2021年8月17日火曜日

サイゴンのテト攻勢でチョロン地区に潜伏して生存していたベトコン兵士を、南ベトナム軍兵士とアメリカ軍兵士が家屋から屋外に引きずり出して射撃して絶命させた。

ベトナム戦争におけるベトコンと北ベトナム軍によるテト攻勢が1968年1月30日から南ベトナムで勃発した。1968年2月11日に、サイゴンのチョロン地区に潜伏していた黒衣服のベトコン兵士が、南ベトナム軍兵士とアメリカ軍兵士により、崩壊した家屋から屋外に引きずり出された。負傷していたがまだ生存していたベトコン兵士は、抵抗することもなく弾丸1発を射撃されて絶命した。弾丸が鋭くベトコン兵士の身体にめり込み、生存していたベトコン兵士はしばらくすると全く生命反応も無い死体に変貌した。敵兵がどこにいて、どの方向にいるのかさえ不明であった。敵軍は家やトンネルの中、そして下水道の中でも潜伏した。

 1968年1月30日の早朝に、多くの家族が旧正月の祝賀を開始したのと同時に、約84,000人ものベトコン軍と北ベトナム軍が奇襲して南ベトナムの主要な都市部を攻撃した。南ベトナムの44の州都のうち39、64の地区本部、ほぼすべての同盟飛行場とアメリカ軍基地などがテト攻勢された。サイゴンに、テト攻勢が勃発した時は、多くの南ベトナム軍は休暇中であった。24時間後には、北ベナム軍とベトコン軍は、南ベトナム全土の都市、町、政府の建物、アメリカ軍基地または南ベトナム軍事基地を含む、南ベトナム全土の他の多くの標的を攻撃し、合計約120回以上の攻撃を行った。アメリカ大使館を攻撃しただけでなく、サイゴン中の他の約12の目標にも攻撃した。特に驚異となったサイゴンのアメリカ大使館に対するテト攻撃では、アメリカ軍がそれを掃討する前に、ベトコン部隊が大使館の複合施設の中庭に入った。特にアメリカ国大使館への大胆な攻撃とその驚異は、テレビで放送されたベトコンに対する大虐殺の映像を見たアメリカ市民に非常なショックを与えた。サイゴンでは、散発的なテト攻勢の市街戦は3月8日まで続いた。国際的な報道機関は、テト攻勢の間に、ベトナム戦争の無修正の生の戦争映像をアメリカのテレビ画面に送信して多大な反戦運動を引き起こした。 

 1968年のテト攻勢までに、少なくとも約485,000人のアメリカ軍兵士が南ベトナム国内に駐留していた。地上戦はほとんど田舎であり、爆撃は北ベトナムの主要な供給ラインであるホーチミン・ルートを破壊するためにラオスとカンボジアに侵攻していた。町を救うために町を破壊する必要が生じた。テト攻勢は1968年4月1日まで継続した。北ベトナム軍とベトコの犠牲は、甚大な戦死者しは約58,373人(戦死者約32,000人、戦傷者約50,000人他)を損失した。アメリカ軍と南ベトナム軍は、戦死者は約9,078人、戦傷者は約35,212人が戦傷した。ベトナム民間市民は、約14,000人が死亡して、約24,000人が負傷した。

 ジョンソンの後継となったリチャード・ニクソンは、「名誉ある平和」を公言して選挙に勝利した。就任したニクソンは、数ヶ月ごとにアメリカ軍の増員を撤回した。その後に、完全なるアメリカ軍の撤退を必要とする和平協定を交渉した。テト攻勢によりアメリカ大使館が攻撃された不運な事件から、約7年後の1975年4月30日に、最後のアメリカ人と一部のベトナム人の同盟者は、南ベトナムを悲惨で残酷にも見殺しにして、アメリカ大使館の屋上からヘリコプターで南ベトナム首都サイゴンから上級国民が脱出して飛び去った。



(アフガニスタンでも再び、タリバンにより首都カブールが陥落して、2021年8月15日にアシュラフ・ガニ大統領からアメリカ大使館屋上にて上級国民らが軍用ヘリコプターで脱出し始めた。)

2021年8月16日月曜日

イラク政府軍のサファウィ軍が、イスラム国の攻撃を受けて逃亡する前に、スンニ派イスラム教徒約39人の囚人を拘置所で虐殺した。

イスラム国は2014年6月25日に、イラクの北西部のモスルから西方に約50Kmのタル・アファールを占領した。スンニ派が多数派で、ラダフィディ派は少数派であった。イラク政府軍のサファウィ軍が、イスラム国の攻撃を受けて、逃亡する前に、スンニ派のイスラム教徒の囚人を虐殺した。イラクの拘置所で、アルマリキのイラク政府軍隊は、イラクのスンニ派囚人を大量虐殺して、多くの死体が散乱して積み上げた。36人の死体がいる拘置所で、殺害と屠殺が行われた食肉処理場に成り果てた。アルマリキ首相のイラク政府軍とシーア派の軍隊が、イラク国内で虐殺を繰り返していた。虐殺の生存者は、病院に運ばれた後に、死体はアルマリキのイラク政府軍隊によって射殺されたと証言子した。スンニ派被拘禁者は、アルマリキのイラク政府軍による大量死刑が執行された。

 2013年12月から、イラクとイスラム国との軍事衝突がイラク西部で頻発した。イスラム国(ISIL)は、2014年1月にファルージャを占領して、2014年6月にイラク北部から攻勢が激化した。6月4日サマラ、6月10日モスル、6月11日ティクリーチを占領した。6月13日にイラク政府軍は南部に撤退した。イラク政府は6月下旬に、ヨルダンとシリア両国の国境周辺の支配を失った。2014年6月29日にISIL(イラクとレバントのイスラム国)とISIS(イラクとシリアのイスラム国)の連合隊は、イスラム国(Islamic State)と名称の変更を発表した。2014年8月には、イラク北部のズマール、シンジャール、ワナを占領した。

