2022年8月27日土曜日

長崎市香焼島の川南工業香焼島造船所から、1945年8月9日に長崎原爆爆弾が炸裂した約15分後に原子雲・きのこ雲が白黒撮影されて、AIで人工的にカラー化した。

長崎市香焼島(現在の香焼町)にあった川南工業香焼島造船所から、1945年8月9日午前11時2分に投下された長崎原爆爆弾が炸裂した約15分後にきのこ雲が撮影された。長崎市南西部の香焼島は、爆心地から約9.4kmであった。地上から最も早期に原子雲を松田弘道が撮影した。香焼島から、やがて長崎市全体から真っ黒い煙が立ち上り、その煙は次第に真っ白に変わり、上空へ昇るにつれて真紅に染っていくのがみえた。やがて爆心地辺りからきのこの煙が天高く上っていくのがみえた。長崎市の推定人口24万人のうち約7万4千人が死亡して、約36%の建物が全焼・全半壊した。

 主にカラー化した写真素材は、第二次世界大戦に関連する写真を集めたWebサイトWorld War II Databaseや米国国立公文書館、米海軍歴史センター、米国議会図書館などがパブリック・ドメインとして公開しているものを活用した。カラー化には、早稲田大学の研究チームが開発したオープンソースのAI着色ツールやDeepAIといったAIツールを使用した。入力による色補正は、Adobe Photoshopを使用した。



 一方で、AIは当時の人が身に着けていた衣服や電車など、さまざまな色を持ちえる人工物の色の再現は困難である。原子爆弾の投下によって発生したきのこ雲も、AIツールのみでは通常の入道雲と同様、全て白色でカラー化されてしまう。当時の資料や人々との対話をもとに、東京大学大学院情報学環の渡邉英徳教授と広島市出身の庭田杏珠らは手作業で色補正した。AIによる色付けは完全ではなく、当時の記憶から人工的に補正を繰り返してモノクロをより記憶に近いカラーにするのが現状である。長崎原子爆弾の炸裂により発生した原子雲・きのこ雲のカラー写真は、2021年8月に大矢正人氏(長崎総合科学大学)の指摘をもとに、さらに人工的な色補正を加えた。




2022年8月26日金曜日

太平洋戦争のサイパンの戦いの末期の1944年7月8日から、アメリカ軍第2師団は日本軍のバンザイ攻撃直後に全滅させて、日本軍の残党を掃討して検死した。

太平洋戦争のサイパンの戦いの末期の1944年7月8日から、アメリカ軍第2師団は日本軍のバンザイ攻撃直後に全滅させて、日本軍の残党を掃討した。負傷して生存した日本軍兵士はまだ一発撃てるか、手榴弾を投げられるかを警戒して検死した。日本軍のバンザイ攻撃に引き続いても、タナパク平野では戦車の支援を受けて、日本軍兵士の残党を捜索して掃討した。7月8日朝から第2師団は、大量の貧弱な武装と全く無秩序な日本軍兵士に遭遇した。一部の日本軍は洞窟に隠れ、深い影から発砲した。大部分は死ぬ気でアメリカ軍に突進したバンザイ攻撃は掃討作戦を簡略化した。

  アメリカ軍はタナパグ平野すぐ東の森林湿地帯に強力な日本軍の抵抗勢力を発見した。約100人が潜伏した日本軍に、アメリカ軍は火炎放射器、戦車、75mm砲撃で強力な陣地を爆破した。多くの日本軍は猛攻撃から逃れるために岩礁に乗り出した。アメリカ軍は戦闘哨戒機が派遣して日本軍を排除した。7月8日に無秩序に群がる日本軍兵士が、生命に対する最後の一撃を待っていた。散乱した数百人を処分して、7月8日には約1,500人の日本軍兵士の死体を検死した。7月7日から7月8日に戦闘地域は、悪臭を放つ死体、こぼれた内臓、脳みの塊が散乱した。内陸の険しい地形でも、日本軍の抵抗に遭遇した。掃討すべき洞窟や深い渓谷が多く、掃討はやや遅々とした。 

 第2師団は、日本軍の攻撃がなくなると同時に、7月7日に掃討を開始した。深くえぐられたハラキリ溝での戦闘で、バンザイ攻撃はアメリカ軍兵士の最悪の仕事を軽減した。7月8日11:30頃に、掃討作戦が再開され、崖を下るのは困難で、木製の割れ目や浸食された切口は、バンザイ攻撃から逃れた頑強な日本軍兵士の最後の隠れ家となった。

  7月9日に、崖の爆破によって姿を変え、多くの下草がなくなり、多くの洞窟やクレバスが埋め尽くされた。渓谷のギザギザの斜面を体系的に掃討して、正午頃には海岸平原に出た。岩礁に泳ぎ出た日本軍兵士に対する攻撃は継続された。約100人の日本軍兵士は殺害されるか、自ら命を絶ったりした。日本軍将校は殺害される前に、4人の日本軍兵士の首をはねるのを目撃した。岩礁から手榴弾を投げ、先頭のボートにライフル銃を発射した日本軍を、直ちに全艇が全小銃で射撃し、日本軍兵士約50~60名が全滅した。

 日中タナパグ村の東の陣地も掃討し、約100体の日本軍兵士の死体があった。日本軍は夜間に隠れ家から現れ、アメリカ軍の強固な防御を突き崩そうとした。7月8日~9日の夜、陣地の前で約75人を殺害し、同様に翌日の夜も侵入の失敗により約150人以上が殺害された。戦線を突破したとき、毎晩約50人以上が殺害された。タナパグ・マクンシャ平野は再びアメリカ軍の手に渡った。サイパンの戦いの末期に、日本軍は大虐殺を受けて、約4,311人の死体が戦場に横たわった。攻撃の主役であった第105歩兵は、約2,295体の日本人の死体を検死して、後方には約2,016体が横たわった。第105歩兵第1及び第2大隊の最前線と敵の最前線との間の地域に、実数で約4,311名の敵兵が埋葬された。同じ地域でアメリカ軍兵士の死体は約406体であった。




