2021年6月27日日曜日

日露戦争の遼陽会戦にて、首山堡と北大山を攻撃した日本軍は激戦となり壊滅して、殺害された日本軍兵士の膨大な死体を処理した。

日露戦争の遼陽会戦において、1904年8月30日から首山堡と同時に、8月31日夜半から北大山を、夜襲攻撃した日本軍部隊は、激戦となり壊滅した。翌日の9月1日に午後1時に激戦地で殺害されて散乱した日本軍兵士の膨大な死体を処理した。近代の武器の進歩により、日清戦争とは比較して、大量の弾薬の消耗と死傷者の増大をもたらした。8月30日に、日本軍は、首山堡の東方のロシア軍陣地を攻撃した。人馬・資材・弾薬等の欠乏がひどく強固な敵陣地を十分に攻撃できず、突撃部隊の悲惨な犠牲が増大した。弾薬が尽きた日本軍部隊は、ロシア軍の突撃を排除できず、多くの日本軍兵士が死傷した。夜間攻撃した日本軍は、月光により発見されて、ロシア軍の猛烈な攻撃を受けた。

 8月28日に、日本軍は遼陽会戦にて総攻撃をして、日本軍約13万人とロシア軍約22万人による主力戦闘が、日露戦争において初めて勃発した。会戦とは両軍が想定した場所に、両側から集結して人員と弾薬が揃い次第に大規模な戦闘を開始することを示唆する。9月1日には首山堡から北大山に至るロシア軍が陣地からして退却して、無人となった首山堡を占領した。9月1日からロシア軍は、太子河の渡河をした日本軍部隊に反撃したが、9月3日にロシア軍は断念した総退却した。遼陽会戦は日本軍の遼陽入城で終結した。死傷者は日本軍側が2万3533人、ロシア軍側が2万あまりで、両軍あわせて約4万人以上にのぼった。

 1904年9月29日には、兵力の補充のために、徴兵令を改正して、戦時までは事変で必要ならば臨時招集を可能にした。兵役年齢は18歳〜32歳から18歳〜37歳まで延長された。徴兵後の後備役は5年から10年と延長された。1899年10月より召集令状は「用紙ハ適時ニシテ紅色トス」と赤紙になっていた。1927年3月に、徴兵令にかわって兵役法が公布され、同年12月1日施行された。兵役法と同時に陸軍召集規則、海軍召集規則とあわせて規定されて、徴兵から召集に改定された。召集令状は、軍隊が在郷の者を兵士として召集するために個人宛に発布する令状となった。




2021年6月26日土曜日

長崎原子爆弾に被爆した被爆者女性の胸部から乳房まて形成して膨隆たケロイドを、1947年2月に写真撮影をした。

ケロイドの形成は、火傷した皮膚に発生した。長崎原子爆弾に被爆した被爆者女性の胸部から乳房まて形成して膨隆たケロイドを、1947年2月に写真撮影をした。

原子爆弾の後遺症と遺伝的影響には次のような原爆症があった。

   1) ケロイド:  広島と長崎の中心部、爆心地付近で著明な一次熱傷または火炎熱を受けた被災者は、凄まじい爆風と放射線によって同時に負傷し、そのほとんどが即死または同日中に死亡した。少なくともステージIの終わりに近い状態であった。これらの二次熱傷は、火炎熱の場合と性質が似ており、真皮深部や皮下組織に大きな損傷を与えるグレード3やグレード4の熱傷に似ていた。これらの病変は閃光火傷を併発していることが多く、治癒までに時間がかかった。太平洋戦争の終戦直前・戦後の劣悪な生活環境も、この長い治癒期間の原因となった。火傷の化膿、傷の修復の遅れ、皮下組織の厚い傷跡の形成につながった。瘢痕組織が収縮し、変形や機能障害が生じた。これらの後遺症は、顔、首、手指に顕著であった。

 爆心地から約2,000~約3,000メートル以内の地区で、頻繁に発生した閃光火傷(一次熱傷)の大部分は、当初は比較的短時間で治癒し、単純で薄い傷跡が形成された。両グループの差違である。骨の成熟については、1973年に調査されて、広島・長崎の胎内被爆児556名と対照群を対象に行われた。これまでの健常児の報告と比較して、手の骨端閉塞が男児では約6~約7ヵ月、女児では約8~約9ヵ月遅く進行することが判明した。

   2) 胎内被爆者の成人期: 1973年に原爆傷害調査委員会は、胎内被爆の晩期障害について報告した。胎内で高線量の放射線を受けた人に見られた原爆症は次の通りである。1)成長・発育(身長、頭囲)の遅延および小頭症の発生率の増加、(2)特に乳児の死亡率の増加、(3)抗体産生の一時的な低下、(4)末梢リンパ球における染色体異常の頻度の増加。しかし、白血病や癌の発生率の増加や、被曝した女性から生まれた子供の生殖能力の変化や性比の変化は認められなかった。

    3) 小頭症 小頭症の頻度は、原爆傷害調査委員会において、広島の胎内被爆者169人のうち、33例の小頭症を発見した。この33例の内訳は、精神遅滞が15例、正常な精神発達が18例、頭囲が標準偏差より3以上小さいのが13例であった。広島で胎内被爆した183人の子供のうち、33例の小頭症を発見した。33例のうち14例は顕著な程度の小頭症であった。長崎の胎内被爆児については、高線量被爆者(1.5km以内、50ラド以上)の平均頭囲が低いことを指摘している。長崎の爆心地から2キロ以内で胎内被爆した102人のうち7例、爆心地から2から3キロ離れた場所で被爆した173人のうち5例の小頭症を報告している。

 1963年に広島で行われた胎内被爆児の調査では、爆心地から3キロ以内で胎内被爆した545人のうち、45例(8.3%)の小頭症を発見し、そのうち12例(2.2%)は著明な小頭症であった。非被爆児473人の小頭症13例(2.7%)と比較しても、胎内被爆者の小頭症の発生率は極めて高い。きのこ会は、小頭症の子どもを持つ親たちの家族会であり、1965年に結成された。その後に、広島の作家やジャーナリストの集団である「広島学習会」の支援を受けた。




