2021年5月17日月曜日

イスラエル軍兵士による即決裁判により、2002年3月31日にパレスチナ自治政府のラマラで、壁の前のパレスチナ市民を選別して死刑を執行して、死体を運び出した。

イスラエル軍兵士による即決裁判により、2002年3月31日にラマラで、パレスチナ市民を選別して死刑を執行した。処刑されたパレスチナ人の死体が、壁に向かって座っているパレスチナ人の列から運び出された。残ったパレスチナ人は、壁を前に死刑を選別する尋問を受けた。パレスチナ人を集団処刑するために、イスラエル軍兵士が銃口を向けて後手をロープで繋がれた。即決裁判で壁の前で銃撃された。処刑を免れて生存したパレスチナ人は、強制収容所に連行されて拘禁されて尋問を受けて虐待や虐殺を受けた。

 パレスチナ暫定自治政府は、2002年3月31日にラマラで約30人のパレスチナ人が、イスラエル軍によって殺害されたと公表した。ラマラで、16歳から45歳の男性を掃討して検挙したパレスチナ人を、即決裁判により死刑者と拘束者に分離して処刑した。イスラエル軍は、3月31日にはラマラを閉鎖軍事地域と宣告して、パレスチナ人以外の外国人を排除して、極秘の言論統制を引いた。外国の報道機関を、支局から追い出して事務所を占領して情報統制を敷いた。

 ラマラでは、3月29日からイスラエル軍は外国の報道機関に向けても銃撃した。車に乗車して生後9ヶ月の男児を抱えていた21歳のパレスチナ人女性を射殺した。ラマラは、パレスチナ自治区ヨルダン川西岸地区中部に位置する都市である。エルサレムの北10kmに位置して、パレスチナ暫定自治の首都である。1967年の第三次中東戦争で、イスラエル軍がヨルダン川西岸とガザを占領した。占領されたラマラは、1987年12月の第一次インティファーダと2000年9月の第二次インティファーダの闘争場となった。2002年にイスラエル軍がパレスチナ自治区に軍事侵攻して、分離壁を設置した。

 1967年から鎮圧されていたパレスチナのガザ地区で1987年12月にパレスチナ人の2台の車に、イスラエル軍の2台のトラックが追突して、4人が死亡して7人が重傷となった。パレスチナ人の若者が、イスラエル軍兵士に対して投石を始めた。一気にパレスチナ市民にまで抵抗運動が拡大した。インティファーダは、アラビア語で占領を振り落とすことを示唆した。イスラエル軍は若者などのパレスチナ人を1993年までに約1,000も殺害した。2000年9月に、エルサレム旧市街のイスラム教の聖地を、イスラエル軍が占領した。第二次インティファーダが勃発して、パレスチナ人の若者が投石して、武装集団が小武器やロケット砲で攻撃をして、イスラエル軍が銃撃や砲撃をした。




2021年5月16日日曜日

エルサレムでのバス爆破事件は、2002年6月18日にハマスが実行したエグドバスに対する自爆テロで、19人が死亡、74人以上が負傷した。

エルサレム南部のパット交差点でのバス爆破事件(Patt Junction Bus bombing)は、2002年6月18日にエルサレムでハマスが実行したエグドバスにおける自爆テロで、19人が死亡、74人以上が負傷した。その死者のうち17人はギロ地区の住民で、通学途中の高校生も乗車していた。
 2002年6月18日午前7時50分に、ベツレヘム出身のパレスチナ人自爆テロリストが、エグドライン32Aバスにギロ地区から乗り込んだ。その直後にエルサレムのアラブ地区であるベイト・サファファに停車した時に、バスの正面から爆発した。彼の爆弾ベルトには、死傷者を最大化するために榴散弾用の金属球が含まれていた。
 パレスチナのイスラム教組織ハマスが犯行声明を出した。自爆テロの犯人は、ナブルスのアンナジャ国立大学のイスラム法専攻に通う22歳の学生、ムハンマド・アルゴウル・ハッザーと判明した。彼は、釘を詰めた爆薬を体に装着し、ギロからエルサレム中心街に向かう小学生や通勤者が行き交う朝のラッシュアワーにバスに乗り込んだ。爆発によってバスは地面から浮き上がり、屋根が剥がれ落ち、窓から死体が飛び散った。東エルサレム郊外のジャベル・ムカバーの住民2人が、自爆テロ犯を移送した罪で裁かれて、有罪判決を受けた。6月30日に、ナブルスでのコマンドを襲撃した際に、イスラエル軍兵士はハマスの上級爆弾製造者であるムハニド・タヘルを殺害した。イスラエルによれば、彼はこの攻撃やその他の攻撃の背後にいた人物とした。
 このバスの黒焦げの残骸は、イスラエルの救援・遺体回収団体ザカ(Zaka)の主導でアメリカに輸送され、ニューヨークで隔年開催されるユダヤ人エキスポ・フェアで展示された。ザカは、ボランティアが爆弾の現場から血や肉の断片をかき集め、ユダヤ教の法律に則って埋葬する活動を行っている。ザカは、自分たちの活動に対する認識を高め、自爆テロの影響を示すことを目的とした。
 自爆テロのムハンマド・アルゴウルは「わたしの爆弾の破片が敵を殺し、自らも死ぬことはどんなに素晴らしことでしょう。殺人がしたいからではなく、パレスチナ人が他の民族と同じように生きることを望んでいるからです。次の世代のために死ぬのです。神が望むならば、不正義は消え、勝利はわれわれのものになる。」と3日前に遺書に記載した。イスラム教では、神のために自らを犠牲いる殉教者として戦うことがジハード(聖戦)と称賛している。パレスチナ人は、命を捧げる宗教的な新年から、不正義で追い詰めるイスラエル人を殺害することが正義となる聖戦とした。現場視察したイスラエルのシャロン首相は、パレスチナのテロにあらゆる手段で戦う」と宣告して202年6月18日深夜からパレスチナの西海岸に大規模なパレスチナ侵攻を決行した。

 



