2018年12月9日日曜日

第1次世界大戦でガリツィアの塹壕に死んだロシア人兵士たちを、敵方であるオーストリア人兵士が見下ろした。

第1次世界大戦にて、長期間にわたりプシェムィシル包囲戦が展開された。プシェムィシルはサン川のほとりにある都市でガリツィアの拠点として要塞化されていた。オーストリア・ハンガリー帝国軍は、ロシア帝国軍に壊滅的な敗北を喫した。1914年9月16日からプシュムィシル要塞は孤立したが、10月11日にオーストリア・ハンガリー帝国の攻勢により一時的にロシア帝国軍から解囲された。ロシア軍により11月9日から再び包囲下に置かれ、133日間耐え抜ぬくも、1915年3月22日にオーストリア・ハンガリー帝国の守備隊は降伏した。オーストラリア・ハンガリー帝国軍は戦死者約86,000人、捕虜約117,000、ロシア軍は戦死約115,000人にも達した。1916年のブルシーロフ攻勢でロシア軍が占領したが、ドイツ軍との同盟側の攻勢でガリツィアを奪回した。ロシアではロシア革命が勃発し、1918年のブレスト=リトフスク条約により東部戦線は終結した。 
 ガリツィアは、現在のウクライナの南西部地域である。1772年からオーストラリア領土となり、1918年にはポーランド領土となり、1918年に西ウクライナは独立宣言するも、1923年にはポーランド領土となった。第2次世界大戦後のポーランド分割で、ソビエト連邦に編入された。ペレストロイカによるソ連の崩壊後にウクライナとして1991年に独立した。ウクライナ東部紛争によるクリミア危機により、2014年にロシアが黒海に面した東部のクリミア自治区を編入した。


2018年12月8日土曜日

未亡人の母親は日雇い人夫として、広島原爆の被爆によるケロイド状の顔面をタオルで隠しながら、幼児に休息時に母乳を飲ませた。(広島)

広島原子爆弾が1945年8月6日午前8時15分に投下され炸裂して、夫は被爆死した。母親は被爆による顔面に強度の熱傷により顔面はケロイド状となった。毎日の生活を支えるために日雇い人夫として重労働をした。その休憩時間に路上に横たわり休息取りながら、顔面をタオルで隠しながら。幼児に母乳を飲ませていた。


2018年12月7日金曜日

日本軍は、鉄道妨害犯人で逮捕された3人の朝鮮人を軍法会議で死刑を宣告して銃殺した。

1905年頃に、日本軍は、1905年頃にソウル付近で鉄道妨害犯で逮捕された3人の朝鮮人を銃殺した。両側に並ぶ日本軍は、彼らを匪賊と呼び、軍法会議で死刑を宣告した直後に処刑した。
 日露戦争が1904年2月8日に勃発する直前に、大韓帝国は中立を宣言した。日本軍は無視して宣戦布告より2日前に仁川から約10,000人がソウル周辺を占領した。2月28日には日韓議定書を結び、日本は軍略上に必要な地点を臨機収用できた。日露戦争後には、朝鮮半島を南北に貫き中国東北部に迫る約950kmの鉄網を構築した。日露戦争後も日本軍は約30,000人が占領して、朝鮮は日本軍により植民地化された。鉄道は朝鮮人から農地を奪い、日本軍は強引に集められた朝鮮人に強制労働を課した。朝鮮人に反発と憎しみを呼び、日本支配に抵抗する義兵闘争となった。手を焼いた日本軍は、鉄道に危害を与えた者やかくまった者を死刑にする軍令で処刑した。きつい労働を強要されて抵抗した農民は、銃を構えた日本軍兵士にはりつけで処刑された。1905年頃に日露戦争のさなか、日本帝国が韓国侵略のために敷いた鉄道を破壊して、首都の京義線付近で3人が公開銃殺された。日本の植民地化に抵抗した3人は義兵として、処刑場面の写真は韓国の歴史教科書にも登場する。



