2022年2月5日土曜日

ABCCは、広島原子爆弾のケロイドの瘢痕がある女子と男子と認識番号を撮影した。顔面にケロイドが膨隆した若い女性は、髪を結い上げられて写真を撮影された。

ABCC(Atomic Bomb Casualty Commission:原爆傷害調査委員会)は、1947年7月7日女子と7月5日男子を、広島原子爆弾によるケロイドの瘢痕がある若い男子と女子の被爆者として認識番号を保持させて撮影した。さらにABCCの調査員は、右顔面の頬から耳かけて膨隆した若い女性の髪を結い上げて、羞恥心を伴う異様で醜いケロイドを露出させて写真を撮影した。ケロイドのある男子生徒を校庭ばせて写真を撮影した。ABCCの写真は、ニール中尉から日本側の都築正男調査団長にも提示された。アメリカ軍側は、原子爆弾に関する大量の調査記録を集積した。被爆者の火傷は皮膚が再生して瘢痕組織を形成して、さらに過剰に再生して肥大して腫瘤が突出した。引きつれて、かゆみや関節の拘縮をともなった。

 ABCCは、ケロイド状の傷を持つ少年少女の写真を多数に撮影した。すべての学校を訪問して、生徒や教師、職員は全員の調査やデータ収集をした。被爆者は、アメリカ人に助けてもらえると勘違いした。アメリカ人は日本の子供や大人の苦悩にはあまり興味がなく、研究対象として扱った。ABCC研究所では若い被爆者の性器も検査した。ABCCは被爆者の7,500体の死体を病理解剖して、その臓器をアメリカ本国に送付した。

 ABCCは、原爆投下後の広島と長崎の日本人の民間人を救済する思いやりのある救援活動として、日本とアメリカの一般市民には宣伝されていた。生存した被爆者やアメリカ連合軍の医療関係者らが残した記録や伝記、文書、インタビューなどを通して、ABCCは思いやりのある救援活動ではなかった。ABCCの第一の目的は、原子爆弾の人体への影響に関する研究を進めるための被爆者のデータを収集することであった。

 アメリカ軍はマンハッタン計画副責任者のファーレル准将を団長として、医学顧問のオーターソン大佐ら12人が、終戦直後の1945年9月9日に広島原子爆弾の調査に入った。都築正男の日本調査団が10月12日から現地で合流して、原子爆弾の影響調査のための合同委員会が構成された。アメリカ側の合同調査団は、調査結果から診療記録、病理標本、写真などを収集した資料は、1946年1月までに船でアメリカに移送された。日本側の資料の解析はアメリカ軍のみが実施して、内密に膨大な報告書が作成された。これらの接収資料は、ワシントンのアメリカ陸軍病理学研究所で保管された。1973年になって、日本政府を通じて広島大学と長崎大学に返還された。




2022年2月4日金曜日

秋田県花岡における1945年6月30日の花岡蜂起で、虐殺された中国人の遺骨の写真を、アメリカ軍が花岡事件の資料として提出した。

秋田県花岡における1945年6月30日の花岡蜂起で、虐殺された中国人の骸骨の写真を、アメリカ軍が花岡事件関する資料として提出した。日本人監督約5人が殺害されて、約113人の中国人労働者が、暴動の鎮圧のために日本の警察と軍隊によって殺害された。花岡周辺の農民も、投石や竹槍を持って、警察や軍隊と一緒に、中国人を虐待と虐殺して、広場には死体が散乱した。

 中国から強制連行された中国人労働者が、この世の過酷な労働に従事して、用水路の建設をした。木片で作った小屋に住み、毎日約15〜16時間の超過酷な作業を強制された。どんぐりラーメンやりんごの絞りかすで空腹を満たした。厳冬期になっても、労働者は単衣にわらじを履き、凍えるような寒さと泥水の中で強制労働した。厳しい飢えと疲労に加えて、残忍で残酷な鹿島建設の監督者による殴打や拷問が加わって、毎日多くの労働者が殴打され、拷問から虐待と虐殺された。わずか半年の間に、200人以上が拷問されて虐殺された。耐えられない中国人は、1945年6月30日に死をもって蜂起で抵抗することを決意した。

 終戦後の1945年10月に、アメリカ軍占領当局は花岡事件の調査を開始した。花岡事件で死亡した中国人労働者は約418人(暴動で死亡した113人を含む)に及んだ。花岡事件の裁判に、虐殺された中国人の骸骨を提出した。日本の他の強制労働収容所に比べてはるかに高い殺害割合であったことを公表した。鹿島組監督のうち3人はB・C級戦犯として死刑、1人は無期懲役、2人は懲役20年の判決が下された。その後減刑されて、1995年までに全員が釈放された。

 1984年12月22日に、生存者の団体が鹿島建設に謝罪および記念館の設立、補償を求める公開書簡を提出した。鹿島建設と補償問題で交渉が決裂した。遺族・近親者の団体は、1995年6月28日に総額6,050万円の補償を求める訴訟を東京地方裁判所に提起した。東京地裁は、時効を超えた理由で訴訟を却下した。1995年12月12日に判決を不服として東京高等裁判所に控訴した。中国政府が被告側の要求を強めて険悪な裁判の審理が続いて、2000年5月31日に東京高等裁判所が遺族と近親者に5億円を負担する妥協案が、被告側を代表して中国紅十字会が受諾した。最終的な和解は2000年11月29日までに鹿島建設が行った。将来に日本企業が戦時中の戦争犯罪に対する賠償請求を行う際の先例となった。




2022年2月3日木曜日

ノルマンディのカレンタンで、フランス人農民が、ドイツ軍に殺害されたアメリカ軍兵士の死体に祈りを捧げ死体に花を手向けた。

アメリカ軍が侵攻したノルマンディ海岸から約16kmほど内陸に入ったフランスのカレンタン郊外で、1944年6月13日にフランス人の農民が家の前で殺害された若いアメリカ軍兵士の死体に祈りを捧げていた。フランスの町の人たちは、アメリカ軍兵士の死体に花を手向けていた。1944年6月6日に通称D-Dayに、連合軍は、フランスのノルマンディに上陸が開始された。

