2022年12月21日水曜日

スペイン内戦中の1938年3月に、最悪のバルセロナ空爆された。イタリア空軍が、イタリアのサルデーニャ島を離陸したファシスト政権のイタリア爆撃機が、バルセロナを空爆した。

スペイン内戦中の1938年3月に、最悪のバルセロナ空爆された。イタリア空軍が、イタリアのサルデーニャ島を離陸したファシスト政権のイタリア爆撃機が、バルセロナを空爆した。空爆により殺害されたバルセロナ市民の死体が路上に放置された。周囲の建物は崩壊して、瓦礫が散乱した。

 最悪のバルセロナ爆撃は、スペイン内戦中の1938年3月16日から18日にかけて、ファシスト・イタリア軍とナチス・ドイツ軍が主導して、フランコが率いる国民党反乱軍を支援した空爆である。最大で約1,300人が死亡し、少なくとも約2,000人が負傷した。フランコは当初はバルセロナ空爆を知らず、3月19日に爆撃の中止を求めた。イタリア帝国元師のムッソリーニは空爆の実験場に自己満足した。

 1938年3月16日から18日にて、バルセロナはスペイン内戦で戦ったイタリア空軍の爆撃機によって空襲された。爆撃機はイタリヤのマヨルカ島などから飛来した。3月16日22時には、まずドイツ軍の戦闘機が最初にバルセロナに空襲をした。その後3月18日15時まで3時間おきに、イタリア軍の爆撃機により約17回の空襲があった。3月18日夜は、労働者階級が住む地区が大きな空爆を受けた。スペイン共和国空軍(FARE)は3月17日朝までバルセロナに戦闘機を派遣しなかった。

 バルセロナに対空砲がほとんどなく、戦闘機からの援護もなく、実質的に無防備であった。爆撃機は静かに高度な上空を通過して、爆弾を投下した後にエンジンを再始動させ、警報は鳴らず、爆弾が爆発するまで爆撃機を発見できなかった。イタリア軍は屋根を通過して建物内で爆発する遅延信管爆弾や、地面の近辺を破壊する新型爆弾を投下した。バルセロナ都市の空襲警報機を無効となった。イタリア軍の爆撃機は約44トンの爆弾を投下した。イタリア軍は軍事目標だけでなく、市内の工業地帯を破壊して、スペイン共和国側の士気を下げた。軍の倉庫、武器工場、兵士が乗った列車、港だけでなく、市民の建物、映画館、領事館、劇場も爆撃で破壊した。




2022年12月20日火曜日

関東大震災による死者は約9万9,331人、行方不明者は約4万3,476人、全壊・焼失・流失した家屋は約57万戸に及んだ。関東大震災の当時の東京の柳橋地区の付近にて、日本民間人の自警団が多数の朝鮮人を虐殺した。

関東大震災の当時の東京の柳橋地区の付近にて、日本民間人の自警団が多数の朝鮮人を虐殺した。関東大震災は、1923年9月1日午前11時58分に、日本の関東地方にて、マグニュード7.9の大地震が発生した。死者は約9万9,331人、行方不明者は約4万3,476人、全壊・焼失・流失した家屋約57万戸に及んだ。日本政府は、戒厳令と治安維持法を発令して、軍隊を出動した。

 その後に、朝鮮人暴動などの流言飛語が発生して、日本政府も焚き付けた。官憲・在郷軍人を中心とする自警団によって、地獄のような朝鮮人の大虐殺が勃発した。日本陸軍と警察は、関東大震災により日本国民が凶暴になった民意を、鎮圧するために、避難の矛先を朝鮮人に向けた。朝鮮人が、井戸に毒を流し込み、被災地に放火して略奪をしてなどの偽情報のビラが散乱した。それに激怒した日本人は、少なくとも6,000人以上もの朝鮮人を虐殺した。無差別に、朝鮮人の子どもから妊婦までも殺害した。

 大震災の大混乱にて、在郷軍人会が組織力を発揮して、朝鮮人を鎮圧した。翌日の9月2日に発足した山本権兵衛内閣は、在郷軍事会に救済事業を午後6時に発令した。戒厳令により、非常事態に行政と司法を停止して、軍隊が治安の維持に当たった。戒厳令から危機感が増幅して、自警団が各地に結成された。東京は約1,593、神奈川約603、千葉に約366、茨木約336、群馬に約469、その他約16など総計約3,689の自警団が結成された。政府の資料では、軍隊による朝鮮人虐殺事件が、約12件発生して、数十人が被害者となった。その他に、中国人虐殺は、大島八丁目広場にて数百人が殺害された。朝鮮人虐殺の大部分は、民間人による自警団が執行した。流言飛語と虐殺の起点は、内務省警保局長の打電が9月3日午前から各地に朝鮮人の虚偽情報による厳密なる取締の電報や電話が通知された。




2022年12月19日月曜日

シリアの首都ダマスカス近郊の東グータにある反対派の拠点ドゥーマで2018年4月8日にアサド政権軍の毒ガス攻撃があり、医療従事者が呼吸困難の幼児を治療した。

シリアの首都ダマスカス近郊の東グータにある反対派の拠点ドゥーマで2018年4月8日にアサド政権軍の毒ガス攻撃があった。医療従事者が呼吸困難の幼児を治療した。患者は呼吸困難と目の焼けるような痛みを感じた。シリアの野党活動家と救助隊は、首都近郊の反体制派のドゥーマが毒ガス攻撃を受けたと発表した。シリアのアサド政権は疑惑を否定した。

