2020年3月16日月曜日

第一次世界大戦のソンムの戦いで、ドイツ軍の塹壕が爆撃されて土砂で埋まり、塹壕を放棄して退却した。

第一次世界大戦におけるソンムの戦いで戦闘によりドイツ軍部隊が塹壕を放棄して退却した。ドイツ軍の塹壕が爆撃されて、土砂で埋まりほぼ平らになった。撤退した後に、壊滅した塹壕とその溝にドイツ軍の死体から装備まで埋まっていた。砲撃がドイツ軍の防御にかなりの損傷をを与えた。地面に掘られた長く狭い塹壕は、第一次世界大戦の兵士を機関銃と空からの砲撃から保護するように構築された。イギリス軍は、ソンムの戦いの初日だけで、最も血なまぐさい約57,470人のイギリス人の犠牲となり、約19,240人が死亡した。ソンムの戦いは、1916年7月1日から11月18日まで、フランスのソンム川で戦闘が起こり、9月15日にイギリス軍の戦車が登場した。死傷者は、ドイツ軍が約434,500人、イギリス軍が約414,690人、フランス軍が約202,567人にも達した。
  第一次世界大戦は、西部戦線は血まみれの泥だらけの戦場となった。おびえた若い男性兵士がひざの深い泥の中に立って、頭上への突撃を待機して、機関銃、有刺鉄線、迫撃砲、銃剣、白兵戦などに直面した。単純にただ前進することが困難であった。殺害された男性兵士は驚異的な数となった。西部戦線の膠着状態は4年間も続き、新しい兵器の過激な進歩を余儀なくされ、戦国の資源を枯渇させ、て周辺の田園地帯を破壊した。
 1917年の初頭には、イギリス軍とフランス軍は、ベルギーとフランスのドイツ軍に対して無益な攻撃を開始した。大きな犠牲を受けた。相互に防御の機能を構築して、限定された攻撃を開始した。毎月に数千人の命を奪う膠着状態を続けてた。1918年には、ロシアと中欧諸国間の条約によりドイツに資源が解放された。アメリカ軍がフランスに到着し始め、連合軍の指揮はより統一されて、攻撃的になった。1918年7月に潮流が決定的に変わり始めて、アミアンの戦いから始まり、百日攻勢が続いた。連合軍は、ドイツ軍とオーストリア=ハンガリー軍をヒンデンブルクラインを越えて追い出して、停戦を求めた。1918年11月11日に、緒戦から4年後になってすべての戦闘が西部戦線で停止した。


2020年3月15日日曜日

ソビエト連邦は、カザフスタンのチャガン川の付近にあるセミパラチンスク核実験場で、1965年1月15日に地下核実験をした。

ソビエト連邦は、カザフスタンのチャガン川の付近にあるセミパラチンスク核実験場で、1965年1月15日に地下核実験をした。核出力は、TNT140Ktに相当した。チャガン実験により、乾燥床が炸裂させてクレーターとなり、チャガン川から流入してチャガン湖が形成された。クレーターは直径約408m, 深さ約100mに達して、チャガン川から流入する人工湖を形成した。
   アメリカと日本の両国で放射能が検出された。核実験から放射能が放出して、1963年の部分的核実験禁止条約(PTBT)に違反した。アメリカはソ連に核爆発を非難して、偶発的させた高収量兵器試験による放射能の発散と抗議した。ソ連は、PTBTは地下核実験に該当せず、核爆発は地下深くで行ったと反論した。ソ連は、大気中に漏れた放射性残骸の量はごくわずかであり、領土制限外での放射性物質の降下物の可能性を否定した。その後のいくつかの相互交渉の後に、放射能の問題はそれ以上のソ連の説明は無く隠蔽された。
 セミパラチンスク核実験場は、かつて旧ソビエト連邦の主要な核実験場であった。カザフ共和国(現・カザフスタン)の北東部、セメイの西方約150kmの草原地帯にあり、面積は約18,000km2にも達する。1949年から1989年の40年間に合計で456回もの核実験場に使用された。核実験場は1991年8月29日に正式に閉鎖された。カザフスタン市民の放射能被曝による影響は、ソ連政府によって1991年の実験場の閉鎖まで隠蔽された。ソ連の最初のプラトニウム型の原子爆弾の核実験であるRDS-1は、1949年8月29日にセミパラチンスク核実験場が行われた。周辺地域に放射性物質物が降り注いだが、カザフスタン市民への避難警告はなかった。水素爆弾は、1953年8月12日の水爆装置実験RDS-6、1955年11月22日の初の水爆実験RDS-37などが試行された。セミパラチンスク核実験場の周辺住民を滞在させた人体実験となり、放射能被爆の被害を受けた。




