2021年6月15日火曜日

太平洋戦争のマニラの戦いで、アメリカ軍兵士は、パコ地区で掃討され殺害された日本軍兵士の散乱した死体を通り越して侵攻した。

太平洋戦争のマニラの戦いで、アメリカ軍兵士は1945年2月12日に、パコ地区で掃討され殺害された日本軍兵士の散乱した死体を通り越して前進した。アメリカ軍は、マニラの日本軍の掃討すめために、家々や通りから通りへと戦闘が続いた。マニラ市内には多くの敵の拠点があったが 2月22日には日本軍は城壁に囲まれた小さな街に追いやられた。

 アメリカ軍は1945年1月9日にフィリピンに帰還して、リンガエン湾の海岸に上陸した。マニラ解放のために南へ約100マイルに侵攻した。日本軍は分割して、ルソン島の森やジャングルでも長期戦をした。日本軍は、首都のマニラを死守するために、約17,000人の日本軍兵士をマニラの北部、中部、南部に分散した。高い城壁の城塞都市と城郭都市を防衛した。建物の中を塞ぎ、進撃をより困難にした。廊下を通る千鳥格子の壁を作り、手榴弾の隙間を残した。

 アメリカ軍はマニラを包囲しながら占領した。マニラは要塞化して、追い詰められたマニラ市民たちは大混乱した。2月3日午後6時35分に、アメリカ軍がマニラのサント・トーマスに転進し、マニラの解放に備えた。しかし、日本軍は同日のうちに、計画的な都市破壊を開始した。焼夷爆弾がパシグ川の北側の地区をくまなく回り、建物に火をつけて爆破した。都市を分断するパシグ川にかかる橋をすべて爆破した。北部地区を破壊した後に、川を渡ってマニラ中心部に退却した。アメリカ軍はパシグ川を渡って、血なまぐさい市街戦を始めた。地区ごとに侵攻したが、交差点の防壁に阻まれ、後方を攻撃するために隣接する建物を爆破した。日本軍は、要塞化された建物の高層階から狙撃して、火炎瓶を投下した。アメリカ軍は、大砲で上の階を爆破して瓦礫に突入した。フィリピン大学のリサールホールで悲劇の自爆が勃発した。アメリカ軍は、、一晩中身を隠した。その日の深夜1時半頃に、日本軍の約45分間の歌声を聞いた。最後に歌と大声で叫び、すぐに手榴弾の爆発音が何度も聞こえた。破壊された建物には翌朝に、約77人の日本軍兵士が自殺した死体が散乱した。

 アメリカ軍はパシグ川を渡って大損害を被った後に、無差別の砲撃をした。アメリカ軍は約42,000発以上の砲弾と迫撃砲を発射した。マニラは内部からも外部らも破壊された。男も女も子供も地下に潜り、狭い空襲シェルターの中は、戦況が悪化した。2月9日になると、アメリカ軍は川を渡り、マニラ中心部に押し寄せて、南部の要塞も破壊した。第二次世界大戦における大量虐待と大量虐殺に発展した。マニラで数十件の残虐行為が発生した。民間人に対する暴力が、ゲリラの攻撃から組織的な大量殺戮へと移行した。マニラ市内で約27の主要な残虐行為と、フィリピン全土の数百の残虐行為が発生した。日本軍から銃弾を受けるだけでなく、赤坊を空中に放り投げて銃剣で串刺し、何百人も日本刀で首を切り、何千人も生きたまま焼き殺した。赤十字本部を襲撃し、生後の幼児2人を含む50人以上の民間人を銃撃、銃剣で撃ち殺した。クラブの中で約500人以上の男女や子供を焼き殺した。セント・ポール・カレッジの食堂で、数百人の一般市民を強制的に連れ込み、シャンデリアに爆薬を仕掛けて爆破し、約360人が死亡した。シンガロン通りの家の2階の床に穴を開け、目隠した民間人を床の上にひざまずかせ、死体を穴に蹴り入れる前に、日本刀で一人一人の頭を切り落とした。戦争犯罪調査官は頭蓋骨により、約200人が殺害されたと推定した。 日本軍は何千人もの女性を建物の中に閉じ込め強姦と暴行を繰り返した。日本軍は、無差別に男も女も、老いも若きも、強い者も弱い者も、何千人ものフィリピン人も、ロシア人、スペイン人、ドイツ人、インド人、さらには2人の最高裁判事、上院議員の家族、何人もの聖職者を虐殺した。

 2月23日の朝までに、アメリカ軍は最後の日本軍部隊をイントラムロスと周辺の建物に追い込んだ。壁に囲まれた都市を奪還する戦いは、午前7時半の大規模な砲撃から始まった。1時間で約1万発もの砲弾と迫撃砲を撃ち込んだ。1秒間に平均3発の砲弾が発射され、雷鳴が鳴り響き、電話も通じず、目視での通信となり、民間人は城壁都市に閉じ込められた。午前8時30分、アメリカ軍は城壁都市に突入した。中に入ると、生存者のほとんどが女性と子供であった。戦争犯罪調査委員会によると、日本軍は城壁都市マニラ内で推定4,000人のフィリピン兵士を殺害した。サンチャゴ要塞で地下牢に封印されて虐殺された。2月28日の正午に、ついに最後の建物が陥落した。日本軍幹部は建物の北西側の部屋に戻り、ナイフを持って腹を切った。1945年3月3日、アメリカ軍がマニラに上陸してから29日目に、マニラの戦いはついに終結した。フィリピンの首都を奪還するための戦いでは、約16,665人の日本軍兵士が死亡した。アメリカ軍は死者約1,010名、負傷者約5,565名であった。一般市民の犠牲者は約10万人と推定された。 

 


 

