2021年5月23日日曜日

日中戦争にて日本軍は、中国人農民を農具で腹部を割いて虐殺した死体に、農具を刺したままで農地に串刺しにして放置した。

日中戦争が勃発すると、日本軍は偉大な強者として中国の各地で狂気で鼓舞して、戦争犯罪の汚点となった大虐殺など様々な蛮行を繰り返した。日本軍は、中国人は非征服民であるので、特別の考慮などを願う権利を無視した。日本軍は、中国人農民を農具で腹部を割いて虐殺した死体に、農具を刺したままで農地に串刺しにした。難民は泥酔した日本軍兵士に、しばしば銃剣で刺殺された。各地では、強姦、虐殺、略奪などの狂乱となった。避難民のために南京政府が設定していた国際難民区に、約20万人以上の難民で密閉された。日本軍は、強制収容所として、数千人の中国人を引きずり出して大量虐殺した。銃剣の練習台とされ、生贄として石油を浴びせて焼死させた。

 日中戦争は1937年7月7日の盧溝橋事件から勃発して、日本軍は武力で直ちに中国軍を圧倒した。中国軍は、多数の予備軍まで投入して犠牲が拡大した。日本軍を、海岸戦から内陸部へ引きずり込む前に大損害を受けた。中国軍は予備軍も枯渇して、反撃すらできない戦況に陥った。中国軍には、日本軍は固定陣地においても撃退できずに、南京などの大量虐待と大量虐殺の惨劇が勃発した。日本軍は、中国軍の前線を突破して、侵攻が南京にまで達した。南京の中国軍は、上海からの退却する中国軍を収容する暇もなかった。退路は塞がり、司令部も混乱した。日本軍にとって、軍師的や経済的な価値を与える建物や工場も破壊も中国軍はできなかった。

 日本軍は、南京に1937年12月12日に入城した。南京からは約50万人以上もの住民や兵士が自ら逃避して、長い退却をした。勝ち誇った日本軍は、南京にて縦横無尽に略奪ならびに虐待と虐殺をした。唯一残存した南京城の城門を抜けて、揚子江の北岸に逃避した数百人の中国軍や文官が、日本軍の機関銃に掃討されて水没した。数百人の中国人が、下関門に伸びている陸路で掃討されて、死体が累々と積重なった。約12,000の商店と家屋が略奪して、略奪品を上海に搬送した。日本軍は、南京大量虐殺することで、南京の占領を中国人に歓迎させる秩序回復を強要した。南京にあるアメリカ・イギリス・ドイツの大使館や外国人の建物も略奪した。南京の国際救済委員会は100日間の調査にて、日本軍は南京だけでも少なくとも約42,000人を虐殺して、その中に約22,490人もの多くの婦人と子供が膨れた。上海から南京までの侵略中には約30万人の中国人が虐殺されたと推定した。南京の損害額は、約2億4600万中国ドルに掃討して、約1%が軍事損害、残りは主として略奪と放火であった。


2021年5月22日土曜日

長崎原子爆弾が炸裂して、22歳の女性工員が被爆して約11日後に重度の原爆症に陥って、大村海軍病院に護送されて原爆病死した。

長崎原子爆弾が1945年8月9日午前11時2分に投下されて炸裂して、22歳の女性工員が被爆した。被爆して約11日後に重度の原爆症に陥って、長崎県の大村市の大村海軍病院に護送されて、8月20日に入院した。第十二病舎に収容されて、顔面熱傷、左右上肢熱傷、左右膝関節熱傷、左右足背部熱傷と診断された。顔面から両上肢、両膝、両側足背に第二度の熱傷を罹患した。その熱傷の全面が、黒い色の痂皮により覆われた。その傷口のほとんどから膿汁が流出した。その膿汁の悪臭が漂っていた。

 入所して、直ちにまず破傷風の血清500CCの皮下注射をした。その後に毎日25%のブドウ糖200mlにビタミンBとビタミンCを加えて、静脈注射をした。全身状態が衰弱して、9月8日には白血球数が約4,700個/mmliにまで減少した。その後の経過の医療記録は特記されていなない。近日に原爆病で死亡したと推定された。

 原子爆弾の炸裂により放出された放射能のガンマー線が照射されて、身体の細胞を破壊された。熱傷を受傷すると必ずガンマー線の照射を受けれていた。原爆病をや誘発して血液が消化ギイされて出血素質と免疫不全となり、血便などを出して早期に死亡した。若い婦人でも、老年顔貌となり、頭髪は剥げた。可及的に一部の被爆者の惨状と写真が記録された。

長崎県大村市は、日中戦争が勃発して、大規模な海軍航空隊が新設された。戦闘機の大量製造と特攻隊などの基地になった。太平洋戦争が勃発して、海軍病院が新設された。病舎を十七棟を有する、約1,700人を収容する大病院となった。1945年8月9日に午後三時頃に、警察から長崎市内に多数の死傷者が発生した通知を受けた。直ちに救護隊を派遣した。午後五時頃に、大村市から、長崎市の死傷者は無数であり、鉄道沿線の大村海軍病院に約1,000人を収容する依頼が津市された。重度の被爆者は、長崎市の浦上から別仕立の汽車で大村駅に護送された。午後八時頃に大村駅に到着してから消防自動車などで病院まで搬送した。一度に約758人もの被爆者を収容した。さらに長崎県内の救護所の重度の被爆者が次々に大村海軍病院に護送された。


2021年5月21日金曜日

中華人民共和国で、銃殺刑が執行すめために、容疑者の囚人を膝まずかせて、囚人の背中側から、死刑を執行する中国人の警察がライフルを突きつけた。

1989年11月に中華人民共和国で、銃殺刑が執行された。容疑者の囚人を膝まずかせて、囚人の背中側から、死刑を執行する中国人の警察がライフルを突きつけた。まさに銃殺刑が執行する直前である。その後に囚人は銃殺されて死亡した。2019年は中国を除いて、全世界の死刑執行数の約86%は、イラン(251人)、サウジアラビア(184人)、イラク(100人以上)、エジプト(32人以上)、アメリカは(約22人)で執行された。ベトナムと北朝鮮などの死刑執行総数は全く不明である。