2020年3月14日土曜日

朝鮮戦争において、内戦により奪還されたソウルのある地域で北朝鮮軍によって大韓民国の民間住民が虐殺された。

朝鮮戦争において、内戦により奪還されたソウルのある地域で北朝鮮軍によって大韓民国の民間住民が虐殺された。 女性の死者も含まれていた。北朝鮮軍は、ソウル市民の数十万人を「反共産主義の反動分子」として無差別に大量虐殺した。特に北朝鮮人民軍の民間人虐殺は非常に残酷であった。人民軍は左翼勢力と一緒に占領地域ごとに人民裁判と処刑を敢行した。主にキリスト教徒、役人と軍人・警察の家族、知識階層、右翼などが最優先で虐殺されて、婦女子や赤ちゃんにも例外なく処刑した。
 朝鮮戦争は国全体が廃墟になる3年の戦争中に多くの死傷者が発生した。韓国国防軍研究所によると、韓国軍は約13万7899人、主なアメリカ軍が約5万4246人、中国軍が約14万8600人、北朝鮮軍は約50万〜52万人が殺害されたと推算した。している。戦争によって死亡した民間人は約99万968人にも達った。朝鮮戦争当時の両両軍の戦死者よりも多かった。その中で軍隊の兵士による虐殺で命を失った民間人は約12万8936人に及んだ。
 1950年6月25日午前4時に、約10万人にも及ぶ北朝鮮軍の砲撃から侵攻が開始されて、北朝鮮軍が38度線を越えて、宣戦もなく朝鮮戦争(6.25戦争)は突然に勃発した。1950年6月28日午前1時頃に、ソウルの最終防衛線は崩壊して、北朝鮮軍が市内に突入した。ソウル市内、とくに漢江北岸はソウル避難民や韓国軍兵士によって大混乱に陥って、市街地の通行は極めて困難となった。漢江橋の爆破命令を受けて、6月28日2時20分にごろ、爆破命令が下達され、人道橋、続いて3本の鉄橋が爆破された。漢江人道橋爆破事件によって約500から約800人のソウル避難民が犠牲となった。北朝鮮軍がソウル市内の中央部に突入したのは、28日の11時30分ごろであった。ソウル市街戦は、撤退してきた韓国軍が展開した。北朝鮮軍は約10時間で、漢江戦線まで侵攻した。
 退路である漢江人道橋の爆破で、韓国軍主力部隊は退路を遮断された。複線鉄橋と単線鉄橋が完全に破壊されず、北朝鮮が漢江を渡河した。漢江の橋梁が爆破されて、韓国軍は、依然としてソウルの外郭防衛線において戦闘で残存していた。しかし、橋梁が爆破されて、北朝鮮軍がソウル市内に突入して、韓国軍の各部隊は、雪崩を打ったように後退を開始した。韓国軍主力は退路が遮断されて、北朝鮮軍の突撃により崩壊した。韓国軍は分散して漢江の渡河を余儀なくされて、北朝鮮軍の攻撃を受けて渡河時に甚大な犠牲を伴った。ソウル市内から撤退できた韓国軍は、6月29日朝には概ね完了した。しかしその後も、ソウル市内には、脱出の機会を逸して潜伏した多数の韓国軍とソウル避難民が、北朝鮮軍に捕らえられ虐待あるいは虐殺された。
 韓国軍と国連軍は、1950年9月28日にソウルを奪還した。北朝鮮と10月19日から参戦した中国軍は1951年1月24日にソウルを再度に奪還して、さらに韓国と国連軍は3月15日に再奪還した。その後も約3年間も引き続く内戦で、多数の軍人と民間人が犠牲となった。民間人の虐待と虐殺もその報復も繰り返されて、敵対的な対立が深刻となった。朝鮮戦争で、双方が壊滅して疲弊して、1953年7月22日22時に休戦協定で休止した。


