2022年6月26日日曜日

ロシア・ウクライナ戦争で、2022年6月9日に東部ドネツク人民共和国のカリニンスキーで、男性がウクライナ軍の砲撃により殺害された恋人の女性に慟哭して、救急隊員と捜査官が死亡した女性の死体を検死した。

ロシア・ウクライナ戦争にて、2022年6月9日にロシア軍が侵攻中に、ウクライナ東部ドネツク人民共和国の親ロシア政府支配下の領土にウクライナ軍の砲撃を受けた。州都ドネツクのカリニンスキー地区にて、男性が砲撃により死亡した恋人の死体に向かって慟哭した。その後に、ウクライナ東部のドネツク人民共和国政府の支配下にある州都ドネツクのカリニンスキー地区の救急隊員と捜査官が、死亡した彼の恋人の女性の死体を検死した。

 ドネツク人民共和国側は、6月9日にウクライナ軍側がドネツクのカリニンスキー地区を攻撃するために、5発の口径155ミリの弾丸で砲撃されたことを報告した。その弾丸は、アメリカがウクライナの首都キエフ政府に対して、口径155ミリの長距離榴弾砲(M-777)を供給した。ウクライナ軍は、この榴弾砲をドネツク人民共和国(DPR)の首都ドネツクを含む都市への砲撃に使用して、無差別に民間人を殺害して死者を出した。ウクライナ軍は、長距離榴弾砲でドネツク州東部の戦線を維持した。国連は、ロシアが2月24日に旧ソビエトの隣国のウクライナに侵攻して以来、ウクライナで約4,302人の民間人の死者と約5,217人の負傷者を6月9日に追認した。国際機関は、追認された民間人の死傷者のほとんどは、重砲や多連装ロケットシステム、ミサイル、空爆など、甚大な影響を広範囲に及ぼす爆発性兵器によると報告した。

 ドンバス地域を構成するドネツク州と東隣のルハンスク州は、ウクライナ軍支配下にある最後の主要都市は、反復する戦闘で砲撃を受けた。セベロドネツクの市街戦で、ロシアは産業地帯であるドンバス地域を完全に支配するために侵攻して、ウクライナ軍は東部の重要な都市から撤退しつつある。セベロドネスクはロシア軍に包囲されて、執拗な戦闘で廃墟となったマリウポルの再来になった。ウクライナ軍は1日に最大で100人から200人の兵士を損失した。プーチンは6月9日に、ロシアでピョートル大帝はロシアの近代化を進め、大国の地位に押し上げた偉大な指導者と大帝の偉業をたたえた。

































Warning: Paramedics and investigators checked the body of a woman killed by shelling in the Kalininsky district of Donetsk, on the territory which is under the Government of the Donetsk People's Republic control, eastern Ukraine, Thursday, June 9, 2022. (AP Photo/Alexei Alexandrov)

2022年6月25日土曜日

広島市第一国民学校の残存校舎に収容された多数の被爆者は、広島原子爆弾が炸裂して5日後の8月10日に救護されていた。

広島市第一国民学校は、被爆直後から残存校舎の講堂・工業教室が、一般被爆者の臨時救護所として、1945年10月上旬まで使用された。第一国民学校に収容された多数の被爆者が8月10日に収容されて救護されていた写真である。校庭の一部は、9月10日まで仮火葬場として使用された。臨時救護所は10月初旬に閉鎖した後に、10月中旬までに教室を整備して学校を開校して再開して、臨時の仮教室として、講堂・工業教室・西校舎を使用した。

 広島市第一国民学校(現・広島市段原中学校)は、爆心地から約2.6kmに位置していた。1945年8月6日午前8時15分に広島原子爆弾が投下され炸裂した直後に、第一国民学校の北側木造校舎は東側校庭に全壊した。西側校舎・東側校舎(コンクリート造)・講堂などは、窓枠と窓ガラスが全壊したが、倒壊には至らなかった。倒壊した校舎や周辺の住宅からの火災の引火はなかった。1941年に国民学校令が施行され小学校は国民学校になる。同年、広島市内の国民学校 約33校が救護組織と救急薬品を持つ救護所に指定された。

 第一国民学校は、原爆の炸裂時には職員約20人と学生約580人は校外に動員されていた。第一国民学校内には、学校管理2人、児童約6人、小使い1人のみが残存した。学外の教職員1人が即死、約9人が傷害であり、児童は約46人が即死、約50人が傷害、約2人が行方不明となった。学内では給食係の1人の女子生徒は倒壊した校舎下に死体が約1ケ月後に発見された。原子爆弾の炸裂時に、北校舎の倒壊して学内者は倒壊して一時的に校舎の下敷きになった。第一国民学校の原爆被災説明板は段原中学校正門横に建立されたが、2014年に広島市南区段原山崎の段原山崎第二公園に移設された。





2022年6月24日金曜日

イラク戦争でアメリカ軍の空爆により、頭部外傷で重態となり死亡したイラク人の5歳の次女シャハッドを、31歳の父親のアリ・サクバンは、病院で懸命に救護した。

イラク戦争にて、首都バグダットが2003年4月10日午前9時前にアメリカ軍が空爆した。空爆の犠牲で、重態となったイラク人の5歳の次女シャハッドを、31歳の父親のアリ・サクバンは、懸命に救護した。イラクの首都バグダットが空襲されて、空襲の死傷者が至るところに溢れた。バグダットにある病院で、幼いイラク人女の子の娘が出血して意識を失って、酸素吸入器を口に装着された。女の子の頭部には、巻かれた包帯が、血まみれになった。イラク人男性の父親は、幼い女の子の側で、小さな左手を握りしめながら励ました。男性の白いシャツは、娘から出血した血液を浴びて朱色に染まった。その他に、父親の右腕から右胸にも、シャハッドの頭部からの出血の血痕が広がった。その直後に、次女のシャハッドは死亡した。アメリカ軍による無差別の空襲によって、父親の他の2人の子どもたちは、死亡していた。

