2021年8月28日土曜日

広島原子爆弾が1945年8月6日に炸裂した約2ケ月後の10月9日に、子供らの被爆者が広島日赤病院の外来治療室にて加療された。

広島赤十字病院の外来に、多数の子供らも広島原子爆弾の被爆者が通院していた。広島原子爆弾が1945年8月6日投下されて炸裂した約2ケ月後の1945年10月9日に、外来に子供ら被爆者が、広島日赤病院の外来治療室にて加療された。看護婦らは、原爆症の子供らの被爆者の傷口の処置も行っていた。被爆当日には46人の看護婦が死亡し、5人の看護婦が重傷を負った。看護寮では25人の看護学生も死亡した。

 1945年に被爆した10歳未満の子供たちは、通常は高齢者に急性骨髄性白血病を発症する骨髄異形成症候群(MDS)に、一般人口の4倍の割合の罹患が後に示唆された。幼少期の被爆者は、数10年にわたり複数の種類の悪性新生物に罹患し、個別に発症する傾向が見られる。被爆時に全身が放射線を受けて、複数の臓器の幹細胞が損傷を受け、その後に異常な細胞が発生して悪性新生物を発症すると示唆された。放射線被曝が被爆者の遺伝子に損傷を与えた場合に、放射線影響の遺伝的な伝達も長期的な問題となる。

 太平洋戦争中は、広島陸軍病院赤十字病院であった日本赤十字社広島病院は、爆心地から南約1.6kmと至近距離であったが、広島市中区千田町1丁目に残存した。「敷地内にあった木造建築は全部倒壊し、間もなく火を発して焼失したが、主な建築物は、鉄筋コンクリート3階建てであったので焼失は免れた。しかし、鉄の窓枠は破壊しガラスはこっぱみじんに飛散し、内部も天井は落ち壁は崩れ椅子や机は倒れ、足を踏み入れることができないほどまったく壊れてしまった。医師5名、薬剤員3名、その他43名の計51名が死亡し、全職員の85%が重軽傷をうけた。病院としての機能を全く喪失してしまった。」しかし、8月6日午後から、病院職員の尽力で被爆直後から臨時救護所が設けられた。翌日の8月7日には山口県、岡山県などの赤十字病院から救護班が到着し始めて、医療活動に入った。

 広島市内は瓦礫の中で、広島日赤病院は被爆した直後から、被爆者の救護活動を再開した。「1.収容患者の治療をすること。2.外来に押しかけたり運び込まれたりする患者に何とか応急処置をすること。3.破壊された病室を清掃して少しでも患者の収容力を増すこと。4.衛生材料の確保補充。5.食糧の確保。6.次々に死んでいく死体の処置。7.便所をつくること。8.入浴場をつくること。9.飛散した病院の書類を収拾して紛失盗難を防ぐこと。10.職員及びその家族の死亡や負傷状況を知り、また職員の日々の活動状況を正確に把握すること。」が緊急の課題であった。[「」内の引用は、後に病院長になった重藤文夫氏の『回想』(仁科記念財団編纂『原子爆弾=広島・長崎の写真と記録)を参照]悲惨な損壊を受けた広島赤十字病院で、1945年10月頃には血液検査ができるようになり、血液検査を求める広島市民の被爆者の人数がさらに増大した。被爆者の放射能障害は、血液検査が診断となる白血球の著しい減少が特徴である。




2021年8月27日金曜日

アフガニスタン元大統領のナジブラと弟は、タリバン武装勢力に去勢と切断された死体を鋼線のループで吊るされ、紙幣とタバコを、指、口、鼻、ポケットに挿入された。

ムハンマド・オマルが1994年11月に設立したスンニ派過激組織であるタリバン武装集団は、1996年9月27日にアフガニスタンの首都カブールを占領した。タリバンは、ムハンマド・ナジブラ(Mohammad Najibullah)大統領と実弟のシャープール・アフマザイ将軍が潜伏した国連使節団のビルに侵入した。ナジブラと弟は9月27日午前1時30分に連行され、午前4時30分に殺害された。拷問されて、射殺された。暗殺された大統領ら兄弟の死体をジープに縛り付けた後に、タリバンは死体を大統領官邸アルグの近くの要塞化された検問所で、ナジブラと弟は、去勢され切断された血まみれの死体を鋼線のループで吊るした。タリバンはまた、暗殺された大統領と彼の弟の死体をあざけり、アフガニスタンの紙幣とタバコを、指、口、鼻、ポケットの中に挿入した。

 アフガニスタンは1978年4月に軍事クーデターが発生して、王族のダウド政権は打倒された。武装勢力の反乱が蜂起して、アフガニスタンはアフガン内戦に陥った。冷戦下で親アメリカ政権が権力を握り、全国の反体制派を一掃し始めた。1979年12月24日に、遂にソビエト連邦はアフガニスタンの内政に介入し、軍隊をアフガニスタンに派遣した。

 侵攻したソビエト連邦軍は、ナジブラに国家情報局長にさせ、1985年に共産主義の人民民主党の書記長になり、首都カブールの権力を取得して、軍隊、警察、諜報機関を管理下に置いた。ソビエト連邦軍の支援を受けて、国内で反対派の秘密の監視と残酷で血なまぐさい虐殺を行った。しかし、アフガニスタンからのソビエト軍の撤退は、1988年4月に締結されたジュネーブ協定に従って、1988年5月15日に始まっていた。ソビエト連邦は1991年8月モスクワ8月革命により、11月15日に首都カブールのナジブラ政権への軍事物資を公式に停止した。

 1989年2月15日に、最後のソビエト軍人がアフガニスタンを去った。ソビエト軍がアフガニスタンから撤退して、武装勢力に対抗するナジブラ政権は放置されて、ソビエト軍の撤退から4日後に、非常事態宣言を宣言した。パキスタンとアメリカの当局者は、ムジャヒディンの迅速な勝利を期待してた。しかし、6か月以内にソビエト連邦からの武器と弾薬の補給により、アフガニスタン軍は武装反対部隊を攻撃して撃退して、約3年間はナジブラ政権は権力を保持した。1992年1月1日から、ロシアは政府軍へのすべての武器と弾薬の供給を停止して、アフガニスタン軍は著しく悪化し始め、燃料と食糧の深刻な不足に陥った。