2020年3月13日金曜日

沖縄戦で家屋に潜伏していた日本軍兵士が、アメリカ軍から飛び出して逃避する間に射殺された。

1945年4月に家屋に潜伏していた日本軍兵士が、アメリカ軍から飛び出して逃避する間に射殺された。家屋の前に戦死して仰向けに転倒したしたいが横たわった。住人は既に民家からは逃避していた。再び潜伏できないように、アメリカ軍兵士が、わら箒の先端に火をつけた。木造わら屋の民家のわら屋根に、引火したわら箒引で周囲から焼き払って焼滅した。
  沖縄の戦いは、太平洋戦争の最後の大規模な戦闘となった。太平洋戦争の他のどの戦いよりも、より多くの軍隊が上陸し、より多くの物資が輸送され、より多くの爆弾が発射して投下された。広島原爆と長崎原爆の被爆死よりも、人々が沖縄の戦いで死亡した。アメリカ軍の死傷者は、約12,000人が死亡または行方不明になり、約38,000人以上のアメリカ兵士が戦傷した。約107,000人以上の日本軍兵士と沖縄の徴集兵が死亡して、おそらく約100,000人の沖縄市民が戦闘に巻き込まれて死亡した。
 沖縄の戦いは、太平洋戦争で最も悲惨で残酷な戦闘となった。主に神風の特攻隊により、約34隻の戦艦が沈没し、約368隻の船と船が破損した。アメリカ艦隊は約763機の航空機を失った。沖縄戦で、アメリカ軍の総死傷者数は12,000人を超えて、死者は約5,000人、海軍と陸軍は約8,000人が死亡し、約36,000人が負傷した。約26,000人以上の非戦闘員の死傷者を伴った。沖縄の戦いでは、戦闘ストレスによる戦闘損失の割合は、戦闘による負傷の割合として表され、約48%にも達した。(朝鮮戦争では全体の割合は約20〜25%で、ヨムキプール戦争では約30%であった)。沖縄戦でのアメリカ軍の損失は非常に多かったので、議会が軍事司令官の行為の調査を求めた。沖縄の戦いの過大な負担から、わずか6週間後に日本に対して原子爆弾を使用する決定に影響を及ぼした。
 特に日本軍の人的損失は莫大であった。約107,539人の日本軍兵士が殺されて、約23,764人が洞窟に埋められたか、日本軍自身に埋められた。約10,755人が捕虜または降伏した。日本軍は約7,830機の航空機と約16隻の戦艦を失った。多くの沖縄住民が洞窟に逃げた後に、埋葬されたので、民間人の正確な人数の犠牲者は明確にならない。最低の推定は約42,000人が殺害された。沖縄住民の10分の1から3分の1が死亡したと推定された。アメリカ軍の記録では、沖縄には約30万人の民間人が住んでいたが、沖縄戦の終結時には、約196,000人の民間人生存した


2020年3月12日木曜日

ドイツ軍は、国際特派員にドイツ系住民がポーランド人によって虐殺されたドイツ民族の死体だけを特定して見せた。

1939年9月3日にポーランドで血の日曜日と呼称されるブロムバーグ虐殺が勃発した。ドイツ軍は、国際特派員にドイツ系住民がポーランド人によって虐殺されたドイツ民族の死体だけを特定して見せた。ドイツ国防軍兵士がジャーナリストにドイツ人犠牲者の死体を示した。写真は、ナチス・ドイツの宣伝で使用された。この画像には編集者のトリミングマークが付いており、公開に使用することを目的としていた。
 ビドゴシュチュ(ドイツ名: Bromberg, ブロムベルク)を通じて、撤退していたポーランド軍隊は、ドイツ系住民によって撃たれた。 その後の戦闘で約40〜50人のポーランド人と約100〜300人のドイツ人が殺害された。その殺害に続いて、ナチス・ドイツ軍の甚大で悲惨な報復と弾圧が行われ、虐待と虐殺ならびに強制収容所に収監した。ナチス・ドイツ軍は、1939年9月1日にポーランド侵攻を突発した。ポーランドのビドシチ(ドイツ名: Bromberg)において、直後の9月3日にポーランド軍とポーランド人住民と、ドイツ人系住民との間で殺害事件が起こった。ポーランド側に約238人、ドイツ系住民の側に約223人が殺害された。戦時中のナチス・ドイツ軍は、9月3日の事件を、無実のドイツ系住民に対するポーランド人の卑劣な虐殺である「ブロンベルグ血の日曜日事件」として国内外に喧伝と非難をした。
 ドイツ軍ならびに自衛団や警察部隊は、その1週間後に9月9日から10日にかけて、ブロンベルグ血の日曜日事件の復讐と称して、ポーランドのブルンベルグにて市内や周辺の各地で約3,000人のポーランド人を無作為に選抜しては広場で銃殺する様々な無差別に虐殺さた。ドイツ軍はさらに1939年末までに約13,000人のポーランド人を、ポーランド北部の絶滅収容所となるシュトゥットホーフ強制収容所へと強制送還した。総計約10,500人のポーランド人がビドゴシチとその周辺で殺害された。
  ナチス・ドイツはポーランド侵攻時から1939年11月までのドイツ系ポーランド人の死者数を約5,437人と強調して、国内外へ向けて反ポーランド感情を煽るプロパガンダの喧伝した。さらに1940年2月にはの死者数は約58,000人と誇張した。最終的には約60,000人以上が殺害されたと宣伝した。しかし現在では、ドイツ系住民はポーランド全土で約5,000人程度と推定された。