2022年8月25日木曜日

1918年にウクライナの首都キエフにて、ロシアの赤軍が撤退した後に、チェカによる大量殺戮の犠牲者の多数の死体が、キエフのサドバヤ通り5番地で掘り起こされた。

1918年にウクライナの首都キエフにて、ロシアの赤軍が撤退した後に、チェカによる犠牲者の多数の死体が、サドバヤ(Sadovaya)通り5番地で掘り起こされた。チェカ(Cheka)は、ソビエト・ロシア初期の秘密警察組織である反革命・サボタージュ取締全ロシア非常委員会であった。チェカは、ボリシェビキの恐怖の道具と呼称した強制収容施設施設を保持していた。

  ロシアのペトログラードとモスクワの赤軍は、1918年2月のキエフの戦いでウクライナの首都キエフを占領した。キエフの戦いは、1918年2月5日から8日にブレスト・リトフスクで行われた和平交渉の最中に勃発した。条約が調印された2月9日に、ロシアのボリシェビキ赤軍は首都キエフを占領して、ウクライナ政府はジトーミルへ避難した。3月1日にウクライナと中央同盟軍はキエフを奪還して、3月3日にロシアのボリシェビキはウクライナの独立を承認した。1918年12月3日に、ロシア・ボルシェビキ政府は、ソビエト最初の秘密警察組織である全ロシア・チェカを模して、反革命・投機・犯罪撲滅に関する全ウクライナ特別委員会を設置した。この組織が、1919年2月から8月のボルシェビキの第二次キエフ占領にも関与した。

  1918年9月5日に、1917年の10月革命後に設立されたソ連政府機関である人民委員会から、ボリシェビキが処刑する弾圧と大量殺戮が公式に「赤色テロに関する法令」で発布された。1918年から1919年に、最大で150万人が殺害されたと推定された。ウクライナでは、1918年1月から赤軍の侵攻で赤色テロが始まった。キエフでは、ウクライナ人とロシア人の将校、ウクライナ中央議会の証明書を持つ者、聖職者の代表、親ウクライナ活動家など、約3〜5千人が殺害された。ボリシェビキ軍はキエフだけでなく、ウクライナ全土で赤色テロを執行した。1917年から1921年に、ボルシェビキの赤色テロで、クリミア地域の人口は約10万人以上減少した。

 ソビエト・ロシアにおける赤色テロは、ボルシェビキの秘密警察チェカ(Cheka)を中心に行われた政治弾圧・処刑である。ロシア内戦開始後の1918年8月下旬に始まり、1922年2月まで続いた。ウラジーミル・レーニンとペトログラード・チェカの指導者モイセイ・ウリツキーの暗殺未遂(後者は成功)の後に発生した赤の恐怖は、ボルシェビキの権力に対する政治的反対、異議、その他の脅威を排除して弾圧した。ボルシェビキの弾圧の犠牲者数し様々に推定された。1917年12月から1922年2月まで、年間約28,000人の処刑が行われたと推定した。赤色テロの最初の期間に虐殺した人数は少なくとも10,000人に達した。全期間の推定では、約5万から約14万、約20万人が処刑された。

 1916年にブルガリアを攻撃したロシアは、ブルガリアと中央同盟国に屈服して、1918年3月3日、戦勝国の前で史上最も屈辱的な講和条約であるロシア帝国から切り離すブレスト・リトフストク講和条約に署名させられた。貪欲なロシア帝国から約100万平方km以上を奪い取った。これらの土地は、ウクライナにとっては初めて自国の独立が国際的に認められた。その他、フィンランド、リトアニア、ラトビア、エストニア、ポーランド、ウクライナ、ベラルーシ、モルドバ、ジョージア、アルメニアの一部も含まれた。11月13日に知勇王同盟国の降伏により条約は無効となり、ロシアは内戦に陥った。現在のロシアの西側の国境は、ブレスト・リトフクス条約の国境とほぼ一致している。

 ウクライナは1991年8月24日に独立を宣言し,同年末のソ連崩壊によりウクライナ独立が達成された。ウクライナの完全な独立は、12月1日の国民投票実施後に確立した。国民投票にて、独立を支持した国民は90.32%で、独立宣言に真の効力を付与し、ウクライナ独立の新たな歴史が開始した。
















Japan No War NGO (JNWN) 日本平和市民連盟
 2022年8月25日にBlogger投稿数は 2,200回に達した。

2022年8月24日水曜日

中国ソビエト地区において、中国共産党は反革命派に対して警察隊が死刑を強行した。街路上に、死刑執行人が民衆に公開した断頭による首切りを執行して、死体を切り苛めた。

1931年10月には、中国共産党は江西省瑞金に中国ソビエト政府を樹立した。11月7日に中国ソビエト共和国憲法を決議して、共産党内における粛清が強行された。テロ行為により、数千人にも及ぶ反革命派らが悲惨に処刑された。その後の4年間で約128,075人も殺害された。中国ソビエト地区において、中国共産党は反革命派に対して警察隊が死刑が強行した。街路上において、死刑執行人が民衆に公開した断頭による首切りを執行した。さらに首切りした死体を切り苛めた(支那: 列国に於ける共産主義運動, 1936年)。断頭するのに、囚人はひざまづいて並び、両手を後ろに縛られた。処刑人が刀を振り上げて切ると、囚人の頭は地面に転がる前に躊躇していた。頸動脈から大量の血液が噴出し、身体は急に脱力してゆっくりと血の海に倒れ込んだ。近年は公開処刑の首切りは、世界でサウジアラビア、カタール、北イエメンの3ヵ国のみである。 

