2021年11月22日月曜日

日露戦争の遼陽会戦で、日本軍が占領した遼陽地内で、ロシア軍のスパイである諜報員と容疑された中国人を銃殺した。

日本軍は日露戦争の遼陽会戦は1904年8月24日に勃発して、ロシア軍は奉天へ全面撤退をした。日本軍が占領した遼陽地内で、ロシア軍のスパイである諜報員と容疑された中国人を銃殺した。中国人諜報員に対して、通訳を介して日本軍憲兵は銃殺刑を宣告した。銃殺刑される中国人は座位で支柱に縛られて目隠しされた。多数の日本軍兵士の見物人が取り巻いて、見せしめの公開の銃殺刑が執行された。日露戦争中は、日本軍もロシア軍も、現地の多数の中国人を敵方の陣地に送り込んでは、秘密情報を抜き出していた。

 日本軍における死刑の執行は銃殺刑であった。陸軍刑法21条に「陸軍ニ於テ死刑ヲ執行スルトキハ陸軍法衙ヲ管轄スル長官ノ定ムル場所ニ於テ銃殺ス」。 海軍も準じて、海軍刑法16条に「海軍ニ於テ死刑ヲ執行スルトキハ海軍法衙ヲ管轄スル長官ノ定ムル場所ニ於テ銃殺ス」。その方法は、処刑者の眼を布で縛るか、顔全体を覆う麻袋を頭から被せた上で立たせ、これに対し上官が指揮する1部隊が一斉射撃をして銃殺刑を執行した。

 銃殺刑は、通常、軍人にしか行われない死刑執行方法であった。銃殺方法は単純で、囚人をレンガの壁やその他の重い壁に向かって立つか座るかする。5人以上の兵士が数メートル離れたところに並んで、銃を囚人の心臓に向けて撃つ。ほとんどの場合、囚人は目隠しをされた状態で銃殺隊の前に立つか座らせる。目隠しをするのは、死刑執行人のためでもあり、囚人のためでもある。死刑囚が死刑執行人を直接見ると、任務を執行している死刑執行人にとって、よりストレスのたまる状況となる。

 射殺隊は必ず発砲しなければならない。上官の合図で、全員が一斉に銃を撃つので、射殺隊のどのメンバーが命中弾を発射したのか不明としている。銃殺隊は、自分が致命的な射撃を発砲しなかったと後で信じた。死刑囚が数発の銃弾を受けて生きていると、射手が至近距離で囚人を射殺する。

 戦争中には、軍隊では裏切り行為をした兵士やスパイである諜報員や戦争に参加しないで脱走した兵士を処分するために銃殺刑を執行した。無実の市民を虐殺や強姦などの暴力的な犯罪を犯した軍人に対しても、銃殺刑の処罰の場合もあった。銃殺刑は現代では執行されないが、まだ多くの国では犯罪を犯した兵士や諜報員を処罰する合法的な手段として採用されりている。一部の軍隊は、侵略してきた国の市民を虐殺するために銃殺刑を使った。この凶悪な戦争犯罪は人道に対する罪と見なされて、国際刑事裁判所で処罰される可能性がある。 



2021年11月21日日曜日

ライン川とリッペ川を攻撃した連合軍が、殺害したあまりにも若い死体と戦傷して重態となったドイツ軍兵士が荒野に倒れ込んだ。

1945年3月24日から31日に、連合軍がライン川とリッペ川の南を渡河する作戦に参戦した。対岸で防御したドイツ軍若年が攻撃されて、殺害された死体(下)と戦傷して重症の若いドイツ軍兵士(下)が荒野に倒れ込んだ。連合軍は、ドイツに進駐するにつれて、ドイツ軍兵士のあまりの若さに驚嘆して可哀想であった。終戦直前にはドイツ軍は予備役を持たず、どんどん若い青年を徴兵していた。

 1939年の開戦までに、ヒトラー・ユーゲント(Hitlerjungend)は戦争と外国の領土の占領のために、若者たちの動員を準備した。1926年に設立されたナチス党内の青年組織に由来する。10歳から14歳の男子と女子、14歳から18歳の男子と女子の4団体で構成された。1930年代初頭のヒトラー・ユーゲント参加した若者たちは、実用的な技術と国家社会主義の思想を洗脳した。すでに18歳になっていた若者は、ドイツの戦争に向けて準備した。彼らは、兵士、警察官、秘書、看護師、医師などに従事した。1939年3月に、10歳から18歳までのドイツ人の若者は参加が法律で義務付けられた。1940年までに10歳から18歳の約82%にも相当する720万人が会員となった。

 ドイツが戦争に負けることが明らかになると、ナチス・ドイツ軍は人手が足りなくなった。連合軍の空襲により、ドイツの都市の大部分が破壊され、物流の障害を引き起こし、住宅や物資の不足を深刻化させた。攻撃の際に、ドイツ軍は若者を対空砲の操作に使用した。若者たちは戦争に対する様々な救援活動に使用された。

 1943年に、ナチス親衛隊は、ヒトラー・ユース(Hitlerjunge)の特別な部門を設立した。この部門は、1926年に生まれた少年たち(1943年には16歳か17歳になっていた)で構成された。この青年隊員は当初、フランスに配備された。ノルマンディーの戦いやベルギーでのバルジの戦いでは、若者たちは連合軍と戦った。1943年以降、戦局が悪化するとユーゲントは兵として動員されたが、十分な装備や訓練を受けない彼らは多くの死傷者を出した。ヒトラーユーゲントはベルリンの戦いにおいても戦闘に参加し、多くの戦死者を出した。その後に、ドイツの降伏により解体消滅した。