2018年12月6日木曜日

太平洋戦争の悲惨なタラワの戦いでアメリカ軍は約1,000人以上が殺害され、約2,300人以上が戦傷して、日本軍側の戦死者は約4,700人に達した。

太平洋戦争にて、タラワの戦いでアメリカ軍海兵隊が1943年11月21日にベティオ島の海岸に上陸した時に、日本軍から最初の激しい戦闘を受けた。日本軍は約45,00人で強固な要塞化により、アメリカ軍兵士は約1,000人以上が殺害され、約2,300人以上が戦傷した。日本軍は、約1,200人の朝鮮人労働者を強制的にギルバート諸島タラワ環礁に連行して防衛施設を構築させた。朝鮮人労働者は、悲劇のタラワの戦いに巻き込まれて約1,000人殺害されて、生存者はわずか約129人のみであった。日本軍は、最後まで徹底的に抵抗して、最後には11月23日に玉砕して全滅した。日本軍側の戦死者は、約4,700人に達して生存者はわずか約30人のみであった。



2018年12月5日水曜日

日本軍は中国人の抗日ゲリラ隊を戦場で殺し尽くす【杀光】の三光作戦(政策)で、悲劇的な無差別の大量殺戮を遂行した。

日中戦争にて、1941年から1942年にかけて、日本軍は中国人の抗日ゲリラ軍を後方支援する農村部を焼き尽くす・奪い尽くす【烧光、抢光】という三光作戦(政策)によって、農村部は悲劇的な戦場となった。日本軍は抗日ゲリラ軍を戦場で殺し尽くす【杀光】の三光作戦(政策)で、悲劇的な無差別の大量殺戮を遂行した。
 日本軍は、中国人のゲリラ軍の基盤地域を掃討して、残酷に絶滅させる三光政策を実施した。多くの農村が焼失して、日本軍によって虐殺されて埋葬されなかった死体が野生の草の中のどこにでも見かけた。農村住民たちは、悲しみと怒りで悲劇的に見舞われた。この時点で町や大きな建物は日本軍に占領された。道路に沿って深い溝が掘られ、高い壁が山林に建造された。
   中国共産党が率いる軍隊は、国内革命戦争から反日戦争のゲリラ戦争まで、軍事戦略的変革を実施した。 毛沢東は1937年9月21日に山岳ゲリラ戦略による独立を提言した。


2018年12月4日火曜日

イラク戦争により難民となったイラク人の男の子が、癌による激烈な腹痛から息苦しく悲鳴を叫びながら、5日後に死亡した。

イラク戦争に巻き込まれて、さらに突然にイスラム国兵士にも追われて難民となった。イラク人家族の男の子が、癌による激烈な腹痛を伴い息苦しく男の子が悲鳴を上げて泣き叫んだ。既に医療も施せずに、小さく粗末なベッドに横たわり次第に衰弱して意識も失いかけた。母親が悲惨な男の子の額に手を当てて見守りながら慰めた。難民となったイラク人の男の子は、その5日後に死亡した。
 2003年3月20日にイラク戦争が勃発して、2006年12月30日にサダーム・フセインは首吊りで殺害された。イスラム過激派によるイスラム国(ISI)が、2006年10月から次第にイラクからシリアを占領して、イスラム国の樹立を2014年6月29日に宣言した。


2018年12月3日月曜日

南ベトナム人の夫は、南ベトナム解放戦線のテロリストにより殺害され、妻は夫の死体に手を当てて嘆き悲しんだ。

南ベトナム人の夫は、ベトナム南部のメコンデルタ地帯にて、南ベトナム解放戦線(ベトコン)のテロリストによって殺害された。夫の妻は、彼女の夫の死体に手を当てて嘆き悲しんだ。彼女の夫は、ベトコンを密告していたとして、暗殺の対象者に選ばれた。ベトコンのテロリストは、サイゴン政府当局者と共謀者を抹殺することを選択する傾向があった。



