2022年8月9日火曜日

ドイツ軍により完全に包囲されたパルチザンは、ボスニア南東部の山岳地帯の行軍の最中に、戦闘、飢え、行進で疲弊して、若いパルチザン兵士が死亡した。

1943年5月に、約225,000人のドイツ軍とイタリア軍がチュニジアで降伏した。北アフリカ戦線が終結した後に、ギリシャやアドリア海沿岸に連合軍が侵攻する危機が急速に高まった。枢軸軍はバルカン半島のパルチザンの脅威を一掃するために、シュヴァルツ(Schwartz)攻勢、第5敵攻勢、海峡の戦いでバルカン半島を侵略した。

 枢軸国軍によるシュワルツ作戦により、1943年5月15日から6月15日にユーゴスラビアのボスニア南東部に、ドイツ軍とイタリア軍が、パルチザンに対して第5次攻撃した。パルチザンの第2ダルメシア旅団は、奇襲で不意打ちされ、包囲されて、戦闘、飢え、行進によって疲弊した。ドイツ軍により完全に包囲されたパルチザンは、山岳地帯の行軍の最中に、若いパルチザン兵士が死亡した。

 枢軸軍は、パルチザンの主力師団を、タラ峡谷とピヴァ峡谷、ドゥルミトルの山岳地帯の孤立した無人地域に、戦闘機、大砲、山岳部隊で侵攻した。パルチザンを5月15日から20日に包囲して封鎖して、パルチザン部隊を行き詰まらせた。追いつめられたパルチザンは、5月21日から6月9日に、封鎖を突破する攻撃を繰り返した。6月10日早朝に突破口が開かれて、パルチザンの疲弊した師団は、6月14日に極めて狭い戦線でスジェスカ川を渡り、フォチャ西の東ボスニアに逃避した。

 パルチザンは、約1ヶ月にわたる激しい戦闘後、半数以上の兵員は脱出できたが、パルチザンの犠牲者は壊滅的であった。犠牲者数は、パルチザンは戦闘員約6,391人と枢軸軍に捕獲された民間人約2,537人が、その場で銃殺されて、合計約8,928人が殺害された。ドイツ軍は死者約583人、戦傷者約425人、、行方不明者数不明である。イタリア軍は不明である(比較的少ない)、ブルガリア軍は不明(非常に少ない)、クロアチア軍は不明で、ドイツ軍の約4分の1相当が損失した。




2022年8月8日月曜日

太平洋戦争のガタルカナル島の戦いで、アメリカ軍兵士が1942年8月頃に日本軍兵士が戦死した死体の戦場を撮影して、日本軍の青葉支隊の第2師団が戦死した死体の写真と推定された。

太平洋戦争のガタルカナル島の戦いで、アメリカ軍兵士が1942年8月頃に日本軍兵士が戦死した死体の戦場を撮影した。その詳細は判然としないが、写真はガダルカナルの戦いに参戦したアメリカ軍兵士が、戦後に日本の仙台市を訪れた際に、仙台市の写真館がネガから焼き付けて保持していた。アメリカ軍兵士から入手した日本軍の青葉支隊の第2師団が戦死した死体の写真と推定された。アメリカ軍兵士個人が撮影しただけに、生々しい戦場の血なまぐさい臨場感を伴った。日本軍の青葉支隊の2師団の日本軍兵士と推測するも、戦場もに断定はできず不詳である。左手の奇妙な筒状の物体は、アメリカ軍側が使用した土木機材あるいは大砲を固定する台坐と推察された。撮影の地点は、ツラギ、タイボ岬、アメリカ軍が上陸地のレッドビーチの3個所の地域の中で、タイボ岬の可能性が高いと推定された。

 アメリカ軍は8月7日にガダルカナル島に上陸した。日本軍は、先遣隊を派遣して一木支隊が8月19日にタンボ岬に上陸した。アメリカ軍は、8月20日にルンガ地区イル川を渡河する一木隊を通信を傍受して待ち構えて猛攻撃をした。夜襲白兵戦をする一木支隊主力約916人は、重火器なしで突撃した。飛行場の東北のイル川を渡河時に、アメリカ軍は照明弾を打ち上げ、明るく照明して、機関銃の十字砲火を浴びせ、日本軍に多数の戦死者を出した。

 8月21日午後にアメリカ軍は、軽戦車約5両で一木支隊を背後から砲撃し、上空からグラマン戦闘機が空襲した。日本軍はイル川とテナル川の間の海岸線に追い詰められ壊滅した。アメリカ軍が近づくと、数十人の日本軍兵士は自爆死した。8月21日に包囲された一木隊は掃討されて全滅した。8月25日までに生存してタイボ岬に帰還したのは約126人のみで、約777人が戦死した。アメリカ軍は、戦死者は約40人であった。日本軍は1942年8月31日に、岡連隊の第3連隊と青葉支隊の一部が、ガダルカナル島のタイボ岬に上陸した。輸送船を含むアメリカ艦船が、タイボ岬に接近した。アメリカ軍が上陸するために、多数の艦砲射撃でタイボ岬を襲撃した。




