2020年4月10日金曜日

第一次世界大戦の東部戦線で、ロシア軍兵士はドイツ軍兵士の凍った死体で体を覆われた戦場で恐ろしく検死した。

第一次世界大戦の東部戦線の戦場にて、1915年にロシア軍兵士がドイツ軍兵士の遺体を数えた。ロシア軍兵士が凍ったドイツ軍兵士の死体の中をさまよっている間に、戦場は恐ろしい死体で覆われた。戦死体の断続的に暴露されて、時間の経過とともに、両軍兵士自身の生存を保持することが困難になっていた。
 戦場では、誰もが一度勇敢になることはできるが、永遠に続けることは困難である。戦場の心理的緊張がうつ病と崩壊を引き起こした。 「2000ヤード(メートル)の凝視」となると、緊張または完全な制御の喪失の前の最後の段階となる。 大戦では、爆撃機のパイロットの平均余命は数か月と推定された。しかし、その激しい恐怖の短い瞬間の間に対して、彼らは清潔なシーツで寝るなど、毎日の戦闘の心理的影響をいくらか緩和していた。軍隊の兵士の騒動は、戦場の前線に行くほど増加して、熱狂的な動揺が観られた。 軍隊の将校は、「暴力の管理者」であり、注意深く選ばれた。国家と支配者に縛られて、上官自身の利益と考えにより、一般市民らの兵士を暴力的に管理した。
 第一次世界大戦(1914-1918)の間、ロシア皇帝と支配システムに対する不満が高まった。戦争中に約170万人を超えるロシア軍兵士が命を落とし、約500万人が戦傷した。、独裁政権の皇帝の指揮下で多くのロシア軍兵士が犠牲となり、戦闘することを拒否した。その結果、ロシアの人口の約80%以上が在住している地方の飢饉によって、政治的および社会的不安が高まった。皇帝に対する数多くの政治批評家や指導者たちは、皇帝秘密警察による迫害から海外に亡命した。


2020年4月9日木曜日

満州で悲惨にも取り残された孤児らは日本本土に戻れた最初の第一夜を迎えて、両親の遺骨に対して、娘と息子が冥福を祈った。

第二次世界大戦と太平洋戦争の1945年8月15日の終戦日から、約1年4ケ月間を過ぎた1946年12月6日になって、孤児となって悲惨にも取り残された満州よりの引揚げた。孤児らは日本の本土に戻り最初の第一夜を迎えた。両親は残酷に変わり果てた満州の地で死亡して遺骨に変わり果てた。骨箱に入れられて白布で覆った両親の遺骨に対して、2人の女の子と1人の男の子供が、正座をして両手をあわせて一生懸命に冥福を祈った。それから大勢の他の孤児らと一緒に不安な眠りに就いた。
 日清戦争から日露戦争さらに日中戦争によって、広大な中国の満州を日本の関東軍が侵略した。その満州を日本人が占領するために、特に満州事変以後に、日本人が満州を占領するために、開拓移民、多数の満蒙開拓義勇軍から、一般市民、商人から在満会社の労働者と家族が満州に移り住んだ。終戦に向かうほど、関東軍などの主力は太平洋戦争の南方要員として引き抜かれた。1945年7月には、関東軍は満州の占領地域を、満州の東南部の地域に狭めた。南部は朝鮮と満州の境界、東部はソ連との国境付近の境界、西部は大連までに限局した。既に関東軍は青年男子を根こそぎに動員して、満州地方は放棄してそれ以外の在満日本人を見殺しにした。
 1945年8月9日に突如として、ソ連軍が非人道的に在満日本人を虐待と虐殺しながら満州に侵攻した。さらに日中戦争から略奪された中国人と朝鮮人の恨みから悲惨にも報復された。その恐怖と混乱の中を食料も備品もなく、徒歩で逃避行してひたすら朝鮮半島の南端を目指した。飢餓と疫病で幼い子供たちがいち早く死亡して、地獄のような虐待から虐殺に集団自決も勃発した。両親と生き別れて、満州に置き去りなった子供は、中国残留孤児として中国に取り残された。満州からの引き揚げ者の犠牲者は、ソ戦の参戦での死亡者を含めて、約24万5000人にも達した。引揚者は日本人の非戦闘員に対して、復員者は海外からの帰還した日本軍兵士を呼称した。国境を越えたソ連軍に拉致されシベリアに強制連行された在満州の日本人男子は、シベリア抑留者となり復員者の帰国は遠く離れ困難を極めた。