 救助隊員は、変形した黄色の毒ガス容器の散乱を認知した。救助隊員は、2017年3月25日にラタミナの病院の上にこの容器が投下されたと語った。化学兵器禁止機関(OPCW)は2018年3月13日に、シリアで2017年3月に反政府勢力が支配する地域が攻撃された際に、神経剤サリンと塩素ガスが使用された可能性が非常に高い調査結果を発表した。OPCWは、2017年3月24日に起きた、反政府勢力の支配下にあるシリア北部のラタミナの南での攻撃でサリンが使用され、2017年3月25日に病院への攻撃でも塩素ガスが使用を指摘した。誰が使用したのかについては任務の範囲外のため、OPCWは判断を避けた。活動家らは、当時攻撃していたのはシリア政府軍と指摘した。

 シリア政府は化学兵器の使用を繰り返し否定している。国連とOPCWの共同調査団は、ラタミナでの攻撃があってから間もなく、反政府勢力が支配する近隣の町、ハーン・シャイフーンを攻撃したシリア政府軍がサリンを使用したと結論付けた。OPCWの事実調査団(FFM)は発表文で、ラタミナでサリンと塩素ガスが使用された根拠として、目撃者の証言、疫学的分析、現場から採取されたサンプルを挙げた。

 OPCWは攻撃の状況に関する詳細は説明していない。一方、国連人権理事会の調査委員会は2017年3月25日の攻撃を、シリア空軍のヘリコプターがタル爆弾に塩素ガスが詰め込み、ラタミナの病院に投下し、外科医と患者2人の市民3人を殺害したと公表した。

ホワイト・ヘルメットの名で知られるシリア民間防衛隊はこの日、「ハマの病院に塩素の空爆があり、2人が死亡、30人が負傷した」とツイッターに投稿した。目撃者たちは調査官らに対し、爆弾はあまり音をたてずに、洗剤のような強いにおいがする黄緑色の煙を吐き出したと語った。攻撃で少なくとも32人が負傷して、ほぼ全員に、のどや目の痛みに加えて、呼吸困難、嘔吐、口から泡を吹く症状があった。調査委員会は、OPCWは2017年3月30日にラタミナとは別の攻撃でサリンが使用されたと指摘した。調査委員会によると、未確認の軍機がラタミナの村に爆弾を投下した後に、少なくとも約85人が呼吸困難を訴えた。OPCWは、2018年4月7日にドゥーマで起きた化学兵器攻撃も調査を行って、首都ダマスカス郊外にある反政府勢力の支配地域だったドゥーマが攻撃された際に約40人が死亡した。

 2011年3月から勃発したシリア民主化運動で、シリア国民を弾圧するアサド政権を支援するために、ロシアのプーチン大統領は国連安保理決議に拒否権を乱発して、アサド政権に強力に軍事支援した。ロシア軍はシリア内戦に介入して、無差別砲爆撃だけでなく、毒ガスサリンも使用した。ロシアは、2017年4月8日と4月12日に、ウクライナが中東に化学兵器輸出の偽情報を流布した。アメリカ・イギリス・フランスの連合軍は、シリア政府軍が2018年4月7日にドゥーマで化学兵器を使用したと断定して、シリアの化学兵器インフラへのミサイル攻撃をした。シリアのバシャール・アル・アサド大統領は、ドゥーマでの出来事をでっち上げと主張して、ドゥーマをシリア政府軍の支配下に置かれた。トランプ政権は2018年4月13日午後9時に、シリア・アサド政権の化学兵器施設に対する局所攻撃を命じた。




 

2022年12月18日日曜日

2022年11月22日に、ロシア軍によるヘルソンへのミサイル攻撃で、13歳のアルトゥール・ボブリコフが左腕に重傷を負った。医療関係者は、少年を狭い6段の階段を上げて、手術場で医師らは彼の左腕を切断した。

2022年11月22日に、ロシア軍によるウクライナ南西部沿岸のヘルソン州都ヘルソンへのミサイル攻撃で、13歳のアルトゥール・ボブリコフ(Artur Voblikov)が左腕に重傷を負った。その直後に、医療関係者は、鎮静剤を打った少年を慎重に操作しながら、狭い6段の階段を上がって、手術場まで人力で運搬した。アルトゥール君はロシア軍の攻撃を受けて負傷し、医師らは彼の左腕を切断しなければならなかった。解放されたばかりのへルソンでロシア軍の攻撃が増える中で、医療関係者たちは水や電気が少なく、機材が不足している中で対応に苦慮して、手術室でアルトゥール君の左腕を切断した。アルトゥール君の母親のナタリア・ボブリコバ(Natalia Voblikova)さんは、暗い院内で娘と一緒に手術が終わるのを待っていた。

 










Warning: Staff carry 13-year-old Artur Voblikov on a stretcher up the stairs to the operating room inside a hospital in Kherson, southern Ukraine, Tuesday, Nov. 22, 2022. Arthur Voblikova was injured after a Russian strike, and doctors had to amputate his left arm. As attacks increase in the recently liberated city of Kherson, doctors are struggling to cope amid little water, electricity and a lack of equipment. (AP Photo/Bernat Armangue) 

