2022年6月13日月曜日

南京郊外にて、近くを歩いた物売りが怪しいと、日本軍兵士が部隊の裏手へ強制連行した。直後に一発の銃声が聞こえ、現場では中国人農民が射され死体が横倒しとなった。

日中戦争から南京事件が1937年12月に勃発した。南京郊外にて、その近くを歩いていた物売りが怪しいと、日本軍兵士が、部隊の裏手へ強制連行した。その直後にズドンと一発の銃声が聞こえた。現場に行ってみると中国人農民が射されて、死体が横倒しとなった。南京郊外で罪のない中国人の農民が撃ち殺された。日中戦争の戦場の狂気が、人間を野獣にかえてしまう。 

 非公式の写真班であった村瀬守保は1937年7月に日本軍に召集された。輜重兵として天津、北京、上海、南京、徐州、漢口、山西省、ハルビンと、中国大陸を約2年半にわたり転戦した。カメラ2台を持って、関東軍の中隊全員の写真を撮影した。非公式の写真班として認知され約3,000枚の写真を撮影した。日中戦争下の日本軍兵士を、克明な写真記録は戦争の実態を百聞は一見にしかず伝達した。一方で、その写真集には南京虐殺の現場や慰安所など、侵略の真実も撮影された。村瀬守保『新版 私の従軍中国戦線一兵士が写した戦場の記録』日本機関紙センター, 1987年3月10日出版で戦争写真を公表した。文字や絵だけより、写真は確かな戦争の証拠であり、戦争写真の意義は大きい。

  南京事件は、中国人に対する集団虐殺が勃発した。満州事変以来、日本軍の中国における軍事行動には、尊厳や生命の保護とはかけ離れ中国人を蔑視した。日本軍が戦闘後に捕えた中国人兵士等は、国際法上の捕虜ではなく、反乱集団として組織的に虐殺した。包囲殲滅戦となった南京では、大部分の中国人兵士は士気を消失して敗走し、多くは投降兵・敗残兵・便衣兵(普段衣を着た兵士)の捕虜として捕えられて殺害された。捕虜として収容する前の戦闘中でも、武器を捨て無抵抗者を現場で殺害することは、人道に反する行為である。

 非戦闘員である一般市民の殺害は、戦闘の巻き添えではなく、日本軍兵士の故意的な軍事行動によって犠牲になった。上海派遣日本軍は上海での激戦で多くの損害を出して、中国人に対する蔑視と敵愾心が強く、一層の蛮行を伴った。食糧は全て徴発と称した略奪、徴発などの途中で女性の強姦、摘発した日本軍兵士が殺され、報復として部落全体を焼き払い、老人・子どもを含む市民を皆殺しにした残虐行為は、日本人、中国人双方の多くの証言がある。南京事件は、軍隊が平凡で優しい人間を異常な殺人鬼に変えてしまった。日本軍は南京で無差別に殺害する日本軍兵士を容認し、兵士たちは民間人を殺すために戸別訪問した。多くの人は殺害に夢中になり、完全に殺人になり、人を殺すことに喜びを感じた。

















2022年6月12日日曜日

ロシア・ウクライナ戦争にて、ドネツク州で殺害されたウクライナ軍人であった49歳のパンクラトフ・オレクサンドルの死体が、リヴィヴで葬儀が挙行された。

ロシア・ウクライナ戦争にて、ウクライナのドネツク州で殺害されたウクライナ軍人であった49歳のパンクラトフ・オレクサンドルの死体が、2022年5月14日土曜日にウクライナのリヴィヴで葬儀が挙行された。彼の棺の死体の周囲で女性の親族らが慟哭した。

 ロシア・ウクライナ戦争が2月24日に勃発してから、約3カ月経過するも、終結の見えない消耗戦の様相を呈した。2月24日にロシア軍がウクライナに侵攻したとき、ロシア軍は数日間から数週間のうちにウクライナを制圧すると想定した。戦争は約3カ月目に入っても、終わりが見えず、戦果も見込めず、消耗戦に陥った。ロシア軍はすぐに勝利することもなく、ウクライナの大部分を制圧できず、傀儡政権も樹立できていない。

 ロシア軍はキエフや他の大都市の郊外で、ウクライナの堅固な防衛で足止めを食らった。ロシア軍の輸送隊は輸送区間で立ち往生した。侵攻から1カ月余りで、ロシア軍は電撃作戦の転換して、キエフ近郊から軍を撤退させた。親ロシア分離派が2014年からウクライナ軍と戦闘したドンバス地域に焦点を移した。

 ロシアは2014年に併合したクリミア半島周辺の領土を大幅に奪取した。ウクライナをアゾフ海から完全に切り離して、マウリポリの巨大製鉄所に潜伏したウクライナ軍を包囲網の末に5月18日に陥落させて、重要港であるマリウポルを制圧した。ウクライナ東部での攻勢は、西側諸国の軍事資源等がウクライナの劣勢な軍隊が流入するも、同様に行き詰った。

 ロシア軍は、ドンバスのウクライナ側陣地を執拗に攻撃し、分離主義者との戦闘で築かれた防衛線を侵攻した。ウクライナ軍の抵抗に対して、その他の地域に、ロシア軍が西側の武器輸送、貯蔵所、重要なインフラを、巡航ミサイルや空爆で狙って、ウクライナの軍事力と経済力を弱体化を狙った。