2020年4月8日水曜日

イラン革命の直後に、ホメイニの本部の屋上で分隊が発砲して死刑の判決を受けた4人の将軍を銃殺して処刑した

イラン革命後の最初の死刑判決は、1979年2月に4人の将軍にテヘランの法廷で死刑が裁定された。テヘランの軍事指揮官、軍事総督、SAVAK(諜報機関)の指導者、および空軍将軍など4人の将軍はすべて、2月15日にアヤトラ・ホメイニの本部の屋上で、分隊が発砲して4人の将軍を銃殺して処刑した。パフラヴィー王朝が崩壊した直後に、上級将軍を含む旧体制の幹部は、イラン革命の指導者によって処刑された。
  パフラヴィー王朝モハンマド・レザー・シャーは1979年1月16日、最後のペルシャの君主として、イランを退去して亡命した。1964年から約15年間にわたる反王朝の亡命から、2月1日に約73歳のホメイニがイランに帰国した。2月11日に、イラン革命の武装したゲリラと反乱軍がシャー政権派の軍隊を圧倒して、シーア派イスラム政権は、すべての州で委員会を結成した。最初の2から3か月で懲罰として、クーデターの危険性を排除するために、シャー王朝政権の高官の約200人以上が殺害された。
 イラン革命の1978から1979年の間に約2,781人の抗議者と反革命家が殺害された推定された。イラン革命が終結されたときに革命裁判所が、1981年6月から1985年6月までに約8,000人もの反対者は、イラン革命を阻止したとして処刑された。逆に、ホメイニーははるかに大きな殺害者数を宣告した。彼は「約6万人もの男性、女性、子供が、シャー王朝政権によって殉教した。」と宣告した。イランは国民投票により 1979年4月1日にイスラム共和国になり、新たな神権共和党の憲法を制定して承認されて、ホメイニは最高指導者になった。最終的にホメイニーを頂点とするイスラーム法学者が統治する体制が固まり、イスラム法が施行されるイスラーム的社会が構築された。テヘランでは、イスラム過激派が1979年11月4日にアメリカ大使館を襲撃し、職員を人質にした。過激派は犯罪の裁判にかけるためにイランにシャーを戻すことを要求した。アメリカは交渉を拒否し、52人のアメリカ人質が1981年1月20日まで444日間拘留された。


2020年4月8日 Japan No War (JNW) 日本平和の市民連盟 視聴回数 380,000回 

2020年4月7日火曜日

ニューギニアの戦いにて、1943年に多数の日本軍兵士の死体がニューギニア島の砂浜を横切って散らばった。

ニューギニアの戦いにて、1943年に日本軍兵士の死体がニューギニア島の砂浜を横切って散らばった。ブナ地域の占領のために繰り広げられた悲惨な戦いの証として、砂浜を横切って日本軍の死体が散乱した。ブナはソロモン海のラバウルに面していた。ゴナの戦いでは、日本軍には補給がほとんどなく、戦傷者を救護できず、日本軍兵士の死体が海岸に積み重なっていた。塹壕を保護するために死体を土のうとして使用して、非常に悪臭を放っていた。両軍ともに拙速で支援もない攻撃が繰り返され、多くの人命が不必要に失われた。
 太平洋戦争におけるニューギニアの戦いは、日本軍が北東海岸のブナ・ゴナに軍を上陸したコーラル海戦の2か月後に、1942年7月に2回目の突撃をした。日本軍は、そびえ立つオーエンスタンレーの範囲を越えて、ポートモレスビーに向かって侵撃した。オーストラリア軍は、約32マイル離れたところから日本軍の侵撃を止めた。1942年10月には、アメリカ軍とオーストラリア軍がニューギニアの高山を越え始めた。ブナ・ゴナの作戦は、ミアズミック・ジャングルで悲惨な戦闘となった。アメリカ軍兵士が約6週間でブナを突破できなかった。 ブナは1943年1月2日にアメリカ軍が、ゴナは1942年12月9日にオーストラリア軍が占領した。ブナ・ゴナの戦いで日本軍兵士は、約8,000人が戦死した。連合軍の戦死者は、オーストラリア軍は約1,731人、アメリカ軍は約787人に達して、ガダルカナル島の戦いの戦死社数を上回った。1943年3月に、連合軍の陸軍機が、ビスマルク海の日本軍の護送船団を壊滅して、約16隻のうち12隻を沈没させた。援軍とした日本軍兵士約3,600人が溺死した。病気と飢餓は連合軍の攻撃よりも多くの日本軍兵士の命を奪った。原始の沼地、湿った湿った静寂の茂み、人命の大きな喪失、日本軍の玉砕の固執、そのほとんどが戦死を終わらせた。ニューギニア沿岸までの侵攻には、ラバウル島が占領されるまでのもう一年間は待つ必要があった。