   約2週間前の11月11日にウクライナ軍が奪還した南部の都市へルソンでは、多くの医師が暗闇の中で無電源で働き、患者を手術に運ぶためのエレベーターも使えず、ヘッドランプや携帯電話、懐中電灯で手術を行っている。ヘッドランプ、携帯電話、懐中電灯を使って手術をしています。いくつかの病院では、重要な機器がもはや機能していません。「呼吸器も動かない、X線装置も動かない。呼吸器もX線装置も動かないし、携帯用の超音波診断装置も1台しかないので、常に携帯している」と、へルソンの小児病院の外科部長であるボロディミール・マリシュチュク外科部長は述べた。

 


  








Warning: Doctors operate on 13-year-old Artur Voblikov inside a hospital in Kherson, southern Ukraine, Tuesday, Nov. 22, 2022. Arthur Voblikova was injured after a Russian strike, and doctors had to amputate his left arm. As attacks increase in the recently liberated city of Kherson, doctors are struggling to cope amid little water, electricity and a lack of equipment. (AP Photo/Bernat Armangue)

   ウクライナ南西部沿岸のヘルソン州都ヘルソンを今年3月2日から占領していたロシア軍が撤退の完了を発表した11月11日に、ウクライナ軍がヘルソン市内に侵攻した。ロシア軍の占領から解放された黒海の港湾都市には電気がなく、市民が冬を乗り切るには都市のインフラがあまりにも損傷を受けた。ウクライナ当局は、11月21日に冬に向けてウクライナ南部の都市ヘルソンの住民は、その他の電力が稼働し、インフラが整っているウクライナ国内の他の地域、特に女性、子供、高齢者、脆弱な人々に避難するように要請した。

2022年12月17日土曜日

比治山国民学校は、広島原子爆弾の爆心地から南東に約2.8kmにあって火災を免れた。被爆直後から負傷した多数の被爆者市民が避難した。広島県が8月7日に布告した救護所13カ所の一つに指定された。

比治山国民学校は、広島原子爆弾の爆心地から南東に約2.8kmにあって、火災を免れた。被爆直後から負傷した多数の被爆者市民が避難した。広島県は、広島原子爆弾が炸裂した翌日の8月7日に布告した救護所13カ所の一つが比治山に指定された。教諭らも泊まり込んで救護を手伝った。火傷や負傷して被爆者は、広島市周辺の比治山国民学校に避難した。比治山国民学校の教室にいた児童約50人はガラス片などで負傷したが、命は無事であった。3年生以上の児童は、広島県佐伯郡津田村(現廿日市市)などへ集団疎開していた。

 昭和二十(1945)年度日誌広島市比治山国民学校の日誌には、8月9日に「罹災患者依然多数呻吟ス」と記載された。原子爆弾の投下で未曾有の混乱に陥っていた。行政関係の文献である『広島県史』原爆資料編には、広島県の公式記録「第1号戦災記録 広島県」として、8月7日に県知事の救護所布告で13箇所の救護所開設が告示された。被爆して7日後には、救護所は自然発生的に増加して約53箇所に達した。

 比治山国民学校には、8月8日午後4時から広島市社会課が主管した迷子を収容する孤児収容所も併設した。保護者の生死が不詳な児童の救護も開始した。8月9日には、孤児収容所モ漸時収容サレテ二十四名トナルと記述された。28歳の母親の手記にて「母を求めて泣き叫ぶ赤子」に「乳を含ませてやると」「やがてスヤスヤと眠り始めた」が、数日後に「死んでしまった」と極限下の保育が続いた。9月2日までに受け入れた迷子は計約91人(うち女児36人)に達した。そのうち約18人が親に、約14人が親族に引き取られた。約9人の児童は「強度ノ下痢症状ヲ起シ衰弱死亡ニ至レルモノナリ」と原爆症で死亡した。




2022年12月16日金曜日

ハンガリー動乱の初日直後の1956年10月24日にソ連軍は第一次侵攻して、首都ブタペストの住人は、ソ連軍によって殺害されて埋葬されていないで路上に放置されたハンガリー市民の死体を見詰めていた。

1956年のハンガリー動乱は、ナジ・イレム(Nagy Imre)首相が民衆蜂起を容認して、第二次世界大戦後の東欧で最初の民主革命となった。この革命は、その後の数十年にわたり、東欧地域のすべての反体制的な社会運動に影響を与えた。ハンガリー動乱の初日直後の10月24日にソ連軍は第一次侵攻して、首都ブタペストの住人は、ソ連軍によって殺害されて埋葬されていないで路上に放置されたハンガリー市民の死体を見詰めていた。11月4日、大規模なソビエト軍がブダペストに第二次侵攻し、数千人の民間人が殺害された。組織化された市民の抵抗は11月10日までに停止し、大量逮捕が始まった。

 ハンガリー動乱によって、ハンガリー勢力は約2,500人が殺害されて、約13,000人が負傷した。ソ連軍は約722人が殺害されて、約1540人が負傷した。さらにハンガリー市民が約3,000人が殺害された。約200,000人のハンガリーが国外に脱国して、約13,000人が逮捕されて、約350人が処刑された。

