2019年3月7日木曜日

チェコスロバキアのプラハ蜂起によって、ドイツ軍に対抗したチェコ市民の死体がプラハの街路に散乱した。

チェコスロバキアの首都で、1945年5月のプラハ蜂起によって、崩壊したドイツ軍に対抗したチェコ市民の死体がプラハの街路に散乱した。
 第2次世界大戦の直前に、ナチス・ドイツは、チェコスロヴァキア共和国は謀略により1939年3月に滅亡した。スロヴァキア共和国をチェコから独立させて植民地となった。チェコのパルチザンは、支配者のハイドリヒをプラハ郊外で暗殺した。ナチス・ドイツはチェコに対する猛烈な報復により、プラハの北部のテレジーン強制収容所で、ユダヤ人とチェコスロバキア市民を無差別に大量虐殺した。
 ナチス・ドイツは崩壊した1945年5月8日に、チェコに駐留したドイツ軍も5月8日にソ連の赤軍に降伏した。1945年5月5日にチェコのラジオは6年ぶりの放送で反乱を呼びかけた。チェコのパルチザンとチェコ市民らは5月5日に蜂起してから、ソ連の赤軍と5月11日までプラハに残留したドイツ軍を最終攻撃した。遺恨の報復からプラハのドイツ系市民を拷問と虐殺した。チェコスロバキアは解放されないままに、ソ連の赤軍による侵略で支配されて。ドイツ人に対する虐待と虐殺は秋期まで継続した。




2019年3月6日水曜日

日露戦争の黒溝台会戦で、雪原は隠れる場所もなく狙撃され両軍の戦死者で埋まった。

満州戦争にて、約10万人ものロシア大軍が突如に満州南部の北方から日本軍に回り込み、1905年1月25日から29日まで黒溝台会戦が勃発した。日本軍は沈担堡から黒溝台までの約40kmの戦線を約8000人だけの日本軍で防衛した。最も手薄となっている戦線に約10万人ものロシア軍が1905年1月25日突如に奇襲した。雪原を進軍すると隠れる場所がないため、容易に狙撃されて、両軍の戦死者で埋まっていった。黒溝台の戦場には哀れなロシア軍兵士の約1万人の死体が散乱した。黒溝台会戦で日本軍の死傷者は約9,300人にも達して、厳寒のために戦傷者の約半分は凍傷を伴った。
 ロシア軍に突破されて撃破された日本軍は、ロシア軍の奇襲の効果が薄れると、戦線の危機を繕えた。膠着状態となり、突如1月28日からロシア軍は内紛や革命などにより退却した。ロシア本国では、1905年1月9日に発生した血の日曜日事件からロシアの第1革命が勃発していた。ロシア国内に蔓延していた日露戦争に対する厭戦気分に大きく影響した。
 


2019年3月5日火曜日

国連軍が占領した北朝鮮地域で、国際婦人連合は、大量虐殺された朝鮮人の死体が発掘された塹壕を視察した。

アメリカ軍を主体とする国連軍が占領した北朝鮮地域で、国際婦人連合の一行は、大量虐殺された朝鮮人の死体が発掘された塹壕を視察した。大量虐殺されて埋められた市民の死体は腐敗して異臭が発生した。
 1950年6月に北朝鮮から突如に侵攻を受けた韓国軍は崩壊して、政府と南部の大邱付近まで退却した。大邱付近まで撤退して、7月からアメリカ軍(国連軍)の参戦した。韓国軍と警察は左翼勢力の暴動を恐れて、保導連盟事件で市民を大量虐殺した。1950年7月には、アメリカ軍は避難民の暴発を恐れて、老斤里事件で市民を大量虐殺した。韓国地域に侵略した北朝鮮軍と左翼勢力も、韓国軍・警察だけでなく市民と家族などを大量虐殺した。9月に国連軍の仁川上陸作戦で戦局が激変して、撤退する北朝鮮軍は、韓国の市民を無差別に大量虐殺と大量拉致をした。
 北朝鮮軍が北朝鮮の奥地まで撤退した1950年11月に、中国義勇軍(中共軍)の参戦で戦局が激変した。1951年1月にソウルが再び陥落して、韓国の中部まで中国軍が南下した。3月からは北緯38度の休戦ライン辺りで戦線が膠着した。
 韓国軍は、南部地域の智異山などの山岳地域のパルチザンと戦闘した。朝鮮戦争で南部から退却しなかった北朝鮮軍がパルチザンと合流して戦闘が激しくなった。パルチザン掃討作戦の韓国軍によって、北朝鮮のパルチザンによって、市民が大量虐殺された。北朝鮮のパルチザンに市民が協力すれば韓国軍に虐殺された。北朝鮮のパルチザンに市民が協力しなければ、パルチザンに虐殺された。1951年2月に韓国軍は、慶尚南道居昌で居昌虐殺事件により、市民を大量虐殺した。朝鮮戦争が1953年7月に休戦後も、南部山岳地帯で1955年頃まで戦闘が続いた。