 中華人民共和国では、約10万人以上の人々が、政府にとり不都合な事由にて、裁判もされること無く拘禁や処刑された。特に、少数民族に対しては厳しく弾圧して、反政府的運動をする中国北部のカトリック教徒やチベットの僧侶も拘禁されて処刑された。1989年の民主化運動によって、中国人の学生や市民らも逮捕されて拘禁された。囚人の多くは、起訴や裁判も無く拘禁された。不合理な不公平な裁判を強要されて刑罰で拘禁された。1990年代半ばに広まった反政府活動を、相次ぐ死刑執行で牽制した。

 中華人民共和国では、政治的な弾圧により、数千人が殺害された。アムネスティ・インターナショナルの調査では、1991年だけで約1,510人以上が死刑を執行された。約1,650人が死刑を宣告された。中華人共和国の死刑執行数は、全世界の死刑執行数の合計よりも多い。正確な人数は厳重な極秘の国家機密である。1990年代に中国の国営新聞で報道された約18,194件の死刑執行数であり、1999年だけでも約1,263件だった。死刑は、中国の文学や伝統に目には目が溢れている。中国共産党の利益を忖度する司法は、大きな影響を政府から受けている。

 2006年6月、中国の上海で死刑が執行された囚人の邱宣明の死体は、処刑場から火葬場に到着した。近距離で背中を撃たれた頭は、白色のガーゼで包んでいた。衣服は約1時間前に公聴会での最後の法廷で着ていたものと同一であった。シャツには大量の血が付着して、腹は切り裂かれ、腸がこぼれ落ちていた。後頭部への銃撃により死後から数分で、臓器が摘出された。(The New York Times, March 11, 2001) 中国政府は1984年に「死刑囚の死体または臓器の使用に関する暫定規定」という通知を発表し、死刑囚は銃殺で処刑することを定めた。「次の分類の死刑囚の死体または臓器は、家族が死体の回収を拒否した場合、死刑執行前に囚人が死体を志願した場合、または家族が同意した場合に利用できる」とした。中国は、2020年にコロナウイルス関連の死刑執行を行った最初の国となった。











2021年5月20日木曜日

エルサルバトル内戦により、民族解放戦線のゲリラ部隊の若者が、エルサルバトル軍事政権の死の部隊によって殺害された。

中央アメリカ中部のエルサルバトル内戦により、民族解放戦線のゲリラ部隊の若者が、エルサルバトル軍事政権の死の部隊によって殺害された。特に農村地域での暗殺部隊と民間人への無差別攻撃を含む、すべての反政府勢力に対する軍事政府の大量虐待と大量虐殺がされた。無差別暴力がゲリラの反乱を煽り、本格的な内戦に入った。第三世界の経済が困窮すると、大多数の市民の間で貧富の格差が拡大する。エルサルバドルでは、耕作可能な土地の77%は人口の0.01%に属した。一握りの特権階級が実権を支配する。経済の困窮により、社会的不安が深刻化して、社会体制の再編成や武力鎮圧にまで深刻化する。一部の特権階級が、既得権を保持するために、社会的動揺を弾圧するために武力で市民を弾圧した。特権階級が支配する政府は先進国から多額の武器を輸入する。先進国との産物の取引により、ますます輸入が超過すると、通貨レートが悪化して、先進国から貸借を重ねる。社会的不安が極度に市民らの動揺して内乱に陥る。その内乱を弾圧するために、軍事的武器を輸入超過に至る軍事クーデターにより軍事政権が樹立する。

 エルサルバドル内戦は、1979年10月15日から1992年1月16日まで、軍事政権であるエルサルバドル政府とファラブンド・マルティ民族解放戦線(FMLN)との間で勃発したエルサルバドル内戦である。1979年10月15日に起きた軍事クーデターは、軍事政権による反クーデター派の反抗者の殺害、ゲリラによる軍事体制派の殺害を経て、内戦が始まった。1979から1981年に政府軍が支援する右翼の死の部隊によって約3万人が殺害された。1980年3月24日に人権保護家オスカルロメロ大司教の暗殺した。1981年3月15日、エルサルバドル軍は、ホンジュラス国境近くのエルサルバドル北部のカバニャス県で無差別の掃討作戦を執行した。1981年12月11日には、モラサン県エルモゾデで、女性や子供の約146人を含む約733以上の非武装の民間市民を、無差別にエルモゾテ虐殺を実行した。

 悲惨な内戦は約12年間以上継続した。アメリカで訓練された軍事政府の死の部隊(Death Squad)による意図的なテロにより民間人を標的として、カトリック教会の聖職者の暗殺、組合指導者・活動家・学生・教師の殺害、児童兵の徴用など、主に軍事政権による人権弾圧による虐待と虐殺が行われた。FMLNゲリラは1970年代に革命を増長するために誘拐、爆撃、銀行強盗を行った。1980年代には、FMLNは数人の市長、情報提供者、裏切り者を殺害した。多数の市民が行方不明になった一方で、国連はエルサルバトル内戦によって1979年から1992年の間に約75,000人以上が死亡したと報告した。内戦の結果、約100万人近くが、エルサルバドルの国内で強制的な避難、中米、メキシコ、アメリカなどに難民となった。内戦は、1992年1月16日にチャプルテペック和平合意によって終結した。

 アメリカ政府は、エルサルバドル軍事政府に1日あたり約100~約200万ドルの軍事援助を行って、必要な軍事訓練を提供して、内戦では軍事政権に加担した。サルバドル軍事政府は、冷戦下でアメリカから友好的同盟国と見なされた。1983年5月までに、アメリカ軍将校がエルサルバドル軍の幹部の地位を占めて、重要な決定を下し、内戦を操作していた。対内戦戦術はしばしば無差別に民間市民を対象とした。国連は内戦中の市民への暴力行為のうちFMLNゲリラの要因は約5%であり、エルサルバドル軍と暗殺部隊の要因は約85%と推定した。1990年から、国連はエルサルバトル内戦の和平交渉を開始して、国際連合エルサルバドル監視団を派遣した。最終合意であるチャプルテペック和平協定がメキシコシティで署名されて、内戦が公式には終結した。