 ソ連は1953年3月5日にスターリン死去後に、1953年9月のフルシチョフの大統領就任に伴って、ハンガリーでは、ナジ・イレム閣僚会議議長が、熱心なスターリン主義者であったマティアス・ラコシに代わって、1953年7月4日に首相に就任した。ナジはハンガリーをワルシャワ条約から脱却させようとし、1956年11月4日、ソ連によるナジ政権に忠実な守備隊や軍隊への攻撃が勃発した。午前5時20分に、ハンガリーのイムレ・ナジ首相は、厳しい約35秒間の放送で国民への侵攻を発表して、「我が軍は戦っている。政府はその場所にいる」と宣言するも直後に、ユーゴスラビア大使館に避難した。ソ連軍によって拘束された。ルーマニアに身柄を強制連行された後に、1956年11月22日に大使館を出た直後にソ連軍に逮捕された。ソ連国家保安委員会(KGB: Komitet Gosudarstvennoy Bezopasnosti)による秘密裁判により、1958年6月16日に絞首刑が執行された。




2022年12月15日木曜日

チェピエロフの虐殺は、1939年9月8日に、ポーランドのラドム近くのチェピエロフの村で、ドイツ国防軍兵士らによってポーランド人捕虜が大量殺戮された。

チェピエロフの虐殺(Ciepielów massacre)は、1939年9月8日に、ポーランドのラドム近くのチェピエロフの村で、ドイツ国防軍兵士らによってポーランド人捕虜が大量殺戮された。これは1939年9月の作戦中にドイツ軍によって実行された最大の文書化された処刑の1つであった。戦争犯罪は、ミュンヘンのポーランド領事館を通じて、1950年に西ベルリンのポーランド軍事使節団に与えられた匿名のドイツ語タイプ文書 (日付と署名なし) に基づいて発見され証明された。提供された文書には1939年9月にチェピエロウ近郊でポーランド軍兵士が処刑された様子を示す5枚の実写真が含まれた。

 チェピエロフ付近での戦争犯罪は、第29歩兵師団のヴァルター ヴェッセル大佐の指揮下にあるドイツ第15歩兵連隊によって行われ、犠牲者は第 74 歩兵連隊のポーランド兵でした。法的には、それは国際戦争法とハーグ条約の両方に違反した。ポーランド上シレジア第74歩兵連隊から犠牲者の数を約300人と見積もった。国立記憶研究所は、少なくとも約250人と予想した。

 この戦争犯罪は、キェルツェ県の北、イウジェツ県、リプスコからチェピエロフまで続く道路の隣に位置するチェピエロフ市のドンブロヴァ近くの国有林で勃発した。一連の写真を添えて匿名のドイツ人に報告された出来事の真実性は、戦争犯罪に関する疑いや論争を引き起こさなかった。 同日、ドイツ国防軍は周辺の村々やチェピエロウで民間人を殺害し、その中には1人の子供 (イウジェツ県リプスコのコミューン、ゴウェンビオフ出身の10歳のゾシア・ヴルゾハル) が含まれた。死刑執行人はヴェッセル大佐が指揮する第 15自動車化歩兵連隊でもあり、他のドイツ軍部隊は地域での軍事作戦に参加しなかった。

 その他に、ドイツ軍によるポーランド人捕虜の最大の大量虐殺は、チェピエロフの虐殺である。その他にも、カトヴィツェの虐殺(Katowice, 約80人の殺害)、マイダン・ヴィエルキの虐殺(Majdan Wielki, 約42人の殺害)、セロクの虐殺(Serock, 約80人の殺害)、ソハチェフの虐殺 (Sochaczew, 約50人の殺害)、シュチュチンの虐殺(Szczucin, 約40人の殺害)、ザクロチムの虐殺(Zakroczym, 約60人の殺害)、およびザクロチンの虐殺(Zambrów,約200人の殺害)などがあった。

 この時期にポーランドの一部も占領していたソビエトは、ポーランド軍将校の組織的な大量処刑を行った。1940年前半にロシアのカチンの森で殺害された推定約22,000人の囚人のうち、約8,000人は1939年のソ連のポーランド侵攻中に投獄されたポーランド軍将校であり、別の約6,000人は警察官であり、残りはポーランドの知識人であった。




2022年12月14日水曜日

アメリカ側の5つの歩兵大隊と1つの空挺大隊が集結して、約1500人の部隊が、1961年4月17日にグアテマラとニカラグアを船で出発し、4月17日の夜にキューバ侵攻軍はピッグス湾のプラヤ・ジロン海岸に上陸し、地元の革命的民兵を圧倒した。

ピッグス湾侵攻作戦(The Bay of Pigs Invasion)、地名のプラヤ・ジロン(Playa Girón)、1961年4月17日にキューバ亡命軍がアメリカから秘密裏に資金と指揮を受けて、キューバの南西海岸に上陸した。フィデル・カストロの共産主義政権を転覆させる目的であった、冷戦の真っ只中に失敗した。キューバ革命軍は、約176人が殺害されて、約500人が戦傷した。民兵は、約2,000人が戦死傷した。キューバ亡命軍は、約118人が殺害されて、約360人が戦傷して、約1,202人が捕虜になった。アメリカ軍兵士は、4人が殺害された。

 1958年12月に、アメリカの同盟政権にいたバチスタ将軍は、カストロの率いる7月26日運動によってキューバ革命で退位した。カストロは、銀行、製油所、砂糖・コーヒー農園などのアメリカ企業を国有化し、アメリカとの関係を断絶し、冷戦時代のソ連と連携した。中央情報局(CIA)はカストロ政権の打倒を計画して、1960年3月にアイゼンハワー大統領が承認した。カストロがキューバ政権奪取後に、アメリカに移住したキューバ人亡命者は、民主革命戦線(DRF)の武装部門である反革命軍団(2506旅団)を結成した。CIAはアメリカ軍も含む2506旅団に資金を提供し、グアテマラで部隊を訓練した。