 イスラム教の聖戦部隊であるムジャヒディンは次々と州を占領し始め、首都カブールに接近した。ソ連の軍事顧問は1992年4月13日にアフガニスタンを去った。カブール飛行場はソビエト航空機の離発着に障害が勃発した。

 ナジブラは、1992年3月18日に辞任を発表した直後に、アフガニスタンの政治情勢の支配を失った。大統領と弟はと共に、首都カブールの国連使節団事務所に庇護され、その後は約4年間にわたり国連国連使節団ビルで過ごした。1992年4月28日に、ムジャヒディン部隊が、無戦で首都カブールに入り、約14年間国を統治したナジブラ政権を打倒した。アフガニスタンで内戦は再び激烈となった。ムジャヒディンの部隊間の武力衝突により、国は崩壊して内戦状態に陥った。首都カブールからのは新たな大多数のアフガニスタン難民が、首都カブールを去った。



2021年8月26日木曜日

日中戦争にて、日本軍は騰越城内に中国軍に追い詰められ、全滅して玉砕して殺害あるいは自決した日本軍兵士の死体が散乱した。

日中戦争において、日本軍は騰越城内の守備隊は、城内に中国軍に追い詰められて、1944年9月13日に中国雲南省の拉孟にて全滅して玉砕した。日本軍は弾丸も尽きて、最後には大事な手榴弾で自決を命令された。騰越城内には、殺害あるいは自決した日本軍兵士の死体が散乱した。

 1944年6月27日から、雲南省の騰越城に守備していた日本軍に、中国軍から砲撃された。騰越城は、3kmにわたり高さ約5mと幅約2mの壁に囲まれていた。その周辺の約3000m前後の山地の陣地で、日本軍は約2,025人の体制で戦力はわずか約900人が守備した。7月23日に騰越城外の日本軍の陣地に、中国軍は侵攻した。7月26日は中国軍はアメリカ軍の爆撃機で、空襲して爆撃した。7月27日には、日本軍は騰越城内に集結して守備した。7月28日に日本軍司令部は、全員が死ぬまで守備する死守の命令を下した。日本軍司令部も、騰越から南に約70kmの龍陵にて中国軍と激戦中であった。中国軍は、アメリカ軍の武器を装備して戦力は増大していた。8月2日に、騰越城内に1日約3,000発の砲撃と機銃掃射を受けた。8月5日には、連合軍のB-25爆撃機が、空襲して騰越城内と城壁を爆撃して、8月13日に騰越城内の日本軍は大損害を受けた。8月14日から中国軍は騰越城内に侵攻を繰り返した。8月19日には、中国軍により、騰越城内の日本軍は北東方面に追い込まれた。8月21日には残存兵力は約650人に、9月1日には約350人まで、9月11日には約70人まで減弱した。9月13日に日本軍は、日本国旗を焼却して、最後には全滅する突撃をした。

 騰越城から南東に約100kmにて、日本軍は1944年6月1日から雲南省の拉孟方面を守備して、中国軍の松山陣地に侵攻していた。サルウィン河の対岸の鉢巻山から松山陣地まで突撃した。突撃した約100人の戦傷者を含めた約1,260人の日本軍が、6月20日に日本軍の弾薬庫が中国軍の砲撃で崩壊した。その後から次第に弾薬が枯渇した。6月20日に日本軍の戦闘機が、手榴弾と銃弾を投下補給した。7月からは、中国軍が日本軍の陣地内にも攻撃した。7月20日には、約8,000発もの中国軍の砲弾が、日本軍の陣地に砲撃した。日本軍の生存者は約300人と激減した。7月末には、司令部から守備隊の日本軍兵士に対して、9月上旬まで死守する命令が下された。死守できない場合は、日本軍兵士は全滅して玉砕を示唆された。8月初旬からは、中国軍が日本軍陣地に繰り返して侵攻して、白兵戦に陥った。8月8日には、日本軍は生存者はさらに約200人まで減弱した。8月20日には、日本軍の最大の関山陣地にも中国軍は侵攻した。8月23日には、日本軍の守備隊はさらに戦死傷して約100人まで減衰した。司令部から厳命された9月上旬までの死守の直前である8月30日に、日本軍は白兵戦で弾薬は枯渇して、戦闘能力のある日本軍兵士は激減した。守備隊長は、すべての生存者は弾薬と食料が欠如して、死守が不可能になったと司令部に電報した。その直後に全ての日本軍守備隊のすべての資料から資材を破壊して消去した。9月6日に守備隊長が戦死して、9月7日に日本国旗を焼却した。最後に残存していた約50人の日本軍守備隊員は、バンザイと掛け声から中国軍の陣地に突撃して全滅して玉砕した。戦傷者は、手榴弾により自爆して自死した。

 1944年9月21日の朝日新聞に、日本軍の騰越と拉孟の守備隊の全滅して全員が戦死したことが公表された。数倍の敵を撃破し、全員壮烈なる戦死、ビルマと雲南を結ぶ公路の打通許さずと朝日新聞は報じた。騰越と拉孟の両守備隊は、阿修羅の奮戦をした皇軍の精華であると奉り、大本営の上層部からの感状を称賛した。敵中である中国軍の半数は再起不能であると虚偽した。