 アメリカ軍のジェット戦闘機からの3発の爆弾が、2003年4月10日午前9時前にサクバン家で炸裂した。3歳の三女のザイナブは、ガラスと壁の瓦礫に埋もれて即死した。次女のシャハッドは頭部から出血して倒れた。7歳の甥のライスは、内臓がえぐれて死亡した。父親のサクバン、妻で母親のロシャ、長女の7歳のゴフランは運良く生存した。父親のサクバンは、すぐにシャハッドとライスを抱えて、近所の友人の車で病院に搬送した。次女のシャハッドだけでなく、甥のライスも死亡した。父親は、2人の死体を見守って、やり場のない怒りと苦悩に激昂していた。

 バグダッドでは3月31日から昼間にアメリカ軍の爆撃が始まり、アメリカ軍地上部隊の進路を確保するための空爆が、バクダット市周辺の共和国防衛隊に集中的爆撃が加えられた。イラク政府施設への爆撃は、空港が占拠をした4月3日朝までにほぼ終了したが、イラク共和国軍部隊への攻撃は続いた。4月5日に、地上戦を支援するため、近接航空支援ミッションがバグダッド上空を飛行した。同日に、アメリカ軍はバスラにあるアリ・ハッサン・アルマジッド(通称「化学アリ」)の隠家とされる場所を空爆した。4月7日に、バグダッドにサダム・フセインと他のイラク人指導者を空爆した。4月9日に、バグダッドは陥落した。

 イラクでの空爆では、精密誘導兵器を使用したが、膨大な民間イラク人の死傷者が発生した。空爆による民間人死傷者の多くは、イラク軍の幹部指導者を標的としたアメリカ軍の攻撃中に発生した。衛星電波の地理座標に基づく攻撃目標は、精密誘導兵器を潜在的な無差別に攻撃にした。人口密集地域内対するクラスター爆弾が、精度は低く、民間人の死亡者数を増悪させた。空爆には依然として失敗があり、民間人の生命の喪失または他の民間人の犠牲に繋がった。 




2022年6月23日木曜日

ロシアの独立系新聞のドミトリー・ムラトフは、ノーベル平和賞のメダルが約1億350万ドルで落札され、ロシア・ウクライナ戦争によるウクライナの子供難民に全額を充てた。

ノーベル平和賞のメダルが競売にかけられ約1億350万ドル(約140億円)で落札された。ロシアの独立系新聞ノーバヤ・ロシアのガゼータ(Novaya Gazeta)のドミトリー・ムラトフ(Dmitry Muratov)編集長は、6月16日にロシアから脱国してから、2022年6月20日にアメリカのニューヨークの競売会場にて、売上金はロシア・ウクライナ戦争下にて、ウクライナ難民に充てるとし、市民の連盟により人道支援に対して金が支払う平和を強調した。ムラトフは、「一銭たりとも受け取らない。ウクライナの子どもらを支援するため、全額を国連児童基金(ユニセフ, UNICEF)に寄付する」と表明した。医療や教育など、幅広い分野で役立ててほしいと訴えた。6月20日は世界難民の日であり、2000年12月4日に、国連総会で毎年6月20日を 世界難民の日(World Refugee Day)と決議された。

 光り輝くノーベル平和賞のメダルの重さは175gで金は4.6gである。ムラトフは「私は、このメダルを今後、見ることはないだろうが、メダル売却によって生まれる収益で、救われる人たちの未来を目にしたい。世界難民の日は何より大事なのは、今も戦争が続いて、最も苦悩している市民を助ける必要があることだ」と述べた。既に、ムラトフは現金払いで約50万ドル(約6800万円)を寄付していた。

 ムラトフはロシアで表現の自由を守ったとして2021年に平和賞を、フィリピンのマリア・レッサと共同受賞した。ノバヤ・ガゼータは、1993年4月1日ソ連崩壊後に設立された。2000年以降に、アンナ・ポリトコフスカヤを含む同紙記者と協力者6人が暗殺された。ロシアのウクライナ侵攻直後の3月28日に事業を停止した。ロシア政府は、ウクライナにおけるロシアの行動を特別軍事作戦と呼称した。それを戦争と表現した者は、重い罰金か閉鎖に追い込まれた。4月7日にロシアの列車内で溶剤のアセトンを混ぜた赤いペンキで襲撃された。

 今後について「私は政治家ではなく、一般市民だ。市民にできることは、自由な報道をすることだ」と述べ、今後もロシアのプーチン政権からの圧力に屈せず、ジャーナリスト活動を続けていく考えを表明した(共同)。





2022年6月22日水曜日

1939年の日ソ停戦協定後に、ハルハ河・ノモンハンの戦場において、日本軍兵士が自軍の戦死者の死体を回収して、悲壮な死体処理と黙祷が撮影された。

1939年の停戦後に、ハルハ河・ノモンハンの戦場において、日本軍兵士が、戦死者の死体を回収して、悲惨な死体処理が撮影された。日本軍兵士の死体が、至るところの荒野や丘に散乱して横たわっていた。ハルハ河・ノモンハン戦争で生き残って、白いシャツを着て担架で運搬した。その後にトラックに積み込んかだ。日本軍兵士の戦死者の死体を素手で回収して、火葬して埋葬した。その後に荒野の埋葬地で、日本軍兵士は取り囲み黙祷した。