2020年3月11日水曜日

第一次世界大戦において、3人のドイツ軍兵士がベルギーのゾンネべーケ近くのトーチカの外壁で殺害された。

第一次世界大戦において、1917年9月23日に3人のドイツ軍兵士がベルギーのゾンネべーケ近くのトーチカの外壁で殺害された。殺害された3人のドイツ人の死体が、トーチカの下で積み重なって腐敗していた。多数のトーチカ、砲兵陣地、地雷源などが、有効的に防御する要塞となっていた。トーチカは、鉄筋コンクリート製の防御陣地となった。戦車や航空機といった初期の近代兵器が登場した第一次世界大戦当時までは、人間が接近して銃撃から爆薬を投げ込むといった攻撃方法しかなかった。しかし、各種兵器がより強力に発達した第二次世界大戦からは、いくつかの悲惨で残虐な大規模攻撃が編み出された。
 第一次世界大戦の西部戦線のゾンネべーケ近郊のパッシェンデール(Passchendaele)の戦いにて、連合軍とドイツ帝国軍が激闘した。1917年7月21日から、ベルギーの西部の都市イーペルに対する三度目の戦闘が、周辺のパッシェンデール村を主戦場として会戦が勃発した。ドイツ軍の塹壕ならびにトーチカ群に対して、イギリス軍やカナダ軍などの混成の連合国軍が突撃した。双方ともに約1m進撃するのに約20名の兵士の殺害された。非常に激しい悲惨な多大な犠牲を伴った。ドイツ軍は、イペリットと戦場から呼称された毒ガスのマスタードガスを初めて連合軍に投入した。びらんと炎症を起こして、細胞分裂を阻害して失明にも至った。約3ヵ月にも及ぶ長期間の戦闘により、犠牲者は連合軍が約44,8000人、ドイツ帝国軍は約260,000人にも達した。11月6日に戦闘が停止したとき、結局は連合軍が奪回できたのは都市イーペルの峰東のみであった。都市は大砲や銃撃の砲弾によってほとんど壊滅した。パッシェンデール村は両軍の絶え間ない砲撃で皆無なきまで破壊し尽された。 今でも地面を掘り起こすと多数の人骨が残存している。パシェンデールとは、近代兵器による残虐な戦争による虐殺を示唆した。


2020年3月10日火曜日

東京初空襲により荒川区尾久で一家が焼死して、4歳の子どもの焼死体が焼トタンの上に並んで黒い骸と化していた。

太平洋戦争において、東京がアメリカ軍の爆撃機により初空襲された。まき散らした爆弾と焼夷弾により、家屋内で焼死した死体が散乱した。荒川区尾久で一家が焼死して、4歳の子どもの焼死体が並んで黒い骸と化した。死体を焼きトタンの上に並べた。身元が判別できないほど黒化した焼死体が散乱していた。一気に殺害されて、まっ黒い死体となった。
 1942年4月18日に、アメリカ軍の爆撃機B-25が東京都内を初めて空襲して、爆弾と焼夷弾などが投下されて炸裂した。日本本土に対する初めてのドーリットル(Doolittle Raid)空襲となった。月島から品川に向けて爆撃機体が通過した後には、日本軍による高射砲弾の弾幕が立ち昇った。既にアメリカ軍の爆撃機が飛来して空襲して通過してから、その後に空襲警報は鳴った。爆撃機は、航空母艦より発進して、東京の上空に侵入した。13機体のB-25の爆撃機が編隊を組んで、超低空より爆撃をした。大井方面は大規模な火災が発火した。空襲による爆撃で、大井から品川区方面の工場一帯なとが壊滅した。さらに、荒川区、王子区、小石川区、牛込区などに爆弾と焼夷弾を振りまいた。荒川区の尾久では、広範囲に家屋もが倒壊して燃え上がった。爆弾の炸裂ににより、直径約10mと深さ約2mの掘穴に達した。4月18日の東京初空襲では、約39人が殺害された。川崎、横須賀、名古屋、四日市、神戸も同じ4月18日に空襲された。日本人は、それぞれ約87人が死傷と約466人が軽傷を負い、262軒の家屋が破壊された。「東京大空襲」とは、死者数が10万人以上となった1945年3月10日の東京下町に対する夜間空襲(下町空襲)により、罹災者は約100万人を示唆した。