 戦争の惨状を目の当たりにした。カレンタン周辺の野原には、アメリカ軍とドイツ軍を問わず死者や瀕死の人が広がっていた。各地で約5~50体の死体が回収された。たくさんの野原があり、戦車に乗ってきた隊員には、弾薬の入ったバンドレールを渡した。疲れ切ったアメリカ軍兵士は、1週間も持ちこたえ、銃剣やナイフで戦っていた。何百人ものドイツ軍兵士が殺害され、目の前でアメリカ軍兵士の仲間が殺害された。やっと弾薬を渡したすと、彼らは泣いてい。

 ドイツ軍は防御を命じられ、両軍に大きな犠牲者が出た。両軍の距離が近いため、お互いの会話や武器の操作音が聞こえた。いたるところで死人や助けを求める負傷者がいた。煙幕に隠れて、突撃を命じて、鬨の声を上げ突撃して、銃剣を持って猛然と突進し、徒手空拳や短剣で戦闘して、ドイツ軍をポムナウク村に押しやった。

 ブラッディガルチの戦いは、1944年6月13日に、フランスのノルマンディー付近にあるカランタンの南西約1.6kmにあるマノワールデドンビルまたはヒル30(米軍指定)周辺で勃発した。戦闘中に、マノワール・ド・ドンヴィルはドイツ軍の本部であった。アメリカ軍兵士は、人気のある西部劇の映画「砂塵」で言及された場所にちなんで、邸宅を通り過ぎる道路に「血まみれのガルチ」という呼称を付けた。

 1944年6月12日にアメリカ軍がカランタンの町に侵攻して、約2日間の激しい戦闘が勃発した。生き残ったドイツ軍兵士は、アメリカ軍による激しい砲撃の後に、前夜に南西に撤退した。フランスへのさらなる攻撃の拠点であるカランタンで戦闘した。6月13日の夜明けに北東のカランタンに向かって攻撃した。アメリカ軍は約32人殺害されて、約73人が負傷した。ドイツ軍は約43人が殺害されて、約89人が負傷した。




2022年2月2日水曜日

1942年1月に悲しみのケルチ人々が、ナチス・ドイツ軍に虐殺されてバゲロフスキー対戦車溝の雪の中に横たわる死体を探索した。

ウクライナ南部のクリミアのケルチ市の人々らが、ナチス・ドイツ軍が撤退する前に虐殺された犠牲者の中から身内の死体を探索した。1942年初頭にソ連軍が、ケルチをナチス・ドイツ軍から解放した時に、虐殺された死体を集積したバゲロフスキー対戦車溝を発掘した。この溝で女性や子供を含む約7,000人がナチス・ドイツ軍に射殺された。1942年1月に、悲しみに打ちひしがれた人々が、雪の中に横たわる死体の中から身内を探していた。

 1941年12月初旬に、ケルチに住んでいた数千人(ドイツ軍側の報告では約25,00人、目撃者の話では約7,000人)の民間人が、ナチス・ドイツ軍の殺人部隊であるアインザッツグルッペによって、バゲロヴォ村のバゲロフスキー対戦車砲溝に射撃された死体が投げ込まれた。さらに12月29日には、ソ連軍の偵察隊がドイツ軍将校を殺害した容疑から、同じバゲロフスキー対戦車砲の溝に、ロシア人、ウクライナ人、クリミア・タタール人など数百人の村人を射殺した。

 第二次世界大戦後のニュルンベルク裁判では、ソ連文書-63で、ケルチ市におけるドイツ軍の残虐行為が、臨時国家委員会で報告された。ナチス・ドイツは、バゲロヴォ村の近くにあるバゲロフスキー対戦車用の溝を大量処刑の場所に選び、そこで約3日間、家族らの民間人を載せた車両を運び込んでは全員を殺害した。1942年1月7日にソ連軍がケルチを再占領した時に、バゲロヴォ溝を調査したところ、長さ約1km以上、幅約4m、深さ約2mの溝の中には、女性、子供、老人、10代の若者の約7,000人に及ぶ死体が放置されていた。その溝の近くには凍った血のたまりがあった。子供の帽子、おもちゃ、リボン、破れたボタン、手袋、乳首のついた哺乳瓶、ブーツ、ガロッシュ、手足の切り株などが横たわっていた。これらすべてに血と脳みそが飛び散っていた。ナチス・ドイツ軍は、無防備な民間人を銃弾を炸裂しながら撃ち殺した。

 ソ連軍の激しい抵抗するも、クリミアのケルチは1941年11月にナチスの猛攻撃を受けた。ナチス・ドイツの民族浄化の一環として、当初はユダヤ人やロシア人、最終的にはすべての非ドイツ人と呼ばれる数万人の民間人が、排除や虐殺の対象となった。その一つであるケルチでは、約7,000人がナチスによって射殺され、バゲロフスキー対戦車用の溝に投げ込まれた。バゲロブスキー溝の虐殺と呼称され、ソ連軍が一時的にケルチの再占領して1942年初頭に明白にされた。死んだ親、配偶者、子供らを確認する親族の衝撃的で悲惨は、世界がナチス・ドイツの死の強制収容所に無知であった当時に、ファシズムの真実を明らかにした。1942年5月18日に再びケルチを攻略したドイツ国防軍は、約16万人以上のソ連軍兵士を捕獲あるいは虐殺した。その後のクリミアをめぐる血みどろの戦いで、1944年4月11日にケルチはソ連軍が再奪還した。






2022年2月1日火曜日

太平洋戦争のアッツ島の戦いにて、マッカル湾で日本軍兵士がアメリカ軍に殺害されて、アッツ島の荒野に死体が散在した。

太平洋戦争のアッツ島の戦いにて、マッカル湾で日本軍兵士がアメリカ軍に殺害された。アッツ島の荒野に死体が散在した。1942年6月3日から7日にかけて、日本軍はアラスカのアリューシャン列島を攻撃し、ウナラスカ島のダッチハーバーを爆撃して、アッツ島とキスカ島に侵攻して占領した。1943年5月11日から18日間続いたアッツ島の戦いで、アメリカ軍は1812年以来初めて、アメリカ国内の侵略地を奪還した。

