2020年4月23日木曜日

日本軍はシンガポールのインド系シーク教徒の囚人を目隠して、標的訓練としてあぐらを組んだ囚人を銃殺して射殺した。

日本軍兵士が死刑をする準備が整う前に、1942年にシンガポールのインド系シーク教徒の囚人を整列させて待機させた。土面の上に目隠しをして、標的訓練とするための立て札の前に座らせた。日本軍は、伝統的なシーク教徒の祈祷するあぐらを組んだ囚人を銃殺して射殺した。その後に地面に散乱した囚人の死体を検死して、確実に死刑にするために銃剣を胸部に突き刺した。日本軍がシンガポールを1945年2月15日に陥落した時に、在住のシーク教徒のインド人兵を捕虜にして強制収容した。約4万人のうちで約3万人を日本帝国のインド軍(INA)に編入して、一部は太平洋諸島に派遣された。拒否したインド人は強制収容所で拷問から虐待と虐殺された。一連の写真は1945年にイギリス軍がシンガポールに侵入して、植民地支配に戻ったときに、1945年9月17日に日本軍の記録から発見された。第二次世界大戦中に、何万人ものイギリス人とイギリス軍兵士が、日本軍の捕虜収容所で飢餓、強制労働、拷問または病気などで死亡した。
 最も残酷な扱いは、さまざまな残忍な手段で大量虐殺された中国人に特に向けられた。殺害は、射殺、生き埋め、銃剣による刺殺、斬首、医学実験、およびその他の方法を含む多くの方法で殺害した。3回の大量虐殺で約5万人の華人が殺害された。一例として、1942年2月20日に、チャンギ海岸に約70人の華人が連行され、タナメラ海岸に約120人が、一斉射撃で虐殺された。
 ナチス・ドイツ軍のユダヤ人の大量虐殺は主に親衛隊が担当したが、日本軍の大量虐殺は正規の日本軍兵士が担当した。日本は、1929年の捕虜の待遇に関するジュネーブ条約に署名しても批准しなかった。ハーグ条約(1899年および1907年に署名)の条項が、戦争の捕虜の使用の禁止、化学兵器、強制労働に関する禁止、女性と子どもに対する虐待の抑制、人身売春やその他の契約を禁止を、日本は1912年に公布した。



2020年4月22日水曜日

国連の軍縮会議に対して、スイスのジュネーブにある国連欧州本部前で、軍縮会議の無能ぶりに若い女性が自ら焼身自殺して抗議した。

国連の軍縮会議に抗議して、若い女性が焼身自殺した。1978年10月2日にスイスのジュネーブにある国連欧州本部前で、軍縮会議の無能ぶりに若い女性が自ら火あぶりして猛烈に残酷にも抗議した。
 ジュネーブ軍縮会議は、軍縮条約を交渉する唯一の多国籍機関でも、核兵器や先端兵器を保有する大国と関連の諸国が、交渉の停滞を歓迎している。国連の軍縮会議は1996年の包括的核実験禁止条約(CTBT)の採択失敗から現在まで全く交渉すらできず、交渉に深い失望と行き詰まりを繰り返している。
 国連総会は、1952年1月の決議502(VI)により、安全保障理事会の下に国連軍縮委員会を設置し、軍縮の質問に関する一般的な権限を与えました。しかし、それは1959年以降は時折に会合しただけであった。1978年6月に、国連総会は軍縮に関する最初の特別会合(SSOD-I)を召集した。最終文書は、まだ満たされていないとして、軍縮の目標、原則、優先事項を定めた議題のみを概説で終始した。軍縮分野の国連の中心的役割と主要な責任が強調され、核兵器は世界が直面する危険のリストの最上位に置かれた。SOD-Iにより、国連のすべての加盟国で構成される総会の補助機関として、後継軍縮委員会(UNDC: United Nations Disarmament Commission)が設立された。UNDCは審議機関として設置されて、軍縮の分野におけるさまざまな問題を検討および勧告し、関連する決定と特別部門の勧告を監査する機能を備えた。
 国連総会は軍縮(SSOD: Special Session on Disarmament)に特化した3つの特別会議を開催した。1978年に初めてSSOD-I、1982年にSSOD-II、1988年にSSOD-IIIがあった。1978年7月1日にSSOD-Iのみが最終的な合意文書の策定ができた。1995年以来、総会は軍縮に関する第4回目の会議を求めた。その後、2003年に小委員会を設立して、武装解除に特化した総会の第4回特別総会(SSOD-IV)の準備委員会を設立する可能性を話し合った。国連総会決議A/61/60によって、2007年に総会はSSOD-IVに関する目的と議題を検討するためにSSOD-IVに関して公開する小委員会を設立した。小委員会は、2007年6月25日から29日まで、2007年7月30日から8月3日まで、および2007年8月27日から31日まで、チリのアルフレドラベ大使のもとで会合した。国連総会決議65/66に従い、2016年から2017年の間に3回の実行委員会が開催された。SSOD-IVの準備委員会の設立の可能性を含めて、目的と議題を検討するために、別のOEWG(Open-Ended Working Group:安保理改革に関する作業部会)が、エクアドルのフェルナンドルケのリーダーシップの下で会合した。OEWGは、総会への送付に関するSSOD-IVの目的および議題に関する勧告を合意できた。その準備委員会の設置の問題は、さらなる議論のために総会に引き戻された。