2020年3月9日月曜日

第一次上海事変で、激しい日本軍と中国軍の戦闘に巻き込まれて殺害された子供らの死体が横並になった。

第一次上海事変における日本軍と中国軍との激しい戦闘に、上海の民間市民が巻き込まれた。多くの上海の中国人の子どもらも犠牲となった。殺害された子供らの死体を空き地に横並びにして死後処理をした。
 1932年1月28日から3月3日に中華民国の上海共同租界の周辺で、日中両軍の第一次上海事変が勃発した。中国では一·二八事変と呼称する。1932年1月28日の真夜中に、日本軍は突然とライフルと機関銃で、警護として外国人居留地であった上海共同租界を攻撃した。日本軍の爆弾により上海地区が破壊された。煙が立ち込めた上海の通りでは、第一次世界大戦以来で、最も激しい戦闘が始まった。1月28日の午後には、中国軍兵士が潜伏しながら、戸口に登り、銃を発砲し始めた。上海の街路は、排水溝のように空となった。家屋の鉄フェンスのドアは、川の貝のように閉じた。3月3日に中国軍が撤退して終結するまでに、日本軍は約679人が戦死して、約2,322人が戦傷した。中国軍は約4,000人が戦死して、約9,000人が戦傷した。上海市民が第一次上海事変に巻き込まれて、死者は約6,000人、負傷は約2,000人、行方不明が約14,000人にも達した。
 日本軍による銃撃、連行、虐殺などの残虐行為が引き続き発生した。一部の中国人は連行されて、家族も襲撃されて、多くの民間人が殺害された。ある中国人の老女を家から引きずり出し、足で顔を蹴った。 中国人が始めたテロ行為は、何日も止められないほどに拡大した。恐ろしいテロ行為は、在留日本人らは動揺して、ショックを受けて恐怖を来した。一部の日本の領事館の職員は、介入する権利さえなかった。1931年9月18日に、鉄道車両が日本の侵略軍によって破壊された満州事変から、反抗日運動が激化していた。



2020年3月8日日曜日

広島逓信病院にて、広島原子爆弾による被爆者に対して一日中わたり懸命な救護活動が行われた。

広島原子爆弾の炸裂により、爆心地から約1.4kmにある東は白島町の広島逓信病院は、爆風で窓枠も吹き飛んだ。広島逓信病院にて、被爆者に対して一日中わたり懸命な救護活動が行われた。広島逓信病院の眼科の勤務医が、左腕を被爆しながら医療関係者らと救護活動に専念した。翌日の8月7日早朝から病院に出勤した。相当の放射線を浴びて、ひどい倦怠感を伴った。8月8日から地方から救援の一部の医療者と合流した。一時的に緊急事態となり収容者の記録、姓名、住所、年齢も不詳となった。
 広島逓信病院では多数の被爆者が廊下の一面に横たわって呻いた。一部の被爆者は病院にすら入りきれずに絶命した。本来の2階の病室が、鉄筋以外は焼失した。8月8日には病院に、収容者の氏名の一覧表を掲載すると、肉親がなだれ込んだ。病床には各被爆者の氏名を枕元に置いた。多量の放射線を浴びた被爆者は、出血傾向となり体内出血した。8月9日には隣の広島逓信局に駐在していた江田島から救援する暁部隊の青年兵が、宇品から資材を運搬して、広島逓信病院の南側にバラックを急造した。出血傾向の被爆者をバラックに隔離した。バラックは炎天下では、灼熱するために被爆者は救護を求めた末に脱水死も誘発した。多数の息が絶えた被爆者の死体が病院の前に放置された。連日に庭の片隅に死体を運搬して、焼け跡の残木などを集めては火葬して死体処理をして、白骨を土中に埋めた。一部の遺骨は、薬びんに入れては、遺族に引き渡した。
 常磐橋を越えると、満潮で水流が止まり多数の被爆死した死体が川面に浮いていた。饒津神社の鳥居の脇に、死体の一部は丸太のように引き上げられた。悲惨な倦怠感を伴い、死に無関心となっていた。戦時になると人間性も失って、失神状態となり、限度を超えた悲惨や残酷も、何らの虐待や虐殺を感じなくなっていまう。