 ウクライナと西側諸国の多くは、ドンバス地域に軍事資源を投入し、ロシアの5月9日の戦勝記念日に決定的な勝利を目指した。ロシア軍はウクライナ東部での大規模な侵略から、ウクライナ軍に対する包囲戦を着実に固めた。モスクワ指導部は軍司令部に、成果を強要して軍隊を送り続けた。ロシア軍の一部はドンバス地方にも再配備された。ドンバスの戦闘は、次第に砲撃戦から位置取りの戦いになり消耗戦に陥った。















Warning: Relatives react next to the body of Pankratov Oleksandr, 49, a Ukrainian military servicemen who was killed in Donetsk province, during his funeral in Liviv, Ukraine, Saturday, May 14,2022 (AP Photo/ Emilio Morenatti) 

2022年6月11日土曜日

広島原子爆弾が炸裂した直後の熱線で、爆心地から約880mにある万代橋を渡っていた人と荷車の影がアスファルトに焼きついた。

広島原子爆弾の爆心地から南南東約880mにある元安川にかかる万代橋(よろずばし)が、原子爆弾から強烈な熱線を浴びた。1945年8月6日午前8時15分に広島原子爆弾が投下されて炸裂した直後の猛烈な熱線の閃光を浴びて、万代橋を渡っていた人と荷車などが焼失して、その影のみがアスファルト上に焼きついた記録写真が残存した。橋床にできた影から、歩く人影が想定された。長い足の影は床面におろして、片足をあげていた人影も想定された。万代橋上には、荷車をひく影や、リヤカーの影も残存した。リヤカーを引いていた人は、元安川に転落死した証言もある。広島原爆戦災誌には「橋床上に5人の通行者の影が残っていた。被爆直後は火が出て渡れない時もあったが、損傷は少なく通行できた」と記録された。さらに万代橋の床面のアスファルトには欄干の影が焼き付いていた。その柱の影は明瞭であり、柱と柱の間の鉄棒は、一番下の段が映っているだけで、二段目のものから上はボケていた。

 熱線で焼き付けられた欄干の影で、原爆爆発点の高さが算出された。欄干が吹き抜けで、万代橋自体は倒壊せず、熱線で焼き付けられた欄干の影などから、地上から上空の原爆爆発点までの距離(約580から約600 m)が算出された。1945年10月26日に、アメリカ軍調査団は、原子爆弾の熱線の方向を橋上で再現した。長い影はモンペでもはいて歩いていた女性の影、短い影は片足をあげた瞬間の姿と想定された。大手町と加古町(旧町名:水主町)を結ぶ重要な生活道路と交通の要として架橋された万代橋は、広島県庁が主水町に所在して、県庁橋とも呼ばれた。1878年に木造橋として架橋された。1916年に、ドイツ軍技師が架け変えた。アスファルトの上には、欄干の柱と一番下の鉄棒の影がはっきりと映った。影の落ち方から原子爆弾の爆発の方向を算出した。1981年12月28日に、広島市の大手町と加古町を結ぶ万代橋の架け替え工事が終結して、新橋の開通式が挙行さた。万代橋の名前を残して、広島原子爆弾に被爆した欄干に影が焼き付いていた旧橋の姿は消滅した。




2022年6月10日金曜日

満州事変が勃発した後に、満州の荒野にて、関東軍兵士が塹壕に潜伏していた中国軍兵士を軍刀一閃して、断頭して殺害した。

満州事変が1931年9月18日に勃発して、日本軍の関東軍が、中国東北部の満州を侵略した。満州の荒野にて、関東軍兵士が塹壕に潜伏していた中国軍兵士を軍刀一閃して、断頭して殺害した。中国軍兵士の頸部から壮絶な血煙が放出して死亡した。塹壕の周辺にも、中国人の死体が散乱した。戦争中の軍刀一閃の写真は、関東軍からその撮影の出来が称賛された。読売新聞社の藤沢特派員が、軍刀一閃の瞬間を撮影した。




2022年6月9日木曜日

第一次世界大戦の戦場にて、赤十字マークを付けたドイツ軍衛生兵は、平原に散乱して放置されたドイツ軍兵士の死体を見回りながらカバーを剥ぎ取って検死した。

第一次世界大戦の戦場にて、ドイツ軍兵士が殺害されて、死体が平原に散乱した。赤十字マークを付けたドイツ軍衛生兵は、放置されたままのドイツ軍兵士の死体を見回りながら、カバーを剥ぎ取って検死した。殺害されて放置されたドイツ軍兵士は、殺害された2日前に、連合軍の敵地で、英雄として家庭雑誌に掲載されていた。軍服を装着した英雄の得意満面の笑顔が掲載された。家庭雑誌に掲載されて2日後に、戦場で殺害された後には、死後の写真は掲載されずに全く無視された。1863年10月26日に、スイスのジュネーブに14カ国の政府代表が集まり、第1回ジュネーブ会議が開催された。その結果、「戦地における軍隊の傷病者の状態の改善に関するジュネーブ条約」が採択された。この条約で、傷病兵、医療・救急隊員、病院、輸送機関、発着所の中立のシンボルとして、白地に赤の正十字を掲げることが規定された。イスラム教徒には、白地に赤のイスラム教の三日月が採用された。

 人類史上初の最新兵器戦争である第一次世界大戦は、未曽有の大量殺傷をもたらした。機動戦、塹壕戦、異なる戦線での戦闘、感染症などによる死傷者の治療にて、医療機関は圧倒的な困難に直面した。第一次世界大戦では、数百万人の兵士を擁するハイテク軍団が、史上初めて対峙して戦闘した。相互の武器は、あらゆる戦線で未曾有の大虐殺を引き起こした。協商国側は、戦死者は約553万人、戦傷者は約1,283万人、行方不明者は約412万人で、同盟国側は戦死者は約439万人、戦傷者は約839万人、行方不明者は約363万人に達した。ドイツ軍側だけでも、約200万人の兵士が死亡し、約420万人が負傷し、約2000万人以上がその他の病気に苦悩した。