 戦争末期には、16歳から60歳までの男性が、1944年9月に設立された新たな防衛民兵である国民突撃隊に徴兵された。この民兵は、連合軍との最後の防衛戦でドイツ国防軍に合流した。貧弱な装備と不十分な訓練で、何千人もの若者がドイツの戦争のために戦い、戦傷した。戦後は廃止されたが、何百万人もの若者が参加した組織は、20世紀のドイツ社会に多大な影響を与えた。




2021年11月20日土曜日

広島原子爆弾が炸裂した後に爆心地周辺で救護活動した元日本軍兵士が、5年後に残留放射線の被爆により白血病が発症して死亡した。

広島原子爆弾が炸裂時には、元日本軍青年兵士は広島市内では被爆していなかった。広島原子爆弾が投下されて炸裂した直後から、爆心地周辺で救護活動をしていた元日本軍兵士である。その5年後に、白血病が発症して死亡した。残留放射線に強く被爆して、白血病が発症したと推定された。白血病による結節が、全身に発生していた。被爆がまったくなく、無傷と思われた人たちが、被爆後に、月日が経過してから発病して、死亡した事例である。白血病により、皮下脂肪に炎症が起こり、皮膚に小さな卵くらいまでの大きさのやや膨らんだ赤色や紫色の斑点である結節が多数発生する。結節部には圧痛があり、発熱や倦怠感、関節痛など全身症状を伴う。皮疹は融合して大きな紅斑を形成して、赤紫色を呈するようになる。

 原子爆弾によって発生したエネルギーのうち、約5%が初期放射線となり、約10%が残留放射線となった。放出される残留放射線は、爆発後24時間で約80パーセントが放出された。放射線は、人体の奥深くまで侵入して、細胞や組織を破壊して、血液を変質させ、骨髄などの造血機能が低下して、肺や肝臓等の内臓を侵すなど深刻な障害を引き起こした。爆発後に、長期間にわたって残留放射線を地上に残した。救護活動などのため市内が被爆した後に参入して、直接被爆していない人にも原爆症を発病した。原爆投下後、爆心地近くには放射性降下物や中性子による誘導放射能など残留放射能が存在し、その後に放射線を被爆した。広島および長崎における原子爆弾 放射線の日米共同再評価(DS86: Dosimetry System 1986)として、原爆線量再評価検討委員会が1986年3月に新しい線量評価システムを公表した。長崎原子爆弾は、プロトニウム型であり、Trinity実験と同一であり、推定精度は高かった。しかし、広島原子爆弾は、ウラニウム型であり実測値が乏しく精度が低下して大幅な誤差が出た。

 残留放射線には、核分裂によって生じた放射性物質から放出される放射線と、核分裂していないウランから放出される放射線がある。最初の放射線に核反応して発生した放射性物質が発する放射線も含まれる。核爆発による残留放射線は、そのほとんどが放射性降下物による。放射性物質は、兵器の破片、核分裂生成物、地上での爆発の放射壌から発生する。核分裂反応で発生する核分裂生成物は約300種類以上あり、多くは放射性物質で、半減期が大きく異なる。半減期が数分の1秒と非常に短いものから、数ヶ月から数年にわたり危険な物質もある。放射性物質の主な崩壊様式は、ベータ粒子とガンマ線の放出である。残留放射線は、土壌や建築物の資材が中性子線を浴びることによって放射線を放出するようになる誘導放射線と、地表から巻き上げられた放射性物質を含んだチリやススの一部が雨などと共に地上に降下する放射性降下物がある。残留放射線は外部被爆に加え、食物や空気などと一緒に取り入れる内部被爆により、人体に影響を及ぼす可能性がある。




2021年11月19日金曜日

アメリカ人の請負業者の4人が乗った車が2004年3月31日に、イラク戦争後のファルージャにて、待ち伏せ攻撃を受けて炎上した。

アメリカ人の請負業者の4人が乗った車が2004年3月31日に、イラク戦争後のファルージャにて、待ち伏せ攻撃を受けて炎上した。逃げようとした4人のアメリカ人は、銃撃されて虐殺された。イラク人らはのリンチにより焼かれた死体を切断して、公共の場所に吊るされた。イラクでアメリカ人の労働者4人がイラク人に虐殺された。虐殺されたアメリカ人は、ブラックウォーター社の契約者4人である。ファルージャで殺害された4人は、連合軍と協力している請負業者である元海軍特殊部隊員の傭兵がファルージャに派遣された。スコットン・ヘルベンストン(38歳)、ジェリー・ゾフコ、(32歳)、マイケル・ティーグ(38歳)、ウェスリー・バタロナ(48歳)であった。

 ファルージャの住民は「ファルージャはアメリカ人の墓場だ」と唱えながら、2台の四輪駆動の民間車を炎上させた。アメリカクー人が悲惨な襲撃を受けた後に、歓声を上げた。「我々はイスラム教のために血と魂を犠牲にする」と唱えたイラク人もいた。一人のイラク人男性が金属棒で黒焦げの焼死したアメリカ人の死体を殴って一部を粉砕した。黄色いロープを黒焦げの死体に結びつけて、車に引っ掛けて町中を引きずり回した。一部の群衆が、死体を吊るせと叫んだ。ユーフラテス川に架かる緑色の鉄橋に、黒焦げでぐちゃぐちゃになった2つの死体が吊るされた。

