2020年3月21日土曜日

新興善国民学校の職員室で、9月24日に長崎原子爆弾の被爆者に外来診療を行った。新興善小学校は解体され救護所メモリアルに変貌した。

新興善特設救護病院における外来診察室は、かつて新興善国民学校の職員室であった。9月24日に長崎原子爆弾の被爆者に外来診療を行った。1945年8月9日に長崎市へ原爆が投下されて炸裂した。8月9日被爆直後の原爆による甚大な被害により、長崎医科大学本部と附属病院が、新興善国民学校を仮収容所として患者診療を開始した。10月6日に、新興善救護病院が長崎医科大学附属病院となった。11月上旬に長崎医科大学本部が長崎経済専門学校から新興善国民学校に復帰した。
 1946年2月9日に、新興善国民学校の児童数約495名は、晧台寺に移転した。新興善国民学校を長崎医科大学附属第一医院として診療開始した。1947年4月1日に、学制改革(六・三制の実施)により、新興善国民学校は、長崎市立新興善小学校と改称した。1949年1月22日に新興善小学校は、大学校舎の裏手に仮校舎が完成して、晧台寺から移転した。1950年10月2日から、長崎大学医学部附属病院各科が10月6日までの4日間に、約6年ぶりに浦上の旧構内に復帰した。10月20日に、長崎大学本部が諫早から新興善小学校に附属外来診療所の一部を移転した。1951年12月25日に長崎大学本部と附属外来診療所が興善町35番地へ移転し、新興善小学校が復帰した。


 1997年3月31日に新興善小学校は、統廃合により閉校して、123年の歴史に幕を下ろす。2004年5月に長崎原子爆弾の最後の被爆遺跡が存続されずに解体された。2008年1月に、新興善小学校の校跡地に長崎市立図書館が開館した。被爆の遺跡の一部を複製して「救護所メモリアル」に再現した。
  救護所メモリアルは、その場所にあった新興善小学校では、かつて原子爆弾による多くの被爆者が救護を受けた。旧長崎市立新興善小学校の正門のみが僅かに残存した。長崎原子爆弾の象徴を残していた浦上天主堂も1958年3月18日から解体されて幻の人類遺産になった。長崎市内の原爆の遺跡は、数多く解体された。1980年代後半に、建物の老朽化で、多くの被爆建造物が解体された。爆心地の近隣の山里小学校の被爆校舎も、解体されて新校舎に変貌した。1992年には、旧長崎刑務所の浦上元刑務所の遺跡も、平和公園の改修で大部分が解体された。新興善小学校を、被爆関係者から救護所の現物保存による記憶よりも、校区住民が慰霊祭と平和学習の生活が優先された。
 原爆記憶は真実の象徴があれば、世界平和に向けて発信できる。特に視覚による画像は、戦争記憶を継続するためにもより発進することが重要となっている。戦争の視覚は、文字の視覚よりも、社会的な平和思想と戦争思想が到来して蘇生する。


2020年3月20日金曜日

第一次世界大戦のソンムの戦いで、ルージュの森でドイツ軍兵士が殺害され残骸中に腐敗して横たわったドイツ人の死体が散乱した。

第一次世界大戦の西部戦線にて、1916年10月にソンムの戦いで、ルージュの森でドイツ軍兵士が殺害されて、残骸中に腐敗して横たわったドイツ人の死体が散乱した。ルージュ・ゾーン(レッド・ゾーンの危険地域)は、第一次世界大戦では、1916年2月21日から農耕地の小さな村が散在したフランス北東部ムーズ川周辺の地域で、第一次世界大戦のヴェルダンの戦いが勃発して303日間と最長となる12月19日に終結した。近隣のフランス北部のピカルディ地方を流れるソンム河畔で、7月1日からのソンムの戦いが11月18日に終結した。フランス軍・イギリス軍とドイツ軍が大量に弾薬や銃などの兵器を、ルージュ・ゾーンに投棄したことで環境が破壊された。非常に危険な地帯となり、未だに約170平方キロメートルが立ち入り禁止区域として制限されている。土地が非常に荒廃して、村の再建と再定住が不可能となった人跡未踏の地域となった。ルージュ・ゾーンには、弾薬、不発弾、死骸、鉛、ヒ素、水銀、酸、ガスなどの化学物質が地面に潜在して、2012年にフランス政府は、レッド・ゾーンから住民を強制排除した。
 1916年7月1日からのベェルダンの戦いの初日には、イギリス軍は約わずか平方マイルの占領のために、1日だけで約19,240人が戦死して、約57,470人が戦傷した。1916年9月15日にはイギリス軍は、史上初の戦車(MarkⅠ)をわずか5台投入して、フレール方面の戦場に突撃したが、占領地域は幅8kmと奥行き2kmのみであった。ヴェルダンの戦いで、フランス軍は約200,000人、イギリス軍は約456,000人、ドイツ軍は約500,000人が犠牲となった。ソンムの戦いでは、フランス軍は約約200,000人、イギリス軍は約420,000人、ドイツ軍は約750,000人が犠牲となった。ドイツの作家であるエーリヒ・マリア・レマルクの小説「西部戦線異常なし、報告すべき件なし。」は、ヴェルダンの戦いに従軍した経験から誕生した。