2022年8月7日日曜日

ロシア・ウクライナ戦争が勃発して、マリウポリのウクライナ市民は十数人の死体を郊外の集団墓地に、効率的に無情に投入して埋葬した。

ロシア・ウクライナ戦争が2022年2月24日に勃発して、ウクライナの南部の湾口都市のマウリポリ(Mariupol)はロシア軍による無差別の集中砲撃を受けて多数犠牲者が発生した。3月9日に、民間ウクライナ市民は十数人の死体をマリウポリ郊外の集団墓地に、効率的に無情に投入して埋葬した。溢れかえる死体安置所、新たに掘られた集団墓地、瓦礫の下に埋められ、倒れて放置された死体が散乱していた。ロシア軍による激しい砲撃の危険性のために、地域の人々が伝統的な葬儀が困難となった。安置所に死体があふれ、家屋に回収されない死体が増えて、当局は個別から集団の埋葬に切り替えた。マウリポリの中心部にある古い墓地に、約25mに掘られた深い溝が、当局のの職員が、死体安置所や個人宅から集めた遺体で満杯になった。

 カーペットやビニール袋に包まれた死体が運搬された。3月8日には約40死体、3月9日には約30体が集団埋葬された。3月8日に墓地自体に砲弾が着弾し、埋葬が中断され、壁が破損した。その中には、マリウポリ市街地への砲撃の犠牲となった市民や兵士、病気や傷病で死亡した市民も含まれた。その他の市職員も死体を運搬するので、埋葬される人数は短期間で増悪して、長い集団墓地の中の死体の総数が不詳となった。死体を共同墓地に押し込んで埋葬後に、素早く十字架のお祈りサインをするのは作業員たちで、遺族や弔問客はいない。

 集団墓地の門の前で、ある娘が自分の母親をこの塹壕に埋められた。娘はその3日前に死体を安置所の外に置き、名前を書いた紙のラベルを貼り付けた。作業員は娘に、母親は集団墓地に埋葬されていると告げた。市街戦は、砲撃と戦火に巻き込まれた市民に最も大きな犠牲を強いる。ロシア軍による市街戦は、特に残酷であることが証明された。5月17日にアゾフスターリ製鉄所の地下壕で徹底抗戦したアゾフ連隊が投降して陥落して、ロシア軍は5月20日にマウリポリを完全制圧を公表した。











Warning: Dead bodies are put into a mass grave on the outskirts of Mariupol, Ukraine, Wednesday, March 9, 2022 as people cannot bury their dead because of the heavy shelling by Russian forces. (AP Photo/Evgeniy Maloletka)

2022年8月6日土曜日

広島原子爆弾の爆心地から約800m北方の地上の生物は全て焼失したが、地下の微生物や草木の根は生存して、原子爆弾が炸裂して1945年10月末に生物不毛の地に、カンナは新しい生命の芽を出して再び新しい花を咲かせた。

広島原子爆弾が、1945年8月6日午前8時15分に投下されて炸裂した。広島原子爆弾が炸裂した爆心地から約800m北方にある日本軍の歩兵第一補充隊(旧二部隊)の焼跡には、強烈な熱閃光を浴びた。炸裂した直後は、爆心地から約800m北方の被爆地の地上の生物は全て焼失したが、地下の微生物や地中の草木の根は生存していた。被爆しして、約2ケ月過ぎの1945年10月末頃に、灼熱の夏から涼しい秋を迎えた頃に、カンナから再び新しい生命の芽を出して、美しい花を咲かせた。カンナの手前において、日本軍兵士が所持していたと思われるアルミニューム製の食器が、広島原子爆弾の強烈な熱閃光で、重なったまま溶解していた。1945年8月6日に広島原子爆弾が炸裂して、被爆後は長期間にわたり広島市内は生物不毛の地と示唆された焦土の中で、被爆者たちは、美しいカンナの花を見詰めて、戦後に生き残れる希望を抱いた。(昭和20年10月末、松本栄一撮影)

【広島市、広島原爆戦災誌、第一巻、序、1971年8月6日刊行 : 被爆関係の写真は、その歴史的記録を尊重し、それぞれ撮影者、撮影年月日、撮影場所を明記するようにつとめた。ただし、一部には不明のものもある。】

  広島市は、原子爆弾の炸裂に伴う惨禍を、多くの被爆者体験の証言や各種の調査士利用など、つぶさに集大成して、『広島原爆戦災史』を公刊し、二十数万に及ぶ犠牲者の冥福を祈ると共に、平和を祈念する永遠の献花とする次第である。

広島市長 山田 節男  昭和四十六年八月六日



2022年8月5日金曜日

太平洋戦争のサイパン島の戦いにて、1944年6月28日にアメリカ軍の砲撃で吹き飛ばされ殺害された日本軍兵士の死体が、サイパン島のタポチョ山に散乱した。

太平洋戦争のサイパン島の戦い(1944年6月15日から7月9日)にて、6月28日にアメリカ軍の砲撃で殺害された日本軍兵士の死体がサイパン島のタポチョ山に散乱した。アメリカ軍に突撃した日本軍兵士の全員が、最終的には砲撃で吹き飛ばされ死亡した。アメリカ軍兵士は、サイパン島のジャグルの中にいる日本軍の狙撃兵を掃討した。アメリカ軍兵士は、日本軍兵士の死体の山の隣にある戦闘で崩壊したジャングルの空き地に集散した。