2021年5月19日水曜日

湾岸戦争にてクウェートが開放された直後に、焼け焦げて小物が散乱したイラク軍兵士の死体の前で、クウェート軍兵士が機関銃を掲げて気取った態度を取った。

1991年2月24日に、アメリカ連合軍の大規模なクウェート侵攻で、クウェートは解放された。解放された翌日に、イラク軍兵士の死体がクウェート中に散乱した。クウェート軍兵士が、焼け焦げたイラク軍兵士の死体の前で、機関銃を掲げて気取った態度を取った。イラク軍は、撤退前までに約600基の油井が炎上して、その巨大な炎が地平線を焦がしていた。クウェートの首都が煙に巻かれた。自然の遺産までもが破壊された。炎は数十メートルの高さまで燃え上がった。風向きが変わると、濃い煙が空を覆って、白昼の夜となった。

  湾岸戦争では、アメリカ軍兵士は約148人が戦死して、約457人が戦傷した。その他の同盟国の戦死は、砂漠の嵐作戦で約100人程度であった。イラク軍側の犠牲者数は公式には発表さないが、少なくとも約25,000人のイラク軍兵士が殺害されて、約75,000人以上が戦傷したと推定された。湾岸戦争に直接起因する戦死傷や十分な水・食料・医療品の不足により、約10万人のイラク市民が死亡した。その後の国連安保理の制裁により、約100万人以上のイラク人が死亡した。

 湾岸戦争は1990年8月2日にイラク軍が隣国の石油資源国のクウェートに侵攻して勃発した。クウェート軍は突如に圧倒されてサウジアラビアに退却した。数時間のうちにクウェート市は占領されて、イラク人は暫定州政府を樹立した。クウェートを併合して、イラクは世界の石油埋蔵量の約20%を支配した。同日8月2日に、国連安全保障理事会は全会一致で、侵略を非難し、イラクのクウェートからの即時撤退を要求した。8月6日に全世界にイラクとの貿易を禁止した。

 8月9日に、ペルシャ湾に到達したアメリカ軍は、サウジアラビアを砂漠の盾作戦で防衛した。一方で、イラク軍はクウェートの占領軍を約30万人に増強した。11月29日に国連安全保障理事会は、1991年1月15日までに撤退しない場合、イラク軍に対する武力行使を認める決議を採択した。イラク軍はクウェートからの撤退を拒み、アメリカ軍を中心とした約70万人の32カ国の連合軍が、中東に集結して武力行使した。1991年1月16日に、連合軍の空母から最初の戦闘機が発進し、大規模な砂漠の嵐作戦のイラク攻撃が開始された。爆撃機は、イラクの首都バグダッドとその周辺を標的として攻撃した。衛星放送で戦闘がテレビに生中継された。連合軍はその後約6週間にわたり、イラク国内の軍事・民間施設に対して集中的に空爆した。イラクの地上軍は無力で、イスラエルとサウジアラビアにスカッド(SCUD)ミサイルを発射して報復した。

 2月24日に、連合軍の大規模な地上攻撃が勃発して、イラクの旧式で補給不足の軍隊は急速に圧倒された。同日にイラク軍は崩壊して、約1万人のイラク軍兵士が捕虜となり、クェートは解放された。イラク軍の大部分は降伏するか、イラクに退却して壊滅した。2月28日に、アメリカ軍は停戦を宣言した。4月3日に、国連安全保障理事会は紛争を正式に終結させる決議687を採択した。停戦は正式となり、制裁の一部は解除され、イラクが国連の監視下で大量破壊兵器を廃棄するまで、イラクの石油販売禁止は継続された。4月6日に、イラクは国連決議を受け入れ、4月11日に安保理は687決議の発効を宣言した。その後の約10年間、イラク軍は和平合意をたびたび破り、同盟国は空爆と国連の制裁が続けた。



2021年5月18日火曜日

1920年代中頃に、上海工部局警察のイギリス人警察は、上海公共租界における中国人の武装勢力を銃殺による死刑を執行した。

1920年代中頃に上海工部局警察のイギリス人警察は、上海公共租界における中国人の武装勢力に対して銃殺による死刑を執行した。上海人の問題行動、武器密輸、過激主義などの過激な中国人勢力を鎮圧して、人種的偏見によりアジア人種を徹底的に弾圧した。鉄製の檻に入れた中国人の囚人に首枷をつけて竹の棒で打たせるなどの虐待と虐殺した。

 上海工部局警察(SMP)は、イギリスの植民地警察として上海公共租界で騒ぎを起こす過激活動家を取り締まった。上海市議会である工部局が警察を管理していたが、1854年から香港警察や軍隊から雇い入れた英僑だけの少人数と外国人を混成して大規模な海外の他人種に組織化された。日本人部局は、上海公共租界内の北部の虹口地区で拡大していた。外国人部局は、無気力で怠惰になるアジア人組織を徹底的に管理して、ヨーロッパ人を頂点とする人種的な序列に従って組織化された。上海公共租界の外国人住民が、上海工部局警察の組織と活動を管理していた。上海工部警察に雇われた中国人とインドのシーク教徒を奴隷化した。上海公共租界の外国籍の住民は他国の領事の管轄下となった。上海の巡回区では、中国人と外国人、シーク教徒や日本人の門前でのやり取り振る舞いは、騒動の挑発行為となった。

 上海では1913年以降に犯罪率が急上昇して、上海工部局警察は危機的水準に達した。特に、国民党軍が1913年7月12日から袁世凱を打倒する辛亥革命を蜂起するも、8月13日に鎮圧された残党が上海に潜伏した。1914年から上海では、武装した国民党の残党兵士らが、商店や民家を襲撃した事件が約98件も発生して、1916年には約196件にも増悪した。