 第一次世界大戦の当初の戦争は移動戦を伴って、医療部隊は戦闘に従軍した。やがて恐怖の塹壕戦となり、医療部隊は継続的な感染症に直面した。敵陣からの機銃掃射で、死体の回収や土葬も困難で、膨大の負傷兵士は無人の地で苦しみながら死亡した。医療部隊の目的は、前方の施設から早急に死傷者を排除し、患者を受け入れ、継続的に機動戦に参戦して追従されることであった。歩行が可能となると、直ちに戦線に送り返した。戦場で処置を受けた後に、負傷者だけを救護所に運んだ。不潔で壊滅的な敗血症創に繋がり、手榴弾による傷の露出、洗浄、広範なドレナージ法で対応した。

 第一次世界大戦は、世界の軍事医学に大きな影響を与えた。戦争が現代の医学知識の基礎となる劇的な進歩をもたらした。圧倒的な数の死負傷者が発生して、さまざまな階層で段階的な治療が求められ、迅速で信頼性の高い輸送システムが設置された。最も多くの負傷者に医療を施して、多くの負傷者を前線に復帰させた。北大西洋条約機構(NATO)の軍隊区分は、このシステムから派生した。患者の治療を改善する科学的評価は、第一次世界大戦中に生まれ、創傷治療の進歩が出現した。



2022年6月8日水曜日

イギリス軍の爆撃に巻き込まれ、バスラで殺害された13歳のイラク人少年の死体を埋葬した墓の上で、チャドルの服装をしたイスラム教徒の母親が、息子の死亡を嘆き慟哭した。

イラク戦争にて、イラク南部の都市バスラにてイラク軍兵士が、アメリカ軍と多国籍軍に戦闘した。イラク軍と戦闘した地域の周囲一帯に、イギリス軍が爆撃した。イギリス軍の爆撃に巻き込まれて、13歳のイラク人の子供が殺害された。殺害された少年の死体を埋葬した墓の上で、チャドルの服装をしたイスラム教徒の母親が、墓の上で息子の死亡を嘆き慟哭した。イスラム教の聖典コーランでは、「女性は、両手と顔以外の美しい部分を隠せ」と記載されている。

 イラク戦争のバスラの戦いは、2003年3月21日に勃発して、イギリス軍がバスラ市内の中心部に侵攻した4月6日に終結した。3月23日までに、バスラ市外の空き地でわずか約3日間の戦車戦の後に、バスラの周辺地域はイギリス軍に包囲された。約3週間に、バスラ郊外で待機していたイギリス軍は、約3週間後の2003年4月6日ついにバスラを占領した。イギリス軍は、バスラの人口密集地内でイラク軍と交戦した。もしイギリス軍がバスラ市外に留まれば、民間イラク人とイラク軍兵士の両方の命は救われていた。イギリス軍は、主にバスラの人口密集地から軍事目標に砲撃と空爆をして、クラスター爆弾など爆発兵器が使用された。

 イギリス軍はバスラの戦闘中に 約9,153発の最大級の155mm砲弾を発射した。高性能の砲弾でも、射程が長く、広範囲に拡散するため、人口密集地では、砲弾が目標に届かず、大きく外れて、住宅や産業地帯に着弾して、民間人を無差別に巻き添えの犠牲が発生した。バスラ市内に残存したイラク軍は、戦車や武装車両を3月27日にバスラ市外に出撃させて迫撃砲した。イラク戦争開始後約1カ月間の空襲で、約29,199発の弾薬が投下された。より大型の武器が使用されて、多くの市民の命が失われた。2003年3月20日から4月9日の間にバスラで連合軍によって、最低約448〜593人の民間人が殺害され、少なくとも約1000人のイラク人が負傷した。アメリカ軍とイギリス軍は、イラク戦争の初期に、空と地上からクラスター弾を発射した。クラスター弾には、広範囲を無差別に殺害する小型の爆薬が含まれた。2008年からクラスター爆弾禁止条約が発行された。日本は2009年・イギリスは2010年に批准して、アメリカ・ロシア・中国等は未だに批准していない。




2022年6月7日火曜日

パルク海峡で操業していた100人以上のタミル人の漁民が、シンハラ人のスリランカ海軍によって虐殺された。

スリランカ内戦が1983年7月23日から本格的に勃発した。パルク海峡で操業していたタミル人の漁民が、シンハラ人のスリランカ海軍によって虐殺された。スリランカ軍の治安部隊またはタミール人の抵抗勢力の内戦に巻き込まれて虐殺された約100人以上のタミル人漁民の死体が散乱した。1987年2月6日にスリランカ軍治安部隊は、ジャフナ半島への侵攻を開始した。約5,000人部隊がジャングルを捜索する一方で、タミル人のゲリラがインドへの侵入を防ぐため、砲艦が海岸を警備して、空爆でタミール人の居住地を破壊した。1987年までに約15万人以上のタミル人難民が、スリランカ軍の残虐行為でスリランカで発生した。スリランカ内戦はさらに流血を招き、暴力的になり、大規模な虐殺が頻発した。