 1943年5月11日に、約12,500人のアメリカ軍がアッツ島の北端と南端に上陸した。他の太平洋戦争と同様に、日本軍兵士はアッツ島の荒れた地形を利用して、アメリカ軍兵士を狙撃した。アメリカ軍兵士は奇襲攻撃に備えてすべての窪みを掃討した。両軍ともアッツ島の厳しい天候にも悩まされ、アメリカ軍の死傷者数は日本軍敵の攻撃よりも厳しい天候の犠牲となった。約2,100人以上のアメリカ軍兵士は、病気や戦闘外の負傷の犠牲となり、約1,700人近くが日本軍の攻撃で死傷した。アメリカ軍兵士は、厳寒の天候の準備不足で露出の犠牲となり、凍傷や病気に苦悩した。濡れたままの粗末なブーツを履き替える機会もなく、冷たく湿った不衛生な環境に長時間さらされた。塹壕足は、壊疽を起こし、切断された。日本軍兵士もアメリカ軍兵士も、時速120マイルの冷風に吹かれ、雨に打たれ、霧で目が霞んだ。暖を取るために攻撃にさらされても、動き続けて暖を取った。歩けない者は這って移動した。アメリカ軍兵士は、殺害した日本兵軍兵士から優れた冬服を略奪して、敵の制服を着て自軍に撃たれる危険を冒した。配給品が少なくなり、両軍の兵士は空腹を感じた。補給機がアリューシャン列島の濃い霧の中で、何日も補給が途絶えた。栄養失調となり、日本軍陣地を制圧しては、残存した食料や弾薬を略奪した。

 5月28日の夜に、アメリカ軍はチチャゴフ渓谷の高台を占領した。日本軍は海側に追いやられ、アメリカ軍は翌日に砲撃を予定した。アッツ島の日本軍は、アメリカ軍上陸時の5月11日には約2600人の健常者を抱えていた。5月28日の時点で、日本軍が戦闘に参加できたのはわずか約800人、それに2週間の戦闘で負傷した約600人が加わっていた。不名誉となる降伏ではなく、アメリカ軍の弱点を突いて反撃し、ほとんどの日本軍兵士は、この戦闘を名誉の死を得るための機会と捉えた。その夜に、自殺者が続出して、負傷者を殺すためにモルヒネが約400発打たれ、負傷者は全員自殺させられた。1943年5月28日午後6時に手榴弾ですべての負傷者は始末された。

 エンジニア・ヒルの頂上には、少数の日本軍の非戦闘員が駐留して、手榴弾を投げ始めた。日本軍とアメリカ軍の間では命懸けの戦いが繰り広げられ、援軍のアメリカ軍が銃剣とライフル銃で日本軍を撤退させた。日本軍は武士道の掟に従った。武士道は弱さを非難し、戦い、勇気、忠誠、服従を称えた。降伏は非常に不名誉であり、兵士は捕虜よりも自決を指示され、降伏を選択すれば、不名誉は家族にまで及んだ。5月30日には、前日に峡谷にいた約1,400人の日本人のうち、生き残ったのは28人だけであった。残りの者は戦死したり、手榴弾を胸で爆破して自殺した。日本軍の病院では、負傷者はすべて医師に殺害された。アメリカ軍は約2,351人の日本軍兵士を、アッツ島の集団墓地に埋葬した。アッツ島の戦いは、アメリカ軍にとり硫黄島に次いで、太平洋戦争で2番目に高い死亡率を出した。アッツ島での犠牲者数は、日本軍兵士は約2351人死亡し、捕虜は約28人であった。アメリカ軍は、約549人死亡し、負傷者は約1148人、1200 重度の低温障害者が約1200人、疾病に約614人が罹患した。




2022年1月31日月曜日

第二次世界大戦のウクライナ戦線にて、ソビエト軍兵士らは塹壕の底に放置されたドイツ軍兵士の死体を見下しながら侵攻した。

1944年6月22日からソ連軍のバグラチオン作戦にて、東部戦線においてソ連軍兵士がドイツ軍の陣地を突破した。ウクライナ戦線にて、ソビエト軍兵士らは殺害したドイツ軍兵士の死体の隣を通り過ぎた。ドイツ軍が造設していた塹壕の底に放置された死体を見下しながら侵攻した。

 1944年6月22日、ナチス・ドイツ第三帝国との戦いにて決定的な戦いが勃発した。戦場はノルマンディー後に、何千キロも東に離れたベラルーシから始まった。それまでに西部戦線では、連合軍は6月6日にノルマンディ上陸作戦が決行された。

 バグラチオン作戦は、ソ連軍にとって決定的な勝利となり、ドイツ本国への最終攻撃に向けて万全の態勢を整えた。ソ連軍は、わずか23日間で約400kmから500km、1日平均で約20kmの距離を西方に侵攻した。ドイツ軍の損失は、死者約38万1,000人、捕虜約15万8,480人で、スターリングラード攻防での犠牲をはるかに上回った。ソ連軍兵士は、その代償として、死者・行方不明者は約180,040人、負傷者・病人は約590,848人を失った。

 8月20日から、ソ連軍はウクライナ戦線で、ドイツ軍の南ウクライナ軍に対し、2方面からの攻撃を開始した。連合軍はドイツ軍の側面を守ったルーマニア軍を素早く撃破した。8月23日までに、ドイツ軍は集結した2つのソビエト戦線に包囲された。ルーマニア軍に対するジャシー・キシネフ攻防戦となった。1944年8月になると、ドイツ軍は東部戦線で本格的な危機を迎えた。ソ連軍の4つの戦線によりドイツ軍は激突して完全に解体された。ドイツ軍は全滅して奔走して撤退した。

