2022年3月12日土曜日

2002年8月22日に高濃縮ウラン約45kgの核兵器用ウランが、旧ユーゴスラビアのビチャ核科学研究所からロシアの国立原子力研究所に搬送された。

2002年8月22日午前1時すぎに、高濃縮ウランを搭載した輸送大型トラックが、旧ユーゴスラビアのセルビア・モンテネグロのベオグラードの高速道路上を、東方のロシアに向けて突っ走った。高速道路は、警官や特殊武装部隊が全面封鎖して、高濃縮ウランの運送を警備した。高濃縮ウランを載せた輸送トラックは、ヘリコプターならびに護衛の警備車に先導された。約45kgもの核兵器用ウランをユーゴスラビアの旧式の原子炉からロシアに搬送された。ユーゴスラビア軍に護衛されて、ベオグラードから約15km離れたビチャ核化学研究所から、秘密裏にベオグラード国際空港に搬送された。 



 



約45kgの核兵器用ウランで、濃縮度は約80%で少なくとも広島原子爆弾2個が製造できる。1999年にコソボ紛争が勃発して、ベオグラードはNATOにより空爆を受けていた。ビチャ核化学研究所は、1948年に設立されて核兵器開発が1987年で頓挫した。1970年代にロシアから購入した高濃縮ウランが、老朽化したビチャ核化学研究所に無防備で放置された。未使用の高濃縮ウランは、国際原子力機関(IAEA)が監査していた。旧ソ連下の濃縮ウランが管理が曖昧となり、拡散する危険性が高まった。

 2002年8月22日午前8時に、ベオグラード国際飛行場から、ロシア軍の輸送機でロシア中部のディミトログラード市に空輸された。ロシアのディミトログラード市にある巨大な核関連施設であるロシア国立原子力研究所に、運搬された。高濃縮ウランはIAEAとアメリカ側が立ち会って移管された。8基もの実験用原子炉があり、旧ソ連では核兵器の開発にも関与して、プラトニウムや高濃縮ウランを保管している。




 










  








 アメリカは、9.11テロ事件以後2002年からテロ攻撃に対して、核兵器の先制攻撃も提唱した。アメリカは、モスクワのロシア原子力省もと水面下で交渉している。旧ソ連から独立した東ヨーロッパ諸国には、旧ソ連製の高濃縮ウランが拡散して放置されている。ウクライナ・ベラルーシ・ウズベキスタンに残存した高濃度ウランは、自国の防衛のために核兵器を製造できるように核物質の保存を継続している。9.11テロ事件やチェチェンテロ事件から、核テロリズムにより核物質の拡散を防止するために、アメリカは1990年代から世界に分布した核物質を回収していた。高濃縮ウランから低濃縮ウランに転換した。アメリカは、核大国であるロシアに対しても、核の不拡散を求めた。

2022年3月11日金曜日

コソボ自治州のブリズレンの病院に、1999年4月14日にNATOの空爆による誤爆により、虐殺されたアルバニア人の死体が収容された。

コソボ自治州のブリズレンの病院には、1999年4月14日にNATO(北大西洋条約機構)の空爆による誤爆により、虐殺された犠牲者の死体が収容された。その死体置き場(モルグ)の床には、6つの死体が白い袋に包まていた。死後硬直を来した死体の中から、黒い血液が大量に滲み出ていた。射殺ではなくて、空襲の誤爆による爆死であった。最も小さい白袋は、血まみれのわずか7歳の少女の死体を包み込んだ。虐殺された少女は、アルバニア人の難民であった。セルビアにて難民となり、NATOの誤爆に巻き込まれて虐殺された。

 コソボからマケドニア、アルバニア国境を越えて、セルビアまで逃げて来たアルバニア難民は、セルビアにて猛烈な虐待や虐殺を受けた。そのアルバニア人に対する虐待と虐殺が、NATOの空爆を強烈にして、アルバニア人難民が誤爆に巻き込まれて逆に虐待と虐殺された。アメリカ軍は、高速で飛ぶ戦闘機が、爆撃する誤爆は避けられないので、多数を救うためには、少数を犠牲にするのは当然とした。イギリス軍は、コソボ紛争で巻き込まれる市民の犠牲は、すべてユーゴの責任に転嫁した。ブリズレン地域は、NATOは確実に軍事目標と民間目標の鑑別は、当然に可能な天候と見晴らしであった。NATOの戦闘機は、3台の民間耕作機を軍事目標として爆撃した。ブレズレン地域は、至る所にミサイルの瓦礫が散乱していた。

 NATOによるコソヴォ紛争に対するユーゴスラビア空爆は、1999年3月24日から開始されて、6月20日まで約78日間にもわたり勃発した。NATOの空爆には、13ケ国が参戦して、約26,614個が投下された。NATOは国連の明確な指導を受けずに、ユーゴスラビアの弱小軍事力を圧倒した。ハイテクの爆撃機で空爆して、NATOはほとんど犠牲者は皆無であった。コソヴォで多数を占めるアルバニア人に対して、セルビア民族主義のユーゴスラビアから抑圧と弾圧された。1998年2月から、ユーゴスラビア軍とセルビア軍が、コソヴォに侵攻して、次第に紛争が激化した。9月23日に国連の安保理決議は、ロシアにより拒否された。

 NATOは9月24日に警告行動を発令し、コソヴォでアルバニア人の虐殺事件でユーゴスラビアに警告した。ロシアと中国の安保理決議の拒否権の発動に対抗して、10月13日にNATOは行動命令を発令した。コソヴォ紛争が再燃して、1999年1月15日にラチャク村虐殺事件が勃発した。3月19日にユーゴスラビアとアルバニアの和平協議が頓挫した。NATOは、国連は武力行使は支持しない声明を排除して、3月23日に空爆の開始命令を発令して、3月24日からNATO空爆が勃発した。