 イラクのアルマリキ首相は、2006年5月から2014年8月までイラク暫定政府を引き継いだ。シーア派の反対派であるスンニ派であった。2014年8月7日からアメリカ軍は、イスラム国の勃発に対して、イラクへの軍事介入した。8月5日からクルド人に武器供与、8月8日から空爆を開始した。イスラム国は、2014年8月12日から、インターネットによる西洋民間人と日本民間人らを斬首する宣戦を開始した。アメリカ軍の軍事介入により、2014年から2021年8月までに、アメリカ軍は約69人が殺害されて、イスラム国は約70,000以上が殺害された。民間市民は、約34,000人以上が巻き込まれて殺害されて、約550,000人が難民化した。




2021年8月15日日曜日

太平洋戦争の終戦後に、少女は母親の遺骨と遺影を抱いて、悲しみ泣きながら花びらの枝葉を付けて海外から門司駅まで引揚した。

太平洋戦争の終戦後に、1945年10月16日に中国大陸から九州方面への引揚者は列車で門司駅に運送された。殺到した引揚者は一時的に門司引揚寮に停泊した。少女は母親の遺骨と遺影を抱いて、悲しみ泣きながら花びらの枝葉を付けて引揚した。手にした持ち物のみが全ての所有物であった。そこから父母の故郷の元へ、遺骨を抱えて不安と悲しみに包まれて引揚した。引揚は、生還者だけでなく、途上で死亡者も多発したて、その遺骨の一部も帰還した。終戦後の復員や引揚の人達が、門司に上陸して安堵の思いで、門司駅の水飲み場で喉を潤して「帰り水」と呼称された。門司港では最後の集団引揚は、1961年6月27日に、北ベトナムからの集団引き揚げ船「上海丸」が、福岡県の門司港へ入港して、最後の集団引き揚げが終了した。

 1945年12月8日に太平洋戦争が終結し、日本はポツダム宣言を8月14日に受諾した。1945年8月15日正午からラジオで放送された玉音放送により、8月14日に決まったポツダム宣言受諾と日本の降伏が、日本国民を公表した。終戦の日とて、日本は武装放棄と投稿を命令して、連合軍は戦闘を停止した。ポツダム宣言に、軍人は「九 日本国軍隊は、完全に武装を解除せられたる後各自の家庭に復帰し、平和的且生産的の生活を営むの機会を得しめらるべし。」と規定された。連合軍は、日本陸海軍の移動に第一優先を、民間人の移動に第二優先を附与すべしと指示して、軍人軍属の帰還の復員を優先して開始された。民間市民は、「八 カイロ宣言の条項は、履行せらるべく、又日本国の主権は、本州、北海道、九州及四国並に吾等の決定する諸小島に局限せらるべし。」との条項をもとに、終戦時に海外に在留した軍人、民間人あわせて約660万人は、日本本土への復員と引揚が始まった。

 軍人は約3,107,411人と民間人約3,189,835人と同数が、アジア全域から日本本土に復員あるいは引揚した(図表)。引揚者は、厚生省が開設した18地区の引揚港から上陸した。軍人が軍務を解かれて日本本土に帰還する復員をした。海外の民間市民が帰還する引揚した。復員と引揚は、1947年12月31日までに、約624万人が復員と引き揚げした。それから一時空白期間から、1959年頃まで引き揚げは継続した。公式記録では個別引揚は1976年まで続き、最初の引き揚げから約30年も継続した。特にフィリピン・東南アジア・ベトナムからの引揚は1960年頃まで少数ながら継続した。軍人の本土復帰である復員は、優先されて帰還できた。しかし、支援組織のない民間市民の引揚は、長期にわたる悲惨と苦難の引揚となった。ほとんどの民間市民は、着の身着のままで哀れな姿で日本本土に帰還した。民間市民の終戦後の引揚は、戦争による悲惨な犠牲者となった。






2021年8月14日土曜日

アメリカ陸軍調査団が1945年9月11日に被爆者の調査のため、広島第一陸軍病院宇品分院にて、収容された被爆者の診察検査をした。

 アメリカ陸軍調査団が1945年9月11日に被爆者を診察するために、広島第一陸軍病院の宇品分院を訪問した。収容された仰向けの被爆者の視覚検査をした。広島原子爆弾の爆心地から南東約4.1kmの陸軍船舶練習部は臨時野戦病院として、次いで広島第一陸軍病院宇品分院となった。約6,000人以上の被爆者が収容された。

 原子爆弾の開発を行なった機関の調査団であるマンハッタン管区調査団とアメリカ太平洋陸軍軍医団調査班が合同して原爆及び医学的報告を行なった。ファーレル准将を団長とする約15人からなる調査団を広島に送ることを決定した。連合国最高司令官総司令部(GHQ)は、日本政府に対しこの調査に協力するように指令を出した。

 これを受けて、広島で調査活動中であった陸軍本橋および東京帝国都築正男教授は東京に呼戻もどされ、調査団に同行・協力した。調査団は9月7日空路で岩国に到着した。9月8日に広島に入り、日本軍や行政各機関の協力を得ながら調査を行なった。

9月8日に、ファーレル准将一行の調査団は、厚木飛行場から飛行機6機で広島に向かった。広島に着いた一行は海軍鎮守府が用意したバスで中国軍管区司令部に行き、第二総軍司令官の出迎えを受けた後、調査を開始した。一行には、東大都築教授、軍医学校の本橋少佐などが同行し、彼らを案内するとともに、これまでの日本側の調査・研究結果を報告した。調査団にはスイス赤十字社のジュノー博士も同行し、占領軍は約15トンに及およぶ医薬品を、博士の要望に応おうじて提供した。