 イギリスは、第一次アヘン戦争(1839年~1842年)で清国に勝利して1842年の南京条約により、中国の清国における香港島を割譲して、外国人が支配できる条約港である広州、福州、廈門、寧波、上海の5港の開港を保持できた。その中で、上海公共租界が、清国の橋頭堡で最大規模であった。上海工部局警察が治外法権で法律と秩序を支配した。1863年に、イギリスとアメリカの租界が正式に合流し、上海公共租界が成立した。日本は第一次世界大戦中の1915年から、日本は上海に最も多くの日本人の外国人居住者を抱えた。1930年代の上海事変により、日本人が急速に上海で治外法権の外国人の約80%を占めた。太平洋戦争が勃発した1941年12月8日と同時に日本軍が上海市に突入して占領して、上海公共租界は消滅した。太平洋戦争後に中華人民共和国が設立された1949年以降は、市政府である工部局は中国共産党の上海市長の支配下となった。(香港: 1997年7月1日にイギリスから中華人民共和国への返還、2020年7月1日に香港国家安全維持法を施行。)


イギリス上海工部局警察による中国人武装勢力に対する死刑の執行前


中国人武装勢力の死体は刑場に放置された。


2021年5月17日月曜日

イスラエル軍兵士による即決裁判により、2002年3月31日にパレスチナ自治政府のラマラで、壁の前のパレスチナ市民を選別して死刑を執行して、死体を運び出した。

イスラエル軍兵士による即決裁判により、2002年3月31日にラマラで、パレスチナ市民を選別して死刑を執行した。処刑されたパレスチナ人の死体が、壁に向かって座っているパレスチナ人の列から運び出された。残ったパレスチナ人は、壁を前に死刑を選別する尋問を受けた。パレスチナ人を集団処刑するために、イスラエル軍兵士が銃口を向けて後手をロープで繋がれた。即決裁判で壁の前で銃撃された。処刑を免れて生存したパレスチナ人は、強制収容所に連行されて拘禁されて尋問を受けて虐待や虐殺を受けた。

 パレスチナ暫定自治政府は、2002年3月31日にラマラで約30人のパレスチナ人が、イスラエル軍によって殺害されたと公表した。ラマラで、16歳から45歳の男性を掃討して検挙したパレスチナ人を、即決裁判により死刑者と拘束者に分離して処刑した。イスラエル軍は、3月31日にはラマラを閉鎖軍事地域と宣告して、パレスチナ人以外の外国人を排除して、極秘の言論統制を引いた。外国の報道機関を、支局から追い出して事務所を占領して情報統制を敷いた。

 ラマラでは、3月29日からイスラエル軍は外国の報道機関に向けても銃撃した。車に乗車して生後9ヶ月の男児を抱えていた21歳のパレスチナ人女性を射殺した。ラマラは、パレスチナ自治区ヨルダン川西岸地区中部に位置する都市である。エルサレムの北10kmに位置して、パレスチナ暫定自治の首都である。1967年の第三次中東戦争で、イスラエル軍がヨルダン川西岸とガザを占領した。占領されたラマラは、1987年12月の第一次インティファーダと2000年9月の第二次インティファーダの闘争場となった。2002年にイスラエル軍がパレスチナ自治区に軍事侵攻して、分離壁を設置した。

 1967年から鎮圧されていたパレスチナのガザ地区で1987年12月にパレスチナ人の2台の車に、イスラエル軍の2台のトラックが追突して、4人が死亡して7人が重傷となった。パレスチナ人の若者が、イスラエル軍兵士に対して投石を始めた。一気にパレスチナ市民にまで抵抗運動が拡大した。インティファーダは、アラビア語で占領を振り落とすことを示唆した。イスラエル軍は若者などのパレスチナ人を1993年までに約1,000も殺害した。2000年9月に、エルサレム旧市街のイスラム教の聖地を、イスラエル軍が占領した。第二次インティファーダが勃発して、パレスチナ人の若者が投石して、武装集団が小武器やロケット砲で攻撃をして、イスラエル軍が銃撃や砲撃をした。




2021年5月16日日曜日

エルサレムでのバス爆破事件は、2002年6月18日にハマスが実行したエグドバスに対する自爆テロで、19人が死亡、74人以上が負傷した。

エルサレム南部のパット交差点でのバス爆破事件(Patt Junction Bus bombing)は、2002年6月18日にエルサレムでハマスが実行したエグドバスにおける自爆テロで、19人が死亡、74人以上が負傷した。その死者のうち17人はギロ地区の住民で、通学途中の高校生も乗車していた。
 2002年6月18日午前7時50分に、ベツレヘム出身のパレスチナ人自爆テロリストが、エグドライン32Aバスにギロ地区から乗り込んだ。その直後にエルサレムのアラブ地区であるベイト・サファファに停車した時に、バスの正面から爆発した。彼の爆弾ベルトには、死傷者を最大化するために榴散弾用の金属球が含まれていた。
 パレスチナのイスラム教組織ハマスが犯行声明を出した。自爆テロの犯人は、ナブルスのアンナジャ国立大学のイスラム法専攻に通う22歳の学生、ムハンマド・アルゴウル・ハッザーと判明した。彼は、釘を詰めた爆薬を体に装着し、ギロからエルサレム中心街に向かう小学生や通勤者が行き交う朝のラッシュアワーにバスに乗り込んだ。爆発によってバスは地面から浮き上がり、屋根が剥がれ落ち、窓から死体が飛び散った。東エルサレム郊外のジャベル・ムカバーの住民2人が、自爆テロ犯を移送した罪で裁かれて、有罪判決を受けた。6月30日に、ナブルスでのコマンドを襲撃した際に、イスラエル軍兵士はハマスの上級爆弾製造者であるムハニド・タヘルを殺害した。イスラエルによれば、彼はこの攻撃やその他の攻撃の背後にいた人物とした。
 このバスの黒焦げの残骸は、イスラエルの救援・遺体回収団体ザカ(Zaka)の主導でアメリカに輸送され、ニューヨークで隔年開催されるユダヤ人エキスポ・フェアで展示された。ザカは、ボランティアが爆弾の現場から血や肉の断片をかき集め、ユダヤ教の法律に則って埋葬する活動を行っている。ザカは、自分たちの活動に対する認識を高め、自爆テロの影響を示すことを目的とした。
 自爆テロのムハンマド・アルゴウルは「わたしの爆弾の破片が敵を殺し、自らも死ぬことはどんなに素晴らしことでしょう。殺人がしたいからではなく、パレスチナ人が他の民族と同じように生きることを望んでいるからです。次の世代のために死ぬのです。神が望むならば、不正義は消え、勝利はわれわれのものになる。」と3日前に遺書に記載した。イスラム教では、神のために自らを犠牲いる殉教者として戦うことがジハード(聖戦)と称賛している。パレスチナ人は、命を捧げる宗教的な新年から、不正義で追い詰めるイスラエル人を殺害することが正義となる聖戦とした。現場視察したイスラエルのシャロン首相は、パレスチナのテロにあらゆる手段で戦う」と宣告して202年6月18日深夜からパレスチナの西海岸に大規模なパレスチナ侵攻を決行した。