 スリランカ政府は、タミル人の反乱を鎮圧するために、インドに軍事的支援を求めて、1987年7月29日の協定した。インド政府はインド平和維持軍(IPKF)を創設して、タミール人を鎮圧する軍事作戦に参戦した。インド海軍は、8月から主要なゲリラ集団であるタミル・イーラム解放の虎(LTTE)に対して、島周辺の海域を掃討した。1988年2月には、さらに約1万5千人のインド軍部隊がスリランカに派遣されて総勢約7万人となった。インドのスリランカへの平和維持軍は、大きな犠牲を伴って、タミル人の北部拠点のジャフナへの攻撃して以来に、インド軍兵士の死者は約600〜700人、負傷者は1,000人以上に上った。1988年6月にインドはIPKFの撤収を開始し、第一陣として約8,000人もの兵力が撤収した。タミル人は大幅に弱体化するも、依然として過激派であり、タミルナドゥには、ゲリラ幹部が残存した。長年にタミル人は、ゲリラを武装化した。

 スリランカ(旧セイロン)は、1948年にイギリスから独立し、仏教徒のシンハラ人とヒンドゥー教徒のタミル人の間で民族的反感が高まった。狭い島国に、約1,100万人のシンハラ人、約300万人のタミル人、約150万人のイスラム教徒が局在した。タミル人は主に北部に住み、中央部や東海岸に局在した。1983年から、両民族間で公然の衝突と暴力が勃発した。スリランカ軍は完全にシンハラ人に支配され、多くのタミル人はゲリラ集団を組織した。1990年にインド軍の撤退後も、スリランカ内戦は、停戦合意した後に6回の和平交渉が行われ、散発的なテロや政府要人暗殺が発生して、2005年に再び戦闘が激化した。スリランカ政府軍はLTTEに徐々に攻勢を強めて、北・東部のLTTE拠点を次々と奪回した。2009年5月19日に、LTTEのプラバーカラン議長が戦闘で死亡して、スリランカ政府は内戦の終結を宣言した。約26年間に及んだ内戦による死傷者は約7万人以上に達して、約28万人ものタミル人国内難民が発生した。




2022年6月6日月曜日

タラワの戦いで日本軍の木造建て便所を背景に、日本軍が殺害したアメリカ軍兵士の多数の死体が、ベティオ島の海岸に散乱した。

太平洋戦争のタラワの戦いにて、アメリカ軍は上陸日(1943年11月20日 D)と翌日(1943年11月23日 D+1)にかけて、タラワの戦いの損害の約50%を伴った。日本軍の木造建ての便所を背景にして、日本軍により殺害されたアメリカ軍兵士の多数の死体が、タラワ環礁のベティオ島の海岸に散乱した。生き残ったアメリカ軍兵士がその死体を一つ一つ検死して回った。ベティオ島は、汚く、破壊され、悪臭を放つ戦場となり、死体の残骸はきれいに整理され処理された。アメリカ軍の死体には可能な限り手を尽くしたが、日本軍の死体は放置された。

 アメリカ軍のタワラの戦いにおける最終的な死者は、死亡が兵士約997人と水兵が約30人、行方不明は約88人と推定された。負傷者は、兵士約2,233人と水兵約59人が負傷した。総死傷者数は約3,407に及び、その犠牲はタラワの戦いのアメリカ軍の犠牲者はわずか約76時間で発生した。。タラワ島の戦いの死傷者の著しい高い比率は戦闘の激しさを反映した。攻撃に参戦したアメリカ軍兵士全体の死傷者の割合は約19%にも達した。水際から丸太のバリケードの根元まで、死亡し負傷したアメリカ軍兵士で埋め尽くされた。

 タラワの戦いは、最も厳しい面積あたりの人命の損失の代償を払った。D+1の約5分間で、アメリカ軍兵士約100人が水中で銃殺された。岩礁が露出して援軍の上陸を妨げた。ベティオ島の海岸から約457mほど離れた地点で、ボートは岩礁に座礁し、アメリカ軍兵士はやむなくボートを降りて海岸に向かって歩き始めた。水中で機関銃と対艦砲火を受けて、約35%以上の死傷者を出した。海岸の右半分に到達したが、日本軍の砲火が激しく、海岸の西側に浅い足場しか構築できなかった。岩礁や岩礁と海岸の間で大混乱に陥ったアメリカ軍は散乱して、混成され、日本軍の機銃掃射を受け、周辺の樹木から狙撃を受け、深刻な統制の崩壊が起こった。アメリカ軍の細い隊列が内陸に押し寄せると、殺害されて、負傷して、アメリカ軍兵士が脱落し始めた。

 日本軍兵士は、ほとんど最後の一人まで玉砕して、約4,713人が死ぬことを選んだ。アメリカ軍の戦車に磁気地雷を設置するという自殺行為に走った。アメリカ軍が防空壕の頂上を制圧したアメリカ軍に対して、日本軍は防空壕を奪回する悲惨な反撃に出た。突撃する日本軍兵士には、火炎放射器で迎え撃って、焼死傷者を出した。防空壕から避難をした日本軍兵士は、機関銃や砲撃、小銃の射撃、手榴弾で撲滅された。塹壕の入り口を土砂で完全に覆って、日本軍兵士を生き埋めにした。日本軍の建物が炎上して、爆破され、塹壕が一掃され、陣地が制圧され地域で、約100人の日本軍兵士が自殺した。残存した約300人の日本軍兵士は11月23日午前4時に最も激しい、最終的なバンザイ攻撃をして絶滅した。