 

2021年5月15日土曜日

長崎原子爆弾が炸裂した1945年8月9日の翌日早朝に、カトリック中町教会の周囲は崩壊して焼失した。僅かに条件良く助かった長崎市民が集散して、身内と民家を探察していた。

長崎原子爆弾が炸裂した1945年8月9日の翌日の8月10日早朝に、カトリック中町教会の周囲は、被爆後に崩壊して焼失した。長崎原子爆弾の爆心地から南南東に約2.5mの地点であった。その地域は2度目にわたる火事で全焼して一面は焼土と化した。原子爆弾の熱射線により、可燃物に火がついて再燃して、大火に発展した。カトリック中町教会は1945年8月9日の長崎への原子爆弾の投下により、外壁と尖塔を残して焼失した。
 長崎市街の状況は他の空襲とは異なり、一瞬にして全市が爆風と、火災で焼土と化していた。火災の消火作業も、救援の為の医療班の活動も混沌とした。時間の経過を待つうちに、僅かに、立地条件の良く助かった長崎市民が集散して、身内と民家を探察していた。長崎原子爆弾は1945年8月9日午前11時2分に投下されて炸裂して、約120,820人が死傷して、約18,409戸が火災を受けた。
 1945年8月9日午前11時2分、長崎原子爆弾の炸裂により聖堂の窓という窓は壊れ、内部は 爆風によって崩壊した。数時間後の火災のため聖堂の屋根は焼け落ち、残ったのは十字架の立つ尖塔と聖堂の外壁だけであった。爆心地から南南東へ約2.6kmの距離あった中町教会は、フランス人女性の寄付をもとに、1981年8月から建築に着手して、1897年9月8日に、26聖人の殉教の300年祭を兼ねて献堂式を行った。聖堂はレンガ壁にセメント塗りの広壮なロマネスク様式の建物で、正門に尖塔の4面外部壁間に各1個ずつの大時計が設置された。
 カトリック中町教会は1945年8月9日の長崎への原子爆弾の投下により、外壁と尖塔を残して焼失した。1951年10月、その外壁と尖塔をそのまま生かして再建されました。そのため、貴重な被爆遺構として長崎市の指定を受けており、教会の門の側に銘版が設置されています。長崎市は長崎市中町周辺で殺害された方々のご冥福をお祈りし、二度とこのような惨禍が繰り返されないことを願って、銘板を設置した。
 陸軍司令部の報道部員であった山端庸介(1917-1966)は、8月1日に東京から8月6日に福岡市に赴任した。8月6日に新型爆弾の原子爆弾が投下されて炸裂した広島市を前日の夜に通過した。8月9日お昼頃に長崎市内の報道写真を命令された。8月10日午前3時に長崎市の北方の道ノ尾駅に到着した。長崎市に約12時間ほど滞在して約115枚の写真を記録した。8月12日に現像処理して、同僚の火野葦平から軍部が隠滅すると助言を受けて、そのまま東京に持ち帰った。敗戦後に9月9日にGHQは報道に厳しい検閲をかけた。約7年間も封印して保管して、1952年4月28日に対日講和条約が発効して、1952年8月6日にアサヒグラフ8月6日号に原子爆弾写真が公開された。

2021年5月14日金曜日

江戸時代から、日本の切腹には儀式を伴って、見物人の前で武士は白装束に身を包み、日本刀で切腹が終わっても即死しないと、介錯者に首を切断してもらった。

第二次世界大戦中から昭和天皇による終戦の詔書まで、一部の日本軍兵士が切腹の自殺を選択した。江戸時代から、日本の切腹には詳細な儀式を伴った。戦場での切腹だけでなく、見物人の前で切腹が行われた。武士は風呂に入り、白装束に身を包み、最後の食事やお酒の盃をして、日本刀と布は別の三方に置かれ、武士に渡される。日本刀を前に置き、武士は死の直前に辞世の句を書いて、切腹に望んだ(切腹の様子を色付け写真で再現した)。
 日本では、切腹(Seppuku)は武士の名誉を守るための最後の自殺の儀式と考えられていた。武士は、主君を守れなかったとき、主君を汚させてしまったとき、家の中で重大な不祥事を起こしてしまったときなどに、切腹で命を絶つことを選択する。日本人は、自分の人生に汚点を持つ侍は、侍の名に値しないと考え、その人生を終わらせるには切腹するのが一番だと考えていた。切腹は武士の罪滅ぼし、悔い改め、羞恥心を解消し、他人を冒涜し、忠誠心を証明する手段となった。切腹は重罪であったが、切腹を許して名誉を保持させた。
 平安時代から江戸時代にかけて、日本人の武士が他人の剣で捕らえられたり、死んだりするのは恥ずかしいことだと考えていた。平安時代の988年に貴族の藤原保輔が盗賊として逮捕されて、切腹で獄中で切腹で自殺したのが最初の記録である。腹切り(Harakiri)とも呼ばれる切腹は一般的な自死行為であった。切腹は、武士の忠誠心、親孝行、勇気など、最高の美徳を示す手段として、日本社会で広く認識されていた。明治時代以降の軍国主義の時代では、切腹は日本の大和魂の核心と美化された。切腹は、1873年(明治6年)に切腹は司法処分から廃止された。1882年に出された「軍人勅諭」の第一条には、兵士は必要に応じて自殺しなければならないと規定されていた。
 腹切りには、一本・二本・三本・十字の4種類の切方と、立ち腹・座り腹の2種類の肢位がある。最も一般的な切腹は、腹を切ることから始まり、切腹して出血しても即死しないと、自死しない切腹者は、首を伸ばして介錯者に首を切断してもらった。通常、首を切ることで最終的な死を実現する介錯者が協力して行った。切腹の核心は、早死にすることではなく、痛みを耐えることである。切腹までの複雑な手順を踏むことで、より儀式的な意味合いが強くなる。切腹の前に、武士は通常、白い着物に着替えて、好きな酒と料理を目の前に置いてから、切腹の儀式のすべてを自ら実行する。日本では、武士の自殺以外にも、女性も切腹を求められたことがある。多くは、夫が死んだときや、自分が重大な悪事を働いたときに起こる。彼女たちが切腹に使った包丁の多くは、結婚の際に自分の父親や新郎の父親から贈られた。
 日本人は愛国的な忠誠心を示す行為として切腹を選択した。明治天皇の埋葬の日である1912年9月13日に、日本陸軍大将であった乃木希典とその妻である乃木静子は、天皇への忠誠心を示すために、ともに自宅で切腹することを選択した。日本人はこの行為を偉業と呼んで狂喜して、明治時代には乃木希典を軍神として、また武士道の象徴として崇めた。第二次世界大戦中から昭和天皇による終戦の詔書まで、一部の日本軍兵士が切腹の自殺を選択した。日本政府が武士道としての切腹を正式に禁止したのは、1968年のことである。1970年には三島由紀夫らが市ヶ谷の自衛隊駐屯地で切腹した。日本の地下組織の裏社会では切腹が未だに潜伏している。