 アメリカ側の5つの歩兵大隊と1つの空挺大隊が集結して、約1500人の部隊が、1961年4月17日にグアテマラとニカラグアを船で出発した。4月17日の夜に、キューバ侵攻軍はピッグス湾のプラヤ・ジロン海岸に上陸し、地元の革命的民兵を圧倒した。キューバ革命軍の反撃は、当初はホセ・ラモン・フェルナンデスが指揮したが、後にカストロが自ら指揮を執るようになった。キューバ革命を争点で選挙に勝利したケネディ大統領が立案した作戦は、空軍と海軍の両方が関与したが、作戦の主導権を奪われ、空軍支援の差し控えを決定した。空軍支援なしで、CIAが想定した少ない兵力で侵攻が行われた。侵攻軍は3日でキューバ革命軍に敗れて、4月20日に降伏した。降伏した部隊は、公開尋問を受けて、キューバの刑務所に収監された。

 キューバ侵略は、アメリカの外交政策の失策となった。キューバ政府の勝利で、カストロは、国民的英雄の役割を強固にし、かつて同盟関係にあったアメリカとの政治的分裂を拡大させた。キューバはソ連に接近して、1962年のキューバ・ミサイル危機の舞台となった。




2022年12月13日火曜日

太平洋戦争の南方ジャワ戦線にて、1942年3月2日にオランダ軍の戦車が、日本軍から砲撃を受けて、戦車に搭乗したオランダ軍兵士は乗り出して下敷きとなり殺害された。

太平洋戦争における南方ジャワ戦線にて、1942年3月2日にオランダ軍の戦車が、日本軍からの対戦車砲の砲撃を受けて横転した。戦車に搭乗していたオランダ軍兵士は、吹き飛ばされた。逃げる暇もなく転覆した戦車の下敷きとなり殺害された。ハッチを上げて上半身を乗り出したままで殺害された。

 太平洋戦争が1941年12月8日に日本軍の真珠湾攻撃から勃発した。その直後から大東亜戦争が東南アジアで勃発した。インドネシアでは、蘭印作戦(Dutch East Indies campaign)により、1942年1月11日から3月9日まで日本軍が侵攻した。

 オランダ亡命政府は、1941年12月8日に日本に宣戦布告した。日本軍が占領する前に、インドネシアでは敵対する集団間で紛争があり、人々が殺されたり、行方不明となった。1942年初頭の日本軍の侵攻は迅速に圧倒した。1941年12月17日に、日本軍はボルネオ島のサラワク州北部ミリに上陸した。1942年1月までに、スラウェシ島とカリマンタンの一部は日本軍の支配下になった。2月19日には、ポルトガル領ティモールのディリ地域に上陸した。2月28日から3月1日に、日本軍はジャワ島北部沿岸にほぼ無傷で上陸した。最も激しい戦闘はアンボン、ティモール、カリマンタン、ジャワ海の侵攻地点で勃発した。3月9日にオランダ軍司令官は日本軍に降伏した。連合軍は、約671人が戦死して、約82,618人が捕虜となった。日本軍は、約840人が戦死して、約1,784人が戦傷した。

 1939年9月1日にヨーロッパで第二次世界大戦が勃発した。1940年5月15日にはドイツの侵攻をうけて宗主国オランダは降伏して、王室などはイギリスへ逃亡し亡命政府を創設した。以後、第二次世界大戦終結の直前までオランダ本国はドイツの占領下におかれた。オランダ本国が降伏した後も、オランダ領東インドはオランダ亡命政府傘下であり続け、在東インド植民地軍による統治が続いた。オランダ領東インドに日本軍が侵攻して、東インド植民地軍は全面降伏して、オランダ人の一部はオーストラリアなどの近隣の連合国に逃亡した。以後、東インド全域は日本の軍政下に置かれた。オランダによる約350年の東インド支配が実質的に途絶えた。1945年8月15日に日本が連合国に降伏した直後に、8月17日にスカルノとハッタが民族の名にてインドネシアの独立を宣言した。その直後から、インドネシア独立戦争が1949年12月27日まで勃発して、インドネシア連邦共和国が成立した。




2022年12月12日月曜日

1923年3月31日に、クルップ工場のアルテンドルファー通りにある自動車車庫の広場で、約12人のルール地方の工場労働者が、フランス軍兵士によって射殺された。

1923年3月31日に、クルップ工場のアルテンドルファー通りにある自動車車庫の広場で、約12人のルール地方の工場労働者が、フランス軍兵士によって射殺された。フランス軍の占領政策に抗議する大勢の労働者が集結していた。フランス軍兵士が、デモ隊に発砲し、約12人が射殺された。聖土曜日の悲劇は、「エッセンの大虐殺」として歴史に刻まれた。1923年、ルール地方の占領軍であるフランス軍兵士が、クルップ工場の従業員の約12人を射殺した。射殺された死体を棺桶に安置してから犠牲者は埋葬された。小さな墓地と記念碑には「1923年聖土曜日に、クルップ工場で、フランス軍の銃弾の犠牲となった労働者たちに捧ぐ」と記載された。

 1923年はハイパーインフレの年であり、ホワイトカラーの労働者が1週間分の紙幣を一輪車で運んだ。1923年はフランス軍に占領されたルール地方で、激しいストライキが勃発した。1923年は、共産主義者と国家社会主義者の蜂起が企てられ、血まみれで鎮圧された年である。一方では極貧、他方では蘭のように咲き誇るエンターテイメント文化、過激な年でもある。両義性にて、1923年は第一次世界大戦の戦後であり、ワイマール共和国の20年代への前奏曲である。