 請負業者のブラックウォーター社から派遣された傭兵たちの任務は、食品供給会社(ESS)のトラックを保護することだった。トラックは、アメリカ軍に厨房機器を輸送すめために、傭兵を乗せたトラック3台とSUV2台の車列であった。車列が通過するのを隠れて待って、発射された銃撃で車両を攻撃して、傭兵を虐殺した。イラク人らは傭兵の死体を車から降ろし、ガソリンをかけて炎上した。その攻撃の4日後に、アメリカ軍はファルージャへの本格的な攻撃を行って、2004年4月4日から5月1日にかけて、第一次ファルージャの戦いが勃発した。それに対して、傭兵の親族は、待ち伏せ攻撃は計画されたものである。あまりにも巧妙であり、反乱軍ではなく、第一次ファルージャ攻撃するための特別に用意された罠だと訴えた。

 ファルージャ事件は、燃え盛る車両や脇に横たわる死体、橋に吊るされた黒こげの死体の衝撃的な映像が、アメリカから世界中で報道された。アメリカ軍は犯人を司直の手に委ねることをファルージャ側に要求したが受け入れられなかった。アメリカ軍を基幹とする連合軍は、ファルージャの市街地を包囲する広範なアンバール地域において侵攻を開始した。




2021年11月18日木曜日

第二次世界大戦の1940年のベルギーの戦いにて、ベルギーに侵攻したドイツ軍がイギリス軍兵士を殺害して、ヘルメットが抜けた死体が軍用トラックの後輪に倒れ掛かった。

第二次世界大戦の1940年のベルギーの戦いにて、ベルギーに侵攻したドイツ軍が、イギリス軍兵士を殺害した。ドイツ軍に殺害されてヘルメットが抜けた死体が、イギリス軍用トラックの後輪に倒れ掛かった。ベルギーの戦いは、1940年のフランス戦の一部として、1940年5月10日から5月28日の18日間にわたって勃発した。第二次世界大戦におけるドイツ軍の攻撃的なベルギー作戦である。連合軍は、ベルギーの戦いがドイツの主力攻撃と考え、ベルギーでのドイツ軍の攻撃を阻止しようとした。ベルギー軍が降伏して、ドイツ軍がベルギーを占領した。

 1940年5月10日、ドイツ軍はベルギー侵攻を行った。ドイツ軍はオランダとベルギーの両方を同時に攻撃し、ドイツ軍の西側への侵攻の起点となった。ドイツ軍は、中立国であったベルギー、オランダ、ルクセンブルクに、広い戦線で西部作戦を開始した。当初、ベルギーは第一次世界大戦では連合国側に加わっていた。戦争が終わると、ベルギーは中立政策によって安全を求めた。ベルギーでは、連合国に協力するとドイツの侵略を招くと考え、反戦感情が強かった。ドイツ軍がマジノ線に近いセダン地区を突破すると、フランス軍は退却した。ベルギー軍は防御陣地を放棄した。

 1939年9月1日のナチス・ドイツ軍のポーランド侵攻を受けて、イギリスはドイツに宣戦布告した。BEFがフランスに派遣さて、ベルギーの国境沿いに配置された。BEFは、ドイツ軍が西部戦線を攻撃した電撃戦には対応できなかった。ドイツ軍の侵攻に対して、BEFは北上して、オランダとベルギーを救援した。しかし、オランダはBEFの到着前に、ロッテルダムの爆撃を受けて5月17日に降伏した。5月20日にドイツ軍はフランス北部のアブヴィル近くの海峡に到達して、レオポルド王とベルギー軍を遮断した。5月28日に、レオポルド王は連合国や内閣に相談もなく、ベルギー軍をドイツ軍に降伏させた。ベルギーの降伏により、BEFは危機的状況に陥った。イギリス軍はベルギーのダンケルク港からの撤退を余儀なくされた。イギリス軍は包囲されたが、ドイツ軍に追撃しない命令で、BEFの兵士や多くのフランス軍兵は避難ができた。一方で、フランス軍は包囲されたが、ベルギー軍が降伏しても戦い続けて、イギリスは使える限りの航空機と船舶で海峡を渡り、ダンケルクから約34万人を避難させた。

 ベルギーの戦いで犠牲者の正確な死傷者数はわかっていない。ベルギー軍兵士の犠牲者は、死者約6,090人、捕虜約200,000人、負傷者約15,000人と推定された。イギリス軍兵士は5月10日から6月22日までの犠牲者数は、死者・負傷者・捕虜が約6万8000人、破壊された車両が約6万4000台と推定された。ベルギー遠征中の、フランス軍の死傷者数は、戦死者9万人、負傷者20万人であった。一方で、ドイツ軍兵士は約10,232人が死亡し、42,500人の兵士が負傷して、約8,463人の兵士と将校が行方不明となった。




2021年11月17日水曜日

ニコラエフスク(尼港)事件により、赤軍パルチザンは、1920年3月には在留の日本人の手足を針金で縛って虐殺した。

ニコラエフスク(尼港)事件により、赤軍パルチザンは、1920年3月には在留の日本人の手足を針金で縛って虐殺した。虐殺で弾薬が不足するために、犠牲者を銃剣で刺して、アムール川の氷の下にある穴に突き込んだ処刑もあった。町の住民数千人がその方法や他の処刑方法で虐殺された。殺害された日本人の死体は、コシュカ岬の向かいにあるアムールの氷の上に持ち出され、膨大な死体は山積みにされた。男性117人と女性11人がいた日本領事館は、砲弾により火刑で虐殺された。