2021年6月25日金曜日

第一次世界大戦中、1917年にロシア軍兵士は、東部戦線の戦場でのオーストリア軍兵士の死体を検死した。オーストリア軍兵士の死体が戦場を埋め尽した。

第一次世界大戦中、1917年にロシア軍兵士は、東部戦線の戦場でのオーストリア軍兵士の死体を検死した。オーストリア軍兵士の死体が戦場を埋め尽した。ロシア軍兵士は、凍りついた死体群の中を徘徊した。

 ニコライ2世は、第一次世界大戦にロシアを引きずり込む運命的な決断を下した。ロシア軍には軍事的・経済的コストを処理する準備ができていなかった。1年も経たないうちに、約400万人以上のロシア軍兵士が死傷し、捕虜になった。第一次世界大戦(1914-1918)の過程で、ニコライ皇帝に対する不満が高まった。戦争中に約170万人以上のロシア軍兵士が命を落とし、約500万人が負傷した。多くの兵士が脱走し、独裁政権の皇帝の命令の下で戦うことを拒否した。ロシアの人口の約80%以上が住んだ田舎で飢饉が悪化して、持続的な政治的および社会的不安が生じた。ニコライ皇帝に対する多くの政治批評家は、皇帝の秘密警察による迫害から海外に逃走した。バクーニン、クロポトキン、プレハノフ、レーニンなどの頑固なアナキストや社会主義者を含め、スイスに逃げた。

 東部戦線は、第一次世界大戦の全体的な戦線において非常に重要でした。東部戦線は戦闘に積極的であり、戦争の最も重要な戦いのいくつかに関与した。東部戦線に沿った戦闘は1914年8月1日から1918年5月7日まで発生した。この間、連合国と中央同盟国の両方に数百万人の兵士が参加し、多くの犠牲者を出した。連合国は約990万人の死傷者を出し、中央同盟国が約590万人の死傷者を出したと推定した。ロシアは、工業化との闘いと兵士の全体的な装備の不足により、東部戦線で最も多くの損失を被った。戦争の現実のために、両側で多くの民間人の損失もした。ロシアは東部戦線と第一次世界大戦の間にロシア革命が勃発した。ロシアは1917年以前の絶対君主の皇帝ニコラス2世が支配した。第一次世界大戦の前と最中のロシアは、ロシアの犠牲者の増加と物資の不足は、皇帝と彼のロシアの戦争努力への対処に向けられた怒りの量の増加につながった。ロシアは急激に分裂した社会となり、最貧のロシア人は日々生き残るのに苦労した。貧困は、特に地主の貴族のために働いていたロシアの農民の間で広まった。

 1917年、ウラジーミル・レーニンは、皇帝ニコライ2世に対する一連の反乱を主導した。レーニンは、ロシアに対する権力を獲得し、第一次世界大戦での戦闘からロシアを引き離そうとした共産主義組織であったボルシェビキの指導者であった。すぐに、皇帝ニコラス2世と彼の家族は投獄され、レーニンとボルシェビキは権力を掌握した。レーニンは第一次世界大戦へのロシアの関与に反対し、権力を獲得した直後にドイツと平和条約を交渉した。1918年3月3日に調印されたブレスト・リトフスク条約は、ロシアがドイツとの和平を獲得したが、その代わりにロシアはその土地の大部分をドイツに放棄した。第一次世界大戦での戦闘からのロシアの撤退は、ドイツがすべての部隊を西部戦線に集中させた。連合国にとって厳しい打撃でした。アメリカが連合国側で第一次世界大戦に正式に参加したとき、フランスとイギリスはすぐに多くの必要な支援を受けれた。




2021年6月24日木曜日

南ベトナム解放民族戦線により殺害されたベトナム人の死体とベトコンがアメリカ軍将校を殺害した死体も散乱した。

ベトナム戦争は、1964年に軍事情勢が急激に悪化した。南ベトナム解放民族戦線(ベトコン, VC)により殺害されたベトナム人の死体が散乱した。ベトコンがアメリカ軍将校を殺害した死体も散乱した。1964年の上半期にはテロ事件が倍増し、南ベトナム軍兵士の脱走や亡命が増大した。1964年前半だけでアメリカ軍兵士の死者数は約227人にも上った。

  南ベトナム中に要塞化された集落を設置すると喧伝しても、明らかな撤退を止めれなかった。ベトナム戦争の戦況で、約600人ものベトコンのゲリラがジャングルから突如に出てきて、小さな要塞化された集落を攻撃した。ベトコンは、機関銃の射撃でワイヤーとストレッジを吹き飛ばした。翌朝に、南ベトナム軍の救援隊が到着した。村に家族が住んでいた南ベトナム軍兵士は、赤ん坊の息子の死体を抱いて慟哭した。赤ん坊は、わら製のマットにきれいに包まれて、埋葬する名札付けられていた。

  8月の北ベトナム軍は戦闘において公的な役割を担っていた。トンキン湾で、北ベトナムの魚雷艇がアメリカの駆逐艦マドックスを攻撃した。ラスク国務長官は直後に「今度やったら、刺されるぞ」と警告した。南ベトナムのベトコンによるジャングル戦は不吉な新展開を見せた。空母タイコンデロガのアメリカ海軍パイロットが低空飛行で湾岸を通過し、北ベトナムの海軍施設を攻撃して、初めてベトナム戦争が17度線を越えた。

 1964年の夏に、約56,000人のベトコンが、ゲリラ戦争を南ベトナム全体に広めた。ホーチミンルートを経由して北ベトナム軍(NVA)が流入した常駐によってゲリラ戦争が激化した。ベトコンは、独立した集団と共鳴者が提携して南ベトナムで反乱をする前線部隊であった。実際には北ベトナム共産党と北ベトナム人民軍(PAVN)によって完全に管理されていた。北ベトナムの共産主義戦闘員であるベトコンがゲリラ攻撃した。ベトコンの奇襲攻撃は、しばしばアメリカ軍兵士を待ち伏せし、捕らえられる前に逃げるひき逃げ待ち伏せをした。一般市民や地元の農民に変装してゲリラ攻撃をした。