  第二次世界大戦の東部戦線は、最大かつ最も血なまぐさい戦場となった。ドイツ軍は戦死者の約80%を東部戦線で損失した。東部戦線での陸戦は、第二次世界大戦の他のすべての戦場を合わせた犠牲よりも多い。東部戦線の戦争の残忍な虐待と虐殺は、両陣営が頻繁に故意に人命を軽蔑したことを実証した。戦争の極端なイデオロギーにも反映されて、2つの正反対のイデオロギーが激しく対立した。

  ロシア軍は2022年から、ウクライナに対して21世紀のバグラチオン作戦を決行する恐れがある。プーチンは、ロシアが2014年3月からクリミアを占領し、ウクライナに対する歴史的な権利があると主張した。ウクライナは、1991年12月に崩壊したソビエト連邦の一部でありロシアの崩壊の産物と述べた。ロシア人とウクライナ人を一つの民族と叫んだ。 




2022年1月30日日曜日

日中戦争の徐州会戦の前後で、日本軍により目隠しをされた中国人が斬殺されて、枯草の中で死体が田畑上に放置された。

日中戦争にて1938年4月7日に勃発した徐州会戦にて日本軍が徐州を1938年5月19日に占領して終結した。その前後にて、日本軍により目隠しをされた中国人が斬殺されて、枯草の中で死体が田畑上に放置された。

  南京攻略戦前後から徐州作戦に参戦した日本軍兵士が毎日日記を記載して写真も添付した。日本軍兵士たちが中国人を見境なく殺戮していた(中国戦線、ある日本人兵士の日記)。日本軍兵士が中国戦線では、平然と中国人から略奪して虐殺した。日本軍幹部からの命令で日本軍兵士たちは、中国人に対する虐待と虐殺の執行者となった。日本軍第16師団第9連隊第32大隊第9中隊に所属して、日中戦争の上海戦、南京攻略戦、徐州作戦から武漢三鎮の軍事占領まで、日中戦争前半の大作戦のすべてに従軍した。日本軍は、「皇軍兵士は捕虜になるな」の思想であり、中国軍兵士の捕虜として直ちに殺害した。捕虜の中国軍兵士を日本軍が虐殺した写真を撮って、日記に添付した。

  日本軍は4月7日に勃発した徐州会戦から5月19日の徐州を占領した。徐州会戦後に、戦争で荒廃した街では、中国人に対する虐待と虐殺が頻発した。陳中硬の証言では、徐州を占領した時、日本軍兵士の虐待や虐殺を恐れて住民は逃避した。日本軍兵士は、子供が軍服を着て、家族も軍服を着た集合写真から、日本軍兵士はスパイと容疑して、その家族を虐殺した。潜伏していた数十人の中国人と家々を放火した。日本軍は村に侵入して、麦畑で数十人の家族を虐殺した。残存者を家々に集めて鍵をかけて放火した。日本軍兵士が街中で十数人を逮捕し、約6人を袋に入れて川に投げ込んだ。徐州が占領した当時は、戦争で衛生状態が悪く、猛暑で多くの人々が下痢をして、コレラ容疑として虐待と虐殺した。

 山東省最南端の台児荘の戦いで中国軍に4月7日に敗北してから、日本軍は徐州会戦を勃発するも、徐州の約60万人の中国軍に包囲された。中国軍が大規模な反撃をする前に、より多くの人的資源を投入した日本軍は、大規模な中国軍を撃破した。日本の北支那方面軍と関東軍が北方から、日本の中支那遠征軍が西方から徐州を攻撃して、南方から鉄道を援軍が登って約21万人に及んだ。中国軍は数的優位であったが、増強した日本軍の攻撃に直面して、1938年5月19日に中国軍を維持するために徐州を放棄した。数的劣勢である日本軍は徐州を包囲できず、中国軍のほとんどは西方へ撤退して田舎でゲリラ戦を続けた。徐州会戦いが終結して、日本軍は約3万人の死傷者を出し、中国軍の死傷者数は約10万人に対した。日本軍は中国軍よりもはるかに少ない死傷者で徐州を占領いるも、包囲されずに集結した中国軍は徐州から退避していた。




2022年1月29日土曜日

長崎原子爆弾で13歳の学童が全身に大やけどとケロイドを負って、12月下旬から大村海軍病院で植皮術を受ける直前の顔貌である。

吉田勝二は当時13歳時に、1945年8月9日の長崎原子爆弾が炸裂して、全身に大やけどとケロイドを負って、12月下旬から大村海軍病院で植皮術を受ける直前の顔貌である。生死の境をさまよって、特にケロイドが残った顔貌を見る周囲の冷たい視線に傷つきながら、戦後を生き抜いた。爆心地から約1.1km離れた長崎工業学校の周辺の江里町で、造船科の2年生の学友6人とともに被爆した。畑や道路を飛び越え約40mも吹き飛ばされて田んぼに落下した。全身が焼けただれて意識も消失して、気がつくと長崎市内は全くの悪夢の被爆地となった。浦上川が血に染まり被爆者の死体で埋まった。友人同士が吉田勝二に、「何か顔がものすごく変わっとるぞ」と言い合った。

 元気だった友人の一人が、数キロ離れた吉田勝二の自宅までたどり着き、「吉田君は火傷はしているが生存している。早く学校に助けにいってやってください」と伝えた。両親が学校へ駆けつけるとグラウンドいっぱいに、被爆者は白い包帯でぐるぐる巻きにされた。「勝二! 勝二!」と叫んでも、一人一人に声をかけてやっと、勝二を捜し当てた。あまりにも顔貌が火傷で変わり果てていた姿に驚嘆した。

 やっとの思いで自宅へ連れて帰った後も、全身からの膿やウジがわいて、意識も朦朧として、悪臭が家中に漂った。9月頃から新興善国民学校に通院して、12月下旬に治療のため大村海軍病院へ行くと、終戦で進駐してきたアメリカ軍から抗生剤のペニシリンが使われて、生命の危機を脱した。太ももの皮膚を顔の右半分に移植する手術を受けた。手術した移植部分の皮膚の色は黒く、醜い顔になった。