2022年6月5日日曜日

ウクライナ南部のミコライフで、ロシア軍の侵攻で殺害された17歳のセルゲイ・ダニル新兵の死体が、並列された死体安置所から埋葬のために柩に入れて移送された。

ロシア・ウクライナ戦争にて、ウクライナ軍は、南部のミコライフ(Mykolaiv)でロシア軍の侵攻を防御した。2022年3月21日に、ウクライナ南部のミコライフで、ロシア軍の侵攻で殺害された17歳の弟のセルゲイ・ダニル(Sergey・Danil)新兵の死体が、死体安置所から埋葬のために柩に入れて移送された。死体安置所で兄のセルゲイは、約1カ月間のロシア・ウクライナ戦争により、家族や友人に膨大な犠牲を受けた。17歳の弟のダニルは、地元ニコライフの領土防衛隊に入隊した。18歳の誕生日を2日後に控えて、ロシア軍との銃撃戦で殺害された。兄のセルゲイは、近所の2家族と一緒に死体安置所まで、一緒に死体を引き取りに来た。「母にどうやって死んだ息子の弟を渡せばいいのか全く分からない」と嘆き悲しんだ。










Warning: The body of 17-year-old Danil is moved from the morgue in Mykolaiv, Ukraine, on March 21. (Photos by Salwan Georges/The Washington Post)


 その他の多数のウクライナ軍兵士の死体は、埋葬されるまでミコライフ市内の死体安置所の一角に並列された。死体は死体安置所の床上に列状に並べられた。ほとんどの死体は、軍服を装着して、ぐちゃぐちゃに損傷していた。手足がない死体もあった。死体を検死しても誰が死んでいるのか把握するのは困難であった。


Warning: The bodies of Ukrainian soldiers are stored in a room at the city's morgue.(Photos by Salwan Georges/The Washington Post)

 ニコライフは、ウクライナ軍が戦略的に重要な黒海の港であるオデッサへのロシア軍の攻勢を防御した戦場であった。その防御戦により、ウクライナ軍兵士の死体が積み上げられ続けた。ミコライフに対して、ロシア軍のミサイルがウクライナ軍の兵舎を襲撃して、数十人が死亡した。特にウクライナ軍新兵が、寝泊まりしている兵舎が爆撃された。ミコライフ街中の青と黄の旗は半旗に下げられた。死体安置所には、運搬車両のバンで次々に死体が運ばれてきた。一部の死体には、ピクニック用の毛布にくるめて運ばれいた。

 ロシア・ウクライナ戦争が膠着状態に陥っても、ロシア軍はウクライナの都市を爆撃、空爆し続けて、都市部は荒廃して、民間人は無差別に巻き込まれて殺害された。ウクライナ軍がロシアの攻撃者に損害を与えても、反撃を行っても、ロシア軍の都市部への無差別の爆撃は継続した。

2022年6月4日土曜日

1971年6月に、広島市内で被爆した国泰寺中学の教師の森井一幸の5歳の次男の森井昭夫が、原爆二世として白血病が発症して、広島大学附属病院にて重態に陥った。

1971年6月に、広島市内で被爆した国泰寺中学の教師の森井一幸の5歳の次男の森井昭夫が、原爆二世として白血病が発症して、広島大学附属病院にて重態に陥った。新聞に白血病に対する輸血用の血液を求める記事が掲載された。1945年8月6日に広島市内に原子爆弾が投下されてから、約25年経過しても、夏の8月6日が近づくと毎年に原爆症の記事が掲載された。父親の森井一幸は、爆心地から約1.5kmの広島県立師範学校内で被爆した。終戦後も健康で教師を勤めて、結婚して長男と次男の森井昭夫が誕生した。

 面会謝絶(担当医)されるも、病室にて父親の森井一幸に、新聞の白血病の献血の記事を紹介した。次男の森井昭夫さんが、父親の手を握ってしきりに憤っていた。うつむいたままの父親は、しばらく考えた上で、記者に次男の森井昭夫さんの撮影を許諾した。病室の隅でうずくまって、看病疲れで憔悴しきった母親が拒絶した。父親が慟哭した母親を制して、みなさんにも写真の紹介を認可した。次男が生死の間際に追い込まれていた。次男は、「怖い、怖い、パパ、お家に帰る、お家に帰ろうよ」と泣き始めた。父親がなだめるも、「嘘だ、嘘だ」と次男の昭夫は大声で泣き叫んだ。

 次男の昭夫は原爆症により急性白血病を発症した。広島大学附属病院に入院して、一日に何本も看護婦からら注射されていた。看護婦が入るたびに、痛みを恐れて怯えて泣き出して、暴れる次男を両親が抑え込んだ。寝ている間も、ずっと両親の手を握っていた。親は不憫となり、病院の治療を諦めて在宅死も相談していた。眼底出血を止血するために、右目にガーゼの眼帯を装着していた。閉じた左目には涙が溜まっていた。カメラのシャターを切るたびに、目を覚ませていた。ベッド上の次男の昭夫の身体は、皮下出血して青白く腫脹して、青黒い紫斑の末期症状を伴っていた。輸血瓶から点滴する血液が、静脈に突き刺した太い注射針から流れ込んだ。白血球は約1,200で約七分一に減少して、赤血球は約二分一まで減少した。献血で集めた血液を毎日約800cc輸血した。1971年6月過ぎてまもなく白血病で病死した。

 原爆二世は、原爆症だけでなく、結婚・就職・差別など社会的な不利を招いていた。広島と長崎の原爆二世は、約17万人が結婚適齢期を迎えて、被爆三世も誕生している。文部省も、原爆二世は出生当時から虚弱児であり、成長後も障害を訴えている。第五福竜丸や水爆実験で1957年に施行された原爆医療法は、原爆症の認定者はわずか約4,200人であった。原爆二世は被爆者ではなく、森井昭夫は原爆医療法の適用から除外された。