2020年4月21日火曜日

レニングラード市民の疲れきった母親と娘が、そりにシュラウドに縫い込まれた肉親の死体を連れて運搬した。

ドイツ軍に封鎖されたレニングラード市民の疲れきった母親と娘が、そりにシュラウドに縫い込まれた肉親の死体を連れて運搬した。凍った地帯には市民らの死体を埋められなかった。路上で発見された死者は、その他の死体の上に積み上げられた。死体は市内の通り、公園、その他の空き地に蓄積された。最初の封鎖冬の間に、レニングラードのレーピンス通りはかなり悲惨な死体の集積場となった。その地域は戸外の死体安置所に変わった。
 ソビエト軍が、1944年1月27日にレニングラードからドイツ軍を駆逐して、レニングラード地域のほぼ全体を解放した。ドイツ軍によりレニングラードが約872日もの長い期間にわたり封鎖された。ナチス・ドイツ軍による封鎖中に、在住していた大部分の市民が親戚または友人を失った。ナチス・ドイツ軍が占領した地域では、ドイツ軍に囲まれた街で約60万人以上が恐ろしい飢餓で死亡した。
   レニングラード(現在のサンクトペテルブルク)の包囲はほぼ2年半続き、推定で約1,000,000人の都市住民の命を奪った。1941年9月8日にドイツ軍が都市の包囲を完了してから始まった。電撃攻撃がモスクワに向かって進撃中に、レニングラードを迂回して、都市を直接に攻撃するのではなく、レニングラードを封鎖して絞殺する戦略を行った。
 空腹と寒さは都市民の最大の敵となった。9月末までに、都市の石油と石炭の供給は枯渇した。残酷なロシアの厳寒の冬期が近づくと、水道管が凍って破損して、住民は水を飲むのが困難となった。食料供給が削減され、11月までに個々の配給量は成人が必要とする1日の量の約1/3までに低下した。都市内の犬、猫、馬、ネズミ、カラスなどは多くの食卓のメインコースとなり姿を消した。人間同士の人食いの報告も出始めた。数千人が死亡して、11月には約11,000人、12月には約53,000人にも急増した。レニングラードの悲惨をさらに悪化させるために、ドイツ軍は絶え間なく都市を空爆と大砲攻撃で砲撃した。
 逆に、ロシアの冬がラドガ湖を都市の東側を凍らせて、トラックのキャラバンがわずかな量の食料と物資を運ぶライフラインを創造した。都市の弱者や高齢者の何千人にも避難経路を提供した。死者と難民による人口の減少は、残りの住民への負担を減らした。その後に食料配給が増加し、都市の状況は安定した。1944年1月27日までには、赤軍はドイツ軍をレニングラードを越えて排斥して、都市が包囲網が終焉した。



2020年4月20日月曜日

ハンガリー、1944年秋にプタペストのゲトーで矢十字党に虐殺されたユダヤ人の子供たちの死体が散乱した。

ハンガリー、1944年秋にプタペストのゲトーで虐殺されたユダヤ人の子供たちの死体が散乱した。ハンガリーの民族主義であり反ユダヤ主義である矢十字党による犠牲者となった。ゲトーのユダヤ人には、食物の持ち込みは禁止され、廃棄物は収集されず、死体が路上に積み上げられ、建物は過密状態になり、伝染病や病気などが蔓延した。
 ナチス・ドイツ軍が1944年3月19日にハンガリーを占領した後に、同盟関係にあったハンガリーの首都ブダペストだけは1944年7月から10月まで、ユダヤ人はまだ比較的安全に居住できた。しかし、東部戦線におけるドイツ軍の劣勢から、ホーシー政権はハンガリーとドイツの同盟関係を終結し、連合国と和平を結ぶと10月15日に発表した。ドイツ軍はこの動乱を阻止し、ホーシー政権を打倒して、ファシストであり激しく反ユダヤ的であったアロー・クロスである矢十字党に権力を与えた。矢十字党のシンボルマークは、ナチス・ドイツの鉤十字に類似させていた。矢十字党はすぐにブダペストに恐怖の支配をもたらした。約3ケ月以内にブダペスト自体で約8万人のユダヤ人が殺害された。約2万人のユダヤ人はドナウ川の周辺で靴を脱がされて射殺された後に、川に放り込まれた。数千人のユダヤ人を強制収容するために、オーストリアの国境まで死の行進を強要された。
 1944年12月にソビエト軍がプタペストを包囲している間に、約70,000人のユダヤ人が20以上のゲットーに強制収容された。ブタペストのゲトーは、1944年11月29日から1945年1月17日にソ連軍に解放されるまで存在した。数千人のユダヤ人が風邪、厳寒、病気、伝染病、飢餓で死亡した。矢十字党の恐怖政治の間であっても、ブダペストの数万人のユダヤ人が、救援救助委員会と他のユダヤ人活動家、特にシオニストの青年運動員によって救済された。ハンガリーは1945年4月までにソビエト軍によって解放されました。最大568,000人のハンガリーのユダヤ人に対するホロコーストの間に死亡した。ナチス・ドイツ軍は、大量虐殺の期間中に、強制収容所、強制労働、枢軸国軍などで、ハンガリー国内で約568,000人ものユダヤ人を虐殺した。