2020年3月19日木曜日

日本軍がサイパン島のアスリート飛行場に突撃するも、多数の朝鮮人の強制労働者が、戦闘に巻き込まれ殺害された。

1944年6月26日夜中に、日本軍がサイパン島で占領されたアスリート飛行場へ突撃するも敗退した。突撃で、多数の朝鮮人の強制労働者が、戦闘に巻き込まれて殺害された。アメリカ軍のスパイ活動に対抗するための対敵情報活動部隊が死亡した朝鮮人の強制労働者の死体を検死した。日本による国家総動員法の1939から1941年までに、韓国人強制労働者の約5,800人がサイパン島など太平洋諸島に強制連行された。大多数の朝鮮人強制労働者は犠牲となった。その後1941年から1945年の終戦までさらに多くの朝鮮人強制労働者は連行されて、太平洋諸島はアメリカ軍の侵略に巻き込まれて犠牲となった。
 アスリート飛行場への突撃で、日本軍兵士は約143人が戦死して、アメリカ軍は約33人が戦死した。サイパン島に連行された2,000人ほどの朝鮮人軍属の半数近くが死亡して、約1,300人が生存した。日本はこれまでサイパンの軍事力を継続的に強化するも、アメリカ軍の攻撃に直面して、日本軍を強化するためにサイパン島で兵士と民間人を徴兵した。太平洋戦争でのサイパンの残酷な戦いの一つは、マリアナ諸島のサイパンでの戦いであり、サイパン島を占領するための戦いでした。サイパンでの戦闘は、戦闘全体が重傷を負ったため残酷であり、日本軍と海軍は41,000人以上の死傷者を出し、2,000人近くに捕えられました。アメリカ軍も16,000人以上の犠牲者を出しました。
 1944年6月11日に、アメリカ軍はサイパン島に対する地上攻撃から、地上要塞のほとんどを破壊した。直後から、サイパンの西海岸に上陸した。6月17日夕方まで、日本軍は反撃を繰り返すも、すぐに撃退された。6月19日から20日にかけて、アメリカ海軍と日本海軍はマリアナの海で激闘となった。サイパンでの戦いの結果、日本海軍は敗北し、日本軍は完全に孤立した。その後、アメリカ軍は高所を占領し、北方全土に攻撃した。20日間の激しい戦いの後、日本人は重傷を負い、わずか約4,000人しか生存しなかった。1944年7月7日に、残りの4,000人の日本軍がアメリカ軍に反撃したが一掃された。7月8日にはアメリカ軍がサイパン島全体を占領した。サイパンの戦いは日本軍の敗北をもたらし、アメリカ軍は島全体を占領しました。日本軍と海軍は合計約41,000人以上の死傷者を出し、約2,000人近くが捕虜になった。アメリカ軍も、戦闘中に16,000人以上の死傷者が出た。サイパンの戦いの後、アメリカ軍はサイパン島を占領し、マリアナ諸島を占領す拠点を作り、日本本土へのさらなる直接攻撃の基地を築いた。