2021年6月14日月曜日

アメリカ軍兵士は、銃弾で頭部の大部分を吹き飛ばされて死んだ若い北朝鮮軍兵士は戦死か重傷かをすぐに確認した。

アメリカ軍の銃弾で頭部の大部分を吹き飛ばされて死んだ若い北朝鮮軍兵士は、這うように弾薬の缶を握りしめていた。アメリカ軍兵士は、銃撃して殺害した数人の北朝鮮軍兵士らは、本当に戦死か、重傷かをすぐに確認した。横たわった北朝鮮軍の死体の上で銃が乱射されても、アメリカ軍は飛び越えて立ち上がって北朝鮮の銃撃に向かって突進した。1950年9月初旬に、釜山周辺の側面の丘や野原に、北朝鮮軍は依然として機関銃を搭載し、前方の尾根からの弾丸の炸裂音が道路にアメリカ軍に響いた。先頭を行くアメリカ軍兵士たちは、鋼鉄の戦車に寄り添いながら、侵攻を続けた。北朝鮮軍の攻撃が最も激しい道路を通過して、戦車の装甲の塊が粉砕さたれ。
  北朝鮮軍の機関銃が発射されて、若い未経験のアメリカ軍兵士の多くは、戦闘での実弾で北朝鮮軍から射撃されると、簡単に帰らぬ人となった。道路沿いの田んぼに飛び込んで、北朝鮮軍の射撃から逃避した。アメリカ軍が停止し、周囲の丘陵地への侵攻の命令が下った。塹壕を掘るのではなく、尾根に向かって突撃する命令が出た。アメリカ軍司令部から簡潔な命令が軍隊に伝令されて前方に突撃した。先にある北朝鮮軍への攻撃の先頭に立つ窮地に立たされた。静かに待ち構える北朝鮮軍は、ほとんど樹木のない血塗られた頂上に続く地域を周知していた。わずかな丘や農家の溝の後ろに隠れていた北朝鮮軍は、未だに起伏のある尾根を移動しているアメリカ軍兵士たちを、狙撃する射程距離に入る瞬間を待っていた。瞬時に、静けさは永遠に破られた。前方の尾根に沿った北朝鮮軍の機関銃が一斉に撃ち込まれた。アメリカ軍兵士は腹這いになって射撃し、攻撃命令を待った。暴風雨により、丘の上には雲が低空に舞い上がり、激しい雨が降り注いだ。視界はどんどん悪くなり、無線も通じなくなった。
  北朝鮮軍は、すでに下の谷を駆け抜け、丘の正面の斜面を登り、頂上を目指し始めていた。北朝鮮軍の機関銃や迫撃は、いたるところに射撃した。アメリカ軍は、次々と腹這いになり、手榴弾を投げて、肘をついて押し寄せた北朝鮮軍を射撃した。
 アメリカ軍兵士は、立ち上がり、さらに多くの手榴弾を山頂の綿花畑に、山頂を越えて下の谷に向かって砲撃した。丘の頂上を取るために最後の突進を始め、突撃命令で撤退できない位置に追いやられた。がり、冷静に丘の頂上に沿って上下に歩きながら、一人一人の隊員を丹念に配置していきました。
  機関銃の弾丸がアメリカ軍の軍曹の胸を貫き、泥の中にたたきつけられた。斜面を越えて引きずり込まれて、死体に荒いポンチョの上に乗せられた。下腿や大隊を撃たれて、腕や肩を撃たれた者もいて、頭部を撃たれて即死する者もいた。雨はますます強く降り注ぎ、雲はさらに低くなり、夜のようになった。アメリカ軍の3度目の歩兵攻撃の後に、大きな損害を受けた北朝鮮軍は撤退した。あらゆる捨て去った兵器を丘の上に向けた。迫撃砲が陣地のあちこちで炸裂し、北朝鮮軍の機関銃の一撃が、アメリカ軍兵士の腹部を直撃し、半身を起こした時に、最後の一撃が胸部に再び命中し、綿畑の中に回転して、二度と動けない死体となった。 
  アメリカ軍が撤退し始めると、北朝鮮軍の迫撃砲の爆弾が真上に落下した。身体には爆弾の破片が入り、衛生兵は包帯で傷を覆っていた。負傷者を救急車まで護送した。戦死者は、斜面に運ばれ、埋葬された。埋葬が終わり再び丘の上に戻ると、自分か仲間が生きているのか、死んでいるのかを待っていた。アメリカ軍が北朝鮮軍を攻撃するのではなく、次の尾根を曲がったところで待ち伏せされるかもしれない。朝鮮戦争は、もはや食事の時間に熱く語り合う問題ではなく、大量虐待と大量虐殺となった。

 

2021年6月13日日曜日

熱河省の古北口にて、関東軍は戦車とともに侵攻し、周辺には殺害された国民革命軍の中国人兵士の死体が散乱した。

日本帝国陸軍である関東軍は、1933年2月18日から新たな満州国の軍事行動として熱河作戦を開始して、満州国西部の熱河省から国民革命軍を掃討する作戦に出た。熱河省の古北口にて、関東軍は戦車とともに侵攻した。その周辺には、殺害された国民革命軍の中国人兵士の死体が散乱した。4月21日から4月30日の古北口の戦いでは、関東軍は戦死者約74人と戦傷者約232人が犠牲となった。日本政府は1933年1月13日に、関東軍に万里の長城の北側の国境を越えないを越えない条件下で、作戦を容認していた。5月31日に関東軍は、満州事変による中国東北の占領を国民革命軍側に黙認させた塘沽協定を調印した。
 関東軍は、1931年9月18日の柳条湖事件の勃発から、中国東北地域の満州を侵略戦争を開始した。1932年3月1日に溥儀を満洲国執政として、関東軍が傀儡する満洲国の建国を宣言していた。関東軍は、熱河省は満洲国の一部と認識していた。しかし、熱河作戦が勃発した1933年2月初頭には、国際連盟は関東軍による新たな熱河省の軍事行動を非難する決議を用意した。国際連盟の非難勧告案により、満洲国の占領が否定されて、連盟規約により日本が国際的に経済制裁を受けるに至る。1933年2月24日に国際連盟総会で採決された勧告案は、満洲国の成立を認めず、満洲事変以降の日本の戦争責任を糾弾した。採決の結果は、賛成が42ヵ国、反対は日本のみの1ヵ国、棄権が1ヵ国(シャム、後のタイ)であった。日本の国連代表団は即時に非難勧告案を拒否して、会場から脱会して、日本政府は1933年3月27日に公式に国際連盟の脱退を決定した。国際連盟の脱退により、連盟規約に基づく経済制裁を回避するも、国際的に孤立化した。
 満州事変時の日本政府は、関東軍を賞賛しながら国威を発揚した。4月27日に帰国した国連代表団を英雄に出迎え、国際社会での孤立を光栄とした。明治時代の日本政府は国際的規範を遵守していたが、昭和初期から、国際社会での協調よりも日本の富国挙兵を優先した。関東軍による熱河省に侵攻が、国際連盟の脱退から太平洋戦争へと繫がる重大な危機へと導く危険な起点となった。

 


 

2021年6月12日土曜日

広島原子爆弾が炸裂した直後に、日本軍の軍隊が窓枠が吹き飛んだ建物の上層階を占領した。生存した被爆者は下の階を再使用して避難させた。

広島原子爆弾の炸裂により建物は、ほとんどの窓枠も吹き飛ばされていた。直ちに軍隊がまず建物の上層階を占領して使用した。その後に生き残った広島市内の被爆者を、下の階に避難させて救護するために、下の階を救護所として直ちに再び使用された(Life, 1952年7月29日, 第 33 巻, pp.19-25, 第 13 号, Time出版社)。海外で初めてライフ雑誌にて、アメリカ軍に検閲されていない広島と長崎の14枚の原爆写真が刊行された。原子爆弾を投下したアメリカから海外に向けて、広島と長崎原爆の悲劇を脅威と捉える写真家からの視点を無修正の写真で公表した(uncensored photos show atomic bombing through victims' eyes)。

 広島原子爆弾を撮影した写真家たちは、写真に収めることができないほど多くの被爆の悲劇を目撃した。救護所では、焼けただれた子供たちの茫然自失の姿をとらえた。わずかに残っていた建物では、死屍累々の各階の救護室内フロアを用心しながら移動した。しかし、最悪の被爆者の光景は写真に、あまり記録されていない。"何度もシャッターを切ろうとしましたが、被害者が哀れみを求めてくるのです」とある写真家は釈明した。"あまりにも残酷で、あまりにも非人間的で、被爆者の救護の嘆願を無視することはできなかった。もし原爆だと知っていたら、写真を撮影しようとは思わなかったでしょう」。
 日本政府は、写真家が見たように、死者は約26万人、負傷者・行方不明者は約16万3,263人、破壊された面積は約13.2キロ平方メートル、破壊された建物は約63,431棟と推定した。膨大な被爆の損害と犠牲ではあったが、統計的に許容できる数字に推計した。しかし、それが広島原子爆弾が1945年8月6日にほんの一瞬の炸裂による出来事であることは、当時はほとんど想定できなかった。1952年8月14日刊行されて発売された広島原子爆弾の関連書籍である『原子爆弾第一号_ヒロシマの寫眞記録』(朝日出版社)の中で、その説明がなされている。「ヒロシマの都市の中心部で突然、奇妙な光が閃光した...。その瞬間に広島市民らは耳に指を突っ込み、目を閉じて地面に倒れた。世界が粉々に吹き飛ばされたかのように、広島原子爆弾の大爆発は天地を大振動させた。その放射熱は太陽の千倍もあった。鉄の電柱がタワシのようにねじまがった。午前10時頃から午後2時頃まで、広島市内の街中が炎に包まれた。哀れな被爆者は喉の乾きと脱水で水を求めたが、飲水はなかった。」