 


 

2021年5月13日木曜日

ペリリュー島の戦いにて、日本軍からの砲撃により、アメリカ軍兵士が飛行場の北側で殺害されたアメリカ軍兵士の死体は、右下肢が付け根から吹き飛ばされた。

ペリリュー島の戦いにて、日本軍からの砲撃により、アメリカ軍兵士がペリリュー島の飛行場の北側で殺害された。殺害されたアメリカ軍兵士の死体は、右下肢が付け根から吹き飛ばされた。

 太平洋戦争にて、アメリカ軍は1944年9月15日に、西太平洋のパラオ諸島のペリリュー島に上陸した。日本軍の猛烈な抵抗により甚大な犠牲を伴って、最終的に11月27日にアメリカ軍は島を占領できた。ペリリュー島への攻撃は、水陸両用の上陸時に、アメリカ軍史上最も多くの死者を出した。
 ペリリュー島には岩石でできた洞窟の連携があり、日本軍はトンネルでつなぎ、要塞として機能させた。日本軍は、アメリカ軍が侵入してきたときに、洞窟の真上から、真下にいるアメリカ軍に最大限の損害を与えた。
 ペリリュー島には、長さ6マイル、幅2マイルの火山島で、1万人以上の日本軍が駐留した。この島には飛行場があり、この脅威を無力化する水陸両用攻撃で侵攻した。1944年9月15日の朝に、アメリカ軍はペリリュー島の南西端に上陸した。上陸に先立ち、空母艦載機による空襲と爆撃が行われた。波状的に上陸し、島の海岸に集まり、内陸部に押し寄せた。
 しかし、日本軍は何日もかけてアメリカ軍の侵入を阻止し、大量の死傷者を出した。ペリリュー島には多くの洞窟があり、トンネル網が結び、日本軍は連合軍の砲撃からほとんど無傷であった。日本軍は、4日間もペリリュー島の南西部にある滑走路を防御した。
 アメリカ軍が北上して侵攻を開始すると、途中で鼻血の尾根(Bloody Nose Ridge)と呼ばれたウムブルゴル・マウンテンの岩肌に掘られた洞窟から、日本軍の重砲と小銃の一斉射撃の標的となった。その後の8日間で、アメリカ軍は太平洋戦争の中でも最も悲惨で犠牲の多い戦闘を行い、約50%の死傷者を出した。
 一方、アメリカ軍は、派遣された援軍が、9月24日に西側から鼻血の尾根を再攻撃した。連合軍は山上の日本軍の陣地を包囲できた。日本軍は持ちこたえて、10月中に多くの流血を経てようやく退却した。さらにアメリカ軍の援軍が到着し、11月25日に尾根はついに占領して、日本軍は降伏を拒否し、ほぼ全員が死亡した。
 ペリリューの戦いでは、アメリカ軍史上で水陸両用作戦で最も高い死傷率を出した。参戦した約28,000人のアメリカ軍兵士は、実に約40%が死傷し、戦死者1,800人、負傷者8,000人で合計約9,800人が犠牲になった。一方で、アメリカ軍は、ペリリュー島の攻略から、フィリピンの奪還と日本本島への侵攻という目的を達成した。

 


 

2021年5月12日水曜日

イスラエルとパレスチナは2021年5月12日に激しい攻撃を応酬して、パレスチナのガザ地区では約30人が殺害され、イスラエルのテルアビブで1人が殺害された。

イスラエルとパレスチナは2021年5月12日に激しい攻撃を応酬した。パレスチナのガザ地区では約30人が殺害された。イスラエルのテルアビブに対して、パレスチナから多数のロケット弾が発射された。現地メディアは1人が殺害された。イスラエル側はさらなる報復を加える体制である。中東のエルサレムでは、イスラム教の断食月ラマダンである4月中旬から、イスラエルの治安部隊と聖地を訪れるパレスチナ人との衝突が継続した。その衝突が、ガザ地区を実質的に支配するイスラム原理主義組織のハマスとイスラエルの間による攻撃が応酬された。ハマスは5月11日夜に、イスラエルのテルアビブの周辺に、約130発のロケット弾を発射した。多数のロケット弾はイスラエル軍が迎撃するも、その一部がテレアビブに被爆した。イスラエル人の女性1人が殺害され、複数人が負傷した。イスラエルのネタニヤフ首相は、全力で攻撃を続けて、ガザ地区のハマスなどに悲惨に報復すると宣告した。
 5月10日から偉大に攻撃の応酬は激化した。5月11日には、ハマスはイスラエル南部に約500発ものロケット弾を発射して、イスラエル市民2人が殺害された。イスラエル側も爆撃機による空襲などで対抗して、ガザ地区では子どもを含む約30人が殺害され、約200人が負傷した。アラブ連盟はイスラエルを非難して、トルコはイスラム圏が連帯してイスラエルを国際的に圧迫した。一方でアメリカは、イスラエルの自衛権を支持して、ハマスを非難した。イスラエルと将来のパレスチナ国家が共存する2国家共存して恒久的な平和を支持した。