2020年3月18日水曜日

三島由紀夫が自衛隊総監室で切腹自殺をした死体と、鉢巻を締めた生首が縦に置かれた。

三島由紀夫が市ヶ谷の自衛隊総監室で切腹自殺をした直後の制服をかけた死体と、切腹自殺の時に介錯されて断頭されて、鉢巻を締めた生首が縦に置かれた。総監室に持ち込んだ日本刀や短刀などが散在していた。赤絨毯の上が血の海となった。国内外ともに、憶測と論争から騒然となった。
 著名な作家であった45歳の三島由紀夫は、1970年11月25日に、自分が主宰する「楯の会」のメンバー4人と、防衛庁(現防衛省)自衛隊市ケ谷駐屯地の東部方面総監室で、午前11時に総監を拘束し人質にして、自衛隊員と乱闘して総監室に立てこもった。自衛隊員を集め、憲法改正のため自衛隊の決起いわゆるクーデターを呼びかけた。しかし賛同を得られないと判断した後に、自ら切腹自殺をした。三島由紀夫は、1968年頃から軍事的な侵略に備える軍隊的な規律を持った民間防衛組織である楯の会を結成していた。
 総監を人質にして、市ヶ谷駐屯地にいる自衛官全員と、市ケ谷会館に待機している「楯の会」の会員を、駐屯地に集合させて、三島由紀夫に演説をすることを自衛隊に強要した。午前11時40分に約800人の自衛隊員が本館前に集合した。12時に三島由紀夫が、バルコニーに立ち、スピーカーも無く演説を始めた。三島由紀夫は自衛隊員に向かって、「自衛隊が立ち上がらなきゃ、憲法改正ってものはないんだよ。諸君は永久にだね、ただアメリカの軍隊になってしまうんだぞ。(中略) 諸君は武士だろう、武士ならば、自分を否定する憲法をどうして守るんだ」と絶叫し、憲法改正などを目的としたクーデターの決起を促した。ヘリコプターの騒音と、自衛隊員の怒号やヤジなどによって、演説はほとんど聞けなかった。12時10分に、演説を諦めて「天皇陛下万歳」を3回繰り返して、総監室に戻った。総監室に戻り、上半身を裸になり、正座して切腹して自殺するために、短刀を左脇腹に突き刺し、右へ引き切腹した。楯の会のメンバーが、三島由紀夫の首を日本刀で断頭して、身体が前面に倒れた。楯の会のメンバーの25歳の一人が切腹して、残った3人のメンバーが日本刀で断頭した。12時30分に、残った楯の会3人は、総監室で現行犯で警察に逮捕された。3人は嘱託殺人等で、懲役4年の実刑判決と裁定された。
 東京および近郊に在隊する陸上自衛隊内で行われたアンケート(無差別抽出1000名)によると、大部分の隊員が、「檄の考え方に共鳴する」という答であった。一部には、「大いに共鳴した」という回答であった。海外は、日本軍国主義の象徴と復活の恐れを議論して注目した。



2020年3月17日火曜日

ダッハウ強制収容所の親衛隊員が、銃弾を数発を受けて、運河に飛び込んだ水死体が浮き沈みした。

ダッハウの強制収容所が、アメリカ軍によって1945年4月29日に開放された。アメリカ軍によるダッハウ強制収容所の開放に抵抗したドイツ軍親衛隊員が、1945年4月30日に射殺された。逃避した親衛隊員は、銃弾が数発の射撃を受けた。銃撃されたドイツ軍親衛隊員が、運河に飛び込んで水死した。水死した死体が、水の流れの中で浮き沈みをした(@Lee Miller)。アメリカ軍は強制収容所を解放してからも、降伏を試みた親衛隊員、降伏が受理された後の親衛隊員も虐殺した。その他に、解放された囚人も、親衛隊員を虐殺した。アメリカ軍や囚人の虐殺者は戦後に軍法会議で告発を受けるも、組織的な犯罪を否定して無罪となった。
 ナチス・ドイツは、ドイツ南部のミュンヘン近郊のダッハウに最初の強制収容所である。アドルフ・ヒトラー(1889-1945)が1933年1月30日に首相になった直後の1933年3月22日に開設した。ナチス・ドイツ軍の親衛隊の将校が管理して運営した。ダッハウに当初は、政治犯の収容所であった。1938年11月9日に、ユダヤ教の会堂が焼却されて、ユダヤ人は約30,000人が逮捕されて、約11,000人がダッハウに強制収容された。約6,000人の定員に、約30,000人の囚人が強制収容された。最終的には数千人のユダヤ人が栄養失調、病気、過労で死亡して、死刑の強制収容所に悪用された。1935年のニュルンベルグ法で人種差別が合法化されてから、ユダヤ人だけでなく、強制収容所の囚人には、芸術家、知識人、身体的および精神的障害者、同性愛者など、ナチス・ドイツに適合しない容疑者を含めた。第二次世界大戦(1939-45)の到来により、一部のダッハウの囚人は、ドイツの戦争の武器や材料を製造する強制労働を強要して拷問と虐待をした。さらに、一部のダッハウ被拘禁者は、ナチス・ドイツによる残忍な医学実験材料となった。