 1959年初頭には約5,000人だったベトコンは、1964年末には約10万人に増大した。南ベトナムの潜入者数だけでも約4万1千人と推定された。反乱軍の拡大は、北ベトナムの人員や武器の量だけでなく、南ベトナムが多孔の国境を保持できない、南ベトナムが地方のベトコンの影響力を弱めれない、南ベトナム軍が長年にベトコンの基地や秘密地帯の削減が困難であることを反映した。



2021年6月23日水曜日

太平洋戦争のサイパンの戦いにて、アメリカ軍の巨大な強力な戦車のキャタピラの直前で、1944年6月25日に一網打尽に殺害された多数の日本軍兵士の死体が散乱した。

太平洋戦争のサイパンの戦いにて、アメリカ軍の巨大な強力な戦車のキャタピラの直前で、1944年6月25日に一網打尽に殺害された多数の日本軍兵士の死体が散乱した。その時は、既に東京の参謀本部は、サイパン島を放棄して全滅することを決定していた。捨て去られて全滅する事も知らずに、日本軍兵士はアメリカ軍に突撃しては、大量虐待と大量虐殺された。

  アメリカ軍は、1944年6月15日にサイパン島に上陸した。1944年6月19日から6月20日にて日本海軍とアメリカ海軍がマリアナ諸島沖とパラオ諸島沖のレイテ沖海戦が勃発して、日本帝国海軍は空母約3隻と戦闘機約395機を大損失した。その後に補給と増援が遮断されて追い詰められて、日本軍はサイパン北部の山岳地帯の中心にあるタポチョ山周辺に散在する洞窟群に潜伏した。山岳地帯の残りは開放農地で、サトウキビが植えられて、住人が住んでいた。さらに不幸な家族は、隠れるための洞窟や穴に入れなかった。追い詰められた日本軍兵士と約1万人ものサイパン島の住人が、サイパン島北部に追い詰められた。粗末な塹壕に立て籠もった日本軍兵士は、アメリカ軍兵士は猛烈な砲撃しながら、手榴弾などを投げ込んで、激しく機関銃や火炎放射器で掃討して日本軍兵士を大量虐待と大量虐殺した。

 7月7日に最後の約4,000人の日本軍兵士は、サイパン島の北端にて、タナバクの浜で万歳攻撃をして全滅した。7月7日の早朝、数千人の日本軍が最後の必死のバンザイ突撃で、アメリカ軍を襲撃した。追い込まれたサイパン島の住民の大部分が自爆あるいは岬から飛び降りる投身自殺して殺害された。7月9日にアメリカ軍はサイパン島を完全に占領した。その後の数日間は、アメリカ軍兵士は何百人もの日本の民間人が、サイパン島の北の崖から飛び降りて大量の自殺をするのを無力に見守るしかなかった。サイパン島の犠牲者は、全日本軍兵士の約41,244人が虐殺され、捕虜となって生き残ったのはわずかに約1000人であった。アメリカ軍兵士は、約3,441人が戦死して約13,000人が戦傷した。アメリカ軍はサイパン島から日本本国の範囲内にB-29爆撃機を発着した。




2021年6月22日火曜日

アメリカ軍の偵察隊はイタリア北部のゴシック線で、ドイツ軍により殺害されて戦死したアメリカ軍兵士たちの死体を発見した。

第二次世界大戦のイタリア戦線にて、1944年6月にイタリア北部のグリーンラインと改名されたゴシック線で、1944年9月以降にアメリカ軍等とドイツ軍等はにらみ合いの戦闘が続いた。ドイツ軍には、イタリア北部の最後の主要な防御線であった。9月14日夜に、782高地の下部の斜面に敷設した電話線を見つけてたどると西側の尾根に達した。偵察隊は、9月15日にドイツ軍により殺害されて戦死したアメリカ軍兵士たちの死体を発見した。西の峰の頂上付近にある掩蔽壕を調べたが、ドイツ軍兵士の死体は皆無であった。926高地を奪取するまでに、アメリカ軍兵士たちが主稜線を侵攻する際に、ドイツ軍の激しい十字砲火に遭遇した。 

 ゴシック線における926高地の頂上に到達して、アメリカ小隊はかなりの戦力不足でも、926高地の南斜面の頂上付近に配置された。侵攻の開始時に、連隊は約40人を補充したが、綿密な地図や情報は欠した。1944年9月14日にドイツ軍の砲撃で、アメリカ軍幹部が砲弾の破片で負傷した。ドイツ軍の防衛線が潜伏していた。9月15日にアルトゥッツォ尾根の中腹から頂上までの地点から、ドイツ軍の新たな攻撃を受けた。9月15日から9月16日の夜に、ドイツ軍からの攻撃の矢面に立った。偵察隊を派遣して、前線の約350から450m前を偵察した。

 アメリカ軍は死傷者と神経衰弱患者の犠牲のため、小隊の兵力は大幅に不足した。3日間の戦闘で有効な戦力はほぼ半減して、9月14日に西の尾根に小隊を導いた。9月16日の朝、小隊は782高地の南西斜面を鉄条網から約35m下の小さな平地まで侵攻した。ドイツ軍の迫撃砲の攻撃を受けたが、死傷者は出なかった。攻撃開始の数分前に、ドイツ軍兵士は782高地の稜線の南西斜面にある前哨基地から、アメリカ軍の前哨基地にも銃撃を加えた。前方のアメリカ軍兵士は丘を少し下って撤退した。前哨部隊が平地を通り過ぎ、鉄条網を越えて、茂みに隠れて尾根を見上げた。ドイツ軍兵士を見つけて、ライフルを肩に当てて発砲した。上の斜面にいた他のドイツ軍兵士も小銃で応戦した。

