2021年8月6日金曜日

学術調査団は10月1日から広島原子爆弾の爆心地付近で放射線を測定したが、9月17日の強烈な枕崎台風による流出のため、低値で無害の測定値が報告された。

広島原子爆弾の爆心地である島病院の南側で、学術調査団が1945年10月1日より残留放射能を測定した。理研が、同一地点を約3回にわたり、ローリッツェン検電器により、土地の放射能の強度を測定した。測定の結果は、広島の土地の残留放射能が、すでに人体に害を及ぼすほどのものはないと報告された。しかし、学術調査団は10月1日から爆心地付近で放射線を測定したため、9月17日の強烈な枕崎台風によって表土が流されたためか、測定値は以外に低かった。(枕崎台風による死者・行方不明は全国で約3,800人、広島県では約2.000人)残留放射能が流出して、「広島では70年間何も育たない」という説を覆す結果を報告した。

 しかし、原爆投下後の広島で活動していた京都大学医学部の研究グループが、大野陸軍病院に滞在していた。9月17日夜、中国・四国地方を襲った枕崎台風による土砂崩れで、病院は壊滅状態となった。この台風により、広島県では被爆者を含む1,199人が亡くなり、897人が行方不明となり、1,297棟の家屋が流され、さらに2,101棟の家屋が倒壊しました。

 9月19日に、撮影スタッフの生物班が東京から広島へ向けて出発した。続いて物理班が東京を発ち、最後に土木建築班と医学班の撮影スタッフが広島へ入った。現地では、食糧などの物資が不足するなど、苦労が伴ともなった。しかし、各班の撮影スタッフは焼け跡やけあとを丹念に歩き、学術調査団の活動を追いながら広島の被害をカメラに収おさめて、広島での撮影は、約1ヵ月間に及んだ。

 原子爆弾のドキュメンタリーを作りたいと思っていた科学調査チームとカメラマンの調査記録員が、9月27日に広島に入り、29日から作業を開始していた。日本フィルム株式会社のスタッフが調査記録を撮影した。しかし、この時に撮られた写真と映像は、アメリカ軍の占領当局(GHQ)によって没収された。幻の映画と写真として、日本に公開されるのは約28年後となった。




 
















2021年8月6日 Japan No War NGO (JNWN)
日本平和市民連盟 視聴回数 500,000回, 1817投稿

2021年8月5日木曜日

白軍と連合軍が、何万人もの共産主義者、労働者、農民が虐殺して、刑務所の地下室では革命勢力の人々が射殺されて、死体が散乱した。

ソビエト政権が1917年10月に誕生して、対抗する白軍と連合軍が1918年初頭から占領した地域では、ソビエト権力が転覆し、残酷な恐怖政治が敷かれた。あらゆる革新的勢力が最も残忍な手段で弾圧された。何万人もの共産主義者、労働者、農民が虐殺された。刑務所の地下室で、革命勢力の人々が射殺されて、死体が散乱した。連合軍は恥ずかしげもなくロシア市民の財産を略奪して、国土を荒廃させた。ソビエトの反革命権力は、食料、原材料、燃料の主要な供給源から切り離して、ロシア市民は飢えた。

 連合軍は、内部の反革命の助けを借りて、反乱を組織して、陽動作戦を実行した。外国の外交官たちは、ソ連政府幹部の逮捕とレーニンの暗殺により、ソ連の政権に対する陰謀を企てた。社会革命的なテロ集団が、党や国家の要人に対して、いくつかの攻撃を行った。1918月1月30日に、社会革命家たちがレーニンの暗殺を試みたが未遂に終結した。

 レーニン暗殺未遂のニュースは、ソ連の国中に憤りを与えた。労働者たちは総力を挙げて反革命勢力を殲滅することを誓った。労働者や農民は、党にさらに結集し、赤軍への援助を増やしていった。1918年9月2日に、ソビエト共和国はトロツキーを長とする革命軍事評議会を設立した。ペトログラードの共産主義者が前線に送られ、赤軍は大きな成功を収めた。反革命である連合軍を粉砕した。赤軍は9月にはカザンとシンビルスクを、10月初めにはサマラを解放した。

 ロシア中央部でソビエト権力が確立されると、反革命の拠点となったのは旧ロシア帝国周辺の諸民族地域が反革命の拠点となった。1918年1月以来に、ドン、クバン、ウクライナなどでソビエト軍と反革命軍との戦闘が勃発した。1918年5月にウラル、シベリアで起こったチェコ軍団の反乱が、全面的内戦の起点となった。第一次世界大戦中にチェコ軍団は、革命後にはヨーロッパ戦線へ移動するためにロシア国内で編成された。チェコ軍団の反乱はシベリア鉄道沿線に展開して、ソビエト政権に深刻な脅威を与えた。シベリア各地には、反ソビエト政権が生まれた。連合軍はこれを契機に全面的な干渉戦争を開始して、1918年8月にはチェコ軍の救援を根拠に、日本軍、アメリカ軍を主体とする大軍部隊がシベリアに侵攻した。




2021年8月4日水曜日

満州事変後に関東軍と中国軍が洮南の付近の大戸屯の戦いにより、殺害された中国軍兵士の死体が荒野に放置され散乱した。

満州事変が1931年9月19日に勃発して、日本帝国側は、満州鉄道の利害に影響する洮昂鉄道を占領するために、関東軍は四平から大興の南約220kmの洮南に向けて侵攻した。関東軍と中国軍が洮南の付近の大戸屯の戦いにより、殺害された中国軍兵士の死体が荒野に放置され散乱した。洮昂鉄道は、中国の奉天軍閥が1924年9月に満州鉄道と請負契約を締結して、1925年から満州鉄道が敷設して、1933年に満州国が占領した。

