破し、イタリア軍を国境から撤退させた。カポレットの戦いは10月24日早朝に始まり、オーストリア=ハンガリー軍とドイツ軍は、イタリア軍の塹壕に対して毒ガス攻撃を行って、イタリア軍を撤退させた。ガス攻撃に続いて、オーストリア軍とドイツ軍は火炎放射器、手榴弾、機関銃、迫撃砲を使用した激しい攻撃を行った。中央同盟国の2つの軍隊は、イタリア軍が支配する地域を素早く侵攻した。

 カポレットの戦いは、1917年11月19日に終結した結果、イタリア軍は約150Km後退し、約13,000人のイタリア軍兵士が死亡し、約30,000人が負傷、約275,000人近くが捕虜になった。カポレットの戦いは、イタリア軍にとって大きな損失であり、イタリア軍兵士の士気が大きく低下した。オーストリア=ハンガリー軍はカポレットの戦いで2万から7万人の死傷者を出した。



2023年5月24日水曜日

ドイツ軍は1945年4月28日に、アメリカ軍が解放する直前にラーンツベルグ地域のカウフェリングⅣ強制収容所を放火した。強制収容所内に監禁された約500人のユダヤ人の囚人は、放火で黒焦げになり焼死した。

第ニ次世界大戦の末期に、連合軍のドイツ侵攻によって、ドイツ軍は余儀なく撤退した。ドイツ軍は1945年4月28日に、引き払う直前にラーンツベルグ地域のカウフェリング(Kaufering)Ⅳ強制収容所を放火した。強制収容所内に監禁された囚人は、放火によって黒焦げになって焼死した。解放軍らは、約500人の黒焦げの死体を発見し、その多くは裸で、地元のドイツ人住民に埋葬を強制した。

 ランツベルクから撤退する直前に、ナチスの看守が牢屋小屋に放火した。ユダヤ人囚人の黒焦げの死体が、牢屋小屋の灰の中に横たわっていた。ユダヤ人の囚人は、木造の小屋に閉じ込められ、逃亡すれば看守に銃殺されると脅迫された。生きたまま焼かれて、やせ細った身体には、焼け焦げた衣服の破片が付着した。衣服が完全に焼失した裸のユダヤ人囚人もいた。

 カウフェリング強制収容所は、ダッハウ強制収容所の11の小収容所の中で最も大きく、最も劣悪な環境にあった。1944年6月18日から1945年4月27日まで運営された強制収容所で、3万人の囚人のうち約半数が飢えや病気、処刑、死の行進の中で死亡した。約3万人の囚人のうち、約半数が飢えや病気、処刑、死の行進で命を落とした。

 1944年6月20日に、アウシュビッツからのユダヤ人強制収容所の囚人1000人がカウフェリングに到着した。彼らは、3つの巨大な地下壕の建設に強制労働した。3つの地下壕では、ジェット推進のメッサーシュミット機「Me262」などが生産される予定だった。ランツベルク地区に、ダッハウ強制収容所に併設した11の強制副収容所が建設され、カウフェリングI~XIと命名された。終戦まで、最大で約23,500人が収容された。約6.400人以上の囚人がカウフェリング収容所で死亡した。約3,500人の囚人がアウシュビッツなどの他の収容所に強制送還され、到着後ほとんど虐殺された。1945年4月27日、カウフェリングの強制収容所はアメリカ軍により解放された。




2023年5月23日火曜日

中国の清朝末期に、焼き討ち、殺し合い、略奪などの重罪を犯して、民家を襲っては生計を立てていた2人の馬賊が公開された死刑が執行された。

中国の清朝末期に、焼き討ち、殺し合い、略奪などの重罪を犯して、民家を襲っては生計を立てていた2人の馬賊が死刑が執行された。馬賊は重犯罪者として、木の杭に縛り付けられた。野次馬の民衆の面前で公開処刑された。処刑者は将校や兵士ではなく、地元の村人によって組織された民兵集団であった。公開処刑することで他者への犯罪の抑止力の見せしめにもなった。

 重罪を犯した者は、斬首による死刑を宣告されて、民衆に刑罰を広めて、犯罪を抑制するために、民衆に公開で処刑が実行された。見物人の多数の民衆が集合して取り囲んで、処刑による報復に喝采を浴びせた。清朝末期には、治安が悪化して、馬賊が多発した。その撮影された写真に、「銃殺前の馬賊」と添え書きした絵葉書が、済南の愛屋から発行された。