 1945年9月に、アメリカ陸軍・アメリカ海軍の軍医団は、旧陸軍病院宇品分院などに収容された被爆者から約1年間の被爆調査を行った。陸軍医務局、東京帝国大学医学部の協力で、東大の都築正男(教授)、アシュレー・オーターソン(米陸軍)、シールズ・ウォーレン(米海軍)による日米合同調査団を編成して、約1年間の被爆調査が行った。収集資料の解析には日本の研究者の参加は認められず、全調査資料がアメリカに送られて、アメリカ陸軍病理学研究所(Armed Forces Institute of Pathology)に保管された。

 広島市に原子爆弾が投下されて炸裂した1945年8月6日から敗戦の8月15日までに撮影された原爆写真は、広島で被爆した9人の撮影者と大阪から入った朝日、毎日、同盟(共同通信)の記者3人の計12人による259枚と、陸軍船舶司令部写真班が撮影した52枚の311枚の原爆写真の存在が明らかとなっている。学術研究会議に同行して9月下旬に入った東京の撮影者などを含めて1945年末までに、日本側は計37人の2702枚を収めた。写真の半数は、サンフランシスコ講和会議で日本が占領下から主権を回復すると、東京の朝日出版社から直ちに「原爆第1號ヒロシマの写真記録」(1952年8月14日発刊)に使用された。ただし、場所や撮影者の記述はない。そのうち1枚が、アメリカ写真雑誌「ライフ」(1952年9月29日号)に「原爆の恐ろしさを米国初公開」として別の写真と一緒に掲載された。




2021年8月13日金曜日

太平洋戦争にて、フィリピンのレイテ島のカナンガ北方ロノイにコンクリートの要塞の中で、アメリカ軍兵士が自殺した約7人の日本軍兵士の死体を引き出して検死した。

太平洋戦争にて、フィリピンのレイテ島のカナンガ(kananga)北方約2kmのロノイ(Lonoy)付近のコンクリートの要塞の中で、アメリカ軍兵士が1944年12月22日に自殺した約7人の日本軍兵士の死体を引き出して検死した。日本軍兵士の遺品から、日本軍の情報と遺書を見出した。日本軍の士気と体調は非常に低くなり、崩壊し始めて、脱走も多くなり、医療も受けれない負傷者は部隊に合流できなかった。上官が説得力のある言葉で、戦線の重傷の日本軍兵士に自決を求めることが多くなり、大半は喜んで自殺した。部隊からはぐれた日本軍兵士は、重傷を理由に部隊への合流を拒まれ、軽傷者を戦線に送り返した。

 11月1日にレイテ島に到着した日本軍部隊は、約1ヶ月分の食料と弾薬だけで、12月1日には供給が尽きて飢餓状態に陥っていた。ココナッツ、雑草、竹の子、ココナッツの幹の繊維、採集した自生の果物や野菜を食べた。弱った胃腸のために食物の一部を消化できず、1日に数回も嘔吐した。退却中には、多くの装備、弾薬、配給を放棄した。鬱蒼としたジャングルの中を撤退して、12月25日にはアメリカ軍の攻撃を受け、さらに壊滅状態となった。日本軍が、意気消沈してレイテ島西部の山に向かって退却していく中、大本営は日本国民に、「我が軍はブラエン飛行場、サンパブロ飛行場を保持し、敵陣への攻撃を続けている。我が軍はオルモック、アルブエラ付近の東側山腹で猛烈な戦闘を展開している」と通達した。

 1944年12月18日に、アメリカ軍は、レイテ島のロノイ、カナンガ、および北西部に偵察隊を派遣した。12月19日に、アメリカ軍は、多くの日本軍の装備を略奪して、多くの物資の置場を破壊してロノイを占領し、カナンガに侵攻した。カナンガ地域に砲撃を加え、多くの日本軍兵士を殺害して、残りの日本軍は南に逃げた。日本軍に集中砲火と機関銃を浴びせ始めた。対戦車小隊は砲とその乗員を破壊するために出動した。12月20日には、アメリカ軍は、すぐに民家の下や道路沿いの小さな物陰に潜んでいた日本軍から激しい銃撃を受けた。カナンガ方面に向けて南方に移動した。

 カナンガを占領するために、12月21日に侵攻して攻撃した。道路を見下ろす尾根から日本軍の激しい銃撃を受けて、包囲した。日本軍は明らかに略奪を行って、荷物の中には、リネン、銀製品、女性用の衣類が入っていた。12月22日に、アメリカ軍は、カナンガの南にある橋で部隊が合流した。ついにオルモック渓谷からピナモポアンまでの全距離が解放あされた。日本軍がアメリカ軍の進撃に粘り強く抵抗したオルモック渓谷が、アメリカ軍に占領されたいた。レイテ島に残存している日本軍部隊は、オルモック渓谷の裏山への退却を命じられた。オルモック湾西のレイテ島北西部の山地は、北西部海岸に向かう難所であった。地形は荒れて、北側の砕けた土地や低い丘から、南側の急な岩の尾根や高い丘へと高度が上がっていた。カナンガの南部では耕作地や草原が密林に変わり、植物が生い茂り、鋭く切り立った尾根の通過には時間がかかり、困難を極めた。南下する際に迂回してきた日本軍の抵抗勢力を一掃した。

 12月28日に、装備の乏しい日本軍の小部隊は壊滅した。竹竿に取り付けた銃剣だけを武器とする日本軍の一団は、絶望的に戦線を突撃して殲滅された。12月31日に、日本軍は数回の夜襲をした。いずれもラッパの音で始まり、午前2時30分頃から明け方まで、迫撃砲、機関銃、小銃などで、武装した日本軍兵士約500人は壊滅した。 