 ノモンハン事件と呼称されるハルハ河・ノモンハン戦争が、1939年5月11日から勃発した。日本・偽満州国軍が外モンゴル辺境地域のノモンハン・ブルド・オボー地域のモンゴル軍警備隊を5月11日に襲撃したのが起点となった。5月24日にソ連軍がモンゴルに参入して7月からソ連・モンゴル軍が結成された。日中戦争下において、外モンゴル人が武力によって日本満州軍の侵略に対抗した。ハルハ河・ノモンハンで砲火を焦がして、非常に厳しい戦闘が長期にわたり継続した。武力では優勢でなかったソ連・モンゴル連合軍が反撃した。モンゴルと満州の国境地域であるハルハ河東部で、日本満州軍を撃退した。1940年8月16日にモスクワで日ソ停戦協定が調印されて停戦した。

 日本防衛省史料室は、2013年2月に約2万点のハルハ河・ノモンハン戦争の関連資料を公開した。写真・映像資料は、軍の意図的なプロパガンダを容疑されるが、細部まで鮮明に撮影された写真・映像資料は視覚的な歴史記録であり、臨場感も高く真実に強く迫る。無声の映画資料「日本軍の遺骨,1939年」が、ドキュメンタリー映画「ハルハ河の英雄」の作成元となった。1939年の停戦後に、ハルハ河・ノモンハンの戦場において、日本軍兵士が、戦死者の死体を回収して、悲惨な死体処理が撮影された。日本軍兵士の死体が、至るところの荒野や丘に散乱して横たわっていた。ハルハ河・ノモンハン戦争で生き残って、白いシャツを着て担架で運搬した。その後にトラックに積み込んかだ。日本軍兵士の戦死者の死体を素手で回収して、火葬して埋葬した。その後に荒野の埋葬地で、日本軍兵士は取り囲み黙祷した。

 1939年5月から9月の激闘で、日満軍の戦死者は約18,155人、戦傷・行方不明は約3,534人に上った。ソ連軍は、戦死者は約9,703人、戦傷病者し15,952人に及んだ。モンゴル軍は、死傷者は約990人に上った。 1939年9月15日にハルハ河・ノモンハン戦争に対して、日ソ停戦協定が成立した。9月27日と9月29日、1940年4月27日に、日満軍とソ連モンゴル軍は、捕虜交換した。1941年4月13日に、モスクワで日ソ中立条約が締結された。





2022年6月21日火曜日

アメリカ軍の北爆により父親のレ・バン・ヒュンは被爆して重症となり、2人の息子は空襲で殺害され、長男の死体は横たわり、次男の死体は父親に抱えられた。

ベトナム戦争にて、アメリカ軍の空襲による北爆で、北ベトナムの首都ハノイの西約57kmにあるハイズオン市郊外のモイ村は廃墟に陥った。モイ村の住人であるレ・バン・ヒュンさんの住宅も崩壊した。北爆によって父親であるレ・バン・ヒュンさんは被爆して重症となって、2人の息子は空襲で殺害された。長男の死体は横たわり、次男の死体は、父親であるレ・バン・ヒュンさんが抱えて慟哭して悲嘆した。

 1964年8月にアメリカ軍はトンキン湾事件が勃発して、それを根拠にして8月から北ベトナムに対する軍事介入を開始した。それ以降に1973年1月まで隙間なく連続的に北ベトナムに空爆して炸裂した。連続爆撃、大量の爆弾の集中投下、奇襲、無差別攻撃をした。特に、病院、堤防、学校、住宅地域に対する北爆により、北ベトナムにおける死傷者数が急増して、北ベトナムの市民は恐怖に陥った。

 1965年2月7日にアメリカ軍事顧問団基地が解放戦線によって攻撃されて、アメリカ軍が北ベトナム領内に対する爆撃である北爆が本格的に勃発した。ローリング・サンダー作戦による北爆が、1965年3月2日から1968年11月2日までベトナム戦争への本格介入に踏み切った。アメリカ軍は、戦闘爆撃機が北爆を行って、地上軍も投入して共産主義勢力の一掃を目指して、ベトナム戦争は泥沼化し、日に日に疲弊した。1967年12月31日にアメリカ国防総省は北爆のローリングサンダー作戦中に、約864,000トンのアメリカ製爆弾が北ベトナムに投下されたと発表した。朝鮮戦争全体では約653,000トン、第二次世界大戦中の太平洋戦争では約503,000トンより膨大な北爆をした。

 CIAは北ベトナムに与えた損害は総額5億ドルに上り、非公開で犠牲者を推定した。1967年4月までに、作戦の結果として北ベトナムにて約2,1000人の死亡を含む約5,2000人の死傷者が発生したと推定した。死傷者の約75%は民間人を含む軍事または準軍事活動に関与したと推定した。1965年の死傷者の約45%は北ベトナムの民間人と後方支援従事者であり、1966年には約80%に上昇した。1967年6月には、北ベトナムで約13,000人から17,000人の民間人の死者を含む約19,000人から約26,000の北爆によって殺害された。1967年末には、約27,900人の軍人と約48,000人の民間人の死傷者と推定した。アメリカ政府は作戦によって合計約30,000人の民間人が殺害されたと推測した。

 アメリカ軍は、空軍506機、海軍397機、海兵隊19機が北ベトナム上空または付近で損失した。作戦中に、撃墜された約745人の乗員のうち、アメリカ空軍は約145人を救助するも、約255人が死亡して、約222人が捕獲されて(うち23人は拘束中に死亡)、約123人は行方不明となった。アメリカ海兵隊の死傷者数は非公開にされた。約44ヶ月の期間中に、約454人の海軍飛行士が北ベトナムとラオスでの複合作戦で死亡、捕獲、行方不明になった。北爆の作戦は、東南アジアにおける他のアメリカ軍の作戦と同様に、機能不全の餌食となった。