 関東軍により中国側鉄道の軍事的奪取をした。満州事変後在満の中国系諸鉄道は満州国の国有鉄道(満州国線と略す)とされ、その経営は満鉄に委託された。しかし、その実態は関東軍が戦時下で獲得した鉄道に対する支配権を、事変終了後にも継続するために、関東軍の軍事的観点からの要求であった。実際様々な措置を通じて満州国線に関しては関東軍が指揮監督権を持つことが認められたのである。満鉄が満州国法人となった場合、日本政府の影響力は低下して、満州国が満鉄に対して発言権を拡大し、その結果軍の管理権に影響が出た。独立国家として満州国が満鉄への発言権を拡大した。

 満州国籍への変更が日本の諸監督機関の影響を低下させて、関東軍が在満の鉄道の指揮監督を独占した。1932年4月19日に関東軍と満鉄の協定により、満州国線等の管理権が関東軍にもたらされた。関東軍は満州国の交通等につき管理権を持ち、さらに関東軍は、満州国の国家の行政権限まで含めた。関東軍は、満州国を明確に植民地と見なした。関東軍は軍事力によって支配を拡大し、自らに都合の良い主観的な主張に基づいた。関東軍が必要だと判断すれば、必要な措置を講じれた。

 1919年4月に日本が日露戦争の勝利後に、清国からロシア帝国が租借した遼東半島の関東州を、日本は割譲された。関東州と南満州鉄道の守備隊がのちに関東軍となった。1931年9月18日に柳条湖事件が勃発して、満州事変が勃発して、1932年2月には関東軍は満州全土を占領した。その直後に、関東軍は1932年3月1日に満州国を設立した。




2021年8月3日火曜日

レバノン内戦にて1976年秋期に、パレスチナ・コマンドのイスラム教徒の左派パレスチナ人が、右派のキリスト教徒の多数のレバノン軍兵士を襲撃した。

レバノン内戦にて1976年秋期に、パレスチナ・コマンドのイスラム教徒の左派パレスチナ人が、右派のキリスト教徒の多数のレバノン軍兵士を襲撃した。その射殺されて虐殺された右派レバノン軍兵士の死体が、レバノンの荒野に散乱した。レバノン左派連合とパレスチナ・コマンドが、キリスト教右派の間でレバノン内戦が1975年4月13日から1990年10月13日まで勃発していた。レバノン内戦により、約120,000から約150,000人が死亡した。

 1949年にイスラエル建国して以来に、ヨルダンからレバノンにパレスチナ人は避難した。支配派である富裕層で人口少数派の右派キリスト教徒が、レバノン政府の権力を保持して、左派連合のイスラム教徒を弾圧した。1967年六日戦争にてアラブ側が敗戦して、パレスチナ人はパレスチナ解放組織(PLO)を結成した。レバノンでは、弾圧された人口多数派で貧困層であるイスラム教徒を、パレスチナ人解放機構が支援した。レバノン人の左派グループとパレスチナ解放機構である左派連合のイスラム教徒が、右派キリスト教徒のレバノン政府に反発した。

フェダイーンと呼称されるパレスチナ・コマンドが、イスラエルに対する攻撃や1970年に飛行機乗っ取り事件を引き起こした。

 それに対抗したイスラエル軍や爆撃機がレバノンの左派連合を侵攻した。イスラエル軍は、1968年にレバノンのベイルート空港で約13機の飛行機を爆破した。イスラエル軍は、レバノンの南部の村を襲撃して占領し、民間市民を無差別に射殺した。レバノン政府軍は、イスラエル秘密組織とアメリカCIAと連携して、パレスチナ・コマンドを攻撃した。

 1975年2月にレバノンの南約40kmのサイダ(シドン)港町で、イスラム教徒の幹部が暗殺された。左派連合が右派のレバノン政府に反発して、レバノン全土でデモや発砲事件が頻発した。右派によるバス襲撃事件が勃発して、銃を持たない左派イスラム教徒の乗客が暗殺された。

レバノン左派連合が、右派レバノン政府を糾弾して反発した。レバノン左派の支援を受けたパレスチナ・コマンドと、キリスト教右派の間で戦闘が勃発した。ベイルート市内では、右派レバノン政府は、検問所で無差別に左派連合の容疑者を掃討した。1976年6月に右派レバノンから要請されシリア軍がレバノンに侵攻して、レバノンの左派連合のイスラム教徒が劣勢となった。




2021年8月2日月曜日

サイパン島の北端に追い詰められた日本軍兵士は、1944年7月7日午前4時にタナバク海岸で悲惨な最後のバンザイ攻撃で全滅した。

サイパン島の北端に追いつめられた日本軍兵士は、1944年7月7日午前4時に猛烈で悲惨な最後のバンザイ攻撃に参戦した。約5,000から6,000人の自暴自棄な人間が、玉砕の栄光に洗脳されて、哀れな武器を手に取り、タナパグ海岸でアメリカ軍歩兵に向かって真っ直ぐに走ってバンザイ突撃した。体力のある日本人は真っ先に死に、負傷者は死の後を追おうとした。アメリカ軍は一切の妥協を許さず、日本軍を全滅させた。タナバク海岸には無数の日本軍兵士の死体が散乱して、死体の側にはアメリカ軍兵士から奪った銃が放棄された。

 日本軍のバンザイ攻撃は、狂信的で自殺的攻撃は、常に暗闇の中で行われ、アメリカ軍陣地に正面か攻撃した。日本軍兵士は、殺されるのは目に見えていた。日本軍兵士は、アメリカ軍に向かってまっすぐ突撃することを要求された。みんな突撃しているじゃないか。みんな突撃したぞ!突撃しろ!日本刀を抜いて激しい姿勢をとり、再び突撃せよと叫んだ。死んでも構わず、広い浜辺でバンザイ攻撃をした。