 中国国民党の孫文は1924年に中国共産党に門戸を開放した。1925年3月12日に孫文が北京で死亡した後に、国民党内の左右派の抗争が勃発した。5月15日に、上海日本紡績工場の中国人労働者がストライキを挙行して、大衆デモに発展して5月30日に、警察隊が発砲して、死者4人と負傷者24人を出した五・三〇事件が勃発した。国民党の蒋介石は、中国農民を階級闘争に巻き込む中国共産党に対して、1926年3月20日に広東でクーデターを断行して、7月初旬から全広東軍を北伐させた。12月に占領した漢口に武漢政府を移管した。1927年1月30日に漢口にて英国租界を襲撃した。漢口だけで1926年1月から5月までに、反革命者約3,252人、反動家約1,461人など約7,433人が射殺された。国民党の蒋介石は、3月22日に北伐軍を上海に侵攻させて中国共産党を弾圧した。4月上旬には、南京と広東にも武装解除して、南京政府を樹立した。

 1927年12月11日に、広東で中国共産党の暴動が勃発した。軍事力が優勢な国民党軍が、広東に侵攻して一網打尽に蹂躙した。広東は、一気に阿鼻召喚の巷と化して、約2,000以上もの多数の老若男女が殺戮された。共産党は、上海・武漢・広東でも悲惨な敗退を繰り返し、絶滅を免れるために、全てが山脈が防壁となる中国の奥地の江西省に遁走した。共産党は、江西省にて無知なる農民大衆の洗脳を強化して、土地・金銭・生命を略奪した。1931年2月と7月に、国民党軍が近代兵器の討伐軍を派遣したが敗退した。国民党軍による持久的遮断と封鎖により、兵站が途絶えた共産党軍は1934年7月に瑞金を放棄して、1936年11月まで陝西省延安への長征を挙行した。



 






















2022年8月23日火曜日

第一次世界大戦のアラスの戦いにて、カナダ軍がヴィミーの斜面を攻撃して、ドイツ軍は大量の戦死者の死体を回収して荷台で搬送して撤退するも、戦線の犠牲は膠着した。

第一次世界大戦のフランスのパド・カレ−の西部戦線で、アラスの戦いにて1917年4月9日に最終的な攻撃が行われた。ドイツ軍陣地に激しい砲撃の後に、イギリス軍とカナダ軍がヴィミー・リッジ(Vimy Ridge)の斜面を襲撃した。戦闘の損害は甚大でとなり、遂にカナダ軍の部隊がの尾根を占拠した。戦場で殺害されて倒れた人々の膨大な死体は泥の中に横たわった。ドイツ軍は、ヴィミー付近で大量の戦死者の死体を回収して荷台で搬送した。1918年3月の最後の攻勢も無駄となり、永久に撤退を余儀なくされた。アラスの戦いは双方にとって犠牲の多い膠着状態に陥って、4月9日から5月17日から戦闘終了までにイギリス軍は約158,000人、ドイツ軍は約130,000人の死傷者を出した。

 第一次世界大戦のヴィミー・リッジの戦いは、1917年4月9日にアルトワ平野を見下ろす高台への攻撃で、カナダ軍が強固に固めたドイツ軍を撃退した。アラスの北東12kmにある連合軍の支配する町を見下ろす高台であった。ドイツ軍は1914年9月にこの尾根を掌握し、すぐに壕、洞窟、通路、耐砲塹壕からなる深い防御陣地を築き、コンクリート製の機関銃座で厳重に守られた。強固な防御態勢により、ドイツ軍は急速にアラスの攻撃を開始し、重砲で町を叩きまくった。1915年にフランス軍はアラスの稜線を侵攻したが、約15万人のフランス軍兵士が犠牲となり、血まみれで撃退された。1916年3月に、イギリス軍はフランス軍を救援したが、約2kmの前線に沿って押し戻された。

 1917年春の大規模なアラス攻勢の一環として、カナダ軍はヴィミー・リッジを決定的な奪還をした。カナダ軍は戦線を通過できる地下トンネルを建設した。1917年4月9日の夜明けに、カナダ軍は、吹雪下で短時間でドイツ軍の前線陣地を占領した。4月12日に尾根全体が連合軍の支配下に入って、西部戦線で眼を見張る唯一の連合軍の進撃なり占領した。攻撃でカナダ軍兵士は約10,602人が負傷し、約3,598人が死亡した。対戦したドイツ軍はさらに大きな被害を受け、約2万人が犠牲になり、約4,000人が捕獲された。しかし、アラモの戦いは、最初の数日間を過ぎると、死傷者は飛躍的に増加し、戦闘は停止状態に陥った。フランス軍の攻撃はほとんど成果を上げれずに、フランス軍の崩壊という結末を迎えた。突破口は見いだせず、戦略的目標を達成せずに、西部戦線は膠着状態に陥ったままであった。



2022年8月22日月曜日

第一次世界大戦の1914年に、ルーマニアのワラキアの戦場にて殺害されたドイツ軍の騎兵隊兵士の死体が横たわり、一匹の軍馬が忠実に横で待機して見守った。

第一次世界大戦の1914年に、ルーマニアのワラキアの戦場にて殺害されたドイツ軍の騎兵隊兵士の死体が横たわり、一匹の軍馬が忠実に横で待機して見守った。軍馬は、物資、弾薬、大砲、死傷者の運搬と牽引に活用された。戦線では、道路が砲撃によって破壊され、泥で浸水する最前線に物資を運ぶために、荷造りの軍馬が多用された。西部戦線では、有刺鉄線、機関銃、塹壕戦の発達により、軍馬の攻撃は多大な費用がかかり、西部戦線では効果が失われた。騎兵部隊は、東部戦線や中東他の戦域での戦争では以前として有用であった。