 日本軍が占領した満州には、中国の抗日ゲリラが活動した。民衆自衛抗日軍と呼称して、日本軍は匪賊とか馬賊と呼んだ。満州各地で、日本軍や日本人を襲撃する事件が多発した。1932年9月16日午前1時5分, 平頂山事件が勃発した。撫順炭鉱の事務所、警官派出所、宿舎を抗日ゲリラが襲った。満鉄の職員と家族に死傷者がでた。日本軍は、抗日ゲリラが集結していた平頂山一帯の住民は、抗日ゲリラと通じていると断定した。村の住民約3000余人全員を集め、崖に追い詰めて、機関銃で銃殺した。死体の山に石油をかけ火をつけた後に、崖を爆破して埋めた。満洲国が崩壊した後は、馬賊も衰退していった。その後の国共内戦では、両陣営に取り込まれた。




2023年5月22日月曜日

第ニ次世界大戦の太平洋戦争の終戦直前の1945年8月14日に、ビルマのジャングルでアメリカ軍が仮設した墓地から、戦闘機事故で戦死したアメリカ軍兵士の死体を発掘した。

第ニ次世界大戦の太平洋戦争の終戦直前の1945年8月14日に、ビルマのジャングルにあるアメリカ軍が仮設した墓地から、戦死したアメリカ軍兵士の死体を発掘した。その死体は、1945年初頭の戦闘機の事故で死亡したアメリカ軍の飛行士の死体であった。その死体を2人のアメリカ陸軍の兵士が発掘作業を執行した。この写真は、1945年8月14日に、連合国首脳が、日本に対する降伏を宣言した日に撮影された。この写真は、第二次世界大戦の戦闘段階において、最後に検閲された写真の一つで、アメリカ軍が検閲して非公開にされていた。もし写真が公開されていたら、発掘されるアメリカ軍の飛行士の死体の下肢や上腕など、写真全体に見られるV字の形状は、アメリカ本土の家族らによっては、第2次世界大戦の大東亜戦争の勝利の意味は、全く異なっていることを痛感させた。

 第二次世界大戦は、アメリカ国民ならば誰でも参加できる最初の画像や映像であった。アメリカ政府やニュース、娯楽メディアなどによって、アメリカ国民に公表された第二次世界大戦の画像や映像には、説得力のある戦争の筋書き、アメリカ軍服を着た大勢のアメリカ軍兵士たち、わかりやすい善玉の連合軍と悪玉の枢軸国軍などが紹介された。アメリカ国民は、第二次世界大戦の画像や映像を視聴者として参加した。

 第ニ次世界大戦の連合国軍の勝利をアメリカ国民は予測はできても、当然とは言えない結末が勃発していた。1945年8月6日午前8時15分に広島市に、8月9日午前11時2分に長崎市に原子爆弾が投下されて炸裂して、広島市も長崎市も一瞬にして壊滅した。その約1ケ月以内の9月2日に、東京湾において約2000機近いアメリカ軍の戦闘機が集結た中で、アメリカ軍の戦艦USSミズーリ号で、日本軍が降伏する光景が映し出された。太平洋戦争が、パールハーバーでの始った日本軍の真珠湾攻撃と同じくらい劇的な結末を迎えていた。どの戦争の写真や映像は、第二次世界大戦をアメリカ国民一人一人に、戦争の観客と戦争の参戦者という二重の役割を効果的に与えた。

 世界中の何千万人もの人々を巻き込んだ激しい第二次世界大戦の戦闘の画像や映像は、全世界の観客を惹きつけないわけがない。世界中で何千万人もの人々を巻き込んだ激しい戦闘は、全世界の観客を惹きつけずにはおかない。戦争に対する欲求とその表現方法で、ほとんどの全世界の観客が、自分も第二次世界大戦の参加者であると洗脳することを保証した。戦争宣伝のアメリカ軍担当者が、最も強く訴えたテーマは、アメリカ国民に誰もが戦争に果たすべき役割を担っていると思い込ませることであった。アメリカ社会への平等な参加から排除されているアメリカ国民に、多くの人々を怖がらせることなく、いかにして戦争への完全なる参加を促すことができるかを訴えた。逆に戦争の画像や映像は、アメリカ国民に深刻な問題を突きつけた。