2021年8月25日水曜日

アメリカ軍はイラクのバクダット北東のバクーバを空爆して、ジハード主義者の指導者のアブ・ムサブアル・ザルカウィを殺害し、隠れ家の瓦礫の中から死体を発掘した。

アメリカ軍は2006年6月7日に、イラクのバクダット北東のバクーバを空爆して、ジハード主義の指導者となったアブ・ムサブアル・ザルカウィ(39歳)を殺害した。隠れ家の瓦礫の中から発掘した死体である。アブ・ムサブアル・ザルカウィが、イスラム教によるカリフ制度のイスラム国(ISIS)を確立した張本人である。イスラム国は、2004年にアブ・ムサブアル・ザルカウィという血に飢えた宗教的熱狂者によって設立された。

アメリカ軍は、2003年3月にイラク軍を粉砕して占領した。ザルカウィは、アルカイダの首長オサマ・ビン・ラーディンからの資金提供を受けて、その直後にイラクに入国した。イラクの不満を抱いたスンニ派の部族から、戦闘員を引き入れた。ザルカウィは、イラクでのアルカイダの指導者と宣言して、非戦闘員を斬首するテロ組織となった。テロ組織は、2006年後半にイスラム国に改名した。中東からヨーロッパまで、シーア派を撲滅するためにスンニ派イスラム教徒の戦闘員を集結して、イラクでの宗派間の内戦を勃発させた。イスラム国の信者がイラクとシリアの領土を占領して、2014年にイスラム国がイラク北部とシリア東部を制圧してカリフ制国家を築いた。

 ザルカウィはヨルダン人として、難民キャンプの近くにあるヨルダンのザルカで生育した。凶悪犯として刑務所に出入りした。犯罪者の人生を捨て、過激なイスラム教に洗脳された。アフガニスタンのヘラートで、ビンラディンのアルカイダ過激組織に合流して、ジハード聖戦主義者を組織化した。アフガニスタンの首都カブールで、アメリカに対するテロを模索したビンラディーンからはザルカウィは無視された。9.11同時多発テロ後に、アメリカ軍がアフガニスタンを2011年10月7日から侵略した。ザルカウィは、2003年3月20日から5月1日まで暴発したイラク戦争より以前にイラクに侵入していた。アメリカは、イラクのザルカウィは、アフガニスタンのアルカイーダのテロ組織と大量破壊兵器と懐疑的に関連付けて、イラク戦争の戦因と凶悪犯に仕立てた。

 イラクのザルカウィは、2004年5月13日に民間アメリカ人のニック・バーグの斬首シーンを世界に流した。モスクを破壊して、バスを爆破して、連合軍や地元のイラク人に残忍なテロ指導者の象徴となった。イラク戦争の勃発後に次第にアルカイーダと結託して、スンニ派とシーア派のイラク内戦を引き起こした。国際的なジハード聖戦主義のネットワークを構築して、ジハード組織を構築した。アフガニスタンのオサマ・ビン・ラーディンは、2011年5月1日にパキスタンにて、アメリカ軍により殺害された。




2021年8月24日火曜日

ナッシュビル軽巡洋艦はネグロス島沖で神風特攻が自爆により激突して、右舷の甲板に戦死したアメリカ軍水兵の死体を集積した。

太平洋戦争後期の1944年12月13日に、ナッシュビル軽巡洋艦(Nashville, CL43)はネグロス島沖での戦闘で神風特攻が自爆により激突して損傷した。それ直後に、ナッシュビルの船内で大規模な火災が引き起こした。遠方に見える火災による煙が登った(神風画像 https://www.kamikazeimages.net/)。神風攻撃を受けたナッシュビルの左舷127mm砲台の反対側の右舷の甲板に、犠牲となり戦死したアメリカ軍水兵の死体を集積した。1944年12月12日にミンドロ島へ向けて出港して、翌日の13日に、ボホール海を通過中に、約63kgの大型爆弾を両翼下に2個搭載した、日本軍の戦闘機に搭乗した神風特攻隊がナッシュビルに激突して自爆死した。

 太平洋戦争中の1944年12月13日に、ナッシュビルはネグロス島沖で神風特攻に襲われた。神風特攻は、左舷の約127mm砲台に激突した。2つの爆弾は甲板から約3mほど離れた場所で爆発した。ガソリン火災と爆発した弾薬により、ナッシュビルの中央部地域は地獄と化した。アメリカ軍水兵が約133人が戦死して、約190名が戦傷したも。残った127mm砲で対空射撃を続けて、直ちにレイテ島に帰還した。

 日本の神風特攻隊員が1944年10月から1945年8月の間に攻撃を行った。日本人は、手を振るとき、さよならをする若い笑顔の英雄として搭乗員を拝見する。勇敢な若い搭乗員が日本本土を守るために悲劇的な死を遂げたと信じた。海軍は18歳から24歳、陸軍は18歳から22歳の若者を犠牲にした。多く神風特攻隊が空爆されて墜落や撃沈は秘密裏にされた。神風特攻隊員が書いた死の恐れや苦悩を反映しない手紙、詩、日記は多大な影響を与えた。1949年刊行された「きけわだつみのこえ(海からの声に耳を傾ける)」は、学徒出陣の学生らを反映した。神風特攻は、1333年に天皇を忠実に擁護し、切腹で自殺した楠木正成を象徴した。

 対照的に、アメリカ人は、特攻の戦闘機が戦艦に激突して爆発して、アメリカ軍の戦艦の破壊と戦死傷を拝見した。非常に異なる視点は、神風特攻隊のに対する日米の認識に多大な影響を与えた。アメリカ人は、神風特攻隊員は個性も表情も見えなく少ないと認識した。多くのアメリカ人は、特攻隊員が狂信的、自殺的、自爆を強要されたと認識した。日本軍が撮影した勇敢な神風特攻隊員の笑顔は、アメリカ軍が戦艦の甲板から撮影された写真に示された爆死と破壊とは全く正反対である。現在の地球上のテロリストによる自爆テロは、日本軍の神風特攻隊員による攻撃に対する論争を引き起こしている。 