 



 

2021年5月15日土曜日

長崎原子爆弾が炸裂した1945年8月9日の翌日早朝に、カトリック中町教会の周囲は崩壊して焼失した。僅かに条件良く助かった長崎市民が集散して、身内と民家を探察していた。

長崎原子爆弾が炸裂した1945年8月9日の翌日の8月10日早朝に、カトリック中町教会の周囲は、被爆後に崩壊して焼失した。長崎原子爆弾の爆心地から南南東に約2.5mの地点であった。その地域は2度目にわたる火事で全焼して一面は焼土と化した。原子爆弾の熱射線により、可燃物に火がついて再燃して、大火に発展した。カトリック中町教会は1945年8月9日の長崎への原子爆弾の投下により、外壁と尖塔を残して焼失した。
 長崎市街の状況は他の空襲とは異なり、一瞬にして全市が爆風と、火災で焼土と化していた。火災の消火作業も、救援の為の医療班の活動も混沌とした。時間の経過を待つうちに、僅かに、立地条件の良く助かった長崎市民が集散して、身内と民家を探察していた。長崎原子爆弾は1945年8月9日午前11時2分に投下されて炸裂して、約120,820人が死傷して、約18,409戸が火災を受けた。
 1945年8月9日午前11時2分、長崎原子爆弾の炸裂により聖堂の窓という窓は壊れ、内部は 爆風によって崩壊した。数時間後の火災のため聖堂の屋根は焼け落ち、残ったのは十字架の立つ尖塔と聖堂の外壁だけであった。爆心地から南南東へ約2.6kmの距離あった中町教会は、フランス人女性の寄付をもとに、1981年8月から建築に着手して、1897年9月8日に、26聖人の殉教の300年祭を兼ねて献堂式を行った。聖堂はレンガ壁にセメント塗りの広壮なロマネスク様式の建物で、正門に尖塔の4面外部壁間に各1個ずつの大時計が設置された。
 カトリック中町教会は1945年8月9日の長崎への原子爆弾の投下により、外壁と尖塔を残して焼失した。1951年10月、その外壁と尖塔をそのまま生かして再建されました。そのため、貴重な被爆遺構として長崎市の指定を受けており、教会の門の側に銘版が設置されています。長崎市は長崎市中町周辺で殺害された方々のご冥福をお祈りし、二度とこのような惨禍が繰り返されないことを願って、銘板を設置した。
 陸軍司令部の報道部員であった山端庸介(1917-1966)は、8月1日に東京から8月6日に福岡市に赴任した。8月6日に新型爆弾の原子爆弾が投下されて炸裂した広島市を前日の夜に通過した。8月9日お昼頃に長崎市内の報道写真を命令された。8月10日午前3時に長崎市の北方の道ノ尾駅に到着した。長崎市に約12時間ほど滞在して約115枚の写真を記録した。8月12日に現像処理して、同僚の火野葦平から軍部が隠滅すると助言を受けて、そのまま東京に持ち帰った。敗戦後に9月9日にGHQは報道に厳しい検閲をかけた。約7年間も封印して保管して、1952年4月28日に対日講和条約が発効して、1952年8月6日にアサヒグラフ8月6日号に原子爆弾写真が公開された。