 日本軍兵士は、いずれは死ぬと真に信じていた。生け捕りでは、家族に顔向けできない。バンザイと見送られて、家に帰れない。バンザイ攻撃は自殺攻撃である。動けない者は、手榴弾あるいは青酸カリで死ねと言われた。女性や子供は青酸カリを飲んだ。あるいは崖から飛び降りた。洞窟で殺されるよりは、アメリカ軍兵士を道連れで死ぬことを選択した。日本軍は、アメリカ軍の戦線を突破し、支配した支援地域を奪還し、アスリート飛行場を破壊してナフタン・ポイントで再編成する見栄で無謀なバンザイ攻撃をした。

 日本軍は死の谷と呼ばれた窪地に、数百人の日本軍が集結した。走れる者、歩ける者、よろける者、這える者は攻撃に参加し、動けない者には手榴弾を渡して死ねと指示された。日本軍兵士は、祈り、泣き、歓声を上げ、酒を飲んで、声はタナパグ平原に響き渡り、アメリカ軍のる尾根にまで聞こえた。アメリカ軍兵士よ、お前は今夜死ぬんだ。日本男児はアメリカ人の血を飲むと叫んだ。次第に、天皇万歳!とっつぁん!と掛け声した。

 夜は最悪であり、日本軍は前線を突破して、照明弾があっても、何も見えない。の暗闇から狂人の大群が現れた。バンザイと叫び声が響き渡り、日本刀を抜いて頭上でぐるぐると振り回している。武器を撃ち、バンザイと叫んでアメリカ軍に突撃した。アメリカ軍は、迫撃砲と機関銃が絶え間なく発射した。目の前に日本軍兵士の死体が積み重なっても、その死体を轢いて突撃した。攻撃のたびに犠牲者が出ても、続々と突撃した。弾丸は周りを飛び交い、悲鳴は耳をつんざき、辺りは死の臭いが漂い、日本人の死体と火薬の臭いが空気中に漂った。日本軍兵士は、恐怖と憎しみに満ち、殺意を持って、野蛮な野獣となり、悪魔となり、全く人間性を失い、ただ殺す、殺す、殺すと叫んだ。アメリカ軍兵士は、一旦、接触して接近戦が始まると、恐怖を忘れて、至近距離で短い間隔にて両手で射撃した。バンザイ攻撃で約4,000人以上のほぼ全員の日本軍兵士が死亡した。約12時間に及ぶ戦闘で、約1,000人のアメリカ軍兵士が死傷した。




2021年8月1日日曜日

朝鮮戦争にて、アメリカ軍の基地に襲撃した中国義勇軍兵士が鉄条網に巻き付いて射殺された死体が荒野に放置された。

朝鮮戦争において、アメリカ軍の基地に襲撃した中国義勇軍兵士が鉄条網に引っかかり射殺された。鉄条網(trip-wire)が巻き付いた中国義勇軍の死体が放置された。中国義勇軍の1951年の春期攻撃に備えて、全長約800kmにもわたる鉄条網を貼った。1951年の春までには、アメリカ軍は朝鮮戦争の範囲と規模を拡大して、決定的な勝利を収めるのはもはや実行不可能と結論づけた。

 朝鮮戦争は1950年6月25日に約75,000人の北朝鮮軍が韓国に侵攻して勃発した。最初の6週間に、アメリカ軍と韓国軍は一連の遅延と撤退した。洛東江の背後に撤退して防御態勢を確立して、1950年8月1日に釜山境界線が編成された。その直後に1950年9月15日に仁川の水陸両用上陸の攻撃と同時に釜山境界線からの侵攻は、北朝鮮人民軍を崩壊させた。アメリカ軍と韓国軍は1950年10月1日に38度線に到達し、10月9日には38度の国境を越えた侵攻を開始した。10月19日に北朝鮮の首都平壌を占領し、11月24日に北朝鮮と中国の国境に向けて最終攻勢を開始した。

 11月25日に、中国人民義勇軍の全面的な介入により、戦況が逆転してアメリカ軍と韓国軍は防衛に移行した。数的優位性を持つ中国人民志願軍は、複数の攻撃を仕掛け、最終的に北朝鮮からアメリカ軍と韓国軍を追放して、1951年1月4日にソウを再占領した。防衛線から約443kmも撤退した。1951年1月中旬までに、アメリカ軍と韓国軍はより強力な戦力により占領した土地から、中国義勇軍と北朝鮮軍との距離を縮めては破壊した。1951年3月15日にソウルは4度目の奪還をした。3月下旬までに、アメリカ軍は38度線に到達し、その3週間後には約30km先に強固な防御陣地を築いた。

 中国義勇軍がソウルの最後の攻略を決行した。しかし、中国共産党は、最後に韓国の首都ソウルを占領して、停戦を提唱する予定であった。中国軍の1951年4月22日から7月8日までの侵攻は、朝鮮戦争で最大の地上戦となった。中国人民義勇軍は壊滅的な損失を被った。1951年の夏には、両軍ともに地上戦の防御戦に移行した。休戦交渉を開始し、膠着した軍事的状況を休戦会議に移した。朝鮮戦争の休戦交渉は1951年7月10日に始まり、約2年間にわたり複雑で冗長な会議となり、1953年7月27日にようやく休戦が成立した。




2021年7月31日土曜日

長崎原子爆弾が炸裂して被爆して原爆症を発症した18歳の女性が、大村海軍病院に収容されて加療を受けた。

長崎原子爆弾が炸裂して被爆して原爆症を発症した18歳の女性が、大村海軍病院に収容されて加療を受けた。大村海軍病院に入院して看護婦から救護を受けていた。女性の職業は行員をしていた。原爆症により、彼女の頭頂部にかけて著明な脱毛が認められた。1945年8月9日に長崎原子爆弾の炸裂によって、長崎市内は一瞬にして地獄化して、約73,000人が被爆死した。さらに約75,000人の被爆者には、その後に原爆症を発症して、深刻な後遺症の障害を伴った。