2020年3月8日 
Japan No War (JNW) 日本平和の市民連盟 視聴回数 370,000回 

Japan No War (JNW) 日本平和の市民連盟
2020年3月8日にBloggerの投稿数は1,300回に達した。

2020年3月7日土曜日

フィンランド軍兵士が狙撃して射殺されたソビエト軍兵士の多数の死体が凍結した雪山に放置された。

フィンランド軍のスキー大隊の兵士はほとんどは狙撃兵とあった。冬雪の中をスキーで素早く動きながら、ソビエト軍兵士を襲撃して殺害した。 彼らは無人の森で、白いカモフラージュで身を包み、湖の周りのソビエト軍に突撃して狙撃した。フィンランド軍兵士が狙撃して射殺されたソビエト軍兵士の多数の死体が凍結した雪山に放置された。フィンランド軍兵士は、倒れた赤軍兵士を視察して検死した。フィンランドは、気温は約−43°Cにも達してソビエト軍の侵略を約3か月以上も対峙して、両軍はかなりの犠牲を伴った。
 1939年11月30日に、ソビエト・フィンランド緒戦となる冬戦争(Winter War)が勃発して、ソビエト連邦軍はフィンランド領土に大規模な侵攻を開始した。ソビエト連邦は、フィンランド国境から約32kmのレニングラードの防衛として、フィンランドの国境地域の占領を宣告した。フィンランドが拒絶してソ連は侵略した。フィンランド軍は約25,904人が戦死、ソビエト軍は約126,875人の戦死の犠牲者に達した。ソビエト軍は再編成して異なる戦略で、1940年2月から侵攻を再開して、フィンランドのマンネルハイム防衛線を突破した。1940年3月にモスクワ平和条約の調印で敵対行為は止まった。ソ連はフィンランドの領土の11%を占領して、2番目に大都市ヴィボルグを有して、ラドガ湖とフィンランド北部に相当な領土を獲得した。約430万人のフィンランド人が家や土地を失い、奥深くに移動して、多くの社会問題を引き起こした。ソ連の宣戦布告は、1939年12月に軍事侵略者としてソ連は国際連盟から追放された。
 その後に引き続くフィンランドとソ連との継続戦争(Continuation War)が東部戦線で勃発した。1940年8月のドイツとフィンランドは非公式協定を1940年9月に正式に成立した。ドイツはノルウェー北部の軍隊の派遣を名目に、フィンランドにて鉄道で軍隊を送る権利を許可された。1940年12月にさらなる協定を結んで、フィンランドにドイツ軍が駐留できた。1941年の春までに、フィンランド軍はドイツ軍のロシア侵攻に参戦した。1943年2月にスターリングラードでドイツが惨敗してから、1944年6月にソ連はフィンランドのカレリア地峡とラドガ湖地域に侵攻した。1944年9月にモスクワでソビエト連邦とフィンランドの間で予備的な和平協定が締結された。フィンランドはソ連に2度目の敗北を喫したが、ソビエト連邦による占領から逃避できた。


2020年3月6日金曜日

アメリカ軍は、ルートヴィヒスルスト住民に命令しヴェッベリン強制収容所に連行して囚人の量虐待と虐殺を注視させた。

ベルリンから北西に約190kmのルートヴィヒスルストのドイツ人住民が、1945年5月7日にアメリカ軍の命令で近くのヴェッベリン(Wöbbelin)強制収容所の内部に連行して囚人に対するナチス・ドイツ親衛隊の虐待と虐殺を視察させた。ナチの囚人服を着たままの死体が、土の床上に放置されていた。強制収容所の囚人の犠牲者の約300人以上の死体を土中に埋葬された。アメリカ軍は1945年5月3日に、収容所とその背後の土中に埋められた積み木のような約500体以上の死体を発掘した。アメリカ軍は、地図に記録されていないヴェッベリン強制収容所を偶然に発見して5月2日に解放した。
 ドイツ国内のルートヴィヒスルストの近くにあるヴェッベリン強制収容所は、ノイエンガンメ強制収容所の支部強制収容所であった。ナチス・ドイツ親衛隊は隠蔽のために、他地域の強制収容所から連行するために、1945年2月12日にヴェッベリン強制収容所を最後として設置した。1945年5月2日に連合軍がヴェベリン強制収容所を解放した時に、絶頂期には約5,000人の囚人を収容していた。多くの囚人は飢餓と栄養失調による衰弱と重病に陥った。アメリカ軍がルートヴィヒスルストに到着して解放した時点では、強制収容所の生活環境は悲惨であった。食料や水などもほとんどなく、一部の囚人は共食いの弱肉強食に陥った。到着した時点で、収容所で約1,000人の囚人の死体を発見した。アメリカ軍は、5月7日にルートヴィヒスラスト市民のドイツ人に強制収容所を訪問させて、約300人もの囚人の死体を埋葬することを命令した。埋葬した墓場には十字架と、ユダヤ人にはダビデ像、追悼するための石碑を設置した。