ガザ地区からのロケット攻撃に応戦し、イスラエル軍が空爆を実施した(MAHMUD HAMS/AFP/Getty Images)

太平洋戦争の硫黄島の戦いで、日本軍兵士がアメリカ軍に殺害されて、元山第2飛行場の南西の砂の荒野に悲惨な死体が散在した。

太平洋戦争の硫黄島の戦いで、日本軍兵士がアメリカ軍に殺害されて、元山第2飛行場の南西の砂の荒野に悲惨な死体が散在した。殺害された死体は、仰向けに倒れ込み、周辺に脱げたヘルメットがあり、両膝は屈曲して両上肢が抱きつけて死後の硬直をしていた。アメリカ軍は、2月27日までに元山第2飛行場を奪取した。日本軍は、人工と自然の防御で埋め尽くされた硫黄島の戦場で防衛した。昼間は大砲でアメリカ軍を砲撃して、夜間にアメリカ軍の背後に回り込み、進路に地雷を仕掛け侵攻を妨害した。アメリカ軍は、大規模で圧倒的な攻撃と火炎放射器、梱包爆薬、手榴弾などで突破して掃討した。
 硫黄島の戦いは、第二次世界大戦中、日本の国土で行われた最初の大規模な戦闘であった。アメリカ軍には極めて激烈で甚大な犠牲を伴う戦闘となった。上陸してから約5日間の間に、毎日約1,200人もの戦傷者を伴った。上陸した約3分の1ものアメリカ軍兵士が戦死傷の犠牲を伴った。特に、アメリカ軍は、1945年2月19日の午前9時に海岸に上陸してから約50時間で約3,000,人を越えた犠牲を伴った。3月26日に、硫黄島の海岸の近くのアメリカ軍に対して、日本軍兵士はバンザイ突撃して全滅した後に、硫黄島はアメリカ軍が征服した。捕虜になって生存した日本軍はわずか約216人で、それ以外は全員が戦死した。
 硫黄島の戦いは、アメリカ軍側が日本軍側よりもより多くの犠牲を伴って、上陸部隊のうち約7,000人が戦死して、約19,000人が戦傷した。36日間にわたる硫黄島の戦いの戦死傷者数の詳細は次のように示唆された。硫黄島の戦いに参戦したアメリカ軍兵士数は約110,000人であり、その約19%未満の日本軍兵士数は約20,530人であった。アメリカ軍の戦死者数は約6,821人であり、日本軍兵士の戦死者は約19,900人に及んだ。アメリカ軍の戦傷者は約21,865人であり、日本軍の戦傷者は約1,033人であった。合計の戦死傷者の総計は、アメリカ軍が約28,686人であり、日本軍は約20,933人の犠牲を伴った。太平洋戦争でアメリカ軍側が、全体で約7,753人ほど犠牲者数が日本軍側よりも上回った太平洋戦争となった。硫黄島の死傷者数はアメリカ国民に衝撃を与えた。血まみれで野蛮な戦闘を非難する時間は与えずに、沖縄戦の侵略は硫黄島が陥落して4日後に始めた。硫黄島の戦いの先には、日本列島全体に大空襲を加えて、長く血なまぐさい復讐戦が、市民を無差別な悲惨な犠牲に巻き込んだ。




2021年5月11日火曜日

第一次世界大戦で、1915年6月30日にフランス北東部のマシジュの塹壕にてフランス軍が、ドイツ軍の攻撃と砲撃を受けた。フランス軍兵士が塹壕の中で戦士したフランス人兵士の死体を、布にくるんで運搬していた。

第一次世界大戦で、1915年6月30日にドイツ国境に近いフランス北東部のマシジュの塹壕にてフランス軍が、ドイツ軍の攻撃と砲撃を受けた。フランス軍兵士が塹壕の中で戦士したフランス人兵士の死体を、布にくるんで運搬していた。塹壕の中を前進すると、不毛な戦いでボロボロに疲れて負傷して倒れたフランス軍兵士が現れた。
 フランス軍だけでも、1914年から1918年の間に1日に約900人近くが死亡して、ドイツ軍は約1,300人が死亡した。その死亡者の約86%は戦場で、約14%は病気や捕虜に起因した。戦場にて、自力で帰れない戦傷者は、疲労や新たな傷、圧迫などにより、ほぼ確実に死に至る運命となった。胸部、胃部、頭蓋骨への銃弾の貫通などで悲惨な戦死傷であり、戦傷者の一人は、下顎を砕かれて血の玉のような顔となった。傷口には血液を固定するヨウ素が塗られた。静脈内輸液や輸血も処置されなかった。傷口を洗浄した後に、大きな既製の軍用包帯が巻かれた。泥だらけの手を洗うための水もろくになかった。
 戦傷者の多くは、夜間にしか救護できない。フランス軍の陣地近くにいた戦負傷者の一部を連れ戻すにも、約4日間の夜と多大な負担が必要であった。塹壕に取り残されたほとんどの兵士は既に死亡していた。
 兵士たちは約30キロの弾薬と食料を抱えて、夜中に音もなく第一陣で塹壕を登った。何時間もかけて行軍した後に、数キロに渡って塹壕が伸びて繋がった。塹壕は砲弾で穴だらけとなり、戦傷者の泣き声と爆弾の悲鳴が漂った。敵の塹壕の前で何の前触れもなく道に迷うと、機関銃に頭や胴体、足を差し出すことになった。
 塹壕の中でフランス軍兵士の主要な武器は小銃であった。銃剣付きで1.80メートルの銃剣は、陣地戦の狭い塹壕の中ではとても実戦的でなかった。兵士に最も恐ろしい試練である徒手格闘では、銃剣で撃てと命令が鳴り響くと、恐怖に慄いた。塹壕に到達したとき、歩兵たちは銃剣を操作することは至難であった。銃剣は手だで持って使えないので、兵士たちは塹壕用のシャベルと鉄木製のヘッドブレーカーで代用した。銃弾が飛び交う平原を横断しなければならない。敵に近づき、ひどい手打ちの戦いが始まった。ライフルはもう役に立たないので、シャベルで攻撃した。千鳥足となり、見覚えのない男たちの渦に飛び込み、もう聞き取れない。鼻と耳から血が出て、頭がおかしくなり、もう危険も見境なく、何も考えられなくなり、自分の生命を差し出しては途絶えた。