2020年4月19日日曜日

ドイツ空軍の空襲による一部のイギリス人生徒の死体は被爆したロンドン近郊の学校から回収された。

ドイツ空軍の空襲による一部のイギリス人生徒の死体は被爆したロンドン近郊の学校から回収された。空襲された翌日の1943年1月21日付けの写真には「発禁」とマークされた。一般的にイギリスの写真は、このように大空襲されても、生の死体の写真を撮影させずシーツに包まれてから撮影された。そのような戦争写真は戦争中には出版されない発禁があった。
   ドイツ空軍によるサンドハーストロードスクールへの爆撃は、1943年1月20日水曜日に空襲された。ロンドン南東部のキャットフォードにあるミナードロードの学校が深刻な被害を受けた。ドイツの戦闘爆撃機が午後12時30分に、1発の約500キログラムの爆弾を学校に投下した。約38人の学童の子供と約6人の学校職員が爆死した。その内に学校では約32人が死亡して、さらに6人は搬送先の病院で死亡した。食事時間のため、食堂で24人の子供と2人の職員が死亡した。」さらにその他に約60人が負傷した。多く死体は瓦礫の下に何時間も埋められたままであった。まず地元の民間防衛隊が到着してから、その後に警察隊が処置をした。
 ドイツの空軍の空襲は、ドイツが占領したフランスの飛行場から28機体の爆撃機が空襲した。ドイツ軍は、あらゆる標的を無差別に攻撃するテロ襲撃と呼称した。学校を攻撃したドイツ軍兵士が故意に学校を標的にしたのか、単に大きな工場を攻撃したのかを調査された。報告書では、大規模な建物が襲撃で標的にされて破壊され、アパートのブロックとした。報復襲撃であるテロ襲撃の3日前に、イギリス王室空軍(RAF)がドイツの首都ベルリンを空襲した。
 警告システムの非効率性のために、ドイツ空軍の爆撃機が到着するまでに空襲サイレンは鳴らなかった。多くの子供たちは昼食を食べていて、空襲は食事していた学校の地域を爆破した。目撃者の報告では、攻撃側の飛行機は最初に学校を通過して、次に2回目に爆撃した。別の爆撃機が遊び場と地元の通りを破壊した。同じ襲撃で、ルイシャムで4つの弾幕バルーン気球が破壊され、シデナムの大型ガスタンクとさらにデプトフォードの発電所には3回の空襲が直撃した。グリニッジの王立海軍兵学校の大統領官邸にも空襲された。