 アメリカ軍は6月22日から、サイパン島の最高峰であるタポチョ山を攻略して侵攻した。タポチョ山に連なる高地群は、地形を巧みに活用した陣地の日本軍と、最も激しい戦いとなった。日本軍が陣地で迎え撃ち頑強な抵抗をして、アメリカ軍の侵攻は難攻した。多数の死傷者が続出したアメリカ軍は、タポチョ山領域の峡谷を、死の谷、パープルハート勲章、地獄谷と悪称した。

 日本軍は、山腹にある洞穴から重迫撃砲や重機関銃で攻撃した。下方のアメリカ軍は洞穴を戦車砲で攻撃するのは困難となり、手榴弾や銃剣や激しい白兵戦が展開された。側面から日本軍の攻撃を受けて、アメリカ軍の6月23日の総攻撃は失敗した。6月24日にも死の谷に向けて侵攻するも、峡谷からの日本軍の激しい砲撃で撃破されて、撤退を余儀なくされ、多数の死傷者を伴って、侵攻地点に引き戻った。サイパン島に、6月15日に上陸したアメリカ軍は以来約2週間に及ぶ激戦で、戦死者数は圧倒的に日本軍が多かったが、アメリカ軍にも数千人単位で戦死者が出て、埋葬が間にあわず、死体袋が砂浜にうず高く積み上げられる状態となり、途中から海軍の艦艇に積んで沖合で水葬にした。

 日本軍は、タポチョ山でアメリカ軍の侵攻を足止めした6月24日に、大本営の方針はサイパン放棄で、増援は拒否と返電された。戦傷者やマラリアに感染者など、絶望的な戦況となった。アメリカ軍は、6月25日にはタポチョ山の山頂に到達して、6月26日まで争奪戦を繰り広げた。激しい白兵戦後に6月26日中には山頂はアメリカ軍の支配下となり、日本軍は夜襲も撃退された。6月27日にはタポチョ山はほぼアメリカ軍に制圧された。少なくなった戦力で日本軍の抵抗は続けて、まだバンザイ突撃は少なく、多数のアメリカ軍を戦死傷される遅滞作戦で戦った。6月30日にはタポチョ山一帯の日本軍は掃討されて、残存部隊はガラパン方面に撤退した。タポチョ山の戦いで、アメリカ軍の死傷者は約3,987名にも上った。サイパン島の戦いで全滅して日本軍は約3万人が戦死して、民間人は約1万人が戦死して、アメリカ軍は約3,551人が戦士した。




2022年8月4日木曜日

ナチス・ドイツ軍からフランス解放後に、親ナチス・ドイツ軍の民兵組織に所属した6人のフランス人の若者が、1944年9月2日にグルノーブルにて公開処刑で銃殺された。

ナチス・ドイツ軍に占領されたフランスは、1944年8月25日にパリが解放された。1944年9月2日にフランス解放後に、親ナチス・ドイツ軍の民兵組織に所属した6人のフランス人の若者が、8月22日に解放されたグルノーブルで銃殺された。6人の死刑囚の処刑を見逃すまいと、群衆は一斉に集まった。フランス人の若者を、無名の裏切り者として死刑が執行された。ナチス・ドイツ軍の占領期の闘争とは無関係のない粛清も執行された。フランス人民兵やフランス地下組織のゲリラ戦士(maquisard)が最後の戦いを繰り広げた。1944年10月2日に、アメリカの週刊誌ライフは、フランス解放の記事に若者の粛清を掲載して、国際世論に衝撃を与えた。

 イゼールのユリアージュ訓練学校出身の6人の若いフランス人民兵は、1944年9月2日にグルノーブル軍法会議で死刑を宣告されて、同日に銃殺された。逮捕、有罪判決、死刑執行、若年の死刑囚、若者に対する重大な罪状がない状況から、特に注目された。1944年の夏以降に、フランス人民兵であった若者は、略式執行や例外的な裁判所の厳罰に暴露された。

 6人のフランス人の若者は、親ナチス・ドイツ軍のダルナンが組織した民兵組織に所属した。ジョセフ・ダルナン(Joseph Darnand)は、第二次世界大戦中のフランスでナチス・ドイツ軍への協力者となった。第二次世界大戦初期にフランス軍の兵士として活躍して、ヴィシー政権の準軍事警察組織であるフランス民兵(Milice)を組織して指導者となった。ダルナンはもナチス親衛隊SSの将校として活躍した。暗殺を実行し、レジスタンスを追いかけ、ユダヤ人を検挙し、フランス抵抗軍のゲリラ戦闘員を無差別に虐待と虐殺した。戦後は国家反逆罪でイタリアで検挙されて、1945年10月10日にシャティヨン要塞にて銃殺で死刑が執行された。




2022年8月3日水曜日

アメリカ軍医師団は、沖縄戦終結直後の1945年7月10日に稀少な医療資料のため、愛楽園の日本人職員にハンセン病患者の死体を病理解剖をさせ、病理資料をアメリカ医科大学に送付した。