2021年8月23日月曜日

韓国軍は、ビンジン省の北ベトナム軍を掃討して、多数のベトナム人の死体が散乱して、軍服の北ベトナム軍だけでなく、無差別に民間ベトナム人も虐殺した。

1967年には韓国軍は、ベトナムの中央海岸付近の荒野に駐屯していた。韓国軍は、ビンジン省の北ベトナム軍を掃討して、多数のベトナム人の死体が散乱していた。韓国軍は軍服の北ベトナム軍だけでなく、無差別に民間ベトナム人も虐殺した。黒服を着たベトナム人の死体が荒野に散乱していた。周辺には人体の破片が飛び散り、至るところに血痕が付着していた。韓国軍による残酷な拷問や虐待かせら虐殺により、北ベトナム軍とベトコンを弾圧して恐怖に陥れた。

 韓国軍の民間ベトナム人の虐殺事件は、1999年5月6日の「ハンギョレ21」に掲載された。1968年2月12日に、韓国軍兵士がベトナム中部クアンナム省のフォンニィ・フォンニャット村で、民間ベトナム人の約79人を虐殺した。その他ゴダイ虐殺約38人、ハミ虐殺約135人など多くの村々で住民の虐待と虐殺を繰り返した。韓国軍の中央情報部が、虐殺事件の幹部を尋問した。韓国の最高裁判所は、2021年3月25日に尋問の歴史的情報公開を韓国の国家情報院に命じた。ベトナム戦争時に、2020年4月にベトナム戦争で民間ベトナム人の虐殺に対して国家賠償が提訴された。韓国軍がベトナムで執行した民間ベトナム人の虐殺事件は約80件以上、犠牲者のベトナム人は約9000人を超えると推定される。特に青龍(チョンリョン)と猛虎(メンホ)部隊は、残酷な虐殺軍団の“鬼畜部隊”と呼称された。さらに、韓国人兵士によるベトナム人女性に対する性的暴行により産まれた約3,000人以上の子供はライダハンとベトナム語の読みとなった。タイヴィン虐殺1200人、ベトナム戦争後のベトナム社会主義共和国は、経済発展の国益を優先して、公開しても何の得にならない戦争の歴史を封鎖している。

 1964年8月から韓国人部隊がベトナムに出向された。1965年1月26日に韓国の国会でベトナムへの韓国軍の派遣が承認された。1965年2月から韓国軍部隊が派遣された。4月3日から約200人の韓国軍に対して北ベトナム軍から砲撃を受けた。1965年9月から、韓国軍の猛虎師団が赴任し始めた。1966年末には、ニンツアン省とビンジン省まで戦闘を拡して占領して、ベトコンと北部ベトナム軍に対して猛攻撃をした。1967年には最大の約44,829人まで増員されて、1973年3月23日まで留まってベトナムから撤退した。韓国が関与した1964年9月11日から1973年3月23日まで約8年5ケ月間に派遣された韓国軍兵士は延べ人数で約325,517人に及んだ。約5,099人が戦死して、約10,962人が戦傷した。




2021年8月22日日曜日

太平洋戦争でフィリピンのルソン島のバヨンボンにて、救護所に残存した日本軍兵士の重傷病人は致し方なく自殺して自死した。

太平洋戦争のフィリピンの戦いにおいて、ルソン島のバヨンボン近隣にて、日本軍の野戦救護所に収容されて生存していた重症の戦傷者あるいは重態の重病人は戦場では歩行困難となった。取り残された多数の人軍兵士の戦傷者あるいは戦病者らは、アメリカ軍に掃討されて殺害あるいは拉致される前に、致し方なく自殺して自死した。救護所の日本軍兵士は降伏することもなく、銃殺あるいは毒殺によって自殺した。1945年6月8日にアメリカ軍は、自殺して自死した救護所の床あるいはベッド上に散乱していた日本軍兵士の死体を検死した。日本軍兵士の死体群の周囲には、ハエがたかり死体が腐敗して死臭による悪臭が漂っていた。

 1945年6月上旬から中旬にかけて、日本軍はアメリカ軍に追撃されて、バヨンボン盆地は豪雨の中を北上して撤退していた。戦場の修羅場を、日本軍兵士や民間日本人が敗走した。歩行できない日本軍兵士や民間日本人の戦傷者や戦死者は周辺に取り残された。歩行できる日中はジャングルの中で隠遁して潜伏して、夜間にルソン島の北部に向けて敗走した。日本軍は、北部のキアンガンを最終の逃避場として、6月下旬にイフガオ州の山間に集結していた。

 1945年6月上旬からアメリカ軍は、ルソン中部から北上してバヨンボン盆地に突撃した。6月5日にアリタヨ、6月6日にバンバン、6月7日にバヨンボンに侵攻した。日々に刻々と、バヨンボン盆地の周辺地域の日本軍を掃討した。6月中旬には、アメリカ軍はバンバンの西側の山中のサリナスに集結した。6月下旬には、アメリカ軍は山中を北上してアンチポロに侵攻した。アメリカ軍は、日本軍を追撃して、アシン川周辺に追撃した。アシン川周辺に逃走した日本軍と民間日本人は、物資や食糧が減少して戦力も低下し、栄養失調による飢餓と伝染病にも襲われた。フィリピンの戦いの末期には、日本軍兵士と日本民間人は前途には戦場の地獄に追い込まれて、飢餓や病気に倒れる者が続出する惨状となって太平洋戦争の終戦を迎えた。日本軍の最終的な降伏は、終戦後の1945年9月3日に公式に降伏した。1945年1月6日からのルソン島の戦いだけでも、日本軍兵士の約217,000人は戦死あるいは戦病死して、約9,050人が降伏して捕虜になった。フィリピン人はマニラ市街戦にも巻き込まれて約150,000人以上が死亡した。アメリカ軍兵士は、戦死者は約8,310人と戦傷者は約29,560人に及んだ。