2020年4月18日土曜日

広島原子爆弾で背中と両腕の皮膚が焼けただれて垂れ下がるケロイドの被爆者が、原爆一号として世界に初めて紹介された。

広島原子爆弾が炸裂した爆心地より約1,500mの広島市西白島町で被曝した。広島電鉄の職員であった吉川清は、夜勤明けで自宅の玄関に到着した瞬間に、広島原子爆弾による爆風と熱線を後頭部から背中に受けて自宅の玄関で昏睡した。重傷となり背中と両腕の皮膚が焼けただれて垂れ下がった。広島市北部の可部町で約70日間にわたり療養した。その期間には、生死を漂うも微かに生命を保持できた。
 1946年春季頃から原爆症が専門である広島赤十字病院に入院した。約5年間にわたり、頸部、両手首、両肘などのケロイド拘縮に対して約16回もの手術を受けた。アメリカから広島原子爆弾の視察に来日したアメリカ有名雑誌のライフとタイムズの2人の記者が、1946年に広島日赤病因に視察に来て、原爆症の取材と撮影をした。「このような身体で生きているのは奇跡に近い。原爆生存者の中でナンバー・ワンである。"No.1 Miracle Atomic Bomb Victim"」と記者から雑誌社を通じて世界中に発進された。世界中に、ケロイドなどの原爆症の写真が世界中に公表された。その被爆者を原爆No.1第一号と呼称された。原爆症による限りない苦難が過去の長い病床生活にて切実に伝わった。
 広島と長崎の原子爆弾が炸裂した直後の被爆の実態が、世界で初めて総司令部(GHQ)に検閲を受けずに、ライフ英語雑誌により1952年7月29日号に公表された。世界初の英語版のライフ(Life)にpage19-25に原爆による被災写真の14枚が掲載された。原爆を投下したアメリカ軍に対して、広島と長崎原爆の悲劇を脅威と捉える被爆者の本当の実態写真が掲示された。
 「原爆一号」と「平和屋」と蔑視された活動から1951年8月に原爆傷害者更生会を結成し、1952年8月に原爆被害者の会を結成した。やがて他の被爆者組織の発足を促し、1956年5月に各組織が1本化した広島県原爆被害者団体協議会(県被団協)と1956年8月に日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協・同年8月)の結成に繋がった。



2020年4月17日金曜日

東京大空襲の焼け跡に日本人市民の戦災者が、瓦礫の歩道上を呆然と歩み、うつろな目つきでわら敷の上着を両手で抑えていた。

アメリカ空軍による空襲は、1942年4月18日から勃発した。1945年3月10日に、約334機ものB29爆撃機による東京大空襲で約10万人が死亡した。廃虚に呆然(ぼうぜん)とたたずむ、むしろをまとった裸足の市民の姿である。焼け跡に日本人市民の戦災者が、瓦礫におおわれた歩道の敷石上を呆然と歩んだ。うつろな目つきで、上半身には上着の代わりにわら敷を、両手で抑えていた。わずかに都会の面影を残している路傍に掘られた防空壕にはまだ市民が在住した。焼けた土蔵や金庫の残骸などのが、人の住む場所ともなった。
 敗戦直後の全国の住宅の不足は約42万戸に達した。市民の住宅は、わずかな木と紙やトタンなどのバラック生活で、一軒の家に約5人家族が同居して、約1畳に約2人が同居した。1945年末に厚生省は、失業者を日本全国で約1,300万人と推定した。物々交換から超高値のインフレと飢餓で生活困難となった。全国から毎日に餓死者と病死者が排出された。1947年には、浮浪児は約12万人にも達して、そのうち約3万人が戦災孤児であった。
 アメリカ軍の空襲で焦土となった都市に市民がたたずんだ。占領された直後の日本の光景である。戦争時から政府や新聞社の豹変に対していささかも謝罪をしない。敗戦しても、態度は横柄のままで政権の御用をつとめて責任のがれをした。1946年元旦に天皇の人間宣言の詔書が新聞に掲載された。
  東京周囲は焼夷弾などで焼滅した焦土の焼け野原となった。1945年8月15日に日本は無条件降伏した。1945年9月2日に、東京湾上のミズーリ号で降伏文書の調印をした。「過去の出血と殺戮の中から、信仰と理解に基礎づけられた世界が、全人類の願いである。」総司令部GHQは、1946年10月4日に特高警察の罷免と治安維持法の廃止、10月14日に男女同権・労働者の団結権、教育自由化・専制君主の廃止、経済民主化を指令、10月16日に武装解除、11月2日に財閥の解体、12月9日農地改革を断行した。マッカーサーによる6年足らずの統治下において、さまざまな大変革が成された。未だに憲法問題、国防問題、教育問題、沖縄問題、人権問題などなど、世論を二分して、日本を揺り動かしている。