  中等度から重度の火傷を負った被爆者の多くは、顔や手足、体の広い範囲に厚いゴムの溶岩のようなケロイド状の傷跡ができた。瘢痕組織は、強いかゆみ、チクチクする痛み、ズキズキする痛みの原因となり、肘や肩、足の関節を覆うと、動きが制限された。顔にケロイドができると、口が開かなくなり、食事ができなくなる人もいました。皮膚移植のためにケロイドを切除しようとしても、瘢痕組織が再び成長してくることが多かった。

 大村海軍病院から1年あまりで退院したものの、人目に醜い顔をさらす苦しみから一歩も家を出られなかった。母親から「勝二、一生家の中で過ごすことはできんやろ。歩くだけでも練習を」の言葉に励まされて、少しずつ外に出れるようになった。悲しいことばかりに遭遇しながらやっと立ち直った。社会人になり生きるため食品会社に就職した。しかし、被爆者は差別されて嫌がられて苦悩した。「戦争を憎んでも人を憎んではいけない」とアメリカまで行って被爆体験を語った。その体験をパネルにしたり、絵本にした。(肺がんで、78歳死去)































14歳時に、長崎原子爆弾で全身に大やけどとケロイドを負って、大村海軍病院で植皮術を受けた後の顔貌である。
















14歳時に、長崎原子爆弾で全身に大やけどとケロイドを負って、大村海軍病院で植皮術を受ける前の顔貌である。

2022年1月28日金曜日

ニューギニアのラム渓谷を侵攻中に、オーストラリア軍兵士らは日本軍の機関銃の射撃陣地を撃破して、機関銃の弾薬の側で殺害された日本軍兵士の死体を取り囲んで見下した。

太平洋戦争のニューギニアの東部の戦いにて、1943年11月22日にオーストラリア軍がラム渓谷を侵攻中に、日本軍の機関銃の射撃陣地を撃破した。オーストラリア軍パトロール隊の兵士らは、機関銃の弾薬の側で殺害された日本軍兵士の死体を取り囲んで見下した。

 オーストラリア軍は、ニューギニアの戦いで1943年10月から日本軍が建設した道路をを逆にたどってラム渓谷まで侵攻した。1943年10月から1944年1月にかけて、オーストラリア軍はフィニステル山脈を守る日本軍と戦闘を重ねた。シャギーリッジでは守備する日本軍が頑強に抵抗し激戦となった。オーストラリア軍も陸空の攻撃を集中させて、日本軍部隊は一兵残らず全滅した。1944年1月31日までにオーストラリア軍は日本軍をフィニステル山脈から撤退させ、マダンの日本軍陣地の手前まで迫った。残存した日本軍兵士が疲れきり、物資の欠乏にあえいで栄養失調となり、多くの日本人が路傍に倒れた。

  オーストラリア軍は10月10日に、尾根の南端にあるバート・ポストを占領して最初の陣地を確保した。その後、1944 年1月まで尾根上での戦闘に参加した。尾根は急斜面で狭く、狭い山頂に沿って攻撃するしかなった。日本軍は、尾根の主要な山地であるグリーンピナクルに陣地を残存していた。10月23日にこのグリーンピナクルを占領して、11月には少戦闘で過ぎたが、12月8日に日本軍は反撃に出て、ラム渓谷のオーストラリア軍陣地を攻撃した。その最大の攻撃は12月12~13日の夜に行われたが、日本軍はその後には出発点に退却した。

 マーカム峡谷、ラム峡谷、フィニステール山脈での各戦闘は、第二次世界大戦のニューギニア作戦における一連の戦いの一つである。連合軍は両渓谷を占領するために、1943年9月19日~20日にカイピットを占領した。カピピットの生い茂った飛行場はすぐに撤去して、マーカム渓谷からラム渓谷の下流域に向けて侵攻した。連合軍の戦闘は、1943年9月19日のラム渓谷に対する連合軍の攻撃から始って、1944年4月24日に連合軍がマダンを占領して終結した。これらの戦闘中に、オーストラリア軍はアメリカ軍の戦闘機の支援を受けてマーカム渓谷とラム渓谷に侵攻した際に、日本軍とは小規模な戦闘となり、日本軍はフィニステール山脈の防衛線に向けて撤退した。オーストラリア軍とアメリカ軍は約204人が戦死して、約464人が戦傷した。日本軍は、約800人が戦死して、約400人が戦傷した。




 

2022年1月27日木曜日

ソビエト連邦下の女性たちは、ナチス・ドイツ軍が侵攻して1943年に虐殺した人々の中に、愛する人の死体を発見して慟哭した。

ソビエト連邦下の女性たちは、ナチス・ドイツ軍によって侵攻された1943年に虐殺された人々の中に、愛する人の死体を発見した。彼女らは、語り尽くせないほどの苦悩をして慟哭した。犠牲者の生前を偲び、死を悲しみ追悼した。民間市民は、ファシストによるテロの犠牲者となった。

 ドイツ軍がウクライナのハリコフ市を1941年10月24日に占領した直後に、市民に対して恐怖政治を開始した。初日には約116人が捕らえられ、市内の路上で吊るされた。ドイツ軍は無差別に容疑者を捕獲して、処刑した。死刑はハリコフ市街の中心部の通りの広場で、公開して執行された。絞首刑して吊るされた者の死体は何週間も吊るされた。地元市民を恐怖で威嚇した。1941年11月にドイツ軍のハリコフ司令部が、ソ連製のラジコン地雷で爆破された。その後に、ウクライナ人の処刑が再び繰り返され、数十人が絞首刑にされた。ドイツ軍にウクライナのハリコフが占領されてから数週間後に、ハリコフ市内のユダヤ人をトラクター工場の兵舎に強制連行が始まった。1941年12月からユダヤ人、ロマ、その他の国籍の膨大な市民がハリコフの郊外のドロビツキー・ヤールで銃殺された。同時期の12月には、サブールキの精神病院の患者約400人が郊外に連行されて、射殺された。