沖縄戦において、1945年4月23日に、アメリカ軍は運天港から上陸して、沖縄愛楽園のハンセン病療養施設を占領下に置いた。アメリカ軍医師団は、沖縄戦終結直後の1945年7月10日に稀少な医療資料として、愛楽園の日本人職員にハンセン病患者の死体を病理解剖をさせて、病理資料をアメリカ医科大学に送付した。7月の炎天下のもとで愛楽園が空爆された瓦礫下の野外で病理解剖を行った。ハンセン病患者の死体を、爆撃で破壊された解剖棟に唯一残った解剖台で病理解剖した。

 沖縄県名護市の屋我地島北部済井出地区のハンセン病療養所である沖縄愛楽園は、国の隔離政策により、1938年に設置された。ハンセン病患者は、強制的に隔離されて、強制堕胎や強制断種が処置された。那覇市から北に約60kmの施設も、戦時中はアメリカ軍の攻撃対象になった。特に、1944年10月10日のべ1000機のアメリカ軍機が沖縄本島各地を空襲した。その一部は愛楽園を攻撃し施設の約90%が破壊された。愛楽園の病棟が日本軍の兵舎に間違われ、繰り返し攻撃を受けた。水タンクの破壊により、入所者約30%に治療が困難となり約289人が死亡した。日本軍により1944年5月から読谷村から、9月に各地でハンセン病患者の療養所に大規模な強制収容が執行された。日本軍は軍刀や銃剣で乱暴に脅迫して、愛楽園は定員450人から913人に強制収容した。手足の麻痺しているハンセン病患者に、空襲に対する壕堀りを強制労働させた。

 沖縄戦中には、日本軍は愛生園の職員と地域関係者を、密告によるスパイ容疑で暗殺や勾留された。通訳・校長・警防団長などを暗殺した。日本軍は愛楽園に対して、アメリカ軍から配給された容疑で、半分もの食料の放出を要求した。1943年には、既にアメリカで特効薬プロミンが開発されるも、終戦後の1949年になってから使用された。日本本土で、1953年に、隔離政策のらい予防法が成立した。沖縄は1972年5月15日、アメリカとの沖縄返還協定が発効して、沖縄の施政権が日本に返還された。沖縄復帰した日本にて、1996年にらい予防方が廃止された。




2022年8月2日火曜日

アメリカ南北戦争のゲティスバーグの戦いで屠殺場と呼称されたリトル・ラウンド・トップの岩丘前で、1863年7月2日交戦後に多くの地面は戦死者と負傷者でほとんど覆われた。

アメリカ南北戦争のペシンルベニア州ゲティスバーグの戦い(1863年7月1日から7月3日)の戦場のうち、リトル・ラウンド・トップの岩丘の前に位置する一角は、屠殺場(Slaughter Pen)と呼称された。1863年7月2の交戦が終わると、多くの場所の地面が戦死者と負傷者でほとんど覆われていた。4人の南軍の兵士が、近くの森林で北軍に殺害されて死亡した。その写真は、死体の一部を描いたものに過ぎず、負傷者は救護所に搬送後であった。

 北軍の第5軍団第3師団を指揮する外科医であったクロフォード将軍は、戦闘の7月2日目にバーンズ師団を支援するために、峡谷の近くに配置された。南軍の歓声が聞こえ、低地を横切って正面を見ると、北軍が混乱して退却していた。北軍の逃亡者たちがあらゆる方向に逃避して、何人かは北軍の陣地を突き抜けた。前方の平野は逃げ回る北軍の兵士で埋め尽くされた。正規の南軍師団が、北軍の左翼を越えて侵攻してきた。北軍の正面にある2つの森林の間に麦畑が広がって、石垣が森林を右から左へと横切った。南軍は集団で麦畑を渡って、前線をすべて追い払った。南軍の小隊は石垣を越えて、隊列が低地を横切って北軍の立つ岩丘に向かって侵攻した。北軍は直ちに師団全体により、南軍への突撃を命じた。北軍師団は直ちに前進して、2発の砲撃が行われた後に、北軍が2倍の速さで進撃した。北軍は低地で南軍を迎え撃ち、石垣まで後退させた。石垣の占有をめぐって短期間の戦いを、戦線の側面に集結した北軍2連隊が展開した。南軍を森林から小麦畑を越えて、向こうの尾根まで追いやった。戦線はそこで永続的に終結した。

 7月2日目午後に、北軍は前方の森林を切り開くよう命じられ、北軍はすぐに部隊に前進を命令された。北軍兵士が岩丘から姿を現すやいなや、麦畑の向こうの尾根に陣取った南軍の砲兵隊が、榴弾と水筒で攻撃を開始した。北軍の小競り合い隊が大砲を撃つと、南軍の砲兵隊は身体を起こして逃げ出した。北軍はその後に、隊列を組んで麦畑を横切り、森林を抜けて侵攻するように指令された。南軍のジョージア州兵士からなるアンダーソン将軍あるいはボーナム将軍が率いるフッド師団の旅団に出くわした。北軍は南軍の旅団を攻撃して、約260名の捕虜とジョージア州第15軍軍旗を獲得して、失われた地点をほぼすべて奪還した。約7000以上の武器、約12ポンドナポレオン砲1門とケーソン3両、手当てをされていない北軍の全負傷兵士も奪還した。