  煙で山頂からのドイツ軍の観測が遮断された。アメリカ軍は以前の攻撃で切られた隙間から鉄条網を渡り、右翼側には歩兵兵士が数名殺害された。装備品が絡み合った付近に散乱していた。782高地の稜線近くの塹壕にいた数人のドイツ軍狙撃兵が発砲してきた。ドイツ軍の銃弾はアメリカ軍兵士の左肋骨を貫通した。ドイツ軍の攻撃に向けて反撃した。上の斜面にいたイタリア軍兵士が投降した。斜面から手榴弾の弾幕が張られ、稜線近くの右前方から機関銃が発射された。アメリカ軍兵士は、ドイツ軍に向かって手榴弾を斜面に投げ上げた。前方の茂みに1人のドイツ軍兵士を見つけて、至近距離から発砲した。5人のドイツ軍兵士があぶり出て降伏した。782高地の南側の稜線上に急遽配置されたドイツ軍の機関銃は、1回だけ射撃して、尾根上に撤退した。短い銃撃戦でドイツ軍兵士2名が死亡、6名が捕虜となり、アメリカ軍分隊は1名が負傷した。










第12パラシュート連隊の落下傘部隊は、モンテ・アルトゥッツォの斜面で死んでいるのが発見された。


2021年6月21日月曜日

終戦後に日本に復員した家族の兄である日本軍兵士は、抱き寄せた弟妹が慟哭した。内地が約396万人、外地が約365万人が復員した。

日本は1945年8月15日にポツダム宣言受諾して、太平洋戦争が敗戦して終結した。日本の本土は、廃墟と化した。生存した日本軍兵士は、8月23日より海外から復員をした。陸海軍の文書では、内地が約396万人、外地が約365万人に達した。終戦を海外で迎えた日本人は、約640万人に達して、復員は1956年まで引き続いた。12月1日に、陸軍・海軍省は、第1と第2復員省として改組されたて復員業務をした。引き揚げには、一部の戦死者や途上での死亡者が、火葬した遺骨で戻った。

 軍復員した家族の兄であった日本軍兵士に、弟妹が縋り付いて慟哭した。一挙に大量の日本軍兵士が復員した事で、新たな飢餓者や失業者が発生した。日本軍兵兵士は、それぞれの家族あるいは家庭に戻り、昔の人間らしい生活を求めた。しかし、戦死したり戦傷したり、二度と戻れない父や夫も多く存在した。海外からの復員者のは男性だけでなく、本土にて原子爆弾に被爆した女性、沖縄戦に巻き込まれた沖縄の女性、海外に移住して引き揚げた女性、約28万人もの戦争未亡人、未帰還者の女性、戦時職業者であっ女子挺身隊たちにも厳しい激しい敗戦が、1945年8月15日に戦争から解放された。

 日本軍兵士の復員が優先されて、1945年10月までに海外から引揚げた。組織に属さない市民は、苦難と悲劇の引き揚げとなった。親族の遺骨を抱いて引き揚げた。中国からの引き揚げは、1951年9月サンフランシスコ講和で国交が回復しなかった。中国紅十会と日本側団体が協定して、1953年3月23日の興安丸・高砂丸から、1958年7月13日の白山丸まで約21回に及び、約3万4880人が引き揚げた。

 朝鮮半島の約90万人が在住して、38度線以南の引き揚げは、約1946年5月までに完了した。38度線以北は、民間人は38度線を南側に突破して帰国した。北朝鮮から公式には1955年4月の1回のみ帰還した。38度線より北部の日本軍兵士はソ連に送還されて、約57万5千人がシベリアに抑留された。約32万人の樺太残留者はソ連に占領されて、1958年にまでに帰還した。シベリアへ送還されて強制労働した。1946年12月にアメリカ・ソ連協定から引き揚げが始まった。1950年4月戦犯を残して中断した。1953年11月に赤十字社協定で再開した。1956年10月に日ソ共同期宣言により、戦犯も全員釈放した。

 東南アジア・太平洋・台湾などの南方からの引き揚げは、1948年末には帰国した。全引揚者の約23%で、復員者は約180万人にも達した。フィリピン・東南アジア・ベトナムからの引き揚げは1960年頃まで継続された。



2021年6月20日日曜日

ナチス・ドイツ軍の砲撃を受けたレニングラードのネフスキー大通りのリゴフカ地域にある死体が、1941年10月25日に散在した。

ナチス・ドイツ軍の砲撃を受けたレニングラードのネフスキー大通りのリゴフカ地域にある死体が、1941年10月25日に散在した。レニングラードでは、ドイツ軍の砲撃の犠牲となり、大量の民間人が殺害された。

 ナチス・ドイツ軍の攻撃による実際の死者数は80万人にのぼり、レニングラード市の人口の3分の1に相当した。ナチス・ドイツ軍によるレニングラードへの砲撃は、1941年9月4日に始まり、1944年1月22日まで継続した。特に1941年9月4日から12月31日まで、約13,000発の砲撃され、産業、学校、病院、民家を標的にした。1941年9月4日から、レニングラードはドイツ軍が占領したトスノ市の側面から最初の砲撃にさらされた。ドイツ軍の砲弾が破裂し、死者や負傷者の山となり、主に女性と子供たちは、石畳の舗装に散らばり、うめき声​​を上げて泣いた。ネフスキー大通りの北側のいくつかの壁には、「市民!砲撃中、通りのこちら側が最も危険です"、ドイツ軍の砲撃の最も危険性が最も高い地域であることを注意書きして、通行人に警告するために、街路の北側と北東側に配置された。

 ナチス・ドイツ軍がソビエト連邦に対するバルバロッサ作戦を1941年9月8日に勃発した。3か月後にレニングラード都市を完全に包囲した。当時にレニングラードと呼称された都市は、約4年間にわたりナチス・ドイツ軍とフィンランド軍に包囲された。フィンランド軍は、レニングラードに対する空中攻撃のためのドイツ軍の嘆願を拒否した。極寒の冬季と飢餓により、人々は路上で亡くなり、市民はすぐに歩道をで横になっている死体が散在していた。ナチス・ドイツ軍の砲撃を受けたレニングラードのネフスキー通りとリゴフカの角にある死体が1941年10月25日に散在した。ナチス・ドイツ軍は空襲によって食料供給の大部分を破壊した。最大で約200万人、最小で約60万人が死亡したと推定された。約300万人の住民のうちで、約70万人が生存した。