2021年6月11日金曜日

高層ビルから自動小銃で狙撃されて、トルコのタクシム広場のカザンチの丘から逃げる大群衆が、装甲車で遮断されて約25人が民衆に押しつぶされて圧死した。

トルコの首都イスタンブールのタクシム広場に、国際労働者の日であった1977年5月1日の休日に、約50万人の労働者らのトルコ市民がメーデーに集まった。その周辺の高層建物の屋上から、突然と狙撃手の銃から弾丸が発砲し始めた。この日タクシム地区では、約34人が死亡して、約126人が負傷した。虐殺事件では約2,000発近くの弾丸が発射された。5人が銃創により殺害された。この虐待と虐殺事件は、タクシン広場の虐殺(Taksim Square massacre)から血の5月1日(Bloody 1 May 1977)などと呼称された。
 死亡した約34人のうち約28人が、パニックになった群衆同志により圧死した。タクシム広場から最も近い出口があったカザンチの丘を下って逃げようとする群衆が、治安部隊の装甲車により逃げ道を遮断された。トルコ市民をさらに怖がらせるために、再びサイレンや爆発物を使って騒いだり、圧力のかかった放水を浴びせた。そのうち約25人がカザンチの丘で押しつぶされて圧死した。その他には治安部隊の装甲車に襲撃されて轢かれて死亡した。
 約500人以上のデモ参加者が治安部隊により拘束されて、そのうち約98人が裁判にかけられた。裁判起訴状では、デモの目的は「人々の間に脅迫、恐怖、パニックを引き起こすこと」であると訴追された。しかし犯人は一人も捕まらず行方不明となった。カウンターゲリラ(Counter-Guerrilla)関連の右翼グループが疑われたが、約20人の狙撃手が治安部隊に拘束されて警察に引き渡された記録が紛失されていた。
 革命的労働組合総連合(DISK)は、イスタンブールのタクシム広場でメーデー・デモを1977年5月1日に開催した。デモ隊は広場を埋め尽くし、群衆は周辺地域へと流れた。会長がメーデーの演説をする頃には、地域に通じるすべての道路が行進する人々でいっぱいになった。最後の一団がタクシム地区に到着したのは、午後7時近くになってからでした。
 DISKの会長が演説を終えたとき、約3発の銃声が響いた。静まり返った直後から、約50万人の群衆はパニック状態と大混乱に陥った。会議場周辺の高層ビルから、自動小銃で群衆に銃弾を浴びせた。治安部隊の装甲車が出動して、騒音弾と自動小銃の発砲で、集会場は突然に戦場化した。何千人もの人々がその場に横たわり、逃げよる人々は角に押し込まれ、装甲車に押しつぶされた。さらに自動小銃が、カザンチの丘を逃げ惑う数千人の人々に向けられた。狭い道の真中に停められたトラックが道を塞いでいた。逃げ惑う人々は押し合いへし合い、重なり合って、窒息したり、圧死する者が続出した。この虐殺事件で、トルコ国内だけでなく、世界中の報道機関に大きな衝撃を与えた。約36人が殺害されて、数百人が負傷し、約453人が逮捕された。
 裁判の法廷で提出された証拠によって、警察は、無差別に逮捕した約98人を、虐殺の責任者として起訴した。彼らは誰も関与しておらず、全員が無罪となった。裁判長は、捜査の再開と真の責任者の起訴を当局に求めたが、軍部を中心とする歴代政権はこの事件を弾圧した。1977年5月7日に、後に首相となるブレント・エセビットが、イズミルの会合で5月1日の血事件には反ゲリラの指があったと発言して注目を集めた。トルコ刑法(TCK)第102条で、この事件は20年が経過した時点で時効により消滅した。虐殺事件は、意図的に時効で消滅された。トルコではそれ以来、本事件を5月1日に記念しているが、1977年以降にタクシム広場をメーデーのために使用させなかった。1980年9月12日のトルコの軍事クーデターの後に、軍事政権が樹立して、約8年間にわたりメーデーの運動が禁止された。

 

2021年6月10日木曜日

虐殺されたパレスチナ人夫の死体を行進していた葬儀の列が、妻の前で一時停止した。妻が担がれていた死体のそばに歩みより、顔に両手を当てて額に接吻をした。

PLO(パレスチナ開放機構)の主流派であるファタファの幹部の1人が、イスラエルの仕掛け爆弾によって暗殺された。パレスチナ人の犠牲者の葬儀が2002年1月に、ヨルダン川西岸のナブルス地区トゥルカレムで挙行された。葬儀を見送るパレスチナ人がつめかけて集合して、イスラム教で冥福を祈った。虐殺されたパレスチナ人若者の死体を行進していた葬儀の列が、妻の前で一時停止した。担がれていた死体が、妻の前にゆっくりと降ろされた。妻は夫の死体のそばに歩みよった。最後の別れのために、顔に両手を当てて額に接吻をした。イスラム教の風習では、妻は夫の埋葬には参列できないので、最後の別れのキスとなった。夫婦には2人の子供がいた父親でもあった。

 パレスチナのヨルダン川西岸地区には人口約300万人が居住した。ヨルダン川西岸のナブルス地区トゥルカレムでは、次第に増殖するユダヤ人の入植者の白色の建物も混じっていた。周囲をイスラエル軍に囲まれて、通過するにはイスラエル軍の厳しい検問を受ける。紛争により数人のパレスチナ人の犠牲者を伴った。その直後に、ファタファは紛争の報復として、西エルサレムの成人式パーティの会場で、死決する4人のハマス兵士が自動小銃を乱射して、6人のユダヤ人若者を殺害した。それに再報復するために、イスラエル軍がトゥルカレムを激しく空爆して、主要道路を戦車で封鎖した。戦車に向かって、パレスチナ人の子供たちが次々に投石した。アッラー・アクバル!、シオニストに死を!、イスラエルに報復を! と叫んだ。

 パレスチナ人は生まれてからずっと争いの中で育った。同じパレスチナ人がイスラエルの爆弾や銃撃で殺害された。あまりにも多くの死を見すぎてしまった。双方ともに報復攻撃を繰り返している。イスラエル軍は、ハマスの兵士が潜伏すると疑う民家は軒並みに崩壊して瓦礫の山のみとなる。子供たちは、次は殉教する聖戦で自爆して復讐することを誓った。2020年のパレスチナ人の難民数は約629万人で、ヨルダン川西岸に約106万人、ガザ地区に約162万人、ヨルダンに約242万人、シリアに約65万人、レバノンに約54万人に分散していた。

 1987年にパレススチナ人の民衆蜂起運動であるインティフィーダが勃発する中で、過激テロ組織となるハマスは創設された。エジプトのスンニ派のイスラム原理主義組織であるムスリム同胞団に由来した。ハマスは、パレスチナ主流派のPLOの柔軟路線に反発した。イスラエルに対する聖戦であるジハードとして自爆テロ作戦を敢行した。近年は、パレスチナではハマス支持者が増大している。

 主流派であるPLOのファタファによる独裁と汚染が、パレスチナ住民の反感を受けている。海外からの援助が、PLO幹部のみに停滞している。パマスは、生活困窮地域に在住するパレスチナ住民に対する生活支援により、特に貧困層から支持を受けた。但し、双方ともに、イスラエルとの紛争を増悪させている。

 2005年にイスラエルはガザ地区から撤退して、周囲を封鎖した。2006年にハマスがガザ地区を支配すると、完全に封鎖した。軍事衝突すれば、ハマスからロケット弾攻撃を仕掛けた。2014年にはイスラエル軍の大軍事侵攻で約5日間にわたり人口約200万人のガザ地区に猛攻撃をした。ガザ地区で約2,000人のパレスチナ人が殺害され、約11,000人が負傷して、犠牲者の約70%はパレスチナ人民間市民であった。2018年5月にアメリカ大使館がテルアビブからエルサレムに移転して紛争で衝突した。2021年5月12日に激しい攻撃を応酬で、ガザ地区で約30人が殺害され、テルアビブに対してロケット弾が発射された。

 


2021年6月9日水曜日

1904年に北満州で、ロシア軍は親日派の満州人を首を切断して断頭する死刑を執行した。反抗する住民を身体と両腕を縄で縛って、首を切り落として断頭した満州人の死体の周囲に、ロシア軍兵士と満州人たちが群がった。