2019年3月4日月曜日

日清戦争において、牛荘の民家に立てこもって抵抗した清国軍兵士の殺害された死体が市街地に散乱した。

中国の遼東半島の下端付近の牛荘で、日清戦争において日本軍と清国軍とが攻防した。牛荘の民家に立てこもって抵抗した清国軍兵士の殺害された死体が市街地に散乱した。
 牛荘作戦は、日清戦争の戦闘である。遼陽平原の清国軍を掃討するために、牛荘に進出して営口を占領した。1895年3月4日に日本軍は牛荘城内で日清戦争で最初の市街戦が勃発した。清軍の抵抗は激しく、いたるところで猛烈な射撃の応酬をした。清国軍は、牛荘城の東南面からの退路が遮断され、「周章狼狽、遂に市街の各戸に鼠入し、決死の抵抗を為」した。城内は至る所で激し市街戦となり、3月5日に日本軍はようやく牛荘を完全に占領した。日本軍は、抵抗あるいは敗走する清国軍兵士を殺害して、投降する者は捕虜にした。清国軍は、遺棄された死体は約1880人、捕虜は約698人で、牛荘城の守備部隊は過半数の兵力を失って、犠牲者は最大となった。日本軍側は死傷者は約389人で、うち戦死者は約72名であった。
 牛荘鎮は遼河の河口に位置して、遼代以来満州の海の玄関として栄えて、清代中頃に繁栄した。第2次アヘン戦争後の1858年6月に締結された天津条約と1860年の北京条約に基づき、遼東半島の下端の牛荘(Newchwang)が開港されるも、商港に不適のために遼河河口の営口を、外国人貿易に解放された。営口が栄えて、牛荘が寂れた。
  


2019年3月3日日曜日

カレリア地峡のフィンランド陣地が突破されて、塹壕に多数のフィランド兵士が虐殺された死体が散乱した。

第2次世界大戦ではフィンランドは、1941年6月に独ソ戦と同時に枢軸国側として、ソ連に対して冬戦争に次いで継続戦争を再開して、約65,000人もの戦死者を出した。ソ連軍に、1944年6月にカレリア地峡の陣地が突破されて、塹壕に多数のフィランド兵士が虐殺された死体が散乱した。
 フィンランド軍は継続戦争から、クーテルセルカ近郊にて連結するVT線を防衛するフィンランド側とソ連側が衝突した。1944年6月14日午前に、ソ連軍はクーテルセルカ近郊を爆撃して侵攻した。フィンランド軍は猛砲撃を受けて敗走した。フィンランド側は戦力を再投入して防衛線を張って、ソ連軍の突破口の拡大は抑えた。ソ連軍は6月14日昼には防衛線を突破して、ソ連軍はクーテルセルカ近郊を素通りしてVT線を包囲した。
 フィンランド軍は、クーテルセルカ近郊の突破口を塞ぐため、6月14日夜からソ連に攻撃を行った。ソ連軍の反撃を受けた6月15日午後には攻撃を中止して、クーテルセルカ近郊から撤退した。ソ連軍がクーテルセルカ村を占領したことで、フィンランド軍は防衛線を包囲されて、連鎖的に戦線が崩壊して、フィンランド軍は全部隊ともVT線を放棄して、ソ連軍の進攻を遅延させて、次の防衛線であるVKT線まで撤退した。