2022年8月1日月曜日

第二次上海事変にて、1937年に上海を侵攻する日本海軍特別陸戦隊は、上海の路上に散乱する中国人の死体を乗り越えて侵略した。

第二次上海事変において、1937年に上海を侵攻する日本海軍特別陸戦隊は、上海の路上に散乱する中国人の死体を乗り越えて侵略した。

 第一次上海戦終了後の1932年の停戦条件で、1937年8月9日に日本海軍特別上陸部隊の大山功中尉が、違法である上海の鴻橋空港の敷地内に入ろうとした。大山は中国の警官に発砲されて死亡した。8月10日に、日本軍側は中国軍と中国警察組織の和平工作団の上海からの撤収を要求したが、中国軍側は応じなかった。上海での緊張が高まる中で、日本は邦人保護を名目に、上海へ援軍を派遣して、8月11日に中国軍はついに上海への出兵を命令された。

 8月13日午前9時に、1万人以上の日本軍海軍陸戦隊が上海近郊に上陸して、閘北、武松、江湾地区で交戦状態となり、第二次上海事変が勃発した。その昼過ぎには、中国軍が迫撃砲で日本軍を攻撃し始めた。8月13日午後4時に、黄浦江と長江にいた日本軍の第3艦隊が艦砲射撃を開始した。8月14日に、中国軍の戦闘機が日本軍の戦艦と陣地を爆撃し始めて、中国国民党政府は自衛・抵抗の戦争宣言を出した。午後3時頃に、中国軍の反撃が始まるも、国際海域に強固な陣地を築いた日本軍は、軽武装の中国軍の反撃を圧倒した。8月15日に日本海軍の爆撃機が、長崎と台湾から渡洋爆撃した。8月15日に、国民党政権は、総動員令を出した。8月16日に、中国軍は日本軍の建物に忍び寄り、松明や手榴弾で建物に放火した。日本軍が建物から逃避すると、中国軍の機関銃が日本軍兵士を射撃した。8月17日に、日本軍の軽戦車が中国軍を追い返し、中国軍の反撃は終結して、日本軍の戦線を突破できず多くの死傷者を出した。

 8月18日、中国軍は援軍が到着し、恵山の埠頭を攻撃して戦車の援護を受け、日本軍を撃退した。しかし中国軍は戦車と歩兵の連携不足により、日本軍により再び埠頭を失った。中国軍の攻撃は敗退に終わり、約90人の中国軍将校と1,000人以上の中国軍兵士を失った。8月22日に、日本軍は上海を援護して、上海の北東50kmの荘子口、石林、宝山へ上陸した。中国軍は上陸を妨害できずに、一部は上海から撤退した。8月23日に、日本軍は、柳河、武松、荘内口に再び大規模な上陸作戦を展開した。中国軍は日本軍の新たな上陸に対抗するも再び失敗した。中国軍は夜間攻撃で、いくつかの村を侵攻しても、また村を失った。8月末には、中国軍の残党は包囲された宝山の防衛で全滅し、生き残った中国軍兵士は一人だけであった。10月26日に上海近郊の中国軍の大場鎮が陥落して、11月9日に上海を焦土しながら、南京への全面撤退に入った。最終的に中国軍は限定的な交戦にとどめて、より有利な条件で戦える内陸部での対決に転換した。




2022年7月31日日曜日

ロシア軍の2022年7月14日にミサイルに殺害された4歳の少女ライザ・ドミトリエワが、ウクライナのヴィニツィアで7月17日に埋葬されて、父親は身内に支えられた。

ロシア軍の2022年7月14日のミサイル攻撃で殺害された4歳の少女ライザ・ドミトリエワ(Liza Dmytrieva)が、ウクライナのヴィニツィア(Vinnytsia)で7月17日に埋葬された。親族や友人たちが葬儀に参列した。ロシア軍のミサイル攻撃で7月14日に死亡した4歳の少女ライザは、白い花冠をかぶり美しく穏やかに埋葬された。ウクライナ正教会の司祭が、泣いている親族に悪は勝てないと告げた。ダウン症で知的障害児のライザは、母親と一緒に特別支援学校に行く途中で、ロシア軍のミサイルが、戦闘の前線から遠く離れたヴィニツィア市を襲った。ライザと7歳と8歳の男の子を含む少なくとも24人が死亡して、ライザの母親を含む200人以上が負傷した。ロシア・ウクライナ戦争が2月24日に勃発した時、家族は首都キエフを離れて、南西に約270Km離れたヴィニツィアに避難していた。

 見て、私の花よ!こんなにたくさんの人がライザに来たのよ、ママは美しい娘を見ることもできなかったと祖母、ラリーサ・ドミトリーシナは、ライザが花やテディベアと一緒に、開いた棺に横たわったまま、ヴィニツィアの18世紀大聖堂で愛撫して慟哭した。ライザの父アルテム・ドミトリエフさんは、涙を流しながら黙って立っていた。ライザの母親の33歳のイリーナ・ドミトリエヴァは、重篤な状態で、病院の集中治療室に入ったままだった。ライザが日曜日に埋葬されることを、家族は母親に病態に影響恐れて伝えなかった。母親は、ダウン症の子供が充実した人生を願っていた。家族は、娘ライザがベビーカーを押すためにハンドルに力を入れ、デニムのジャケットと白いパンツを着て、バレッタで飾った髪でヴィニツィアを楽しそうに歩いた動画を死亡の直前に投稿していた。7月14日にロシア軍のミサイル攻撃後に、ウクライナの救急隊は、ジュビリー百貨店の焼け跡の芝生には、彼女の生気のない死体の血で染まったベビーカーが散在した。棺の両側にはライザの近親者が座り、さらに多くの人がヴィニツィア正教会の大聖堂に詰めかけた。その後、風が吹き抜ける墓地で、親族や友人たちが灰色の空の下でライザに別れを告げた。 