 ロシア革命後のロシア内戦期、1920年の春から夏にかけて、シベリアのアムール川河口の小都市であるニコラエフスク(尼港)で虐殺事件が勃発した。赤軍パルチザンによって占領された町では、1920年5月23日から31日までに約6,000人の住民が虐殺されて、略奪された建物はことごとく破壊され、廃墟となった。犠牲者はロシア人ばかりではなく、日本人居留民と日本軍守備隊およそ約700名余りが虐殺された。赤軍パルチザンとロシア住民の犠牲者のデータは不詳である。

 赤軍パルチザンの約4,300人が、1920年2月にニコラエフスクを包囲した。日本人は3月11日から12日の夜に、警告なしで突然に赤軍パルチザンの本部に発砲と砲撃をした。赤軍パルチザンの反撃を受けて、避難した日本軍は3月15日までに全滅した。日本軍が援軍を送った5月までに総人口の約半分に相当する約6000人の住人を無差別に虐殺した。さらに駐留日本軍兵士約684人、日本人住民約292人、日本領事約5人も虐殺に巻き込まれた。4月4日から日本軍が攻撃すると、赤軍パルチザンはニコラエフスク市街を焼き払って撤退した。対抗した日本軍は1918年8月からのシベリア出兵を延長する口実となった。ニコラエフスク事件で、日本軍は1920年4月22日にサハリンを占領した。1921年11月のワシントン会議から国際的圧力で、1921年10月にはシベリアから撤退した。1925年のソ連対日参戦の調印で、サハリン北部からの撤退した。




2021年11月16日火曜日

イタリア軍兵士はエル・アラメインの戦いにてイギリス軍に殺害され、死体は息子の写真を右手に持ったように撮影された。

第二次世界大戦の北アフリカ戦線の1942年のエル・アラメインの戦いにて、イタリア軍兵士はイギリス軍に殺害された。イタリア人兵士の死体は、息子の写真を右手に持って死んだように撮影された。エル・アラメインの戦い(El-Alamein; 第一次会戦は1942年7月1日〜7月27日、第二次会戦は1942年10月23日〜11月11日)が勃発した。エジプト首都カイロから西に約250kmのエルアラメインにて第一次会戦の膠着状態から第二次会戦で終結した。北アフリカ戦線における枢軸軍の敗退となった。1942年11月2日から撤退を開始したイタリア軍部隊は、自動車の輸送手段がなくイギリス軍に掃討された。

 イタリア軍が、1940年9月13日にリビアからエジプトに侵攻した。イタリア軍が、1948年12月から北アフリカのイギリス軍に大敗を喫した後に、ドイツ軍が1942年1月から参戦して、スエズ運河を奪うためにリビアから北アフリカ沿岸を東侵して、ドイツ軍とイタリア軍は、1942年1月にベンガジからトブルクを占領してエジプトを東侵した。1942年6月30日にエル・アラメインのイギリス軍の陣地に激突した。ドイツ軍は7月1日にエル・アラメインを攻撃したが、イギリス軍が反撃に出て消耗戦になった。7月中旬にもドイツ軍はエル・アラメインに留まり、相互に防戦一方となり第1次会戦は終結した。第一次会戦での連合軍の損害は約15万人の兵士のうち約1万3250人が死傷し、枢軸軍側は約9万6000人の兵士のうち約1万人が死傷した。

 ドイツ軍が守勢に回る中で、イギリス軍は大規模な軍備を整え、第2次エル・アラメインの戦いで攻勢した。イギリス軍は南側のカッタラ窪地に機械化部隊に通行不能のため、エル・アラメインを防衛した。1942年10月中旬までに、イギリス軍はドイツ・イタリア軍の約2倍の兵士と戦車を投入した。イギリス軍は戦場での空中戦が優勢となり、ドイツ軍は戦線に数十万個の対戦車地雷と対人地雷を撒いて防御策を構築した。

 自由フランス軍による南部での陽動作戦と、イギリス軍は海岸近くの北部が主な攻撃して、枢軸軍の攻撃力を消耗させた。10月23日からイギリス軍は、約800門以上の大砲の砲撃をして、イギリス軍の歩兵と戦車は地雷原と戦車砲火で攻勢が頓挫した。オーストラリア軍とニュージーランド軍の侵攻により、イギリス軍が枢軸軍の防御網を突破した。11月2日、ドイツ軍部隊は撤退を開始し、自動車の輸送手段を持たないイタリア軍部隊はイギリス軍に掃討された。11月4日までに、枢軸軍の機動部隊は完全に撤退した。11月8日のイギリス・アメリカ軍の北アフリカ上陸作戦によって枢軸軍は北アフリカからの撃退された。第2次会戦の犠牲者は、約195000人の兵士の連合側は死者約4,800人、負傷者は約9,000人であり、枢軸軍側は兵力110,000人のうち、死者は約9,000人、負傷者は約15,000人、捕虜は約30,000人に及んだ。