2023年5月21日日曜日

2023年5月11日に、ウクライナ・ドネツク州の激戦地であるバフムト付近の道路で、バフムトの戦いで戦死傷したウクライナ軍兵士に応急処置を施した。軍医らが死亡したウクライナ軍兵士の死体をビニール袋に入れて、車に載せて死後処理した。

 2023年5月11日に、ウクライナ・ドネツク州の激戦地であるバフムト付近の道路で、バフムトの戦いで戦死傷したウクライナ軍兵士に応急処置を施した。バフムト近郊の道路では、軍医らが死亡したウクライナ軍兵士の死体をビニール袋に入れて、車に載せて死後処理した。








 



         Warning: Military medics give first aid to wounded soldiers on the road near Bakhmut, Donetsk region, Ukraine, Thursday, May 11, 2023. (AP Photo/Boghdan Kutiepov)

ウクライナ軍は2023年5月12日に、戦争で最も長く血生臭い戦いの戦場となったウクライナ東部の都市バフムトで、ロシア軍から領土の一部を奪還したと発表した。ウクライナ軍は、バフムト南部で奪還した約2kmの領土は、補給路として確保した。一方、ロシア国防省は、ウクライナ軍はバフムト地域北側で攻撃を強めて、突破口を開いた憶測を否定した。ウクライナのゼレンスキー大統領は、5月12日に最高司令官と会談して、ウクライナ軍はロシア軍の侵攻を阻止して、いくつかの方面でロシア軍を押し返したと指摘した。

 アメリカの国家安全保障会議は、バフムトが依然と紛争地域であると評価した。ウクライナ軍はバフムト防衛を、ロシア軍はバフムト占領を諦めないと述べた。毎日毎日、戦線が前後して、時には地域ごとに変貌した。アメリカは、バフムトの戦略的価値は限定的と主張した。ロシア軍は、約8ヶ月間も続けた旧塩鉱山のバフムト町での戦闘で、兵員と兵器の膨大な損失を招いた。

 ロシアの民間軍事請負会社ワグナーの支配人のエフゲニー・プリゴジンは、5月12日のビデオ生命で、バフムト周辺の地盤を失って、ロシア軍は事実上逃げ出し、戦線の側面は崩れたと述べた。ウクライナ軍は、都市周辺の重要な高台を奪還し、バフムトへの重要な補給路を事実上封鎖した。プリゴジンは、ワグネルに十分な弾薬を提供しないロシア軍指導部を再び非難した。国防省の報道官は、プリゴジンの放棄の主張を明らかに否定した。ロシア国防省によると、バフムト市南部の攻撃に続き、5月12日にはソレダル市付近でウクライナ軍の攻撃行動が増加して、ロシア軍は、1,000人以上のウクライナ軍の攻撃を撃退したと述べた。

 ウクライナ軍は、バクムトでの戦闘と侵攻は進行中を示した。ウクライナ軍のバフムトの領土獲得は、シバースキー・ドネツ運河の近く、イヴァニフスケ村とクルディウミフカ村の間で奪還した。運河沿いのコスティアンティニフカ方面への攻撃に使うロシア軍の橋頭堡で、運河の反対側に追いやる必要があった。コスティアンティニフカは、クラマトルスク市につながる重要な物流チェーンの一部である。

 バフムトの争奪戦は、戦略的重要性が低いにもかかわらず、双方にとって犠牲を伴うものとなった。ウクライナ軍は同市に駐留して、ロシア軍は北、東、南から攻撃した。ウクライナ大統領府は、5月12日以降、他の戦闘で少なくとも約2人が死亡し、約22人が負傷した。ロシア軍の攻撃は、ウクライナ軍部隊の拠点があるクラマトルスクを襲い、学校と住宅が破壊された。ロシアの砲撃は同地域の約11の都市と村を襲い、約12人の市民が死亡した。











Warning: Military medics load bodies of the killed Ukrainian soldiers in plastic bags on a car on the road near Bakhmut, Donetsk region, Ukraine, Thursday, May 11, 2023. (AP Photo/Boghdan Kutiepov)