 


 

2021年5月10日月曜日

ベトナム人の青年が、1964年8月にベトコンが敷設した地雷で、乗っていたトラックが爆破されて殺害された。ベトナム人の母親は、死亡した息子の死体に涙して慟哭した。

ベトナム人の青年が、1964年8月にベトコンが敷設した地雷で、乗っていたトラックが爆破されて殺害された。ベトナム人の母親は、死亡した息子の死体に涙して慟哭した。その頃に、アメリカと南ベトナムは、北ベトナムに宣戦布告を準備していた。

 ジョンソン大統領は、1964年8月5日に「北ベトナムの攻撃には慎重に対応し、戦争を拡大するつもりはない」と発表した。空母タイコンデロガと空母コンステレーションからの戦闘爆撃機が、北ベトナムの4つの海軍基地と石油貯蔵庫を空爆した。推定25隻の魚雷艇が破壊されて、ヴィンの石油貯蔵施設の約90%が炎上した。アメリカ軍戦闘機2機が、北ベトナムの対空砲火に撃墜されて、2機が損傷した。北ベトナムの戦闘機の空中戦には遭遇しなかった。
 トンキン湾決議と北ベトナムの海軍基地の空襲は、南ベトナムの士気を高めたが、テイラー大使は国務省に、この効果は一時的なもので、カーン軍事政権を維持する可能性は少ないと警告した。1964年8月16日に、南ベトナムのカーン軍事政権は自分の政治的基盤が不安定であるために、独裁的な権限を得る新憲法を公布した。新設された軍事革命評議会は承認されたが、仏教徒には政治的野望に脅威を感じ、ベトコンのシンパや反体制派の学生たちに後押しされて、さらなる暴動を起こした。都市部の不満が農村部にも波及し、民衆の反感を買ったカーン軍事政権は、大統領職を辞し、憲法を破棄して、反体制派たちはすぐに軍事クーデターを起こしたが、反乱軍の陣地を爆撃すると脅して軍事クーデターは頓挫した。
 アメリカに独自性がなければ、南ベトナムの状況はさらに悪化すると考えた統合参謀本部は、トンキン湾事件により、北ベトナムの米軍への攻撃を意図的に誘発した。アメリカは北ベトナムへの空爆を開始する理由もできる。統合参謀本部は、共産主義者たちの軍事行動が、北ベトナムの破壊の度合いを決定した。ジョンソン大統領は、北ベトナムに圧力をかける限定的な措置を承認し、北ベトナムがアメリカ軍を攻撃する際には、一触即発の空爆を行うことに同意した。ジョンソン大統領は、北ベトナムがアメリカ軍部隊を攻撃した場合に、空襲で対応するを同意した。
 北ベトナムへの攻撃を開始した。ジョンソン大統領は、トンキン湾事件以来に中断していた哨戒活動を再開した。ジョンソンの警戒心とは裏腹に、北ベトナム沿岸でアメリカ海軍の哨戒活動や秘密工作が再開されると、すぐに新たな問題が発生した。9月18日の夜、トンキン湾を航行中の駆逐艦モートンとパーソンズは、レーダーから魚雷艇らしきものを発見したと報告した。両艦は約40分ほど操船していたが、追手から逃れることができず、発射した砲撃が命中した。敵と思われる船の映像はレーダー画面から消えた。さらに2回、レーダーに映った映像は、砲撃を受けて消えた。モートンとパーソンズの両艦は、合計で約200発以上の127mと100発の76.2mmの砲弾を発射した。レーダーに映った魚雷や砲撃は爆発していない。ジョンソン大統領はこの攻撃を疑問視して、北ベトナムには報復爆撃を行わなかった。ジョンソン大統領は、トンキン湾の状況が微妙になっと判断し、再び哨戒活動を停止して、南ベトナムの北ベトナム海域での海上活動の再開を延期した。10月4日には、厳重に管理された秘密の対北ベトナム作戦を継続することを許可した。
 ジョンソン大統領は自制して、その2日後にはトンキン湾事件が政治的にも功を奏して、大統領選で61%という空前の得票率でゴールドウォーターを破った。しかし、この勝利には暗い側面もあった。アメリカ国民はジョンソン大統領に強い支持を与えた。しかし、投票日に世論調査会社であるルイス・ハリスが行った調査では、ベトナム戦争への対応を大統領に高い評価を与えた人は42%にも満たなかった。12月初旬には、ベトナム戦争の評価の数字は38%にまで下がった。アメリカ国民は、ジョンソン大統領が、ベトナム戦争に勝つために決定的な軍事行動をとるのか、ベトナムから撤退するのかは定かではなかった。ジョンソン大統領が、ベトナムで軍事行動を起こさなければ、戦争に負けると疑問に思った。





 