1904年に北満州で、ロシア軍は多くの親日派の満州人を首を切断して断頭する死刑を執行した。ロシア軍に要請された満州人の処刑人たちが、反抗する住民を身体と両腕を縄で縛って、首を切り落として断頭した。ロシア軍は反抗する満州人の首を公然と切断することで、満州人の間でロシア軍の反発を抑えることができると考えた。首を切られて断頭された満州人の死体の周囲に、ロシア軍兵士と満州人たちが群がった。日露戦争(1904年2月8日~1905年9月5日)の間は、満州(現在の中国東北部)の多くの住民たちは日本軍に共感し、あるいは賛同していた。ロシア軍に対し親日派が公然になった満州人の住民は、首を保持することはほとんどなかった。日露戦争中にロシアの植民地化に、満州の農民らが不満を抱いた。満州地方にロシア帝国政府が、ロシア帝国から討伐的遠征隊を派遣した。

 満州は19世紀の後半から、欧米の植民地の大拡張時代に巻き込まれた。欧米は武器の優れた技術をもって、中国と日本に不平等条約と開港を迫った。中国の清国に属して、朝鮮半島に隣接して、ロシアからの突起によって日本海を遮断され、満州は経済的魅力を持たず、対象から外れていた。日露戦争を誘発した起因は、鉄道と蒸気航法などの輸送機関の進歩によった。満州の自然環境は、中央部の平野と南部の開港に好都合となった。日露戦争への勃発の決定的な要因は、中国、日本、ロシアが同時並行の植民地政策を選択したことが繋がった。植民地化による安全主義と、武力と装備の整った軍隊による平和体制、満州には新たな条件が重なり、厳しい戦争の渦中に引きずり込まれた。つまり1871年から1914年までのヨーロッパの軍事体制を小さく再現した。植民地主義の間には、貿易主義と安全保障主義が絡み合い、地理的に並立して相互作用が重複した。1894年の日清戦争と1904年の日露戦争の2つの極東戦争にこそ、1914年以降のヨーロッパの大戦の予兆を示唆していた。

 ロシアの極東における軍事的植民地化は、ほぼ満州に限定されていた。植民地化は、1896年(満州横断鉄道)、1898年(旅順、ダルニー、南満州鉄道)、1900年(義和団に対する拡散占領)の3つの段階で、特定の状況下で短期間に勃発した。特に遼東の借地、旅順を手に入れてから、シベリア横断鉄道の終着駅と海軍基地なった。ロシアの軍事的植民地化で、満州にヨーロッパに向けた戦闘資源のインフラを構築した。冬の氷を避けるために、ウラジオストクよりも旅順を選んだ。軍事目的で作られ、補強されて満州の鉄道や港が、移送と食料資源として植民地支配を強化した。日露戦争で、ポーツマス条約(1905年9月)が締結されて、軍事的には日本とロシアは満州から撤退するはずが、日本は1906年から南満州鉄道を再開して、経済的に紛争の種となった。軍事資源と経済活動の関係は、1931年に日本の植民地化による満州国となり、関東軍の駐留基地が、産業拠点となった。




2021年6月8日火曜日

太平洋戦争におけるアンガウル島の戦いのアメリカ軍歩兵は、島の狭軌の鉄道の線路に横たわる日本軍兵士の死骸を通過した。

太平洋戦争におけるアンガウル島の戦い(Battle of Angaur)のアメリカ軍歩兵は、島の狭軌の鉄道の線路に横たわる日本軍兵士の死骸を通過した。日本軍の残存集団は島の北西部に潜伏していた。アンガウルは1944年9月20日に安全宣言が出されたが、その後も戦闘が続いた。火炎放射器、手榴弾、爆薬などを駆使した激しい肉弾戦の末に、日本軍の抵抗を完全に断ち切るまでにはさらに約4週間以上も要した。次第に、日本軍は、飢え、渇き、アメリカの砲撃と爆撃が損害を受けて、10月19日に最後に斬り込み突撃して全滅した。アメリカ軍の約10,000人のうち犠牲は、死者約260人、負傷者約1,354人、非戦闘能力の喪失者は約940人であった。日本軍の犠牲は死者約1,338名、捕虜約59人であった。アメリカ軍の約2,560人の死傷者数が、日本軍の約1,397人の犠牲者数を上回った。
 太平洋戦争におけるアンガウルの戦いは、1944年9月17日から9月30日まで、パラオ諸島のアンガウル島で勃発した。アンガウル島は、ペリリュー島と約9.7kmの海峡で隔てら、長さ約4.8kmの小さな火山島であり、滑走路の建設に適していた。ミンダナオ島の東約800kmに位置するパラオ諸島の最南端にあった。アメリカ軍のパラオ侵攻が明白になると、日本軍は在住の民間日本人と現地住民をアンガウル島からパラオ本島へ疎開させた。青壮年の現地住民の男性約180名は朝鮮人と共に軍夫として日本軍に協力させた。アンガウル島へもアメリカ軍が上陸して戦闘に巻き込まれた。9月11日に、艦砲射撃、急降下爆撃機などによる島への砲撃に続いて9月17日には上陸が行われた。アメリカ軍は9月17日に北東部と南東部の海岸に上陸した。約1,400人の日本軍の地雷や狙撃手に遭遇して侵攻が遅れた。日本軍の機関銃や狙撃手がはびこる密集した地形に巻き込まれた。日本軍は洞窟にも侵入していた。アメリカ軍は洞窟を確保するために、ブルドーザーを使って洞窟の入り口を封鎖した。食料も水もない戦場では日本軍兵を徐々に追い詰めて、洞窟壕の中は自決の手榴弾を求める重傷者の呻き声で、生地獄の様相を醸し出した。既にペリリューの戦い9月15日から11月27日に勃発していた。
 アメリカ軍の猛攻撃で瀕死の重傷を負った舩坂弘軍曹は、左手に拳銃、右手に手榴弾、全身に5発の手榴弾をくくり付けて、アメリカ軍司令部に突撃した。左頸部を撃ち抜かれて昏倒して、意識が約2日間喪失した後に救出された。戦傷者の囚人となっても、監視兵の襲撃や飛行場の爆破を試みた。日本に復員後に、繁栄と平和に繋がるアメリカ文化の先進性を学習する書店を経営した。渋谷駅前に僅か一坪の本屋を開店した。日本初の建物を全て使用した本のデパートの大盛堂書店の創設に繋がった。

 


 

2021年6月7日月曜日

絞首刑されたイタリアの帝国議会議員でもあったチェーザレ・バッティの死体と笑顔の死刑執行人であるジョーセフ・ラングを撮影した1916年の写真カードである。

裏切り者として絞首刑されたイタリアの帝国議会議員でもあったチェーザレ・バッティ(Cesare Battisti)の死体とその死刑執行人であるジョーセフ・ラング(Josef Lang)を撮影した写真が、第一次世界大戦中の1916年に絵葉書となった。笑顔である死刑執行人とその助手は、まるで酒場のようなポーズをとる。吊るされた囚人は、両手で遺体の所有権を示す誇らしげな死刑執行人によって、トロフィーのように保持された。多数の野次馬のような観衆者たちが、絞首台で犠牲者と一緒に写真を撮った。死刑執行は、暴力の覗き見的な儀式として公然と行われ、陰惨な光景は、魅力とある種の欲望を刺激した。絞首台に絞首刑にされた死体とともに撮影され、「笑うオーストリアの死刑執行人」の写真とカードは世界中に広まった。
 チェーザレ・バッティは、オーストリア・ハンガリー領のトレントで1916年7月12日に絞首刑にされた。1911年にウィーンの国会議員に選出されたが、1915年5月にイタリアがオーストリアとの戦争に突入すると、バッティはイタリア軍に入隊した。トレンティーノ地方にイタリア軍が侵攻した時に、1916年7月11日にオーストリア軍に捕獲された。オーストリア人であり裏切り者と判決された。7月12日に略式軍法会議でバティスティは捕虜と主張したが、真っ向から否決され、反逆罪で絞首刑が宣告された。スパイや裏切り者として、男性、女性、子どもがたちが軍事裁判により大量に処刑された。強制送還や抑留、組織的な処刑によって怪しい民間人として国民を弾圧した。
 囚人たちは法廷から直接に絞首台に連行された。最初に首を絞めた縄が切れ、減刑される伝統も無視されて、新しいロープで絞首刑が執行された。バッティスティは、イタリア トレント 万歳(Viva Trento Italia!)と叫んだ。絞首刑後に死体は、棺も目印もなく城の下水道に捨てられた。死刑執行人のジョーセフ・ランゲは1900年から1918年のオーストリア・ハンガリー王政廃止まで務めて、その間に39の死刑判決の死刑執行人であった。絞首台に絞首刑にされた死体とともに撮影され、「笑うオーストリアの死刑執行人」の写真とカードは世界中に広まった。死刑執行人は、しばしば国賓のように駅に迎えられ、高い社会的評判を享受していた。
 オーストリア当局は絞首刑を撮影して写真カードを作成し、見せしめと抑止力にした。裏目に出て、バッティスティは殉教者となり、オーストリア人に野蛮なイメージを与えた。当局はすぐ気付いても、カードの配布を中止し、配布を回収は困難となった。写真はイタリア人の手に渡り、イタリア国内の反オーストリアのプロパガンダの材料となった。
 さまざまな戦争推進派は、戦争は国を強くし、国民を頑強にし、より偉大な存在になれると考えた。戦争は国民を団結させ、愛国心を持たせる手段だと考えた。戦争を個人的な権力を得るための機会と考えた。個人的な名声や冒険、名誉を得るための機会を求めた。大国の地位を獲得し、権益を保護・拡大し、植民地を獲得することを求めた。バッティの主な目標は、民族を中心としたナショナリズムに基づいた。オーストリアでは裏切り者と非難されたが、イタリアでは今でも、彼は愛国者、英雄、殉教者とみなされた。