2021年6月19日土曜日

都築正男らは大野陸軍病院で、アメリカ軍のマンハッタン管区原爆調査団を案内して、被害状況と被爆者の原爆症を解説した

アメリカ軍の原子爆弾調査団と東京大学の都築正男らは、広島県の大野陸軍病院(現在の廿日市市宮浜温泉)で1945年9月11日に広島原子爆弾に被爆して生存した被爆者と被害状況を実体調査をした。都築正男らは大野陸軍病院をアメリカ軍の原爆調査団のマンハッタン管区調査団を案内して、被爆者とに被害状況と原爆症を説明した。毎日新聞は1945年年8月31日に毎日新聞が、その他の原子爆弾による被害と被爆者の原爆症を8月31日に公表した。広島、長崎に投下された恐るべき原子爆弾の残虐性を暴露した。この度わが国医学界の手で新たに病理学的立場からその悪鬼無残の真相が究明されるに至った。戦時体制期,広島陸軍病院は基町に第一分院と第二分院,その他に江波・三滝・大野分院を開設した。1945年6月には,本土決戦に備え広島臨時第一陸軍病院,広島臨時第二陸軍病院,大野陸軍病院の三病院体制を設置した。

直後の9月19日から連合軍総司令部(GHQ)が、日本の報道や出版物を検閲して、原子爆弾の報道は9月19日にGHQが、全面的に原子爆弾の資料を検閲して禁止する直前に、9月19日直後に毎日新聞が正式に公表した。9月17日の枕崎台風の大津波で大野陸軍病院が直撃されて、京都大学の調査調査団が約156人死亡した。災害後に陸軍陸軍病院は閉鎖となり、被害状況の資料はすべて喪失して頓挫した。本事件は朝日新聞が原子爆弾でアメリカを批判したGHQのプレスコードにより、9月16日と20日の新聞の発行が止められて、京都大学の事件は、ながい間一般に知られなかった。

 広島と長崎に原子爆弾が投下されて炸裂した直後から、原子爆弾の被害状況と被爆死やの実体が、次第に日本のマスコミから公表された。都築正男らとアメリカ軍の原子爆弾調査団が広島に出入りして、原子爆弾に被爆した被爆者の原爆症の資料はすべてアメリカ軍がアメリカ本国に持ち去ったむ加えて9月19日にプレスコードが敷かれ、原爆の実相は長きにわたって封印された。日本の医学界とマスコミの敗北であった。プレスコード(Press Code for Japan[)は、太平洋戦争の終結後の連合国軍占領下の日本にて、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)によって、新聞などの報道機関を統制する規則であり、検閲が措置された。9月15日付の朝日新聞は、正義は力なりを標榜するアメリカ米国である以上、原子爆弾の使用や無辜の国民殺傷が、病院船攻撃や毒ガス使用以上の国際法違反や戦争犯罪を否むことは出来ないと鳩山一郎の談話が掲載された。




2021年6月18日金曜日

上海の大場鎮にて、日本軍兵士が殺害した中国人青年兵士の死体が塹壕に横たわった。狙撃した日本軍兵士が死体に立ち寄って、殺害された中国軍兵士の戦死を検死した。

日中戦争において、日本軍と中国革命軍が1938年2月25日に上海宝山区の大場鎮で上海第一次事変(January 28 Incident)で激突した。日本軍は、事前の陸軍動員計画で、日本軍は大軍と大量の馬匹を上海の大場鎮に動員した。上海の大場鎮において、日本軍兵士によって殺害された中国人青年兵士の死体が塹壕に横たわっていた。直ちに、狙撃した日本軍兵士が死体に立ち寄って、殺害された中国軍兵士が戦死していることを検死した。1932年3月1日に激闘の末に日本軍は、中国軍の大場鎮の陣地を占領した。

 満州事変の直後に第一次上海事変にて、日本軍と中国軍とが上海の一部地区で戦闘が勃発した。満州国の建国に向けて、中国軍の抗日運動を弾圧した。上海の中国人を操って、1932年1月18日に、日本人の僧侶などを襲撃して1人を殺害して、2人が負傷した。抗日運動の中心地となった上海に紛争を巻き起こした。虐殺事件は、中国軍側の上海部隊が日本軍側の弾圧要求を受け入れて終結した。

 直ちに、日本軍が日本租界に日本軍部隊が上海に上陸して、1月28日に中国軍と激突した。中国軍側の精鋭である第十九路軍が、上海市街から北西郊外の地形を活用して、日本軍部隊が苦境に陥った。大日本帝国軍は、日本軍子部隊を急増させて、中国軍と激戦を勃発した。上海に混在していた西洋各国の租界が、イギリとアメリカとフランスの3国が、日本軍と中国軍に休戦を勧告した。日本軍は、第一次世界大戦後に設立された国際連盟の介入を回避するために、日本軍は、国際連盟の総会直前である1932年3月1日に強固な中国軍の大場鎮の陣地を占領した。3月3日に中国軍の第十九路軍が退却して、退却して一次上海事変は終結した。5月5日に日本軍は中国軍と停戦協定を締結した。

 日本軍は上海が満州に撤退した。この間の1933年3月1日に満州国が建国されて発足した。満州国が建国されると、中国軍の抗日運動や西洋各国は、日本軍に対する脅威を急激に高まった。日中戦争において、廟行鎮の戦いで日本軍兵士による自爆攻撃を爆弾三勇士として日本国民は英雄と奉った。日本軍と中国軍が停戦を教義していた4月29日に、朝鮮人である尹奉吉が爆弾を上海の日本軍司令官が殺害されて、中国公使の重光葵が負傷して朝鮮人による抗日運動が激化した。