2021年5月9日日曜日

ニュルンベルク襲撃後のイギリス軍のハリファックス爆撃機が、その途上のデルメンホルスト近くのスティックグラスで墜落した機体の瓦礫と乗務員の死体が散乱した。

ニュルンベルク襲撃後のイギリス軍のハリファックス爆撃機が、その途上のデルメンホルスト近くのスティックグラスで撃墜されて墜落した。イギリス軍兵士の乗組員が死亡した死体と残骸が周辺地域に散乱した。この悲惨な戦場の残骸と死体を、ドイツ軍が撮影して公表した。1944年3月30日のニュルンベルグ空襲で、英国空軍(RAF)の795機の爆撃機が戦災に巻き込まれて、約95機が損失した。これは交戦した爆撃機の約11%以上にあたる。さらに多くの機体が戦闘機の砲撃や爆風で損傷しながら墜落した。イギリス軍の545人のイギリス人兵士が死亡し、約150人以上が捕虜となり、多数の負傷者の数は行方不明となった。ニュルンベルク空襲は、イギリス爆撃機が1回の作戦で失った航空機の最大の損失となった。目標としていたニュルンベルグの被害は比較的軽微であった。
 イギリス軍は、軽量の爆撃で、夜間に空襲爆撃をした。都市や町を目標にて、大量の爆発物で崩壊した。軍需産業や軍事施設は損害を受けたが、ドイツ人の戦意を喪失させるための民間人へ無差別のテロ爆撃であった。ドイツ軍のイギリスに対する電撃戦への復讐でもあった。1944年3月までに、イギリス軍の爆弾はドイツの都市に大量に投下された。マンハイム、ケルン、首都ベルリンなどの都市がすでに標的となって、煙を上げた瓦礫が大量に残され、多くの民間人が犠牲になった。
 約15万人の都市ニュルンベルクには、確かに軍需目標であったが、ドイツ軍の重要な戦力となる軍事都市ではなかった。戦前にヒトラーの有名な集会所として、ナチズムの精神的中心とみなした。ニュルンベルグ空襲は、近未来のノルマンディー上陸作戦前に、英国空軍による大規模な都市空襲の最後となる予定であった。
 ドイツ軍は、イギリス爆撃機がベルギー海岸上にくると、月明かりに照らされ、飛行機雲もからはっきりと確認した。ドイツ軍の200機以上の戦闘機が緊急発進して迎撃して、イギリス空軍は事実上の待ち伏せをされた。ドイツ軍の戦闘機は、イギリス軍の爆撃機の下から攻撃した。ドイツ軍の戦闘機により、爆弾を積んだイギリス軍の爆撃機の胴体を銃撃して、重い燃料を積んだ両翼を引き裂いた。ドイツ軍の夜間戦闘機は、イギリス軍の爆撃機を撃墜し続けた。目標を見失って雲の中に消えた。陣形が崩れ、横風により経路を外れた。近郊のラウフの農村地帯に一部が撃墜された。約150機の爆撃機が、搭載した爆弾を野原に捨てた。地上からの激しい対空砲火の下で、多くの爆撃機が街から離れた場所に墜落した。復路でも、イギリス軍の爆撃機は、ドイツ軍の戦闘機や対空砲の標的にされ続けた。編隊はバラバラになり、爆撃機は大きく散らばった。途上でいくつかの爆撃機が、戦闘による損傷か燃料切れで墜落した。
 ニュルンベルクの都市被害は、死者約133名(市内約75名)、負傷者約412名、全壊家屋は約198棟、損壊家屋は約3,804棟、ホームレスは約11,000名の犠牲とドイツ軍は記録した。火災の発生件数は、大規模火災は約120件、中・小規模火災は約485件で、産業被害は、鉄道が寸断され、3つの大工場が大きな被害を受け、約96の工業用建物が破壊され、軽微な被害を受けた。
 ニュルンベルグの最大の被害は1945年1月2日の空襲で発生し、約521機のイギリス軍の爆撃機が、約6,000発の高爆発性爆弾と約100万発の焼夷弾を市内に投下した。人口の約1,800人以上の死者を出し、約10万人が家を喪失した。ニュルンベルクの旧市街はほぼ完全に破壊され、街全体がひどく被害を受けました。1945年4月11日に空襲は終結して、4月20日にアメリカ軍がニュルンベルグを占領した。


 

2021年5月8日土曜日

アメリカは史上初の水中にて核爆発させるベーカーの核実験により、長崎原子爆弾と同型のプロトニウム原子爆弾による核爆発を、ビキニ環礁で1946年7月25日に実施した。

1946年7月25日に、アメリカは史上初の水中で原子爆弾の核爆発を実施した。太平洋のビキニ環礁で爆発したベイカー核実験は、これまでに行われた約2,000回を超える核爆発実験の中で5番目であった。これらの核実験の内では、わずかのベイカー核実験などは、主に船舶や潜水艦の被害を評価するために水中爆発で核実験された。1962年のスターフィッシュ・プライム核実験などの宇宙空間での少数の核実験を除いて、主に核実験の約4分3は地下で行われ、残りは大気中で行われた。
 ベイカー核実験の装置は、船舶の下から海面下の約30メートルに吊り下げられた。TNT火薬で約23キロトンに相当する原子爆弾を爆発させた。ベーカー核実験は、1946年7月1日の大気中のエイブル核実験に引き続き、どちらも長崎爆弾と同型のプロトニウム原子爆弾を使用した。水中爆発による船舶の艦隊と動物に対する核爆発の影響を評価した。ベイカーとエイブルの両方の核実験では、約42,000人の人員、約242隻の船舶、約156機の飛行機、およびビキニ環礁からの約162人の居住者全員の退去を伴う「クロスロード作戦」の一部であった。
 ベイカー核実験では、船に乗ったすべての豚とほとんどのネズミは、爆風または放射線被曝で死亡した。約57隻の標的船のうち、約8隻は爆発の直接の影響で沈没または転覆して、甚大な被害を受けた。残りの船のほとんどは高放射能を浴びた。甲板を拭き取りスプレーなどの除染にもかかわらず、高放射能が残存した。ベイカー核実験は、エイブルよりもかなり多くの放射能を発生した。残存した船のほとんどは、その後に過高熱で操作できず、沈没を余儀なくされた。
 ベーカー核実験とエイブル核実験の翌年の1947年になって、科学者と技術者の調査団がビキニ環礁での科学的再調査を実施した。明らかに放射能が太平洋の食物連鎖に入った。プランクトンは写真の乾板上で輝いた。それを食べた魚の腸管も同様であった。ビキニ環礁がエイブル核実験前の生態学的バランスに戻るかどうかは、短期的な調査では不詳となった。実験して約50年を経た半世紀後の1998年に、国際原子力機関(IAEA:International Atomic Energy Agency)は、23回の核実験が行われたビキニ環礁は、特別な放射能除染しない限り、再定住は困難であると勧告した。核実験と放射能汚染したビキニ、エニウェック島、ロン毛ラップ、ウトリック島の住民は、1980年代にアメリカ政府に損害賠償請求訴訟を提訴した。1986年の自由連合協定によって、核実験による健康と環境への影響に対して、アメリカ政府に補償請求されている。