2022年6月20日月曜日

太平洋戦争の終戦を宣言した玉音放送同日に、宇垣纏は特攻隊員に決別の訓示をして、大分基地から自ら彗星に搭乗して沖縄方面に特攻をするために滑走した。 

太平洋戦争の終戦を宣言した玉音放送後の同日1945年8月15日に、自らの特攻死を直前に宇垣纏は特攻隊員に決別の訓示をして、大分基地から彗星に搭乗して沖縄方面に特攻をするために滑走した。 

 日本海軍司令官の宇垣纏(うがい まとめ)は、陣中日誌である『戦藻録(せんそうろく)ー大東亜戦争秘記』(The Diary of Admiral Matome Ugaki)を記載した。1941年10月16日から、最後の特攻攻撃にて1945年8月15日の戦死する直前までの陣中録である。1945年9月24日の真珠湾攻撃の図上演習後の特別討議にて、山本五十六の真珠湾攻撃の決行に向けて10月16日から、『戦藻録』を書き始めて、55歳で特攻死する終戦日まで書き続けらた。

 1945年8月15日の終戦の直前の8月14日深夜に、対ソ・対沖縄の積極的攻撃の中止を命令された。8月15日真夜に、8月10日まで第五航空艦隊長官であった宇垣纏は戦闘機・彗星5機に、沖縄方面のアメリカ艦隊を特攻を命じた。宇垣纏自身が、特攻する攻撃準備を命じた「七〇一空大分派遣隊は、艦爆五機を以って沖縄敵艦隊を攻撃すへし。本職これを直率す。— 第五航空艦隊司令長官 海軍中将 宇垣纏」の起案を発出した。8月15日正午に、大分基地にてラジオから無条件降伏する天皇陛下の玉音放送を拝聴した。「一六〇〇幕僚集合、別杯を待ちあり。之にて本戦藻録の頁を閉ず」と記して、『戦藻録』は閉じた。参謀に、「抱夢 征空」と遺墨を書き残した。 

 8月15日16時15分に、大分基地の飛行場に到着した。戦闘機・彗星5機から彗星11機と搭乗員22人の増機と増員が待機した。「命令を変更する。彗星艦爆十一機をもって、只今より沖縄の敵艦隊を攻撃する。」して宇垣纏は最後の特攻となる彗星に搭乗した。8月15日17時すぎに、各800kg爆弾を搭載した彗星11機と搭乗員23人が、大分基地から沖縄方面に出撃した。20時25分に宇垣纏より「ワレ奇襲ニ成功セリ ワレ突入ス」と入電し、次いで突入を意味する「ツー」という長符(突入電)が15秒ほど続いて、通信は途絶えた。宇垣纏を含めて18人が特攻死して、5人が彗星で生還した。玉音放送後の出撃で17人の部下を犠牲にしたと、停戦命令後の理由なき戦闘行為から、大本営と遺族からの非難も受けた。戦後しばらくは靖国神社は合祀しなかったが、宇垣纏は祭神として合祀され、太平洋戦争を聖戦として正当化した。戦藻録は、将来ナニガシカの戦争の為に必要とされると考へられた。
















2022年6月19日日曜日

ロシア・ウクライナ戦争が勃発した直後に、ウクライナの東部第2の都市であるハリコフ郊外の道路に、ロシア軍兵士と容疑された死体が破壊された戦車の側に横たっていた。

ロシア・ウクライナ戦争が勃発した2022年2月24日に、ウクライナの東部第2の都市であるハリコフ(ハリキウ)郊外の道路に、ロシア軍兵士と容疑された死体が破壊された戦車の側に横たっていた。その死体にはウクライナ軍の記章がなかった。ウクライナ軍との戦闘で殺害されて死亡したロシア軍兵士の死体であるとウクライナ軍は主張した。

 ロシア軍は、戦闘で死亡したロシア軍兵士の死体を回収していなかったと非難して、ウクライナ軍の防衛戦線には、侵略したロシア軍兵士の死体が、多数の死体が放置されて残存しているとロシア国民に対してメッセージを送った。ロシア軍が2月24日にウクライナに侵攻を開始して以来、3月19日までに戦闘で殺害されて死亡した約1万4000人のロシア人の画像を公開した。約1万4000人のロシア軍兵士の死体は、約1万4000人の母親、約1万4000人の父親、妻、子供、親戚、友人のものだとウクライナは主張して、ロシア国民に対して、近年、軍人の親族を失ったことに気づくように説得した。3月19日同日に、ウクライナ軍が、約562人のロシア軍兵士を捕虜に捕らえ、数人は自発的に武器を捨てて投降したと公表した。北大西洋条約機構(NATO)も、ウクライナでは約7000〜約1万5000人のロシア軍兵士が殺害されて戦士したと推定した。アメリカ国防省は、NATOの推定値に同意せず、最大で約7000人のロシア軍兵士が殺害されて死亡したと推定した。ロシア国防省は、2月27日に初めてロシア軍の兵士が死傷したを認めたが、具体的な数字は示唆しなかった。

 ロシア軍は2月24日から突如に北、南、東からウクライナに侵攻して、爆撃音が響く中で、多くのウクライナ人は避難を余儀なくされた。ロシア軍によるミサイルと砲撃がウクライナの各都市に降り注いで炸裂して、ウクライナ市民は地下鉄に避難して、約10万人が地下で一時的に避難生活を送った。プーチンはテレビ演説で、ウクライナ東部のドネツク共和国とルガンスク共和国を守るための攻撃と正当化した。クレムリンは先に、プーチンが2月21日に独立を承認した後に、2つの分離主義地域の指導者がキエフに対する軍事的支援をモスクワに要請した。分離主義者とウクライナ政府軍との間の紛争は2014年のクリミア併合以来長引き、両軍で既に約14,000人以上が殺害されて死亡した。