2020年3月16日月曜日

第一次世界大戦のソンムの戦いで、ドイツ軍の塹壕が爆撃されて土砂で埋まり、塹壕を放棄して退却した。

第一次世界大戦におけるソンムの戦いで戦闘によりドイツ軍部隊が塹壕を放棄して退却した。ドイツ軍の塹壕が爆撃されて、土砂で埋まりほぼ平らになった。撤退した後に、壊滅した塹壕とその溝にドイツ軍の死体から装備まで埋まっていた。砲撃がドイツ軍の防御にかなりの損傷をを与えた。地面に掘られた長く狭い塹壕は、第一次世界大戦の兵士を機関銃と空からの砲撃から保護するように構築された。イギリス軍は、ソンムの戦いの初日だけで、最も血なまぐさい約57,470人のイギリス人の犠牲となり、約19,240人が死亡した。ソンムの戦いは、1916年7月1日から11月18日まで、フランスのソンム川で戦闘が起こり、9月15日にイギリス軍の戦車が登場した。死傷者は、ドイツ軍が約434,500人、イギリス軍が約414,690人、フランス軍が約202,567人にも達した。
  第一次世界大戦は、西部戦線は血まみれの泥だらけの戦場となった。おびえた若い男性兵士がひざの深い泥の中に立って、頭上への突撃を待機して、機関銃、有刺鉄線、迫撃砲、銃剣、白兵戦などに直面した。単純にただ前進することが困難であった。殺害された男性兵士は驚異的な数となった。西部戦線の膠着状態は4年間も続き、新しい兵器の過激な進歩を余儀なくされ、戦国の資源を枯渇させ、て周辺の田園地帯を破壊した。
 1917年の初頭には、イギリス軍とフランス軍は、ベルギーとフランスのドイツ軍に対して無益な攻撃を開始した。大きな犠牲を受けた。相互に防御の機能を構築して、限定された攻撃を開始した。毎月に数千人の命を奪う膠着状態を続けてた。1918年には、ロシアと中欧諸国間の条約によりドイツに資源が解放された。アメリカ軍がフランスに到着し始め、連合軍の指揮はより統一されて、攻撃的になった。1918年7月に潮流が決定的に変わり始めて、アミアンの戦いから始まり、百日攻勢が続いた。連合軍は、ドイツ軍とオーストリア=ハンガリー軍をヒンデンブルクラインを越えて追い出して、停戦を求めた。1918年11月11日に、緒戦から4年後になってすべての戦闘が西部戦線で停止した。


2020年3月15日日曜日

ソビエト連邦は、カザフスタンのチャガン川の付近にあるセミパラチンスク核実験場で、1965年1月15日に地下核実験をした。

ソビエト連邦は、カザフスタンのチャガン川の付近にあるセミパラチンスク核実験場で、1965年1月15日に地下核実験をした。核出力は、TNT140Ktに相当した。チャガン実験により、乾燥床が炸裂させてクレーターとなり、チャガン川から流入してチャガン湖が形成された。クレーターは直径約408m, 深さ約100mに達して、チャガン川から流入する人工湖を形成した。
   アメリカと日本の両国で放射能が検出された。核実験から放射能が放出して、1963年の部分的核実験禁止条約(PTBT)に違反した。アメリカはソ連に核爆発を非難して、偶発的させた高収量兵器試験による放射能の発散と抗議した。ソ連は、PTBTは地下核実験に該当せず、核爆発は地下深くで行ったと反論した。ソ連は、大気中に漏れた放射性残骸の量はごくわずかであり、領土制限外での放射性物質の降下物の可能性を否定した。その後のいくつかの相互交渉の後に、放射能の問題はそれ以上のソ連の説明は無く隠蔽された。
 セミパラチンスク核実験場は、かつて旧ソビエト連邦の主要な核実験場であった。カザフ共和国(現・カザフスタン)の北東部、セメイの西方約150kmの草原地帯にあり、面積は約18,000km2にも達する。1949年から1989年の40年間に合計で456回もの核実験場に使用された。核実験場は1991年8月29日に正式に閉鎖された。カザフスタン市民の放射能被曝による影響は、ソ連政府によって1991年の実験場の閉鎖まで隠蔽された。ソ連の最初のプラトニウム型の原子爆弾の核実験であるRDS-1は、1949年8月29日にセミパラチンスク核実験場が行われた。周辺地域に放射性物質物が降り注いだが、カザフスタン市民への避難警告はなかった。水素爆弾は、1953年8月12日の水爆装置実験RDS-6、1955年11月22日の初の水爆実験RDS-37などが試行された。セミパラチンスク核実験場の周辺住民を滞在させた人体実験となり、放射能被爆の被害を受けた。