2019年3月2日土曜日

第2次世界対戦の東部戦線にて、ナチス・ドイツ軍の親衛隊が、ソ連軍兵士の死体を横見しながら森の小道を行軍した。

第2次世界対戦の東部戦線にて、ナチス・ドイツ軍の親衛隊が、ソ連軍兵士の死体を横見しながら森の小道を行軍した。バルト諸国とその周囲のソ連の国土は、とても深い森林地帯であり、数多くのソ連のゲリラが奥深くに潜伏したいた。広大な森林は前人未踏であり、ナチス・ドイツ軍は、異郷の森林に奥深く侵攻すればするほど、泥沼の東部戦線に陥った。
 東部戦線における対ソ連戦争は、ナチス・ドイツ軍とって、ボリシェビキと劣等民族と敵対する狂気に満ちた虐待と虐殺の戦場となった。ボリシェビキは1903年にロシア社会民主労働党の多数派となり、少数の革命家が主導する暴力革命を主導した。ロシア革命でプロレタリア独裁の理想とするボリシェヴィキは、1918年3月に党名をロシア共産党に変更した。ロシアでは共産党以外の政党は認められない一党独裁となった。1922年に、ソビエト社会主義共和国連邦(ソ連邦)が1922年に樹立してから、党名はソ連共産党に変更した。
 ナチス・ドイツ軍は、バルバロッサ作戦で1941年6月からソ連領内に奇襲して侵攻した。ドイツ国防軍が侵攻地域内にてナチス親衛隊と協力して、大量虐殺行為に関与した。ドイツ国防軍による残虐行為の実相は具体的に検証されている。ナチズムの政治イデオロギーを体現するナチ親衛隊と、本来戦闘任務に専従するドイツ国防軍との間で合意された。



2019年3月1日金曜日

太平洋戦争でジャングルの木々の上で隠れていた日本軍兵士が、銃殺されて木々と共に荒野の地面に仰向けに転落した。

太平洋戦争において、パプアニューギニア島の戦闘で、アメリカ軍とオーストラリア軍により、日本軍兵士が銃殺された。ジャングルの木々の上で隠れていた日本軍兵士が、狙撃された。木々と共に荒野の地面に仰向けに転落して、銃殺された死体が放置されて腐敗していた。
 太平洋戦争の間、1942年7月から1943年1月にかけて、ニューギニアのパプニューギニア半島で、連合軍は日本兵と戦闘した。 この戦闘により、日本兵士は約12,000人が死傷して、連合軍の死傷者は約8,300人を超えた。 パプニューギニア半島を連合軍が侵略により、日本軍によるポートモレスビー占領は崩壊した。
 太平洋の諸島で、可能な限りアメリカ軍とオーストラリア軍兵士を殺害するために、日本兵は木々の上にも隠れた。補給の途絶えた日本兵は、熱帯雨林の中の風と雨、日中の露出と夜の寒さに、苦悩した。木々の上での疲れを避けて、誤って木を転がって転落しないように、多くの日本兵が自分の体を木々の上にベルトやロープやロープで縛った。

































2019年3月1日
 Japan No War (NGO) 
日本平和の市民連盟 
聴回数 200,000回

2019年2月28日木曜日

13歳男子のパレスチナ人の右眼がイスラエル軍の弾丸で撃ち抜かれ、大きく歪んだ右の顔面から多量に出血して即死した。

イスラエル軍は、2004年5月にテロリストの撲滅するレインボー作戦をパレスチナのガザ地区に侵攻した。パレスチナのブラジル地区とタラ・スルタン地区には、5月18日午前中から侵攻した。13歳男子のパレスチナ人の右眼が弾丸で撃ち抜かれた。救急車で瀕死のアル・ナジャール病院に護送されて、大きく歪んだ右の顔面から多量に出血して即死した。イスラエル軍は、パレスチナ地区で無差別に子どもまでも巻き込んで虐待と虐殺した。次つぎと多数の死体も運ばれて、病院は死体の置き場に変貌した。病院内に入りきれない死体は、中庭や廊下に散乱した。病院は5月18日だけで約17人の死体が搬入された。
 イスラエル軍はレインボー作戦で、パレスチナのガザ地区に対して、密輸トンネルの破壊、テロリストへの攻撃、緩衝地帯の拡大と占領した。イスラエル国防軍の軍事作戦で、2004年5月12日から24日にかけて、パレスチナ南部ガザ地区のラファに侵攻し占領した。イスラエル軍の約11人兵士が2回のパレスチナ人の攻撃で死亡した報復として勃発した。5月12日から24日までに約59人のパレスチナ人が虐殺された。そのうち約11人は18歳以下であり、約59人のうち約18人のみが武装していた。イスラエル国防軍は、ガザ地区にてエジプトの国境に沿って、少なくとも約70ヘクタールの農地も破壊した。その緩衝地帯を拡張するために約300戸のイスラエル人が入植して、ガザ地区の一部内側まで占領した。