2020年4月16日木曜日

ドイツ軍により虐殺された約7000人もの死体が、黒海とアゾフ海峡に面したケルン近郊のバジェロフスキーの堀で発掘された。

ナチス・ドイツ軍により虐殺された約7000人もの死体が、黒海とアゾフ海峡に面したケルン近郊のバジェロフスキーの堀で発掘された。ナチス・ドイツ軍は、1941年12月に女性から子供まで無差別に虐殺した。長さ1 km、幅4 m、深さ2 mの溝に、虐殺された女性、子供、老人、青年の死体が溢れていた。ファシストであるナチス・ドイツ軍は、無防備な地域住民の集団を爆発的な弾丸で射殺した。激戦地となった東部戦線のケルンで、合計で約7,000もの死体がバゲロフスキー溝から発掘された。
 第二次世界大戦の東部戦線にて、ウクライナのケルチにて、約160,000人を超えるソビエト兵士がドイツ軍に捕獲または殺害されて1941年5月18日に再び捕獲された。ソビエト連邦の外交人民委員会は、1942年1月7日にドイツ軍のウクライナのケルチにおける残虐行為をリストを声明した。その速報値によれば、約7,000人がケルチでドイツ軍のファシスト行為によってケルチ住民が虐殺された。1945年から1946年のニュルンベルク裁判で、ケルトの虐殺が告発された。約1.52m(約5フィート)の深さの溝には、女性、子供、老人、10代の男の子と女の子の体で溢れていた。溝の近くには血液のプールが凍っていた。子供の帽子、おもちゃ、リボン、引き剥がされたボタン、手袋、牛乳瓶とゴム布団、小さな靴、ゴロッシュ、引き裂かれた手、足、および人体の他の組織が近くに散乱していた。血液と脳が飛び散っていた。
 ドイツ軍は1941年11月16日にソビエト軍が支配したケルチを占領した。11月24日にアシュケナージ系ユダヤ人は3日以内に登録して、胸の裏にダビデの星をつけるように命じた。司令官室の報告では、約2,500人のアシュケナージ系ユダヤ人が登録された。11月28日に、クリムチャクのユダヤ人も登録を命じられた。ナチス・ドイツ軍はこの地域の住民の「民族浄化」の一環として、何万人もの民間人、最初はユダヤ人とロシア人から、最終的にはすべての「非ドイツ人」が除去または絶滅の対象となった。12月1日から3日に、当時ケルチに在住したアシュケナージ系ユダヤ人らのほとんどが虐殺された。12月29日に、ドイツ軍に隠れた一部のアシュケナージ系ユダヤ人らが発見されて、同じ場所で射殺された。ケルチの肉親が、死んだ両親、配偶者、子供を特定する衝撃的なシーンは大量虐殺を示唆した。
 ケルチは1941年12月30日から31日にソビエトの赤軍によって解放され、1942年5月13日までソビエト軍の支配下にあった。ソビエト軍の中間統治の期間中に、残りの主にクリムチャック一部の都市が全滅した。約160,000人を超えるソビエト兵士が捕獲または殺害されて、ケルチは5月18日に再びドイツ軍ら占領された。1942年6月22日頃に、ドイツ軍は、2番目の都市を占領後に、非ユダヤ人と結婚し約1,500人のクリムチャク・ユダヤ人を射殺した。1942年7月と8月の間に、ドイツ軍の軍警察は隠れた残りのユダヤ人を追い詰めて、ナチス親衛隊の殺人部隊に引き渡した。ケルチは1944年4月11日に赤軍によって再度に解放された。


2020年4月15日水曜日

第一次世界大戦で守備していたフランス軍がドイツ軍兵士に砲撃されて、フランス軍兵士の一部が戦傷して、一部は戦死して死体が土面に散乱した。

第一次世界大戦の1918年6月9日に、フランス軍がフランスのオズワーズ県でクールセルを占領した。その後にマイツ川沿いにドイツ軍が約14kmも侵攻して、6月11日に突然にドイツ軍はクールセルを再占領して奪還した。守備していたフランス軍がドイツ軍兵士に砲撃されて、フランス軍兵士の一部が戦傷して、一部は戦死して死体が土面に散乱した。それらの犠牲者は、連合軍兵士が約35,000人とドイツ軍兵士が約30,000人にも達した。フランス軍は、7月18日に西部戦線から大規模な突撃して、ドイツ軍はクールセルから撤退した。
 ドイツ軍兵士は、1918年3月3日にロシアとのブレスト・リトフスク条約で終結した東部戦線から西部戦線に集散した。1918年6月までに、ドイツ軍は多数の犠牲者を出して著しく弱体化した。その後、1918年7月15日に、第一次世界大戦でドイツ軍は、最後の攻撃を命じられた。ドイツ軍は同盟国が所有する土地に2マイル前進したが、犠牲は甚大となった。フランス軍はマルヌに反撃し、大規模なフランス軍の反撃が起こった。1918年3月から7月の間に、ドイツ軍の犠牲は、約100万人も及んだ。アメリカ軍の1917年4月6日の宣戦布告から5月28日からの参戦にて、西部戦線における連合国軍の主要な攻勢が西部戦線での塹壕戦の行き詰まりを打破して、ドイツ軍の崩壊が近づき、1918年11月11日までに戦闘が休戦した。
 第一次世界大戦が勃発した時点から、1914年に若者は戦争に向けて出発する準備をした。戦争のニュースがヨーロッパ中に拡散した時に、都市や町では西ヨーロッパの若者が戦争に送り出される準備ができていたので戦争のニュースを祝った。戦争の興奮の理由は、西ヨーロッパでは、ほとんどの場合に、地元の紛争を除いて、長続きする平和を享受していた。その頃までにほとんどのヨーロッパ人は本、学校、または社会自体を通して戦争を教わった。それらの教育のすべては冒険の感覚で戦争を美化して、そしてロマンチック化した。これらのヨーロッパ人はまた、民族主義的なプライドと愛国心の感覚を植え付けられた。戦争に出兵するほとんどの若者は、第一次世界大戦は、短期間の戦争だと思い込んでいた。若い男性は、第一次世界大戦が、これまで壊滅的であることを知らなかった。



