2018年5月13日日曜日

イラク・イラン戦争にて、虐殺したイラク軍兵士の死体が砂漠に散在するも、イラン軍兵士も膨大な犠牲を受けた。

イラン・イラク戦争は、ルーホーラー・ホメーニーによるイラン革命直後に、サダム・フセイン独裁下のイラクとが1980年9月から1988年9月の長期間にわたり戦闘した。イスラム教の宗派対立(イランのシーア派とイラクのスンニ派)さらにペルシャ湾の石油資源をめぐる対立が要因になった。緒戦はイラクが優勢であったが、シリアがイランを支援して石油パイプラインを閉鎖した。イラクは劣勢に陥り、イラン軍が国境を越えてバスラに迫った。アメリカとアフガン侵攻のソ連はイラクに軍事援助を行ってフセイン独裁政権を強化した。イラクがペルシア湾のイラン原油積出港のカーグ島などを空爆して、国連の停戦調停で終結した。イラク・イラン戦争にて、虐殺したイラク軍兵士の死体が散在した。ホメーニシの聖戦は、長引く戦争と経済疲弊さらに約100万人以上ものイラン兵士の戦死傷により、頓挫した。




2018年5月12日土曜日

第4次中東戦争でによりゴラン高原にてシリア軍兵士の死体が、破壊された戦車の側に遺棄された。

第4次中東戦争が、ユダヤ暦で最も神聖な日「ヨム・キプール」(贖罪の日: Yom Kippur)である1973年10月6日に勃発した。エジプト・シリア両軍は、第3次中東戦争でイスラエル軍が占領したスエズ運河とゴラン高原を奇襲した。ゴラン高原にてシリア軍兵士の死体が、破壊された戦車の側に遺棄された。アメリカ軍の仲裁等を伴って10月24日に国際連合の停戦決議が成立した。イスラエル不敗の神話が崩壊して、エジプトは1979年に平和条約を締結し、1982年にシナイ半島はエジプトに返還された。ゴラン高原はイスラエルが一方的に併合した。戦争中のアラブ石油輸出国機構(OAPEC)の石油禁輸措置による第1次オイルショックで世界経済を低迷に陥った。シリアのハーフィズ=アサドは軍事クーデターで、1971年から大統領となり、多数派のスン二派の独裁的権力を獲得した。第4次中東戦争はゴラン高原の奪回は不可であったが、1975年からレバノンを侵攻した。2000年に死去して、息子のバッシャール=アサドが世襲で現大統領となった。




2018年5月11日金曜日

ベトナム戦争で、イア・ドラン渓谷にて、ヘリコプターで派遣されたアメリカ軍兵士らが、戦死者の死体を抱えながら回収した。

1964年8月2日のトンキン湾事件からアメリカ軍はベトナム戦争に突入して、当初は年内にベトナムを平定する戦略であった。しかし、北ベトナム軍は、カンボジア領からベトナム中部高原に侵攻、海岸部も一部占領して南ベトナムを中央で分断した。1965年1月の旧正月(テト)末までに、北ベトナム軍と解放戦線は沿岸部の一部も占領した。3月にはダナン空港基地が、解放戦線の攻撃を何度も受け、各地で散発的な戦闘が発生した。7月には中央高原で北ベトナム正規軍と最初の大規模な戦闘が9月まで続いた。中央高原のイア・ドラン(Ia Drang)渓谷に撤退していた北ベトナム軍が、1965年11月14日から11月18日までアメリカ軍を総攻撃した。ベトナム軍兵士は約1,519人が戦死して、アメリカ軍兵士も305人が戦死して、大規模な犠牲者を出した。イア・ドラン渓谷で、ヘリコプターで派遣されたアメリカ軍兵士らが、戦死者の死体を抱えながら回収した。



2018年5月10日木曜日

東京大空襲で、路上や水路などには焼死した膨大な死体が散在して、民間市民らは惨状に目をそむけながら通行した。

太平洋戦争の末期に、アメリカ空軍は1945年3月10日に東京大空襲を遂行した。真夜中の午前12時8分に東京深川本町2丁目の第1発から約2時間にわたり、296機のB29から約1,700トン、約100万発もの焼夷弾などを無差別に落下した。東京大空襲空を受けた地域は完全に燃え尽きた。東京の民間市民の焼死者は約10万人、戦災者は約100万人にも達した。3月10日の東京大空襲による犠牲者数は、広島原子爆弾の約14万人に次いだ。東京の下町は、木造家屋が密集して、北風を伴った火事嵐が襲って、周辺の市民も建物も燃え尽くした。路上や水路などには焼死した膨大な死体が散在して、民間市民らは惨状に目をそむけながら通行した。