 1945年9月1日時点で大村海軍病院に収容された被爆者の概要は、収容患者総数は約758人である。そのうち約97%は直接に原子爆弾による受傷者であり、約3%が火災その他による関節の受傷者であった。屋内に居た者は約81%、屋外に居た者は約19%であった。着衣の者は約63%であり、半から全裸体の者は約37%であった。死亡者は総数は約155人である。

 被爆者の一般症状は、入院被爆者の大部分は、原子爆弾による熱傷ならびに爆風による爆傷である。原子爆弾による熱傷は普通の熱傷まては火傷と異なり、体表面の約3分1以上の広範囲の熱傷にも関わらず、予後良好なる傾向は注目された。

 特異被爆者の症状は、熱傷または爆傷は極めて軽微あるいは全く無い被爆者でも、被爆後の数日あるいは十数日を経過して、突然に光熱、著名なる脱毛、口腔粘膜の腐爛状態、口唇の部分的壊疽、嘔吐、血便、皮膚及び粘膜のうっ欠の病状を発現した。それから約2から約1週間後に病死するに至った。

 その血液所見は末期には、白血球数が約200程度、赤血球数は約100万から約200万、血色素は約30%、色素係数約1.0過ぎ、血小板はほとんど消失していた。血液の病理標本では、赤血球に非常に大小の不同にて、白血球はわずかに数個のみ、リンパ球は少し多かった。血液の凝固時間は、開始が約5分から完結するのに約20分も必要として、出血時間は2時間以上となった。

 死亡後の死体の病理剖検(8事例)で、共通なる所見は、内蔵主として消化器の著明なるうっ血の散在して、肝臓破裂が3事例、脾臓破裂は1事例、直腸粘膜に舌苔様あるいは水疱様物が2事例、軟脳膜に苔状物が2事例を認めた(大村海軍病院に収容せる原子爆弾遭難患者の調査概要、1945年9月1日時点)。





2021年7月30日金曜日

ドイツ中部のガルデレーゲンで1945年4月13日に、ナチス・ドイツ親衛隊が約11,000人の政治犯を納屋に押し込めて焼き殺した。

ドイツチ中部のガルデレーゲン(Gardelegen)で1945年4月13日に、ナチス・ドイツ親衛隊が約11,000人の政治犯を納屋に押し込めて焼き殺した。生存者は、そのうちで約12人のみであった。連合軍が1945年4月16日にミッテルバウ・ドーラ(Mittelbau-Dora)強制収容所を解放して、その悲劇と残酷を見出した。

 1945年4月13日金曜日に、アメリカ軍への差し迫った占領に備えて、ドイツの親衛隊はドイツ中部のガルデレーゲンにあるミッテルバウ・ドーラ強制収容所にて、約1,000人以上の宗教的、政治的、軍事的囚人を殺害して、彼らの存在を隠滅した。囚人たちは、ガソリンを染み込ませたわらが床に散布された大きな石積みの小屋に連行された。親衛隊は手榴弾を使用して、わらを燃やした。燃えている納屋から逃げようとした囚人は射殺された。残りは火事で焼死した。ドイツ軍は集団墓地に死体を隠そうとしたが、地域がアメリカ軍に占領される前に、約700体のみしか埋葬でなかった。アメリカ軍は、納屋で約300体以上の死体を発見した。動いたり反応したりした生存者の囚人は射殺された。アメリカ軍が到着したとき、射殺された囚人の死体の山の下に隠れて生き残った。

 1945年4月4日に、ロットレーバーオーデ強制収容所から1600人の囚人は、ガルデレーゲンの強制収容所に強制疎開させられた。ニーダーザックセン州まで歩行した後に、鉄道貨車に積み込まれてガルデレーゲンに運ばれた。それから6日目までに、ナチス親衛隊員はすでに約300人を射殺した。ナチスの地区指導者の命令で、残りの1,000人の囚人はガルデレーゲン近くのイゼンシュニブル野原の納屋に強制連行されて放り込まれた。親衛隊はガソリンに浸した藁に火をつけ、逃げようとした囚人を皆殺しにした。ミッテルバウ・ドーラ強制収容所への強制送還に伴う最も残酷な虐殺で、生き残ったのはわずか約12人であった。1945年4月15日に、ミッテルバウ・ドーラ強制収容所はアメリカ軍によって解放された。生き残ったのは、輸送に適さない数百人の囚人だけだった。その生存者の一部は、アメリカ軍によってボエルケ兵舎の死体の中で発見された。

 ソビエト軍が1944年から1945年の変わり目にポーランドに急速に侵攻した。親衛隊は東の大きな収容所から囚人を避難することを余儀なくされた。アウシュビッツ、グロースローゼン、マイダネクからの数千人の囚人を乗せた輸送機関が、ミッテルバウドラ強制収容所に収容された。輸送だけでも非人道的な方法で行われて、すでに何百人もの囚人の命が失われた。約100〜130人が、凍るような約-15°Cで食物や液体がほとんどないオープンコールワゴンに詰め込まれた。旅行は約7-10日かかりました。かなりの数の強制避難者が途中で親衛隊に射殺されて、死体は電車から投げ出された。

 ミッテルバウ・ドーラ強制収容所に到着した囚人は、収容者の数が約40,000人に急増した。完全に超過したなキャンプでは、毎月最大約5,600人の囚人が死亡した。東部の収容所が解散する前は、毎日約2.5人の囚人が死亡した。受刑者の数が大幅に増加すると、1日あたり平均11人の囚人が死亡した。非常に多くの死者が出たため、死体の火葬場は過負荷になった。ドラには毒ガス室がなかったため、一度に多数の囚人を消滅できなかった。したがって、組織的な虐殺が執行され、病気や障害のある囚人を絶えず弱体化させて、その結果彼らのほとんどを虐殺した。