2020年4月6日月曜日

清国当局は、悪評の高いナモア海賊団の幹部を含めて、8人の欧米人の前で香港の九龍にて19人を公開で斬首した。

清国の中国当局は、欧米人に悪評の高いナモア海賊団の幹部を含めて、1891年4月17日に香港の九龍で19人を斬首した。ナモア海賊とは、約6か月前から悪評が高い中国人海賊が占領して操縦を執っていた汽船の名前で呼称された。最も大胆で悲惨な海賊行為を、1890年頃からのナモア海賊は実行した。イギリスのナモア汽船は、1890年12月3日に正午から香港を出港した。欧米人と中国人らが乗船していた。航海中に、中国人の約240人の乗客うちで約40人の海賊が、突然に所定の合図とともに、外衣を脱いで拳銃などで武装した。ナモア汽船は、船長と乗客1人が虐殺された。完全に海賊が占領して操縦をした。海賊は戦利品を、逃走船に移送して、ナモア汽船を放棄した。清国政府は、熟練した外国人と中国人の警察隊を送り込んで、卑劣なナモア海賊を捕らえた。1891年4月17日に、まずはナモア海賊のうちで約19人を公開して斬首した。斬首の立ち会いには、約8人の欧米人が参加してポーズを取り、中国海事税関の中国人らも見物した。ナモア海賊の両手は背中の後ろで縛られて、足首には鎖が付けられた。海辺で一列にひざまずせて斬首されると、頭部と胴体の死体が散乱した。さらに5月11日に約15人の囚人ら含めて公開されて斬首された。
 やがて、1899年に外国軍の侵略や治外法権を持ち横暴の目立つキリスト教徒の排撃を掲げる義和団が蜂起した。扶清滅洋を喧伝して外国人を攻撃したが、次第に略奪を行う暴徒と化した。清国の西太后は、暴動に便乗して1990年6月21日に欧米列強と日本に宣戦布告した。逆に、八カ国連合軍に北京を1900年8月14日に占領されて、外国軍隊の北京駐留を認める北京議定書を結ばされた。中国の半植民地化は更に進んだ。参戦した日本とり、権益拡大や、清朝を叩くことで朝鮮半島における日本の併合を有利にすること、約20,300人の日本軍に次ぐ約12,400人の大軍を送ったロシア軍への牽制、欧米列強側に味方して派兵することで極東の憲兵の存在感を誇示し、不平等条約改正への布石などが主要な目標となった。