 NATOは1995年に軍事力によりボスニアを迅速に圧倒できた過信から、コソヴォ紛争に対する空爆が長期化する誤算を引き起こした。ユーゴスラビア側は、和平案を拒否続けた。逆にユーゴスラビアが、アルバニア人国外追放で反撃した。NATOの圧倒的な軍事力が、逆にセルビア人の大量虐殺に至った。軍事力による勝利で解決する戦争ではなくなった。NATOは勢力を東方拡大するために、バルカン全体の領土の確保を追求した。




2022年3月10日木曜日

ビルマのラングーン中央刑務所にて、大東亜戦争のカラゴン(Kalagong)事件の大量虐殺に対するBC戦犯の判決により、元日本軍将校の3人が銃殺刑による死刑を執行された。

1946年7月15日午前6時半ころに、ビルマのラングーン中央刑務所にて、カラゴン(Kalagong)事件に対するBC戦犯の判決により、元日本軍将校の3人が銃殺刑による死刑を執行された。1945年7月7日に、ビルマ東南部モールメン地方のカラゴン村で、女性と子供を含む約637人もの村民が大量虐殺された。カラゴン村の人口は約900人から1千人程度で、全員に尋問を行うも、ゲリラ容疑者を絞ることもなく、女性や子供も含めて大量虐殺した。ビルマにおける最大の民間人の大量虐殺事件として、イギリス軍によりBC級戦犯の裁判にかけられた。カラゴン事件では、6人の憲兵隊員が被告となり、実際の大量虐殺を執行した3人に有罪判決が下って銃殺された。

 大東亜戦争末期にて1945年7月7日に、日本軍第3大隊と憲兵隊がビルマ(現ミャンマー)のカラゴンの村民を大量虐殺した。日本軍と憲兵隊は、カラゴン村民は、イギリス軍の空挺部隊のゲリラとして掃討を命じられた。日本軍はカラゴン村を占拠して、村民を集めて、男性をモスクに、女性と子供を集会所に閉じ込めて、拷問と虐待を繰り返した。家屋を放火して、女性を拉致して、女性に強姦した。憲兵隊は、村人全員を虐殺するように命じられた。7月8日に村民を5人から10人のグループに分けられて、目隠して紐で結ばれた。近くの井戸に連行されて、銃剣で刺殺されて、井戸に死体が捨てられた。その死体は、約600〜1,000人と推定された。日本軍は一度はカラゴン村を離れたが、7月11日に再びカラゴン村に戻り、家屋に放火して約10人の女性を強制連行した。

 日本が降伏した後に、1946年3月12日から4月10日まで、イギリス・ラングーン軍事裁判所で、日本軍8人と憲兵隊6人の計14人が、カラゴン村の男女・子供の虐殺と、村民を虐待と拷問し、9人女性の誘拐を、BC戦犯の戦争犯罪として裁判にかけた。日本軍第3大隊の関係者は、大隊長が絞首刑、実際の処刑にあたった3中隊の隊長3名が銃殺刑を執行された。カラゴン事件の大量虐殺は、軍事的必要や上官の命令への絶対服従は、正当化さないと裁定された。




2022年3月9日水曜日

アメリカ軍が1991年2月13日にイラク首都バクダッドの西部アミーリア地区の民間人の防空壕を爆撃して、女性や子供の民間人約408人以上を大量虐殺した。

湾岸戦争にて1991年1月17日から、多国籍軍は砂漠の嵐作戦でイラクに爆撃を勃発した。アメリカ軍が1991年2月13日午前4時30分にイラク首都バクダッドの西部アミーリア地区の民間人の防空壕(Amiriyah shelter, No.25)を爆撃した。主に女性や子供の民間イラク人を少なくとも408人以上を大量虐殺した。煙が消えると、イラクの救助隊員が数百人の死んだ民間人を防空壕から連れ出した。防空壕では、約269人の女性と、多くのパレスチナ人、シリア人、エジプト人を含む、合計約408人が大量虐殺された。その後の数日間、事件はイラクのサダム・フセイン大統領のクウェートに対する軍事的支配を弱めたと国民的議論を煽った。アメリカ軍は、爆撃直後に民間人の防空壕は軍事通信施設であったと公表した。アメリカ軍は1991年1月17日にイラクに対する空爆が勃発していた。最初の爆弾が、厚さ約3mもの鉄筋コンクリートを引き裂いた。2発目が引き裂いた穴を追加して、地下防空壕で炸裂した。

 民間人の防空壕内で、大量に虐殺された民間人の女性と子供の死体が、地表に運び出されて散乱していた。ほとんどの死体は、見分けもつかないほど崩壊して、真っ黒に焼き焦げていた。猛烈な高熱を伴った死体から、周囲には悪臭が充満した。防空壕からは、焼き焦げた遺骨が散乱した。アメリカ軍による誘導ミサイルにより、ステルス戦闘機から約910kgもの爆弾の2発が民間人の防空壕を直撃して、内部は焼きただれた。爆弾は、屋上から突入して、空襲から逃れる地下のシェルターまで貫通した。民間シェルターは、スウェーデンの請負業者により設計された。スウェーデンは軍事施設の設計を請け負わない。通信施設の痕跡もなかった。核攻撃に対する耐久性は皆無である。民間人のイラク人女性と子供を無差別に巻き込んで大量虐殺した。爆撃の前後には、イラク軍は使用せず、民間人の防空壕であった。

1949年8月12日のジュネーブ諸条約の追加議定書で、国際的な武力紛争の犠牲者の保護に関するもの(第1議定書)が、1977年6月8日に追加された。
   第52条 市民対象の一般的保護 1. 市民を、攻撃の対象又は報復の対象としてはならない。市民の対象物とは、軍事目標でないすべての対象物をいう。2. 攻撃は、軍事目標に厳格に限定しなければならない。目標に関する限り、軍事目標は、その性質、位置、目的又は使用により軍事行動に効果的に寄与し、且つ、その全部又は一部の破壊、捕獲又は無力化がその時の状況において 確実に軍事上の利益をもたらす物品に限らなければならない。3. 礼拝所、家屋その他の住居又は学校等の通常文民的目的に供される物件が、軍事行動に効果的に寄与するために使用されているかどうか疑わしい場合には、そのように使用されていないものと推定しなければならない。
