2021年8月21日土曜日

1945年9月9日頃に広島赤十字病院の外来において少女ら広島原子爆弾の多数の被爆者らが手当を受けた。

1945年9月9日頃に広島赤十字病院の外来において少女ら広島原子爆弾の被爆者らが手当を受けた。爆心地から南西に約1.6Km離れた千田町1丁目の広島赤十字病院は1945年8月6日の原爆投下で大きな被害を受けた。広島赤十字病院は鉄筋コンクリートの一号館,二号館は大破して、木造の南病棟・隔離病棟・寄宿舎などはその後の火災によって焼失した。必死の救護活動が展開されるも、軍関係の入院患者のうち約5人が死亡,約105人が負傷,院長の竹内釼をはじめ職員・生徒のうち,約51人が死亡,約250人が負傷した。広島原子爆弾の救護所は,広島県が把握したものが約53か所,広島県医師会広島支部会員が救護活動が判明した約102か所に及んで、約31万5,910人の被爆者が手当を受けた。

 原子爆弾の放射能が放射するガンマ線は、非常に透過性が高く、広島赤十字病院のコンクリート室の鉛容器内に保管されたX線の写真乾板も完全に透過する放射能の光線にさらされた。東京帝国大学を卒業した竹内釼は、1939年に広島赤十字病院の初代院長に赴任した。竹内釼は被爆して重症でも被爆者を加療した。

 広島原子爆弾によるX線フィルムの分析も、1946年8月号の原爆記念版の月間中国新聞のコラムに投稿していた。広島赤十字病院の廊下から庭の隅まで、無数の患者が病院の敷地を埋め尽くした。まるで満員電車のように、人々の列がぶら下がった。ガンマ線(放射線の一種)は透磁率が非常に高く、コンクリート室の鉛容器に収められたX線写真乾板も完全に光にさらされた。つまり、コンクリートの空気中でも放射線を遮断できず透過した。壁に十分な厚さがない限り、シェルターを襲撃した。原爆病の場合、主な死因となる特異な症状は、造血器官の障害、血液の変化、粘膜上皮の変化による吐血、血便、内外の出血である。日本国民の中には、敗北の現実に直面することに耐えられない人がたくさんいると確信している。しかし、連合国による日本の占領は事実であり、夢ではない。人々はこの現実に目を覚まし、できるだけ早くそのような洞察を得る必要がある。広島でも、適切な手段で原爆遺跡の一部を後世に引き継ぐことができれば、確かにさまざまな平和に有益である。最後に、「夏の草 廃墟の中に入る 立ち去るのが難しい」と竹内釼は俳句を残した。

 被爆者は、自分の子供が 『第二世代被爆者』として不当な差別の対象となることを恐れて、黙って子供たちを守ろうとして、被爆証言の公表を躊躇した。2021年4月17日から全国の劇場で上映された(https://www.hiroshimaenochikai.com/)のドキュメンタリー映画「ヒロシマへの誓い-サーロー節子とともにー」に、竹内の孫娘の竹内道が製作者として参画した。



2021年8月20日金曜日

第三次中東戦争の6日戦争で、シナイ半島の砂漠で、1967年6月6日にエジプト軍兵士がイスラエル軍に殺害され戦車が破壊された。

1967年6月5日から6月10日まで6日間に、アラブ諸国とイスラエル間の6日戦争(Six-Day War)である第三次中東戦争が勃発した。6日戦争で、6月6日にシナイ半島の砂漠の戦場で、エジプト軍の兵士がイスラエル軍に殺害され、エジプト軍の戦車が破壊された。中東において極めて重要な事件であり、波及効果は現在に至るまで中東にさまざまな影響を及ぼしていた。参戦した国の中で、最も大きな犠牲を受けたのがエジプトである。六日戦争では、イスラエル軍は600人以上の死者を出した。エジプト軍は、戦力の約10分の1にあたる約1万人が戦死して、さらに約1万5千人の負傷者や捕虜となった。エジプトの総面積の約6%に当たるシナイ半島全体が失われて、パレスチナの地区を占領して、イスラエルの領土を約3倍に拡大した。軍需物資の約80%以上が破壊されて放棄された。1967年6月10日に、国連が仲介した停戦が発効し、第三次中東戦争は突然終結した。

 1967年の1月から3月にイスラエルが深刻な不況に陥って、アラブ諸国からテヘラン海峡を封鎖する暴言が飛び交った。シリアとヨルダンから数ヶ月のテロ攻撃された後に、1967年5月に中東地域全体の緊張が高まった。1967年6月5日早朝に、イスラエル軍の戦闘機がエジプト空軍を攻撃して壊滅させて、6日間後にイスラエル軍の勝利で終結する紛争が勃発した。テルアビブから約20km離れたヨルダン領のラトラン商会からイスラエルに砲撃された。イスラエル軍が戦車部隊を率いて、ガザからシナイ北部に向けて突撃した。悲惨なことに、ヨルダンやシリアもこの戦いに巻き込まれた。

 1967年の6日間戦争は、シナイにおけるエジプト軍が、6月5日早朝から6月7日午後にエジプト軍は崩壊した。イスラエルの軍事的、戦略的、経済的な優位性から、エジプト軍の軍事的敗北は避けられなかった。壊滅的で、徹底的で、迅速なエジプト軍の敗北に至った。6月7日の時点で、シナイを完全に退避させず、スエズ運河の東側の峠に撤退しなかった。その後、エジプトのナセル大統領が短期間でエジプト軍を再建して、1967年9月に消耗戦を開始した。エジプトとシリアは、第三次中東戦争により失われた領土を取り戻すために1973年に第四次中東戦争を引き起こした。アラブとイスラエルの宗教を憎しみ合って悲劇の戦争と犠牲者を生む。