2020年4月5日日曜日

中国国民党は1927年4月12日の反共産党のクーデターを上海で強行して、共産党の疑いのある一般市民を弾圧して虐殺した。

中国国民党は1927年4月12日の反共産党のクーデターを上海で強行して、共産党の疑いのある一般市民を弾圧して虐殺した。上海クーデーが4月12日に勃発した四・一ニ事件は、蒋介石の中国国民党軍が上海の共産主義者と革命的大衆を裏切って流血させて深刻な反革命的事件を引き起こした。数千人にも達する中国共産党員が殺害された。 
 国民党軍は、3月26日に上海を侵攻して、特に浙江財閥から財政支援を受けた。上海にて四・一二事件が、1927年4月12日に勃発した。中華民国の北伐に呼応して第三次上海暴動を引き起こした武装労働者糾察隊が、右派国民党軍の命令による武装解除に応じずに紛争が勃発した。武装労働者らの武力行使を受けて、中国国民党軍は上海クーデターを引き起こした。さらに国民党軍の武力行使に対する抗議のためのデモを行った労働者・市民を、国民党軍が発砲して虐殺した。国民党軍は、国民党左派・共産党系労働組合に解散を命じて、総工会の建物を占拠した。中国国民党は「清党」と称する一方、中国共産党は「四・一二反革命政変」、「四・一二惨案」と称す。検挙の過程で騒動を引き起こした多くの共産党党員と工場労働者が死傷した。
 1926年7月に国民党軍は北伐を開始して、蒋介石を総司令に任命した。北伐軍の武漢の占領を受けて、11月に広州の国民政府を武漢に移転することを決定した。1927年1月1日から、武漢国民政府が正式に開始された。3月に武漢で、左派が中央全体会議を開催して、左派に好都合の規約を改正した。政府・党の要職は左派が占めて、共産党員が初めて閣僚に就いて、武漢国民政府内の共産党の勢力が増した。
 北伐に呼応して1921年に結成された中国共産党は、上海で武装暴動を、1926年10月、1927年2月に主導した上海クーデターは失敗に帰した。共産党などの指導の下、上海の労働者は約2,700人からなる武装糾察隊を組織していた。3月22日には武装糾察隊が警察や守備隊に対して武装攻撃を行って、上海に自治臨時政府を樹立していた。中国共産党に反発した財閥系の上海総商会は、3月26日に上海に入った国民革命軍に対し、中国共産党を排除を要求していた。 上海での4月12日の四・一ニ事件で、労働者らや市民を虐殺した武装暴動である上海クーデターが勃発した。



2020年4月4日土曜日

日中戦争の勃発した直後に、天津駅周辺にて、日本軍は縛り付けた中国人便衣隊員に対して虐殺を執行した。

日中戦争の勃発した直後に、天津駅周辺において、日本軍は中国人便衣隊員に対する虐殺を執行した。便衣隊は、一般市民に偽装して日本軍に対する敵対行為をした。日本軍は、天津駅の停車場前で、中国人便衣隊を猛攻撃した。日本軍は、天津で中国人便衣隊を逮捕して、天津駅の鉄柱に目隠して縛り付けた。日本軍は、天津駅構内で多人数を捕獲した中国人便衣隊員を虐殺した。その現場写真は毎日新聞社の不許可写真に記録されて、日本軍の軍検閲にて掲載は不許可と印章された。
 1937年7月7日の夜中に、中国軍と日本軍は北京から西南方向に向かう重要な道路が通過する盧溝橋(マルコポーロの橋)の付近で砲撃から戦闘が勃発した。混乱して勃発した散発的な小競り合いが、第二次日中戦争に至る本格的な軍事衝突に達した。直ちに、日本軍は、北京を7月29日にその港湾都市である天津は7月30日までに陥落して占領した。さらに8月13日から、上海に向けて進撃した。第二次上海事変から日中全面戦争に突入した。
 日本軍が北京と天津を占領する直前の7月29日に中国人の保安隊の約3,000人が反乱を起こして、北京の東北の通州で、日本軍の守備隊・特殊機関・在留日本人を襲撃した。わずか約110人の守備隊は、戦死が約20人と戦傷者は約13人に及んだ。特殊機関は全員が戦死した。在留していた日本軍だけでなく、約385人の日本人系住民のうち約223人が虐殺された。さらに中国人保安隊は日本軍用車を襲撃して放火して破壊した。日本軍は通州で生存できた日本人は、わずかに約60人の民間日本人だけであった。通州事件と呼ばれて、日本国内の中国に対する反感が燃え上がった。