2021年6月17日木曜日

台湾の合歎山の方面の途上にて、悲惨で凄惨に惨死していた日本人死体からの白骨を日本軍と警察の探索隊が発見した。

台湾の合歎山の方面の途上にて、悲惨で凄惨に惨死していた日本人死体からの白骨を日本軍と警察の探索隊が発見した。1913年3月頃に日本人技師らによる部隊が、台湾の合歎山の山頂に至るまでに襲われていた。日本探検隊の一行が、合歎山の途上にその約40人の日本人技師らの惨死の白骨を見出した。日本探索隊の一行は、悲惨な白骨が青草に散在して死体も跡形もなかった惨劇の跡を見守った。

 1913年頃からの台湾戦略に伴う新竹方面の台湾討伐は、当初は日本警察隊により実施された。宣蘭の方面の渓頭や南海の台湾で原住民が相次いで反乱が発生した。日本警察隊の形勢が危機的となった。その時点から日本軍の軍隊は、これらの反抗する台湾民族を掃討する任務で急遽に台湾に向けて侵略した。日本軍の討伐隊は、台湾の宣欄の濁水と渓上に主力を集結した。日本警察隊は協力して、台湾討伐する日本軍に従った。両部隊は台湾民族に対して向かう所敵なく、ガオガンの険要を衝いて中央山脈の一帯の険峰を蹂躙した。キナジー方面に肉薄して、ついで新竹と桃園方面の日本警察隊と連携した。予定方面の討伐を完了した。さらに日本の台湾討伐隊は、新たにシカヤブ・サオラ方面にも躍進して、台湾原住民を屈服して討伐を終結した。約60日余りの戦闘の期間で、日本陸軍と日本警察隊の両部隊が協力して、約80地域の台湾民族を制圧した。台湾原住民の武器などを押収して、北部の台湾原住民の大部分を征服した。

 台湾島で原住民であるロコ族が武装蜂起して、太魯閣戰爭が1914年5月17日から8月28日まで勃発した。台湾島での最大の戦闘となった。日本陸軍と日本警察隊により、約80地域の台湾民族を制圧した。台湾原住民から武器などを押収して、北部の台湾原住民の大部分を征服した。日本軍と警察隊により平定されて台湾の戦いでは、日本軍兵士の約13,335人のうち約364人を損失して、タロコ族の青壮年の約2,350人から約3,000人のうちで犠牲者数は不明である。




2021年6月17日 Japan No War NGO
日本平和市民連盟 視聴回数 490,000回


2021年6月16日水曜日

第二次世界大戦のポーランドで、ナチス・ドイツ軍の鉄道路線を爆破と破壊して負傷したパルチザンが、装甲車に轢かれ虐殺された。

第二次世界大戦のポーランドにて、ナチス・ドイツ軍の鉄道路線を爆破と破壊をして負傷したパルチザンが、装甲車に轢かれて虐殺された。装甲車に紐で縛ったパルチザンの死体は、荒野の上を引き連れて回されて、パルチザンに対する見せしめの虐待と虐殺を繰り返した。

 第二次世界大戦では、ナチス・ドイツ軍の通信線や輸送・補給を阻止する闘いが、パルチザンのゲリラ戦闘の中心となった。ゲリラはナチス・ドイツ軍には、人数や装備、供給力、通信手段の面でも、戦力に圧倒されていた。パルチザンのゲリラは野戦ではなく、不意を突いて脅威の場所を攻撃した。パルチザンは、全占領地での戦闘でナチス・ドイツ軍には立ち向かえない。党派的なゲリラ戦術が、次第に武装蜂起に変わった。最終的に解放される前に武装蜂起が勃発した。例えば、ユーゴスラビア人民解放軍は、ファシストの占領下で活動して、貧弱なパルチザン部隊に支えられた。パルチザンが大衆運動になってから、占領軍と武装蜂起をした。

 パルチザンは、ナチス・ドイツ軍の通信線や連絡線を断絶して、ドイツ軍の追撃から速やかに逃亡した。占領地域の市民が蜂起したり、通信網の遮断を繰り返した。ナチス・ドイツ軍が、ヨーロッパのすべての被占領地で、特にソ連で頻発した。兵器・弾薬・食料の供給、部隊の再配置、軍の機動力などは、特に鉄道や道路の接続や確保に影響を受けた。連絡網の破壊は1942年から1944年に急増大した。前線への供給と輸送が最も破壊されして、ソ連のパルチザンは鉄道路を爆破して破損した。

 第二次世界大戦中にヨーロッパの占領地では、ナチス・ドイツ軍が1941年6月22日のソ連侵攻以前から、鉄道の断絶は、パルチザンが結成された直後から勃発した。ソ連では、1943年にパルチザンの幹部が、公式に「鉄道戦争」と呼称した。巨大な領土を拡大して、数百万の軍隊を展開して、無数の武器を使用する現代の戦争では、輸送・通信システムが重要な役割を果たした。何百万人もの兵士が、食事、衣服、武器、その他戦争に必要な装備を求めた。戦争では常に新しい武器や部隊が必要とされ、鉄道や道路網は生命線となった。特に第二次世界大戦では、ヨーロッパのほとんどの地域で何千kmもの前線や戦場があり、ほとんどが移送する戦争であった。第二次世界大戦、特に東部戦線ではライフラインが一時的な遮断や停止すると、戦争の混乱と軍隊の崩壊につながった。






2021年6月15日火曜日

太平洋戦争のマニラの戦いで、アメリカ軍兵士は、パコ地区で掃討され殺害された日本軍兵士の散乱した死体を通り越して侵攻した。

太平洋戦争のマニラの戦いで、アメリカ軍兵士は1945年2月12日に、パコ地区で掃討され殺害された日本軍兵士の散乱した死体を通り越して前進した。アメリカ軍は、マニラの日本軍の掃討すめために、家々や通りから通りへと戦闘が続いた。マニラ市内には多くの敵の拠点があったが 2月22日には日本軍は城壁に囲まれた小さな街に追いやられた。