2021年8月19日木曜日

イスラム国は、アメリカ人の記者であるジェームズ・フォーリーを斬首するビデオを、2014年8月19日にYouTubeに投稿した。

イスラム国(ISIS)が公開したビデオは、アメリカ人の記者であるジェームズ・フォーリー(James Wright Foley)の斬首のビデオが、2014年8月19日にYouTubeに投稿された。オレンジ色の囚人用ジャンプスーツを着て砂漠に跪き、両手を後ろに縛られた。坊主頭のフォーリーの隣に、黒服とマスクを被ったイスラム国の過激派であるジハーディ・ジョン(英語なまり通称)が立っていた。フォーリーは、アメリカのイラク政策を批判し、自分が殺されるのはイスラム国の戦闘員への空爆のせいと台本の声明を述べた。「私は死刑執行令状に署名した」と述べた後に、彼は断頭される直前と直後の死体の映像を放映した。10秒未満の断首は放映していない。2014年8月以降から、イスラム国は、人質となった囚人の命を脅かす陰惨な斬首のシーンを頻繁に撮影した動画を複数公開した。

 ISISは、シリアからイラクに広がるイスラム・カリフ制を確立する一環として、斬首を含む死刑執行を実施した。ISISは死刑執行をビデオに録画し、オンラインで投稿した。アメリカ軍が、バグダッド北部でクルド人勢力と戦っているイスラム国の戦闘員を爆撃する決定の結果として処刑した。2人の日本人が2015年1月20日に、黒マスクした黒服を着た男性の前で、オレンジ色のジャンプスーツにひざまずた。ISISビデオで、日本の人質として識別された断頭される後藤健二(47歳・記者)と湯川遥菜(42歳・民間軍事会社)が放映された。

 フォーリーは2012年11月22日、トルコとの国境近くのシリア北西部のタフナズで誘拐された。彼は銃撃者により車に押し込まれた。フリーランサーとして、フォーリーはフランス通信社やグローバルポストを含む多くの主要なメディアの仕事を引き受けた。フォーリーは以前リビアで2014年4月5日から約44日間も捕虜にされた。ニューハンプシャーで育ち、2008年にノースウェスタン大学のメディルジャーナリズム学校を卒業した。2001年9月11日の同時多発テロ後に、フォーリーはイラク、アフガニスタン、その他の紛争地域に引き寄せられました。最初のアメリカ人であるフォーリーを虐殺した処刑者のジハーディ・ジョン(モハメッド・エムワジ)は、2015年11月12日に、アメリカ軍のドローン攻撃で爆死した。




2021年8月18日水曜日

日本関東軍は、山西省大行山脈の潞安城の南門を襲撃して、八路軍と民兵組織から地域住民など人馬を含めて掃討して大虐殺した。

満州事変直後から満州から中国の北東部に向けて侵攻した。日本関東軍は1938年2月22日に、山西省大行山脈の潞安城の南門を襲撃した。潞安(現、長治)地域の中国共産党の八路軍と民兵組織ならびに地域住民から人馬を含めて掃討して大虐殺した。その周辺には死体からの悪臭と死臭が充満しているので、一部の日本軍兵士は手ぬぐいで鼻を塞いだ。日本軍兵士が、それらの死体を潞安城の南門の近隣の塹壕の土穴に集積して埋め込んだ。一部の日本軍兵士は、中国軍兵士の首から断頭して、竹槍をに突き刺してその周辺にさらした。山西省の中国人兵士と民間人は、日中戦争に対して多大な犠牲を払い、大地に悲劇の血をまき散らした。 

 1937年7月7日に、北京市南西部の盧溝橋の発砲事件から日中戦争が勃発した。7月11日に大本営は華北に向けて日本軍を増援した。7月28日に関東軍は古都である北京を攻略して陥落した。次いで7月30日には天津が陥落した。それ以後に、日本軍は華北において占領範囲を拡大した。国民党軍は中国各地域で長期持久戦するために11月20日に首都を重慶に移転した。12月7日には南京が陥落した。関東軍は、9月から11月まで山西省太原に侵攻して、中国軍約13万人と日本軍約3万人が死傷した。

 1937年9月に張家口、10月に大同、12月に平北、1938年1月16日に日本政府は国民党を正統政権と認めず、1938年3月に上海、中国各地に傀儡政権である臨時政府を次々に樹立させた。日本軍の華北部隊と南京戦後の華中部隊を、中国東部の徐州に集結して、4月7日から徐州を包囲して攻略した。国民党軍は、徐州を放棄して撤退して5月17日に徐州、6月4日に開封、10月24日に武漢三鎮が陥落した。日本軍の戦死傷者は約20万人と中国軍の死傷者は約40万人と甚大な犠牲を伴った。その一方で、1937年11月に中国共産党は孤立していた山西省太原市を根拠地として、江蘇省や安徽省の日本軍非占地域に八路軍などを派遣して勢力を拡大して、各地で国民党軍と共産党軍が武力衝突を繰り返した。




2021年8月17日火曜日

サイゴンのテト攻勢でチョロン地区に潜伏して生存していたベトコン兵士を、南ベトナム軍兵士とアメリカ軍兵士が家屋から屋外に引きずり出して射撃して絶命させた。

ベトナム戦争におけるベトコンと北ベトナム軍によるテト攻勢が1968年1月30日から南ベトナムで勃発した。1968年2月11日に、サイゴンのチョロン地区に潜伏していた黒衣服のベトコン兵士が、南ベトナム軍兵士とアメリカ軍兵士により、崩壊した家屋から屋外に引きずり出された。負傷していたがまだ生存していたベトコン兵士は、抵抗することもなく弾丸1発を射撃されて絶命した。弾丸が鋭くベトコン兵士の身体にめり込み、生存していたベトコン兵士はしばらくすると全く生命反応も無い死体に変貌した。敵兵がどこにいて、どの方向にいるのかさえ不明であった。敵軍は家やトンネルの中、そして下水道の中でも潜伏した。