2020年3月14日土曜日

朝鮮戦争において、内戦により奪還されたソウルのある地域で北朝鮮軍によって大韓民国の民間住民が虐殺された。

朝鮮戦争において、内戦により奪還されたソウルのある地域で北朝鮮軍によって大韓民国の民間住民が虐殺された。 女性の死者も含まれていた。北朝鮮軍は、ソウル市民の数十万人を「反共産主義の反動分子」として無差別に大量虐殺した。特に北朝鮮人民軍の民間人虐殺は非常に残酷であった。人民軍は左翼勢力と一緒に占領地域ごとに人民裁判と処刑を敢行した。主にキリスト教徒、役人と軍人・警察の家族、知識階層、右翼などが最優先で虐殺されて、婦女子や赤ちゃんにも例外なく処刑した。
 朝鮮戦争は国全体が廃墟になる3年の戦争中に多くの死傷者が発生した。韓国国防軍研究所によると、韓国軍は約13万7899人、主なアメリカ軍が約5万4246人、中国軍が約14万8600人、北朝鮮軍は約50万〜52万人が殺害されたと推算した。している。戦争によって死亡した民間人は約99万968人にも達った。朝鮮戦争当時の両両軍の戦死者よりも多かった。その中で軍隊の兵士による虐殺で命を失った民間人は約12万8936人に及んだ。
 1950年6月25日午前4時に、約10万人にも及ぶ北朝鮮軍の砲撃から侵攻が開始されて、北朝鮮軍が38度線を越えて、宣戦もなく朝鮮戦争(6.25戦争)は突然に勃発した。1950年6月28日午前1時頃に、ソウルの最終防衛線は崩壊して、北朝鮮軍が市内に突入した。ソウル市内、とくに漢江北岸はソウル避難民や韓国軍兵士によって大混乱に陥って、市街地の通行は極めて困難となった。漢江橋の爆破命令を受けて、6月28日2時20分にごろ、爆破命令が下達され、人道橋、続いて3本の鉄橋が爆破された。漢江人道橋爆破事件によって約500から約800人のソウル避難民が犠牲となった。北朝鮮軍がソウル市内の中央部に突入したのは、28日の11時30分ごろであった。ソウル市街戦は、撤退してきた韓国軍が展開した。北朝鮮軍は約10時間で、漢江戦線まで侵攻した。
 退路である漢江人道橋の爆破で、韓国軍主力部隊は退路を遮断された。複線鉄橋と単線鉄橋が完全に破壊されず、北朝鮮が漢江を渡河した。漢江の橋梁が爆破されて、韓国軍は、依然としてソウルの外郭防衛線において戦闘で残存していた。しかし、橋梁が爆破されて、北朝鮮軍がソウル市内に突入して、韓国軍の各部隊は、雪崩を打ったように後退を開始した。韓国軍主力は退路が遮断されて、北朝鮮軍の突撃により崩壊した。韓国軍は分散して漢江の渡河を余儀なくされて、北朝鮮軍の攻撃を受けて渡河時に甚大な犠牲を伴った。ソウル市内から撤退できた韓国軍は、6月29日朝には概ね完了した。しかしその後も、ソウル市内には、脱出の機会を逸して潜伏した多数の韓国軍とソウル避難民が、北朝鮮軍に捕らえられ虐待あるいは虐殺された。
 韓国軍と国連軍は、1950年9月28日にソウルを奪還した。北朝鮮と10月19日から参戦した中国軍は1951年1月24日にソウルを再度に奪還して、さらに韓国と国連軍は3月15日に再奪還した。その後も約3年間も引き続く内戦で、多数の軍人と民間人が犠牲となった。民間人の虐待と虐殺もその報復も繰り返されて、敵対的な対立が深刻となった。朝鮮戦争で、双方が壊滅して疲弊して、1953年7月22日22時に休戦協定で休止した。


2020年3月13日金曜日

沖縄戦で家屋に潜伏していた日本軍兵士が、アメリカ軍から飛び出して逃避する間に射殺された。

1945年4月に家屋に潜伏していた日本軍兵士が、アメリカ軍から飛び出して逃避する間に射殺された。家屋の前に戦死して仰向けに転倒したしたいが横たわった。住人は既に民家からは逃避していた。再び潜伏できないように、アメリカ軍兵士が、わら箒の先端に火をつけた。木造わら屋の民家のわら屋根に、引火したわら箒引で周囲から焼き払って焼滅した。
  沖縄の戦いは、太平洋戦争の最後の大規模な戦闘となった。太平洋戦争の他のどの戦いよりも、より多くの軍隊が上陸し、より多くの物資が輸送され、より多くの爆弾が発射して投下された。広島原爆と長崎原爆の被爆死よりも、人々が沖縄の戦いで死亡した。アメリカ軍の死傷者は、約12,000人が死亡または行方不明になり、約38,000人以上のアメリカ兵士が戦傷した。約107,000人以上の日本軍兵士と沖縄の徴集兵が死亡して、おそらく約100,000人の沖縄市民が戦闘に巻き込まれて死亡した。
 沖縄の戦いは、太平洋戦争で最も悲惨で残酷な戦闘となった。主に神風の特攻隊により、約34隻の戦艦が沈没し、約368隻の船と船が破損した。アメリカ艦隊は約763機の航空機を失った。沖縄戦で、アメリカ軍の総死傷者数は12,000人を超えて、死者は約5,000人、海軍と陸軍は約8,000人が死亡し、約36,000人が負傷した。約26,000人以上の非戦闘員の死傷者を伴った。沖縄の戦いでは、戦闘ストレスによる戦闘損失の割合は、戦闘による負傷の割合として表され、約48%にも達した。(朝鮮戦争では全体の割合は約20〜25%で、ヨムキプール戦争では約30%であった)。沖縄戦でのアメリカ軍の損失は非常に多かったので、議会が軍事司令官の行為の調査を求めた。沖縄の戦いの過大な負担から、わずか6週間後に日本に対して原子爆弾を使用する決定に影響を及ぼした。
 特に日本軍の人的損失は莫大であった。約107,539人の日本軍兵士が殺されて、約23,764人が洞窟に埋められたか、日本軍自身に埋められた。約10,755人が捕虜または降伏した。日本軍は約7,830機の航空機と約16隻の戦艦を失った。多くの沖縄住民が洞窟に逃げた後に、埋葬されたので、民間人の正確な人数の犠牲者は明確にならない。最低の推定は約42,000人が殺害された。沖縄住民の10分の1から3分の1が死亡したと推定された。アメリカ軍の記録では、沖縄には約30万人の民間人が住んでいたが、沖縄戦の終結時には、約196,000人の民間人生存した