2020年4月3日金曜日

日本軍により殺害されて倒れたロシア軍兵士の死体は、仲間が墓地を掘り込んだ。土中に死体を埋めて、十字架を杭して埋葬した。

日露戦争の奉天会戦の間に、日本軍により殺害されて倒れたロシア軍兵士の死体は、仲間が墓地を掘り込んだ。土中に死体を埋めて、その上に十字架を杭して埋葬した。日本軍は約15,892人が戦死、ロシア軍は15,814人が戦死行方不明の膨大な犠牲者となった。 
 日露戦争の終結に繋がった奉天会戦が、1905年2月20日から3月10日まで中国東北部瀋陽で勃発した。戦闘は第一次世界大戦前に行われた最大の戦いの1つである。日本軍は約24万人以上、ロシア軍は約36万人もの兵士が従軍して参戦した。両軍ともに日露戦争が長引くほど、人的・財政的な損失が重なり危機的な事態に陥る危険性が出た。両軍ともに戦況は拮抗していたが、3月7日に約9万もの死傷者を出したロシア軍は、兵力を温存するため退却した。3月10日に日本陸軍は奉天に入城して占領したが、約7万の死傷者の犠牲を伴って追撃の余力を失った。ロシア軍の壊滅に至らず降伏を達成できなかった。奉天会戦の結果、日本は戦力の限界から、これ以後大規模な作戦をできなかった。
 1905年1月9日に、ロシア帝国のの首都サンクトペテルブルクで、労働者は皇宮への請願行進をした。政府軍が発砲した血の日曜日事件は、多数の死傷者を出して第一革命の起点となった。ロシア軍も打ち続く敗戦が、ロシア革命の機運を高めることを恐れて、奉天会戦が講和条約に繋がった。5月27日の日本海海戦で、日本海軍の連合艦隊はバルチック艦隊を撃破して終戦を迎える次第となった。日本陸軍が奉天入城した3月10日が陸軍記念日、日本海軍はバルチック艦隊を撃破した5月27日を海軍記念日となった。陸軍と海軍を共に国民的英雄とする特別な祝勝日となった。


2020年4月2日木曜日

グリーンハムの女性平和団体の1人の女性が、核兵器反対を訴えて1988年にアメリカ軍基地にワイヤーをカットして侵入した。

グリーンハム・コモン・女性平和団体(Greenham Common Womens' Peace Camp)に参加していた1人の女性が、核兵器反対を訴えて、1988年にアメリカ軍基地にワイヤーをカットして侵入した。その時にアメリカ軍の警備隊兵士に逮捕されて、ワイヤーに絡まった女性の身体を引きずり出して連行した。イギリスのバークシャー郡のグリーンハム・コモンにある米軍基地に対して反核抗議活動をする拠点となった。多くの女性参加者は、訴訟、罰金、時には逮捕から投獄に直面した。グリーンハムの女性平和団体は、行動、ポスター、歌などを活用して核ミサイルに抗議して、社会的注目を集めた。アメリカとソビエト連邦の冷戦で、ヨーロッパが核兵器の脅威に迫られた。
 1981年9月にイギリス政府が、グリーハムにあるアメリカ軍基地に、核弾頭の巡航ミサイルを配備することを認可した。ウェールズから地球姓名女性の会(Women for Life on Earth)の36人が、グリーンハムのアメリカ軍基地に到着して、鉄柵の側に無期限の野営を開始した。その後に、1982年3月に世界の未来の子供の母親として、女性のみの抗議活動と宣言た。女性平和団体は1982年3月に約30,000人の女性が、アメリカ軍基地を取り巻いて封鎖した。1983年4月1日には、約70,000人の抗議者らが、グリーンハムから約14kmもの人間の鎖を形成した。1983年12月の約50,000人の女性の抗議活動は、アメリカ軍基地の柵の一部が切り取られて、数百人の女性が逮捕された。1987年12月の中距離核軍縮条約で巡航ミサイルは1991年に撤去されたが、女性団体の野営は、次のトライデント(Trident )におけるイギリスの潜水艦への核整備計画に対する抗議活動に向けて、グリーンハムで2000年まで抗議活動が約19年間も継続されて、国際的な女性平和活動に影響を与えた。