Operation Crossroads (Baker Event 1946)

2021年5月7日金曜日

ソビエト軍の赤軍兵士が狙撃した直後に、挙上して右手からライフルを投げ出し死にゆくドイツ軍兵士を、ソビエト軍のカメラマンによって戦死の写真が撮影された。

第二次世界大戦の東部戦線にて、ソビエト軍の狙撃兵によって、ドイツ軍兵士は立位で射撃された。死にゆくドイツの兵士は、両上肢を挙上して右手からライフルを投げ出した。東部戦線の最前線でドイツ軍兵士は、人生を終わらせる弾丸を受け取って戦場に倒れ込んだ。ソビエト軍の赤軍の狙撃兵がライフルを発射した直後に、ソビエト軍の最前線のカメラマンによって戦死の写真が撮影された。
 第二次世界大戦でナチス・ドイツ軍の最大の侵略戦となったバルバロッサ作戦が1941年6月22日に始まった。ソ連の国境を越えたドイツ軍は、約60万台の車両と約75万頭の馬に支えられた約400万人のドイツ軍兵士が、長さ約3,000キロに及ぶ最前線を攻撃した。侵略から最初のわずか7日間で、ナチス・ドイツ軍は、ソビエト領土に約300kmも侵攻して、モスクワまでの約1/3の距離を侵略した。電撃戦は当初は順調であり、ナチス・ドイツ軍の攻撃は、ソビエト軍は脅威で圧倒されて、初期のソビエト軍の損失は壊滅的であった。最も悲惨なのは人的損失であった。1941年12月までに、ソビエト軍は軍隊全体で約270万人の兵士が殺害されて、約330万人が捕獲された。失った損失は、ドイツ軍兵士1人につき、ソビエト軍兵士は約20人も損失した。ソ連侵攻した最初のわずか9日間で、ドイツ空軍は、空中戦で約1,400機、地上戦で約3,200機のソ連空軍全体で約40%の戦闘機を損失した。ナチス・ドイツ軍が損失した戦闘機は、わずかに約330機であった。さらに1941年8月中旬までに、ソビエト軍は約3,300両の戦車を崩壊したのに対して、ナチス・ドイツ軍はわずか約220両のみを損失し、驚くべき約15:1の損失の比率であった。

 1941年末からソビエト軍は、ナチス・ドイツ軍の電撃戦から回復して、彼らの抵抗力は固まり、ドイツの損失が次第に積み重なった。1941年8月までにナチス・ドイツ軍が約46,000の損失が、1941年12月までに約25%が戦死傷した。1941年11月までは、ソビエト軍は極度に悲惨な状況となった。ナチス・ドイツは戦争に勝利したと喧伝していた。約200万人のソビエト軍兵士の捕虜、約22,000個の大砲が押収されて破壊され、約18,000台の戦車が破壊され、戦闘機14,500機が撃墜された。ナチス・ドイツ軍は首都モスクワからわずか約16kmの距離に迫った。ソビエト軍にはわずか約9万人の兵士と約150両の戦車が残存していた。首都モスクワの陥落は目前と見なして、1941年11月7日に、スターリンはモスクワの赤の広場で軍事パレードを挙行した。

 1941年12月に入り、気温は-35度にまで急降下した。ロシアでも通年よりも異常に極寒となった。ドイツ軍は極寒の準備が不十分となり、凍傷・飢餓・病気などの13万人もの死傷を伴って、最前線のナチス・ドイツ軍の軍隊を弱体化させられた。1942年1月から補給と設備されたソビエト軍の軍隊は、疲れ果て弱体化したナチス・ドイツ軍を約100kmから200kmも西部に押し戻した。第二次世界大戦で、ナチス・ドイツ軍が被った最初の大敗と撤退となった。最も血なまぐさい戦いとなったモスクワの戦いで約100万人のドイツ軍兵士が命を落とした。

2021年5月6日木曜日

ロシア内戦において白軍は、赤軍を編成している労働者と農民らの民間市民を大量虐待と大量虐殺した。赤軍と白軍は約700万から約1,200万人の死傷者を出した。

ロシアで1917年の十月革命後に、赤軍と白軍とのロシア内戦(Russian Civil War)が勃発した。白軍は、赤軍を編成している労働者と農民らを虐殺した。ロシア帝政時代に農奴として虐げられた農民らは、白軍によって再び以前の帝政が戻ることを警戒した。内戦中に推定約700万から約1,200万人の死傷者があり、そのほとんどが民間市民であった。ロシア内戦中は、赤軍と白軍、両軍の手により多くの民間市民は難民となり一家離散を余儀なくさた。片方の軍が残虐行為を働くと、もう片方もそれに劣らない報復行為に及んだ。さらに赤軍には、1917年12月に誕生した秘密警察チェーカーが、令状も無く無制限に市民を逮捕して、無実の罪で処刑した。
 白軍は、1917年十月月革命以降のロシア革命期における革命側の赤軍に対する反革命側の旧体制派軍隊の総称である。ロシア内戦において白軍と赤軍は戦闘を繰り広げた。白軍は、レーニンが率いたボリシェヴィキによる十月革命に対抗した。白軍の内訳は旧ロシア帝国軍であり、白軍派コサック軍から成り、共和制派が多く、各地に共和国を建国して、イギリスとフランスから支援されてソビエト共産主義者の赤軍に対抗した。1920年11月にペレコープ=チョーンガル作戦で敗れ、多くの白軍兵士と市民は、フランスやアメリカ合衆国などに亡命した。
 赤軍は、レーニンが率いたボルシェビキにより、トロツキーが1918年1月に労働者と農民で編成した。ドイツ帝国に広大な領土を割譲して、多額の賠償金を支払う条件を呑んで、1918年3月にブレスト・リトフスク条約に調印した。多くの旧体制の反対派らは、1918年7月にロシア・ドイツ大使を暗殺して蜂起した。1918年8月30日にレーニン暗殺未遂事件が発生した。レーニンが、モスクワの工場の集会での演説を終え、自動車に乗りかかったとき、3発の銃声が轟き、うち2発が肩と肺に当たった。ボリシェヴィキは、これを起因に1918年9月5日から赤軍による「赤色テロル」の内戦を布告して、多くの旧体制の反対派への大規模な弾圧と処刑を開始した。
 ロシア内戦を赤軍が終結させた後に、赤軍のボリシェビキがロシアの国土を再統一できたものの、荒廃と破壊の極致にあった。1920年から1921年の旱魃でさらに困窮した。市場経済廃絶のために飢餓地域から逆に食料を強制的に徴発して、多くの餓死者を出した。十月革命の勃発からわずか数年の内に、およそ約800万人の民間市民が死亡した。ロシア内戦の残虐行為により、民間市民は非人間的行為に巻き込まれて大量虐待と大量虐殺された。