2020年4月14日火曜日

慶応大学在学中に特攻隊員に学徒動員されて、特攻出撃前に両親に向け遺書を残した。

特攻隊員の手紙や遺書は軍部の検閲があり、遺書や手紙は自らの本心は書けれない。特攻隊員の自爆あるいは戦死は、神聖化して崇められ、冥福を祈られ、功績を感謝されて、戦果を奉り、慰霊として追悼された。日本が敗戦することは明らかになる直前に、特攻隊員として出撃すれば生還は許されない。
 特別攻撃隊の呼称が特攻隊であった。航空機で出陣すれば、まずは生存できない自爆死あるいは戦死に直結した。1944年6月のマリアナ諸島の敗戦から終戦まで、大半の航空機に大量爆弾を装着して、アメリカ軍の戦艦に体当たりして激突する特別攻撃が執行された。最初の約250kgから次第に約500kgの爆弾を搭載した。初めて1944年10月20日に編成された特攻隊に、初めて神風特別攻撃隊と命名された。剣術道場の「神風(しんぷう)流」から引用して、「かみかぜ」と訓読みされた。大本営海軍部は特攻の戦果と美談を大々的に喧伝し、新聞は号外で報じた。撃沈した戦艦は47隻で、1隻に約81人に犠牲を伴った。しかし、特攻の戦果は次第に乏しくなり、事前に察知するアメリカ軍の侵攻を遅滞する留まった。
 太平洋戦争の末期になると、特攻隊員の多くは学徒動員で徴兵された学生となった。多くの学生の特攻隊員は、初めての出撃が最初の自爆となつた。太平洋戦争の末期になって、突然に学徒動員に徴兵された。特に沖縄戦では、約1915機体の航空機で、特攻隊員は約4,389人が自爆死あるいは戦死した。慶応大学在学中に特攻隊員に学徒動員されて、1945年5月14日に特攻出撃前に、両親に向けて遺書を残した。

「お父さんお母さん!!
では出発します。
笑って死にます。
不孝者でしたが、お許しください。
先に行きお待ちして居ます。
時々想い出して下さい。
呉々もお体をお大切に」


2020年4月13日月曜日

沈没したドイツ海軍の戦艦ビスマルクの生存者は、イギリス海軍の駆逐艦HMSドーセットシャーにより一挙に引っ張り上げられた。

沈没したドイツ海軍の戦艦ビスマルクの生存者は、イギリス海軍の駆逐艦HMSドーセットシャーにより一挙に引っ張り上げられた。ビスマルクへの魚雷攻撃の命中により、操縦が不能になり、燃料の火災が船中と船尾で発生した。砲弾が格納庫を直撃して多数のドイツ海軍兵士が殺害された。ビスマルクのハッチとドアは歪のために閉じ込められて、そこに多数の死体が散乱していた。至る所で火災が発火して煙が充満して、ガスマスクがない多くの兵士は窒息死した。生存者は破壊された甲板を横切って海に飛び込んだ。ゆっくりと傾きながら地沈没するまで、砲弾の開口部から海水が流れ込んだ。
 第二次世界大戦にて、1941年5月24日にイギリスの巡洋艦HMSフッド号がデンマーク海峡でドイツ海軍の戦艦ビスマルク号の砲撃により弾薬庫に命中して沈没したとき、少なくとも約1,415人が水死した。これは第二次世界大戦の1隻の戦艦で、イギリス海軍の最大の犠牲であった。次いで、ドイツ海軍の戦艦ビスマルク号がその9日後の1941年5月27日に大西洋沖で沈没した時は、約2000人以上の船員が水死した。この悲惨な海戦は、約3,500人の人命を奪った。HMSフッドの乗組員は約1,419人であったが、生存者は約3人のみであった。ビスマルクの乗組員は約2,200人であったが、生存者は約115人のみであった。その乗組員を救助した後に、イギリス駆逐艦HMSドーセットシャーは、付近のドイツ海軍のUボートから撤退した。しかし、同じドイツ海軍のUボートによるビスマルク号の乗組員は、沈没から3日後となりわずかに約5人のみであった。