2021年8月12日木曜日

第一次上海事変にて、日本軍は中国軍陣地がある上海の江湾鎮を強襲して侵攻して、塹壕の中に取り残されて遺棄された中国軍兵士の死体が横たり、武器が散乱した。

第一次上海事変にて1932年2月20日に、日本軍は中国軍陣地がある上海の江湾鎮を強襲して侵攻した。塹壕の中に取り残されて遺棄された中国軍兵士の死体が横たわった。その塹壕内には、中国軍の武器が散乱していた。日本軍は、2月20日に上海の廟行鎮東方及び江湾鎮附近の中国軍の陣地を攻撃して、江湾鎮の東端まで侵攻した。中国軍は、江湾鎮の市街に堅固なる家屋を利用して、徹底した抗戦して。日本軍は侵攻の進捗が停滞して、戦闘が苦戦に陥った。

 中華民国の上海共同租界にて1932年1月28日から3月3日まで第一次上海事変が勃発した。日本軍は、上海の邦人の保護と租界防備に関する国際的義務を全するを事由として1917年2月6日に日本軍が日本より上海に派遣された。第十九路軍を主幹とする約5万人の中国軍は2月20日から上海の日本軍に第一次総攻撃した。

 日本軍は、2月22日夜中に廟行鎮の敵陣地を夜襲しこれを奪取した。三十六勇士が出現して、肉弾三勇士として謳われて、作江、北川、江下の三伍長は戦死して、師団長より感状の名誉を授与された。帝国万歳と叫んで吾身は木端微塵、忠烈まさに粉骨砕身、葉隠れ主義の露堂々など、美談が広く報道され反響をよび、壮烈無比の勇士と武功を称えられ国民は軍国主義に熱狂した。日本軍は、中国軍陣地の郭家屯にて、閘北方面から優勢なる中国軍が逆襲した。廟行鎮附近の戦闘により、第十九路軍に蒋介石の中国護衛軍が援軍して来た。

 2月26日には江湾鎮の中国軍は戦闘機の爆撃と砲撃されて、西方に退却した。日本軍は、廟行鎮から江湾鎮、閘北までの戦線を占領した。3月1日に江湾鎮の西方約2Kmの大行橋から江湾鎮の南方約25Kmの夏馬湾まで侵攻した。3月2日に混乱して敗走する中国軍を追撃して、3月3日に戦闘は終結した。

 3月24日より、日本軍と中国軍の停戦を、イギリス・アメリカ・フランス・イタリアの4国の武官が参与した委員会で協議を重ねた。特にイギリス公使の斡旋により停戦協議は進展した。3月25日から上海に駐屯した一部の日本軍から帰還を開始した。4月29日の天長の佳節の爆破事件が勃発した。4月30日に国際連盟の停戦の勧告決議が採択されると、停戦協議は5月5日に調印された。5月9日までの日本軍の戦死者は約634人で戦傷者は約1,791人に及んだ。中国軍の犠牲者は戦死者4,086人、戦傷者は約9,484人に及んだ。民間市民は約6,080人が殺害されて、約2,000人が負傷して、約14,000人が行方不明となった。日本軍は、5月11日に大本営に対して、満州方面における拡大する反満、反日の匪族を、直ちに武力を以て徹底的に鎮圧して治安の維持を求めた。満州の駐兵地域の拡大に伴い兵力が不足して、上海事変の停戦の調印を利用して、日本軍を改編して満洲に転用することが発令された。




2021年8月11日水曜日

太平洋戦争にて、テニアン島に上陸したアメリカ軍に対して、日本軍兵士が夜間にバンザイ突撃して、大砲と機関銃により死体群が荒野に散乱して山積みとなった。

太平洋戦争において、1944年7月24日にテニアン島に上陸したアメリカ軍に対して、日本軍兵士が夜間にバンザイ突撃した。アメリカ軍は、すべての大砲と機関銃は地獄のように撃ち始めた。夜襲をした日本軍兵士が殺害された約251人以上もの死体群が、テニアン島の荒野に7月25日には散乱して山積みにされた。約15,000人以上のアメリカ軍が上陸して、日本軍兵士をはるかに凌駕した。アメリカ軍は上陸直後から、日本軍から夜間の突撃を予期していた。テニアンの戦いで初めて焼夷弾のナパーム弾が投下された。焼夷弾は、日本軍の要塞を焼き尽くした。日本軍は、昼間に退却して夜に攻撃した。7月31日夜中に、日本軍は最後に自爆するバンザイ攻撃を行って全滅した。民間難民は8月1日直後にすぐに約500人、8月2日は約800人、次第に約8,000人まで増大した。

 平坦な地形のテニアン島は、アメリカ軍のB-29爆撃機の飛行場の建設に適した。テニアン島は、サイパン島、グアム島とともにアメリカ空軍の基地となった。B-29爆撃機が、テニアン島からフィリピン、琉球諸島、日本本土を標的として空襲した。8月1日に占領した約1年後に、B-29のエノラ・ゲイ号が広島に投下される原子爆弾を積んで1945年8月6日午前1時45分にテニアン飛行場を離陸した。その3日後の8月9日午前2時47分に、2機目のB-29ボックス・カーが長崎に投下される原爆を積んでテニアン飛行場を離陸した。第二次世界大戦を終結させた日本の降伏は、その直後の8月15日に無条件降伏が宣言された。

 テニアンの戦いが、第二次世界大戦の太平洋戦争にて、1944年7月24日から8月1日までマリアナ諸島のテニアン島で勃発した。日本軍の反撃は最初の夜中に突撃した。日本軍兵士は、アメリカ軍に約3回突撃した。夜明けまでに、日本軍の攻撃は打ち砕かれて、アメリカ軍は掃討を始めた。次の3日間で、アメリカ軍は内陸に移動し、抵抗はほとんどなく、ウシポイント飛行場を占領した。7月29日に、退却する日本軍兵士は南部の丘や洞窟に避難した時により厳しい攻撃をした。日本軍は、孤立して攻撃が破壊された後に、日本軍兵士は南端に撤退した。残存する日本軍を掃討して、1944年8月1日早朝に、最後の砦から2回のバンザイ突撃を撃退して、日本軍は全滅した。