2020年3月12日木曜日

ドイツ軍は、国際特派員にドイツ系住民がポーランド人によって虐殺されたドイツ民族の死体だけを特定して見せた。

1939年9月3日にポーランドで血の日曜日と呼称されるブロムバーグ虐殺が勃発した。ドイツ軍は、国際特派員にドイツ系住民がポーランド人によって虐殺されたドイツ民族の死体だけを特定して見せた。ドイツ国防軍兵士がジャーナリストにドイツ人犠牲者の死体を示した。写真は、ナチス・ドイツの宣伝で使用された。この画像には編集者のトリミングマークが付いており、公開に使用することを目的としていた。
 ビドゴシュチュ(ドイツ名: Bromberg, ブロムベルク)を通じて、撤退していたポーランド軍隊は、ドイツ系住民によって撃たれた。 その後の戦闘で約40〜50人のポーランド人と約100〜300人のドイツ人が殺害された。その殺害に続いて、ナチス・ドイツ軍の甚大で悲惨な報復と弾圧が行われ、虐待と虐殺ならびに強制収容所に収監した。ナチス・ドイツ軍は、1939年9月1日にポーランド侵攻を突発した。ポーランドのビドシチ(ドイツ名: Bromberg)において、直後の9月3日にポーランド軍とポーランド人住民と、ドイツ人系住民との間で殺害事件が起こった。ポーランド側に約238人、ドイツ系住民の側に約223人が殺害された。戦時中のナチス・ドイツ軍は、9月3日の事件を、無実のドイツ系住民に対するポーランド人の卑劣な虐殺である「ブロンベルグ血の日曜日事件」として国内外に喧伝と非難をした。
 ドイツ軍ならびに自衛団や警察部隊は、その1週間後に9月9日から10日にかけて、ブロンベルグ血の日曜日事件の復讐と称して、ポーランドのブルンベルグにて市内や周辺の各地で約3,000人のポーランド人を無作為に選抜しては広場で銃殺する様々な無差別に虐殺さた。ドイツ軍はさらに1939年末までに約13,000人のポーランド人を、ポーランド北部の絶滅収容所となるシュトゥットホーフ強制収容所へと強制送還した。総計約10,500人のポーランド人がビドゴシチとその周辺で殺害された。
  ナチス・ドイツはポーランド侵攻時から1939年11月までのドイツ系ポーランド人の死者数を約5,437人と強調して、国内外へ向けて反ポーランド感情を煽るプロパガンダの喧伝した。さらに1940年2月にはの死者数は約58,000人と誇張した。最終的には約60,000人以上が殺害されたと宣伝した。しかし現在では、ドイツ系住民はポーランド全土で約5,000人程度と推定された。



2020年3月11日水曜日

第一次世界大戦において、3人のドイツ軍兵士がベルギーのゾンネべーケ近くのトーチカの外壁で殺害された。

第一次世界大戦において、1917年9月23日に3人のドイツ軍兵士がベルギーのゾンネべーケ近くのトーチカの外壁で殺害された。殺害された3人のドイツ人の死体が、トーチカの下で積み重なって腐敗していた。多数のトーチカ、砲兵陣地、地雷源などが、有効的に防御する要塞となっていた。トーチカは、鉄筋コンクリート製の防御陣地となった。戦車や航空機といった初期の近代兵器が登場した第一次世界大戦当時までは、人間が接近して銃撃から爆薬を投げ込むといった攻撃方法しかなかった。しかし、各種兵器がより強力に発達した第二次世界大戦からは、いくつかの悲惨で残虐な大規模攻撃が編み出された。
 第一次世界大戦の西部戦線のゾンネべーケ近郊のパッシェンデール(Passchendaele)の戦いにて、連合軍とドイツ帝国軍が激闘した。1917年7月21日から、ベルギーの西部の都市イーペルに対する三度目の戦闘が、周辺のパッシェンデール村を主戦場として会戦が勃発した。ドイツ軍の塹壕ならびにトーチカ群に対して、イギリス軍やカナダ軍などの混成の連合国軍が突撃した。双方ともに約1m進撃するのに約20名の兵士の殺害された。非常に激しい悲惨な多大な犠牲を伴った。ドイツ軍は、イペリットと戦場から呼称された毒ガスのマスタードガスを初めて連合軍に投入した。びらんと炎症を起こして、細胞分裂を阻害して失明にも至った。約3ヵ月にも及ぶ長期間の戦闘により、犠牲者は連合軍が約44,8000人、ドイツ帝国軍は約260,000人にも達した。11月6日に戦闘が停止したとき、結局は連合軍が奪回できたのは都市イーペルの峰東のみであった。都市は大砲や銃撃の砲弾によってほとんど壊滅した。パッシェンデール村は両軍の絶え間ない砲撃で皆無なきまで破壊し尽された。 今でも地面を掘り起こすと多数の人骨が残存している。パシェンデールとは、近代兵器による残虐な戦争による虐殺を示唆した。