2022年6月3日金曜日

ドイツ軍兵士は、ソ連軍とのクルクスの戦いにて、オルロフ市周辺で吹き飛ばされて殺害された仲間兵士の死体の側で、頭を抱えて絶望して落胆して座り込んだ。

ナチス・ドイツ軍兵士は、1943年夏に第二次世界大戦の東部戦線にてクルスクの戦いで、自らの大砲が破壊された。ソ連のクルクス地方のオルロフ市周辺で、吹き飛ばされて殺害された仲間のドイツ軍兵士の死体の側で、頭を抱えて絶望して落胆して座り込んだ。クルクスの戦いにおける犠牲は、ソ連の赤軍の損失は、赤軍はクルスク防衛作戦(7月5日から23日)で、約177,847人を損失して、そのうち約70,330人が死亡または行方不明となった。赤軍部隊は1,614両から推定で2,000両近くもの戦車を失った。砲弾のうち、約3,929個が破壊された。ドイツ軍の110個師団のうち、3分の1はソ連軍の反攻で弱体化し、ドイツ軍兵士の損失は、約49,000人から54,182人と推定された。特にドイツ軍のパンツァー師団はより大きな被害を受け、1943年12月に東部戦線にあった約3000台の戦車のうち、わずかに300台だけが残存した。

 クルスクの戦い(1943年7月5日から8月23日)は、第二次世界大戦の最大の戦車戦となり、ロシア西部のクルスク市周辺のソビエト軍の防衛地域に、ドイツ軍が侵攻したが攻略に失敗した。この平原の戦場は、ソ連軍の陣地が南北に約240km伸びて、ドイツ軍の陣地の西方に約160km突出した。ドイツ軍は東部戦線で、南北両方から突出部への奇襲して、突出部のバルジ内のソ連軍を包囲して侵攻した。ドイツ軍兵士は約78万人、戦車は約2928台を有した機動装甲師団であった。ソ連軍兵士は1,910,361人と戦車は約5,128台を有した。事前に塹壕内の陣地から主力は撤退した。ドイツ軍は7月5日に攻撃を再開したが、ソ連軍が設置した深い対戦車防御と地雷原に遭遇した。ドイツ軍は北側で約16km、南側で約48kmわずかに侵攻するのに、甚大な兵士と戦車を損失した。7月12日の戦闘の最中に、ソビエト軍はドイツ軍に反撃を開始して、著しく優勢になった。ソビエト軍は8月5日には近郊のオレル(現オリョール)を、8月23日にはハリコフ(現ロシア・ウクライナ戦争のハリコフ)を奪還する大攻勢を展開した。東部戦線のドイツ軍の攻撃力は決定的に低下して、1944年から45年にソ連軍の大攻勢の道を開いた。

 クルスクの南方約50kmの地点で、第二次世界大戦最大の戦車戦が繰り広げられた。ドイツ軍は7月12日に、約1,500両の戦車でクルスクを侵攻した。赤軍の戦車部隊に大きな損失を与えたが、ドイツ軍はクルスクまで進撃できなかった。約2週間で、ドイツ軍はクルスク岬の南側の出発地点まで押し戻された。スターリングラードの攻防戦の再来を回避するため、ヒトラーに停滞を認めさせた。ドイツ軍は撤退中に、パルチザンの絶え間ない攻撃を受けて、何マイルもの鉄道路線を破壊し、ドイツ軍の後方に大規模な混乱を引き起こした。ソビエト軍はドイツ軍の退却に乗じて、ウクライナのハリコフ市を占領した。この都市の解放は、通常クルスクの戦いが終結した。

 





2022年6月2日木曜日

アスクの虐殺は、ナチス・ドイツ武装親衛隊により、第二次世界大戦中1944年4月1日にフランスのアスク村で村民86人が虐殺された。

アスクの虐殺は、第二次世界大戦中に、1944年4月1日にフランスの人口約3,500人のアスク村で武装親衛隊(Waffen-SS)により、アスクの虐殺が勃発した。1944年4月1日の夜、アスク駅近郊のドイツ軍の輸送隊が襲撃された。その鉄道に対する破壊工作の報復として、アスク住民の約86人が銃殺され、約11人が負傷した。アスクの虐殺は、フランス地域全体に大きな影響を与えて、ドイツ占領下に対する敵意を強めた。虐殺の後に、リールには約6万人の抗議者が集結して、ドイツ軍のフランス占領下で、最大のフランス人デモの一つとなった。アスク村では、4月5日の葬儀には少なくとも約2万人もの参列者が集まったと推定された。

 アスクの虐殺は、ナチス・ドイツ武装親衛隊により、第二次世界大戦中の1944年4月1日にフランスのアスク村で村民86人が虐殺された。装甲師団のヒトラー青少年団は、1944年3月末からブリュセルからノルマンディーに向けて鉄道で出発した。4月1日午後10時44分に、その列車がアスク駅に差し掛かった地点で、フランス人レジスタンスによる爆発で、線路が吹き飛ばされて2両が脱線した。装甲車が転倒して若干の損傷を受けたが、死傷者はなかった。

 直ちにナチス武装親衛隊は、午後11時10分から午前12時頃までに、線路の両側の家々の男性全員を捜索し逮捕して虐殺した。その虐殺の結果、約70人が線路の脇で、約16人が村の中で射殺された。武装親衛隊が踏切の両側を通り、ドアを壊して無差別に男女を連行して、多くの住民が殴られ、介入した神父や牧師も含めて、約10人がアスク村で射殺された。約15歳から75歳までの70人が、鉄道沿線の武装親衛隊に次々と強制連行されて、機関銃で銃殺され、最後は頭にも弾丸が撃ち込まれた。4月2日午前1時15分に、アスク村の郵便局で何度も助けを求めたリール警察隊が介入し、虐殺は止んだ。