 

2021年6月6日日曜日

ルワンダの内戦にて、1990年代に大虐殺が頻発したツチ族とフツ族間の大量虐殺により、散乱した膨大な死体の未処理が、潜在的な病気を引き起こす要因となった。

ルワンダの内戦により、1990年代に大虐殺が頻発した。ツチ族とフツ族のルワンダ民族間の殺し合いの内戦により、ルワンダ人の死体の山がよく散見された。すでに弱体化している地域のルワンダ人にとって、その死体の処理の問題が、潜在的な病気を引き起こす一つの原因となった。

 ルワンダの不平等はより地域的に偏在して、北部では権力者が支配して、ルワンダ政府の役職や管理する経済活動、支援される開発プロジェクトにおける賄賂で最も多くの恩恵を受けていた。この優遇措置は、1958年から1962年の革命期に、カトリック教徒のフツ族がツチ族の王政を打倒してさらに加速した。革命を暗黙に支持したのは、長年にルワンダの外国支配を維持するツチ族の政権に恐れを抱いた脱植民地勢力であった。革命では、多くのツチ族が犠牲になり、ルワンダの旧ツチ族の権力者のほとんどが中央アフリカなど他国に逃亡した。

 1962年にルワンダを暴力の支配が強化され始めた。1961年から1962年には、亡命したツチ族が、ブルンジとウガンダを拠点にルワンダに反撃した。フツ族の軍隊によって簡単に鎮圧された。緊張が高まり、1962年には約2,000人のツチ族が処刑され、1963年には約10,000人が殺害された。約14万人から25万人のツチ族が国外に逃亡して、ツチ族の人口は約2分の1から約4分の3にまで減少した。

 1966年から1993年までルワンダを支配した2つの政権は、ツチ族の権力者を殺害したり、強制的に排除した。2つの政権は非常に弾圧的で、フツ族の正当性を示した。第一に、ルワンダ政権による国家主導の開発はフツ族の利益のためであった。フツ族を優位にする民主的な努力と国民に納得させた。第二に、何百年にも少数派のツチ族に支配されたルワンダは、フツ族の所有であるイデオロギーにより、ルワンダ政府はフツ族の覇権に有利であると見せかけた。弾圧的な政権に正当性を与える一方で、フツ族はツチ族に対する恐怖心と偏見が段階的に拡大した。実際、ルワンダ政府はツチ族に対する偏見を組織的に助長した。約20年以上かけて、偏見をツチ族に対する過激な憎悪に変えた。最終的にはツチ族に対する暴力を増長し、1994年にはツチ族の絶滅を図った。フツ族の関心をツチ族に向けて、ルワンダ政権は失敗から国民の注意をそらした。

 ツチ族の難民がルワンダ国内に戻ることは厳禁であった。ツチ族が人口の約9%に応じて社会経済活動に参加できるクオータ制が導入された。政府内には、約9%の割当ては実現しなかった。商業や非政府企業など規制の少ない分野では、ツチ族の数は約9%をはるかに超えた。

 1990年代初頭に、紛争の出来事が集団虐殺するジェノサイドを発生した。フツ族の劣勢地域で、ルワンダ政府への反感が高まった。ルワンダ政府が北部を優遇して、南部のフツ族が怒りを高めてフツ族内の紛争が勃発した。政府は偏った政策から国民の目をそらすために、ツチ族に対すフツ族の偏見を煽って煙幕を張った。1959年から1963年の間に国外に追放されたツチ族の子孫たちが、1990年にルワンダに侵攻した。民族間の憎しみの火をさらに燃え上がらせた。ツチ族は十分な資金と物資を投入した侵攻作戦は、北部の地域を制圧できた。ツチ族の支配が復活するフツ族の危機感を煽った。1992年までに、国連を中心とした国際社会は、新たに帰還したツチ族をフツ族との統合を求めて、フツ族政権に対してより包括的な政府を樹立する交渉を要求した。

 タンザニアのアルーシャで国連が要求した交渉は、ツチ族がフツ族の支配するルワンダに侵入する不安をさらに増大させた。ルワンダ国軍が地元の民兵や市民を武装させ、1991年から1993年にツチ族を平然と殺害した。1994年4月6日に、ルワンダのフツ族大統領がアルーシャでの交渉の帰りに飛行機事故で死亡した。その撃墜からフツ族が暴動して数千人のツチ族が殺害された。国連関係者たちはルワンダから退去した。これらの暴動から約100日間の内戦に巻き込まれて、約80万人の主にツチ族が虐殺された。北部のツチ族勢力であるルワンダ愛国戦線(RPF)が侵攻を再開して、1994年7月4日にはルワンダの首都キガリを占領した。約200万人のフツ族は多くの軍隊や政府幹部と、コンゴ民主共和国(旧ザイール)に逃亡して、再編成を行した。ルワンダで次の階段の暴挙を企てた。1999年までに、少なくとも約20万人のフツ族とツチ族がルワンダで殺害され、数十万人が近隣諸国に逃亡し、数十万人がルワンダ国内で避難して、難民収容所に収容されている。

 ルワンダの状況は非常に不安定となった。ルワンダの内外に大量の難民が存在して、少数派のツチ族が絶滅されない限り、フツ族は生活を支配される偏見と恐怖が段階的に拡大した。大量の難民の存在は、中央アフリカの他の国々の資源を圧迫した。21世紀のアフリカでは、再び紛争と殺戮が起こる可能性が非常に高くなる。2000年4月にルワンダにRPFからツチ族カガメ大統領か就任してアフリカの奇跡の経済成長を遂げた。一方で、2003年5月と2015年12月に新憲法に改正して再選の延長により、2017年8月に2034年まで長期独裁への大統領に再選された。 




2021年6月5日土曜日

原爆災害調査研究委員会が、1945年9月から10日に訪問した爆心地の長崎市松山町にて、住宅地の側溝に被爆死者が火葬されて荼毘に伏されて、白骨が一面に散乱していた。

原爆災害調査研究委員会の学術調査団が、1945年9月から10日に長崎市内を訪問した。爆心地の長崎市松山町にて、住宅地の側溝に被爆死した死体が火葬されて荼毘に伏されていた。その白骨が側溝の一面に散乱していた。