2022年3月8日火曜日

太平洋戦争の硫黄島の戦いで1945年2月17日に、アメリカ軍兵士が船艇上にて爆死して、吹き飛ばされた死体が甲板上で積み上げた空薬莢の残骸の中に横たわった。

太平洋戦争の硫黄島の戦いで1945年2月17日に、アメリカ軍の上陸用歩兵船艇(LCI(L)-449)は、水中解体隊の遊泳支援として援護射撃中に、硫黄島の日本軍からの激しい反撃で大きく損傷して制御不能に陥った。アメリカ軍の12隻の砲艦は、フロッグマンにより魚雷を破壊する活動を後方支援した。船艇の脆弱な船体に、日本軍の砲撃が炸裂して爆発した。アメリカ軍兵士が船艇上にて爆死して、吹き飛ばされた死体が甲板上の空薬莢の残骸の中に横たわった。積み上げられた空の薬莢に死体を預けていた。死体の周囲には、砲艦から砲撃するたびに、次々と空薬莢が排出されて、砲艦の内部に溜まっていた。うねる煙の下で、血と死の銅臭が漂った。

 砲艦にて弾薬が爆破して、アメリカ軍兵士の身体が吹き飛ばされた。アメリカ軍兵士の死体が、砲艦の至る所に転がって散在して血の海となった。甲板から炎上して、爆発して殺害された死体が燃え上がり崩壊して見分けがつかなかった。吹き飛ばされてはしごに逆さまにぶら下がっていた。ヘルメットと頭部も吹き飛ばされて、身体はその場に転倒していた。甲板上では、致命傷を追った負傷者の叫び声が響き渡った。上肢が吹き飛ばされて、上腕がぶら下がっていた。血と血糊があちこちに飛び散った。惨状を後始末するのに、死傷者を見下ろすアメリカ軍兵士たちでいっぱいだった。機雷層から数人が乗船して、死者と負傷者の除去を手伝った。デッキにホースで水をかけ、血や人の形をしたものを取り除いた。

 アメリカ軍は、硫黄島の戦いの上陸日に先立って、フロッグマンが水中で破壊工作をした。その後方援護にて、砲艦からロケット砲弾を硫黄島に向けて射撃していた。硫黄島の日本軍からの砲弾が、アメリカ軍の船艇(LCI(L)-449)を直撃して崩壊して、アメリカ軍兵士約20人が死亡して、約21人が負傷した。硫黄島に上陸後した2月16日から3月26日までの硫黄島の戦いで、約6,800人の死者を含む約26,000人のアメリカ軍兵士の犠牲者と、捕虜の生存者216人を除く約22,000人の戦死者を日本軍は犠牲者を出した。




2022年3月7日月曜日

レバノンでサブラとシャティラの大虐殺事件が勃発して、避難して来た義足の老人が虐殺されて、路地のくぼみに転落して絶命した。

ベイルートの難民キャンプで、1982年9月16日午後6時頃から9月18日午前8時頃まで、サブラとシャティラの大虐殺事件が勃発した。避難して来た義足の老人が、虐殺された。老人の杖は離して、路地のくぼみに転落して絶命した。大虐殺は9月16日夜にシャティーラキャンプの西端を南北に走るサブラ通りで勃発した。午前5時頃に、10数人の民兵がある家に侵入して、家族を外に引き出した。夫や弟、甥をある家の前の壁に並べて、自動小銃を掃射した。虐殺されて崩れ落ちたところを、ナイフやバルタの手斧を持った民兵が襲い掛かって、とどめを刺した。惨劇は、通りに出たところに、父親と妹の死体などが散乱した。サブラ通りは死体で埋まった。腹を切り裂かれた女性の死体もあり、女性も子供も無差別に虐殺されれた。死体の多くはひどく切断され、若い男性は去勢され、一部は頭皮を剥がされ、一部はキリスト教の十字架が体に刻まれた。路地の壁に喉が裂けた子供たち、胃を切り刻まれた妊婦、目を大きく開いた黒ずんだ死体、投げ込まれた無数の赤ちゃんや幼児ゴミの山が散乱した。

 サブラとシャティラの大虐殺は、レバノン・ベイルートのサブラ地区と隣接するシャティラ難民キャンプで、キリスト教徒派を主体とするレバノン右翼政党のカタエブ党(別名ファランジュ)に近い民兵により、1982年9月16日午後6時頃から9月18日午前8時頃まで、広範な大量虐殺が勃発した。パレスチナ人およびレバノン・シーア派市民の約762〜約3,500人が大量虐殺された事件である。イスラエル国防軍(IDF)がキャンプを包囲している間に、民兵による広範囲な虐殺が行われた。民兵は、イスラエル国防軍による西ベイルートへの作戦の一環として、サブラ・シャティラからパレスチナ解放機構(PLO)の戦闘員を排除するように命じらた。PLOが弾薬を豊富に蓄えている無数の地下壕には武装集団が約200人ほどいると誇張した。大量虐殺が執行される中、IDFは残虐行為の報告を受けたが、虐殺を防止・停止する行動も取らなかった。大虐殺事件でのイスラエル軍の関与を検証する「カハン委員会」報告書(1983年2月)は、イスラエル軍に虐殺の間接的な責任があるとした。右派民兵をキャンプに入れ、虐殺が起こっている報告が出ていたのに、制止する措置をとらなかったとして、シャロンは国防相辞任に追い込まれた。イスラエル軍もシャロンも、虐殺の直接的な責任を問われていない。