 ハリコフでは、ドイツ軍が毒ガスを放出して、不適格者を排除して駆除して死滅する機械であるガスワーゲンを使用した。そのドイツ軍の毒ガス操作の運転手は、1943年12月にソ連の裁判所で有罪判決を受け、死刑を執行された。ハリコフでのドイツ軍は残虐行為が際立っていた。子供シェルターを作り、多くの10歳以下の子供たちが意図的に飢えさせ、子供の身体が衰弱した後に、ドイツ空軍のパイロットに輸血するために、「飢えた」血液が採取された。死んだ子供の人数は不詳であるが、数百人は想定された。

 ソ連軍兵士の捕虜も異常なほど残酷に処分された。1943年3月の第2次ハリコフ攻撃では、コールドマウンテンの強制収容所で数千人が殺害された。負傷した数百人のソ連軍兵士は、ナチス・ドイツの親衛隊は生身でソ連軍兵士を焼却した。1941年の夏には約100万人近くいたハリコフの人口は、わずか2年間のナチス・ドイツ軍の占領により、1943年秋の時点で合計20万人ほど激減した。ハリコフ裁判が、1943年12月15日から12月18日までソビエト連邦のハリコフの軍事法廷で開廷された。ソビエト軍が初めてナチス・ドイツ軍兵士の戦争犯罪であるハリコフ裁判を執行して、秘密警察3人を死刑に処した。



2022年1月26日水曜日

太平洋戦争で硫黄島の海岸には、日本軍に上陸して殺害されたアメリカ軍兵士の死体と物資が至る所で火山灰の砂浜に散乱した。

1945年2月19日からアメリカ軍は、硫黄島に上陸して侵攻した。硫黄島の海岸の砂浜には、上陸したアメリカ軍兵士の死体と物資が散乱した。アメリカ軍兵士の凄惨な死体が砂浜の至る所に倒れた。硫黄島への最初に上陸して死亡したアメリカ軍兵士の死体が、車両や船の残骸に囲まれた火山灰の中に横たわった。火山性の砂に埋もれ、容赦ない砲撃を受けていた上陸用舟艇から飛び降りた。彼が最初に目にしたのは、仰向けに倒れ、口から血を流している仲間のアメリカ軍兵士だった。火山性の粗い砂が人と機械の動きを妨げ、彼らは必死になって浜辺に上がっていった。 海兵隊の前進を可能にするために海軍の砲撃がおさまると、日本軍は地下の要塞から出てきて、侵攻部隊に対して激しい砲撃を開始した。

 2月19日の午前10時過ぎに、アメリカ軍は海岸に約9,000人と物資で埋め尽くした。突如に日本軍の機関銃や迫撃砲、重砲などあらゆるものがアメリカ軍が混雑した浜辺に降り注ぎ始め、瞬く間に悪夢のような血の海へと変貌した。火山灰では人を寄せ付けない地形のために、日本軍の攻撃に対する防御が困難となった。火山灰のために、足場を確保することも、日本軍の攻撃からアメリカ軍を守るための塹壕も作ることが困難であった。最大の混乱と死傷者を出すために、硫黄島に上陸した地点でアメリカ軍兵士で埋まり、完全に露出してから、日本軍は攻撃した。最初に上陸した先頭部隊のアメリカ軍兵士が、浜辺から隔てられている低地の段丘を登り始めた時点で突如に日本軍から攻撃された。砲兵隊、ロケット弾、迫撃砲、機関銃、ライフル銃などの弾丸が、南と北の高台からの銃火器から身を守れないアメリカ軍兵士たちに降り注いだ。射撃陣地は他の射撃陣地に完全に通じて、射撃の層は潜伏した。多くのアメリカ軍兵士は、隊員全員が倒れるほどの爆発的な火の粉の中で殺害された。

 日本軍兵士はどこにでもいるのに、日本軍の姿がほとんど見えなかった。火山砂の急斜面をじりじりと登り、その下の砲弾の穴に身を寄せた。バンカーは精巧なトンネルシステムに接続されて、火炎放射器と手榴弾でクリアされたバンカーは、トンネルを移動する日本軍によりすぐに再占領された。アメリカ軍は射撃を予期せずに、再占領された掩蔽壕を通り過ぎたため、多くの死傷者を出した。上陸後3日目の犠牲は、すでに膨大なものとなった。アメリカ軍兵士は約2,300名の死傷者を出し、そのうち約558名が死亡した。3月26日までの約36日間の攻撃で、6,800人の死者を含む約26,000人以上のアメリカ人が犠牲になった。約2万人の日本軍兵士のうち、生き残ったのは1,083人だった。




2022年1月25日火曜日

ソ連軍兵士は、殺害して地面に転がるドイツ軍兵士の死体を傍らに、ベルリン市街戦では建物と建物の間で迅速に掃討した。

ソ連軍が首都ベルリン市街に侵入すると、戦闘は熾烈を極めた。ソ連軍兵士は、殺害して地面に転がるドイツ軍兵士の死体を傍らに、ベルリン市街戦で迅速に掃討した。街は廃墟と化し、道路には瓦礫が散乱して、戦車はほとんど機能せず、戦闘の多くは徒手戦、建物と建物の間で行われた。老人や少年を含むドイツ軍の守備隊が、約2週間にわたり必死になって戦った。ドイツ軍兵士の多くは病人や負傷者、栄養失調で、兵士が不足して、少年や老人も含めた。ドイツ軍の降伏する前日の5月1日の夜に、残存していたドイツ軍兵士のほとんどが、ベルリンから脱出して西部戦線に逃げ込もうとしたが、脱出できた者はほとんどいなかった。