2020年4月12日日曜日

タイの国境軍兵士は、喉を切り裂かれて虐殺されたカンボジア人の子供を公開した。

タイの国境軍兵士は、虐殺されたカンボジア人の子供を公開した。1977年1月30日のカンボジアのクメール・ルージュの襲撃により、カンボジア人の子供がタイ国境の村で、喉を切り裂かれて虐殺された。
 カンボジアのクメールルージュは左派で反米共産主義勢力であった。1975年に統治して約4年以内の1979年までに、クメールルージュ政権は、カンボジアの人口の約25%に相当する約300万人のカンボジア市民を虐殺した。1975年4月17日に首都プノンペンを占領した後の虐殺および捕獲された最初の犠牲者は、大空爆するアメリカ軍に支持された軍事政権のロン・ノル政府軍兵士であった。兵士を大量虐殺するために、スタジアムに強制収容した。次に、カンボジア全土の政界人、知識人、僧侶、熟練労働者、資本家などは、反動主義の容疑者として大虐殺された。侵略される首都を避けるようにカンボジア市民は逃避して難民となった。群衆となったプノンペン市民は、フランス大使館に避難するために押しかけた。
 プノンペンの都市住民は、遠隔地の農村地帯に強制連行された。都市を無人にして、私有財産と宗教を禁止した。何百万人もの人々が灼熱の太陽の下で避難し、飢えに苦しみ、遠くの農村地帯へ追いやられた。虐待と拷問に耐えられず、死亡率はさらに高くなり、途中で多くの市民が死亡した。男性、女性、子供は共同農場で働かされ、公共の食堂で共同で食事をさせられた。カンボジアはもともと魚と米の国土であるが、穀物の生産量は年々減少して、過労からも栄養失調と飢餓に陥った。財産の私的所有、家族の解約を禁止して、結婚もクメール・ルージュ組織が手配して、結婚後も夫婦は別居する必要があった。


2020年4月11日土曜日

長崎原子爆弾の男性被爆者が、佐賀総合病院に長崎市内から護送されて、日本人病院長の診察と進駐軍兵士の視察を受けた。

長崎原子爆弾に被爆して、佐賀総合病院に長崎市内から護送された男性の被爆者が、日本人病院長の診察と進駐軍兵士の視察を受けた。長崎原子爆弾が炸裂して、ちょうど1ケ月経過した1945年9月9日に、日本に駐留したアメリカ軍兵士が、佐賀総合病院に被爆者の実態を視察して情報収集した。ルイジアナ州ミタリアの米海軍中尉のトーマスMブラウンと佐賀総合病院の川田茂博士が、アメリカ軍が投下して炸裂した長崎原爆による閃光から熱傷を伴って衰弱した日本人被爆者の病状を診察と視察をした。その側で着物を着た看護師が診療の補助をした。原爆被爆者の凄まじい火傷によるケロイドや原爆症から、アメリカ軍側も原子爆弾による放射能による人体に及ぼす影響について痛感した。
 佐賀総合病院は、旧佐賀県立病院1910年10月に佐賀陸軍衛戌病院として開設された。1945年12月に厚生省移管国立佐賀病院として発足した。2015年4月に独立行政法人国立病院機構の佐賀病院に変革した。佐賀県立陸軍病院は長崎原爆の8月9日に長崎市内に救護隊第713号の派遣を命じた。数人の軍医からなるグループを編成して、内田部長を中心とする事務補佐員と16人の看護師が出張した。8月10日の午前4時頃に、グループは佐賀駅を出発し、午後に長陽に到着し、3つのチームに分かれて、長与駅、長与小学校、道の尾駅で医療救護を活動した。長崎市内の道の駅で約6日間の救援活動を行い、8月15日夜にから佐賀に戻り、日本が降伏した終戦日に佐賀陸軍病院に帰還した。終戦後も、救援チームは佐賀陸軍病院に多数護送された原爆被爆者の医療救護に従事し続けた。
 長崎原子爆弾が、1945年8月9日午前11時2分に投下されて炸裂した。長崎市内の膨大な市民らが被曝した。爆心地に近い長崎医科大学など、緊急的な救護所も直ちに稼働が困難となった。そのために圏域を越えて、長崎本線で被爆者が護送された。
 長崎と広島の被爆者計75人分のカルテを旧佐賀県立病院(現県医療センター好生館)で2011年に偶然に発見された。病状から被爆した克明な状況や死後に病理解剖した臓器の状態も記録された。原爆に関する資料は、第二次世界大戦後には連合軍進駐軍が多く原爆資料を没収された。詳細な記録と放射能による人体への影響に関する貴重な資料であ。75人は1945年8月14日から1946年1月まで、当時の県立病院内科を受診した16から59歳の男女である。妊婦もいた。カルテには脱毛や皮下出血などがドイツ語と日本語で記録された。放射能被害の特徴的な白血球の減少が認められた。カルテはB5サイズで「昭和二十年度内科、原子爆弾ニ依ル書類」と書かれた表紙のボール紙に229枚がとじられ、厚さは約6センチの診療記録である。色あせ、かすれて判読が難しい文字を佐賀医学史研究会が解読した。病院によると、カルテは原則、専用の倉庫でまとめて保管するが、県立病院に進駐軍の医師が複数回訪問した記録がある。2011年に看護師が内科の古いロッカーを整理中に偶然発見した。当時の医師が進駐軍に没収されないように別途に秘密裏に保管した可能性もある。