2023年5月20日土曜日

広島平和記念公園でG7サミット首脳は2023年5月19日に、広島平和記念資料館を見学して、原爆死没者慰霊碑で献花と祈りを捧げた後、原爆を免れた桜の木を植樹した。

2023年5月19日に日本国内閣総理大臣の岸田文雄は、広島県を訪問中のG7サミット首脳らと広島平和記念公園で開催されたG7行事を主催した。岸田首相は、広島平和記念公園でG7(Group of Seven)首脳とその配偶者に挨拶した後、G7首脳らと広島平和記念資料館を見学した。その後、原爆死没者慰霊碑で献花と祈りを捧げた後、原爆を免れた桜の木を植樹した。G7とは、フランス、米国、英国、ドイツ、日本、イタリア、カナダ(議長国順)の7か国及び欧州連合(EU)が参加する枠組でである。2023年に日本は7回目の議長国となり、広島サミットを開催した。ウクライナのゼレンスキー大統領は、G7サミットと広島平和記念公園に参加するため、5月20日午後3時半ごろ広島空港に到着した。

 2023年5月19日、岸田首相と岸田裕子夫人は、G7首脳とその配偶者を広島平和記念公園で歓迎した。フランス共和国大統領エマニュエル・マクロン閣下、アメリカ合衆国大統領ジョセフ・R・バイデンJr、アメリカ合衆国大統領およびファーストレディ、カナダ首相ジャスティン・トルドー閣下、ドイツ連邦共和国首相オラフ・ショルツ閣下およびその配偶者、イタリア共和国閣僚理事会議長ジョルジア・メローニ閣下、グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国首相リシ・スナック閣下およびその配偶者、フランス共和国大統領エマニュエル・マクロン閣下、アメリカ合衆国首相シャルル・ミシェル閣下、カナダ首相オラフ・ショルツ閣下、イタリア共和国閣僚理事会議長シャル・ミシェル閣下、イタリア共和国閣僚理事長シャ・ミシェル閣下が、G7首脳およびその配偶者を歓迎した。G7広島サミットに出席するため広島を訪れたシャルル・ミッシェル欧州理事会議長、ウルスラ・フォン・デア・ライエン欧州委員会委員長およびその配偶者は、広島県広島市の広島平和記念公園で会見を行った。その後、岸田総理は、広島平和記念資料館を見学した。広島平和記念公園内の原爆死没者慰霊碑での献花式、G7首脳との植樹式に参加した。

 G7首脳は一緒に平和記念資料館を訪れ、首相自らが展示物を説明したほか、被爆者の小倉桂子さんとも言葉を交わした。訪問後、岸田総理をはじめとするG7首脳は、湯崎英彦広島県知事、松井一実広島市長の案内で原爆慰霊碑に向かった。原爆慰霊碑に花輪を捧げ、広島の中学生・高校生の協力のもと、黙祷を捧げた。松井市長から原爆ドームについての説明を受けた後、G7首脳は、岸田首相とともに、平和への希求と平和実現に向けたG7首脳の結束の意志の象徴として、原爆を生き延びた桜(ソメイヨシノ)を公園内に植樹しました。G7首脳は、平和記念公園への訪問を通じて、原爆投下の現実について理解を深め、失われた命の霊を慰めるために心を合わせた。G7首脳は、ロシアによる核兵器の使用はもちろんのこと、その威嚇も許されないとの立場を改めて表明した。今回の訪問は、核兵器のない世界の実現に向けたG7のコミットメントを確認する機会となったことを確信する。




2023年5月19日金曜日

1905年10月に、ウクライナのオデッサで勃発したポグロムで、ロシア人との武力衝突で虐殺されたユダヤ人労働者同盟のブンドの仲間の死体を、ユダヤ人同盟が取り囲んだ。

1905年10月に、ウクライナのオデッサで勃発したポグロムで、虐殺されたユダヤ人労働者同盟のブンド(Bund)の仲間の死体を、ユダヤ人同盟のメンバーが取り囲んだ。10月16日から、学生、若者、ユダヤ人労働者はオデッサで街を歩き回り、バリケードを築き、警察や軍と戦闘になった。1905年10月、ニコライニ世が十月宣言を発表した後に、ユダヤ人排斥のポグロムがオデッサ居住区を席巻した。10月18日から武装したデモによる反政府運動が勃発して、ユダヤ人とロシア人の武力衝突によるポグロムに及んだ。ポグロミストは、無防備なユダヤ人を残忍かつ無差別に殴り、切り刻み、殺害した。