  1945年年8月6日午前8時15分に広島原子爆弾が投下されて炸裂した同日の直後に、呉鎮守府調査団が広島市内を調査した。東京の大本営は、8月8日に参謀本部と陸軍省と理化学研究所の仁科芳雄など陸軍省救護調査団を広島市に派遣した。原子爆弾開発計画である二号作戦を担った仁科芳雄が原子爆弾を検証した。8月10日に広島市比治山東南で陸海軍合同特殊爆弾研究会で、「原子爆弾ナリト認ム」と報告した。爆心地は、護国神社の南方約300m、高度約550mと想定した。8月8日に広島市に派遣された技術院調査団も、8月10日に東京で政府と陸海軍に対して、原子爆弾であると報告した。

 1945年8月9日午前11時2分に長崎原子爆弾が投下されて炸裂した。8月9日午前0時にソ連の参戦して、午後10時半から東京の皇居宮中で、最高戦争指導者会議が開催された。午後11時2分から直後に長崎県知事は西部軍管区参謀に、長崎市内に広島と類似の新型爆弾の投下の電報が発信した。午前11時半頃に内務省あるいは大本営に長崎新型爆弾が連絡された。午後2時半すぎから再開された宮中の最高戦争指導者会議に報告された。その後に、8月10日午前2時半頃にポツダム宣言の受諾を昭和天皇の御前会議で決定した。

 陸軍省医務局は8月8日に陸軍軍医学校から陸軍省広島災害調査班を派遣した。8月10日に、レントゲン・フィルムの感光から放射能を含む原子爆弾と断定した。8月10日に陸軍省は、レントゲン教官至急派遣セシメラレ度と要請を受けた。8月14日に第2次調査班を広島に派遣した。ローリッツエン検電器により、8月17日まで広島市内の放射能を測定した。京都・大阪帝国大学の調査団も放射能を測定した。8月15日朝の新聞で仁科芳雄から原子爆弾が公表された。

 8月下旬から9月上旬に、東京帝国大学医学部などの大学・研究機関により、広島・長崎の調査と救護に参画した。広島の派遣団長である東京大学の都筑正男や陸軍軍医学校、理化学研究所が参加して、陸軍省第3次調査班として8月29日に広島市内を調査した。病理解剖やガイガー計数管で放射能の影響を調査した。9月3日に広島県庁で、原爆症に関する世界最初の講演会を開催した。京都帝国大学は、8月27日に中国軍管区司令部から要請されて、9月2日から広島市に入るも、9月17日の枕崎台風で11人が死亡して調査は頓挫した。長崎市には、8月下旬から9月上旬に、九州帝国大学、熊本医科大学が、調査と救護に参加した。

 終戦後に、アメリカ軍が日本進駐して、8月30日に横浜港に到達したマンハッタン管区調査団など多数の調査団が原子爆弾の調査・研究を開始した。8月28日にアメリカ軍総司令部は、8月28日からアメリン陸軍軍医団調査班が編成されて、9月4日に東京大学の調査団長の都筑正男と連絡調整して、9月8日に厚木基地から広島市内に入り、9月9日に長崎市内に入り調査を開始した。

 1945年9月14日に、文部省科学教育局により、日本学術研究会議(現在の日本学術会議の前身)が原子爆弾災害調査研究特別委員会を結成した。委員約33人、研究員約150人、助手約1,500人の大規模に構成された。アメリカ軍総司令部(GHQ)は9月22日に、日本における原子爆弾の効果を調査するための軍合同委員会を結成した。9月28日に長崎市、10月12日に広島市にて調査研究して、12月には日米合同調査は終結した。GHQは1945年9月19日に日本国内に言論・報道・出版規制を発令して、1952年4月のサンフランシスコ講和条約まで制限された。(直前の9月5日に、ウィリアム・バーチェット記者が、デイリー・エクスプレスに初めて原子爆弾被害の一部が海外に報道された。)11月30日にはGHQは日本人による原子爆弾の災害研究の公表を厳禁を通知した。1946年1月に広島・長崎原爆医学資料は呉港からアメリカ本国の軍医総監督に1973年まで極秘に保管された。




2021年6月4日金曜日

児童殺人犯のウィリアム・カーは、ミズリー州のカンザスシティのリバティのクレイ郡の裁判所内で約800人の観衆が取り巻き写真撮影されて、残酷な公開絞首刑に処せられた。

1897年12月17日に、児童殺人犯のウィリアム・カーは、ミズリー州のカンザスシティのリバティのクレイ郡の裁判所内で、約800人もの公開絞首刑に処せられた。カーが最後に絞首台に連れて行かれるとき、哀れな姿を見せた。痙攣しながら体を起こし、比較的力強く絞首台を登った。保安官が絞首台の引き金を引いたのが、午前10時34分である。その2分後には自分の子供を殺した犯人の命が尽きた。首が折れて、鞭で打たれた音がした。絞首台が倒れた後の一瞬の間に、約800人の観客が、まるで一つの衝動に突き動かされたかのように、叫び、泣き、悲鳴を上げ、笑いながら、絞首台の下に押し寄せて、ぶら下がっている死体の近くに詰め寄ってきた。彼らは、吊るされた男の死体を間近で見るまで満足しなかった。観衆たちは怒って互いに罵り合い、絞首台の階段を無理に登ろうとし、保安官に向かって泣き叫んだり吠えたりした。
 ついに観衆は、足場を囲んでいるバリケードを壊そうとした。ハイマー保安官は、最初の突破口から駆けつけ、興奮気味にこれ以上の暴力行為をしないように観衆に警告した。保安官の警備員が死体を取り囲み、群衆はしばらく立ち止まった。突然、一斉に大きな叫び声が上がり、群衆は警備員を振り切り、頑丈な砦を突き破った。絞首台の中では、さらに叫び声を上げて感情を爆発させた。最後には無事に退散し、数分間の小さな暴動に収まった、終結した死刑執行の後、ある写真家が囲いの中に入り、この忌まわしい悲劇の最後の出来事を、恐ろしく細部まで撮影していた。撮影機は、カーが囲いの中から死体が切断されるまでの間作動した。約1000フィートの長さのフィルムに約1800枚の写真が撮影された。カーがカンザスシティの郡刑務所の囚人であった時の同じ一味が、この写真を全国に展示した。
 カーがカンザスシティの郡刑務所の囚人だった頃に、同じ一味がカーに殺人事件の話を蓄音機に朗読するように説得した。ウィリアム・カーの犯罪は、ミズーリー州の歴史の中でも最も残忍であった。1896年10月15日、犯人ウィリアム・カーの最初の妻との間に生まれた3歳の子供、ベル・カーの死体が、カンザス・シティ近くのミズーリ川の中洲で発見された。この事件で、10月2日にカーがリバティの自宅で逮捕された。カーは当初、犯行を否定した。その後、37歳の痩せこけた田舎育ちのカーは、いかにして自分の子供を家から運び出し、手足をしっかりと縛り、重い石を子供の胸にくくりつけ、「どうするの、パパ? 」とカー夫人が子供を始末するように言ったことを認めた。彼女がベルに残忍なことをしたことも判明した。カーは妻は無関係だと頑強に主張した。しばらくの間、カーは自分の悪評を招き、訪問者に自分の罪を淡々と語った。しかし、その後、彼は「早くこの世から消してくれ」と懇願した。11月16日の裁判では、カーは即座に有罪判決を受けた。カーは次第に衰弱し、死刑の1週間前の日曜日には、叩いたガラスを飲み込んで自殺を図った。カーは絞首刑の前日は落ち着かない夜を過ごして、朝食が運ばれても、彼は嫌悪感で断ち切り、葉巻に火をつけて、長い間窓から外を眺めた。やがて葬儀屋が、カーに遺体の処理をか尋ねた。「私の妻に任せてください。ああ、妻に任せておけばいいんだ」と彼はすすり泣きながら言った。続いて司祭が現れ、男らしく運命に立ち向かうように促した。「やってみます。それが私にできる最善のことです」とカーは言った。続いて聖書が読み上げられ、賛美歌が歌われたが、その間カーは子供のように泣き叫び震えていた。
 19世紀末の旧西部の辺境の町は銃撃戦の戦闘の無法地帯であった。1881年10月にアメリカ西部のOK牧場の近くの空き地で、銃撃戦の死闘を繰り広げた。モラルの低い男たちが、意見を異にするとき、解決すべき問題があるとき、6連発銃に手を伸ばす決闘は簡潔であった。法と秩序が遅れた無法地帯となり、辺境には旅回りのカウボーイ、探鉱者、鉄道員、東洋から来た気性の荒い若者、逃亡者、詐欺師などあらゆる人種が移住した。周辺の丘陵地帯にある鉱山から金銀の富が流れ出した。野外での生活、夜の乗物、危険のスパイス、人間を支配すること、暴徒を抑える誇りが血管を疼かせワイルドな冒険となった。酒場の主人として客から薬を飲ませ金を奪ったりが発覚し、市民が警察官を絞首刑にした。アイダホ州エイダ郡の保安官が馬泥棒が発覚し、自警団が絞首刑にした。その当時の裁判所の法廷での正義も、刑務所や路上での正義と同様に、当たり外れが大きかった。初期の裁判官の多くは、法律を学んでおらず、副業で仕事をしている人が多かった。裁判所や法廷がなければ、彼らは店や酒場で判決を下して、非公式が支配していた。