 第一次世界大戦の大虐殺で約1000万人の兵士が犠牲になった。それに比例して軍馬の死傷率もかなり高くなり、約800万頭ほどの軍馬があらゆる方面の戦場で命を落とした。イギリスから西部戦線に向かった約100万頭の馬のうち、イギリス本国に生還したのはわずか約6万頭であった。1914年までに軍馬の馬力に頼っていた軍隊は、突然に戦線で軍馬の労働力を失って、機械化された代替手段を探した。1918年には、1914年前にはもう後戻りはできなかった。軍馬も、近代戦の戦争の地獄に巻き込まれた。泥の中でもがき苦しむ馬、戦後に傷ついた状態で横たわる馬、馬力を失った馬など、さまざまな馬の犠牲を伴った。軍馬は人間よりも標的になりやすすく、軍馬を攻撃すれば敵の補給線に大きな障害を与えた。

 アメリカの南北戦争(1861年〜1865年)では、野生の馬を含めて約150万頭もの馬が殺害され戦死した。南北戦争の終結後には、アメリカ西部への移住が始まり、平原インディアン戦争(Great Plain Indian Wars)が勃発した。この戦争に参加した先住民族のインディアンは、通称はマスタング(Mustangs)と呼ばれる馬に乗っていた。現シェルドン国立野生生物保護区の地域から馬を集めた。馬は鉄道車両に乗せられ、東海岸に運ばれた。そこから馬は船舶で大西洋を渡った。その行程で生き残った馬は、口に銜えさせられ、大砲を引いたり、騎兵隊の軍馬として活用された。

 ヨーロッパの第一次世界大戦で戦争が激化し、軍馬の供給が減少したため、アメリカン産ムスタングは、連合国の騎兵隊の再騎乗用として活用した。軍馬の命に関わる犠牲は膨大であった。第一次世界大戦中に、アメリカ軍と連合軍に供給するために約500頭のアメリカ馬が約1.5日おきに輸出したと推定された。第一次世界大戦だけで約800万頭近い馬が死亡したと推定された。




2022年8月21日日曜日

ロシア軍の迫撃砲により、ウクライナの首都キエフ近郊のイルピンの戦闘から逃れようとした女性、10代の息子、幼い娘が即死して、そして重態の家族の友人が直後に死亡した。

ロシア・ウクライナ戦争にて、2022年3月6日にウクライナの首都キエフの北西約25kmにあるイルピンの避難路に、ウクライナの民間人がイルピン川に架かる損傷した橋を渡って逃げた。2月24日からキエフに侵攻していたロシア軍は、戦闘から逃れてきた避難民が利用する壊れた橋に迫撃砲弾を発射して、パニックになって市民が避難していた。数百人の民衆が3月5日からイルピン川にかかる破損した橋の周りに集まっていた。ウクライナ軍はロシアの侵攻を遅らせるために、先に橋を爆破していた。キエフに近い橋の側の約100mほどの露出した道路を渡るために、首都キエフ側に逃げようとする人々は小グループを作り、一緒に逃げ出した。ウクライナ軍兵士も駆け出して、子供や荷物を拾って、ブロック塀の陰に逃げ込んだ。迫撃砲弾は、まず橋から100ヤードほど離れたところに落ちた。その後、人々が逃げている通りの一角に轟音とともに連続して着弾した。

 ロシア軍の迫撃砲が市民の群衆に近づくと、民衆は子供らを引き連れて、安全な場所を探しに避難した。砲弾が通りに落ちると、コンクリートの粉塵が舞い上がり、女性と10代の息子、8歳くらいと思われる娘、そして家族の友人が地面に倒れていた。その通り近くの地面に4人が横たわり、スーツケースが散乱した。ロシア軍の迫撃砲により、イルピン近郊の戦闘から逃れようとした女性、10代の息子、幼い娘、そして家族の友人が死亡した。その4人のうち3人は、母親のテティアナ・ペレビーニスさん(Tetiana Perebyinis, 43歳)と、彼女の2人の子供、ミキータ君(Mykyta, 18歳)とアリサちゃん(Alisa, 9歳)で、即死していた。もう一人の男性は、アナトリー・ベレジニさん(Anatoly Berezhnyi, 26歳)は教会のボランティアで、一家が安全な場所に避難するのを手伝っていた。家族の荷物、青いローラースーツケースといくつかのバックパックが散乱し、吠えていた小さな犬のための緑のキャリーケースもあった。

 ウクライナ軍兵士は駆け付けて、まだ脈のあった迫撃砲に撃たれた男性を助けようした。しかし、彼は意識はなく、重体の負傷のため直後に死亡した。ロシア軍は数日前からキエフ北西部の3つの小さな町、ホストメル、ブチャ、イルピンを通過して、戦闘によってこの地域から首都キエフに向かって避難している人々が迫害された。イルピン市長は、地区全体で8人の民間人が死亡したと述べた。ウクライナ政府は3月9日、激戦地から住民を避難させる人道回廊を、イルピンからキエフ近郊とマウリポリからザポーリージャなど六つのルートが設置すると合意するも、ロシア軍は直後に無効にした。


Warnig: Ukrainian soldiers rushed to aid a family hit by Russian mortar fire on Sunday in the village of Irpen, but there was little to be done. The Ukrainian soldier ran to check on the family (Lynsey Addario, The New York Times, March 7, 2022).
 