2020年4月1日水曜日

カンボジア内戦でカンボジア軍により約800人のベトナム系住民が殺害されてメコン川を血染め腐敗して流れ付いた。

カンボジアに侵攻した北ベトナム軍に対抗して、ロン・ノル軍事政権のカンボジア軍によりカンボジアに在留していた膨大なベトナム系住民が殺害された。4月15日には約800人のベトナム系住民が殺害された死体がメコン川を下った。殺害されたベトナム系住民の死体は、1970年4月16日にはカンボジア内のネアクッルン近郊の巨大で長流のメコン川を放流していた。死体からの出血でメコン川は血染めに染まり、死体は腐敗してから水面を浮きながら流れ付いた。カンボジア系住民が、ベトナム系住民の死体を棒切で処理していた。1967年3月11日からカンボジア内戦が勃発して、1975年4月17日にポル・ポトのクメール・ルージュが民主カンプチアの独立宣言をして、カンボジアの大虐殺を執行した。
 1970年3月18日、カンボジア議会でシハヌーク国宝を退けることがロン・ノル軍事政権が満場一致で可決させた。10月にクメール共和国の樹立を宣言した。ロン・ノル軍事政権に対して、アメリカ軍はシハヌークを批判するビラを撒き、ロン・ノル軍事政権を支援した。アメリカを後ろ盾に諸外国から認知された。クーデターの数日後に、シハヌークは北京でカンプチア王国民族連合政府を立ち上げた。カンボジア民衆のデモと暴動が至る所で生じた。3月29日には約40,000人の農民がシハヌークの復権を要求するデモ行進を行って、軍隊と衝突して多くの死傷者が出て武力鎮圧された。カンボジア農民が共産主義の影響を受けた。1970年3月29日に、共産主義の北ベトナム軍はカンボジアに対する侵攻を開始した。ソ連ならびにクメール・ルージュ共産主義からの明確な要求によって、北ベトナムはカンボジアに侵攻した。
  1970年3月29日から、北ベトナム軍はカンボジアに侵攻した。4月29日から、アメリカ軍と南ベトナム軍はカンボジアに侵攻した。北ベトナム軍のカンボジア侵攻に対抗して、ロン・ノル軍事政権は激しい反北ベトナムに虐待と虐殺を行った。南ベトナム解放民族戦線への支援が疑われたカンボジア在住のベトナム系住民を迫害・虐殺した。強制収容所などでもベトナム系住民が集団虐殺された。カンボジアにおける約450,000人のベトナム系住民のうち、約100,000人がカンボジアを避難して、さらに約200,000人が南ベトナムに強制送還され、クーデターからわずか約5か月間にベトナム系住民の推定人口は約140,000人まで激減した。


2020年3月31日火曜日

ルソン島の戦いで、日本軍兵士は手榴弾を投げ込む直前にアメリカ軍が射殺して、手榴弾を手に持ったままで殺害された。

ルソン島の東海岸のポートリアルにあるアメリカ軍の野砲隊の観測地点に対して、1945年7月20日に日本軍兵士が切り込み突撃をした。日本軍兵士は手榴弾を投げ込む直前にアメリカ軍により射殺された。日本軍兵士は、手榴弾を手に持ったままで、仰向けに転倒して殺害された。ルソン島の戦いだけで、日本軍兵士は約205,538人、アメリカ軍は約10,380人が戦病死した。
 アメリカ軍とフィリピン軍が、水陸両用から攻撃をしてルソン島に上陸した。マニラ北東地区の日本軍部隊は、1945年2月3日からのマニラの戦い中に、1945年2月8日よりマニラ郊外で第一次総攻撃により連合軍と激戦を繰り広げた。アメリカ軍は2月23日から猛砲撃から包囲して攻撃をした。3月3日にマニラの戦いで、マニラはアメリカ軍に制圧された。日本軍部隊は、3月中旬頃にさらにマニラ郊外で第二次総攻撃をした。しかし、3月下旬頃になるとアメリカ軍に圧倒されて、マニラ郊外から撤退した。日本軍部隊は分断されて、6月頃には陣地も失って、分散してのジャングルや山林でのゲリラ持久戦に突入した。その約2ケ月後に、日本が1945年8月15日に連合軍に無条件降伏して終戦した。その後から、9月頃から11月頃にかけて終戦を知って降伏するまで、連合軍とゲリラ戦を行った。その日本軍部隊の生存者は、緒戦の約105,000名のうちで終戦以後に収容された13,000人と、フィリピンの戦いの終結までの捕虜約1,600人のみであった。 