Warning: The body of a soldier, without insignia, who the Ukrainian military claim is a Russian army serviceman killed in fighting, lies on a road outside the city of Kharkiv, Ukraine, February 24, 2022 (REUTERS/Maksim Levin)


2022年6月18日土曜日

広島原子爆弾の爆心地から約3.7kmの広島市古田町高須の白壁に、高い放射能と泥成分を含む大粒の黒い雨の水滴が流れた跡が残存した。

広島原子爆弾の爆心地から約3.7kmの古田町高須の白壁に、黒い雨の水滴が流れた跡が残った。1945年8月6日午前8時15分に投下されて炸裂して、午前9時から午後4時にわたり、高い放射能を含む黒い雨の降雨を伴った。大粒の大雨が、約1時間から2時間ほど、泥成分を含んだ黒い雨が降雨した。黒い雨を浴びた被爆者は、第二次放射能障害を発症して、黒い雨が流れ込む川や池では、死んだ魚が白い腹を上にして、飲水した牛などは下痢等の原爆症を伴った。 

 原子爆弾の炸裂後に、巨大なきのこ雲が広島上空にたちのぼり、20~30分後から西向きの風にのって形をくずしながら北西部に流れた。その下の地域に黒い雨が降った。雨の中には、爆発のときにまきあげられた泥どろやチリ、火事のススなどのほかに放射性物質が含まれた。爆心地から遠く離れた地域の被爆者の中にも放射線障害が出現した。

 広島原子爆弾の影響による黒い雨は、降雨は爆撃の閃光後約20分から~1時間後に降り始めた黒い雨が多かったと日本学術会議調査団は報告した。その中には火災により発生した収斂性上昇気流に起因して黒い雨が、約2時間後に降り始めた地区もあった。黒い雨は、原子爆弾の炸裂による直接的な上昇気流による黒い雨と、原子爆弾の炸裂から起こった火災による間接的な作用に基く上昇気流が重なった。黒い雨の性状は非常に特殊で、最初は黒い泥分が多く粘り気を伴った。黒い雨は約1から2時間継続して、次第に黒色が薄れて遂に普通の白い雨となった。原子爆弾の炸裂直後から、黒い雨が降雨した土壌から、放射性物資が検出された。

 広島原爆戦災誌に、黒い雨が次のように記録された。「被爆当日は、終日、巨大な塔状の積乱雲が発達した。その黒雲は、爆発後約20分ないし約30分から、つぎつぎと北北西方へ移動していき、午前9時から午後4時ごろの間にわたって「黒い雨現象」を起した。驟雨(にわか雨)は、市中心部では軽く、西部(己斐・高須方面)と北部(可部方面)では土砂降りの豪雨となった。」

 広島原子爆弾により広島周辺に発生した激しい火災は、大量の灰を大気中に運んだ。灰は雲に種をまく効果があり、炸裂から約1から2時間後に黒い雨が降った。黒い雨には、灰、放射性降下物、水が混在して、ほとんどタール状の粘性をもった。黒い雨を素肌に受けた被爆者には、重度の放射線火傷が発生した。爆心地から遠く離れても、黒い雨の放射能被害を受けた建物の壁の一部である。雨は破損した屋根を通り抜けて、壁を伝い、漆喰のような黒い跡を残した(ORAU: Museum of Radiation and Radioactivit)。

 黒い雨は、原子爆弾の炸裂で、核分裂を伴うウランやプルトニウムの核分裂粒子から約200種類の放射性同位元素が発生した。原子爆弾の中性子により、大気中に大量に放出された。大量の放射性物質と暴風雨による熱と熱流が混在して、原子爆弾の炸裂後約30から40分で黒い雨の降雨に見舞われた。放射性降下物の粒子は、都市全体の火災から生じた炭素残渣と混在して、有害な黒い雨が降雨した。黒い雨は、粘り気があり、黒く、危険な放射能を含んだ水として地上に降り注いだ。皮膚や衣服、建物を汚しただけでなく、呼吸や汚染された食物・水の摂取によって摂取し、放射線障害を引き起こした。




2022年6月17日金曜日

オランダ軍により、征服されたインドネシアのアチェ・アラス地方のリカット村には、多数の虐殺されたアチェ人の死体が散乱した。

1904年に、オランダ軍のファン・ダーレン(Van Daalen)司令官が、アチェ地域のアラス地方を征服した。オランダ軍により、征服されたアチェ・アラス地方のリカット村には、多数の虐殺されたインドネシアのアチェ人の死体が散乱した。穀物倉と家の間に子供や女性の遺体が横たわった。ファン・ダーレンは、アチェ地方を征服するために、各地で残酷な虐殺を繰り返した。オランダ軍は、インドネシアを分断して、ジャワ人原住民を傭兵にして、アチェ地方を侵略した。1904年に、ファン・ダーレンはマレカウッセ旅団の増援を受けて、タノガヨ地域とアラス地域での紛争の打破を命じられた。その征服の遠征は、1904年2月8日に始まり、7月23日まで続いた。虐殺の犠牲者の数は、約2,992人で、その内訳は男性1,773人、女性1,149人であった。オランダ軍兵士の損失は約26人であり、ファン・ダーレンは昇進した。ファン・ダーレンは、反原住民的な占領、思慮も無く、先住民の拷問、密告者の殺害、政府と法律の違反など権力の乱用を繰り返した。

 オランダ人が、1596年に初めてコルネリス・ドゥ・ホウトマンの船舶が、インドネシアのバンテンに入国した。1602年から1799年に乱脈経営で倒産するまで、オランダの東インド会社が、インドネシアの植民地経営をした。その後に、オランダ政府が直接に、インドネシアを植民地化した。インドネシアの土着の支配勢力であったスマトラ最北端のアチェ戦争など、激烈な紛争が勃発した。オランダは、1900年代の初頭に欧米の近代兵器を駆使して、東チモールを除いたほぼインドネシア全域を征服した。