2021年7月29日木曜日

ビルマのイラワジ会戦で、イギリス連合軍により殺害された日本軍兵士の死体が木材に寄りかかりあるいは河の流れに浮き沈みした。

ビルマにおけるイラワジ会戦で、イギリス連合軍により日本軍は壊滅した。イラワジ河に、日本軍兵士の死体が木材に寄りかかりあるいは河の流れに浮き沈みした。さらにイラワジ河の路傍または車の中で座り込んだ死体が散乱していた。日本軍の死体は、モンスーンの雨期の最盛期には、日本軍兵士には悲惨な退却における大量虐待と大量虐殺に至った。

 日本軍はコヒマでの戦い(1944年4月4日から6月22日)は約7,000人に及ぶ大損害に終わり、最終的には悲惨な撤退を余儀なくされ、インパール作戦と同じような運命をたどった。インパール作戦(1944年3月8日から7月3日)では、日本軍とそのインド同盟軍は少なくとも5万人の死者を出した。連合軍は、日本軍の中枢を狙った攻撃をした。連合軍は、コヒマとインパールの平原で敗走する日本軍を追撃した。ビルマ中央部、マンダレーまでの南側を占領してさらに南下し、イラワジ河の北にあるシューボ平原の日本軍を壊滅した。連合軍はチンドウィン河渡り、連合軍は、絶滅の決意を固めた日本軍が覆う大きなイラワジ河に直面した。イラワジ河の中央部の幅は約1,800mで、移り変わる危険な砂州が点在して、直接渡ろうとすれば、非常に犠牲を伴った。イラワジ会戦は1944年12月から1945年3月28日まで、日本軍とイギリス連邦軍との戦いがビルマのイラワジ河で勃発した。

 インド軍がパコックを攻略した後に、1945年2月14日に、イギリス連合軍はビルマの古都パガンの北にあるニャウン・ウーでイラワジ河を渡った。イワラジの渡河は広い戦線で行われた。ニャウン・ウーでの主な攻撃も、かつてのビルマ首都で、多くの仏教寺院があるパガンでの副次的な渡河も、当初はイラワジ会戦で悲惨な犠牲者を出した。日本軍は2月16日からカラカン陣地に毎夜に斬り込みを繰り返し、戦死傷者が増大して、死体も放置された。イギリス連邦軍の戦闘機から銃砲弾、迫撃砲弾、機銃掃射が河原一面に撃ち込まれた。パガンとニャウングは、日本軍のインド国民軍が守り待機した。インド軍は、イワラジ河を流れる機関銃の射撃で突撃艇が故障し大きな損害を被った。最終的には、イラワジ河を渡って射撃するの戦車と大規模な砲兵隊の支援により、ニャウングの日本軍の守備隊は崩壊した。パガンでは、防衛部隊であるインド国民軍が抵抗して、日本軍は大きな犠牲を出してポパ山に撤退した。

 2月20日までに大部分の連合軍イラワジ河を渡り、メンティーラを占領した。パコックの占領は、インド軍による更なる侵攻をした。2月19日、連合軍はパンコック沖のイラワジ河ある長さ約8.0km、幅約4.8kmの島を通過した。2月24日に、連合軍はパコックの南方に移動して、イラワジ川を渡って、ニャウン・ウー橋頭堡の一部を占領した。2月25日には、インド軍がイギリス軍の突撃を支援した。すぐに村を確保した。日本軍約7名を殺害した。4月中に、連合軍はこの地域で日本軍との戦闘を続けて、レッツェとセイビクを占領した。4月24日の朝、連合軍は、金塔と僧院が目立つ尾根から日本軍の激しい砲撃で釘付けになった。この日本軍陣地は、連合軍が重砲隊の支援を受けて攻略した。約39人の日本軍兵士の死体が検死された。4月30日までに連合軍ははプウィンプを占領して、その後パカン村の日本軍の陣地を攻略した。5月5日から5月8日にかけて、南側から環状に配置された日本軍の陣地に連合軍が攻撃をした。5月6日には日本軍の後方の道路封鎖して、5月7日には日本軍を包囲して、5月8日にはパガン村を占領した。イラワジ会戦(メイクテーラ会戦を含む)で、日本軍とインド国民軍は約12,913人が犠牲となり、イギリス軍とインド軍は約18,000人の犠牲を伴った。




2021年7月28日水曜日

ドイツ軍は、 ウォルシュティン(Wolsztyn)地区の村に住むポーランド人農民たちを、ドイツ人警官を殺害した容疑で絞首刑に処した。

ドイツ軍は、 ウォルシュティン(Wolsztyn)地区の村に住むポーランド人農民たちを、ドイツ人警官を殺害した容疑で絞首刑に処した。ドイツ軍にはポーランド人に対する激しい報復攻撃と人質の殺害を厳命された。ナチス・ドイツ軍がポーランドを占領して、ポーランド人は生命権と人権を喪失して、大量虐待と大量虐殺されてた。

 ポーランドのブロムベルグでの衝突の付近で死んだドイツ人の総数は、ドイツ軍の委員会によって約6,000人と推定された。ナチスの公式声明では、ドイツ軍による報復措置を正当化するために、その人数を直ちに約10倍に増大した。ポーランド人の最初の組織的な追放は、ポーランドのグディニア港での戦闘の直後に執行された。ポーランドの裕福な上流階級に対して、約90,000人のポーランド人が約17日以内に強制送還された。1939年から1944年の間に、合計で約840,000人のポーランド人がポーランドから離れなければならなかった。ドイツ軍の殺人部隊は、最高責任者である親衛隊大将のハインリッヒ・ヒムラーの立場に影響された。