 イスラエル兵がファランギストの民兵を退去させると、数百人が死んでいた。レバノン警察の発表では約460人、イスラエル情報局の推計では約700-800人が殺害されたと推定した。レバノン側の公表によると、死者には約35人の女性と子供が含まれた。残りは男性である。パレスチナ人、レバノン人、パキスタン人、イラン人、シリア人、アルジェリア人なども含まれた。レバノン軍の主任検事の調査では、死者約460人(うち女性約15人、子供約12人)を数え、イスラエル情報局は死者を約700-約800人と推定し、パレスチナ赤新月社は死者約2,000人と主張した。





2022年3月6日日曜日

ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボのマルカレ市場の爆発で、殺害された人々の死体がコソボ病院の死体置き場に並べられた。

1994年2月4日にボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボのマルカレ市場の爆発に巻き込まれて、殺害された人々の死体がコソボ病院の死体置き場に並べられた。事件を聞いて病院にかけつけた親族が、自分の身内の死体を探索した。家族の死体を見つけた人々は絶叫した。首都サラエボのコソボ病院に、1994年2月4日にセルビアにおける市場に砲弾が被弾した。砲弾によるサラエボ市民の大量の死傷者が、トラックや自動車でコソボ病院に搬入された。コソボ病院だけで、死者は約80人と負傷者は約197人以上にも達した。

 マルカレ市場砲撃は、1992年4月から1995年12月までのサラエボ包囲戦で行われた最大の残虐行為の一つであった。ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争におけるサラエボ包囲中にスルプスカ共和国軍によって、民間サラエボ人を対象とした2つの砲撃である。ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボの歴史地区にあるマルカレ市場で勃発した。

 第一マルカレ市場事件は1994年2月5日に勃発した。約120mmの迫撃砲によって約68人が死亡して、約144人が負傷した。マルカレ市場では、負傷して死にそうな市民の体が絡み合い、壊れた屋台、散乱した市場の商品、子供のおもちゃなどが混沌とした。

 第二マルカレ市場事件は1995年8月28日に、スルプスカ共和国軍が発射した5発の迫撃砲により、サラエボ市民が約43人が死亡して、約75人が負傷した。ボスニア・セルビア人勢力に対するNATOによる空爆に起因して、最終的にはデイトン和平合意によりボスニア・ヘルツェゴビナ戦争は終結につながった。旧ユーゴスラビア国際刑事裁判所 (ICTY) は、2006年のスタニスラフ・ガリッチの控訴審判決で証拠を整理し、砲弾はセルビア人勢力に占領した場所から砲撃したと認定した。

 ボスニア戦争は、1992年4月26日から1995年12月14日にボスニア・ヘルツェゴビナで起こった国際武力紛争である。ユーゴスラビア崩壊により、1991年にスロベニアとクロアチアがユーゴスラビア社会主義連邦共和国から分離独立した。主にイスラム教徒のボスニア人(44%)、主に正教会のセルビア人(32.5%)、主にカトリックのクロアチア人(17%)が住む。ボスニア・ヘルツェゴビナ社会主義共和国は、セルビア人議会は1992年2月28日に共和国憲法を採択した。セルビア民族の軍隊を動員し、民族浄化を伴う戦争が国全体に広がった。

 当初は、ボスニアのユーゴスラビア軍(後にスルプスカ共和国軍)、ボスニア人を主体とするボスニア・ヘルツェゴビナ共和国軍(ARBiH)、とクロアチア防衛会議(HVO)のクロアチア軍による紛争であった。スルプスカ共和国は、ボスニア・ヘルツェゴビナ内のセルビア人の利益と保護のためにに1992年1月9日から1995年12月14日まで存続した。新たに独立したボスニア・ヘルツェゴビナ内の領土内で分離主義で反抗して、1992年から2006年まで存続した。主にボスニア・ヘルツェゴビナ系のセルビア人で構成されたVRSは、ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国防軍(HVO)とクロアチア軍部隊のボスニア人部隊の間で対立した。ボスニア戦争は激しい戦闘、都市や町の無差別砲撃、民族浄化、主にセルビア人、さらにクロアチア人とボスニア人の武力勢力によって組織集団的な虐待と虐殺が頻発した。セルビア人は、当初は軍事的に優位も、1994年のワシントン協定でボスニア・ヘルツェゴビナ連邦の創設によって、ボスニア人とクロアチア人が連合して、スルプスカ共和国の勢力が喪失して、1995年12月14日のパリのデイトン合意で終結した。




2022年3月5日土曜日

ウクライナ共和国のチェルノブイル原発の汚染地域の実家に戻った。その1ケ月後に放射能汚染した森林で遊んでいた男児ディマは、劇症白血病を発症して死亡した。

1986年4月26日午前1時23分40秒、ウクライナ共和国のチェルノブイリ(Chernobyl)原子力発電所にあるRBMK4号炉が低出力のテスト中に制御不能となり、大爆発・火災を起こして原子炉建屋が崩壊し、大量の放射線が大気中に放出された。安全対策が無視され、原子炉内のウラン燃料が過熱し、防護壁を突き破って溶融した。RBMKの原子炉には格納容器と呼ばれるものがなく、原子炉の上にコンクリートと鋼鉄のドームがあり、このような事故が起きた場合、放射線を工場内に閉じ込めるように設計されている。そのため、プルトニウム、ヨウ素、ストロンチウム、セシウムなどの放射性元素が広範囲に飛散した。また、RBMKでは減速材として使用されていた黒鉛ブロックが炉心に空気が入ることで高温で発火し、放射性物質の環境中への放出を助長した。



    