2021年11月15日月曜日

国際諜報事件のスパイとして、1904年4月21日に横川省三と沖禎介はハルピン郊外でロシア軍により銃殺刑が執行された。

国際諜報事件のスパイとして、1904年4月21日に横川省三と沖禎介はハルピン郊外でロシア軍により銃殺刑が執行された。横川省三は、1904年に日露の国交が断絶すると特別任務班に志願して、沖禎介らと東清鉄道フラルギー駅付近の鉄橋の爆破を企図した。ロシア軍に発見されて逮捕されて、ハルビン郊外で共に銃殺された。戦後に勲5等を授けられ、1965年に靖国神社に合祀された。沖禎介も、1904年日露戦争が勃発すると,志願して特別任務班に入り、横川省三らと共にロシア軍兵站の大動脈である東清鉄道のフラルギー駅付近の鉄橋を爆破しようとしたが、隣駅のツルチハ駅付近で逮捕されて、ハルビン郊外で銃殺刑に処せられた。戦後勲5等を授けられ、1965年に靖国神社に合祀された。

 第二次世界大戦後に、シベリアに抑留された旧日本軍兵士らが旧ソ連領内で強制的に働かされた。ロシア公文書にて旧日本軍将兵らの114人がスパイ罪などで銃殺刑の判決を受けていた。シベリア抑留帰還者らがこれまでに銃殺を証言していた。

 国際諜報事件として1941年10月18日にリヒャルト・ゾルゲは逮捕されて、尾崎秀実と共に東京刑事地方裁判所で1943年9月29日に死刑判決が言い渡された。大審院上告棄却後に巣鴨拘置所で両者が1944年11月7日に絞首刑に処された。ロシアでは1964年11月5日にゾルゲの名誉回復が行われてソ連邦英雄の称号が与えられた。

 1953年6月19日にスパイのジュリアス・ローゼンバーグとエセル・ローゼンバーグの電気椅子に匹敵する死刑執行はほとんどない。アメリカの原子爆弾の秘密を盗み、スパイネットワークを監督し、核兵器の秘密をソ連に渡した罪に問われた夫妻は、冷戦時代に死刑にされた唯一のスパイとなった。ジョセフ・マッカーシーのマッカーシズム時代がますます激しくなる反共産主義への犠牲者となった。




2021年11月14日日曜日

1945年3月25日に、ライン川の東側で、渡河したイギリス軍兵士がドイツ兵の死体を横目に警戒しながら車道に沿って侵攻した。

1945年3月25日に、ライン川の東側で、渡河したイギリス軍兵士がドイツ兵の死体を横目に警戒しながら車道に沿って侵攻した。第二次世界大戦を終結させるために連合軍はライン川を渡ってドイツに侵攻した。1945年3月には、ドイツ北部に侵攻するために、約20万人の連合軍がライン川を渡った。

 撤退したナチス・ドイツ軍は、ベルリン侵攻を阻止するためにライン川沿いの橋を破壊した。連合軍は、戦車やトラックが渡河できる仮設の浮き橋を設置した。連合軍の約1万6000人の空挺部隊がドイツ国内で戦闘した。連合軍がライン川の渡河の際に、ドイツ軍は猛烈な機関銃で抵抗した。アメリカ軍はルール河流域、イギリス軍はドイツ北部の湾港、カナダ軍はオランダ侵攻した。ドイツ本土にて激しい戦闘により、連合軍もドイツ軍の犠牲者から多くの流血を伴った。

 ライン川には、ドイツ軍の撤退により多くの橋が吹き飛ばされた。連合国はドイツの川の防衛線に水陸両用の突撃を余儀なくされた。ライン川を横断するプルンダ作戦(Operation Plunder)が1945年3月23日に開始された。プルンダ作戦にて、連合軍は、トラックで運ばれた浮桟橋や上陸用舟艇を使ってライン川の横断した。イギリス軍は約3,968人が戦死傷して、アメリカ軍は約2,813人が戦傷して、ドイツ軍は約16,000人が捕虜となった。ドイツ国内の惨状により町は瓦礫となり、捕虜になったドイツ人が絶望して頭に手を当てて座り込んだ。

 1945年3月初旬に連合軍がライン川に到着すると、ライン川に架かるほとんどの橋がすでに破壊されていた。突撃して占領したレマーゲンの橋は、一部しか破壊されていなかった。約20マイルに及ぶ戦線を同時に横断した。ライン川を渡り、ルール渓谷に突入して、ドイツ軍を包囲して、西部戦線のドイツ軍の抵抗を終結させた。大規模な動員と移動が始まる第二次世界大戦で甚大な犠牲を伴ったライン川の横断が行われた。 




2021年11月13日土曜日

1945年9月に、日本占領軍総司令部(GHQ)は、サイクロトロンを原爆開発用機材と見なして、理化学研究所の2台を破壊して東京湾に捨てた。

1945年9月に、日本占領軍総司令部(GHQ)は、サイクロトロンを原爆開発用機材と見なして、仁科芳雄が作った理化学研究所の2台を破壊して東京湾に捨てた。さらに大阪大学の1台と京都大学の1台も大阪湾に廃棄した。太平洋戦争中の日本では、ウランがなく、資源も乏しく原子爆弾の開発は不可能であった。1943年3日に海軍委員会は、アメリカが原子爆弾を製造できる可能性は低いと報告した。1943年5月から、陸軍が主催するNI計画が開始された。ウラン鉱石からウラン235の分離、ガス拡散法、加熱実験、フッ化エチレン結晶、サイクロトロンに中性子の放射、1945年4月13日にアメリカ軍の爆撃機が東京を空襲して、理科研の49号棟が突然炎上して破壊され、日本の原爆開発は終わりを告げた。