 1939年10月7日、ヒトラーはヒムラーに、ドイツ民族統合のための帝国委員という新たな任務を与えた。ヒムラーは、バルト諸国の約7万人のドイツ民族と、ヴォルィニア、ガリシア、ナレウ地方の約13万5千人のドイツ民族を、ライヒスガウエンに再定住させることを監督した。ルーマニアからも約20万人以上の再定住者が加わった。

 再定住先のポーランドの村は包囲され、真夜中になると人々は寝床から追い出された。約30キログラムの荷物を持って約30分から40分以内に出発を命じられて、厳しい虐待や虐殺を受けて、聖人の絵や十字架が破壊された。ポーランド人は自分の車で地区の町まで行き、鉄条網の中に入れられた。ドイツ軍は地区の町で待機して、ポーランド人家族が到着したのと同じ荷馬車に積み込まれた。

 しかし、強制的手段は、ドイツ軍が政策目標を実現するのに十分ではなかった。ドイツ軍兵士の人数が少なすぎた。4段階に分かれたドイツ人名簿が作成されて、新しい隊員を分類する役割を果たした。その範囲は、功績のあったドイツ民族(I)から、あまり積極的ではないドイツ民族(II)、片親の混血結婚などでポーランド人と繋がるが、ドイツ民族に完全な一員になれると期待されるドイツ民族(III)、そして統一の可能性があると考えらるドイツ民族(IV)にまで及んだ。ポーランド人がドイツ人であると宣言されることもあった。

 ドイツ国民名簿は、1945年以降も国民の所属を決定する上で重要な役割を果たした。様々な場所で、広大なポーランドの田舎をドイツ化するための「科学的根拠に基づいた計画を立てる作業が、はお互いに協力し合って行われた。ポーランドの知的階級の組織的な抹殺が力ずくで始まった。戦闘後に大学の教授たちは、1939年11月6日、親衛隊が招集した会議の後、強制収容所に移送された。他にも、絶滅収容所に送られたり、労働者として強制連行された知識人が数多くいた。

 兵器の生産量が増え、多くのドイツ人男性が兵士にならざるを得なくなった結果、東側の居住空間を激しく要求していた第三帝国は、中核地域での労働力を膨大に必要とした。1939年から1942年にかけて、約200万人のポーランド人がドイツで強制労働させられた。戦争が長引けば長引くほど、労働力の確保が難しくなった。その結果、ドイツの占領軍はますます冷酷で非人道的になっていった。街頭でポーランド人を捕獲して、集会所や教会、映画館を取り囲み、働ける者は直ちにドイツ帝国に送還した。







2021年7月27日火曜日

日本軍により後ろ手に縛られて虐殺された中国軍兵士と民間市民の死体が、蒙城の河川流域に浮かんで散乱していた。

日中戦争において、1938年5月8日から日本軍は渦河河畔にある人口が約1万人の蒙城(Mengcheng)を無差別に猛攻撃した。蒙城内の中国軍と民間市民が応戦した。日本軍は砲火と戦闘機の援護にて、歩兵と戦車が5月9日に蒙城内に入城した。日本軍は、蒙城内を残存する中国人を無差別に掃討した。多数の中国軍兵士と民間市民を捕獲した。蒙城内で捕獲した捕虜は、一部隊たげでも、遺棄死体が約1,027体と捕虜約337人に達した。日本軍側は、死傷者は約103人を伴った。

 日本軍により後ろ手に縛られて虐殺された中国軍兵士と民間市民の死体が、蒙城の河川流域に浮かんで散乱していた。日本軍は、中国人の捕虜は足手まといとして、殺害しては死体を河川の周辺などに遺棄していた。虐殺の命令も不詳であり、虐殺方法も不詳であり、進軍する前に、秘密裏に中国軍兵士と民間市民が虐殺された。中支那派遣軍として佐々木周一軍医が1937年10月1日に上海に上陸した。それから1939年1月に漢口までの華中戦争に、約1,500kmを従軍している間に約700枚の写真を撮影した。当時には公表できない中国人捕虜の虐殺死体が含まれしていた。長男が故人となった佐々木周一の写真を公表した。

 日本軍が、日中戦争に突入して、次第に華中からさらに奥地に侵攻した。上海を制圧してから杭州から南京さらに徐州から漢口に向けて無謀な侵攻をした。中国軍のゲリラと自然環境ならびに栄養失調と伝染病などで苦悩して犠牲者が増大していた。 日中戦争の勃発の起因は、1936年7月7日に北京の郊外の盧溝橋の周辺の十数発の銃声であった。次第に中国全土の全面戦争に陥った。日本軍は、直ちに南京・徐州・漢口・広東に侵攻するも、中国軍は広大な領土に後退を続けた。日中戦争は、次第に泥沼に陥った。日本軍兵士は、炎天下の重装備で暑さと疲労で生き地獄で頓挫した。雨が降ればずぶ濡れとなり、泥沼が奔流となった。日本軍兵士の犠牲も膨大となり、弾薬も食料も乏しくなった。掘った畑の芋や鉄帽で叩いた麦穂で飢えを凌いだ。戦争の悲惨、無情、苛烈である大量虐待と大領虐殺となった。




2021年7月26日月曜日

鉄条網と塹壕で防御していたジャラブブのオアシス村の丘で、オーストラリア軍はイタリア軍を戦闘で殲滅して殺害された兵士たちの死体に墓穴を掘って埋葬した。

第二次世界大戦のアフリカ戦線にて、1941年3月にオーストラリア軍は、サハラ砂漠の北部のリビア国境にて、イタリア軍と植民地軍が駐屯していたオアシス村を攻撃した。イタリア軍は、バルディアからジャラブブまで鉄条網を敷いて、鉄線の高さは約1.7mで、コンクリートの土台から張っていた。鉄条網と塹壕で防御していたジャラブブのオアシス村の丘で、オーストラリア軍によりイタリア軍は壊滅した。戦闘で殺害された兵士たちの死体に墓穴を掘って埋葬した。イタリア軍はオーストラリア軍に包囲されて、白兵戦で約250人も死傷した。