 両親は離婚して、ディマは母親はウクライナ共和国のチェルノブイル原発の汚染地域の実家に戻った。その1ケ月後に放射能汚染した森林で遊んでいた男児ディマは、劇症白血病を発症して死亡した。チェルノブイリ原発事故による深刻な放射線の影響により、事故後約4ヶ月間に約600人の作業員のうち28人が死亡した。原子炉の爆発から数時間以内に、放射線以外の原因で2人の作業員が死亡した。1986年と1987年には、さらに約20万人の清掃作業員が約1〜100レムの線量を受けた。チェルノブイリ事故は、ウクライナ、ベラルーシ、ロシア連邦までの広範囲を汚染し、数百万人の住民が居住していた。1986年当時に、この地域にいた多くの子供や青年は、放射性ヨウ素に汚染された牛乳を飲み、甲状腺に相当量の放射線を浴びた。子供たちの中から約6,000人の甲状腺がん患者が発見された。約99%は治療に成功するも、2005年までに3カ国で15人の子供と青年が甲状腺癌で死亡した。緊急作業員、避難者から、最も汚染された地域に住む住民の生涯にて、最終的にチェルノブイリに起因する癌死が発生する可能性がある。がんによる死亡は、緊急作業員では、固形がんの発生と死亡の相対リスクが統計的に有意であった。うつ病、アルコール依存症、潜在的な健康影響への不安の割合が高くなった。



 








 ロシア・ウクライナ戦争が、2022年2月24日木曜日に、ロシア軍がウクライナ東部から軍事作戦を開始した。ウクライナに侵攻したロシア軍は直後の2月24日に、北部のチェルノブイリ原子力発電所を占拠した。2022年3月4日早朝には、ロシア軍がヨーロッパ最大の原子力発電所であるウクライナ南東部のザポリジャー(Zaporizhzhia)原子力発電所を攻撃して、原発の敷地内の建物に命中し、局所的な火災が発生した。ロシア軍は意図的に原子力発電所を攻撃し、数百万人の命を危険にさらす史上初のテロ核攻撃を行った。国家原子力規制検査局(SNRI)は、ロシア軍が占領して、発電所の6基の原子炉は無傷だが、1号機の区画補助棟が損傷し、残りの4基は冷却され、1基は電力を供給している。国際電子力期間(IAEA)は、チェルノブイリ原発事故は、ソ連時代の黒鉛減速型RBMK原子炉、ザポリジャーの施設では、加圧水型VVER原子炉が使われた。VVERはRBMKよりも本質的に安全で、敷地内で砲撃や火災が起きれば、他の事故が起きる可能性はある。2011年の福島原発事故では、原子炉は無傷のまま電気が遮断されて、冷却水を送れず、核燃料ペレットが落下して炉心溶解(メルトダウン)した。

2022年3月4日金曜日

第二次世界大戦の東部戦線にてウクライナの第三次ハリコフの戦いで、ソ連軍を撃破したドイツ軍は多数の死傷したドイツ軍兵士を抱えて、戦車の陰から援護を求めた。

第二次世界大戦の東部戦線にてウクライナの第三次ハリコフの戦い(Third battle of Kharkov)で、1943年2月19日から2月25日にかけて、ドイツ軍第2機甲擲兵師団は、ソ連軍の戦車の20両、装甲車の2両、野砲の16門、対戦車砲の71門を撃破した。エレコーフカ・セルゲーエフカ戦区で、死傷したドイツ軍兵士を抱えて、ドイツ軍機甲擲兵は、戦車の陰から自軍の兵士に援護を求めた。ドイツ軍がソ連軍に反撃して、ウクライナのハリコフとベルゴロドを奪還した。

 ソ連軍は、ドイツ第6軍をスターリングラードで包囲した後に、ドイツ南方軍に対して一連の大規模な侵攻を開始した。1943年1月2日に、ソ連軍はスター作戦とギャロップ作戦を開始して、1月から2月初旬にドイツ軍の防衛戦線を突破した。ソ連軍は、ウクライナのハリコフからロシアのベルゴロド、クルスク、ボロシロブグラード、イジウムを奪還した。領域が頂点に達して、ソ連軍は参戦したソ連軍兵士には過大な負担となった。

 ドイツ軍がドニエプル方面に統制した撤退により、ソ連軍に領域を奪還させた。2月2日にドイツ第6軍は降伏して、レニングラードを解放したソ連軍は、西方に侵攻して、2月25日にドイツ南軍とドイツ中央軍の両軍に攻勢を拡大した。数ヶ月も続いた戦闘でソ連軍兵士は犠牲が増大して疲弊した。2月19日からドイツ軍のエーリッヒ・フォン・マンシュタイン元帥は、パンツァー戦車軍団にハリコフに反撃に出させた。ドイツ第4空軍は約1,214機もの大規模な爆撃機の援護をして、2月20日から3月15日まで1日1,000回以上の出撃を行った。

 ウクライナのハリコフの南方では、ドイツ装甲軍はソ連軍の先鋒を側面から包囲して撃破して、3月7日にハリコフに攻撃を再開した。パンツァー戦車軍団は3月11日にハリコフを直接に攻撃した。3月15日にドイツ軍師団が、ハリコフを奪還するまで、約4日間に都市部内の残酷な掃討戦が勃発した。ドイツ軍はその2日後にベルゴロドを奪還して、1943年7月からクルスクの戦いに繋げた。ドイツ軍の攻撃で、ソ連軍兵士は推定約9万人もの死傷者を出した。ハリコフ市内での一軒一軒の掃討戦では、ドイツパンツァー戦車軍団にも特に血生臭い残酷な犠牲を伴って、3月中旬までに約4,300人の死傷者を出した。

 1943年初めにドイツ軍は、ソ連軍がレニングラードでドイツ第6軍を包囲戦したことで危機に陥った。1943年2月2日に、ドイツ第6軍は降伏して、推定約9万人のドイツ軍兵士がソ連軍に捕らえられた。1942年の間にドイツ軍兵士の犠牲は約190万人に達した。1943年初頭は、ドイツ軍は東部戦線で全戦力は約47万人にまで衰退した。




2022年3月3日木曜日

モスクワ劇場テロ事件が終結した2002年10月26日に、救助隊が毒ガスで虐殺された約130人の人質の死体を運び出し始め、劇場の通路や正面入口の舗道にずらりと並べられた。