2020年4月10日金曜日

第一次世界大戦の東部戦線で、ロシア軍兵士はドイツ軍兵士の凍った死体で体を覆われた戦場で恐ろしく検死した。

第一次世界大戦の東部戦線の戦場にて、1915年にロシア軍兵士がドイツ軍兵士の遺体を数えた。ロシア軍兵士が凍ったドイツ軍兵士の死体の中をさまよっている間に、戦場は恐ろしい死体で覆われた。戦死体の断続的に暴露されて、時間の経過とともに、両軍兵士自身の生存を保持することが困難になっていた。
 戦場では、誰もが一度勇敢になることはできるが、永遠に続けることは困難である。戦場の心理的緊張がうつ病と崩壊を引き起こした。 「2000ヤード(メートル)の凝視」となると、緊張または完全な制御の喪失の前の最後の段階となる。 大戦では、爆撃機のパイロットの平均余命は数か月と推定された。しかし、その激しい恐怖の短い瞬間の間に対して、彼らは清潔なシーツで寝るなど、毎日の戦闘の心理的影響をいくらか緩和していた。軍隊の兵士の騒動は、戦場の前線に行くほど増加して、熱狂的な動揺が観られた。 軍隊の将校は、「暴力の管理者」であり、注意深く選ばれた。国家と支配者に縛られて、上官自身の利益と考えにより、一般市民らの兵士を暴力的に管理した。
 第一次世界大戦(1914-1918)の間、ロシア皇帝と支配システムに対する不満が高まった。戦争中に約170万人を超えるロシア軍兵士が命を落とし、約500万人が戦傷した。、独裁政権の皇帝の指揮下で多くのロシア軍兵士が犠牲となり、戦闘することを拒否した。その結果、ロシアの人口の約80%以上が在住している地方の飢饉によって、政治的および社会的不安が高まった。皇帝に対する数多くの政治批評家や指導者たちは、皇帝秘密警察による迫害から海外に亡命した。


2020年4月9日木曜日

満州で悲惨にも取り残された孤児らは日本本土に戻れた最初の第一夜を迎えて、両親の遺骨に対して、娘と息子が冥福を祈った。

第二次世界大戦と太平洋戦争の1945年8月15日の終戦日から、約1年4ケ月間を過ぎた1946年12月6日になって、孤児となって悲惨にも取り残された満州よりの引揚げた。孤児らは日本の本土に戻り最初の第一夜を迎えた。両親は残酷に変わり果てた満州の地で死亡して遺骨に変わり果てた。骨箱に入れられて白布で覆った両親の遺骨に対して、2人の女の子と1人の男の子供が、正座をして両手をあわせて一生懸命に冥福を祈った。それから大勢の他の孤児らと一緒に不安な眠りに就いた。
 日清戦争から日露戦争さらに日中戦争によって、広大な中国の満州を日本の関東軍が侵略した。その満州を日本人が占領するために、特に満州事変以後に、日本人が満州を占領するために、開拓移民、多数の満蒙開拓義勇軍から、一般市民、商人から在満会社の労働者と家族が満州に移り住んだ。終戦に向かうほど、関東軍などの主力は太平洋戦争の南方要員として引き抜かれた。1945年7月には、関東軍は満州の占領地域を、満州の東南部の地域に狭めた。南部は朝鮮と満州の境界、東部はソ連との国境付近の境界、西部は大連までに限局した。既に関東軍は青年男子を根こそぎに動員して、満州地方は放棄してそれ以外の在満日本人を見殺しにした。
 1945年8月9日に突如として、ソ連軍が非人道的に在満日本人を虐待と虐殺しながら満州に侵攻した。さらに日中戦争から略奪された中国人と朝鮮人の恨みから悲惨にも報復された。その恐怖と混乱の中を食料も備品もなく、徒歩で逃避行してひたすら朝鮮半島の南端を目指した。飢餓と疫病で幼い子供たちがいち早く死亡して、地獄のような虐待から虐殺に集団自決も勃発した。両親と生き別れて、満州に置き去りなった子供は、中国残留孤児として中国に取り残された。満州からの引き揚げ者の犠牲者は、ソ戦の参戦での死亡者を含めて、約24万5000人にも達した。引揚者は日本人の非戦闘員に対して、復員者は海外からの帰還した日本軍兵士を呼称した。国境を越えたソ連軍に拉致されシベリアに強制連行された在満州の日本人男子は、シベリア抑留者となり復員者の帰国は遠く離れ困難を極めた。