 広島の上空で強力な新型爆弾が炸裂したのは1945年8月6日午前8時15分頃のことであった。物理学者などの間では原子爆弾の可能性が取りざたされていた。政府の要請で8月9日に仁科芳雄が調査のために広島に入った。日赤病院に残っていた未使用レントゲン写真乾板や電柱の碍子、動物などの骨、といった試料を東京に持ち帰って分析した。写真乾板の感光や硫黄・燐の放射化確認から、8月10日に新型爆弾は原子爆弾であったと大本営に報告された。日本政府は8月14日に国民に知らせた。010年8月9日のことである。「広島に原爆」と埼玉県川越市の同盟通信が、新型版弾の正体を説明する放送を傍受して、通信社分室が政府に報告していた。

  全ての物質が原子からできるも、量子力学が原子が安定しているのかを解いた。ラザフォードは1911年にキュリー夫人が発見したポロニウムの放射性同位体(RI:Radio Isotope)が発するアルファ線を金ぱくにあてて金原子の原子核の存在を実証した。しかし、原子核をより詳しく観察したり、十分な量のRIを製造するには、天然のRIから得られる放射線の強度では弱すぎた。ラザフォードは標的の原子核を破壊できるエネルギーまで人工的に原子核を加速する装置ー加速器の実現を強く訴えた。1930年代初頭に、加速器となったサイクロトロン、静電圧加速器、リニアックまたは線形加速器が新設された。特にサイクロトロン(円形加速度)は大強度の陽子や重陽子ビームを発生でき、はじめて強い放射能をもつ人工RIが製造できた。湯川秀樹が、1934年に電子よりはるかに重く、核の強い力を伝える中間子を予言した。日本では1937年に、仁科芳雄が世界で第2番目のサイクロトロンを理化学研究所に建造した。理化学研究所は、第1号サイクロトロン以来、第2号は太平洋戦争中の1943年に建造さそれた。1945年8月15日に終戦して、1951年9月8日のサンフランシスコ講和条約が締結されて1952年4月28日に発効された。その後に日本が正式に独立した後の1952年に第3号から、理研は合計で6台のサイクロトロンを建造した。




2021年11月12日金曜日

真珠湾攻撃により、奇襲した日本軍の戦闘機が真珠湾周辺の海岸に墜落した日本軍の搭乗員も、墜落して身体が粉々となり死亡した。

太平洋戦争が勃発した1941年12月7日日曜日午前7時48分からの真珠湾攻撃により、奇襲した日本軍の戦闘機が真珠湾周辺の海岸に墜落した。日本軍の搭乗員も、墜落して身体が粉々となり死亡した。アメリカ軍兵士が、粉々になって死亡した日本軍戦闘機の搭乗員を剣士した。攻撃した日本軍戦闘機の搭乗員には、ほとんど脱出用のパラシュートの装備もなかった。戦闘機が撃墜されることは、死の宣告となった。

 太平洋戦争の起点となった日本軍の真珠湾攻撃により、アメリカ軍兵士は約2,335人が殺害されて、約1,143人が戦傷した。アメリカ民間人は約68人が殺害されて、約35人が負傷した。日本軍兵士は、約64人が死亡して、約1人が捕獲された。太平洋戦争の最初の数時間で、アメリカは戦時中の最悪の損失を被った。日本軍の攻撃目標は、オアフ島全域の海軍艦艇と軍事施設であった。

 1941年12月7日の夜明けには、アメリカ太平洋艦隊の半数以上、約150隻の艦船と軍艦が真珠湾に停泊していた。太平洋艦隊の戦艦は1隻を除いてすべて入港して、そのほとんどがフォード島に面した岸壁に係留された。午前10時までに21隻の戦艦が沈没または損傷した。燃える飛行機や格納庫の煙が空を覆った。沈没した船から出る油が港に詰まった。真珠湾の艦隊が最も大きな被害を受けた。戦艦アリゾナが爆発して、全体の死傷者のほぼ半分となる約1,177人が殺害された。陸軍、海軍、陸軍空軍、海兵隊の施設は、カネオヘ、ハレイワ、マラコレなど、オアフ島の縦横に広がって、それぞれが破壊と犠牲に見舞われた。ヒッカム、ウィーラー、ベローズの陸軍空軍基地では、約217名の隊員が殺害されて、約77機の戦闘機が損失した。フォード島とカネオヘの海軍航空基地では約19人が殺害された。太平洋艦隊の戦闘機の損失は合計で約92機であった。エワ海兵隊航空基地では、約4人が死亡して、約33機が破壊された。ワイキキからパールシティまでの民間人は、対空砲弾の爆発によって殺害された。




2021年11月11日木曜日

ドイツ軍が発射したV2ロケット弾が、オランダのアントワープのイギリス軍兵士集会所に落下して約160人近くが殺害された。

1944年11月27日正午から約6分後に、ドイツ軍が発射した弾道ミサイルであるV2ロケット弾が、オランダのアントワープのテニアスプラッツの真ん中に落下した。ロケット弾が炸裂して何十人もの人々が放り出された。連合軍のジープが燃えて、喫茶店の窓は粉砕されて荒れ果てた。約160人近くが、史上最悪のV2ロケット攻撃で殺害された。落下地点は、フランクライクルイとメイヤーの角にあるイギリス軍兵士の集会所の喫茶店であった。犠牲者の死体が道路の真ん中に倒れて散在した。周囲の惨状を目の当たりにし、血まみれの人々があちこちで歩き回っていた。お店の窓が全部吹っ飛んでいた。歩道にはガラスや人間の体の一部が散乱していた。路面電車と数台の車が立っていた。