 1858年にオランダ軍が、インドネシアのシアック王国を保護領にして、中部スマトラから北部スマトラ地域を占領した。スマトラ北端のアチェ(Aceh)との対立が激化して、1873年に紛争が勃発した。長期間にわたる紛争が継続したが、1912年にアチェの全域が、オランダ軍に征服された。



2022年6月16日木曜日

日本軍の爆撃機に襲撃され死亡したオーストラリア軍兵士の死体は、担架に乗せられ埋葬されるのを待ってラエの浜辺に横たわった。

太平洋戦争にて、1943年9月4日にニューギニアのラエの海岸に上陸舟艇に乗り込んだオーストラリア軍兵士は、日本軍の爆撃機に襲撃されて死亡した。オーストラリア軍兵士の死体は、担架に乗せられて埋葬されるのを待って浜辺に横たわった。彼は数少ない致命的な戦死者の一人であった。日本軍戦闘機から投下されて炎上させた爆弾の爆発で、オーストラリア軍兵士は即死した。

 歩兵上陸舟艇(LCI339: 歩兵上陸用舟艇,Lading Craft Infantry)はニューギニアの海岸から約137mほど離れた場所に錨を下ろした。その右舷から接近した日本軍の爆撃機3機とゼロ戦闘機3機から不意に襲撃された。舟艇から攻撃を命じられたが、日本軍の戦闘機は同時に連続射撃した。LCI339は、艦首から艦尾まで穴だらけに射撃されて、乗り込んだオーストラリア軍兵員に大きな犠牲を受けた。日本軍の爆撃機が高度約457mから爆弾を放出して、左右に接近しながら爆弾は操舵室の前方に直撃して、甲板に大きな穴をあけた。LCI339は沈没状態になりながらも、海岸にたどり着いて歩兵上陸任務を遂行して、数日後に撃沈された。

 オーストラリア軍は9月4日、ニューギニアのラエの東海岸に上陸して、水陸両用上陸して、すぐさま浜辺を固めて、ラエへ進撃を開始した。ナザブ滑走路は9月5日に、アメリカ軍の空挺部隊が着陸して占領した。9月7日にオーストラリア軍を運ぶ最初の輸送船を受け入れた。ラエへの上陸進攻は9月11日に開始された。ラエへの挟撃は急速に侵攻して進み、オーストラリア豪によるラエへの競合して侵攻して、9月16日にラエに占領した。この作戦で日本軍約1,500人が死亡、2000人が捕虜となった。オーストラリア軍が進撃したが、約6,500人近くの日本軍兵士が脱出できた。オーストラリア軍は、約158人、ポートモレスビーでの航空機事故で約59人の死傷者を出した。ラエは占領後、連合国によって主要な基地として開発された。英連邦戦没者墓地には約2,359人のオーストラリア軍兵士が埋葬されて、約348人が行方不明者慰霊碑に祀られた。




2022年6月15日水曜日

ソビエト連邦のスターリン時代に、国家反逆者と判定された家族から子供たちは引き離されて、教育省の児童養護施設の収容所に収容された。

スターリン時代である1930年代の児童養護施設に収容された子供たちの写真である。スターリン時代に、子どもたちは国家反逆者と判定され家族から引き離されて、教育省の収容所に収容された。子どもの親たちは、ソビエト政権の敵とみなされ、逮捕、処刑、収容所に送りにされた。何百万人もの子供たちが親や家、兄弟姉妹の人間関係を失った。スターリン時代の孤児たちの親は祖国の裏切り者とされた。教師は、孤児たちに彼等の親が死のうが生きようが、子どもたちを糾弾した。スターリンの権力の座についた時代は、何百万から何千万人もの市民の虐待と虐殺の犠牲が頻発した時代であった。1917年からスターリンの死(1953年)までのソビエト連邦の最も冷酷な歴史となった。

 デイヴィッド・キング(David King)牧師が、スターリン時代のソ連の市民や孤児たちの日常生活を記録していた。革命下での市民の写真、ポスター、文書などを残した。スターリン時代の冷徹の支配は、高位の共産主義者だけでなく、収容所での数年間の生活や、共産党に対する犯罪で処刑で、市民を恐怖に陥れた。内戦に伴う飢饉、ヒトラーとの戦い、ナチスの侵攻など、犠牲を受けた人々の数は、まさに天文学的な数である。

 1930年代のソ連でスターリンに弾圧された両親の子どもたちは、のけ者にされ、孤児院に送られた。その収容所(Gulag)で生まれた者は、社会的に全く権利を消失した。1937年に、内務人民委員会(NKVD)長官であるニコライ・エジョフは、祖国への反逆者の妻子を弾圧する法律に署名した。祖国への反逆者の妻を、収容所で5年から8年の刑に命じた。1歳半から15歳までの子供たちは孤児院に送られた。逮捕された裏切り者の妻である約18,000人が刑務所や収容所に送られ、約25,000人以上の子供たちが孤児院に入れられた。

 悲惨な状況に耐えた児童は、過密な孤児院での食事が非常に悪く、ゴミ捨て場で食物を得た。病死する児童も多くいたが、教育者たちは体罰を加えた。反ソ連、テロリストの感情や行動を抑制するために、収容された子供たちを注意深く監視した。ソ連社会では、弾圧された子供たちや家族に心理的な圧力をかけた。高官の子供でさえ一夜に亡き者にされ、豪華なアパートから孤児院に移された。子どもたちを親族に引き渡すには、多くのお役所仕事を切り抜ける必要があり、多くの家族は時間的に間に合わず、身内に注目や疑念が集まることを恐れた。弾圧された子供たちは、収容所や矯正施設、特別体制の孤児院に収監された。