2020年3月5日木曜日

ベトナム戦争においてアメリカ軍兵士が、ベトコンの容疑があるベトナム人青年を、泥水の中で水漬めを繰り返した。

ベトナム戦争においてアメリカ軍兵士が、ベトコンの容疑があるベトナム人青年を、泥水の中で水漬め(waterboarding)を繰り返した。さらにベトコンであると自白させるために、殴る蹴るなどの虐待をして自白を迫った。逆さまの状態で、水を口や鼻の穴に注ぎ込むと、気管からの咽頭反射で、肺から空気が放出されて、直後に溺水状態に追い込んで、溺れ死ぬ残酷な苦痛が再現できる。溺死する状態に追い込むと、水死する心理的な恐怖を実感させる拷問である。その他に、身体を拘束した状態で、頭部の口と鼻の上に多孔性の布を置いて、顔に多量の水を断続的に注いで、窒息させ仮死状態に陥らせた。窒息させた布を上下させて水漬めを繰り返した。水漬めでは、身体に傷口や出血も少なく、虐待や虐殺の証拠が身体に残らない。
 アメリカは、水漬めは身体を損傷しないので、拷問ではなく尋問として、ジュネーブ協定の拷問禁止の違反でないと主張していた。ベトナム戦争では、1968年1月21日に、ワシントンポストはダナン近郊で、ベトナム人捕虜をアメリカ軍兵士2人と南ベトナム軍兵士1人による水漬めを暴露した。その直後の軍法会議で、除隊の刑罰を受けた。水漬めは軍法会議で違反と裁定されて、アメリカ軍から除隊させた。2005年12月に拘留者処遇法で、アメリカ軍による水漬めなどの拷問を禁止した。2009年1月に大統領令で、政府警察機関における水漬めの拷問を禁止した。


2020年3月4日水曜日

韓国の釜山にある難民収容所には、多くの日本人の引揚者が飢餓となり栄養失調から病気を併発した。

朝鮮半島の38度線を突破した日本人難民は、ほとんど飲まず食わずで北朝鮮から脱出した。特に苦痛と悲惨を極めたのは、満州及び北朝鮮から引揚げ者であった。満蒙開拓移民団は引き揚げの途中で多くの死者、行方不明者、収容所での病死者を出した。1946年9月の韓国の釜山にある難民収容所には、多くの日本人の引揚者が、飢餓となり栄養失調から病気を併発した。引揚船を待機している間にも、多くの日本人難民が死亡した。1945年8月9日に、ソ連軍が突然に不可侵条約を一方的に破棄して、満州国への侵攻が勃発した。満州各地に取り残された満蒙開拓移民団の日本人は、ソ連軍と武装した中国人集団の両者に襲われて、虐待と虐殺を受けた。ソ連により捕虜になった日本軍兵士らは、1956年も長期間にわたりシベリアに抑留された。
 終戦後に海外からの日本人移民の引揚者は、約350万人に及び、当時の日本人口の約7,200万人の約4.8%にも達した。その他に大陸や太平洋からの帰還した日本人兵士は約300万人以上であり、人口の約1割が日本に引き上げた。引揚者は、第二次世界大戦の敗戦にり、海外や入植者を送った満州、内地に居住した日本人で、日本軍の降伏に伴って日本本土に引き揚げる海外在留者の民間人である。戦地での日本軍兵士は、戦場から帰還した復員者と呼称された。
 日本政府は、満州とモンゴルには肥沃な土地が多くあり、税金を払わない王室の土地だと言った。その結果、多くの人々が満州の北東に移住した。最初は男性だけが先頭に立ち、後に妻と子供を迎えた。その後、多くの10代の若者も募集された。男性の数が増えると、個人的な問題を解決することが難しくなり、いわゆる「大陸の花の結婚」(本土の花嫁)が北東に徴集された。最初に採用された先駆者は33歳未満の退役軍人の男性であった。当時、日本は深刻な経済危機の影響を受けて、日本政府が提供する優遇条件は、土地を失った失業者や農民を引き付けた。日露戦争後の1909年に日本政府は、朝鮮半島と満州の植民地に一方面に送り込みを提唱した。1932年から本格的な満州に開拓移民を拓務省が展開した。当時の日本の中山間地域の過酷な貧困と小作人らが、募集に殺到した。開拓民移住事業は、移民を満州国民と対外陣地に送り込んだ。