 ナチス・ドイツのゲシュタポの捜査で、爆弾事件の犯人としてさらに6人が逮捕され虐殺された。第二次世界大戦が終結した後に、リールのフランス軍法会議で、親衛隊幹部を裁判にかけた。8人に死刑を宣告されたが、後に恩赦を受けて禁固刑に減刑された。最後の囚人となったヴァルター・ハウクは、1957年7月に釈放された。ハウクは、1945年5月にもレスコヴィツェでも大虐殺を引き起こした。



2022年6月1日水曜日

フランス南部ヴェルコール広原の戦いで、1944年7月27日にドイツ軍は農民ゲリラ集団マキの病院が潜伏したルイル洞窟に侵入して、負傷者も医療スタッフも銃殺した。

第二次世界大戦のフランス人によるレジスタンスの温床であった南部のヴェルコール(Vercors)広原の戦いで、ドイツ軍はレジスタンスを最も残酷に弾圧した。1944年7月27日にヴェルコールで、ドイツ軍兵士は捕獲された地下組織のゲリラ戦士を射殺して、市民も虐待と虐殺した。7月27日には、ドイツ軍はマキ病院と化していたルイル洞窟に侵入して、負傷者を殺害して、医療スタッフも銃殺した。その後のドイツ軍兵士の捕虜から戦争犯罪の写真が発見された。ヴェルコール広原の戦いは7月21日から8月5日まで勃発して、ドイツ軍は約65人が死亡し、約133人が負傷して、約18人が行方不明となり、フランス人の農民集団であるマキは、約639人が殺害された。その多くは逃げ遅れた負傷者と看護のために残っていた医療班であった。

 連合軍は1944年6月6日のノルマンディー侵攻後に、約4,000人のマキの軍隊の指導部が、7月7日にヴェルコール自由共和国を独立宣言した。ドイツ軍が、7月21日からレジスタンスの拠点があるヴェルコール高原に、迅速かつ強硬な無差別の攻撃をした。7月23日には、ヴェルコール高原を侵略から掃討して、マキ集団は解散して逃走した。レジスタンス兵士を追跡し、隠れ家を破壊して、7月25日に農場で約16人が虐殺され、8月14日にはグルノーブルでヴェルコールの若者20人が処刑された。ヴェルコールで戦ったドイツ軍の多くは、オストレギオン(東部軍団)、赤軍捕虜、主にロシア人とウクライナ人が、1942年と1943年に捕虜になって、ナチス・ドイツ親衛隊に参加した。ドイツ軍は東部戦線で甚大な損失を出して、それを補うためにオストレギオネン戦員を強制投入した。

 マキ(Maquis)は、第二次世界大戦中のナチスによるフランス占領下で、フランスのレジスタンスの農村ゲリラ集団である。当初は、ドイツの強制労働を行うヴィシー・フランスによる強制労働奉仕への徴兵を避けて、山や森に逃れた労働者階級の若者で構成されて、次第に活発な抵抗勢力と組織化された。ドイツ軍は1944年3月にはマキに対してゲリラ掃討を開始して、レジスタンス活動が特に活発な地域に過激な報復を行った。1944年8月15日、連合軍は南フランスのプロヴァンス地中海沿岸に上陸した。マキのレジスタンス戦闘員と直ちにドイツ軍を追放した。グルノーブルは8月21日に解放され、ドロームは8月末に、リヨンは9月3日に解放されました。1945年3月に、連合軍はライン川を渡り、5月7日と8日に、ナチス・ドイツは無条件に降伏した。





2022年5月31日火曜日

太平洋戦争のニューギニア島の戦いにて、日本軍兵士はアメリカ軍が敷設した地雷原に命中して爆破されて殺害された。

太平洋戦争のニューギニア島の戦いにて、日本軍兵士はアメリカ軍が敷設した地雷原に命中して爆破されて殺害された。日本軍兵士は、戦場に迷い込んでほふく前進して抜け出そうとした。日本軍兵士は抜け出せる数メートル直前で、地雷が接触して爆破されて無惨な死体に化した。

 対人地雷は、人間を戦傷させる兵器となり、悪魔の兵器と呼称される。兵士と民間人も、敵と味方も区別なく、誰でも家畜も殺傷する。一度敷設された地雷は、長期に渡わる脅威を保持して、戦争の対人地雷が脅威を与える。地雷の目的は人々に障害を負わせ、手足などを吹き飛ばし障害を負わせる武器である。軍隊は、兵士を殺すだけでなく、外傷をさせる地雷は有効な戦略手段となった。長期にわたり人的・経済的負担を課して、敵対勢力を消耗させた。

 対人地雷は、1861年から1985年のアメリカの南北戦争から本格的に使用された。その後、第1次世界大戦、第2次世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争の大規模な戦争から、国外内の紛争で使用された。多くの場所で、地雷は無差別に使われ、市民を標的にして、市民を脅威にさらし、市民を支配する、市民を阻害する、市民を苦しめ、混乱させるために地雷を使用された。

 地雷は地球上各地で使用され、特にカンボジア、アフガニスタン、ボスニア、チェチェン、コロンビア、モザンビークなどは、特に地雷で悲惨な被害を受けた。その他に、チリ、エジプト、エチオピア、インド、イラク、イスラエル、韓国、コソボ、ラオス、ニカラグア、セネガル、タジキスタンなど約88カ以上の国と地域が今でも地雷問題を抱えてい。死亡した兵士の死体は置き去りにされ、地雷で負傷した兵士は放置できず連れ帰る手間を負わせた。長期にわたり人的・経済的負担を課して、敵対勢力を消耗させた。対人地雷で手足を吹き飛ばされる精神的ショックを与えた(地雷廃絶日本キャンペーン(JCBL)・カンボジア地雷撤去キャンペーン(CMC)参照)。