 収容所には何万人もの弾圧された子供たちが入り、普通の生活に戻ることができず、犯罪の裏社会に入り込んだ。祖国への裏切り者の家族に対する恐怖を伴った。収容所で生まれた子どもは、すぐに母親から引き離された。多くの強制労働収容所には、特別なバラックや孤児院があり、収容所で生まれた子供と、有罪判決を受けた母親と一緒にやってきた子供が収容された。彼らの生存は、収容所の置かれた気候、刑期、そして多くの場合、最も重要なのは収容所のスタッフ、教育者、看護師の態度にかかった。貧弱な保育のために、伝染病が頻繁に発生し、死亡率も高く、数年間で約10から50パーセントに及んだ。



2022年6月14日火曜日

朝鮮戦争にて、北朝鮮の咸興で、韓国憲兵隊は、井戸に捨てた政治犯65人の死体を北朝鮮軍兵士に取り出させた。咸興近郊で、北朝鮮軍が洞窟に不法監禁して窒息死させた約300人の死体を坑道から運び出した。

朝鮮戦争にて、咸興虐殺事件は1950年10月に、咸興で起きた北朝鮮軍による集団虐殺である。1950年10月19日に、北朝鮮の咸興(Hamhûng)で、北朝鮮軍により井戸に捨てられた政治犯65人の死体を取り出した。韓国軍憲兵隊(ROK)に見張られた捕虜の北朝鮮軍兵士たちが、井戸から多数の死体を取り出した。国連軍は、北朝鮮の咸興近郊で、1950年10月16日に北朝鮮軍が民間人を大虐殺した死体を発見した。坑道から約300人の死体が運び出された。300人余りの政治犯が洞窟に不法監禁されて窒死した。北朝鮮の中東部の咸興市にて、北朝鮮軍から反動とされた多くの朝鮮人市民は防空壕に収容されて、爆発されて虐殺されていた。

 朝鮮戦争にて、北朝鮮に占領されたソウルが1950年9月28日に解放された直後から、北朝鮮の不穏な残虐行為が発覚され始めた。北方に進軍する国連軍部隊は各地で残虐行為の証拠を発見した。北朝鮮は退却する前に、監獄に収容された政治犯や軍人を急いで虐殺した。ソウルの南約56kmにある楊柳の北朝鮮軍の殺人収容所で、子供を含む700人の朝鮮民間人が虐殺された。昆山近郊の忠孝で、竹槍や棍棒で武装した北朝鮮軍兵士が村の食糧を奪った後に、約82人の男性、女性、子供を突き刺して殺害した。

 大田(Taejŏn)の大虐殺では、北朝鮮軍が機関銃で殺戮する前に、まず自分らの墓を掘らせ縛り付けて射殺した。北朝鮮兵士と地元の左翼は、何千人もの民間人を無残に虐殺した。10月3日の務安郡での虐殺事件では、死刑を選択された家族が縛られて海岸に連れて、大人がナイフ、棍棒、竹槍、農具で殺され、海に投げ込まれた。10歳以下の子どもは、深い井戸に投げ込まれた。大田刑務所の虐殺は、朝鮮戦争最大の大量殺戮の一つであり、約5~7千人の民間人と兵士が虐殺された。大田刑務所の死体は、真っ黒で、ハエがたかって、民間人が無残に虐殺された。銃で撃たれ、鈍器で頭蓋骨を割られて殺害された。井戸の中は死体でいっぱいだった。共産党員の容疑者の7人を捕まえ、死体を並べる強制労働をさせた。死体は腐敗がひどく、抱き上げると、肉がすべり落ちた。裸では服の上から抱き上げれなかった。共産党員の囚人たちは、死体を扱より殺害を求め、牢屋に戻した。大田市役所から約300~400人を動員して、死体を片付けた。大田刑務所の裏山に穴を掘って埋葬した。約400から500もの死体は、大きな穴に集団で埋めた。 

 韓国の治安部隊は、捕虜を後方に護送する手間を省き虐殺した。韓国軍は一般市民を単に邪魔であり、捜索や反対尋問の手間を省き殺害した。1950年7月13日に、敵対関係の朝鮮戦争が勃発以来に、共産主義の容疑者約1200人が、韓国警察によって虐殺されたと報告された。朝鮮戦争初期には、北朝鮮も韓国も残虐行為を隠さなかった。残虐行為は、すべて北朝鮮軍の仕業でなかった。戦争法や戦争犯罪裁判は、一般的に適用され、すべての側に適用されてこそ、真の意味で法となり得る。アメリカ軍は当初から、何千人もの朝鮮人難民を対処するジレンマに直面した。北朝鮮軍兵士は、白木綿の農民服で変装し、難民に紛れ込んだ。アメリカ軍は何度も、田を耕す無邪気な髭面の朝鮮人農民を通り過ぎたが、夜明けの攻撃で手榴弾を投げる同じ朝鮮人に直面した。7月末に、敵対行為をした民間人を処刑すると韓国政府は発表した。北朝鮮軍は難民を利用して、7月26日に難民を南に強制的に追いやり、道を詰まらせたと宣告した。















 

2022年6月13日月曜日

南京郊外にて、近くを歩いた物売りが怪しいと、日本軍兵士が部隊の裏手へ強制連行した。直後に一発の銃声が聞こえ、現場では中国人農民が射され死体が横倒しとなった。

日中戦争から南京事件が1937年12月に勃発した。南京郊外にて、その近くを歩いていた物売りが怪しいと、日本軍兵士が、部隊の裏手へ強制連行した。その直後にズドンと一発の銃声が聞こえた。現場に行ってみると中国人農民が射されて、死体が横倒しとなった。南京郊外で罪のない中国人の農民が撃ち殺された。日中戦争の戦場の狂気が、人間を野獣にかえてしまう。 