2022年8月20日土曜日

広島原子爆弾の原子雲が、爆心地から西南方向に約20kmの日本海軍の工廠砲煩実験部から白黒撮影された写真を、AI技術と文化の推測でカラー化して再塗装された。

広島原子爆弾の原子雲が、爆心地から西南方向に約20kmの日本海軍の工廠砲煩実験部から撮影された。広島県呉市吉浦町(現・若葉町)から、炸裂後の約40分後の午前9時頃のきのこ雲を、白黒写真で撮影された。吹き上がる巨大なきのこ雲が、生々しくオレンジ色に染めて、広島市の爆心地付近では熱線で約4000度近くにも達した。

 白黒のきのこ雲を、東京大学大学院情報学環の渡邉英徳教授と広島市出身の庭田杏珠らは、AI技術でカラー化した。AI技術で約10%は自動化でカラーされる。ピンクも黄色も薄緑も、淡いグレーとなる。その他は、被爆体験者の記憶や歴史考証から補正された。白黒写真が色彩を帯びることで、原子爆弾を転写して、戦争の歴史が現代に地続きになり、実感される。(出典: 週刊ポスト・第54巻第26号、2022年8月5日)。アニメ映画『この世界の片隅に』の片渕須直監督の指摘から、赤みがかった雲をオレンジ色に、地上から立ち上った白い雲が覆い隠した。コンピューターソフトで解析した色彩を、年代や当時の文化等を精査して再構築する仕組みである。本当の色彩は不明であり、完全な再現は困難で、解析した仕組みが決めた色彩に変換された。色彩の復元ではなく、白黒からカラー色を推測して再塗装した。

 


 












 広島県海田町から呉海軍工廠火工品部設計係に勤務していた31歳の尾木正己は、炸裂時は室内で兵器の設計の仕事中で、鉛筆を持つ手が持ち上がるほどの轟音が聞こえた。仕事を中断して、ドイツ製ライカできのこ雲を撮影した(広島原爆戦災史、第三巻、第二編、第二章、原子雲)。日本軍が作成した記録によると、原子雲の中で何かが燃えているように見え、強い火花と閃光が煙雲の中で大規模な火災のように見えた。吉浦の近くに、8月6日午後5時頃になって被爆者が続々と避難してきた。吉浦駅では、衣服の引き裂けた血のにじんだ服装で、血の気が失せた人々が呆然とホームを徘徊していた。8月7日朝に出勤して、広島市に海軍工廠として火工兵器の経験者として救援隊を出した。トラック3台に工員が分乗して、広島市に向う一員に参加して8月7日に被爆直後の広島市内を撮影した。



2022年8月19日金曜日

イタリア人の42歳のジャーナリストが、中東のヨルダン川西海岸地区のラーマッラ−でイスラエル軍の戦車を撮影して、2002年3月13日に腹部に機銃掃射を受けて死亡した。

イタリア人の42歳のジャーナリストが、中東のヨルダン川西海岸地区のラーマッラ−でイスラエル軍の戦車を撮影しようとしたら、2002年3月13日水曜日に腹部に機銃掃射を受けて死亡した。病院に搬送されてレッカー上に載せられた殺害されたジャーナリストの死体が横たわった。

 ヨルダン川西岸地区ラマッラー(Ramallah)で、イタリア人の報道写真家が、ヨルダン川西岸地区でイスラエルの銃撃に遭遇して死亡した。イタリアの日刊紙コリエレ・デラ・セラの取材で、ラマッラーを訪れたフリーのジャーナリストであるラファエレ・シリエロ(Raffaele Ciriello)は、3月13日に胸部を弾丸6発を撃たれて死亡した。その他の2人のジャーナリスト(フランス人とエジプト人)も、ラマッラーでの取材中に負傷した。イスラエル国防軍は、シリエロの死に関して、紛争地域に入るジャーナリストは自己責任であると主張した。シリエロは、ラマッラーでパレスチナの武装勢力を追跡中に、銃弾を浴びて死亡した。この地域では戦闘はなかったが、戦車に乗ったイスラエル軍兵士が約150mの距離から前触れもなく機関銃を撃った。

 イタリア外務省は、シリエロの死亡を確認した。彼は銃撃された後に、救命のためにラマラのアラブ・ケア医療病院に運ばれが絶命していた。イスラエル軍は、パレスチナ過激派を壊滅するためにラマッラーに入った。イスラエル国防軍の報道官は、ラマッラーで銃撃戦があり、次日にイスラエル軍がジャーナリストから紛争地域を閉鎖した。報道関係者が、イスラエル軍に検閲されずに、現場で独自に活動することが、危険をもたらした。シリエロは以前に、イランとレバノンで働いて、結婚して娘がいた。

 外国人記者協会は、水曜日の事件に衝撃を表明して、紛争のイスラエルとパレスチナ側に対して、ジャーナリストの安全と移動の自由の確保を呼びかけた。ジャーナリストは、紛争に独立した目撃者であり、すべての側が特別な手段を必要とする。ローマでは、イタリア議会は写真家シリエロの家族に非常に寄り添い、中東の平和のために再び大きな叫びを上げる。国境なき記者団によると、2000年9月28日から始まった第二次インフィーダのパレスチナ人蜂起中に、シリエロが最初の死亡者であり、イスラエル軍の実弾やゴム弾で撃たれた外国人ジャーナリストは少なくとも40人いる。




2022年8月18日木曜日

日中戦争の第二次上海事変にて、日本軍の猛攻に撃退された中国軍兵士から、日本軍に殺害された中国人の死体が野末に野ざらしにされて白骨化していた。

日中戦争の第二次上海事変にて、日本軍の猛攻に撃退された中国軍兵士は、上海市宝山区に位置する大場鎮にて殺害された中国人の死体が野末に野ざらしにされて白骨化していた。1937年10月26日、日本軍の上海派遣軍は上海近郊の要衝である大場鎮を攻略して、10月27日に、「日軍占領大場鎮」というアドバルーンを上海の日本人街に上げた。大場鎮を陥落して、上海はほぼ日本軍の制圧下になった。11月9日には中国軍は退却を始めて、上海は日本軍の占領下に置かれた。