2020年3月30日月曜日

ドイツ共和国軍と義勇軍の部隊が、ルール蜂起した復員兵の労働者を射殺した死体の前で鉄道の堤防からポーズを撮った。

ドイツ連邦議会から派遣された約45,000人の共和国軍と義勇軍の部隊が、1920年4月2日にデュースブルク近郊のメーレンで、ルール蜂起した復員兵の労働者を射殺した死体の前で鉄道の堤防からポーズを撮った。1920年3月31日に共和国軍とルール赤軍の銃撃戦が発生した。4月1日正午に、ハム・ペルクムにて共和国軍と赤軍が激突して、双方に多数の死傷者を出す激戦となった。4月2日に、共和国軍はルール赤軍を駆逐しつつ、西方からベルクカメンに向かった。4月の最初の週だけで約150人から約300人の労働者が死亡した。4月6日に共和国軍がルール赤軍の中枢であったドルトムントに到達して、ルール赤軍は事実上壊滅した。共和国軍は、鎮圧したルール地方からの反抗容疑者を野戦裁判所により大量死刑を執行した。
   第一次世界大戦はドイツは1918年11月11日に休戦協定から1919年6月28日にヴェルサイユ条約を締結した。1920年3月13日に強烈な軍縮に対抗しして右派の義勇軍がベルリンを占領したカップ一揆を、3月17日に左派の復員兵がルール赤軍として撃退した。社会運動を止まらなかったベルリンと中央ドイツを経由して、アッパーシレジアからルール地方まで、経済的および政治的ストライキが多発した。労働者は給与が削減され、賃金は1914年に比べて40%も減少した。失業は巨大になり、ミュンヘンで約4万人、ベルリンで約5万人の失業者に達した。1919年の初めに約300万人以上の失業者に達してより多くの暴動が勃発した。 
 ルール地域では、鉱山労働者と鉄鋼労働者は国有化に向けて、特に労働者の社会運動の参加と決意が高まった。1919年2月から4月にストライキは倍増した。最初の労働組合は、1919年3月30日にルール地域に設立された。ドイツ連邦議会派が労働組合を抑圧と弾圧を主導して破壊した。6月に再建されて、急進的な労働組合に拡大した。1920年には、組合員は約12万人以上にも達して、1920年3月からルール蜂起が勃発した。
 

2020年3月29日日曜日

長崎原子爆弾に被爆した少年が、原爆症が発症して身体に紫斑が出現して、九州大学病院に入院した。

長崎原子爆弾に被爆した少年が、原爆症が発症して、九州大学病院に入院した。身体に紫斑病が出現して、原爆症が重篤となり、側臥位でベッドに横たわった。原子爆弾の放射線の被爆により、最も早期の原爆症は脱毛から始まり、紫斑は約1週間して出現した。同時期に出血性歯肉炎や口内出血も伴った。被爆後の約1週間から2週間に下痢症状が、3週間まで発熱と口腔内咽頭炎が生じた。多くの被爆者は約17日前後に死亡した。原子爆弾の被爆で、最も深刻な影響を受けた臓器は骨髄と腸粘膜であった。大量に放射線に照射された骨髄は脂肪と白く染色された細胞に置き換えられて、造血細胞の根絶した。放射線に曝された結腸は平坦になり、出血が出現した。病理学的所見では、急性放射線病または急性放射線症候群(ARS)と診断された。
 紫斑病は、血斑または皮膚出血とも呼称されて、紫色に現れた皮膚の斑点である。皮膚だけでなく、反転は口の内側の膜から臓器または粘膜にも出現する。紫斑は、皮膚の小さな血管が破裂して、血液が皮膚の下に溜まる。原爆症にて、血小板の減少、血管障害、凝固障害などの重篤な病態を呈する。身体無いに過度の出血をもたらす。「紫斑、すなわち皮下出血は、急性放射線疾患の症状の一つです。原爆被爆後数日から数週間にかけて、重度被爆者は発熱、吐き気、嘔吐、食欲不振、下痢を伴う血便、脱毛、紫斑または点状出血、のどまたは口内のただれ(鼻咽頭潰瘍)、歯ぐきの衰退および潰瘍(壊死性歯肉炎)を経験しています。これらの症状の発生時期はそれぞれ異なりますが、一般的に、重度被爆者においては早くから発生しました。 (日米共同研究機構、放射線影響研究所;1975年, 元ABCC(原爆傷害調査委員会 ;1947年)」