 1920年に、軍部と保守派のカップ一揆の反動で、左派労働者のルール蜂起が起こった。ルール赤軍は、非武装化されたラインラントの大部分を無抵抗で占拠した。エッセンのクルップ工場は占領されて、独立共和国が宣言された。ドイツ帝国軍兵士がヴェストファーレンから侵入して、すぐに秩序を回復した。イギリスはクルップの工場の多くを解体し、生産能力を半減し、戦争賠償金としてフランスに工業設備を譲渡した。フランス軍とベルギー軍はルール地方を占領し、戒厳令を敷いた。エッセンのクルップ工場を視察したフランス軍兵士が、ガレージにいた労働者に追い詰められ、機関銃で応戦して発砲して、約12人を殺害した。ラインラント各地での報復殺人や破壊工作に拍車をかけ、フランス軍から罰金と懲役を課された。





2022年12月11日日曜日

ウクライナ南部ヘルソンで、2022年11月22日に病院職員が孤児の世話をした。ロシア軍の約8カ月間の占領中にな、学校や孤児院から約1,000人の子どもがロシアに強制送還され、所在はいまだ不明である。

ウクライナ南部へルソンの子ども地域病院産科病棟で、2022年11月22日に病院職員が孤児の世話をした。ロシア・ウクライナ戦争を通じて、ロシア軍はウクライナの子どもたちをロシアに強制送還し、ロシア人の子どもとして育てている。ロシアによる8カ月間の占領期間中、へルソン地域の学校や孤児院から少なくとも約1,000人の子どもが強制送還されたが、所在はいまだ不明である。



 







Warning: Hospital staff take care of orphaned children at the children's regional hospital maternity ward in Kherson, southern Ukraine, Tuesday, Nov. 22, 2022. Throughout the war in Ukraine, Russian authorities have been accused of deporting Ukrainian children to Russia or Russian-held territories to raise them as their own. At least 1,000 children were seized from schools and orphanages in the Kherson region during Russia’s eight-month occupation of the area, their whereabouts still unknown. (AP Photo/Bernat Armangue)

ウクライナ南部のへルソン州の州都へルソンでは、2022年2月24日にロシア軍がウクライナに侵攻した数時間後から、南部の小児病院の医療関係者は、ウクライナ人の赤ん坊たちを救う計画を密かに実行し始めた。ロシア軍は、孤児となった子どもを略奪してロシア本土に強制送還する容疑があった。ケルソン市の子ども地域病院の医療関係者は、ウクライナ人孤児の医療記録を捏造して、病気による障害で肢体不自由に見せかけ始めた。子供たちが、病気による障害で移送困難であると偽の記録に改ざんした。ロシア・ウクライナ戦争中に、ロシア軍はウクライナ人の子どもたちを、ロシア本国やロシア領土に強制送還したと非難された。地域住民の一部が命がけで可及的に数多くの子どもたちを隠蔽した。

 へルソンの孤児の子どもたちがベビーベッドの中で眠っていた。病院では、医療関係者が約11人の孤児のために仮病を偽造した。ロシア軍の書類を、強制連行される孤児院に渡たらないようにした。肺出血、制御不能の痙攣、人工呼吸が必要と偽記録した。へルソン郊外のステパニフカ村では、リハビリテーションセンターで、約52人の孤児や弱い立場の子どもたちを隠蔽する書類を偽造した。ある子どもたち約7人の医療関係者に預け、遠くの親戚、年長の子どもたちは親戚に残した。



 








Warning: Orphaned children sleep inside cribs at the children's regional hospital maternity ward in Kherson, southern Ukraine, Tuesday, Nov. 22, 2022. Throughout the war in Ukraine, Russian authorities have been accused of deporting Ukrainian children to Russia or Russian-held territories to raise them as their own. At least 1,000 children were seized from schools and orphanages in the Kherson region during Russia’s eight-month occupation of the area, their whereabouts still unknown. (AP Photo/Bernat Armangue)


子供たちを避難させるのは困難であった。ロシア軍が3月にはへルソン周辺を占領した後に、検問所で孤児たちを引き離し始めた。子供たちが病院で治療を受けた後、叔母が連れて対岸で、妊娠9カ月の母親と再会する記録を偽造した。ロシア軍を食い止めても、全て子供たちが避難できない。Z(ロシアの車両に描かれた号)のバスが来て、子どもたちは強制連行された。10月からへルソンの病院から約11人の赤ちゃん、孤児院から10月に約50人の子どもたちが、2014年からロシア軍が不法に併合したクリミアに強制連行された。

 ロシア軍の侵攻の当初は、支援団体が教会に子どもたちを隠蔽したが、ロシア軍側が数カ月後に発見した。ロシア軍は数千人のウクライナの子どもたちを、里親や養子縁組するロシア人家庭に強制連行した。同意なしに、ロシアに強制送還し、ウクライナ人の親には不要と、偽情報をプロパガンダに利用し、ロシアの家族や市民権を与えた。ロシア当局は、子どもたちをロシアに強制送還するのは敵対行為から守るためと繰り返し述べた。孤児院や教育機関の子どもたちは行方不明のままである。