 日本海軍陸戦隊が、1937年8月23日に上海の呉淞鎮に上陸した。10月23日から総攻撃をして、10月25日に廟行鎮、11月11日には南翔の堅塁を陥落した。さらに北進して、大倉、常熟、無錫に侵攻した。その当時に、上海は人口は約150万人、中国全土の約85%の工場を有して、第一の海外貿易額を有した。上海事変によって、上海市街の大半は壊滅して瓦礫となった。日本人租界の虹口、北閘の一部は、崩壊して瓦礫が散在した。

 上海の市街地の両側の道路で対峙して、向かい合って白兵戦となり悲惨な大量の虐待と虐殺を伴う死闘を伴った。大場鎮向けて二重や三重の塹壕が続いて、中国軍兵士の死体はを納めた棺が放置されていた。塹壕内には血に染った軍服、帯革、水筒、懐中電灯、カンテラ、軍報、笠、食器類など殊にドロドロになった布団の散乱していた。その戦場となった上海の大場鎮の周辺地域では、殺害された死体が放置されて、半ば白骨化していた。

 日本軍は大昌の戦い(10月1日から26日)で、雲沢濱江を渡り、上海市街と西北の郊外の町を結ぶ通信路である大場鎮を奪取を目指した。大場鎮は第2次上海事変中、最大の激戦地となり、幾度の決死の突撃を繰り返した。日本軍は、約700門の大砲と約150機の爆撃機を投入し、大昌の町は完全に瓦礫と化した。戦闘は非常に激しく、1時間当たりの平均死傷者数は数千人に達し、数日で崩壊した師団もあった。この激戦は10月25日に、ついに大昌が陥落するまで続いた。この時、中国軍は約3ケ月近く守り続けた上海市街地から撤退した。




2022年8月17日水曜日

フランスの地下抵抗組織であるマキの銃殺隊は、1944年9月2日に6人のヴィシー政権のフランス民兵団を処刑して、マキの将校が死刑囚の頭にピストルで絶命の留めを刺した。

フランスの地下抵抗組織であるマキ(Maquis)の銃殺隊は、1944年9月2日に6人のヴィシー政権のフランス民兵団(Milice)を処刑した。6人の民兵団のうち死刑になった者は、マキの銃殺隊によって射殺される直前に看守によって背後の柱に縛られた。処刑の場所はレンガ工場の前で、1944年7月にフランスのレジスタンスの約23人が、ナチス・ドイツ軍によって処刑された場所と同じであった。銃殺された瞬間に、カメラ撮影の写真の画像が揺れた。銃殺された後に、数人のマキ将校がピストルを持って、死刑囚に近づいた。マキの将校が、死刑囚の頭にピストルで絶命の留めを刺した。処刑によって命を奪われ、座ったままぐったりした。頭の弾痕からはまだ血がにじんでいた。マキの隊員たちは、民兵団の死体を、先に用意された簡素な木の棺桶に入れた。アメリカ軍兵士の一人も死刑執行を目撃していた。マキの隊員たちは、叫び声を上げる群衆を抑えながら、民兵団の隊員の6つの棺に近づこうと突進した。

 1944年8月にフランスのパリが、ナチス・ドイツ軍の支配から解放された数日後に、ナチス・ドイツ軍がフランス政権から転落する瞬間を捉えた。手を後ろに縛られた数人の若者は、ナチス・ドイツ軍に協力した民兵団の一員だった。南仏のレンガ工場に隣接する空き地が、最初の死刑執行の場所として選択された。処刑場には、6本の杭が並んでいた。雨にもかかわらず、地元の民衆が参集していた。車で搬送された囚人たちは、電柱に誘導された。民衆はまるでサーカスを見ているようで、嘲笑した。処刑された19歳から26歳までの6人の親ナチスの民兵団は、銃殺の運命に身を委ねた。処刑された囚人は、彼らは自国に逆らいながら、誰も下を向かず、死刑と向き合った。

 死刑執行を直前にした10人の容疑者らは、法廷では涙を流していた。彼らがとても若く見えて、逞しく人生の最後の瞬間に立ち向かっていた。縛られたまま、空に向かって頭を上げた。突然、胸や心臓に向けて銃が発砲された。前屈みになり、柱にもたれかかり、やがて頭を下げて、二度と動かなかった。死刑執行人は、その後に囚人一人一人の頭を撃ち抜いた。10人の容疑者のうち、処刑されたのは6人だけであり、他の4人は証拠不十分で釈放された。









2022年8月16日火曜日

1945年3月に1929年生組と1930年生組の一部のドイツ人の未青年たちが召集され、この15歳と16歳の未青年たちは、8週間以内に悲惨な死を遂げる運命が待っていた。

1943年に16歳から18歳の未青年のヒトラー・ユーゲント(HJ)による精鋭部隊が設立された。1943年7月にパンツァーグレナー師団が、同年10月には12SSパンツァー師団に改編された。訓練も武装も不十分な未青年たちで構成された。1944年夏のノルマンディーの戦いで、カーン北部のイギリス・カナダ軍に対して投入されて、約2万人以上のドイツ人の未青年が撃退に参戦したが、最終的に約3000人の命を失って甚大な犠牲を伴った。 