2019年2月27日水曜日

コソボ紛争でアルバニア人たちが、1999年セルビア人によってラチャック村で無差別に虐殺された。

ユーゴスラビアの連邦国は、少数派を血まみれに追放して、共産主義のユーゴスラビアが崩壊後に、独立を宣言した。コソボ紛争でアルバニア人たちが、1999年1月15日にセルビア人によってラチャック村で無差別に虐殺された。血まみれのアルバニア人の約46の死体が散乱した。
 1945年以降にコソボのアルバニア人の少数民族は、90%もの多数派に達した。 1981年にこの地域から騒乱が始まった。スロボダン・ミロシェビッチは、セルビア人の少数派の代表者になり、後に大統領となった。1986年に、ユーゴスラビア共産党をセルビア社会党に改名した。1989年にコソボの自治を廃止して、アルバニア人幹部をセルビア人に置き換えた。
 1980年代末に、民族主義者らは共和国の権力を引き継いだ。クロアチアとスロベニアは、1991年6月26日に独立を宣言した。ユーゴスラビア軍は両国に進軍したが、すぐにスロベニアから撤退した。クロアチアの3分の1は占領を継続した。居住するセルビア人の少数民族はクライナ共和国の独立宣言した。
 1990年11月のボスニアの総選挙で、アリヤ・イゼトベゴヴィッチが率いるイスラム教徒民主化党が過半数を獲得して、1991年に独立宣言した。ボスニアのセルビア人少数派は、ラドヴァン・カラジッチの下でセルビア共和国は独立宣言した。セルビア人は、ユーゴスラビア軍の支援でボスニアの3分の2を占領した。追放と大量虐殺による残忍な民族浄化が行われた。北太平洋条約機構(NATO)は1995年に内乱の抑止のため介入した。約220万人が残酷な難民となり、約20万人が殺害された。国連の監視下でボスニア・クロアチア連邦とセルビア共和国に分割され独立国家とした。
 1995年にクロアチア軍は、クライナ共和国を再占領した。追放されたセルビア人はコソボに逃避した。1992年にアルバニア人はイブラヒム・ルゴバの下でコソボ共和国を独立宣言した。コソボ解放軍とセルビア人治安部隊と激戦となり、セルビア人勢力が攻勢に至った。NATOはセルビアに対する空爆とコソボの占領に介入した。数千人のイスラム教徒のボスニア人は、1995年にボスニアのセルビア人地域から逃げたNATOはセルビアに対する空爆とコソボの占領に介入した。
 マケドニアも1991年に独立を宣言した。マケドニアの少数派アルバニア人はイリリア共和国を宣言し、2000年に解放軍を創設した。コソボから約25万人の難民が発生した。 NATOと国連軍は戦争の暴発を抑止した。


2019年2月26日火曜日

日露戦争で作子溝の戦闘で、日本軍兵士の多数の戦死体が、中国の荒野の上ににうち捨てられて放置された。

日露戦争における作子溝の戦闘で、戦死した日本軍兵士の多数の死体が、処分が間に合わずに、中国の荒野の上ににうち捨てられて放置された。戦闘中は、死体の収容も困難であり、放置されたままに腐乱した。日露戦争の膨大な戦死者の犠牲を伴うも、死体の処理は荒野で火葬あるいは埋められて処分された。至るところに埋めた目印となる墓標を荒野に立てた。膨大な死体の場合には積み重ねて火葬にして埋葬した。人体は水分が多いので、太い薪を大量に燃やしても一晩かかった。旅順攻略戦闘では、クリスマス休戦や正月の休戦等、戦域司令官同士が休戦を合意すれば、双方が戦死の死体を回収して、犠牲者を弔うこともあったようである。
 1873年1月10日に徴兵令を施行した明治政府は、陸軍と海軍の墓地制度を布告して、戦死体の処分権と祭祀権は、1945年8月15日の終戦まで遺族ではなく軍部が握った。日清・日露戦争から日中戦争の前半頃までは、戦地に墓地を設営して、火葬あるいは土葬して戦死者の死体を処分した。陣地が継続的に確保されていれば、墓標を立てて儀礼も行った。日中戦争の後半になると、墓地を設営する余裕もなく、火葬した遺体の一部分を持ち帰り、他の部隊に委託から本国に還送することになった。近代戦では、戦死者の死体数が増大するにつれて、戦況に応じた儀礼や処分がされた。軍隊に兵士の死体の処分の権利があり、遺族に遺骨を渡した。遺骨の還送が困難な場合は、霊璽(霊名)を記載した用紙、さらには白木の箱に入れた砂、小石、サンゴなどを、軍隊が形式的な儀礼を行って遺族に手渡した。日本国憲法では軍隊を持たない日本に、戦後から靖国神社が戦死者の祭祀権を保持している問題が継続している。