 1968年1月30日の早朝に、多くの家族が旧正月の祝賀を開始したのと同時に、約84,000人ものベトコン軍と北ベトナム軍が奇襲して南ベトナムの主要な都市部を攻撃した。南ベトナムの44の州都のうち39、64の地区本部、ほぼすべての同盟飛行場とアメリカ軍基地などがテト攻勢された。サイゴンに、テト攻勢が勃発した時は、多くの南ベトナム軍は休暇中であった。24時間後には、北ベナム軍とベトコン軍は、南ベトナム全土の都市、町、政府の建物、アメリカ軍基地または南ベトナム軍事基地を含む、南ベトナム全土の他の多くの標的を攻撃し、合計約120回以上の攻撃を行った。アメリカ大使館を攻撃しただけでなく、サイゴン中の他の約12の目標にも攻撃した。特に驚異となったサイゴンのアメリカ大使館に対するテト攻撃では、アメリカ軍がそれを掃討する前に、ベトコン部隊が大使館の複合施設の中庭に入った。特にアメリカ国大使館への大胆な攻撃とその驚異は、テレビで放送されたベトコンに対する大虐殺の映像を見たアメリカ市民に非常なショックを与えた。サイゴンでは、散発的なテト攻勢の市街戦は3月8日まで続いた。国際的な報道機関は、テト攻勢の間に、ベトナム戦争の無修正の生の戦争映像をアメリカのテレビ画面に送信して多大な反戦運動を引き起こした。 

 1968年のテト攻勢までに、少なくとも約485,000人のアメリカ軍兵士が南ベトナム国内に駐留していた。地上戦はほとんど田舎であり、爆撃は北ベトナムの主要な供給ラインであるホーチミン・ルートを破壊するためにラオスとカンボジアに侵攻していた。町を救うために町を破壊する必要が生じた。テト攻勢は1968年4月1日まで継続した。北ベトナム軍とベトコの犠牲は、甚大な戦死者しは約58,373人(戦死者約32,000人、戦傷者約50,000人他)を損失した。アメリカ軍と南ベトナム軍は、戦死者は約9,078人、戦傷者は約35,212人が戦傷した。ベトナム民間市民は、約14,000人が死亡して、約24,000人が負傷した。

 ジョンソンの後継となったリチャード・ニクソンは、「名誉ある平和」を公言して選挙に勝利した。就任したニクソンは、数ヶ月ごとにアメリカ軍の増員を撤回した。その後に、完全なるアメリカ軍の撤退を必要とする和平協定を交渉した。テト攻勢によりアメリカ大使館が攻撃された不運な事件から、約7年後の1975年4月30日に、最後のアメリカ人と一部のベトナム人の同盟者は、南ベトナムを悲惨で残酷にも見殺しにして、アメリカ大使館の屋上からヘリコプターで南ベトナム首都サイゴンから上級国民が脱出して飛び去った。



(アフガニスタンでも再び、タリバンにより首都カブールが陥落して、2021年8月15日にアシュラフ・ガニ大統領からアメリカ大使館屋上にて上級国民らが軍用ヘリコプターで脱出し始めた。)

2021年8月16日月曜日

イラク政府軍のサファウィ軍が、イスラム国の攻撃を受けて逃亡する前に、スンニ派イスラム教徒約39人の囚人を拘置所で虐殺した。

イスラム国は2014年6月25日に、イラクの北西部のモスルから西方に約50Kmのタル・アファールを占領した。スンニ派が多数派で、ラダフィディ派は少数派であった。イラク政府軍のサファウィ軍が、イスラム国の攻撃を受けて、逃亡する前に、スンニ派のイスラム教徒の囚人を虐殺した。イラクの拘置所で、アルマリキのイラク政府軍隊は、イラクのスンニ派囚人を大量虐殺して、多くの死体が散乱して積み上げた。36人の死体がいる拘置所で、殺害と屠殺が行われた食肉処理場に成り果てた。アルマリキ首相のイラク政府軍とシーア派の軍隊が、イラク国内で虐殺を繰り返していた。虐殺の生存者は、病院に運ばれた後に、死体はアルマリキのイラク政府軍隊によって射殺されたと証言子した。スンニ派被拘禁者は、アルマリキのイラク政府軍による大量死刑が執行された。

 2013年12月から、イラクとイスラム国との軍事衝突がイラク西部で頻発した。イスラム国(ISIL)は、2014年1月にファルージャを占領して、2014年6月にイラク北部から攻勢が激化した。6月4日サマラ、6月10日モスル、6月11日ティクリーチを占領した。6月13日にイラク政府軍は南部に撤退した。イラク政府は6月下旬に、ヨルダンとシリア両国の国境周辺の支配を失った。2014年6月29日にISIL(イラクとレバントのイスラム国)とISIS(イラクとシリアのイスラム国)の連合隊は、イスラム国(Islamic State)と名称の変更を発表した。2014年8月には、イラク北部のズマール、シンジャール、ワナを占領した。

 イラクのアルマリキ首相は、2006年5月から2014年8月までイラク暫定政府を引き継いだ。シーア派の反対派であるスンニ派であった。2014年8月7日からアメリカ軍は、イスラム国の勃発に対して、イラクへの軍事介入した。8月5日からクルド人に武器供与、8月8日から空爆を開始した。イスラム国は、2014年8月12日から、インターネットによる西洋民間人と日本民間人らを斬首する宣戦を開始した。アメリカ軍の軍事介入により、2014年から2021年8月までに、アメリカ軍は約69人が殺害されて、イスラム国は約70,000以上が殺害された。民間市民は、約34,000人以上が巻き込まれて殺害されて、約550,000人が難民化した。




2021年8月15日日曜日

太平洋戦争の終戦後に、少女は母親の遺骨と遺影を抱いて、悲しみ泣きながら花びらの枝葉を付けて海外から門司駅まで引揚した。

太平洋戦争の終戦後に、1945年10月16日に中国大陸から九州方面への引揚者は列車で門司駅に運送された。殺到した引揚者は一時的に門司引揚寮に停泊した。少女は母親の遺骨と遺影を抱いて、悲しみ泣きながら花びらの枝葉を付けて引揚した。手にした持ち物のみが全ての所有物であった。そこから父母の故郷の元へ、遺骨を抱えて不安と悲しみに包まれて引揚した。引揚は、生還者だけでなく、途上で死亡者も多発したて、その遺骨の一部も帰還した。終戦後の復員や引揚の人達が、門司に上陸して安堵の思いで、門司駅の水飲み場で喉を潤して「帰り水」と呼称された。門司港では最後の集団引揚は、1961年6月27日に、北ベトナムからの集団引き揚げ船「上海丸」が、福岡県の門司港へ入港して、最後の集団引き揚げが終了した。