 ヒトラー・ユーゲント(HJ)の軍服の未青年たちは、第二次世界大戦末期の1945年3月に、1929年生組が召集されて、1930年生組の一部が堡塁に送り込まれた。約8週間以内に悲惨な戦死を遂げるか、捕虜として大空下の集団収容所で餓死が頻発した。ヒトラー・ユーゲントは最大で870万人の隊員 (ドイツの全若者の約98%)で構成するナチス・ドイツが唯一認める未青年組織になった。1936年12月1日のヒトラー青年法に基づき、1939年3月25日から全未青年の加入が義務付けらた。第二次世界大戦末期の戦闘で、ヒットラー・ユーゲントの14歳から18歳までの約60,000から70,000人が絶命した。

 第二次世界大戦戦争末期にて、未青年が最後の勝利のための志願兵として軍事訓練所に動員された。1943年にドイツ帝国青年指導部は、対空援護兵の奉仕を義務付けて、生徒の奉仕をヒトラー・ユーゲントに見立てるも失敗した。対空援護兵は、ヒトラー・ユーゲントの隊員であり、公式名称にルフトワフェンヘルファーを加えて、腕章にて識別された。 

 1944年9月にフォルクススツルムが設立された。16歳のヒトラー・ユージェントの未青年たちが、ドイツ国防軍以外の60歳までの男性たちと一緒に兵役に就いた。訓練や武器はほとんど不十分だった。フォルクススツルムは特に東部戦線での戦いに参加し、多くの死傷者を出した。東部戦線で、ヒトラーユーゲントはますます若い年齢で募集された。1945年までに、フォルクススツルムは12歳のヒトラーユーゲントを徴兵した。ベルリンの戦いでは、ヒトラーユーゲントがドイツ軍の最終防衛を占め、最も熾烈な戦闘を繰り広げた。ヒトラーユーゲントの解散命令が実行されなかった。特に未青年旅団の残党は、進撃してくるロシア軍から多大な損害を受けて、生き残ったのは2人のみであった。




 

2022年8月15日月曜日

太平洋戦争の沖縄戦の沖合で特攻で、空母バンカーヒルの左舷ハンガーデッキ前方に並べた死体を、飛行甲板上に移動して海葬する前に身元確認のために死体を検死した。

太平洋戦争の沖縄戦の沖合で特攻により、空母バンカーヒルの左舷ハンガーデッキ前方に整然と並べた死体を、飛行甲板上に移動した。乗組員3人は、海葬する前に身元確認のため甲板に置かれた死体を検死した。1945年5月11日に、沖縄沖で2機の日本軍の神風が立て続けに突撃して、空母バンカーヒルは死者・行方不明者の約396人を損失して、約264人が戦傷した。乗組員たちは、煙に包まれながら、甲板は燃えさかるガソリンで覆われた戦闘機の熱い残骸に水をかけた。

 日本陸海軍の神風特攻で大破する5月11日午前10時5分に、空母バンカーヒル(CV-17)の飛行隊が沖縄攻撃の準備をしている時に、安則盛三が操縦する三菱A6M零戦が対空網を破って、空母の右飛行甲板上に約250kgの爆弾を放った。約34機の戦闘機、魚雷爆撃機、急降下爆撃機が離陸を待っていた甲板を突き破って、零戦の爆弾は格納庫の甲板の横を急上昇して海上で炸裂した。その後に、燃料を満載した飛行甲板上の戦闘機に衝突し、爆発した弾薬とガソリン火災が連鎖的に艦尾に広がった。零戦の残骸は甲板を越え、海中に落下した。

 その後30秒以内に、小川清が操縦する2機目の神風が、バンカーヒルの飛行甲板に約250kgの爆弾を命中させた。爆発は、格納庫甲板と直下のパイロット準備室を破壊した。神風は空母の島構造を狙って、直近に墜落した。機体の翼は旗艦室を通過し、将校3人と下士官兵11人が死亡した。バンカーヒルの船尾の機関室にいたアメリカ海軍兵士は、自分の持ち場に留まるよう命じ、煙を吸って窒息死した。

 バンカーヒル艦内の死者の死体の収容作業は、5月11日の午後に、多くの死体は甲板下のスペースに残存した。通路や破損したコンパートメントを取り除いて死体を回収した。煙と水で満ちた甲板下に、船員の死体を見出した。神風が突撃して約19時間後に、煙の充満した機関室から回収された死体が、飛行甲板に横たわった。

 洋上埋葬を開始する前に、死体の身元確認の作業が本格化した。沖縄戦中のバンカーヒルでは、典型的な死因の一つが火災によった。神風特攻による死体の大半は、煙の吸引、猛暑による窒息、火災が原因となり、焼死した者も少なくない。死亡した船員の身元確認が終わると、死体は白い帆布で埋葬用に縫い付けらた。死体を沈めるために、2つの約25kgの弾丸を、1つは胸に、1つは両足の間に縛られた。アメリカ海軍史上最長の洋上埋葬は、5月12日正午3分からバンカーヒル艦上で開始された。戦死者393人のうち352人の乗組員のために、牧師が海洋葬を祈願した。身元不明の乗組員24人は、3人の将校が祈願した。6基の埋葬用シュートが戦死者の死体をすべて深海に投下して、葬儀は約午後8時に終結した。




2022年8月14日日曜日

ロシア・ウクライナ戦争にて、ドネツク州地域のオレニフカの刑務所が2022年7月29日に砲撃されて崩壊して、ウクライナ軍捕虜のうち約53人が殺害され、約75人が負傷した。