 オランダへの主要な補給線上に位置するアントワープは主要な交差点で、ドイツ軍のV-2ロケット弾が炸裂した。ドイツ軍はイギリス軍の補給ルートを妨害するために、多くのV2ロケット爆弾を投下した。オランダのほとんどの町は戦災を免れたが、1944年秋の連合軍の軍事侵攻と、引き起こされたドイツ軍の抵抗によって、各地で混乱と惨事が発生した。V-2がアントワープのオランダからベルギーを攻撃したことで、ドイツ軍は戦争末期に秘密放射性兵器を保有していたという憶測が広まった。V-1は現在の巡航ミサイルであり、遊撃される飛行爆弾で精密誘導は不可能であり到達率も低かった。

 第二次世界大戦のアルデンヌ攻防戦の初日である1944年12月16日午後3時17分に、オランダのヘレンドルンからV2ロケットが発射された。V2ロケットは約5分後に、オランダのアントワープにて、バッファロー・ビルを題材にしたアメリカの西部劇「プレーンズマン」の上演中に、映画館の屋根に着弾した。当時、映画館には約1,000人の観客がいたと推定された。死者は約567人にも達して、そのうちイギリス軍兵士を中心とした連合軍兵士の約296人が殺害された。その遺体は、アントワープ動物園のメインホールに集められた。親族や関係者が犠牲者の死体の身元を検証した。軍人の死体は、シューンセルホフに埋葬された。名前が判明した約281人の犠牲者のうち、その平均年齢は約26歳であった。少なくとも約64人の女性と約74人の未成年者が巻き込まれて死亡した。公式には約291人の負傷者がいたが、その他は不詳である。約11棟の建物が全壊した。瓦礫の中からすべての死体を取り出すのに約1週間かかった。欧州戦中の単一の爆弾攻撃としては、最も死者を出した。V2ロケットの後、すべての公共の場は閉鎖され、市議会は同時に集まれるのは50人までと制限された。映画館や劇場などの公共の場はすべて閉鎖した。しかし、検閲措置により、V2ロケット攻撃は何も発表されなかった。武器の有効性の情報を守秘した、しかし、アドルフ・ヒトラーがスパイから12月17日に誇張された知らせを受けて、V2ロケット攻撃は脅威となる数少ない武器の一つとなった。




2021年11月10日水曜日

インド分離独立を巡る暴動により殺害されたイスラム教徒の犠牲者たちの死体がデリー市街の路上から撤去された。

インド・パキスタン分離独立により首都デリー全域でも暴動が勃発した。1947年9月16日にインド分割を巡る暴動により殺害されたイスラム教徒の犠牲者たちの死体がデリー市街の路上から撤去された。1947年の独立後に、デリーで勃発した分離独立騒動は、数千人のイスラム教徒の虐殺と約30万人の難民をもたらし、残されたイスラム教徒地域は人口的にも政治的にも深刻な打撃を受けて、少数民族としてゲトー化した。デリーの社会的な暴力に加えて、他の多くの要因がイスラム教徒を侵食した。分離独立の暴動が終わった後も暴力を支援した。

 1947年8月14日にパキスタン、8月15日にインドと2つのイギリス領土から独立した国家に分割された。ヒンドゥー教徒の多いインドと、イスラム教徒の多いパキスタンに分割された。何百万人ものイスラム教徒が西パキスタンと東パキスタンに移住し、何百万人ものヒンドゥー教徒とシーク教徒が逆方向に向かったのだから、人類史上最大級の大移動が始まった。何百万人ものイスラム教徒が西・東パキスタン(現在のバングラデシュ)へ、何百万人ものヒンズー教徒やシク教徒が反対方向へと向かった。

 デリーは何世紀にもわたって、インドの歴代のテュルク系イスラム教徒が支配したムガル帝国の首都であった。一連のイスラム支配者がデリーを帝国の拠点として、デリーには膨大なイスラム建築が残存して、イスラム文化が浸透していた。1911年、英国統治時代に植民地の首都がカルカッタからデリーに移ると、都市の様式が変わり始めた。都市の中心部は、少数ながらも増加するイギリス人のニーズに応えるべく設計された。1941年の国勢調査では、デリーの人口は約33.2%がイスラム教徒であった。

 1947年になって難民を押し寄せても、デリーは難民の流入に対応する体制が整っていなかった。難民たちはどこにでも散らばった。1950年になると、政府は市内の特定の場所に不法占拠者が家を建てることを許可し始めた。しかし、パンジャーブから何千人ものヒンドゥー教徒やシーク教徒が避難してくると、インド・イスラム文化の拠点であるデリーでは、共産主義的なポグロムが発生して、大混乱に陥った。インド政府はデリーのイスラム教徒を排除した。陸軍部隊が罪のないイスラム教徒を公然と銃殺した。デリーでのイスラム教徒の犠牲者は約20,000人から約25,000人の間とされた。

 何万人ものイスラム教徒が無差別に難民キャンプに追いやられ、デリーの数多くの歴史的な場所が難民キャンプに変貌した。デリーの緊張が頂点に達した時に、約33万人のイスラム教徒がパキスタンに移住した。1951年の国勢調査では、都市のイスラム教徒の人口は1941年の約33.2%から1951年には約5.3%に減少した。