モスクワ劇場事件が終結した2002年10月26日午前7時から、救助隊が毒ガス殺された人質の死体を運び出し始めた。死体は劇場の通路や正面入口の舗道にずらりと並べられた。人質の死体には銃創や出血の兆候はなかった。顔は蝋のように白く引きつって、目は開いて虚ろであった。意識喪失の人々と殺害された死体で埋め尽くされた。人質の死体は2台のバスに収容された。病院には武装ガードが配置されて封鎖された。公式の死者の数は25人の子供を含む90人以上に達した。

 2002年10月23日にチェチェン共和国のイスラム過激武装勢力の約50人が、モスクワのドゥブロフカ劇場を襲撃した。人気ミュージカルの公演中に、午後9時過ぎに約850人もの人質に取るテロ事件が勃発した。武装集団が舞台上に上がり、機関銃を乱射した。身体に爆発物を巻き付けた女性も含まれた。要求はただ一つで、ロシア軍の第2次チェチェン紛争からの即時の完全撤退であった。モスクワ劇場の文化宮殿で、約57時間に及ぶ膠着状態を経て、人質2名が殺害された後に、10月26日早朝に、ロシアの特殊部隊が劇場を包囲して突入した。その直前に、強力な麻薬性毒ガスを建物に注入して、ほぼ全員を窒息させた。直後から壁と屋根を破壊して、地下の下水道トンネルから侵入した。約40人のテロリストと約130人の人質は、特殊部隊の襲撃で殺害された。治安部隊は、人質に対する大量虐殺は、危険な毒ガスにより、テロリストの自爆を未然に防ぎ、武装解除できなかったと弁明した。

 チェチェン共和国にはイスラム教徒が多く、ロシアに対して独立を長期間に主張した。ロシアで1999年に起きた連続アパート爆破事件を、チェチェン武装勢力が引き起こした。わずか3年後にロシア軍がチェチェン共和国を侵略した。2000年に、ロシアのプーチンは、チェチェン共和国に対する強硬姿勢とテロリストの交渉拒否を公言して、大統領に当選した。モスクワ劇場テロ事件の後に、プーチン政権はチェチェン共和国を猛烈に弾圧して、誘拐や拷問などの残虐行為を執行した。これに対して、チェチェン共和国の反政府勢力は、2004年2月のモスクワ地下鉄での自爆テロで約50人の乗客の殺害、2004年年5月のベスラン校で人質約334人が殺害された人質事件など、ロシア国内でのテロ事件が頻発した。




2022年3月2日水曜日

ベトナム戦争が終結日の首都サイゴンにて、拳銃により自殺した南ベトナムのロング警部補の死体が横たわり、頭部から血が噴出して地面に染み込んだ。

ベトナム戦争が南ベトナムの首都サイゴンの陥落により、1975年4月30日に終結した。陥落を知った56歳の南ベトナムの警察官は、ベトナム戦争に悲観して絶望してサイゴンの議会の国会議事堂の下院前で自殺した。自殺した警察官の死体の周囲に、サイゴンの市民らが取り囲んで呆然と見下ろした。1975年4月30日の正午、ラジオが南ベトナム大統領が降伏を放送される直前に、一発の銃弾が爆発し、ロング警部補は自殺した。

 ベトナム海兵隊の記念碑の手前で拳銃により自殺したロング警部補の死体が横たわり、彼の頭部から血が噴出して地面に染み込んだ。ロングは警部補の勲章を身に着けて、青い制服を着て、胸ポケットにロングの名前が刺繍された。サイゴンの人々は自殺したロング警部補を偲んで静かに立ち並んだ。その周辺から北ベトナム軍の革命歌と解放軍の歓声を聞いて、全員は黙っていた。ロングは1975年4月30日正午頃にサイゴン市内の公園に現れた。石のベンチに座って、思慮深く周囲を見渡して、彼の頭上に手を置き、突然に、彼は立ち上がり、記念碑の手前をゆっくり歩いた。ロングは銃口を頭部に押し付けて、コルトの引き金を引いて、銃殺により自殺した。サイゴンの城塞を守ったのは、見捨てられた国家警察官であった。ロングは脱走もせずに、北ベトナム軍に降伏もせず、南ベトナムと祖国を悲観して自殺を選択した。

 サイゴンが陥落する直前に、南ベトナムの官僚や市民らがサイゴンから逃避した。サイゴンに混乱、不安、パニックが発生した。戒厳令が発令されて、アメリカ軍のヘリコプターは、南ベトナム人、アメリカ人、外国人を市内の各所とアメリカ大使館から避難させ始めた。サイゴンを保持できるとしてヘリコプターによる避難はぎりぎりまで延期された。 サイゴンが陥落する前日の1975年4月29日には、興奮して叫び合う南ベトナム人の集団が、絶望的な逃避の機会を奪い合った。サイゴン近郊の防衛戦を、北ベトナム人民軍(PAVN)の戦車が突破した。4月30日早朝には、最後のアメリカ軍のヘリコプターでアメリカ大使館から避難した。南ベトナム民間人が大使館の周辺に押し寄せて、敷地内になだれ込んだ。ベトナム戦争が終結する4月29日から30日までに、サイゴンのさまざまな場所から約7,000人以上がヘリコプターで避難した。

 北ベトナム人民軍は1975年4月30日に、サイゴン市内に侵入して、瞬く間にすべての抵抗物を退けて、主要な建物や施設を占領した。ベトナム独立記念館の門を突き破り、ベトナム時間で午前11時30分に、大統領宮殿上に北ベトコン国旗が掲げられた。その2日前にフオンの後を引き継いだズオン・バン・ミン大統領は、北ベトナム人民軍のブイ・ヴァン・トゥン中佐に降伏した。ミンはその後に、ラジオサイゴンで降伏宣言が14時30分から放送された。