2021年5月14日金曜日

江戸時代から、日本の切腹には儀式を伴って、見物人の前で武士は白装束に身を包み、日本刀で切腹が終わっても即死しないと、介錯者に首を切断してもらった。

第二次世界大戦中から昭和天皇による終戦の詔書まで、一部の日本軍兵士が切腹の自殺を選択した。江戸時代から、日本の切腹には詳細な儀式を伴った。戦場での切腹だけでなく、見物人の前で切腹が行われた。武士は風呂に入り、白装束に身を包み、最後の食事やお酒の盃をして、日本刀と布は別の三方に置かれ、武士に渡される。日本刀を前に置き、武士は死の直前に辞世の句を書いて、切腹に望んだ(切腹の様子を色付け写真で再現した)。
 日本では、切腹(Seppuku)は武士の名誉を守るための最後の自殺の儀式と考えられていた。武士は、主君を守れなかったとき、主君を汚させてしまったとき、家の中で重大な不祥事を起こしてしまったときなどに、切腹で命を絶つことを選択する。日本人は、自分の人生に汚点を持つ侍は、侍の名に値しないと考え、その人生を終わらせるには切腹するのが一番だと考えていた。切腹は武士の罪滅ぼし、悔い改め、羞恥心を解消し、他人を冒涜し、忠誠心を証明する手段となった。切腹は重罪であったが、切腹を許して名誉を保持させた。
 平安時代から江戸時代にかけて、日本人の武士が他人の剣で捕らえられたり、死んだりするのは恥ずかしいことだと考えていた。平安時代の988年に貴族の藤原保輔が盗賊として逮捕されて、切腹で獄中で切腹で自殺したのが最初の記録である。腹切り(Harakiri)とも呼ばれる切腹は一般的な自死行為であった。切腹は、武士の忠誠心、親孝行、勇気など、最高の美徳を示す手段として、日本社会で広く認識されていた。明治時代以降の軍国主義の時代では、切腹は日本の大和魂の核心と美化された。切腹は、1873年(明治6年)に切腹は司法処分から廃止された。1882年に出された「軍人勅諭」の第一条には、兵士は必要に応じて自殺しなければならないと規定されていた。
 腹切りには、一本・二本・三本・十字の4種類の切方と、立ち腹・座り腹の2種類の肢位がある。最も一般的な切腹は、腹を切ることから始まり、切腹して出血しても即死しないと、自死しない切腹者は、首を伸ばして介錯者に首を切断してもらった。通常、首を切ることで最終的な死を実現する介錯者が協力して行った。切腹の核心は、早死にすることではなく、痛みを耐えることである。切腹までの複雑な手順を踏むことで、より儀式的な意味合いが強くなる。切腹の前に、武士は通常、白い着物に着替えて、好きな酒と料理を目の前に置いてから、切腹の儀式のすべてを自ら実行する。日本では、武士の自殺以外にも、女性も切腹を求められたことがある。多くは、夫が死んだときや、自分が重大な悪事を働いたときに起こる。彼女たちが切腹に使った包丁の多くは、結婚の際に自分の父親や新郎の父親から贈られた。
 日本人は愛国的な忠誠心を示す行為として切腹を選択した。明治天皇の埋葬の日である1912年9月13日に、日本陸軍大将であった乃木希典とその妻である乃木静子は、天皇への忠誠心を示すために、ともに自宅で切腹することを選択した。日本人はこの行為を偉業と呼んで狂喜して、明治時代には乃木希典を軍神として、また武士道の象徴として崇めた。第二次世界大戦中から昭和天皇による終戦の詔書まで、一部の日本軍兵士が切腹の自殺を選択した。日本政府が武士道としての切腹を正式に禁止したのは、1968年のことである。1970年には三島由紀夫らが市ヶ谷の自衛隊駐屯地で切腹した。日本の地下組織の裏社会では切腹が未だに潜伏している。

 


 

2021年5月13日木曜日

ペリリュー島の戦いにて、日本軍からの砲撃により、アメリカ軍兵士が飛行場の北側で殺害されたアメリカ軍兵士の死体は、右下肢が付け根から吹き飛ばされた。

ペリリュー島の戦いにて、日本軍からの砲撃により、アメリカ軍兵士がペリリュー島の飛行場の北側で殺害された。殺害されたアメリカ軍兵士の死体は、右下肢が付け根から吹き飛ばされた。

 太平洋戦争にて、アメリカ軍は1944年9月15日に、西太平洋のパラオ諸島のペリリュー島に上陸した。日本軍の猛烈な抵抗により甚大な犠牲を伴って、最終的に11月27日にアメリカ軍は島を占領できた。ペリリュー島への攻撃は、水陸両用の上陸時に、アメリカ軍史上最も多くの死者を出した。
 ペリリュー島には岩石でできた洞窟の連携があり、日本軍はトンネルでつなぎ、要塞として機能させた。日本軍は、アメリカ軍が侵入してきたときに、洞窟の真上から、真下にいるアメリカ軍に最大限の損害を与えた。
 ペリリュー島には、長さ6マイル、幅2マイルの火山島で、1万人以上の日本軍が駐留した。この島には飛行場があり、この脅威を無力化する水陸両用攻撃で侵攻した。1944年9月15日の朝に、アメリカ軍はペリリュー島の南西端に上陸した。上陸に先立ち、空母艦載機による空襲と爆撃が行われた。波状的に上陸し、島の海岸に集まり、内陸部に押し寄せた。
 しかし、日本軍は何日もかけてアメリカ軍の侵入を阻止し、大量の死傷者を出した。ペリリュー島には多くの洞窟があり、トンネル網が結び、日本軍は連合軍の砲撃からほとんど無傷であった。日本軍は、4日間もペリリュー島の南西部にある滑走路を防御した。
 アメリカ軍が北上して侵攻を開始すると、途中で鼻血の尾根(Bloody Nose Ridge)と呼ばれたウムブルゴル・マウンテンの岩肌に掘られた洞窟から、日本軍の重砲と小銃の一斉射撃の標的となった。その後の8日間で、アメリカ軍は太平洋戦争の中でも最も悲惨で犠牲の多い戦闘を行い、約50%の死傷者を出した。
 一方、アメリカ軍は、派遣された援軍が、9月24日に西側から鼻血の尾根を再攻撃した。連合軍は山上の日本軍の陣地を包囲できた。日本軍は持ちこたえて、10月中に多くの流血を経てようやく退却した。さらにアメリカ軍の援軍が到着し、11月25日に尾根はついに占領して、日本軍は降伏を拒否し、ほぼ全員が死亡した。
 ペリリューの戦いでは、アメリカ軍史上で水陸両用作戦で最も高い死傷率を出した。参戦した約28,000人のアメリカ軍兵士は、実に約40%が死傷し、戦死者1,800人、負傷者8,000人で合計約9,800人が犠牲になった。一方で、アメリカ軍は、ペリリュー島の攻略から、フィリピンの奪還と日本本島への侵攻という目的を達成した。

 


 