 地中海のバルディア港から約200キロ離れたリビアとエジプトの国境にあるオアシス村ジャラブブ(Giarabub)には、イタリア軍約1,350人、植民地リビア人の約750人の駐屯地が置かれていた。1925年12月まで第一次世界大戦で、イギリスがエジプトにシャラブブをイタリアへの割譲を強制していた。北方でイギリス軍の攻勢が激化していた。1940年12月下旬にオーストラリア軍の小規模な軍事装備連隊が派遣されて、イタリア軍団を包囲した。ジアラブは作戦の主な舞台からは離れていたが、イタリア軍が砂漠を通って対抗する戦術を敢行するには、双方に戦略的な場所であった。

 1940年12月から1941年3月までの間に、イタリア軍の守備隊が防衛を維持するために、空輸による補給が必要であった。1月18日にイギリス空軍により救護団が崩壊した。1941年1月初旬に、イギリス軍は北側のリビアのキレナイカ地方で作戦が勝利した。イタリア軍に降伏を促すビラを撒いたが、イタリア軍側はこれに応じなかった。1941年1月から2月にかけて、オーストラリア軍は継続的に防衛をしていたが、本格的な攻撃を行う戦力はなかった。3月17日にドイツ軍は守備隊にあと数週間戦えばドイツ軍の援軍が到着すると伝令した。

 1941年3月21日に、オーストラリア軍はようやく十分な援軍を得て、ジャラブ奪取のための攻撃が勃発した。2日間の戦闘の後に、オアシス村は攻略された。3月21日にイタリア軍は降伏した。イタリア軍の死傷者は約250人、オーストラリア軍は死傷者約17人、負傷者約77人であった。3月22日に、ドイツ軍はイギリス連邦軍をトブルクを除いてリビアから駆逐した。オーストラリア軍は、イギリス軍と植民地軍の捕獲してエジプトのシワに撤退した。




2021年7月25日日曜日

沖縄戦で日本軍の義烈空挺隊によりアメリカ軍の読谷飛行場に空襲したが全滅した死体は、戦闘機の残骸の周りに散らばった。

日本軍による沖縄戦への空襲は5月後半の最終週に最強化された。1944年5月25日の夜中に、日本軍の義烈空挺隊により沖縄中西部のアメリカ軍の読谷飛行場に空襲したが全滅した。日本軍の義烈空挺部隊の死体は、戦闘機の残骸の周りに散らばっていた。左の背景には爆撃機サリーの胴体が破壊されていた。日本軍兵士の義烈空挺部隊は、かなりの数のアメリカ軍の爆撃機を破壊した後に、全員が殺害された。義烈空挺部隊の死体の周りを、アメリカ軍兵士が取り囲んで見守った。地上に着陸したら、義烈空挺部隊は最後に殺害されるまで多くのアメリカ軍の戦闘機と補給品を破壊または損傷する自滅作戦であった。

 爆撃機5機が熊本県の健軍飛行場から出撃した。1944年5月24日の22時30分頃に、伊江島方面から飛来した。高射砲台は直ちにサリーズと呼称した低空飛行の日本軍の5機の爆撃機と交戦した。そのうち4機は対空砲撃により撃墜されて、雲丹飛行場付近で炎上した。最後の5機目が読谷飛行場に飛来して、車輪を上げて龍潭の北東から南西方向の滑走路に腹ばいで胴体着陸した。義烈空挺部隊と呼称される少なくとも8人の重装備の日本軍兵士が戦闘機から飛び出した。読谷飛行場の滑走路沿いに駐機していたアメリカ軍の爆撃機に手榴弾や焼夷弾を投げ始めた。義烈航空隊員はコルセア2機、C-54輸送機4機、プライベーター1機を破壊した。他にもリベレーター爆撃機1機、ヘルキャット3機、コルセア22機の計26機が損傷した。

 日本軍の義烈空挺部隊が上陸した後の混乱の中で、約2人のアメリカ軍兵士が死亡して、約18人が負傷した。日本軍兵士は約33機の飛行機を破壊しただけでなく、約7万ガロンのガソリンが入った約600ドラム缶の燃料タンク2基を点火して破壊した。直ちに生存していた義烈空挺隊員を全員を掃討して全滅した。約10人の日本軍兵士が読谷飛行場で死亡し、他の3人は戦闘機の中で対空砲火によって死亡した。義烈空挺部隊の脅威は5月25日の午前1時に、近くの森に隠れている間に最後の日本軍兵士が殺害されて終結した。

 その他の4機のサリーズにはそれぞれ約14人の日本軍兵士が搭乗していたが、全員が炎上して死亡して、全部で約69人の日本軍兵士の死体を検死した。読谷飛行場は、滑走路上の瓦礫のため、5月25日の午前8時頃まで使用できなかった。これは沖縄戦中に、日本軍が沖縄に空挺部隊を着陸させようとした唯一の自滅戦闘となった。




 

2021年7月24日土曜日

広島原子爆弾により被爆した女性が1945年10月に広島赤十字病院で顔面の広範囲の火傷と傷痕から発生したケロイドの加療を受けた。

広島原子爆弾により被爆した女性が1945年10月に広島赤十字病院で加療を受けた。彼女は原子爆弾による熱線により、顔面を広範囲に火傷した。原子爆弾による火傷の痕から顔面に多大のケロイドが発生した。顔面のケロイドは、まばたき、話し方、嚥下などを困難にした。火傷の傷跡は、被爆者の皮膚が、原子爆弾の炸裂の最初の閃光の熱線に直接にさらされた部位に形成された。