 同じミサイル攻撃では、2人の少年も犠牲になった。マクシム・ジャリイ君(7歳)は母親のビクトリアさんと一緒に亡くなった。殺害された母親とジュビリーセンターの1階にある診療所で診察を受けていた。死亡した7歳の男の子も、7月17日に、母親とともにビニツィア近郊の村に埋葬された。同じミサイル攻撃で死亡した8歳の男の子の名前は公表されなかった。近くに停車した車の中で叔父を待って、猛烈な火災に巻き込まれて死亡した。爆心地には、焼け落ちた多くの車の骨格が散乱した。同じミサイル攻撃で殺害されたもう一人の少年は、7月18日にヴィニツィアで埋葬された。




2022年7月30日土曜日

長崎原子爆弾の翌日8月10日朝に、爆心地から南南東約1.4kmの長崎市銭座町では、警防団の救援隊がかけつけ被爆者に配給をした。

長崎原子爆弾が1945年8月9日午前11時2分に投下されて長崎市内で炸裂した。翌日の8月10日の朝になって、爆心地から南南東約1.4kmの長崎市銭座町付近では、ようやく警防団の救援隊がかけつけた。炊き出しのおむすびなどを配給をし始めた。町内の警防団は、非常時の町内の炊き出しのため窯を作りに使役に出て働ていた。その他に、警防団は、がれきの中から死体を運び出す作業に追われた。8月9日夕方近くから近郊の大村海軍病院などの救護隊が、夜になって県下の町村ごとの警防団を主力に組織された救援隊が長崎市内に入った。長崎周辺の警防団員が集められて長崎市内に救援に参集した。被爆者は警防団の人たちに手を貸りて、救護所に運び込まれた。長崎市内まで作業に行った警防団には、早くに原爆症で死亡者も出た。死体の処理作業や海中や焼跡など部分的な処理作業が続けられた。

 1945年8月9日に、アメリカ軍のB-29爆撃機ボックズ・カーはプルトニウム爆縮型の原子爆弾を搭載した。ファット・マンと呼称した原子爆弾を搭載して、テニアン島を出発した。第一目標は、小倉工廠であったが、小倉上空に到着してみると地上の激しい靄と煙に覆われていた。B-29ボックスーのパイロットであったチャールズ・スウィーニーは、第二目標である長崎の三菱魚雷工場に転換した。長崎市に住んでいた約28万6千人のうち、約7万4千人が死亡、約7万5千人が重症を負った。

 1945年8月9日、アメリカ軍は長崎に2発目の原爆を投下し、日本はついに8月15日に無条件降伏に陥った。悪天候が予想されたために、8月9日に投下される計画になった。午前1時56分、スウィーニー大佐の指揮のもと、B-29爆撃機の特別仕様機ボックスカーがテニアン島から離陸した。長崎原子爆弾は8月9日午前11時2分に、上空約500mで炸裂した。爆発は、約2万2千トンものTNT火薬の威力であった。街を囲む丘が破壊力を軽減したが、爆風と熱線で死体が消滅し記録も破滅して、約6万から8万と予測された。原子爆弾のマンハッタン計画の責任者であるレスリー・R・グローブス将軍は、8月17日か18日までにもう一つの原子爆弾を日本に対して投下して炸裂させる準備ができていたが、日本の無条件降伏で投下の必要はなくなった。






2022年7月29日金曜日

中華人民共和国の土地改革法にて、新疆ウイグル自治区富士安近郊で、1953年1月に地主が銃殺によって、中国共産党軍兵士により背中を撃ち抜かれて死刑が執行された。

中華人民共和国の新疆ウイグル自治区富士安近郊で、1953年1月に地主が銃殺によって、中国共産党軍兵士により背中を撃ち抜かれて死刑が執行された。毛沢東の農地改革により、地主の死刑者数の推定値は約150万人から200万人と想定された。特定の地域では、隣人よりもわずかに土地を持っていた無実の民間人が階級の敵として非難されて、他人を搾取した容疑されたとして処刑された。1949年の革命前から、共産党の支配地域に人民裁判所が設置されて、地主は公開裁判という公共の場で、小作人と直接対決して罪を問われた。

 中国の国共内戦後に、1949年10月1日に中華人民共和国の建国宣言の初期に、毛沢東は1950年6月20日に土地改革法を公布して中国土地改革運動に乗り出した。地主を大量に殺害して、小作人の農民への土地再分配を行った。この土地改革運動で殺された地主の人数は、数十万人から数百万人にのぼる。階級闘争を動機とした大量殺戮は、毛沢東の社会・経済変革のほぼ30年間に継続されて、運動の終わりには地主階級はほぼ絶滅した。