2019年2月25日月曜日

イラク戦争で、アメリカ軍と参戦した外国人の傭兵の死体を砂漠に埋め捨て腐敗して白骨化した。

イラク戦争では、アメリカ軍兵士だけでなく、民間軍事会社に雇われた多くの傭兵が参戦した。アメリカ軍兵士が虐殺されている危険な地帯や戦場には、お金で雇った兵士である傭兵が参戦した。戦争で外国人の傭兵が虐殺されても、外国人として都合よく処理された。医薬品が落ちた荒野から、大きな黒いビニールが掘り出された。アメリカ軍が使用する遺体収容袋から、大量の腐敗して白骨化した死体が排出された。参戦した外国人の傭兵と思われる死体が砂漠に埋め捨られた。ヘリコプターからも死体を投下して捨られた。
 アメリカ軍は、ベトナム戦争後には徴兵制度が廃止された。職業軍人である士官以外の一般兵士は志願兵である。湾岸戦争からイラン・アフガニスタン戦争では、多くのアメリカ人の若者が奨学金を得て大学進学するために志願した。アメリカの志願兵制度下では、最も格差社会の下層階級出身の若者が奨学金目的で兵役を志願するという傾向がより顕著になった。ただし、非常事態には選抜徴兵できる義務兵役サービス(Selective Service System)に、アメリカ人男子は原則として18歳になった時点で登録する義務がある。
 1960年に徴兵制が廃止されたイギリス軍だけでくアメリカ軍にも、貧困から脱国するためにネパールから過酷で厳格な山岳民族から構成されたグルカ(Gurka)兵も傭兵として参戦した。その他に、貧困を脱国するために、そのほかに、南アフリカ、ウクライナ、フィージーなどから多数の傭兵が参戦した。徴兵制もなく軍隊も保持していない国家は、世界でアイスランド・コスタリカ・日本のみである。




2019年2月24日日曜日

ロシア帝国のウクライナでユダヤ人に対するポグロムにより多くの子ども達も虐殺されて犠牲者となった。

ウクライナのエカテリノスラフ(現在のドネプロペトロフスク)で、1905年にユダヤ人に対するポグロムにより多くの子ども達も虐殺されて犠牲者となった。ポグロム(Погром)とは、ロシア語に由来して、破壊あるいは破滅を意味する用語である。特定の場合には、加害者の如何を問わず、ユダヤ人に対し行なわれる集団的迫害行為である。1881年3月1日から南ウクライナにて、ロシア人のよるユダヤ人に対するポグロムが起点となった。
 帝政ロシアは社会的不満のはけ口をユダヤ人排斥主義に誘導した。 ロシアにおける約5,000人ものユダヤ人が1905年に平等権を求める「ユダヤ市民宣言」に署名した。1903年から1906年にかけて重なるユダヤ人襲撃はユダヤ人の国外脱出の難民となった。ロシア帝国のキシネフで、1903年4月のポグロムで反ユダヤ人暴徒が、約49人のユダヤ人を虐殺して、1905年10月のポグロムで2回目の暴徒が、約19人のユダヤ人を虐殺した。第2次世界大戦でもポーランド東北部の村落を中心にユダヤ人がソ連および赤軍と密通の容疑から、ポーランド人やウクライナ人などナチス・ドイツ支配下に置かれた民族は、ユダヤ人にポグロムを執行した。 ナチス・ドイツが1941年に独ソ不可侵条約を破り、東欧からロシアに侵攻した。ポーランド人やユダヤ人の格下として、ナチスには劣等人種と蔑まれたウクライナ人は、逆にユダヤ人に対するポグロムに追従して見つけ次第に虐殺した。