 1945年4月16日から、ソ連軍はアドルフ・ヒトラーと第三帝国に対する最後の攻撃を始めた。ソ連軍が東部戦線から首都ベルリンに向けて攻撃した。地下壕に隠れている総統を執拗に追い詰めるソ連軍に、ベルリンは飲み込まれた。ヨーロッパの首都の中でも、美しく近代的で歴史的であるベルリンは瓦礫と化し、ソ連軍兵士はドイツ女性を集団レイプの対象として、企業や商店を略奪して、ベルリン市民を路上で殺害した。アドルフ・ヒトラーは、ドイツ国民のために命を捧げると公言しながら実行しなかった。ゲルマニアの巨大なドイツ帝国を支配すると夢見て、地図上で架空の軍隊を動かした。4月30日にヒトラーは遺書を書き、長年の愛人であるエヴァ・ブラウンと結婚した後に、一緒に帝国首相官邸の地下壕で自殺して、二人の死体は首相官邸の庭で焼かれた。彼の死後にも、ナチス・ドイツのラジオはヒトラーが戦死したと隠蔽して報じた。1945年5月2日に、ソ連軍が占領されたベルリンにいたドイツ軍の将軍たちは、ソ連軍に降伏した。ベルリンの戦いによる人的被害は甚大で、ソ連軍兵士は約8万人以上の死者を出して、ドイツ軍の犠牲者は約5万人と約30万人以上のベルリン市民が、ベルリンの廃墟の中で殺害された。ナチス・ドイツの強制収容所では約1,100万人、連合軍と枢軸国との第二次世界大戦で、全世界で約6,000万人以上が殺害された。 

 連合軍の1944年6月6日のノルマンディー上陸から約2週間後に、6月22日からソビエト軍はドイツ軍に追撃を開始して、10月16日に、ソ連軍はドイツとの国境を越えた。ソ連のジョセフ・スターリンは、軍事力を誇示して、アメリカ軍よりも先にベルリンを征服を目指した。1945年4月16日から、近郊のオーデル川沿いからソ連軍はドイツの首都ベルリンに対する最終攻勢を勃発した。挟み撃ちにしてベルリンを包囲した。ベルリンへの迅速な突破を試みて、ベルリンの東約70kmに位置するシーロー高地を通過するのに4日間かかり、多くの犠牲者が出た。4月21日に、ソ連軍の最初の部隊がようやくベルリンに侵入した。ソ連軍は、ドイツ軍の必死の抵抗に直面した。西側の連合国は1945年4月16日から空爆を中止した。ソ連はベルリンでの地上攻撃を支援するために4月20日から空爆を続けた。1945年5月2日に、ベルリン守備隊はソビエト軍に降伏した。




2022年1月24日月曜日

第5次イゾンツォの戦いで、イタリア軍とオーストリア軍が激戦となり、オーストリア軍は初めて高濃度の毒ガス攻撃して、峡谷のイタリア軍兵士が毒殺された。

1916年6月29日に、イタリア北部のカルソ地方のサンミケーレ山周辺の第5次イゾンツォの戦いで、イタリア軍とオーストリア軍が激戦となった。オーストリア軍は初めて高濃度の毒ガス攻撃して、峡谷に位置するイタリア軍兵士が毒殺された。オーストリア軍の爆撃、煙、大量のフォスゲン毒ガスの化学兵器の弾幕が、マスクも装着できないイタリア軍兵士を殺害して崩壊させた。前線にいたイタリア軍兵士は、ガスマスクもつけず、睡眠している兵士はほぼ全員が死亡した。ガスマスクを装着したオーストリア軍が追撃した。イタリア軍は約6,900人、オーストリア軍は2,000人を損失した。

 第一次世界大戦中の1915年、サン・ミケーレ山はイタリア軍とオーストリア軍の激しいイゾンツォの戦い(Battle of the Isonzo)の戦場となった。イゾンツォの戦いは、イタリアとオーストリアの境界にスロベニア西部からイタリア北東部にかけて流れるイゾンツォ川周辺で行われた複数の戦いである。イタリア王国軍とオーストリア=ハンガリー帝国軍が衝突した。イゾンツォ川(1915年5月13日から1917年10月27)の犠牲者は、イタリア王国軍は約645,000人、オーストリア・ドイツ帝国軍は約450,000人が死傷した。

 1915年5月13日に、イタリア王国軍は、未奪還地域の占領を目指してオーストリア=ハンガリー帝国に宣戦を布告した。イタリア王国は、6月に当時のオーストリア領であったイゾンツォ川流域に進攻したが戦線は膠着して、イゾンツォの戦いでは前後12度にわたる会戦が繰り返された。12度目の会戦となる1917年10月のカポレットの戦いにて、ドイツ軍の参戦を受けたオーストリア軍はイタリア軍を壊滅して遁走させて、イゾンツォ川流域を完全に占領した。イタリアがイゾンツォ川流域を奪回するのは、オーストリア=ハンガリー帝国が1918年に休戦した後の事である。一連の戦いで、約100万人以上のイタリア軍とオーストリア軍兵士が死んだ。

 1917年5月に、イタリア軍は第10次イゾンツォの戦いを勃発するも、カルソ地区でのオーストリア軍の反撃により、一部の地域が再奪還された。イゾンツォの戦いでの連合軍の支援が再び提起されるも頓挫した。イタリア軍は8月17日に第11次イゾンツォの戦を勃発して、ゴリツィアの北にあるバインジッツァ高原の大部分を占領した。長期にわたる膠着により、イタリア軍は9月12日に攻撃を中止した。イタリア軍の攻勢は、オーストリア軍の攻撃を強化して、ドイツ軍が、オーストリア・ハンガリー軍の崩壊を防ぐために、イタリア戦線へのカポレットの戦い(第12次イゾンツォの戦い, 1917年10月24日~12月19日)に参戦した。第一次世界大戦中にイタリア軍の最も悲惨な大犠牲となった。オーストリア・ドイツ軍の攻勢の前に、イタリア軍が撤退した。オーストリア軍とドイツ軍の追撃により、戦意を喪失した約60万人以上のイタリア軍兵士が脱走または降伏した。