2018年12月2日日曜日

長崎原子爆弾の炸裂で、トンネル状に掘られた防空壕は、付近の母親や子供たちの死体と白骨で一杯となった。(長崎)。

長崎原子爆弾が1945年8月9日午前11時2分に投下された炸裂により、長崎市内はほとんど完全に崩壊した。崖の下にトンネル状に掘られた防空壕は、付近の母親や子供たちの死体と白骨で一杯であった。防空壕の奥からは叫び声が聞こえ、土砂や抗木で埋まり生き埋めになった。庭の防空壕に避難して小さな防空壕ではさらに危険となり壊滅した。地上で熱線を浴びた被爆者は露出した部分が重度の熱傷、爆風による飛来物、ガラス片などと強烈な放射線が身体に刺って苦しみながら泣いて被爆死した。


2018年12月1日土曜日

アメリカ軍の捕虜になった日本軍兵士が、全滅した一木隊兵士の死体をタンカで運んでは、塹壕の中に投げ込んでは埋葬した。

太平洋戦争にて、日本軍の一木隊兵士はガダルカナルの戦いで1942年8月21日に玉砕して全滅した。アメリカ軍に既に捕虜になっていた日本人捕虜が、戦闘があった翌日の8月22日に海辺に散乱した戦死の遺体を埋葬した。捕虜になった日本海軍の兵士が、アメリカ軍から水を飲ませる誘いで動員された。一木隊の日本軍兵士の死体をタンカで運んでは、塹壕の中に投げ込んで埋葬した。
 ダルカナル島に派遣された一木隊は1942年8月19日に上陸していた。8月21日から戦闘が始まったが、アメリカ軍は残存兵を包囲して全滅して、21日に一木隊は壊滅した。一木隊の約917名のうち、生存者は約128名だけであった。


2018年11月30日金曜日

レバノンのサブラとシャティーラの難民キャンプの路地が、悲惨なパレスチナ人の死体置き場となった。

レバノンのサブラとシャティーラの難民キャンプの路地が、悲惨なパレスチナ人の死体置き場となった。異臭がする腐敗して肉親の死体を親族が探索した。
 イスラエルがレバノンに侵攻して、次期に当選させたレバノン大統領のバシール・ジェマイエルが1982年9月14日に爆殺された。マロン派キリスト教のファランジスト党首の爆殺に対する報復により、9月16日午後6時から9月18日夜明けまで、党員とイスラエル国防軍がサブラとシャティーラの2つの難民キャンプで大量虐殺をした。約3,000人ものパレスチナ人難民が虐殺された。1948年から生活の場である難民キャンプの路地に多数のパレスチナ人の死体が散乱した。


2018年11月29日木曜日

北軍と南軍はメリーランド州のアンティータム川で、戦闘して南北戦争で1日に最多の戦死傷者を出した。

アメリカ合衆国の南北戦争で、最多の戦死者を出したアンティタームの戦いで、南軍兵士の多数の死体が大地に散在していた。
   アメリカ合衆国にて、1861年4月12日に南部連合軍がサウスカロライナ州チャールストン港のサムター要塞の連邦軍駐屯地を砲撃して南北戦争が勃発した。アメリカ史上最多の戦死者を出して、南北戦争が1985年4月9日に南部連合軍が降伏して終結した。北軍と南軍は、1862年9月17日にメリーランド州シャープスバーグ市に近いアンティータム川で戦闘して、南北戦争で1日に最多の戦死傷者を出した。双方で4000人以上が戦死し、負傷者は1万8000人にのぼった。南軍は、再びポトマック川を渡って後退して、軍事的な勝敗はつかなかった。アンティータム戦闘後に、1863年1月1日から北部自由州は、予備的な奴隷解放宣言をして、連邦の維持と奴隷制廃止を掲げた。