 非公式の写真班であった村瀬守保は1937年7月に日本軍に召集された。輜重兵として天津、北京、上海、南京、徐州、漢口、山西省、ハルビンと、中国大陸を約2年半にわたり転戦した。カメラ2台を持って、関東軍の中隊全員の写真を撮影した。非公式の写真班として認知され約3,000枚の写真を撮影した。日中戦争下の日本軍兵士を、克明な写真記録は戦争の実態を百聞は一見にしかず伝達した。一方で、その写真集には南京虐殺の現場や慰安所など、侵略の真実も撮影された。村瀬守保『新版 私の従軍中国戦線一兵士が写した戦場の記録』日本機関紙センター, 1987年3月10日出版で戦争写真を公表した。文字や絵だけより、写真は確かな戦争の証拠であり、戦争写真の意義は大きい。

  南京事件は、中国人に対する集団虐殺が勃発した。満州事変以来、日本軍の中国における軍事行動には、尊厳や生命の保護とはかけ離れ中国人を蔑視した。日本軍が戦闘後に捕えた中国人兵士等は、国際法上の捕虜ではなく、反乱集団として組織的に虐殺した。包囲殲滅戦となった南京では、大部分の中国人兵士は士気を消失して敗走し、多くは投降兵・敗残兵・便衣兵(普段衣を着た兵士)の捕虜として捕えられて殺害された。捕虜として収容する前の戦闘中でも、武器を捨て無抵抗者を現場で殺害することは、人道に反する行為である。

 非戦闘員である一般市民の殺害は、戦闘の巻き添えではなく、日本軍兵士の故意的な軍事行動によって犠牲になった。上海派遣日本軍は上海での激戦で多くの損害を出して、中国人に対する蔑視と敵愾心が強く、一層の蛮行を伴った。食糧は全て徴発と称した略奪、徴発などの途中で女性の強姦、摘発した日本軍兵士が殺され、報復として部落全体を焼き払い、老人・子どもを含む市民を皆殺しにした残虐行為は、日本人、中国人双方の多くの証言がある。南京事件は、軍隊が平凡で優しい人間を異常な殺人鬼に変えてしまった。日本軍は南京で無差別に殺害する日本軍兵士を容認し、兵士たちは民間人を殺すために戸別訪問した。多くの人は殺害に夢中になり、完全に殺人になり、人を殺すことに喜びを感じた。

















2022年6月12日日曜日

ロシア・ウクライナ戦争にて、ドネツク州で殺害されたウクライナ軍人であった49歳のパンクラトフ・オレクサンドルの死体が、リヴィヴで葬儀が挙行された。

ロシア・ウクライナ戦争にて、ウクライナのドネツク州で殺害されたウクライナ軍人であった49歳のパンクラトフ・オレクサンドルの死体が、2022年5月14日土曜日にウクライナのリヴィヴで葬儀が挙行された。彼の棺の死体の周囲で女性の親族らが慟哭した。

 ロシア・ウクライナ戦争が2月24日に勃発してから、約3カ月経過するも、終結の見えない消耗戦の様相を呈した。2月24日にロシア軍がウクライナに侵攻したとき、ロシア軍は数日間から数週間のうちにウクライナを制圧すると想定した。戦争は約3カ月目に入っても、終わりが見えず、戦果も見込めず、消耗戦に陥った。ロシア軍はすぐに勝利することもなく、ウクライナの大部分を制圧できず、傀儡政権も樹立できていない。

 ロシア軍はキエフや他の大都市の郊外で、ウクライナの堅固な防衛で足止めを食らった。ロシア軍の輸送隊は輸送区間で立ち往生した。侵攻から1カ月余りで、ロシア軍は電撃作戦の転換して、キエフ近郊から軍を撤退させた。親ロシア分離派が2014年からウクライナ軍と戦闘したドンバス地域に焦点を移した。

 ロシアは2014年に併合したクリミア半島周辺の領土を大幅に奪取した。ウクライナをアゾフ海から完全に切り離して、マウリポリの巨大製鉄所に潜伏したウクライナ軍を包囲網の末に5月18日に陥落させて、重要港であるマリウポルを制圧した。ウクライナ東部での攻勢は、西側諸国の軍事資源等がウクライナの劣勢な軍隊が流入するも、同様に行き詰った。

 ロシア軍は、ドンバスのウクライナ側陣地を執拗に攻撃し、分離主義者との戦闘で築かれた防衛線を侵攻した。ウクライナ軍の抵抗に対して、その他の地域に、ロシア軍が西側の武器輸送、貯蔵所、重要なインフラを、巡航ミサイルや空爆で狙って、ウクライナの軍事力と経済力を弱体化を狙った。

 ウクライナと西側諸国の多くは、ドンバス地域に軍事資源を投入し、ロシアの5月9日の戦勝記念日に決定的な勝利を目指した。ロシア軍はウクライナ東部での大規模な侵略から、ウクライナ軍に対する包囲戦を着実に固めた。モスクワ指導部は軍司令部に、成果を強要して軍隊を送り続けた。ロシア軍の一部はドンバス地方にも再配備された。ドンバスの戦闘は、次第に砲撃戦から位置取りの戦いになり消耗戦に陥った。















Warning: Relatives react next to the body of Pankratov Oleksandr, 49, a Ukrainian military servicemen who was killed in Donetsk province, during his funeral in Liviv, Ukraine, Saturday, May 14,2022 (AP Photo/ Emilio Morenatti)