 

2021年6月3日木曜日

イーペル近郊の砲弾で破壊された森林の中で、一人のオーストラリア軍兵士が倒れた仲間の死体を引き上げるために立ち止った。

第一次世界大戦にて、イーペル近郊の砲弾で破壊された森林の中で、一人のオーストラリア軍兵士が倒れた仲間を助けるために立ち止った。このパッシェンデールの戦いでは、約25万人近くの兵士が犠牲になった。1914年以来の戦闘で、イーペル地域はすでに木や植物のない不毛の平原と化し、砲弾の跡が残った。雨水を野原に流していた古代フランドルの排水システムも破壊された。数百万発の砲弾が炸裂し、豪雨が加わったことで、戦場はあっという間に、人が溺れるほどの深さの水を蓄えたクレーターが点在する湿地帯となり、初期の戦闘で死んだ兵士の墓が陥没したことでさらに悪化した。お粥のように濡れた泥の上で、建物や自然の覆いがほとんどない開けた灰色の風景の中で、爆発した砲弾、飛んでくる破片、機銃掃射の容赦ない苦しい雨の下で、攻撃と反撃を繰り返した。
 イーペル地域は、激しい戦闘と絶え間ない砲撃にさらされ、両軍の兵士や馬の死体が埋もれたまま腐った。死体の引き揚げは行われておらず、死者はほとんど埋葬されていない。戦場は広大な泥沼で、水を含んだ砲弾の跡が散見される。兵士や荷馬は、クレーターの間を縫うようにして敷かれた狭い線路を、自分の足で侵攻した。足を滑らせると、大きさのクレーターの中で溺れてしまった。ほとんど絶え間なく降り続く雨と砲撃の中、兵士たちの状況は悲惨だった。兵士たちは砲弾の穴に身を寄せたり、吹きさらしの泥の中で迷子になり、陣地を分ける前線が不明となった。
 パッシェンデールの戦いは、第一次世界大戦中の1917年7月31日から11月10日にかけた第三次イーペルの戦いであった。戦場は、ドイツ軍と連合軍が約3年間にわたり膠着状態となったベルギーの西部戦線のイーペルの突出部である。7月31日にイギリス連合軍は新たに攻勢をするも、廃墟となったパッシェンデール村近くの尾根を占領してドイツ軍の戦線を突破できなかった。イギリス軍、オーストラリア軍とニュージーランド軍の攻撃が失敗に終わった後に、10月26日にカナダ軍が戦闘に参戦した。カナダ軍は11月6日に尾根を占領したが、豪雨と砲撃で戦場は泥沼化して、約16,000人のカナダ軍兵士が死傷した。パッシェンデールの戦いは、連合軍の戦闘には何の成果もなく、第一次世界大戦における無意味な殺戮の象徴となった。
 1917年春に、ドイツ軍は国際海域で連合国の商船等を沈没する無差別の潜水艦の攻撃を開始した。ドイツ軍の潜水艦攻撃により、アメリカは連合国軍側として参戦した。軍需品や食料などをイギリスに運ぶ航路が脅かされた。イギリス海軍は、ドイツ軍の潜水艦基地であったベルギー沿岸の占領港から、ドイツ軍を追い出すために、連合国軍がベルギーのドイツ軍前線を突破して、海岸まで侵攻して軍港を解放すいることを政府に迫った。西部戦線での大規模なフランス軍の攻撃が失敗し、長年の激しい戦争に疲れたフランス軍兵士たちが反乱を起こし始めた。一部のフランス軍が一時的に戦闘意欲を失って、戦闘不能に陥った。ドイツ軍の資源と注意をフランス軍から引き離すために、1917年夏にイギリス軍が無謀な戦闘を展開した。
 イギリス軍は、ドイツ軍に対してわずかな戦力の優位性しかなかった。イーペルでドイツ軍の戦線を突破できても、ベルギー沿岸の軍港は攻略できない。ベルギーでの攻防しても、戦争の終結には繋がらなかった。唯一に必然なのは、大量の人命が失われることだった。イギリスの戦時内閣で承認されたパッシェンデールの戦い通称の第3次イーペルの戦いが7月に始まった。イギリス軍は、数十台の戦車に支えられ、フランス軍の支援を受けて、7月31日にドイツ軍の塹壕を攻撃した。それからの1ヶ月間、ドイツ軍側の何十万人もの兵士が、イギリス軍でも多数の突撃から約7万人近くが死傷した。9月初旬には、オーストラリア軍とニュージーランド軍が、疲弊したイギリス軍に投入された。連合軍は砲撃し、攻撃し、敵地の一部を占領しては、反撃するドイツ軍に追い返された。パッシェンデールの戦いは、間違いなく戦争中で最も泥臭く、最も血なまぐさい戦いで、第一次世界大戦の最悪の恐怖の象徴である。戦闘の多くが全くの無益であり、戦争の幹部が部下の命を無謀にも軽視した。1918年春に、ドイツ軍が大規模な攻撃を開始して、連合軍はベルギーの沿岸部の軍港の解放には至らなかった。パッシェンデールでの戦いは、勇気と命の無駄な支出と呼称された。 

 


2021年6月2日水曜日

スペイン内戦にて戦争写真家のロバート・キャパは、塹壕の中から35ミリカメラで至近距離から共和国軍民兵であった『崩れ落ちる兵士』の著名な戦争写真を撮影した。

スペイン内戦が勃発して約1ケ月が経過した1936年9月5日午前10時30分コルドバにて、フランコ反乱軍のバレラ将軍の指揮下にあるブルアガ隊のコロナル・サエンスに所属するレギュラーズ・タボルのモロッコ人精鋭狙撃手が、丘の斜面を駆け下りる共和党軍民兵を狙撃した。塹壕に潜伏していたモロッコ人精鋭狙撃手が引き金を引くと、モーゼル銃の口径約7×57mmのマウサー弾が上昇気流に乗って秒速約730mで無慈悲に発射された。アリカンテ出身の無政府主義者であるアナキスト軍民兵であるフェデリコ・ボレル・ガルシアは、セロ・デ・ラコハの斜面を走っている最中に心臓を貫通されて即死した(上)。狙撃兵の左手数メートルにいた戦争写真家のロバート・キャパは、塹壕の中から35ミリのライカIIIを使って至近距離から著名な『崩れ落ちる兵士(The Falling Soldier)』戦争写真を撮影した。1996年にモーゼル銃で撃たれて後ろ向きに倒れている民兵の正体が判明した。心臓を貫く銃弾で即死した民兵の右手に、セロ・デ・ラコハ丘の東側の斜面で、小さな渓谷の始まりに近い山が見える。その他にもう一人のラ・コハの丘で狙撃されて殺害された第2共和国軍民兵の正体は今日まで知られていない(下)。
 1936年7月17日にフランコ将軍とイベリア半島の将軍たちは、2月6日の総選挙で民主的に成立した共和国政府に対抗して反乱して、スペイン内戦が勃発した。ロバート・キャパの本名はエンドレ・エンレー・フリードマンで、ブダペスト生まれのユダヤ系ハンガリー人写真家である。1935年にデプトエージェンシー社は、ドイツ雑誌に掲載する写真の撮影のため、キャパにスペインへの渡航を命じた。キャパは、1936年にフランス人民戦線の勝利後の集会などを撮影した。1936年にスペイン内戦が勃発すると、フランスの高級写真雑誌『Vu』が、スペイン内戦の撮影を命じた。1936年9月23日に
「死の瞬間の人民戦線兵士」と『Vu』に掲載された。