 

2021年5月5日水曜日

イギリス軍のブリストル複葉機の戦闘機が、1916年の空中戦中にドイツ軍のフォッカー戦闘機と激突して、両機ともに墜落した写真が1931年に偽造された。

イギリス軍のブリストル複葉機の戦闘機が、1916年の空中戦中にドイツ軍のフォッカー戦闘機と激突して、両機ともに墜落して戦死した写真が偽造された。1931年に、グラディス・モード・コックバーンランゲ将校は、第一次世界大戦でイギリス空軍のパイロットとして空中戦の衝撃的な写真を発表した。航空記録の中で最も鮮やかにリアルと称賛された。飛行機に取り付けたカメラから撮影したとされた。写真は1932年以降に、空中戦での戦死-パイロットの戦闘日誌として、空中戦の写真がイギリスの新聞等に掲載された。一部の画像はブックカバーにも使用され、多くの人が驚異的な画像を購入し熱狂した。イギリスでは戦闘機のパイロットは第一次世界大戦の騎士として描かれて、多くが人気のあるヒーローになった。しかし、1984年に至って、アメリカのスミソニアン国立航空宇宙博物館が、死亡した友人から空中戦の画像の寄付を受け取って、それが偽造であることが発覚した。
 第一次世界大戦から戦闘機が至近距離の空中戦(dog fligt)で戦闘した。1913年にメキシコ革命で最初に空中戦が実戦された。第一次世界大戦で、航空機は初期は偵察用であった。次第に至近距離での航空戦の空中線の戦闘が頻発した。さらに、敵機に対して、機関銃などで銃撃を始めた。第一次世界大戦における最初の航空機による空中戦は、1914年8月にオーストラリア=ハンガリー帝国がセルビアとのツェルの戦いで発生した。
 第一次世界大戦において、1914年10月にフランス軍が複葉機の翼に初めて機関銃を装備した戦闘機が、フランスの上空でドイツ軍の航空機を撃墜した。第一次世界大戦中の1915年7月にはドイツ軍の機首に機関術を装着したフォッカー戦闘機が猛威ををふるってフォッカーの懲罰と呼称された。
 連合軍は、1916年1月に新型戦闘機によって再び制空権を確立し、ソンムの戦いに間に合わせ、フォッカーの懲罰も終結した。1916年8月までにドイツ軍は専門の戦闘機隊を編成して、再び制空権を得た。1917年4月にはイギリス陸軍航空隊が、甚大な犠牲を伴って血の4月と呼ばれた。次第に、連合軍は航空戦力を量と質ともにドイツ軍を圧倒したが、終戦までドイツ軍はエンジンの軍需産業により最新鋭の戦闘機の開発競争では優位にたった。


 

2021年5月4日火曜日

第二次世界大戦に連合軍のカッセルに対する無差別大空襲により、ドイツ人住民の犠牲者の死体は広場や街路に集積して配置された。

第二次世界大戦にてドイツ中部のヘッセン州カッセルに対して、1942年2月から1945年3月にかけて連合軍は約40回もの戦略爆撃攻撃をした。大空襲によるカッセル住民の犠牲者の死体は広場に配置された。通りや廃墟の地下室からすべてのカッセル市民の死体を、街路に集積するのに数週間もかかった。アメリカ軍は、1945年4月3日にカッセルを占領した。カッセルには1939年には人口約23万6000人が、約5万人しか残存していなかった。旧市街の中心部の少なくとも90%が廃墟になった。ドイツ国民の士気をくじく名目の無差別の集中爆撃は、テロ爆撃であると戦後に非難された。爆撃された建物と爆撃されていない建物への広範囲にわたる掃討により荒廃した。
 特に1943年10月22日から23日のイギリス軍による大空襲が最悪の襲撃で、カッセル市内中心部の大部分が破壊されるも、都市の工業地帯は残存していた。標的の犠牲になったのはカッセル市民だけであった。約15万人の住民が爆撃されて、少なくとも約10,000人が死亡した。最も激しい空襲により火災が約7日間も燃え上がった。約569機の爆撃機が、カッセル市内の旧市街に約80分間にわたり、約1,800トンの爆弾と約460,000本のマグネシウム製の焼夷弾を投下した。
 爆発の圧力波により、屋根、窓、ドアが引き裂かれた。多くは木製の建物は、空から降り注ぐ爆弾により、約15分以内に炎上した。カッセルには、火が広がりやすい狭い道があった。最高の気温は約1500度にも達し、風速は約160km/hに達した。すべての酸素が空気から吸い出され、地下室の最初の安全に到達した住民はすぐに窒息死した。ほとんどの住人は、居住していた建物の地下室に逃げ込んでいた。換気ポンプが逆に外界の火炎や煙を吸い込んだ。多くの住民は地表への出口を見つけれず、迷った狭い部屋や廊下で混沌とした地獄状況をもたらした。