 7月9日のサイパンの戦いの終結後に、アメリカ軍は約5kmの近隣のテニアン島を攻撃した。1944年6月までに、約8,039人の日本軍兵士、約13,000人の日本民間人、約2,700人の朝鮮人、約22人のチャモロ民族が在住していた。テニアン島の戦いで、日本軍兵士は約5,542人が戦死、約2,265人が行方不明、約252人のみが捕獲されて生存した。日本人等の民間人は、約4,000人が多数の自殺あるいは殺害された。約41,364人のアメリカ軍兵士のうち、約326人が戦死して、約1,593人が戦傷した。




2021年8月10日火曜日

ドイツ親衛隊がヘルムブレヒトの女性強制収容所でやせ衰えて虐殺されたユダヤ人女性囚人の約22人の死体を、アメリカ軍が集団墓地から発掘した。

ナチス・ドイツ軍がヘルムブレヒト(Helmbrechts)女性専用強制収容所で虐殺したユダヤ人女性囚人の約22人の死体を、アメリカ軍が集団墓地から発掘した。1945年4月18日に掘り起こされてやせ衰えたユダヤ人女性の死体であった。2人のアメリカ軍兵士が見守った。

 ドイツ軍がヘルムブレヒトの女性専用強制収容所内にて、殺害したユダヤ人女性22人の死体が散乱していた。ヘルムブレヒト女性強制収容所は、1944年9月1日からフロッセンビュルク強制収容所の管轄下であった。 

 ヘルムブレヒツ強制収容所は、1944年7月にドイツのホーフ近くのヘルムブレヒツ近くに設立されたフロッセンビュルク強制収容所の管轄下の女性専用強制収容所であった。収容所に最初に収容された囚人は、ドイツ北部のレイヴンズブルック収容所からの政治犯であった。その後に、ユダヤ人女性の囚人が強制連行され収容された。1945年4月15日に解放されたが、生存した囚人は残存しなかった。

 ポーランドのラーフェンスブリュック強制収容所からの約680人のポーランド・ソビエト連邦・チェコから約68人の非ユダヤ人女性囚人が移送された。1945年3月6日には、約621人のハンガリー系ユダヤ人女性が、グロースローゼン強制収容所に併設されたシレジアのグリュンベルク強制収容所からの死の行進を経由してヘルムブレヒツ女性専用収容所に到着した。看守は朝から女性囚人を叩打して虐待と虐殺した。毎朝、看守が手押し車を持って、夜に死んだ者の死体を運び出した。廃繊維工場で兵器製造の強制労働を強要された。さらに工場から約1km離れた有刺鉄線で囲んだ兵舎内にも設置された。

1945年3月までに約10から20年まで非ユダヤ人囚人が虐殺された。逃亡した約3人の女性が虐待と虐殺された。4月中旬までに、約40から約50人のユダヤ人女性が虐殺した。1945年4月13日に閉鎖して、女性囚人の一部の約590人の非ユダヤ人がズウォダウ強制収容所に強制行進させた。他の約577人のユダヤ人女性はさらに南部のチェコに死の行進中には、約200人が虐殺された。行軍中の囚人が衰弱して歩行できないと、生きたまま残してはならないと、囚人を射殺した。




2021年8月9日月曜日

第一次上海事変で日本軍兵士らは、板間に戦死した兵士の死体を多人数で載せて担いで、火葬のために大場鎮の戦場から運び出した。

 第一次上海事変の最大の激戦地となった悲惨な大場鎮の戦いでは、塹壕の中で日中両軍兵士の死体が散乱した。日本軍兵士らは、戦死した板間に戦死体を載せて担いで、大場鎮の戦場から運び出した。戦場の後方まで戦死体群を集積して火葬して埋葬した。両軍は塹壕から出る地点で、猛烈な射撃を受けて死傷者が続出した。大場鎮にて突撃を繰り返して、上海戦線の203高地と呼称されて、多くの犠牲者を出した。大小の小川を挟んで、決死の肉弾戦が続いて、弾丸が降り注いだ。小川の橋を落しては、中国軍兵士が民家に籠って頑強に抵抗した。中国軍が設置した小川の水路や陣地の蜘蛛の巣によって日本軍の侵攻が立ち往生した。1932年1月28日から3月3日まで上海で日中両軍が衝突した第一次上海事変では、日本軍と中国軍で約4万人もの死傷者が出た。日本軍は戦死者は約769人、戦傷者は約2,322人の犠牲となる。中国軍は戦死者は約4,086人、戦傷者は約9,484人の犠牲を伴った。

 上海事変後に、1932年1月28日に上海の共同租界に戒厳令が施行され、イギリス・アメリカ・フランス軍は警備した。日本海軍と陸軍も在留邦人保護のために上海に上陸して警備した。中国の第十九路軍が突如に発砲して、上海の閘北一帯が戦闘に陥った。小川沿いの脇に両軍に多くの死傷者が倒れ、多くの犠牲者が出た。中国軍は、戦場ー帯に設置した鉄剛網から機関銃を発砲した。上海の廟江鎮の戦場では、日本軍兵士の爆弾三勇士が爆弾を抱いて自爆して鉄条網を粉砕して、殉職に対して日本大衆から英雄と讃えた。