 アメリカ軍は1945年1月9日にフィリピンに帰還して、リンガエン湾の海岸に上陸した。マニラ解放のために南へ約100マイルに侵攻した。日本軍は分割して、ルソン島の森やジャングルでも長期戦をした。日本軍は、首都のマニラを死守するために、約17,000人の日本軍兵士をマニラの北部、中部、南部に分散した。高い城壁の城塞都市と城郭都市を防衛した。建物の中を塞ぎ、進撃をより困難にした。廊下を通る千鳥格子の壁を作り、手榴弾の隙間を残した。

 アメリカ軍はマニラを包囲しながら占領した。マニラは要塞化して、追い詰められたマニラ市民たちは大混乱した。2月3日午後6時35分に、アメリカ軍がマニラのサント・トーマスに転進し、マニラの解放に備えた。しかし、日本軍は同日のうちに、計画的な都市破壊を開始した。焼夷爆弾がパシグ川の北側の地区をくまなく回り、建物に火をつけて爆破した。都市を分断するパシグ川にかかる橋をすべて爆破した。北部地区を破壊した後に、川を渡ってマニラ中心部に退却した。アメリカ軍はパシグ川を渡って、血なまぐさい市街戦を始めた。地区ごとに侵攻したが、交差点の防壁に阻まれ、後方を攻撃するために隣接する建物を爆破した。日本軍は、要塞化された建物の高層階から狙撃して、火炎瓶を投下した。アメリカ軍は、大砲で上の階を爆破して瓦礫に突入した。フィリピン大学のリサールホールで悲劇の自爆が勃発した。アメリカ軍は、、一晩中身を隠した。その日の深夜1時半頃に、日本軍の約45分間の歌声を聞いた。最後に歌と大声で叫び、すぐに手榴弾の爆発音が何度も聞こえた。破壊された建物には翌朝に、約77人の日本軍兵士が自殺した死体が散乱した。

 アメリカ軍はパシグ川を渡って大損害を被った後に、無差別の砲撃をした。アメリカ軍は約42,000発以上の砲弾と迫撃砲を発射した。マニラは内部からも外部らも破壊された。男も女も子供も地下に潜り、狭い空襲シェルターの中は、戦況が悪化した。2月9日になると、アメリカ軍は川を渡り、マニラ中心部に押し寄せて、南部の要塞も破壊した。第二次世界大戦における大量虐待と大量虐殺に発展した。マニラで数十件の残虐行為が発生した。民間人に対する暴力が、ゲリラの攻撃から組織的な大量殺戮へと移行した。マニラ市内で約27の主要な残虐行為と、フィリピン全土の数百の残虐行為が発生した。日本軍から銃弾を受けるだけでなく、赤坊を空中に放り投げて銃剣で串刺し、何百人も日本刀で首を切り、何千人も生きたまま焼き殺した。赤十字本部を襲撃し、生後の幼児2人を含む50人以上の民間人を銃撃、銃剣で撃ち殺した。クラブの中で約500人以上の男女や子供を焼き殺した。セント・ポール・カレッジの食堂で、数百人の一般市民を強制的に連れ込み、シャンデリアに爆薬を仕掛けて爆破し、約360人が死亡した。シンガロン通りの家の2階の床に穴を開け、目隠した民間人を床の上にひざまずかせ、死体を穴に蹴り入れる前に、日本刀で一人一人の頭を切り落とした。戦争犯罪調査官は頭蓋骨により、約200人が殺害されたと推定した。 日本軍は何千人もの女性を建物の中に閉じ込め強姦と暴行を繰り返した。日本軍は、無差別に男も女も、老いも若きも、強い者も弱い者も、何千人ものフィリピン人も、ロシア人、スペイン人、ドイツ人、インド人、さらには2人の最高裁判事、上院議員の家族、何人もの聖職者を虐殺した。

 2月23日の朝までに、アメリカ軍は最後の日本軍部隊をイントラムロスと周辺の建物に追い込んだ。壁に囲まれた都市を奪還する戦いは、午前7時半の大規模な砲撃から始まった。1時間で約1万発もの砲弾と迫撃砲を撃ち込んだ。1秒間に平均3発の砲弾が発射され、雷鳴が鳴り響き、電話も通じず、目視での通信となり、民間人は城壁都市に閉じ込められた。午前8時30分、アメリカ軍は城壁都市に突入した。中に入ると、生存者のほとんどが女性と子供であった。戦争犯罪調査委員会によると、日本軍は城壁都市マニラ内で推定4,000人のフィリピン兵士を殺害した。サンチャゴ要塞で地下牢に封印されて虐殺された。2月28日の正午に、ついに最後の建物が陥落した。日本軍幹部は建物の北西側の部屋に戻り、ナイフを持って腹を切った。1945年3月3日、アメリカ軍がマニラに上陸してから29日目に、マニラの戦いはついに終結した。フィリピンの首都を奪還するための戦いでは、約16,665人の日本軍兵士が死亡した。アメリカ軍は死者約1,010名、負傷者約5,565名であった。一般市民の犠牲者は約10万人と推定された。 

 


 