 ユダヤ人労働者総同盟(General Jewish Labor Union) は、帝政ロシア時代の1897年に、リトアニアの首都ヴィリニュスで結成された、ロシア支配地域におけるユダヤ系住民の社会主義(社会民主主義)団体であり、同盟を意味するブンドの略称で知られる。当初は、リトアニアとベラルーシのユダヤ人を組織した。1898年にロシア社会民主労働党の結成に貢献して、1905年には約35,000人に達した。レーニンやスターリンからは民族自決を否定する文化的民族自治論から厳しく批判された。1905年1月9日には、ロシア帝国の首都サンクトペテルブルクで血の日曜日事件により、第一ロシア革命が勃発した。混乱を収束するために、10月17日に専制から立憲制に十月宣言をするも事態は屈辱化した。

 1821年から1905年にかけて、ロシア帝国に属したウクライナのオデッサ市で、ユダヤ人に対する一連のポグロムが発生した。ポグロムは、民族的または宗教的集団、特にユダヤ人を虐殺や追放する暴力的な暴動である。特に1905年のポグロムは、規模も著しく大きく、反ユダヤ主義が中心になり、オデッサ史上最悪の反ユダヤ人ポグロムであった。1905年10月18日から22日に、ロシア人、ウクライナ人、ギリシャ人の民族が、約400人以上のユダヤ人を殺害し、約1600以上のユダヤ人の財産を破損・破壊した。10月17日に皇帝ニコライ2世は、ロシア国民の市民的自由を確立し、選挙による議会の創設を約束する十月宣言を発表した。10月18日に、ユダヤ人のグループが数人のロシア人労働者に赤い旗に敬意を払う命令をして、路上で喧嘩が起こり、反ユダヤ暴動に発展した。10月のポグロムで殺害されたユダヤ人は、約302人から約1,000人と推定された。





2023年5月18日木曜日

1951年1月27日に、朝鮮戦争にて北方に退却する北朝鮮軍に朝鮮人が撃たれて射殺された。縛られた両手と雪の中の呼吸穴から、放置された朝鮮人市民の死体が判明した。

1951年1月27日に、朝鮮戦争にて北方に退却する共産主義の北朝鮮軍に朝鮮人が撃たれて射殺された。縛られた両手と雪の中の呼吸穴から、放置された朝鮮人市民の死体があることが判明した。「雪の墓場から手を伸ばす(Reaching Up from a Snowy Grave)」の戦争写真は、縛られた朝鮮人の両手が雪に突き刺さり、殺害された朝鮮人は自分の妻のために呼吸孔を作っていた。北朝鮮の国境近辺である韓国の京畿道の独島山の雪山の楊枝で虐殺された。  

 マックス・デスフォー(Max Desfor, AP通信写真家)が撮影した朝鮮戦争にて最も無益な戦争を象徴したのは、雪に埋もれた朝鮮人の写真だった。縛られた手は、捕虜となり処刑された数人の民間朝鮮人の一人となった。その死体は雪に覆われて放置された。デスフォーは写真は、その後に「無益な行為(Futility)」と改題した。いつも戦火に巻き込まれる民間人は、罪のない民間人であり、戦争がいかに無益であるかを象徴した。1950年に、朝鮮戦争中に、朝鮮人難民が破損した橋を殺到して這って渡る姿を撮影して、ピューリッツァー賞を受賞したマックス・デスフォーは2018年2月19日に死去した。

 朝鮮戦争は、冷戦時代に起こったいくつかの軍事衝突の一つである。朝鮮戦争は、1950年6月25日に、共産主義国家の北朝鮮が韓国に侵攻して勃発した。国連は7月7日に、北朝鮮の軍事占領から韓国を解放するアメリカ軍が朝鮮半島に軍隊の派遣を許可した。韓国に派遣された兵士の多くはアメリカ軍の軍隊であり、国連の直轄部隊となった。9月8日の仁川上陸から侵攻で戦局は、国連軍と韓国軍が一気に北朝鮮軍を北朝鮮に追い返した。1950年10月、国連軍は北朝鮮軍を中国との国境まで追い詰めた。10月19日から中国軍は北朝鮮の国境を越えて国連軍に攻撃を開始した。1951年1月4日に中国・北朝鮮軍はソウルを奪還した。その直後の1月7日から中国軍と北朝鮮軍の多くの部隊が撤退した。3月8日に国連軍が最終的にソウルを再奪還した。1951年初めに、中国軍は国連軍を北朝鮮と韓国のほぼ元の国境線である38度線まで追い詰めた。その後約2年間は、38度線の周辺で事実上の膠着状態になった。朝鮮戦争は、1953年7月27日、停戦に合意し終結して終結した。