2020年3月10日火曜日

東京初空襲により荒川区尾久で一家が焼死して、4歳の子どもの焼死体が焼トタンの上に並んで黒い骸と化していた。

太平洋戦争において、東京がアメリカ軍の爆撃機により初空襲された。まき散らした爆弾と焼夷弾により、家屋内で焼死した死体が散乱した。荒川区尾久で一家が焼死して、4歳の子どもの焼死体が並んで黒い骸と化した。死体を焼きトタンの上に並べた。身元が判別できないほど黒化した焼死体が散乱していた。一気に殺害されて、まっ黒い死体となった。
 1942年4月18日に、アメリカ軍の爆撃機B-25が東京都内を初めて空襲して、爆弾と焼夷弾などが投下されて炸裂した。日本本土に対する初めてのドーリットル(Doolittle Raid)空襲となった。月島から品川に向けて爆撃機体が通過した後には、日本軍による高射砲弾の弾幕が立ち昇った。既にアメリカ軍の爆撃機が飛来して空襲して通過してから、その後に空襲警報は鳴った。爆撃機は、航空母艦より発進して、東京の上空に侵入した。13機体のB-25の爆撃機が編隊を組んで、超低空より爆撃をした。大井方面は大規模な火災が発火した。空襲による爆撃で、大井から品川区方面の工場一帯なとが壊滅した。さらに、荒川区、王子区、小石川区、牛込区などに爆弾と焼夷弾を振りまいた。荒川区の尾久では、広範囲に家屋もが倒壊して燃え上がった。爆弾の炸裂ににより、直径約10mと深さ約2mの掘穴に達した。4月18日の東京初空襲では、約39人が殺害された。川崎、横須賀、名古屋、四日市、神戸も同じ4月18日に空襲された。日本人は、それぞれ約87人が死傷と約466人が軽傷を負い、262軒の家屋が破壊された。「東京大空襲」とは、死者数が10万人以上となった1945年3月10日の東京下町に対する夜間空襲(下町空襲)により、罹災者は約100万人を示唆した。



2020年3月9日月曜日

第一次上海事変で、激しい日本軍と中国軍の戦闘に巻き込まれて殺害された子供らの死体が横並になった。

第一次上海事変における日本軍と中国軍との激しい戦闘に、上海の民間市民が巻き込まれた。多くの上海の中国人の子どもらも犠牲となった。殺害された子供らの死体を空き地に横並びにして死後処理をした。
 1932年1月28日から3月3日に中華民国の上海共同租界の周辺で、日中両軍の第一次上海事変が勃発した。中国では一·二八事変と呼称する。1932年1月28日の真夜中に、日本軍は突然とライフルと機関銃で、警護として外国人居留地であった上海共同租界を攻撃した。日本軍の爆弾により上海地区が破壊された。煙が立ち込めた上海の通りでは、第一次世界大戦以来で、最も激しい戦闘が始まった。1月28日の午後には、中国軍兵士が潜伏しながら、戸口に登り、銃を発砲し始めた。上海の街路は、排水溝のように空となった。家屋の鉄フェンスのドアは、川の貝のように閉じた。3月3日に中国軍が撤退して終結するまでに、日本軍は約679人が戦死して、約2,322人が戦傷した。中国軍は約4,000人が戦死して、約9,000人が戦傷した。上海市民が第一次上海事変に巻き込まれて、死者は約6,000人、負傷は約2,000人、行方不明が約14,000人にも達した。
 日本軍による銃撃、連行、虐殺などの残虐行為が引き続き発生した。一部の中国人は連行されて、家族も襲撃されて、多くの民間人が殺害された。ある中国人の老女を家から引きずり出し、足で顔を蹴った。 中国人が始めたテロ行為は、何日も止められないほどに拡大した。恐ろしいテロ行為は、在留日本人らは動揺して、ショックを受けて恐怖を来した。一部の日本の領事館の職員は、介入する権利さえなかった。1931年9月18日に、鉄道車両が日本の侵略軍によって破壊された満州事変から、反抗日運動が激化していた。