2020年3月28日土曜日

第二次上海事変で、宝山の戦地の中国軍陣地の塹壕下に、多数の中国軍兵士の死体が散乱して日本軍検閲部が掲載不許可にした。

第二次上海事変において、日本陸軍の第11師団の永津部隊兵士と田中隊兵士が、1937年9月20日に中華民国軍と奮闘した。宝山の戦地の中国軍陣地の塹壕下に、多数の中国軍兵士の死体が散乱した。大阪毎日新聞社の写真部が、9月23日に日本軍の新聞掲載の検閲を受けた。中国軍兵士の死体が撮影された写真のために掲載の「不許可」の赤字を左下に印章された。その他に死体の写っていない中国軍からの捕獲品と中国軍陣地の地形は、個人情報を削除した上で、掲載できる「検閲済」の赤字の印章を受けた。日本軍の検閲により報道写真には「検閲済」「不許可」などの印鑑や赤ペンでの修正指示が書き込まれた。毎日新聞社は戦後まで保管した日中戦争などの「不許可写真」を1977年に公開した。
 日本軍の第11師団は、9月末までに戦死者は約1,560人、戦傷者は約3,980人の犠牲を伴った。日本軍は、9月5日に上海から約25kmにある沿岸の中国軍の拠点であった宝山(Luodian)を包囲して占領した。宝山の地帯は悪路に加えて溝が網の目にめぐらされ、砲弾などの補充が困難となり、陣地から侵攻も困難であった。日本軍の砲撃が停止して、日本陸軍の突撃のみ前方に突進して、中国軍の死傷者率は50%にも達した。中国軍は、宝山がもはや保できず、9月15日に敗走した。宝山の周辺地域である羅店における中国軍と日本軍の悲惨な戦闘は「肉と血の粉砕機(血肉磨坊)」とも呼称された。第二次上海事変で、中国軍兵士は、約187,200人が戦死して、約83,500人が戦傷した。日本軍兵士は、約18,800人が戦死して、約35,000人以上が戦傷した。


2020年3月27日金曜日

グアテマラにて、1996年9月に2人の囚人を銃殺隊が銃撃してから、重態で生存した囚人の頭部に拳銃で射殺した。

グアテマラのエクイントラ市にて、1996年9月に2人の強姦致死罪の囚人を目隠して、銃殺隊が至近距離から銃撃して公開処刑した。一人の銃殺隊員が近づいて検死をすると、一人は即死していたが、もう一人は重態で生存していた。重態で生存している囚人の頭部に拳銃を押し付けた。頭部を直撃する発砲をして銃殺した。公開された残酷な銃殺による虐殺する死刑の執行手段が国内外から批判された。
  グアテマラ内戦でグアテマラ政府と闘った様々な左翼反政府勢力は、マヤ先民族が主体となった。グアテマラ政府軍1960年11月から1996年12月まで農村部の貧困層を内戦中にマヤ人民族と民間市民に対する大量虐殺をした。長期にわたる内戦中に、農村部の貧困層と対立するヨーロッパ系企業や外国企業との土地分配が紛争となった。1944年と1951年のグアテマラ革命民主的選挙は、左翼政府を導いた。冷戦に対抗したアメリカが支援して軍事クーデターを1954年に引き起こして軍事政権を樹立した。その後もアメリカの支援下で一連の右翼的な軍事独裁が続いた。1970年に軍事独裁者は、選挙詐欺を通じて、約12年間グアテマラの政治を支配した。1982年3月23日の軍事クーデターで新たな軍事政権が権力を掌握した。1970年代に社会的な不満が存続して、不平等な土地保有に対して先住マヤ民族や農民らが大規模な集団で反乱を引き起こした。1980年代にグアテマラ軍が約5年間にわたり独裁的な政府権力を握って、すべての社会政治的な反対勢力を排除した。
 内戦中に約20万人が虐殺されるか、行方不明と強制的な失踪と推定された。政府軍と反政府勢力間の戦いがあったが、1960年代半ば以降から、グアテマラ国家による民間市民に対する一方的に大規模な虐待と虐殺が執行された。国家の反対派および反乱分子の容疑者、および諜報機関による殺害および失踪に関与した。グアテマラ国家はラテンアメリカで、最初に広範囲にわたる強制失踪を執行して、1966年から1996年の終結までの失踪者数は約4万人から約5万人と推定された。反乱の拠点となった農村地域は弾圧されて、農民の大虐殺と村民全体の虐殺にまで至った。最初はイザバルとザカパ(1966–68年)の地域から、1978年以降は主にマヤ西部の高地を弾圧した。1980年代の初めには、軍、警察、諜報機関が大量虐殺に関与した。弾圧の犠牲者は先住マヤ民族を含み、政府反対派容疑者、帰国難民、反抗勢力の約93%が政府軍によって、約3%がゲリラによって犠牲となった。