2023年5月17日水曜日

第二次世界大戦の西部戦線で1944年12月6日に、フランス北東部グランエスト県のドイツ国境近辺のフォルクスベルグ地区にて、アメリカ軍兵士が殺害したドイツ軍兵士の死体に、トランプを投げつけて死体を冒涜した。

第二次世界大戦の西部戦線で1944年12月6日に、フランス北東部グランエスト県のドイツ国境近辺のフォルクスベルグ地区にて、アメリカ軍兵士が殺害したドイツ軍兵士の死体に、トランプを投げつけて死体を冒涜した。その冒涜されたドイツ軍兵士の死体を、アメリカ陸軍信号部隊の撮影隊が写真撮影した。アメリカ軍当局は、アメリカ軍兵士がドイツ軍兵士の死体を不遜に扱ったり軽蔑する可能性を示唆する写真は検閲して戦争中は非公開にしていた。

 第二次世界戦争中は、検閲にてほとんど公開されなかった資料の一例である。この写真は、戦争疲れと宣伝的な行動喚起に過剰な露出で対抗するために、特例として戦争末期にのみ一般公開された。検閲する官憲は、アメリカ軍兵士が自制心を失っている写真はすべて検閲して非公開にしていた。まれに戦争疲れの心理的影響を喚起する写真を公開することがあった。

 写真の説明文は、戦時中に検閲された画像と公開された画像を明確にした。ビジュアル・エッセイに登場する検閲された画像のほとんどは、CEと指定された国立公文書館のファイルから入手した。知る限り、CE識別番号を持つ画像はすべて、何年も、ほとんどの場合、何十年も検閲された資料のファイルに残存した。現在では、国立公文書館の静止画部門にいる研究者がアクセスできる。CEファイルにはなかったが、当局がその画像の公開を制限した他の証拠がある場合は、説明文や本文に制限の内容や証拠を示した。

 アメリカ軍は1944年9月から12月中旬まで、フランス戦線にてドイツ軍をロレーヌから追い出し、ジークフリートラインの背後から追放するために戦った。モーゼル川の横断とメッツ要塞の占領は、ドイツ軍は増援、補給不足、悪天候に直面して、アメリカ軍の防御は困難なものであった。1944年9月から10月にかけて、連合国第6軍集団(アメリカ第7軍とフランス第1軍)は、ヴォージュ山脈を舞台にして、ドイツ軍の執拗な抵抗と侵攻の遅れを象徴とる困難な作戦で戦った。しかし、11月に入ると、ドイツ軍の戦線は連合軍の圧力に耐え切れず、連合軍の急激な侵攻により、ベルフォール、ミュルーズ、ストラスブールは解放されて、連合軍はライン川沿いに配置された。ドイツ軍はライン川西岸、コルマール市を中心とする大規模な橋頭堡を保持できた。11月16日に、連合軍はクイーン作戦と呼称する大規模な秋季攻勢を開始した。ヒュルトゲンの森を再び主戦場とした攻勢は、連合軍はルール川まで追い込んだが、ルールダムの攻略とライン川への道筋をつける主要目的は果たせなかった。連合軍の作戦はその後、ドイツ軍のアルデンヌ攻勢に向けて引き継がれた。





2023年5月16日火曜日

アメリカ軍海兵隊員は1942年11月に太平洋戦争のガダルカナル島の戦いで、ポイント・クルーズの軽機関銃の塹壕から、殺害された日本軍兵士の死体を引張り出して検死した。

アメリカ軍海兵隊員は1942年11月に、太平洋戦争のガダルカナル島の戦いで、ポイント・クルーズ付近の塹壕から、殺害された日本軍兵士の死体を引きずり出した。アメリカ軍兵士は、太平洋戦争のガダルカナル島の戦いで、戦死した多数の日本軍兵士の死体を、日本軍の軽機関銃の陣地から引張り出して検死した。 

 日本陸軍第4歩兵連隊は、ガダルカナル島のポイント・クルーズ地区を防御した。日本軍第4歩兵連隊は戦死者や負傷者、熱帯病、栄養失調のために疲弊した。アメリカ軍は1942年11月1日から攻撃を開始して、11月3日までにポイント・クルーズ地区を防御した日本軍を壊滅した。そのマタニカウ攻勢にて、アメリカ軍はマタニカウ川を渡り、ガダルカナル海岸北部のポイントクルーズまでの日本軍部隊を1942年11月1日から4日まで攻撃した。アメリカ軍は約71人が死亡して、日本軍兵士は約400人以上が死亡した。11月1日にアメリカ軍海兵隊は、戦艦の支援を受けながら、マタニカウ川を渡って侵攻を開始した。