 ケロイドは、火傷の修復のため形成される瘢痕組織が過剰に増生した。あたかも蟹の甲と脚を皮膚面にはりつけたような、ギリシャ語でケロイドはカニを意味して、不規則なケロイドの隆起を生じた。被爆後に約4ケ月頃までに発症して、約6ケ月から約1年2ケ月後にケロイドが最も顕著に隆起した。約2年後には部分的に改善され、隆起も縮小していた。原子爆弾の爆心地から約2km前後で熱線にさらされた被爆者には約50から60%に発症した。原子爆弾の熱線で大火傷を受傷して、特に女性の顔面にケロイドが残存すると心的外傷後ストレイ障害(PTSD)などの社会的後遺症に苦悩した。

 深い第2度または第3度の重症と思われる閃光熱傷の治癒後に、重度の瘢痕ケロイドおよび肥厚性瘢痕の形成が比較的高い頻度で発生した。ケロイドの病因は、皮膚病変の治癒にて発症する生物学的および生化学的過程における修復過程に起因する。被爆者によっては、火傷の治癒時に過剰な量の瘢痕組織を形成する傾向がある。瘢痕ケロイドは、治癒過程で生成される線維性結合組織に影響される。瘢痕ケロイドや肥厚性瘢痕の原因となる過剰なコラーゲン産生は、病変が真皮の網状層の深部にまで及んでいた。深部まで及んだ火傷や、感染や追加の外傷による壊死によりケロイドが合併した。





2021年7月23日金曜日

ハンガリー人女性が、ブタペストで武装蜂起した動乱者がリンチして殺害した国家治安警察(ÁVH)隊員の死体に唾を吐いた。

ハンガリー人女性が、ブタペストにて武装蜂起した動乱者によりリンチして殺害された国家治安警察(ÁVH)隊員の死体に唾を吐いた。ハンガリー人はブタペストの国家治安警察を10月30日に包囲して攻撃した。国家治安隊員を1956年11月1日に連れ出して、リンチにより殺害して、樹木から宙吊りにして殴打した。親共産主義者の兵士たちが射殺された。武装した動乱軍は、自分たちに従わない者を大量に残酷に粛清することを始めた。犠牲者は主に、共産党員、国家保安官、単なる公務員であった。平和的なデモ隊が、正当な国家権力に対抗して力ずくで武器を奪う武装蜂起となった。

 1956年のハンガリー動乱は、ハンガリー人民共和国政府とソビエトが課した政策に対する自発的な全国的な動乱であり、1956年10月23日から11月10日まで続いた。動乱は、首都ブダペスト中心部を通って国会議事堂に向かって行進する数千人を引き連れた学生デモとして10月23日に勃発した。ラジオ放送ビルに入った学生団は拘留された。代表団の釈放を外部のデモ参加者が要求したときに、彼らは建物内から国家治安警察(ÁVH)によって発砲された。そのニュースは急速に広まり、首都全体に混乱と暴力が勃発した。

 動乱はハンガリー中に急速に広がり、政府は崩壊した。数千人の市民が民兵に組織され、国家治安警察(ÁVH)とソビエト軍と戦った。元囚人が釈放されて武装したため、親ソビエト共産主義者とÁVHメンバーはしばしば処刑または投獄された。臨時の評議会は、与党のハンガリー労働者党から地方自治体の支配権を奪い、政治的変化を要求した。新政府は正式にÁVHを解散し、ワルシャワ協定から撤退する意向を表明し、自由選挙を再開することを公約した。10月28日にソビエト軍はプタペストから撤退した。10月末までに戦闘はほぼ停止し、正常感が戻り始めた。

 ソビエト軍が撤退してワルシャワ協定の離脱を発表した後に、ソビエト政治局は方針を転換して、革命を鎮圧するために、11月4日に大規模なソビエト軍がブダペストおよび国内の他の地域に侵入した。ハンガリー人の抵抗は11月10日まで続いた。紛争で約2,500人以上のハンガリー人と約700人のソビエト軍が殺害され、約20万人のハンガリー人が難民として逃亡した。大量逮捕と非難はその後にも数ヶ月間続いた。1957年1月までに、ソビエトが設置した新政府はすべての国民の反対を弾圧した。ソビエトの行動は多くの西欧マルクス主義者を疎外したが、中央ヨーロッパに対するソビエトの支配を強化した。

 ハンガリーの人々は政府の統治の混乱は、動乱を起こしたときに最高潮に達した。ハンガリーは食糧不足、高価格、ボロボロの経済、共産主義への完全な無関心に苦悩した。共産主義の精神は、ハンガリーとは完全に正反対であった。共産主義の支配は、ハンガリー人に抑圧的で品位を傷つけた。集産主義の考えは、人々が自分たちのためではなく国家の利益のために働くソビエトの理想は、人々を摩擦し彼らを端に追いやった。安価で資源を取り、完成品を高騰した価格で人々に売り戻すソビエトの慣行であった。国全体を席巻し、ソビエトのヒエラルキーと東ヨーロッパに対する彼らの存在と絞首刑を維持する彼らの能力に憂慮すべき動乱の潮流の始まりとなった。

 西側諸国は、スエズ危機が本格化し、東欧の危機をめぐってソ連と戦う意欲がなくなった。ソビエト軍の対応は迅速で壊滅的であった。ブダペストだけで約3万人が殺害され、約20万人のハンガリー人が西側で政治亡命を求めた。次の5年間で、数千人が傀儡政権下で処刑または投獄された。革命に関与したナジーと他の人々は、1958年6月に密かに裁判にかけられ処刑された。最終的にソビエト軍はついに1991年ソビエト連邦が崩壊してハンガリーから撤退した。