2021年5月12日水曜日

イスラエルとパレスチナは2021年5月12日に激しい攻撃を応酬して、パレスチナのガザ地区では約30人が殺害され、イスラエルのテルアビブで1人が殺害された。

イスラエルとパレスチナは2021年5月12日に激しい攻撃を応酬した。パレスチナのガザ地区では約30人が殺害された。イスラエルのテルアビブに対して、パレスチナから多数のロケット弾が発射された。現地メディアは1人が殺害された。イスラエル側はさらなる報復を加える体制である。中東のエルサレムでは、イスラム教の断食月ラマダンである4月中旬から、イスラエルの治安部隊と聖地を訪れるパレスチナ人との衝突が継続した。その衝突が、ガザ地区を実質的に支配するイスラム原理主義組織のハマスとイスラエルの間による攻撃が応酬された。ハマスは5月11日夜に、イスラエルのテルアビブの周辺に、約130発のロケット弾を発射した。多数のロケット弾はイスラエル軍が迎撃するも、その一部がテレアビブに被爆した。イスラエル人の女性1人が殺害され、複数人が負傷した。イスラエルのネタニヤフ首相は、全力で攻撃を続けて、ガザ地区のハマスなどに悲惨に報復すると宣告した。
 5月10日から偉大に攻撃の応酬は激化した。5月11日には、ハマスはイスラエル南部に約500発ものロケット弾を発射して、イスラエル市民2人が殺害された。イスラエル側も爆撃機による空襲などで対抗して、ガザ地区では子どもを含む約30人が殺害され、約200人が負傷した。アラブ連盟はイスラエルを非難して、トルコはイスラム圏が連帯してイスラエルを国際的に圧迫した。一方でアメリカは、イスラエルの自衛権を支持して、ハマスを非難した。イスラエルと将来のパレスチナ国家が共存する2国家共存して恒久的な平和を支持した。


ガザ地区からのロケット攻撃に応戦し、イスラエル軍が空爆を実施した(MAHMUD HAMS/AFP/Getty Images)

太平洋戦争の硫黄島の戦いで、日本軍兵士がアメリカ軍に殺害されて、元山第2飛行場の南西の砂の荒野に悲惨な死体が散在した。

太平洋戦争の硫黄島の戦いで、日本軍兵士がアメリカ軍に殺害されて、元山第2飛行場の南西の砂の荒野に悲惨な死体が散在した。殺害された死体は、仰向けに倒れ込み、周辺に脱げたヘルメットがあり、両膝は屈曲して両上肢が抱きつけて死後の硬直をしていた。アメリカ軍は、2月27日までに元山第2飛行場を奪取した。日本軍は、人工と自然の防御で埋め尽くされた硫黄島の戦場で防衛した。昼間は大砲でアメリカ軍を砲撃して、夜間にアメリカ軍の背後に回り込み、進路に地雷を仕掛け侵攻を妨害した。アメリカ軍は、大規模で圧倒的な攻撃と火炎放射器、梱包爆薬、手榴弾などで突破して掃討した。
 硫黄島の戦いは、第二次世界大戦中、日本の国土で行われた最初の大規模な戦闘であった。アメリカ軍には極めて激烈で甚大な犠牲を伴う戦闘となった。上陸してから約5日間の間に、毎日約1,200人もの戦傷者を伴った。上陸した約3分の1ものアメリカ軍兵士が戦死傷の犠牲を伴った。特に、アメリカ軍は、1945年2月19日の午前9時に海岸に上陸してから約50時間で約3,000,人を越えた犠牲を伴った。3月26日に、硫黄島の海岸の近くのアメリカ軍に対して、日本軍兵士はバンザイ突撃して全滅した後に、硫黄島はアメリカ軍が征服した。捕虜になって生存した日本軍はわずか約216人で、それ以外は全員が戦死した。
 硫黄島の戦いは、アメリカ軍側が日本軍側よりもより多くの犠牲を伴って、上陸部隊のうち約7,000人が戦死して、約19,000人が戦傷した。36日間にわたる硫黄島の戦いの戦死傷者数の詳細は次のように示唆された。硫黄島の戦いに参戦したアメリカ軍兵士数は約110,000人であり、その約19%未満の日本軍兵士数は約20,530人であった。アメリカ軍の戦死者数は約6,821人であり、日本軍兵士の戦死者は約19,900人に及んだ。アメリカ軍の戦傷者は約21,865人であり、日本軍の戦傷者は約1,033人であった。合計の戦死傷者の総計は、アメリカ軍が約28,686人であり、日本軍は約20,933人の犠牲を伴った。太平洋戦争でアメリカ軍側が、全体で約7,753人ほど犠牲者数が日本軍側よりも上回った太平洋戦争となった。硫黄島の死傷者数はアメリカ国民に衝撃を与えた。血まみれで野蛮な戦闘を非難する時間は与えずに、沖縄戦の侵略は硫黄島が陥落して4日後に始めた。硫黄島の戦いの先には、日本列島全体に大空襲を加えて、長く血なまぐさい復讐戦が、市民を無差別な悲惨な犠牲に巻き込んだ。




2021年5月11日火曜日

第一次世界大戦で、1915年6月30日にフランス北東部のマシジュの塹壕にてフランス軍が、ドイツ軍の攻撃と砲撃を受けた。フランス軍兵士が塹壕の中で戦士したフランス人兵士の死体を、布にくるんで運搬していた。

第一次世界大戦で、1915年6月30日にドイツ国境に近いフランス北東部のマシジュの塹壕にてフランス軍が、ドイツ軍の攻撃と砲撃を受けた。フランス軍兵士が塹壕の中で戦士したフランス人兵士の死体を、布にくるんで運搬していた。塹壕の中を前進すると、不毛な戦いでボロボロに疲れて負傷して倒れたフランス軍兵士が現れた。
 フランス軍だけでも、1914年から1918年の間に1日に約900人近くが死亡して、ドイツ軍は約1,300人が死亡した。その死亡者の約86%は戦場で、約14%は病気や捕虜に起因した。戦場にて、自力で帰れない戦傷者は、疲労や新たな傷、圧迫などにより、ほぼ確実に死に至る運命となった。胸部、胃部、頭蓋骨への銃弾の貫通などで悲惨な戦死傷であり、戦傷者の一人は、下顎を砕かれて血の玉のような顔となった。傷口には血液を固定するヨウ素が塗られた。静脈内輸液や輸血も処置されなかった。傷口を洗浄した後に、大きな既製の軍用包帯が巻かれた。泥だらけの手を洗うための水もろくになかった。
 戦傷者の多くは、夜間にしか救護できない。フランス軍の陣地近くにいた戦負傷者の一部を連れ戻すにも、約4日間の夜と多大な負担が必要であった。塹壕に取り残されたほとんどの兵士は既に死亡していた。
 兵士たちは約30キロの弾薬と食料を抱えて、夜中に音もなく第一陣で塹壕を登った。何時間もかけて行軍した後に、数キロに渡って塹壕が伸びて繋がった。塹壕は砲弾で穴だらけとなり、戦傷者の泣き声と爆弾の悲鳴が漂った。敵の塹壕の前で何の前触れもなく道に迷うと、機関銃に頭や胴体、足を差し出すことになった。
 塹壕の中でフランス軍兵士の主要な武器は小銃であった。銃剣付きで1.80メートルの銃剣は、陣地戦の狭い塹壕の中ではとても実戦的でなかった。兵士に最も恐ろしい試練である徒手格闘では、銃剣で撃てと命令が鳴り響くと、恐怖に慄いた。塹壕に到達したとき、歩兵たちは銃剣を操作することは至難であった。銃剣は手だで持って使えないので、兵士たちは塹壕用のシャベルと鉄木製のヘッドブレーカーで代用した。銃弾が飛び交う平原を横断しなければならない。敵に近づき、ひどい手打ちの戦いが始まった。ライフルはもう役に立たないので、シャベルで攻撃した。千鳥足となり、見覚えのない男たちの渦に飛び込み、もう聞き取れない。鼻と耳から血が出て、頭がおかしくなり、もう危険も見境なく、何も考えられなくなり、自分の生命を差し出しては途絶えた。