2021年6月14日月曜日

アメリカ軍兵士は、銃弾で頭部の大部分を吹き飛ばされて死んだ若い北朝鮮軍兵士は戦死か重傷かをすぐに確認した。

アメリカ軍の銃弾で頭部の大部分を吹き飛ばされて死んだ若い北朝鮮軍兵士は、這うように弾薬の缶を握りしめていた。アメリカ軍兵士は、銃撃して殺害した数人の北朝鮮軍兵士らは、本当に戦死か、重傷かをすぐに確認した。横たわった北朝鮮軍の死体の上で銃が乱射されても、アメリカ軍は飛び越えて立ち上がって北朝鮮の銃撃に向かって突進した。1950年9月初旬に、釜山周辺の側面の丘や野原に、北朝鮮軍は依然として機関銃を搭載し、前方の尾根からの弾丸の炸裂音が道路にアメリカ軍に響いた。先頭を行くアメリカ軍兵士たちは、鋼鉄の戦車に寄り添いながら、侵攻を続けた。北朝鮮軍の攻撃が最も激しい道路を通過して、戦車の装甲の塊が粉砕さたれ。
  北朝鮮軍の機関銃が発射されて、若い未経験のアメリカ軍兵士の多くは、戦闘での実弾で北朝鮮軍から射撃されると、簡単に帰らぬ人となった。道路沿いの田んぼに飛び込んで、北朝鮮軍の射撃から逃避した。アメリカ軍が停止し、周囲の丘陵地への侵攻の命令が下った。塹壕を掘るのではなく、尾根に向かって突撃する命令が出た。アメリカ軍司令部から簡潔な命令が軍隊に伝令されて前方に突撃した。先にある北朝鮮軍への攻撃の先頭に立つ窮地に立たされた。静かに待ち構える北朝鮮軍は、ほとんど樹木のない血塗られた頂上に続く地域を周知していた。わずかな丘や農家の溝の後ろに隠れていた北朝鮮軍は、未だに起伏のある尾根を移動しているアメリカ軍兵士たちを、狙撃する射程距離に入る瞬間を待っていた。瞬時に、静けさは永遠に破られた。前方の尾根に沿った北朝鮮軍の機関銃が一斉に撃ち込まれた。アメリカ軍兵士は腹這いになって射撃し、攻撃命令を待った。暴風雨により、丘の上には雲が低空に舞い上がり、激しい雨が降り注いだ。視界はどんどん悪くなり、無線も通じなくなった。
  北朝鮮軍は、すでに下の谷を駆け抜け、丘の正面の斜面を登り、頂上を目指し始めていた。北朝鮮軍の機関銃や迫撃は、いたるところに射撃した。アメリカ軍は、次々と腹這いになり、手榴弾を投げて、肘をついて押し寄せた北朝鮮軍を射撃した。
 アメリカ軍兵士は、立ち上がり、さらに多くの手榴弾を山頂の綿花畑に、山頂を越えて下の谷に向かって砲撃した。丘の頂上を取るために最後の突進を始め、突撃命令で撤退できない位置に追いやられた。がり、冷静に丘の頂上に沿って上下に歩きながら、一人一人の隊員を丹念に配置していきました。
  機関銃の弾丸がアメリカ軍の軍曹の胸を貫き、泥の中にたたきつけられた。斜面を越えて引きずり込まれて、死体に荒いポンチョの上に乗せられた。下腿や大隊を撃たれて、腕や肩を撃たれた者もいて、頭部を撃たれて即死する者もいた。雨はますます強く降り注ぎ、雲はさらに低くなり、夜のようになった。アメリカ軍の3度目の歩兵攻撃の後に、大きな損害を受けた北朝鮮軍は撤退した。あらゆる捨て去った兵器を丘の上に向けた。迫撃砲が陣地のあちこちで炸裂し、北朝鮮軍の機関銃の一撃が、アメリカ軍兵士の腹部を直撃し、半身を起こした時に、最後の一撃が胸部に再び命中し、綿畑の中に回転して、二度と動けない死体となった。 
  アメリカ軍が撤退し始めると、北朝鮮軍の迫撃砲の爆弾が真上に落下した。身体には爆弾の破片が入り、衛生兵は包帯で傷を覆っていた。負傷者を救急車まで護送した。戦死者は、斜面に運ばれ、埋葬された。埋葬が終わり再び丘の上に戻ると、自分か仲間が生きているのか、死んでいるのかを待っていた。アメリカ軍が北朝鮮軍を攻撃するのではなく、次の尾根を曲がったところで待ち伏せされるかもしれない。朝鮮戦争は、もはや食事の時間に熱く語り合う問題ではなく、大量虐待と大量虐殺となった。

 

2021年6月13日日曜日

熱河省の古北口にて、関東軍は戦車とともに侵攻し、周辺には殺害された国民革命軍の中国人兵士の死体が散乱した。

日本帝国陸軍である関東軍は、1933年2月18日から新たな満州国の軍事行動として熱河作戦を開始して、満州国西部の熱河省から国民革命軍を掃討する作戦に出た。熱河省の古北口にて、関東軍は戦車とともに侵攻した。その周辺には、殺害された国民革命軍の中国人兵士の死体が散乱した。4月21日から4月30日の古北口の戦いでは、関東軍は戦死者約74人と戦傷者約232人が犠牲となった。日本政府は1933年1月13日に、関東軍に万里の長城の北側の国境を越えないを越えない条件下で、作戦を容認していた。5月31日に関東軍は、満州事変による中国東北の占領を国民革命軍側に黙認させた塘沽協定を調印した。
 関東軍は、1931年9月18日の柳条湖事件の勃発から、中国東北地域の満州を侵略戦争を開始した。1932年3月1日に溥儀を満洲国執政として、関東軍が傀儡する満洲国の建国を宣言していた。関東軍は、熱河省は満洲国の一部と認識していた。しかし、熱河作戦が勃発した1933年2月初頭には、国際連盟は関東軍による新たな熱河省の軍事行動を非難する決議を用意した。国際連盟の非難勧告案により、満洲国の占領が否定されて、連盟規約により日本が国際的に経済制裁を受けるに至る。1933年2月24日に国際連盟総会で採決された勧告案は、満洲国の成立を認めず、満洲事変以降の日本の戦争責任を糾弾した。採決の結果は、賛成が42ヵ国、反対は日本のみの1ヵ国、棄権が1ヵ国(シャム、後のタイ)であった。日本の国連代表団は即時に非難勧告案を拒否して、会場から脱会して、日本政府は1933年3月27日に公式に国際連盟の脱退を決定した。国際連盟の脱退により、連盟規約に基づく経済制裁を回避するも、国際的に孤立化した。
 満州事変時の日本政府は、関東軍を賞賛しながら国威を発揚した。4月27日に帰国した国連代表団を英雄に出迎え、国際社会での孤立を光栄とした。明治時代の日本政府は国際的規範を遵守していたが、昭和初期から、国際社会での協調よりも日本の富国挙兵を優先した。関東軍による熱河省に侵攻が、国際連盟の脱退から太平洋戦争へと繫がる重大な危機へと導く危険な起点となった。