2022年3月1日火曜日

日中戦争にて日本軍の新井部隊は、劉耀明を木に縛りナイフで筋肉を切り取った。約3日間の拷問の末に1943年11月21日に劉耀明を上平陽で心臓を切取って首をはねた。

日中戦争において、日本軍の新井部隊が1943年11月18日に富平県平陽郷に侵攻した時に、中国地区軍の決起を察知して、直ちに村を包囲して掃討した。22歳の女性の劉耀明も逮捕されて、日本軍の厳しい拷問を受けた。彼女は不動で不屈で、厳寒の真夜中、下着一枚で薪小屋に閉じ込められても、中国軍の革命歌を歌って、残酷な日本軍を追い払うように叫んだ。革命歌に怒り心頭した日本軍の新井大尉は、彼女を木に縛り付け、ナイフで身体の筋肉を一枚一枚切り取っていった。約3日間の拷問の末に、11月21日に日本軍兵士は彼女を上平陽の村に引きずり込み、心臓を切取り、首をはねた。

 劉耀明を日本軍兵士が虐殺した後に、中国抗日軍兵士と民間中国人は、井戸の中に彼女の死体を発見した。彼女の目はわずかに閉じられて、頭と首は皮膚の一層でつながっていた。腹腔は切り裂かれ、胸には大きな血穴が二つあり、肋骨が露出し、上腕と大腿は切られて骨が見えた。彼女の死体は井戸に投げ入れられた。村人は涙を流しながら、彼女の死体を横向きにした。第8航路軍『金茶字画報』の写真家である葉曼子は、劉耀明の死の写真をカメラで撮影した。この写真は日本軍の侵略した戦争犯罪を証明した。苦痛に耐え、拷問に堂々と耐え、不動の民族精神を持った少女は象徴となった。中国の富平県平陽村には、劉耀明の殉国記念碑が建立された。

 劉耀明は、1938年から中国共産党に入党して、洛陽村婦女救済会に入会した。村の女性を抗日運動に参加させるために婦女解放歌を作った。村の女性たちに中国文化を学ばせ、戦争訓練をよく開いた。軍隊に入って前線に行く、後方でゲリラ戦するのは男性だけだった。彼女ら少女たちは、ロバを操作して約16km以上も離れた地域に、配給品を届け、昼夜を問わず働き続けた。1941年に中国軍の軍備の拡張のために、劉耀明ら6人の少女は、村の少年たちに軍隊に入隊するよう誘い込んだ。村の女性7人が一緒になって、平陽区で中国軍に入隊しに行ったが、平陽区では男性しか入隊できず、女性は受け付けなかった。1943年初頭に、日本軍は金茶地国境荘越地区で掃討作戦した時に、昼夜を問わず見張り、負傷者を運び、血染めの服を洗い、軍靴を作り、畑を整えて秋の食糧をつかみ、何度も称賛を浴びた。
















2022年3月1日  Japan No War NGO  日本平和市民連盟
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2022年2月28日月曜日

アメリカ軍工兵がドイツのルール川を渡河した対岸にて、投降してきたドイツ軍の捕虜を橋に誘導した時に、ポケットから手榴弾を投げた捕虜は殺害されて死亡し、一人の捕虜は負傷した。

第二次世界大戦の西部戦線にて、1945年2月23日にドイツのラインラントのルール(Roer)川を渡河した対岸にて暗闇の中で、二人のアメリカ軍工兵が、投降したドイツ軍の捕虜を橋に誘導した。ハンカチを白旗のように持って捕虜となったドイツ軍兵士が出て行った。まだ降伏していない捕虜の1人が、ポケットから手榴弾を取り出して地面に投げつけた。手榴弾を投げた捕虜は、アメリカ軍工兵に殺害されて死亡した。もう一人の捕虜は負傷した。

 2月23日の夜明けに、ルール川の対岸のドイツ軍の要塞を攻撃した。ボートは遠い岸で立ち往生し、一部は下流に漂流し、急いで敷設した木製の歩道橋は破壊された。アメリカ軍はドイツの町ユーリッヒを攻撃するためにルール川を横断した。2月8日にドイツ軍は上流のダムの水門を開けて、ルール川の水位が上がり流れは強烈な洪水となっていた。ドイツ軍はヒトラーからライン川の後方に撤退することを拒否されていた。2月23日になって、ようやくアメリカ軍がルール川の歩道橋を横断できる途上で、ドイツ軍の迫撃砲と機関銃を受けた。対岸のドイツ軍と銃撃戦を繰り広げ、一人のアメリカ軍兵士が狙撃により射殺されて、対岸まで約15mの橋の途上で仰向けで死亡した。アメリカ軍は約7,478人が戦死傷して、ドイツ軍は約16,000人が戦死傷して、約29,739人が捕虜となった。 

 第二次世界大戦中、西側連合国はライン川がドイツ侵攻の強力な自然障害になった。1944年9月17日から25日に、連合軍はオランダ国内の複数の河川を越えるために、空挺部隊により多くの橋を奪取するマーケットガーデン作戦が失敗した。ドイツ軍が西部戦線を最後に突破したアルデンヌ高原のバルジの戦いが1944年12月16日から1945年1月25日に勃発した。アルデンヌ高原に潜伏したドイツ軍と苦闘を重ねながら、連合軍はバルジを奪還した。連合軍はジークフリート線を突破して、ライン川を越えてドイツ国内に侵入した。侵入するには、ライン川の西側を蛇行するルール川を攻略する必要があった。その後にライン川の横断は、東岸での迅速な低空パラシュート降下とレマーゲンの橋の奪取によって行われた。




2022年2月27日日曜日

日本軍は日露戦争で摩天嶺の戦いの後に、千山山脈にある山地にロシア軍兵士の死体を集積して、塹壕に投げ込んでは土中に埋めた。

日露戦争にて摩天嶺の戦いの後に、日本軍はロシア軍兵士を捕獲して捕虜にした。日本軍はロシア軍兵士の負傷者と戦死者の死体を、摩天楼から後方に移送した。摩天嶺の周辺の高地上に、ロシア軍兵士の負傷者と死体を集積して待機させた。その後に集積したロシア軍兵士の死体を、千山山脈にある山地の塹壕に投げ込んでは土中に埋めた。摩天嶺の犠牲者は、日本軍は約355人が戦死傷して、ロシア軍は約1,213人が戦死傷した。