 1945年12月8日に太平洋戦争が終結し、日本はポツダム宣言を8月14日に受諾した。1945年8月15日正午からラジオで放送された玉音放送により、8月14日に決まったポツダム宣言受諾と日本の降伏が、日本国民を公表した。終戦の日とて、日本は武装放棄と投稿を命令して、連合軍は戦闘を停止した。ポツダム宣言に、軍人は「九 日本国軍隊は、完全に武装を解除せられたる後各自の家庭に復帰し、平和的且生産的の生活を営むの機会を得しめらるべし。」と規定された。連合軍は、日本陸海軍の移動に第一優先を、民間人の移動に第二優先を附与すべしと指示して、軍人軍属の帰還の復員を優先して開始された。民間市民は、「八 カイロ宣言の条項は、履行せらるべく、又日本国の主権は、本州、北海道、九州及四国並に吾等の決定する諸小島に局限せらるべし。」との条項をもとに、終戦時に海外に在留した軍人、民間人あわせて約660万人は、日本本土への復員と引揚が始まった。

 軍人は約3,107,411人と民間人約3,189,835人と同数が、アジア全域から日本本土に復員あるいは引揚した(図表)。引揚者は、厚生省が開設した18地区の引揚港から上陸した。軍人が軍務を解かれて日本本土に帰還する復員をした。海外の民間市民が帰還する引揚した。復員と引揚は、1947年12月31日までに、約624万人が復員と引き揚げした。それから一時空白期間から、1959年頃まで引き揚げは継続した。公式記録では個別引揚は1976年まで続き、最初の引き揚げから約30年も継続した。特にフィリピン・東南アジア・ベトナムからの引揚は1960年頃まで少数ながら継続した。軍人の本土復帰である復員は、優先されて帰還できた。しかし、支援組織のない民間市民の引揚は、長期にわたる悲惨と苦難の引揚となった。ほとんどの民間市民は、着の身着のままで哀れな姿で日本本土に帰還した。民間市民の終戦後の引揚は、戦争による悲惨な犠牲者となった。






2021年8月14日土曜日

アメリカ陸軍調査団が1945年9月11日に被爆者の調査のため、広島第一陸軍病院宇品分院にて、収容された被爆者の診察検査をした。

 アメリカ陸軍調査団が1945年9月11日に被爆者を診察するために、広島第一陸軍病院の宇品分院を訪問した。収容された仰向けの被爆者の視覚検査をした。広島原子爆弾の爆心地から南東約4.1kmの陸軍船舶練習部は臨時野戦病院として、次いで広島第一陸軍病院宇品分院となった。約6,000人以上の被爆者が収容された。

 原子爆弾の開発を行なった機関の調査団であるマンハッタン管区調査団とアメリカ太平洋陸軍軍医団調査班が合同して原爆及び医学的報告を行なった。ファーレル准将を団長とする約15人からなる調査団を広島に送ることを決定した。連合国最高司令官総司令部(GHQ)は、日本政府に対しこの調査に協力するように指令を出した。

 これを受けて、広島で調査活動中であった陸軍本橋および東京帝国都築正男教授は東京に呼戻もどされ、調査団に同行・協力した。調査団は9月7日空路で岩国に到着した。9月8日に広島に入り、日本軍や行政各機関の協力を得ながら調査を行なった。

9月8日に、ファーレル准将一行の調査団は、厚木飛行場から飛行機6機で広島に向かった。広島に着いた一行は海軍鎮守府が用意したバスで中国軍管区司令部に行き、第二総軍司令官の出迎えを受けた後、調査を開始した。一行には、東大都築教授、軍医学校の本橋少佐などが同行し、彼らを案内するとともに、これまでの日本側の調査・研究結果を報告した。調査団にはスイス赤十字社のジュノー博士も同行し、占領軍は約15トンに及およぶ医薬品を、博士の要望に応おうじて提供した。

 1945年9月に、アメリカ陸軍・アメリカ海軍の軍医団は、旧陸軍病院宇品分院などに収容された被爆者から約1年間の被爆調査を行った。陸軍医務局、東京帝国大学医学部の協力で、東大の都築正男(教授)、アシュレー・オーターソン(米陸軍)、シールズ・ウォーレン(米海軍)による日米合同調査団を編成して、約1年間の被爆調査が行った。収集資料の解析には日本の研究者の参加は認められず、全調査資料がアメリカに送られて、アメリカ陸軍病理学研究所(Armed Forces Institute of Pathology)に保管された。

 広島市に原子爆弾が投下されて炸裂した1945年8月6日から敗戦の8月15日までに撮影された原爆写真は、広島で被爆した9人の撮影者と大阪から入った朝日、毎日、同盟(共同通信)の記者3人の計12人による259枚と、陸軍船舶司令部写真班が撮影した52枚の311枚の原爆写真の存在が明らかとなっている。学術研究会議に同行して9月下旬に入った東京の撮影者などを含めて1945年末までに、日本側は計37人の2702枚を収めた。写真の半数は、サンフランシスコ講和会議で日本が占領下から主権を回復すると、東京の朝日出版社から直ちに「原爆第1號ヒロシマの写真記録」(1952年8月14日発刊)に使用された。ただし、場所や撮影者の記述はない。そのうち1枚が、アメリカ写真雑誌「ライフ」(1952年9月29日号)に「原爆の恐ろしさを米国初公開」として別の写真と一緒に掲載された。