ロシア・ウクライナ戦争にて、2022年7月29日に、ウクライナ東部のロシアに支援された分離主義勢力が支配するドネツク州地域のオレニフカ(Olenivka)の刑務所が砲撃されて崩壊した。オレニフカ刑務所群の中央にある小さな四角い建物は崩壊して、屋根が粉々になった。オレニフカ刑務所で、有刺鉄線フェンスの隣の地面に焼死体が並べられた。親ロシア派の調査官がウクライナ軍捕虜の死体を集積して検死した後にシートを掛けた。破壊された刑務所のバラックにウクライナ軍囚人の完全に焼け焦げた焼死体が残存した。その当時に刑務所には、193人の受刑者が収容されていた。その中で5月17日に南部の港湾都市マリウポルのアゾフスタリ製鉄所の陥落から投降して捕獲されたアゾフ連隊のウクライナ軍捕虜のうち約53人が殺害され、さらに約75人が負傷した。翌日の7月30日には、ロシア国防省は死亡した20歳から62歳までのウクライナ軍兵士の48人のリストを公表した。

 ウクライナ軍兵士の捕虜を殺害した攻撃について、ロシア軍とウクライナ軍は互いに非難し合った。ロシア軍とウクライナ軍は共に、オレニフカ刑務所への攻撃は計画的であり、ウクライナ軍兵士の囚人を抹殺して、虐待と虐殺の証拠の隠滅を意図したと非難した。ロシア軍は、ウクライナ軍がアメリカから提供された精密ロケットランチャー(HIARS)を使用して、ロシア軍に支援されたドネツク人民共和国が支配するオレニフカにある刑務所を狙ったと主張した。ウクライナ軍は、HIMARSの使用を否定して、ロシアFSBと傭兵ワグナーが結託して、可燃性物質を使用し、刑務所の部屋の内部から急速に燃え広げて焼殺したと主張した。ロシアと分離主義勢力は、ロシアが主権国家として承認している東部2州のうちの1つであるドネツク州の完全支配を最初に試みている。

 国際赤十字委員会(ICRC)は、攻撃時に現場にいたすべての人々の健康と状態を判断するため、オレニフカ刑務所への立ち入りを要請した。負傷者が救命処置を受け、命を落とした人々の死体が尊厳ある方法で処理を要請した。ICRCは捕虜への立ち入り許可は、ジュネーブ条約に基づく紛争当事者の義務として要請した。ウクライナ軍捕虜の適切な処置を確認するために、オレニフカ刑務所を訪問調査を要請したが、ロシア軍はその要請を受理していない。











Warning: Investigators examine bodies of Ukrainian military prisoners at a prison in Olenivka, in an area controlled by Russian-backed separatist forces, eastern Ukraine, Friday, July 29, 2022. Russia and Ukraine accused each other Friday of shelling a prison in Olenivka, a separatist region of eastern Ukraine, an attack that reportedly killed dozens of Ukrainian prisoners of war who were captured after the fall of a southern port city of Mariupol in May. (AP Photo)











Warning : A burned out body of Ukrainian military prisoner is seen in destroyed barrack at a prison in Olenivka, in an area controlled by Russian-backed separatist forces, eastern Ukraine, Friday, July 29, 2022. Russia and Ukraine accused each other Friday of shelling the prison in Olenivka in a separatist region of eastern Ukraine, an attack that reportedly killed dozens of Ukrainian military prisoners who were captured after the fall of a southern port city of Mariupol in May. (AP Photo)


2022年8月13日土曜日

1945年9月14日に、長崎市内にかつての家があった場所に、長崎原子爆弾の被爆による犠牲者の日本人家族が、残存した瓦礫から建てた粗雑な小屋で、ご飯を食べた。

1945年9月14日に、長崎市内にかつての家があった場所に、長崎原子爆弾の被爆による犠牲者の日本人家族が、残存した瓦礫から建てた粗雑な小屋で、ご飯を食べた。長崎の原爆による甚大な被害は、特に浦上川流域にほぼ限定されて、その他の地域は丘に守られた。浦上地域には、長崎原子爆弾の炸裂から数日後には生活を維持しようとする被爆者が活動と参加していた。  

 長崎原子爆弾(通称、ファットマン)が、1945年8月9日午前11時2分に投下されて、長崎市内の上空で炸裂した。原爆搭載機ボックス・カー号(機長チャールス・スウィーニー少佐25歳)は、高度約9,600mの上空から、広島に次いで第2号となる原子爆弾(プルトニウム爆弾)を長崎市内に投下した。長崎市内も、一番目の爆撃目標都市の小倉と同じく雲に覆われた。スウィーニーは、すでに燃料は沖縄基地までの状態に欠乏し、爆撃航路ただ1回分だけが残っているに過ぎなかった。示された照準点への爆弾投下まであと約30秒で、トーン・シグナルが作動して、爆弾倉の扉が音をたてて開いた。あと25秒、はからずも爆撃手であるビーハンが、雲の切れ間から長崎市街の一部がわずかに見えて、「街が見える」と叫んだ。そこは、三菱グランド(浜口町)から三菱製鋼所、同兵器製作所(茂里町)の中間地帯だった。長崎原子爆弾の投下は目視爆撃による投下目標となった。

 長崎原子爆弾の炸裂は、目標の工業地帯からおよそ約500~600m北方にそれて、松山町171番地のテニスコートの上空で起こった。爆発点の高度は、約503m~±10mと信頼度の高い数値が推定された。炸裂と同時に空中の一点に摂氏数千万度もの火球が発生して、体積が急速に膨張した。爆発から一万分の一秒という超ミクロの瞬間に直径は約30m、温度は摂氏およそ30万度になり、火球は百分の一秒から一秒の間に直径約100m~280mに達した。火球から放射された熱線は、爆発直後から約3秒間に外部に甚大な被害を与えた。

 特に人体に熱傷を与えたのは、爆発後の0.3秒から3秒までの赤外線であった。地上物質の表面温度は、原爆の直下では約3,000~4,000度にも達したと推定された。爆発に伴って生じた物凄く強力な気圧変化は、爆発直後異常な速さで衝撃波となって広がり、物を破壊し、押し潰した。同時に強い爆風が起こり大被害が発生した。