 1950年から中華人民共和国は、中国共産党に反対する勢力を根絶するために反革命分子鎮圧運動を開始した。中華人民共和国の初期に頻発した反乱に対応するために、1950年3月に始まり、1953年に終結した。鎮圧運動の対象となった人々は反革命分子のレッテルを貼られ、集団裁判で公に糾弾され、膨大な人数が逮捕・処刑され、さらに多くの人々が労働改造刑に処された。1954年の中国共産党の公式推計では、約260万人が逮捕され、約130万人が投獄され、約71万2千人が死刑が執行された。

 1958年から1962年の大躍進は、毛沢東が主導して、毛沢東は、人民公社を設立し、農耕経済から共産主義社会に転換を図った。穀物の収量を増加を命じて、地方の役人はノルマを達成するために余った穀物を略奪して農民が餓死に陥った。その結果、1,500万人から5,500万人が死亡して、天候不順と食料生産量の減少を伴って、人類史上最も甚大な大飢饉となった。




2022年7月28日木曜日

朝鮮戦争で朝鮮半島の民間人の母親が1950年に虐殺された。母親の側で幼児が死体にすがり、母親の死と絶望の恐怖で泣きわめいた。

朝鮮戦争の初期に巻き込まれた朝鮮半島の民間人の母親が1950年に虐殺された。その母親の側で幼児が、死体にすがって、母親の死と絶望の恐怖で泣きわめいた(1951年6月人民画報、中国国務院新聞弁公室・中国外文出版発行)。朝鮮戦争では、中国人民志願軍は朝鮮半島の民間人を唯一虐殺しなかった。北朝鮮軍(KPA)、韓国軍、アメリカ軍はすべて民間人を虐殺した。民間人の虐殺は3つに分類でき、右翼による朝鮮の民間人の虐殺(韓国国軍・警察・右翼)、左翼による朝鮮の民間人(朝鮮人民軍・ゲリラ・左翼)、およびアメリカ軍による朝鮮半島で民間人を虐殺した。

 仁川上陸作戦後に、韓国軍は、共産主義者と疑われる朝鮮労働党(WPK)や民間人、北朝鮮の都市部や農村部の治安部隊に対して大規模な虐殺を実施した。智異山地域では、朝鮮人民軍の残党と韓国軍により、多くの住民が反動分子または協力分子として双方に虐殺された。韓国軍は北朝鮮の焦土作戦を、民間人の虐殺の口実を提供した。

 朝鮮戦争の初期2〜3か月間、朝鮮人民軍は朝鮮半島南部の大部分を占領し、韓国政府高官、憲兵、警察、憲兵、資本家、ビジネスマンとその関係者、約129,000人などを右翼として虐殺した。虐殺された多くは右翼の人々であると考えられた。1950年6月28日、朝鮮人民軍がソウルを占領した時に、ソウル大学病院で、韓国の民間人、負傷した兵士、医師など約700から900人が殺された。朝鮮人民軍も避難の過程で大量虐殺を犯した。朝鮮人民軍が大田を避難させたとき、彼らは民間人を虐殺した。朝鮮人民軍、約43,000人の韓国の民間人を北朝鮮に拉致した。

 アメリカ軍は、戦争地域での民間人の射撃と砲撃、民間人が通過する橋の爆破または中毒、民間人の爆撃と機銃掃射した。老斤里虐殺事件で約300人の主に子供と女性の民間人を虐殺した。その直後に、馬関と馬山鎮北で数十人の難民を虐殺した。難民と疑わしい者は無条件に射殺が命令された。アメリカ軍に橋上の数百人の難民は吹き飛ばされ、川中で銃殺あるいは溺死した。アメリカ軍歩兵や戦闘機が、避難する民間人を何度も空爆や機銃掃射し、罪のない民間人の犠牲者を出した。アメリカ軍は、1950年7月だけで朝鮮の13の都市と周辺で、約42,000人を虐殺した(北朝鮮側報告)、1950年10月中旬から12月末に、約17万人以上の民間人を虐殺した(韓国側報告)。



 

2022年7月27日水曜日

1978年からベトナム軍の侵攻により、カンボジアから逃避した衰弱して餓死した難民の子供の死体は、タイ国境周辺のジャングルの空き地の中に見捨てられ放置され散乱した。

約12万人のベトナム軍が1978年12月25日に、カンボジアに侵攻した。1979年1月7日には、首都プノンペンが陥落した。1978年12月に結成された親ベトナム派のヘン・サムリン議長の救国民族統一戦線が、カンボジア全土の制圧を公言した。それに対抗して、ポル・ポト議長の民主カンボジア政府軍は、カンボジアの国境沿いで徹底抗戦のゲリラ戦を継続した。その戦火に追われた民間カンボジア難民が、1979年1月頃から続々とタイ国境を集団で越え始めた。

 タイ軍は、カンボジアの共産主義勢力がタイ国内に流入を阻止した。そのため民間カンボジア難民は、国境線上で銃剣と地雷で追い返された。4月頃になると、国境地帯は雨季に入り、ジャングルに迷入したカンボジア難民は、栄養失調とマラリアなどの感染症で多数の死者が発生した。カンボジアから逃避した衰弱して餓死した難民の子供の死体は、タイ国境周辺のジャングルの空き地の中に見捨てられ放置され散乱した。