2020年3月8日日曜日

広島逓信病院にて、広島原子爆弾による被爆者に対して一日中わたり懸命な救護活動が行われた。

広島原子爆弾の炸裂により、爆心地から約1.4kmにある東は白島町の広島逓信病院は、爆風で窓枠も吹き飛んだ。広島逓信病院にて、被爆者に対して一日中わたり懸命な救護活動が行われた。広島逓信病院の眼科の勤務医が、左腕を被爆しながら医療関係者らと救護活動に専念した。翌日の8月7日早朝から病院に出勤した。相当の放射線を浴びて、ひどい倦怠感を伴った。8月8日から地方から救援の一部の医療者と合流した。一時的に緊急事態となり収容者の記録、姓名、住所、年齢も不詳となった。
 広島逓信病院では多数の被爆者が廊下の一面に横たわって呻いた。一部の被爆者は病院にすら入りきれずに絶命した。本来の2階の病室が、鉄筋以外は焼失した。8月8日には病院に、収容者の氏名の一覧表を掲載すると、肉親がなだれ込んだ。病床には各被爆者の氏名を枕元に置いた。多量の放射線を浴びた被爆者は、出血傾向となり体内出血した。8月9日には隣の広島逓信局に駐在していた江田島から救援する暁部隊の青年兵が、宇品から資材を運搬して、広島逓信病院の南側にバラックを急造した。出血傾向の被爆者をバラックに隔離した。バラックは炎天下では、灼熱するために被爆者は救護を求めた末に脱水死も誘発した。多数の息が絶えた被爆者の死体が病院の前に放置された。連日に庭の片隅に死体を運搬して、焼け跡の残木などを集めては火葬して死体処理をして、白骨を土中に埋めた。一部の遺骨は、薬びんに入れては、遺族に引き渡した。
 常磐橋を越えると、満潮で水流が止まり多数の被爆死した死体が川面に浮いていた。饒津神社の鳥居の脇に、死体の一部は丸太のように引き上げられた。悲惨な倦怠感を伴い、死に無関心となっていた。戦時になると人間性も失って、失神状態となり、限度を超えた悲惨や残酷も、何らの虐待や虐殺を感じなくなっていまう。


2020年3月8日 
Japan No War (JNW) 日本平和の市民連盟 視聴回数 370,000回 

Japan No War (JNW) 日本平和の市民連盟
2020年3月8日にBloggerの投稿数は1,300回に達した。

2020年3月7日土曜日

フィンランド軍兵士が狙撃して射殺されたソビエト軍兵士の多数の死体が凍結した雪山に放置された。

フィンランド軍のスキー大隊の兵士はほとんどは狙撃兵とあった。冬雪の中をスキーで素早く動きながら、ソビエト軍兵士を襲撃して殺害した。 彼らは無人の森で、白いカモフラージュで身を包み、湖の周りのソビエト軍に突撃して狙撃した。フィンランド軍兵士が狙撃して射殺されたソビエト軍兵士の多数の死体が凍結した雪山に放置された。フィンランド軍兵士は、倒れた赤軍兵士を視察して検死した。フィンランドは、気温は約−43°Cにも達してソビエト軍の侵略を約3か月以上も対峙して、両軍はかなりの犠牲を伴った。
 1939年11月30日に、ソビエト・フィンランド緒戦となる冬戦争(Winter War)が勃発して、ソビエト連邦軍はフィンランド領土に大規模な侵攻を開始した。ソビエト連邦は、フィンランド国境から約32kmのレニングラードの防衛として、フィンランドの国境地域の占領を宣告した。フィンランドが拒絶してソ連は侵略した。フィンランド軍は約25,904人が戦死、ソビエト軍は約126,875人の戦死の犠牲者に達した。ソビエト軍は再編成して異なる戦略で、1940年2月から侵攻を再開して、フィンランドのマンネルハイム防衛線を突破した。1940年3月にモスクワ平和条約の調印で敵対行為は止まった。ソ連はフィンランドの領土の11%を占領して、2番目に大都市ヴィボルグを有して、ラドガ湖とフィンランド北部に相当な領土を獲得した。約430万人のフィンランド人が家や土地を失い、奥深くに移動して、多くの社会問題を引き起こした。ソ連の宣戦布告は、1939年12月に軍事侵略者としてソ連は国際連盟から追放された。
 その後に引き続くフィンランドとソ連との継続戦争(Continuation War)が東部戦線で勃発した。1940年8月のドイツとフィンランドは非公式協定を1940年9月に正式に成立した。ドイツはノルウェー北部の軍隊の派遣を名目に、フィンランドにて鉄道で軍隊を送る権利を許可された。1940年12月にさらなる協定を結んで、フィンランドにドイツ軍が駐留できた。1941年の春までに、フィンランド軍はドイツ軍のロシア侵攻に参戦した。1943年2月にスターリングラードでドイツが惨敗してから、1944年6月にソ連はフィンランドのカレリア地峡とラドガ湖地域に侵攻した。1944年9月にモスクワでソビエト連邦とフィンランドの間で予備的な和平協定が締結された。フィンランドはソ連に2度目の敗北を喫したが、ソビエト連邦による占領から逃避できた。