 第一次上海事変は、1931年9月18日の柳条湖事件から派生した満州事変の際に、併発した日本軍と中国軍の局地戦争である。世界の注目を満州国の建国工作からそらし、中国の抗日運動を抑える謀略から発生した。中国人を買収し、1932年1月18日には、日本人僧侶を襲撃・死傷させて、抗日運動の上海に険悪な情勢を波及した。中国側当局が日本の抗議要求をのんで事件は落着するも、日本軍は日本租界に陸戦隊を配備し、1932年1月28日から中国第十九路軍と衝突した。中国側の第十九路軍は抗日意識の高い精兵で、上海市街や北西郊外の水陸の地形を巧みに活用して日本海軍の陸戦隊を苦しめた。2月には、日本政府は日本陸軍を大動員して、激戦を展開した。上海は各国の権益が交錯するために、英・米・仏3国の休戦勧告など国際的圧力がかかった。国際連盟総会直前の3月1日に最大の激戦地となった大場鎮の中国軍陣地を陥落した。3月3日になり中国軍の第十九路軍は退却した。国際連盟の3月4日の臨時総会で、日中両国の戦闘停止を決議した。日中両国が決議を受諾して、第一次上海事変の戦闘が停止した。5月5日に停戦協定が結ばれ、日本軍は撤退した。この間に1931年3月1日に満州国が建国された。中国側の抗日意識や列強の対日警戒心が一挙に増大した。




2021年8月8日日曜日

アフリカ系アメリカ人のチャーリー・ヘイルが、白人集団によりリンチで絞殺された死体に「彼を起こさないで下さい」と看板した。

1911年4月7日の真夜中に、アメリカ北東部のニュージャージー州のローレンスビルのペリー・ストリートとパイク・ストリートの角にある裁判所の広場で、アフリカ系アメリカ人のチャーリー・ヘイルが、白人集団によりリンチを受けて、絞殺された。死体のつま先にぶら下がっている看板には「彼を起こさないで下さい」と掲載していた。約20歳のチャーリー・ヘイルは、ローレンスビルの監獄から引きずり出され、約200人以上の仮面の暴徒に囲まれてリンチされた。白人女性への暴行容疑で告発されたヘイルは、告発内容を弁明する機会もなく、交差点にある電柱に首吊りされた。週末に白人男性と子供たちの群衆が集まって、写真が撮られた。写真を撮影したリンチの様子を描いた絵葉書が作成された。1911年4月8日のリンチの余波でも、誰も逮捕されなかった。写真は、貧しい首吊りの犠牲者のそばで熱心によく着飾った目を見開いた笑顔の人々が撮影されていた。死のリンチに群がった白人の男性と女性は、死体の側に幼い子供たちを連れてきた。

 1850年代以降の南北戦争から、奴隷制、人種、分離などの問題をめぐる急激な政治的分裂、際州内で異常な争いと暴力が沸き起こった。この紛争は、男性、女性、子供、白人、アフリカ系アメリカ人、先住民と移民、農民、都市と町の住人を含む、社会のすべての人種と階層に影響を与えた。アフリカからの黒人の残忍な奴隷制が、残酷に拷問され、レイプされ、切断され、火あぶりにされた無数の黒人男性、女性、子供たちはほとんど議論されない。アフリカ系アメリカ人は、公民権以前の権利では消耗品と見なさた。第二次世界大戦中に約600万人のユダヤ人の命を奪ったホロコーストは、決して忘れない。

 2021年6月16日グウィネット郡委員会が、約110年前にローレンスビルの下町の広場で執行されたチャールズ・ヘイルへのリンチを認めた。リンチで、適正手続きを受けずに個人を公に殺害した。処刑には、警察官が参加したものの、正義の名目で無法の暴徒によって行われることが多かった。黒人住民へのリンチが白人至上主義を支持し、地域住民を恐怖に陥れ、コミュニティ全体に精神的衝撃を与えた。リンチは単なる一連の殺人事件だけではなく、組織的な人種的恐怖政治となった。ジョージア州だけでも、少なくとも約594件のリンチが記録された。最もリンチ数の多いミシシッピ州で581件、ジョージアで531件、テキサスは493件であった。リンチされた犠牲者の約72%が黒人であった。一部の白人は、黒人を助け、反リンチでリンチされた。メキシコ、中国、オーストラリア、その他の外国からの移民もリンチされた。リンチ率は1930年代に低下した。1882年から1968年の間に、アメリカでは約4,743人以上の黒人がリンチによって虐殺された。 






2021年8月7日土曜日

太平洋戦争にてマリアナ諸島のサイパン島に、アメリカ軍が破損した日本軍戦車の前で、日本軍兵士が殺害された死体が荒野に横たっていた。

太平洋戦争にて、マリアナ諸島のサイパン島にアメリカ軍が上陸した翌日である1944年6月16日に、破損した日本軍戦車の前で、日本軍兵士が殺害された死体が荒野に横たっていた。日本軍兵士と戦車は、アメリカ軍の戦線を攻撃した後に、殺害と壊滅された。6月17日の夜中に、日本軍は再びアメリカ軍に約44台の戦車を使った大規模な攻撃を仕掛けた。戦闘は、騒音、トレーサー、点滅するライトの狂騒に発展した。日本軍戦車が撃たれて炎上すると、他の戦車が輪郭になって前方に突撃した。アメリカ軍は、大砲と戦車で騒音を立てながら砲撃を続けた。夜が明けたとき、戦闘は終結して、約24両の日本戦車が粉々になって、残骸が煙を上げて、多数の死体も横たわった。6月18日に日本軍の洞窟に向けて発砲した時には、有害なガスの濃い雲が流れ出てきて、ガス警報器が鳴って、日本軍が洞窟に貯蔵していたピクリン酸と認定した。