2022年12月10日土曜日

長崎原子爆弾の爆心地から南に約1.2kmの三菱製鋼前の県道上で、長崎原子爆弾が炸裂した翌日の1945年8月10日昼頃に路上を老婆が這っていた。

 長崎原子爆弾の爆心地から南に約1.2kmの三菱製鋼前の県道上で、長崎原子爆弾が炸裂した翌日の1945年8月10日昼頃に路上を老婆が這っていた。途中で木製の杖にすがって立ち上がろうとするも、すぐに膝を地面に着きながら徘徊した。長崎市茂里町と川口町の間の県道上の地点であった。

 アメリカ大統領のハリー・トルーマン(Harry S. Truman)は、1945年8月9日午後10時(ワシントン時間)に、人類史上最初の原子爆弾の投下をホワイトハウスからラジオ演説を行った。この時には、すでに2発目の原子爆弾が長崎市で約11時間前の8月9日午前11時2分に投下されて、炸裂していた。演説は非常に長く、そのほとんどがドイツ軍に戦勝した演説であった。

 長崎原子爆弾を投下して炸裂した8月9日に、ラジオ演説で、人口約25万5千人ほどの港町で軍事基地がある広島市と表現した上で、人類最初の原子爆弾の投下して、アメリカ軍の若者の殺害をできる限り避けたと語った。

「最初の原爆が軍事基地である広島に投下されたことは、世界に注目されるでしょう。私たちはドイツ軍との発見競争に勝利した。私たちは、戦争の苦しみを短くするために、何千何万というアメリカの若者の命を救うために、それを使用した。私たちは、日本の戦争する力を完全に破壊するまで、それを使い続けるだろう。」(The world will note that the first atomic bomb was dropped on Hiroshima, a military base. We won the race of discovery against the Germans. We have used it in order to shorten the agony of war, in order to save the lives of thousands and thousands of young Americans.We shall continue to use it until we completely destroy Japan's power to make war.:

https://www.presidency.ucsb.edu/documents/radio-report-the-american-people-the-potsdam-conference) 

 広島原子爆弾は軍事施設から遠く離れた市街地に8月6日午前8時15分に落下して炸裂した。広島市で死亡した人の約85%は民間人であり、約14万人の男性、女性、子供のうち約12万人が犠牲になった。原爆は街の10分の9を焼失させ、全人口の半分以上を殺した。






2022年12月9日金曜日

沖縄戦において、アメリカ軍の戦車に対する自爆攻撃に失敗して、日本軍兵士は銃弾を浴びて殺害された。アメリカ軍第10軍部隊が侵攻する戦車の前に、殺害された日本軍兵士の死体が横たわった。

太平洋戦争の沖縄戦において、アメリカ軍の戦車に対する自爆攻撃に失敗して、日本軍兵士は銃弾を浴びて殺害された。アメリカ軍第10軍部隊が侵攻する戦車の前に、殺害された日本軍兵士の死体が横たわった。戦車攻撃に失敗した日本軍兵士の死体には、陸軍一等兵の衿章が検証された。

 沖縄戦にてアメリカ軍は、沖縄本島の中部にて4月12日に日本軍の総攻撃を受けて、集中砲火を浴びせて4月13日に掃討して撤退させた。アメリカ軍は、増援軍と補給して体制を立て直して、その後の4月19日と20日の両日に、アメリカ軍は日本軍に対する総攻撃を再開した。事前の準備砲撃では大小の火砲約324門を約30m間隔で並べ、約40分間に約19,000発(約475発/分, 8発/秒)で砲弾が撃ち込まれ、戦闘機からの空襲でロケット弾やナパーム弾を大量に投下した。

 戦線の西方に位置する嘉数陣地に、アメリカ軍は約30輛の戦車を連行して攻撃を加えてた。守備する日本軍は、速射砲、山砲、高射砲と持てる火砲で反撃した。日本軍兵士は自殺的な自爆攻撃をした。爆薬を抱えて、アメリカ軍の戦車に体当たりして、自爆して戦車の侵攻を一時的に阻止した。嘉数陣地の戦場で、アメリカ軍が損失した戦車は約22輛に及んだ。1回の戦闘で損失した戦車数としては、沖縄戦中で最大数と記録された。

 東方の和宇慶でも1個中隊の約200人が、全滅して全員が戦死して、アメリカ軍の侵攻を一時的に阻止した。中央の棚原でも2個大隊の約1,000人の兵力が、アメリカ軍の1個連隊約3,000人を相手に侵攻を一時的な阻止を続けた。アメリカ軍は、兵員・物資などの補給を大量に受けられるのと対称的に、日本軍の守備隊は兵士や物資を損失しても補給は不可でじり貧となった。

 4月29日に、首里城地下の日本軍第32軍司令部は「死中に活を求め、まだ攻勢の余力がある間に敵に痛撃を与えて運命の打開を図る」と結論して、再び総攻撃を決定した。総攻撃は5月3日夜から勃発して、5月4日未明に、日本軍砲兵隊が約13,000発の砲弾を撃ち込んだ。残存した第24師団歩兵第32連隊と第89連隊が、アメリカ軍が占領した棚原から幸地に侵攻した。日本軍第27連隊の戦車も、首里前方に侵攻した。アメリカ軍は戦車で反撃し、猛烈な集中砲撃で日本軍を撃退して、第32軍は全滅して全戦死する部隊が相次いだ。5月5日午後6時に総攻撃を中止して、軍司令部は沖縄本島南端の摩文仁に撤退した。