2021年11月9日火曜日

アメリカ軍兵士は、狙撃銃ならびに戦車などよって、ソウルの市街で北朝鮮軍を掃討した。ソウルの市街地の路上で、焼死して殺害された北朝鮮軍兵士の死体が倒れ込んだ。

アメリカ軍は、1950年9月25日に朝鮮戦争にて、北朝鮮軍により占領されたソウルを解放して奪還するためのに第二次ソウルの戦いが勃発した。アメリカ軍兵士は、狙撃銃ならびに戦車などよって、ソウルの市街で北朝鮮軍を掃討した。ソウルの市街地の路上で、焼死して殺害された北朝鮮軍兵士の死体が倒れ込んだ。アメリカ軍は戦車を改良した火炎放射器戦車は北朝鮮軍のトーチカを生き地獄に変え、ブルドーザー型戦車は塹壕の北朝鮮軍を生き埋めにした。アメリン軍が太平洋戦争の日本軍の教訓を最大限に生かした。1950年9月22日から28日までの第二次ソウルの戦いで、アメリカ軍兵士は約313人、韓国軍兵士は約50日が殺害された。北朝鮮軍兵士は、数千人が死傷したと推定された。

 アメリカ軍は、9月15日仁川上陸後に、ソウルへの奪還は遅々として進まず、血まみれの状態となった。ソウル地区に北朝鮮人民軍(KPA)が総勢約7,000人が参戦した。建物は機関銃や狙撃手で厳重に防御され、ソウル市内の主要道路は、北朝鮮軍はソウル市民を動員して、砂や土、米などを詰めた麻袋で作った高さ約2.4mのバリケードとその周辺に地雷を敷設した。

 アメリカ軍は9月25日の朝、ソウルに入り、昼過ぎには漢江を渡り、南山山頂を占領した。アメリカ軍は建物と建物の間で激しい戦闘を展開して、死傷者が続出した。約3年後の朝鮮戦争の終戦まで、朝鮮戦争の戦闘の中心は38度線周辺だった。38度線の近くにあるソウルは、国連軍に4回も占領されて奪還された。1950年以降の朝鮮戦争は、時に非常に激しい消耗戦となった。双方に多くの死傷者が出たが、どちらも大きな侵攻を得れなかった。

 1950年10月19日に、大量の中国人民志願軍兵士が鴨緑江を渡り、12月下旬には国連軍を韓国に押し戻した。第二次ソウルの戦いの後に、韓国の警察は共産主義の同調者と疑われた市民とその家族を処刑して、高陽金井洞虐殺事件や南楊州虐殺事件の虐待と虐殺を執行した。1953年7月27日に、朝鮮戦争休戦協定が締結され、朝鮮戦争は終結した。38度線の近くには非武装地帯が設けられて、朝鮮半島は、再び韓国と北朝鮮の2つの国に分割された。現在も、韓国はアメリカの貴重な同盟国であり、安全保障と侵略抑止のために多くのアメリカ軍が韓国に駐留した。




2021年11月8日月曜日

ロシア帝国のキシネフで、1903年4月にユダヤ人に対するポグロムにて無差別にユダヤ人の子どもたちもロシア人により虐殺された。

ロシア帝国のキシネフで、1903年4月にユダヤ人に対するポグロムにて無差別に子どもたちもロシア人により虐殺された。ユダヤ人に死をという合言葉で、集団が村中の約47人のユダヤ人が虐殺された。生存したユダヤ人の大人が、虐殺された子どもの死体を持ち上げた。

 ロシア帝国で組織されたポグロムの波の一環として、1903年4月19日から20日にかけて、後にキシネフのポグロムと呼称される大規模な反ユダヤ主義の暴動が勃発した。19世紀後半、特にロシア帝国でモルドバの経済状況の改善により、多くのユダヤ人がキシネフへの移住を選択し、1897年の時点で、人口の46%の約5万人以上がユダヤ人となった。ポグロムの暴動は約3日間続いて、ユダヤ人の約47人から約49人が虐殺されて、虐待により約92人が重傷、約500人が軽傷を負った。約700軒の家屋と600軒の企業が略奪と破壊され、約2,000世帯のホームレスが発生した。キシネフのポグロムは、唯一の公式新聞である『ベサラベッツ』に掲載されたユダヤ人排斥のプロパガンダが起点となった。1903年7月にアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトがアメリカ国民を代表してロシアのニコライ2世に嘆願書を提出した。

 その後1905年8月22日には、暴動をした容疑の約3,000人の農業労働者に対して、警察が発砲した暴力的な事件が起きた。わずか数ヵ月後の1905年10月19日から20日にかけて、さらなる抗議活動が行われ、ニコライ2世が「10月宣言」を実現させるきっかけとなった。しかし、このデモは突然、第二回目のキシネフ・ポグロムが勃発して、ユダヤ人排斥の大虐殺となり、約19人のユダヤ人が虐殺された。

 ポグロム(pogrom)とは、スラブ語で"大惨事を引き起こして激しく破壊するという意味の言葉であった。ある民族や宗教団体、特にユダヤ人を虐殺したり追放したりすることを目的とした暴力的な暴動のスラブ語である。ポグロムと呼称された最初の事件は、1821年にオデッサで起きたユダヤ人排斥の暴動とされる。ロシア帝国におけるユダヤ人の入植地で起こったユダヤ人に対する暴動を示唆した。ユダヤ人以外の民族や宗教団体に対する粛清的な暴動も意味した。ポグロムの特徴は暴動事件によって虐待と虐殺は大きく異なる。