  1936年8月5日バルセロナに到着したキャパは、バルセロナで反乱軍が敗退して、労働者や無政府主義者の武装民兵が権力を掌握していた。何千人もの民兵がアラゴン戦線に向かう列車に乗り込んだ。共和国軍が大攻勢をかけたグアダルキビル高地の州都コルドバの北近郊のセロ・ムリアーノに到着した。
 1936年8月20日約5,000人の共和国軍は、反乱軍に防御されたコルドバを侵攻した。激しい戦闘が繰り広げられ、反乱軍はアフリカのモロッコ人専門兵の射撃により、共和党軍民兵に多大な死傷者を出した。約1万人の共和国軍がコルドバ州の村々に分散して、セロ・ムリアーノ村周辺は、2週間後に共和国軍は堅固な防御陣地を敷いた。
 反乱軍は工業地帯を避けて、アンダルシア地方とエクストレマドゥラ地方に侵攻した。アフリカ軍も属する約2万人の反乱軍は準備と武装が整っていた。9月5日に反乱軍もモロッコ軍民兵もコルドバの北近郊の共和国軍を壊滅した。約1ヶ月半前に初めてライフルを手にした大多数の市民や労働力者などの共和国軍民兵は、コルドバ北側のセロ・ムリアーノ村で、アフリカ軍の正規軍と反乱軍に突撃した。両軍は、大砲や機関銃などあらゆる武器で撃ち合った。多数の死傷者が出始め、兵器の撃ち合いの後、戦闘は熾烈を極めて、1936年9月5日に反乱軍は、共和国軍民兵を完全に圧倒した。

 


2021年6月1日火曜日

フィリピンのセブ島で、連合農民組織の21歳のレナート・タバサ・ザバテは、フィリピン国家警察に拉致され虐殺された。死体には約31の擦傷や打撲傷などがあり絞殺された。

フィリピンでは1988年以降に、フィリピン政府や政府を支援する勢力による政治的殺害の犠牲者が550人以上にのぼった。殺害された市民の中には、拷問を受けたり、体を切断された人もいる。乳幼児から高齢者を含む家族全員が虐殺された。女性は刺殺される前に強姦された。1986年2月25日にフェネディナンド・マルコス独裁政権からコラソン・アキノ大統領政権に転覆して、新政権が人権保護のための施策を導入した。しかし、1988年以降にフィリピンにおける超法規的処刑が執行されて虐待と虐殺が継続した。

 フィリピンのセブ島で、21歳のレナート・タバサ・ザバテが1991年9月8日に虐殺された。連合農民組織(UFO)の一員で、国家警察(PNP)の武装集団に拉致されて5日後の1991年9月13日に、セブ州マンダウエ市のカンドマンで死体で発見された。彼の死体には明らかに拷問された痕跡があった。レナートは、9月8日午後1時頃に、友人と一緒に親戚の家を出た。2人が道路を歩いていると、2人の武装した男たちが路上で近づいた。レナートと友人の背中に銃を突きつけた。その後、待機していたジープに押し込まれ、タランバン方面に走り去った。レナートはセブ市のソテロにあるPNPのセブ・メトロポリタン地区司令部に連行された。レナートの死体は、9月13日にセブ市の北約62キロにあるソゴドで小学生が発見した。被害者は電線で縛られ、自分のタオルで猿轡をされた。検死で、死体には擦傷、打撲傷など約31の傷があり、死因は絞殺であった。
 レナートの死は、セブ州の過激な農民組織に属するUFOの組織での活動と関連がある。1990年初頭、UFOなどの地域の労働者組織のメンバーは、新人民軍(NPA)支持者の疑いとして、政府軍や反共産主義の自警団から嫌がらせや脅迫を受けていた。レナートの妻は、親戚もUFOで活動して、セブ市で他の4人と一緒に国家転覆罪に問われた。1987年5月に、レナートは政府軍の捜査官に逮捕・拘留された。彼は他の2人と一緒にセブ市の南西にあるセーフハウスの非公式の拘置所に拘留された。3人は11時間後に起訴されずに釈放された。
 1988年以来、フィリピンでは少なくとも非武装の550人の市民が、フィリピン政府または政府の支援する勢力によって殺害された。フィリピン政府は、武装反対勢力を撲滅するための長期的に正当な犠牲である主張してきた。しかし、現実には、家族全員が、畑で働く村民が銃殺された。女性は殺害される前に兵士にに強姦された。最も非人間的な拷問が、殺害の対象となった人々に加えられた。社会的・経済的に不利な市民や政治的に弱い市民が最も標的になった。武装反対勢力も政治的殺害を行ってきた。犠牲者には、農村地域の住民、労働組合員、政府関係者、軍事容疑者などが含まれる。
 1986年に、フェルディナンド・マルコス大統領に対する人民の力による革命により、コラソン・アキノ氏が大統領に就任した。新政府は、民主主義を復活し、権侵害を断絶することを約束したが、1988年以降に大規模な政治的殺害が執行された。超法規的処刑は、フィリピン陸軍(PA)、フィリピン警察(PC)、統合国家警察(INP)、新設立のフィリピン国家警察(PNP)、市民武装部隊(CAFGU)の民兵部隊、市民自衛組織(CVO)、半官半民の準軍事組織、反共産主義の自警団も含まれた。
 超法規的処刑は、フィリピンにおける深刻な人権侵害である。1986年以来、何百人もの人々が警察や軍の拘束下で失踪して、殺害または拷問された。秘密裏に拘束された人々は、特に殺害や拷問の危険にさらされた。フィリピンのように、警察や軍が処罰を恐れずに違反行為を行うことができる状況では、さらに高まる。1991年には、少なくとも12人の良心の囚人が確認された。数百人の政治犯の中にはさらに多くの囚人がいて、多数の政治的抑留者が拘束されている間に、拷問や不正な扱いを受けた。1990年から1991年には、軍部と政府の幹部が、反乱や破壊行為などの政治的犯罪を含む凶悪犯罪に対する死刑制度を復活させた。労働組合員、人権派弁護士、宗教指導者、農民活動家など、特定の集団の市民が狙われた。政府や政府の支援を受けた勢力によって殺害された85人と、武装野党集団によっても数人が殺害された。
 フィリピンにおける超法規的処刑は、20年以上にわたる政府軍と武装反対勢力との激しい政治的対立を背景に発生してた。最も重要な要因は、フィリピン共産党(CPP)の武装組織である新人民軍(NPA)とモロ民族解放戦線(MNLF)である。フィリピン軍や政府当局は、人権侵害の犠牲者を反乱軍活動に対する正当な標的として、政治的殺害を武力紛争の必然的な副産物として扱った。武装反対勢力の人権侵害を指摘して、超法規的処刑を正当化して、治安部隊の人権侵害の責任を免れた。
 近年、フィリピンの都市部の人口は、農村部から都市部への移住が主な原因で、年に約6%増加している。拡大する不法占拠者のコミュニティを含め、都市部の貧困層を支援する合法的な政治組織が、1970年代から1980年代にかけて登場した。都市の組織は、強制退去に対する抵抗を組織するとともに、ゴミ収集、給水、排水などのサービスを改善するための社会運動を行った。都市の貧困層の活動家は、都市における開発プロジェクトやワークショップを推進してきた。社会活動に参加した市民は、CPP/NPAに関与したと政府軍に訴えられ、治安部隊の一員に殺害された。明確な理由なく逮捕された後に、被害者が警察に拘束されて死亡した。当局は、被害者が逃げようとした、逮捕者から武器を奪おうとした、自殺したとか喧伝する。被害者の弁護士や親族が入手した法医学的証拠は、主張に疑問を投げかけた。