 アメリカ軍の上陸した部隊は、内陸部の高台にいる日本軍からの絶え間ない砲撃により死傷者を出した。海岸に向かう途中で日本軍の狙撃手から猛攻撃を受けた。水陸上陸船は。方向を見失い、直撃を受け、日本軍の攻撃で横倒しになり、装備や人員を岩礁に置き去りにした。両軍の死傷者は急速に増加して、陸上に設置された救護所も、散発的な日本軍の攻撃を受けた。アメリカ軍の代償は大きく、6月18日の夜までに約5,000人以上の死傷者を出した。

 アメリカ軍の約7万人がサイパン島に1944年6月15日に上陸した。サイパン島には約31,000人の日本軍の駐屯軍によって防御され、多くの民間人が居住していた。すべての洞窟には、日本軍の狙撃兵、大砲、または戦闘からの避難を求める民間人が潜伏していた。日本軍は、民間人を待ち伏せの餌として、または人間の盾として使用した。アメリカ軍の戦闘員を悪魔化して、多くの日本の女性と子供たちは、サイパンでアメリカ人と対峙するのではなく、自殺を選んだ。

 6月末には、日本軍は島の岩だらけの北部に追い詰められた。7月7日に、海に背を向けて、日本軍は最大のバンザイ突撃を開始した。約15時間のバンザイ攻撃の後、最後の約5000人の日本軍兵士が絶滅して、死体が散乱した。1944年7月9日に、組織化された日本軍の抵抗が終わり、アメリカ軍はサイパン島に安全宣言を出した。約4か月後の11月1日から、サイパンから東京行きのB-29爆撃機が約100機が離陸して、日本国土に無差別の空襲が勃発した。




2021年8月6日金曜日

学術調査団は10月1日から広島原子爆弾の爆心地付近で放射線を測定したが、9月17日の強烈な枕崎台風による流出のため、低値で無害の測定値が報告された。

広島原子爆弾の爆心地である島病院の南側で、学術調査団が1945年10月1日より残留放射能を測定した。理研が、同一地点を約3回にわたり、ローリッツェン検電器により、土地の放射能の強度を測定した。測定の結果は、広島の土地の残留放射能が、すでに人体に害を及ぼすほどのものはないと報告された。しかし、学術調査団は10月1日から爆心地付近で放射線を測定したため、9月17日の強烈な枕崎台風によって表土が流されたためか、測定値は以外に低かった。(枕崎台風による死者・行方不明は全国で約3,800人、広島県では約2.000人)残留放射能が流出して、「広島では70年間何も育たない」という説を覆す結果を報告した。

 しかし、原爆投下後の広島で活動していた京都大学医学部の研究グループが、大野陸軍病院に滞在していた。9月17日夜、中国・四国地方を襲った枕崎台風による土砂崩れで、病院は壊滅状態となった。この台風により、広島県では被爆者を含む1,199人が亡くなり、897人が行方不明となり、1,297棟の家屋が流され、さらに2,101棟の家屋が倒壊しました。

 9月19日に、撮影スタッフの生物班が東京から広島へ向けて出発した。続いて物理班が東京を発ち、最後に土木建築班と医学班の撮影スタッフが広島へ入った。現地では、食糧などの物資が不足するなど、苦労が伴ともなった。しかし、各班の撮影スタッフは焼け跡やけあとを丹念に歩き、学術調査団の活動を追いながら広島の被害をカメラに収おさめて、広島での撮影は、約1ヵ月間に及んだ。

 原子爆弾のドキュメンタリーを作りたいと思っていた科学調査チームとカメラマンの調査記録員が、9月27日に広島に入り、29日から作業を開始していた。日本フィルム株式会社のスタッフが調査記録を撮影した。しかし、この時に撮られた写真と映像は、アメリカ軍の占領当局(GHQ)によって没収された。幻の映画と写真として、日本に公開されるのは約28年後となった。




 
















2021年8月6日 Japan No War NGO (JNWN)
日本平和市民連盟 視聴回数 500,000回, 1817投稿

2021年8月5日木曜日

白軍と連合軍が、何万人もの共産主義者、労働者、農民が虐殺して、刑務所の地下室では革命勢力の人々が射殺されて、死体が散乱した。

ソビエト政権が1917年10月に誕生して、対抗する白軍と連合軍が1918年初頭から占領した地域では、ソビエト権力が転覆し、残酷な恐怖政治が敷かれた。あらゆる革新的勢力が最も残忍な手段で弾圧された。何万人もの共産主義者、労働者、農民が虐殺された。刑務所の地下室で、革命勢力の人々が射殺されて、死体が散乱した。連合軍は恥ずかしげもなくロシア市民の財産を略奪して、国土を荒廃させた。ソビエトの反革命権力は、食料、原材料、燃料の主要な供給源から切り離して、ロシア市民は飢えた。

 連合軍は、内部の反革命の助けを借りて、反乱を組織して、陽動作戦を実行した。外国の外交官たちは、ソ連政府幹部の逮捕とレーニンの暗殺により、ソ連の政権に対する陰謀を企てた。社会革命的なテロ集団が、党や国家の要人に対して、いくつかの攻撃を行った。1918月1月30日に、社会革命家たちがレーニンの暗殺を試みたが未遂に終結した。

 レーニン暗殺未遂のニュースは、ソ連の国中に憤りを与えた。労働者たちは総力を挙げて反革命勢力を殲滅することを誓った。労働者や農民は、党にさらに結集し、赤軍への援助を増やしていった。1918年9月2日に、ソビエト共和国はトロツキーを長とする革命軍事評議会を設立した。ペトログラードの共産主義者が前線に送られ、赤軍は大きな成功を収めた。反革命である連合軍を粉砕した。赤軍は9月にはカザンとシンビルスクを、10月初めにはサマラを解放した。