2022年12月8日木曜日

ミシュラン・ゴム農園でベトコンと戦って殺害された南ベトナム政府軍兵士とアメリカ人顧問の死体の前を通るとき、南ベトナム政府軍の死体運搬の担架手は臭いから身を守るためにフェイスマスクを装着した。

ミシュラン・ゴム農園でベトコンと戦って殺害された南ベトナム政府軍兵士とアメリカ人顧問の死体の前を通るとき、南ベトナム政府軍の死体運搬の担架手は臭いから身を守るためにフェイスマスクを装着した。連隊の大部分と数人のアメリカ人顧問が死亡した後に、約100体以上の死体が回収された。1965年11月下旬に南ベトナムの首都サイゴンから北西約72kmのミシュラン・ゴム園(Michelin Rubber Plantation)にて、4日間も露営していた南ベトナム政府軍の約500人の第7連隊が崩壊した。警戒が疎かになって、南ベトナム民族解放戦線(ベトコン)が夜中に忍び寄って、夜明けとともに熾烈な突撃をした。ゴムの木々間から。突如にベトコンが波状に攻撃した。その後も、アメリカ軍第25歩兵師団や第1師団が投入されて戦闘が勃発して多くの戦死傷者の犠牲を伴った。ミシュラン・ゴム園は、1925年にミシュラン社によって設立され、約12,400ヘクタールとベトナム最大のゴム農園であった。

 ベトコンは、南ベトナム軍の侵攻拠点にヒット・エンド・ラン攻撃した。戦場では、士気が衰えて敵前逃亡しない南ベトナム軍兵士が殺害された。ゴムの木々の間から、突如にベトコンが突撃した。11月27日の早朝に連隊長が殺害されて、アメリカ軍顧問も塹壕付近で殺害された。午前7時に、アメリカ軍顧問は「もう、ここから出ていかねばならない。店じまいだ。」が最後の無線となり殺害されていた。南ベトナム政府軍の機関銃手などの死体が、塹壕の中で倒れてうずくまった。ベトコンの射撃によって、機関銃手の頭部がぶち抜かれた。

 ベトコンは「降伏せよ」とベトナム語で宣告して、約10人の南ベトナム政府軍が降伏して立ち上がった。歩き始めた直後に、ベトコンの機関銃により一気に全員が殺害された。南ベトナム政府軍の死体は、深い塹壕や朽ちた木々の枝の間などに散乱していた。さらに、殺害された南ベトナム政府軍の死体は、首と頭も致命的に撃ち抜いた。塹壕の中には、ベトコンの死体は皆無であり、すべての戦死傷者は運び去っていた。ベトコンには、北ベトナム軍の砲兵隊にも援護された。正午になってから、アメリカ軍の武装ヘリコプターが集結して、第七連隊の生き残りを救護した。ヘリコプターが着陸するたびに、林の中から戦死傷者がぞろぞろと集結した。




2022年12月7日水曜日

カンボジア軍兵士のヒアン・ボウンは、1991年12月1日に地雷で下肢を挫滅して、当日の夕方にバッタンバンの軍病院で、劣悪な環境で切断手術を受けて、5日後に死亡した。

カンボジア軍兵士のヒアン・ボウンは、1991年12月1日に地雷で下肢を挫滅して、当日の夕方にバッタンバンの軍病院で、切断手術を受けた。ボウンは、病院のベッドに横たわるボウンには、物資も乏しく、非衛生的で劣悪な環境であった。ボウンは地雷で受傷してから約5日目に敗血症で死亡した。左大腿切断されるも、右足は切断せずに患肢温存して、重篤な感染症を引き起こした。左下肢だけでなく、右下肢の切断が必要であった。地雷の犠牲者の多くは、民間人の非戦闘員であった。

 カンボジアのラタナ・モンドル西部のトレン・コンミューンで、ヒアン・ボウンは、12月1日にカンボジア政府軍の分隊と通常のパトロールに出た。12月1日の昼前に地雷を踏んで、約3時間後にバッタンバンの軍病院に移送された。戦傷したカンボジア軍兵士は、旧式ソ連製のトラックの後方に載せられた。幌をかける棒に結びつけた血だらけのハンモックに載せて運送された。

 地雷によってボウンの左下腿は破壊されて、左足は薄皮の皮膚のみで繋がっていた。左足には傷はなく、左大腿の下から突き出た。病院に搬送されて入所してから、約1時間半後に医療関係者に診察を受けた。約5時間後にボウンの左大腿切断の手術が開始された。しかし、病院には、物資が不足して、薬品・酸素・輸血用の血液、医療資源、発電機などが不足していた。約40,000人が四肢切断者として生活していた。

 カンボジア内戦は、1967年にラタナ・モンドルの丘陵地帯で勃発した。カンボジアに対する軍事干渉は、アメリカ軍特殊部隊が1960年代に、南ベトナムからカンボジアに潜入して、地雷を敷設した。1975年にカンボジアを掌握したポル・ポト政権は、地雷による人民の戦闘を奨励した。地雷原となった地域の住民は、強制連行されてクメール。ルージュにより虐殺された。カンボジア地雷対策センター(CMAC)は、1,150万人の人口で約500万の地雷を推定した。1979年以来、約64,000人を超える死傷者と約25,000人を超える切断者が記録された。1997年に地雷禁止国際キャンペーン(ICBL)がノーベル平和賞を受賞して、オタワ条約が調印された。