2022年1月23日日曜日

ビルマのフーコンの戦いで、中国国民党軍が日本軍を追撃して、陥没した路端には、殺害された日本軍兵士の死体が散乱した。

大東亜戦争にて、ビルマの北部のフーコン谷地(Hukawng)の戦いで、中国国民党軍は日本軍を壊滅して、さらに撤退する日本軍を追撃した。その途上にて、地面が陥没した両側の路端には、中国軍に殺害された日本軍兵士の死体が散乱した。悪臭の死臭が漂うために、中国軍兵士は鼻をふさぎながら追撃した。アメリカ軍は、中国軍と連携して日本軍を砲撃した。フーコンは、ビルマ語では悪魔が住んでいる場所と呼ばれ、もともと中国雲南省の一部であったが、後にビルマ地域に割り当てられた。ビルマのフーカン谷地がフーカンの戦いの戦場となった。

 1943年10月に、インドに駐留した中国軍は、中印路と石油ルートの占領するために、インドとビルマ国境から侵攻して、キャブマン山脈を越えてビルマ北部の要所を攻略した。一方、日本軍側は、1943年10月23日に対抗してフーコンの戦いが勃発した。日本軍は、荒野の山中という過酷で原始的な環境により、甚大な死傷者の犠牲が出た。遠征した日本軍兵士たちの残骸てなる死体が散乱した。最悪の戦場となった湖江流域では、底なし沼が延々と続いて、いたるところで蚊、瘴気、毒虫、野生動物などが、日本軍兵士に侵入した。日本軍の退路となったビルマの最北端の渓谷では、悪天候による雨季の鉄砲水による低地の平野につながる湿地により渡河が困難となった。木の幹を引っ張って、茂みを這いながら歩行した。山道では下手をすると崖から落下した。何日も毒虫に襲われて、死傷した。食料が不足して、栄養失調となり衰弱して餓死した。日本軍側は、中国遠征軍から約12キロ離れた湖江流域を占領していたが、この地域の日本軍は、数々のフーコンの戦いの末に全滅した。

 大東亜戦争にて、日本軍は1942年5月から中国と国境を繋ぐビルマを占領した。中国軍は、ビルマから中国に通じたイギリス軍やアメリカ軍からの補給を断たれた。日本軍は、1943年3月にはさらにビルマの多方域を占領するビルマ方面軍を編成した。1943年10月に、日本軍はビルマと国境を介する雲南方面に侵攻した。不意に10月23日に、中国軍とアメリカ軍が、ジャングルが密集したフーコン谷にて、日本軍に襲撃した。連合軍による攻撃と砲撃により、日本軍は甚大な犠牲を伴った。日本軍は、ジャングルのフーコン谷地から平地のマインカン地域に撤退した。1944年1月13日には、退路を突破した日本軍は犠牲を伴って、2月中にマインカン地域まで撤退した。3月5日には、崩壊しながらワローバン地域にまで撤退した。その悲惨な戦況下で、日本軍は3月8日から、無謀にもインド北東部のインパールに侵攻して7月3日に壊滅した。




2022年1月22日土曜日

17歳の山下國男は、長崎原子爆弾の爆心地から約2.5km離れた長崎駅で被爆して、背中から両腕の火傷からケロイドが膨隆した。

長崎原子爆弾に被爆した17歳の山下國男さんは、爆心地から約2.5km離れた長崎駅で火傷を被爆した。背中から両腕にかけた火傷から重度のケロイドが膨隆していた。1946年12月14日に原爆傷害調査委員会(ABCC)の設立準備のために来日したマンハッタン計画のポール・ヘンショー博士が撮影した(2013年10月17日アメリカ国立公文書館で特定)。右手に特定するための標識カードを所持して写真を撮影された(Kunio Yamashita, 山下國男, 14 Dec,1946)。原爆の生存者は重度の火傷と放射能汚染による原爆症に苦しんだ。

 原爆傷害調査委員会(ABCC)から1975年4月1日に後継機関である放射線影響研究所(放影研)は、50年にわたり原爆被爆者とその子供たちの疫学的・遺伝学的調査を行ってきた。この調査プログラムは、放射線健康基準の主要な根拠となっています。ABCC(1947年-1975年)と放影研(1975年-現在)は、いずれも米国(米国科学アカデミーを通じて)と日本の共同事業です。

 1945年9月、アメリカ軍は、原爆の医学的影響を調査するため、広島と長崎に調査団を派遣した。1945年10月12日、GHQの命令により、都築博士率いる日本側調査部隊と統合され、「原爆影響調査合同委員会」が発足した。原爆影響合同委員会の膨大なデータは機密報告書となった。

 1946年11月26日のトルーマン大統領指令から、原子爆弾の人間への生物学的および医学的影響に関する長期的かつ継続的な研究を行うよう指示した。アメリカ学士院(NAS)は、ABCC、その後の放影研を監督した。原爆調査合同委員会がアメリカに戻って報告書を出した。その後の1946年5月28日、アメリカ軍とアメリカ学士院(NAS)は、日本の原爆の死傷者を丹念に追跡調査するを提言した。アメリカ軍の要請を受けて、医学部門は、シカゴ大学のオースティン・M・ブルース博士、マンハッタン計画のポール・S・ヘンショー博士、アメリカ軍医療部隊のカール・F・テスマー中佐(後にABCCの初代常任理事)とジェームズ・V・ニール中尉であった。ニールは初代所長であり、それ以来、被爆者の子供たちの遺伝学プログラムを指揮した。グループは1946年11月に日本で会合した。その正式な名称として「原爆傷害調査委員会(ABCC)」と呼称した。

 1947年3月に広島日赤病院の一部に広島ABCCを開設した。1948年7月に新興善小学校内長崎ABCCを開設した。ABCCは1948年から1950年の間に急速に拡大した。1948年初頭に、ABCCはアメリカ人3名、日本人25名のスタッフで開始した。最終的には広島と長崎の両市の約7万人の子供を対象とした大規模な遺伝学的研究が、開始された。小児科、眼科調査、白血病調査が開始され、広島の比治山ABCCの建設が始まった。1950年には成人医学調査が開始され、外国人143人、日本人918人の合計1,061人となった。しかし、朝鮮戦争(1950~1953年)が始まると、ABCCの研究に財政的な制約を伴った。