 


 

2021年5月10日月曜日

ベトナム人の青年が、1964年8月にベトコンが敷設した地雷で、乗っていたトラックが爆破されて殺害された。ベトナム人の母親は、死亡した息子の死体に涙して慟哭した。

ベトナム人の青年が、1964年8月にベトコンが敷設した地雷で、乗っていたトラックが爆破されて殺害された。ベトナム人の母親は、死亡した息子の死体に涙して慟哭した。その頃に、アメリカと南ベトナムは、北ベトナムに宣戦布告を準備していた。

 ジョンソン大統領は、1964年8月5日に「北ベトナムの攻撃には慎重に対応し、戦争を拡大するつもりはない」と発表した。空母タイコンデロガと空母コンステレーションからの戦闘爆撃機が、北ベトナムの4つの海軍基地と石油貯蔵庫を空爆した。推定25隻の魚雷艇が破壊されて、ヴィンの石油貯蔵施設の約90%が炎上した。アメリカ軍戦闘機2機が、北ベトナムの対空砲火に撃墜されて、2機が損傷した。北ベトナムの戦闘機の空中戦には遭遇しなかった。
 トンキン湾決議と北ベトナムの海軍基地の空襲は、南ベトナムの士気を高めたが、テイラー大使は国務省に、この効果は一時的なもので、カーン軍事政権を維持する可能性は少ないと警告した。1964年8月16日に、南ベトナムのカーン軍事政権は自分の政治的基盤が不安定であるために、独裁的な権限を得る新憲法を公布した。新設された軍事革命評議会は承認されたが、仏教徒には政治的野望に脅威を感じ、ベトコンのシンパや反体制派の学生たちに後押しされて、さらなる暴動を起こした。都市部の不満が農村部にも波及し、民衆の反感を買ったカーン軍事政権は、大統領職を辞し、憲法を破棄して、反体制派たちはすぐに軍事クーデターを起こしたが、反乱軍の陣地を爆撃すると脅して軍事クーデターは頓挫した。
 アメリカに独自性がなければ、南ベトナムの状況はさらに悪化すると考えた統合参謀本部は、トンキン湾事件により、北ベトナムの米軍への攻撃を意図的に誘発した。アメリカは北ベトナムへの空爆を開始する理由もできる。統合参謀本部は、共産主義者たちの軍事行動が、北ベトナムの破壊の度合いを決定した。ジョンソン大統領は、北ベトナムに圧力をかける限定的な措置を承認し、北ベトナムがアメリカ軍を攻撃する際には、一触即発の空爆を行うことに同意した。ジョンソン大統領は、北ベトナムがアメリカ軍部隊を攻撃した場合に、空襲で対応するを同意した。
 北ベトナムへの攻撃を開始した。ジョンソン大統領は、トンキン湾事件以来に中断していた哨戒活動を再開した。ジョンソンの警戒心とは裏腹に、北ベトナム沿岸でアメリカ海軍の哨戒活動や秘密工作が再開されると、すぐに新たな問題が発生した。9月18日の夜、トンキン湾を航行中の駆逐艦モートンとパーソンズは、レーダーから魚雷艇らしきものを発見したと報告した。両艦は約40分ほど操船していたが、追手から逃れることができず、発射した砲撃が命中した。敵と思われる船の映像はレーダー画面から消えた。さらに2回、レーダーに映った映像は、砲撃を受けて消えた。モートンとパーソンズの両艦は、合計で約200発以上の127mと100発の76.2mmの砲弾を発射した。レーダーに映った魚雷や砲撃は爆発していない。ジョンソン大統領はこの攻撃を疑問視して、北ベトナムには報復爆撃を行わなかった。ジョンソン大統領は、トンキン湾の状況が微妙になっと判断し、再び哨戒活動を停止して、南ベトナムの北ベトナム海域での海上活動の再開を延期した。10月4日には、厳重に管理された秘密の対北ベトナム作戦を継続することを許可した。
 ジョンソン大統領は自制して、その2日後にはトンキン湾事件が政治的にも功を奏して、大統領選で61%という空前の得票率でゴールドウォーターを破った。しかし、この勝利には暗い側面もあった。アメリカ国民はジョンソン大統領に強い支持を与えた。しかし、投票日に世論調査会社であるルイス・ハリスが行った調査では、ベトナム戦争への対応を大統領に高い評価を与えた人は42%にも満たなかった。12月初旬には、ベトナム戦争の評価の数字は38%にまで下がった。アメリカ国民は、ジョンソン大統領が、ベトナム戦争に勝つために決定的な軍事行動をとるのか、ベトナムから撤退するのかは定かではなかった。ジョンソン大統領が、ベトナムで軍事行動を起こさなければ、戦争に負けると疑問に思った。