 11月2日にアメリカ軍は、ポイントクルーズの西海岸に到達し、日本軍を包囲した。日本軍の防御陣地には、ポイントクルーズの西海岸沿いの小道、珊瑚、土、丸太の壕、洞窟や狐穴があった。アメリカ軍砲兵は11月2日の終日に、日本軍陣地を砲撃して、日本軍守備隊には甚大な死傷者を出した。北部の日本軍には固定銃剣の正面攻撃を行って、日本軍の防衛隊を制圧して殺害した。

 11月3日には、アメリカ軍はポイントクルーズを越えて侵攻した。11月3日に、日本軍一部が塹壕の脱出を試みたが、海兵隊に殺害された。アメリカ軍は、小銃、迫撃砲、爆薬、直接・間接砲火を使用して、ポイントクルーズ付近の日本軍陣地の破壊した。ヤシの木の間に約300人ほどの若い日本軍兵士の引き裂かれ、粉々になった死体がずらりと並び、生存者は一人もいなかった。

 ガダルカナル島の激戦は、1942年8月7日から1943年2月3日まで継続した。陸・海・空で戦闘が繰り広げられた。ガダルカナルの戦いでは、次第に食料が枯渇して、日本軍兵士は戦争で殺害されるよりも、栄養失調にて餓死あるいは病死する兵士数が急増した。日本軍は約31,000人、アメリカ軍は約7,100人の兵士、船員、飛行士、海兵隊員が犠牲になった。




2023年5月15日月曜日

文化大革命が終結後、元党支部書記であった女性の王守信は、横領の罪で、1980年2月8日に銃殺により処刑された。王守信は雪の地面の上にひざまずいて、処刑執行者に背部から銃殺された。

中華人民共和国の黒龍江省のハルビン郊外の南東約30kmの雪原の野原で、1980年2月8日にトラックから降ろされた。ハルビン郊外に広がる雪の野原に強制連行された王守信は、死刑の執行を待った。文化大革命が終結後、元党支部書記であった女性の王守信は、横領の罪で、銃殺により処刑された。王守信は雪の地面の上にひざまずいて、処刑執行者に背部から銃殺された。




 黒龍江省の党支部書記と賓県燃料公司の社長であった52歳女性の王守信が、約10万ドルの金を横領したと、1979年に文化大革命で迫害されたノンフィクション作家の劉賓雁が人妖の間の暴露記事で告発した。王守信は、文化大革命以前は単なる出納係であった。文化大革命にて造反派を組織して、急進的な政治権力を掌握した。中国全土に蔓延る斡旋収賄と汚職の象徴となる横領犯として裁判された。ハルビンの工人体育館でわずか3日間の公開裁判で、王守信は無実を叫ぶも、拷問して沈黙させた。有罪して死刑の判決を受けた。その他の暴力犯罪と比較しても、あまりにも死刑の判決は重大すぎた。1980年2月8日に、死刑は執行された。

 毛沢東は、1966年から腹心の林彪や四人組の共産党幹部らと、紅衛兵と呼称された若者たちを扇動した。旧来の社会主義に市場経済の導入を図った走資派の政権幹部を暴力的に迫害した。文化大革命をスローガンに、紅衛兵が全中国に暴走して、伝統文化や市民に甚大な被害を伴った。紅衛兵の暴動はしだいに毛沢東にも制御不能になった。1976年に、毛沢東の死と四人組の逮捕によって国家的騒乱が終結した。  

 1966年の秋までに、ほとんどの中国人にとって、毛沢東は生き神様になっていた。毛沢東は、1958年2月に中国を大躍進に導いた毛沢東は、2000万人以上の死者を出す壊滅的な飢饉をもたらして1959年に失脚した。毛沢東は、1966年の文化大革命の最初の数年間、天安門広場で約1100万人以上の紅衛兵を出迎えた。人々は、地主、金持ちの農民、反革命分子、悪い人物という4つの要素に属した市民が非難され、即座に処分された。文化大革命での推定死者数は間接も含めると、総計約2,000万人と推定された。