 ロシア中央部でソビエト権力が確立されると、反革命の拠点となったのは旧ロシア帝国周辺の諸民族地域が反革命の拠点となった。1918年1月以来に、ドン、クバン、ウクライナなどでソビエト軍と反革命軍との戦闘が勃発した。1918年5月にウラル、シベリアで起こったチェコ軍団の反乱が、全面的内戦の起点となった。第一次世界大戦中にチェコ軍団は、革命後にはヨーロッパ戦線へ移動するためにロシア国内で編成された。チェコ軍団の反乱はシベリア鉄道沿線に展開して、ソビエト政権に深刻な脅威を与えた。シベリア各地には、反ソビエト政権が生まれた。連合軍はこれを契機に全面的な干渉戦争を開始して、1918年8月にはチェコ軍の救援を根拠に、日本軍、アメリカ軍を主体とする大軍部隊がシベリアに侵攻した。




2021年8月4日水曜日

満州事変後に関東軍と中国軍が洮南の付近の大戸屯の戦いにより、殺害された中国軍兵士の死体が荒野に放置され散乱した。

満州事変が1931年9月19日に勃発して、日本帝国側は、満州鉄道の利害に影響する洮昂鉄道を占領するために、関東軍は四平から大興の南約220kmの洮南に向けて侵攻した。関東軍と中国軍が洮南の付近の大戸屯の戦いにより、殺害された中国軍兵士の死体が荒野に放置され散乱した。洮昂鉄道は、中国の奉天軍閥が1924年9月に満州鉄道と請負契約を締結して、1925年から満州鉄道が敷設して、1933年に満州国が占領した。

 関東軍により中国側鉄道の軍事的奪取をした。満州事変後在満の中国系諸鉄道は満州国の国有鉄道(満州国線と略す)とされ、その経営は満鉄に委託された。しかし、その実態は関東軍が戦時下で獲得した鉄道に対する支配権を、事変終了後にも継続するために、関東軍の軍事的観点からの要求であった。実際様々な措置を通じて満州国線に関しては関東軍が指揮監督権を持つことが認められたのである。満鉄が満州国法人となった場合、日本政府の影響力は低下して、満州国が満鉄に対して発言権を拡大し、その結果軍の管理権に影響が出た。独立国家として満州国が満鉄への発言権を拡大した。

 満州国籍への変更が日本の諸監督機関の影響を低下させて、関東軍が在満の鉄道の指揮監督を独占した。1932年4月19日に関東軍と満鉄の協定により、満州国線等の管理権が関東軍にもたらされた。関東軍は満州国の交通等につき管理権を持ち、さらに関東軍は、満州国の国家の行政権限まで含めた。関東軍は、満州国を明確に植民地と見なした。関東軍は軍事力によって支配を拡大し、自らに都合の良い主観的な主張に基づいた。関東軍が必要だと判断すれば、必要な措置を講じれた。

 1919年4月に日本が日露戦争の勝利後に、清国からロシア帝国が租借した遼東半島の関東州を、日本は割譲された。関東州と南満州鉄道の守備隊がのちに関東軍となった。1931年9月18日に柳条湖事件が勃発して、満州事変が勃発して、1932年2月には関東軍は満州全土を占領した。その直後に、関東軍は1932年3月1日に満州国を設立した。




2021年8月3日火曜日

レバノン内戦にて1976年秋期に、パレスチナ・コマンドのイスラム教徒の左派パレスチナ人が、右派のキリスト教徒の多数のレバノン軍兵士を襲撃した。

レバノン内戦にて1976年秋期に、パレスチナ・コマンドのイスラム教徒の左派パレスチナ人が、右派のキリスト教徒の多数のレバノン軍兵士を襲撃した。その射殺されて虐殺された右派レバノン軍兵士の死体が、レバノンの荒野に散乱した。レバノン左派連合とパレスチナ・コマンドが、キリスト教右派の間でレバノン内戦が1975年4月13日から1990年10月13日まで勃発していた。レバノン内戦により、約120,000から約150,000人が死亡した。

 1949年にイスラエル建国して以来に、ヨルダンからレバノンにパレスチナ人は避難した。支配派である富裕層で人口少数派の右派キリスト教徒が、レバノン政府の権力を保持して、左派連合のイスラム教徒を弾圧した。1967年六日戦争にてアラブ側が敗戦して、パレスチナ人はパレスチナ解放組織(PLO)を結成した。レバノンでは、弾圧された人口多数派で貧困層であるイスラム教徒を、パレスチナ人解放機構が支援した。レバノン人の左派グループとパレスチナ解放機構である左派連合のイスラム教徒が、右派キリスト教徒のレバノン政府に反発した。

フェダイーンと呼称されるパレスチナ・コマンドが、イスラエルに対する攻撃や1970年に飛行機乗っ取り事件を引き起こした。

 それに対抗したイスラエル軍や爆撃機がレバノンの左派連合を侵攻した。イスラエル軍は、1968年にレバノンのベイルート空港で約13機の飛行機を爆破した。イスラエル軍は、レバノンの南部の村を襲撃して占領し、民間市民を無差別に射殺した。レバノン政府軍は、イスラエル秘密組織とアメリカCIAと連携して、パレスチナ・コマンドを攻撃した。

 1975年2月にレバノンの南約40kmのサイダ(シドン)港町で、イスラム教徒の幹部が暗殺された。左派連合が右派のレバノン政府に反発して、レバノン全土でデモや発砲事件が頻発した。右派によるバス襲撃事件が勃発して、銃を持たない左派イスラム教徒の乗客が暗殺された。

レバノン左派連合が、右派レバノン政府を糾弾して反発した。レバノン左派の支援を受けたパレスチナ・コマンドと、キリスト教右派の間で戦闘が勃発した。ベイルート市内では、右派レバノン政府は、検問所で無差別に左派連合の容疑者を掃討した。1976年6月に右派レバノンから要請されシリア軍がレバノンに侵攻して、レバノンの左派連合のイスラム教徒が劣勢となった。