 地雷廃絶国際キャンペーン(ICBL:International Campaign to Ban Landmines)や対人地雷全面禁止に賛同諸国により,対人地雷禁止条約が提唱された。カナダ政府が1996年10月にオタワで開催した国際会議で、対人地雷禁止条約(オタワ条約,正式名称は「対人地雷の使用,貯蔵,生産及び移譲の禁止並びに廃棄に関する条約」)は,1997年12月のオタワで署名されてノーベル平和賞に繋がった。1999年3月1日に国際条約が発効して、2017年9月末に104か国が締結した。アメリカ、ロシア、中華人民共和国、イスラエル、インド、パキスタンなどの約33カ国は拒否している。




2022年5月30日月曜日

カウフボイレン・イルゼー安楽死施設の子供病棟のあるシスター・ヴェルレ看護師が、4歳のリチャード・ジェンヌを致命的な注射で1945年5月29日13時10分に最後に殺害した。

第二次世界大戦の終結後の1945年5月29日に、ミュンヘン近郊のカウフボイレン・イルゼー(Kaufbeuren-Irsee)安楽死施設の子供病棟の主任看護師であるシスター・ヴェルレ(Sister Wörle)が、4歳のリチャード・ジェンヌを致命的な注射で13時10分に殺害した。安楽死施設で虐殺された最後の心身障害児となった。

  1876年に開設されたカウフボイレン・イルゼー療養所は、心身障害者(児)の治療のための重要な医療施設であった。第一次世界大戦中は、戦争神経症による重度障害兵士のための軍事病院となった。1929年に、戦争神経症治療の専門家である医師ヴァレンティン・ファルトルハウザー(Valentin Faltlhauser)が、カウフボイレン所長に就任した。彼は優生学運動の提唱者であり、安楽死を一部の患者の善の措置と信じた。彼は、ナチスの安楽死計画であるアクティオン(Action)T-4の強力な支持者となった。1939-40年に、彼は全精神科施設をT-4登録プログラムに参加させる委員会委員になった。ドイツの精神科施設にいる精神科の患者を用紙に記入し、ベルリンに送付させた。T-4の医師は、患者をどの患者が生きるに値しない、無駄飯食いと判定した。患者は、療養所の職員に監視された後に、グラフェネック(Grafeneck)やハルトハイム(Hartheim)などの毒ガス処刑施設に特別バスで輸送された。

 カウフボイレン・イルゼーは、ドイツ各地から安楽死施設に送られる患者の選別地点となった。1941年8月に、アドルフ・ヒトラー自身は、戦時中にドイツ国民を疎外しないために、毒ガス処刑計画を中止するように命じた。しかし、その1年後に、カウフボイレン・イルゼーで殺人が再開された。ファルトルハウザー自身は、部下が拒否した場合に、致死注射を執行した。飢餓も患者の殺害方法となった。餓死させる患者には、脂肪分やビタミンを含まない食事を与えた。1942年11月末に、飢餓食(E-Kost)がドイツの全安楽死施設で導入された。1945年4月にアメリカがシュヴァービアの占領から数ヵ月後まで、カウフボイレン・イルゼーでは注射と飢餓による殺戮が1945年7月2日まで続けられた。安楽死施設のドアに貼られたチフスの警告を見て、退避したアメリカ軍がカウフボイレンに入ったのは7月2日となった。その時までの殺戮作戦の記録はすべて破棄された。ファルトルハウザーと看護婦達は、殺人幇助の罪で逮捕され、裁判にかけられた。看護婦達は12ヶ月から21ヶ月の禁固刑に処された。ファルトハウザーは3年間収監されて釈放され後に、医師免許を剥奪されたのみで終結された。

 安楽死計画は、劣等でアーリア人種の健康を脅かすと判断した特定の集団に対するナチス政権初の大量殺人作戦であった。ベルリンの本部住所(Tiergarten 4)からT4作戦と呼称された安楽死作戦は、ナチスが生きるに値しない生命(lebensunwertes Leben)とみなした心身障害者(児)を対象とした。安楽死による殺人は、1939年8月に障害のある乳幼児の殺害から始まった。総統府長官フィリップ・ブーラーとヒトラーの専属医師カール・ブラントが指揮をとり、医師、看護師、助産師が障害者と認めた子供たちを選別して、約20以上の病院に設けた特別小児病棟に移送した安楽死計画であった。医療従事者が致死量の薬物投与や飢餓状態にして、少なくとも約5,000人もの子どもを虐殺した。後に年長の障害児にも拡大された。安楽死の次の段階は、ドイツ帝国施設に入所した身体障害者の殺害であった。T4の技術者は、膨大な対象者に対応するために、障害者をガス室で殺害し、死体を火葬場で焼却する殺人センターを設置した。1940年にブランデンブルク、グラーフェネック、ハルトハイム、ゾンネンシュタイン、ベルンブルク、ハダマールの6つの殺人施設が設立された。教会や司法当局からの抗議で、ヒトラーは1941年8月にガス処刑を中止させた。しかし、安楽死計画は終了しないで、障害児の殺害は絶え間なく続けられた。1942年8月からは、致死量の過剰投与と飢餓による成人障害者の殺害が再開された。野生の安楽死と呼ばれ、戦争末期まで続けられた。T4作戦を主導したカール・ブラントは、1946年12月9日からのニュールンベルク裁判で死刑と裁定されて、1948年6月2日に絞首刑に処された。T4作戦によって、少なくとも20万人の障害者の命が奪われた。