 1979年10月11日に約1万人のカンボジア人の難民集団が逃避して国境周辺のクロンワー村に到着した。その道端には、多数の歩行困難となった重病の難民が転がった。その自由病の難民は見捨てられて、絶命後の死体が散乱した。10月2日には、国境周辺で激闘が展開された。森の道端には、多数の瀕死の難民が横たわり、やがて生命が途絶えた。クロンカイテェムの山林には、新たに約2万人の難民が出没した。山地から下る難民は、タイ軍が流入を阻止するバリケードを避けて、越境をした。

 タイ・カンボジア国境約800キロには、川の国境もある。広いところで約20m、狭いところでは約10mに満たない。この地域が平和であった頃は、両国の国籍を持つ人々は何の苦もなく川を渡っていた。タイ語とカンボジア語を喋り、川の向こうとこちら側で 親戚同士も珍しくなかった。カンボジアの2度にわたる政変は、国境の1本の線に、多くの生命に意味を付与した。1975年4月、アメリカに支援されていたロン・ノル政権が倒れると、カンボジア政府軍の敗残兵らが難民となり、川を渡って、国境地区に住み着いた。次いでポルポト派の民主カンボジア政府軍が、ベトナム正規軍と数千人のヘン・サムリン軍に追われ、いま国境を越えて追い出された。カンボジア難民は大量で、悲惨で、複雑であった。

 ポル・ポト派の正規軍兵士もいれば、家族を殺されたとホル・ポト派に恨みを持つと同時にベトナム軍の支配を嫌う者もいた。軍人が常に家族を伴って、難民と兵士の区別をいっそう困難なものにした。一部の例外を除き、難民が疲れ、飢え、病んでいることは明白であった。難民の約80%が熱帯性のマラリアにかかり、ウイルス性肝炎、結核も多く、毎日毎日彼らは死んでいった。

  1979年10月24日、国境の村のクロンワーからサケオのキャンプへの移動が始まった。総数3万人のうち1万人は、キャンプ行きを拒否してカンボジアへ帰って行った。どちらの行動もとれない約500人の病人が置き去り放置された。1日に20人くらいが息を引き取っている。1979年末には、カンボジア難民の数は約68万人となり、カンボジア領の国境沿いに約100万人の難民が集結した。チュイ・ポンはカンボジア語で助けてという意味だが、国境でこの声を聞かない日はなかった。




2022年7月26日火曜日

ボゴタ近郊で2000年1月に、コロンビア革命軍(FARC)とコロンビア政府軍が衝突して、殺害された民間コロンビア人の死体が道路に横たわり、国際赤十字職員が救護して逃避した。

コロンビアのボゴタ南東約60kmにあるグアヤベタル・メタ州で、2000年1月15日の戦闘攻撃が勃発して、殺害された民間コロンビア人の死体が道路に横たわった。その周辺では、多数の国際赤十字職員が、救援と保護を求めて救急車から逃避した。ボゴタ近郊で、左翼反乱軍のコロンビア革命軍(FARC)と治安部隊のコロンビア政府軍が衝突がして、約21人が殺害されて死亡した。コロンビア革命軍の反乱軍は、コロンビア政府と南部のジャングルで和平協議を行った日に、グアヤベタルを攻撃した。

 コロンビア革命軍(FARC: Fuerzas Armadas Revolucionarias de Colombia)は、「マルクス、レーニン、ボリーバルの思想に基づき、コロンビアの支配体制に反対する政治的・軍事的組織である。我々は、祖国を始めとする地球全体に正義を取り戻すために、社会主義社会のために戦う」と宣言した。コロンビア政府は、コロンビア革命軍をテロリストの左翼反乱軍と認定した。2001年に、アメリカ国務省はコロンビア革命軍をテロ組織としてリストに掲載した。後に欧州連合(EU)も、コロンビア革命軍をテロ組織とする同様の判断を下した。

 キューバとベネズエラは、コロンビア革命軍はボリバル思想に基づき活動するゲリラ組織であると主張した。コロンビア革命軍は、1960年代初頭にボリバル的な思想を持つコロンビア共産党の武装勢力として誕生した。コロンビア、ペルー、ボリビア、ベネズエラ、エクアドルを含むボリバル共和国の構想を推進した。コロンビア革命軍の戦闘員の人数は約8〜9千人で、コロンビアのほぼ半分がコロンビア革命軍の支配下にあった時期もあった。コロンビアでは、政府軍、コロンビア革命軍、そして1997年4月にマルクス主義ゲリラと戦う国家と豪農(ガナデロス)が支援して構築した右翼過激派(パラミリタリオ)の3勢力が内戦した。革命軍と右翼過激派は相互に協力し一緒に、コロンビア政府軍と戦闘もあった。2016年11月24日にコロンビア政府とコロンビア革命軍は、改訂和平協定を締結して、11月30日にコロンビア議会は承認した。2017年6月27日に、コロンビア革命軍は、武装組織を解除して武器を国連に引き渡して、合法的な政党になった。少派閥は、2019年8月29日に旧来の武装集団に復帰した。