 日露戦争において、1904年7月10日から7月17日にかけて、摩天嶺の陣地の日本軍に対してロシア軍が攻撃して摩天嶺の戦いが勃発した。摩天嶺は、中国の清国の遼寧省の東部にある千山山脈にある山地である。旅順攻囲戦により、旅順の要塞を喪失したロシア軍は、遼陽に向けて撤退していた。1904年4月30日から5月1日まで満州へ向かう日本軍は、鴨緑江の渡河を阻止するロシア軍と鴨緑江会戦が勃発した。日本軍は、5月1日に鴨緑江を渡河した。1904年5月1日の鴨緑江会戦は、日本軍は川を渡った後に、ロシアの陣地を襲撃した。ロシア軍の東アジア戦線での敗北は、日本軍は弱体して戦争は短期に終結する予想に反して、ロシア軍は圧倒的な軍事力である西洋の認識を初めて取り除いた。逆に日本軍は、西洋の軍事力に匹敵したと有頂天となった。その後に日本軍は、さらに遼陽の途上にある摩天嶺まで侵攻した。

 日本軍は、1904年7月10日にロシア軍に正面攻撃するも、ロシア軍は日本軍の約2.5倍という大軍により、日本軍を摩天嶺の西方から砲撃をした。日本軍は転位して7月13日に摩天嶺の峠を占領した。日本軍は陣地を構築していた摩天嶺から、ロシア軍を頑強に攻撃した。日本軍からロシア軍は側面からの攻撃を受けて、ロシア軍の東部兵団は王家堡子の方面に撤退した。遼陽に向かう難所である山脈の頂上であった摩天嶺を占領した日本軍は、満州の遼陽会戦に向けて侵攻した。摩天嶺を損失したロシア軍は、遼陽に向けて撤退した。




2022年2月26日土曜日

25人の広島の原爆乙女が身体的顔貌の醜状で、18か月以上もニューヨークのマウントサイナイ病院で約138回も形成外科を受けた。

1945年8月6日の広島原子爆弾により、若い女性の被爆者は、身体的な顔貌の醜状により、アイデンティティ、自尊心、セクシュアリティを阻害された。遺伝的影響の恐怖は、身体的接触や将来の子供に放射する認識から、スティグマ(汚名)を着た。女性の被爆者は他者化の対象となり、限界的な存在、身体は忌まわしいもの、生きられないもの、住めないものとみなされた。原爆投下時に子どもであった被爆者は、孤独な存在である同情と絶望を感じ、「原爆乙女, Hiroshima Maidens」と認識された。アメリカの一般市民は、初めて被爆者と出会い、傷跡を通して、広島の隠された非人道的結果を可視化した。生と死の狭間に存在する彼女たちは、醜態を作り出したアメリカの介入によって、死の仮面を脱ぐことになった。彼女たちは、爆弾痕、原爆痕、ヒロシマ痕、とさまざまに形容された。原爆投下から10年、彼女たちは人生の大半を被爆者として過ごした。原爆乙女たちは、原爆による生理機能の停止を懸念していた。ケロイド状の傷跡を含む顔の醜さは、地元では身体的な汚染の兆候と認識された。ケロイド少女として知られ、限界的なデスマスクを感傷的に扱われた。年齢を重ねるにつれ、原爆乙女たちは、通常の同世代の女性たちから孤立した。

 ABCC(原爆障害調査委員会)は、被爆者の研究はするが診療は全く行なわなかった。サタデー・レビュー・オブ・リタラチャー誌の編集者であったノーマン・カズンズは、1955年5月5日に、谷本清牧師と共に、25人の若い女性被爆者を米国に招き、再建整形手術を受けさせた。ニューヨークのマウント・サイナイ病院で形成外科を受けた。渡米中に18か月以上にわたって女性に対して138回の手術が行われ、中林朋子だけは、軽度の再建手術で心停止により死亡した。アメリカが医療と慈善活動の究極の先駆者であるも、その他16人の女性は大阪と東京で手術を選択した。アメリカの美学を、中流階級のクエーカー教徒のホストファミリーは、原爆乙女たちに求めた。髪型を整えられ、高価なツイードのスーツ、エレガントなシャツ、カシミアのセーターなどを贈られた。絵画や看護、秘書などの趣味を持つことも奨励された。原爆乙女たちの治療に用いられた再建外科技術は、形成外科で適応・輸出された。

 原爆乙女のうち2人は、谷本清牧師と家族とともに、アメリカのテレビ番組(This is Your Life)に招待され、スクリーンの後ろに隠れて可視化された。司会者エドワーズは観客に「彼女たちを困らせないために、顔は見せない」と言った。エノラ・ゲイの副操縦士で、ロバート・ルイス中尉は、原爆投下は命令に従って、「8時15分、原爆が投下された。放射線と爆弾の影響から逃れるために、すばやく方向転換した。まず大きな閃光があり、次に2つの衝撃波が爆撃機を襲った。その直後、私たちは何が起こったのか確認するために後ろを振り返った。すると目の前に、広島の街が消えていた。私は後で、"何てことだ、私たちは何をしたのだろう "」と書き留めた。彼は罪悪感とうつ病が重なり、1950年代後半には一時的に施設に収容された。その後に彫刻家として、「広島の神の風」と涙で流れ落ちるきのこ雲の巨大な彫刻を丹念に作り上げた。

 1956年6月12日にニューヨークから中村朋子さんの遺骨とともに出発した。原爆の乙女たちは身体的特徴を取り戻すことができたが、彼らの帰国は、彼らを歓迎する人々と西洋の操り人形と見る人々の間で分裂した。原爆乙女たちが帰国した翌1957年、日本で原爆医療法が制定された。