2019年2月23日土曜日

アメリカ軍が上陸した日に、韓国の国家警察により、労働組合指導と平和維持活動家が殺害された。

第2世界大戦の終戦により、朝鮮半島で勃発した政治的暴力により、朝鮮半島は日本軍からの解放後に最初の2人の死者が2人出た。アメリカ軍が上陸した9月8日に、国家警察により、労働組合指導と平和維持活動家が殺害された。朝鮮占領はアメリカ・ソ連ともに準備が足りず、両軍が朝鮮を把握できず、一貫した占領政策がなかった。特に主要都市であるソウルで大きな政治混乱を生む一因となった。
   韓国では、朝鮮が日本の植民地統治から自主独立を取り戻した出来事を光復と呼称され、光復を記念する毎年8月15日を光復節の祝日に定めた。1945年9月9日からアメリカ軍が朝鮮半島に侵攻して、先に入っていたソ連軍とともに朝鮮半島における日本軍の武装解除にあたった。先にアメリカ軍とソ連軍の間で締結されていた協定に即した。ソウル(京城府)と仁川を既に占領していたソ連軍は38度線の北へ後退した。朝鮮半島の38度線より南側はアメリカ軍が占領した。
 ソ連が支持した朝鮮人民共和国が1945年9月6日に樹立されるも、アメリカは朝鮮民主党を支持して、各地の朝鮮委員会を約1年を要して解体した。朝鮮半島南側の大韓民国は、1948年に建国宣言をした。 アメリカ保護下で旧植民地体制と国家警察の維持に対して、1948年から朝鮮戦争が勃発した1950年まで武装ゲリラが闘争した。




2019年2月22日金曜日

卒塔婆を背負わされて、両手を縛られた日本軍の2人の指揮官は、上海刑場の群衆の眼の前で銃殺された。

日中戦争の終戦後に、中国大陸に捕虜として在留させられた日本軍兵士は、敗戦による悲劇の制裁を受けた。中国在留の日本人にて、特に上官・憲兵・特殊機関員・宣撫班などの日本人兵士が戦争犯罪人として裁定された。日本軍兵士の上官は、部下の残虐行為の責任を取らされた。1946年に処刑する上海刑場に向かって、上海の街を引き回された後に、卒塔婆を背負わされて、両手を縛られた日本軍の2人の指揮官は、群衆の眼の前で銃殺された。上官だけでなく日本軍憲兵も、群衆の眼の前で処刑が執行された。
 中国では保定、東北、南京、広州、上海、済南、武漢、太原、台湾など10カ所で戦犯を裁く軍事法廷で裁定されて、1949年2月までに戦犯145人に死刑の判決を下された。特に中国人に悲劇の報復を受けて、日本軍の憲兵は約63人も死刑を処刑された。太平洋戦争後に、連合国は東京に極東国際軍事裁判所で裁定して、日本のA級戦犯の審判を行った。その他に、マニラ、シンガポール、ヤンゴン、サイゴン、ハバロフスクなどでB級、C級戦犯の審判を行った。連合国に起訴された各種の日本の戦犯総数は5423人で、判決を受けたものは4226人で、そのうち死刑に処せられたのは941人であった。第2次世界大戦の連合国によるポツダム宣言に基づき、戦争犯罪に関する極東国際軍事裁判所条例により有罪判決を受けた。条例では、A.平和に対する罪、B.通例の戦争犯罪、C.人道に対する罪の3罪が定義された。項目Aで訴追された者をA級戦犯、項目BをB級戦犯、項目CをC級戦犯と呼び、その大部分はB級戦犯であった。 




2019年2月21日木曜日

連合国の香港空襲により、崩壊した建物の下敷きに2人の少年が犠牲となり爆死した。

第2次世界大戦にて、アメリカ空軍は日本軍が占領した香港に対して無差別の空襲を投下した。香港空襲の犠牲により、崩壊した建物の下敷きに2人の少年が犠牲となり爆死した。日本軍は報道機関に対して、犠牲者の狼狽の状況、死傷者の運搬状況、死体などは、事実を誇張して刺激する被害の実態を公表することを禁じて極秘にした。
 イギリスの植民地であった香港を日本軍が1941年12月25日から終戦まで占領統治した。香港の戦いでイギリス香港総督が日本に降伏してから、日本のポツダム宣言受諾による降伏後まで、3年8ヶ月間にわたり日本軍が占領統治した。日本と中華民国の戦争が続いていた上に、香港住民は日本軍の香港占領に抵抗した。
 日本軍の香港占領時の1942年9月からは、中華民国内やイギリス領インド方面からの連合国軍の爆撃機による香港空襲が勃発した。主に日本軍の施設を目標するも、無差別な誤爆も度々発生した。最も犠牲者が多かったのは、アメリカ空軍による1945年1月21日の香港の湾仔市街への誤爆であった。香港住民の死者は約1,000人、負傷者約3,000人に達した。さらに1945年の香港空襲では、銅鑼湾にあった病院付近に爆弾が落ち、約490名の死者を出し、小学校にも誤爆があった。