2020年3月3日火曜日

義和団と清国の正規軍に殺害と戦傷された多数の日本軍兵士が天津城の南壁に横たわった。

天津城の南壁近くで義和団と清国の正規軍に殺害あるいは戦傷した多数の日本兵士が横たわった。清国の正規軍と日本軍兵士は、天津城の南壁で肉弾白兵戦を行った。連合軍は殺害した中国人を川に投げ入れた。天津城ま南門上には、約4,000人の義和団と清国の正規軍の死体が散乱した。1985年に日清戦争で勝利した日本軍は、天津での戦争の教訓を無視して、中国軍兵士は軟弱と幻想したまま1937年の日中戦争に突入した。 
   第二次アヘン戦争後に1895年に締結した天津条約で、キリスト教の布教が認めらた。中国内陸部の一般民衆と欧米の宣教師に闘争や事件が多発した。1898年に中国内陸部の自警団が、次第に反キリスト教団体と統合し、義和団となる強力な武装集団となった。北京の日本公使やドイツ公使が殺害される事件が勃発した。1900年6月7日に、義和団の反抗暴力に抗議した連合軍は、清国の正規軍が守備する天津から約50kmの大沽砲台を宣戦布告なしで襲撃して砲台を占領した。義和団は、6月17日に天津の英仏米日独5か国が租界に攻撃を開始した。清国の正規軍も6月19日に租界を砲撃して、清朝政府も列強の連合軍に宣戦布告して、戦争状態となった義和団事件が勃発した。
  当初は劣勢だった連合国が、6月23日以降に、ロシア軍から各国軍が次々と天津租界に入り、6月29日には日本軍が到着した。対する中国軍側の兵力は、約25,000人に達した。天津での戦闘は、6月17日から7月8日は、兵力に勝る中国側が租界の天津停車場攻防戦でやや優勢だった。7月9日〜7月14日に連合国側が天津城攻防戦で盛り返した。天津城攻防戦の連合国の兵力は、約17,000人の大軍に達した。最後の激戦となった7月14日の天津城南門総攻撃ので、中国軍側の猛烈な抵抗で、近代装備の連合国側の死傷者数が参戦者の約7分の1に達した。8月4日から、連合軍は北京に向けて侵攻した。



2020年3月2日月曜日

イギリス植民地支配に対する反抗者らは、血染の服で引き回されて公開の絞首刑にされ虐殺された。

イギリス植民地支配の反抗者らは、血で染まった服を着て引き回されてからコレクターコククレーンの下で近くの川の土手で公開の絞首刑にされて虐殺された。イギリスの東インド会社は、東インド会社による植民地でインド人を弾圧した。反抗するインド人は殺人者と強盗と呼ばれ、初期のイギリスの支配者により容赦なく虐殺された。インドの人々から土地と税金を強制的に徴収した。多くのインド人は反乱を恐れ、一部のインド人が闘争した。
 ヒンズー社会で高位を奪われたウヤラワダ・ナラシンハ・レディ(Uyyalawada Narasimha Reddy)らが1846年6月10日、コイラクントラの金庫を襲撃してイギリス人を斬首して、アーンドラ・プラデーシュ州のカンバムを侵攻した。1846年10月6日の真夜中に、密告者からイギリスの軍隊がチップオフに突入し、彼と仲間を逮捕した。1847年2月22日に血で染まった服を着て引き回されて、コレクターコククレーンの下で近くの川の土手で公開の絞首刑にされ42歳で殺害された。1877年まで頭蓋骨を砦の壁に放置された。その約10年後に1957年にインド独立戦争であるセポイの乱が勃発した。インド独立運動は約90年後にガンジーらによって1947年にイギリス植民地から独立した。
 イギリス東インド会社(EIC)は、1600年12月31日にエリザベス女王による王室憲章で、東・東南・南アジアから代理に支配して搾取した。1798年から1805年にかけて、ポリガー戦争が勃発して、インド人のポリガーがイギリス軍と闘争した。イギリスの東インド会社は、ビンズー社会で領地を管理して支配するポリガーの権利を剥奪していた。長期間に反抗するポリガーの戦争を1805年にイギリス軍は打倒して、反抗者を斬首や絞首刑に処刑した。