2018年5月9日水曜日

バルカン半島にてナチス・ドイツ軍兵士は、ユダヤ系市民を無差別に拳銃で公開して処刑により虐殺した。

ナチス・ドイツ軍は、1941年4月からバルカン半島を南下してユーゴスラヴィアに侵攻し、同盟したルーマニアやブルガリア軍も参戦して、直ちに占領した。同時にイタリアの要請からギリシアにも侵攻し、ギリシア軍は降伏して、イギリス軍はクレタ島からアレキサンドリアまで敗退した。ドイツ軍はバルカン半島全域と、アドリア海、イオニア海まで占領した。1942年1月20日に正式にユダヤ人絶滅がドイツ帝国の国家戦略となった。アドルフ・ヒトラー総督の側近として、ハインリッヒ・ヒムラー長官は、ナチズムの思想と規範を、支配したドイツ軍の親衛隊や秘密警察(ゲシュタポ)に強制した。1942年からドイツ軍が無差別の市民虐殺からユダヤ人を大量虐殺して絶滅するホロコーストを指揮した。バルカン半島にてドイツ軍兵士は、ユダヤ系市民を無差別に拳銃で公開して処刑により虐殺した。


2018年5月9日 Japan No War (Nonfiction) 日本平和の市民連盟 視聴回数 110,000回

2018年5月8日火曜日

済南事件により、中国の国民革命軍により、日本人も市民を含めて無差別に虐殺された。

日本政府は蒋介石の国民革命軍の北伐が侵攻するため、日本国民の邦人保護を名目に第2次山東出兵を行った。山東省の済南に、日本軍は占領した。1928年5月3日から11日にかけて、両軍の戦闘が勃発して、日本軍は23名、中国側の国民革命軍は約1,000名の戦死者を出した。日本軍は、国民革命軍に謝罪を求めるも、容れられないと中国人を無差別に兵士と市民を含めて虐殺した。中国の国民革命軍は「済南惨案」として、中国人側は憤激するも、蒋介石は日本軍との前面衝突を避けて、済南を迂回して、北京を目指した。済南城を占領した日本軍は、1923年3月末の和平交渉して、5月末に済南を撤退した。日本軍は日本人の保護のために出兵したが、最終的には日本の民間市民12名が死亡して、約50人が負傷した。日本軍は約500人、国民革命軍は死者約3,600人、負傷約1,400人の犠牲者に達した(中国側の発表、日本側と中国側で見解が異なる)。済南事件により、中国の国民革命軍により、日本人も市民を含めて、無差別に虐殺された。済南事件は日清戦争以来の軍事衝突であり、1931年の満州事変から日中戦争の起点となった。



2018年5月7日月曜日

朝鮮戦争にて、韓国南西部の全羅道で、韓国軍が朝鮮人のゲリラの死体を、棒に吊るして廃棄した。

朝鮮戦争にて、韓国南西部の全羅道で、韓国軍が朝鮮人のゲリラの死体を、棒に吊るして廃棄した。韓国軍は、1950年10月19日から中国が参戦した頃から、次第に戦闘するだけでなく、虐殺も始めた。北朝鮮によるゲリラ活動は、1951年1月に絶頂に拡大して活発化した。それに対抗して、韓国軍は大量虐殺として、1951年9月に韓国南部の居昌の市民を溝に追い込み、無差別に約600人を機関銃で虐殺したことが周知された。韓国軍とアメリカ軍はゲリラに対する「ねずみ退治作戦」で、1951年に数千人を虐殺したが、一掃することは不可能であった。1952年12月「ライフ雑誌」に女性写真家のマーガレット・バーク=ホワイトが「朝鮮における野蛮な秘密戦争」を公表した。





2018年5月6日日曜日

北アイルランドの市民デモに対して、イギリス軍が発砲して12名が即死し1名が重症後に死亡した。

北アイルランドの独立をめぐるイギリス軍との紛争にて、1972年にロンドンデリーで「血の日曜日事件」が勃発した。1月30日に北アイルランド公民権協会が計画した市民デモに対して、イギリス軍が発砲した。12名が即死して、1名が重症後に死亡した。平穏な市民による公民権運動に対して、イギリス軍が北アイルランド市民を虐殺して弾圧した。イギリス本土のオルダーショットで、血の日曜日に発砲したイギリス軍の落下傘部隊が、IRA(アイルランド共和国軍、Irish Republican Army)により報復攻撃を受けた。北アイルランドの反英行動に対して、アイルランド緊急法を制定して、3月24日からイギリス政府によるアイルランドの直接統治が勃発した。北アイルランドでは、イギリス軍の攻撃とテロリズムにより、約3,000もの犠牲者が出た。1998年4月28日に両国の市民権を有するベルファスト合意をした。北アイルランド和平構想は、1972年から長い交渉の末1998年4月に北アイルランド紛争に和平合意が成立した。国連や欧米諸国が軍事力でなく、多数派の意志決定が優先しない合意に対して1998年にノーベル平和賞を授与された。



2018年5月5日土曜日

多数のポーランド・パルチザンは公開の絞首刑の処刑をされ、ドイツ軍将校は死体のつなぎ目前で談笑した。

第2次世界大戦にて、ナチス・ドイツは1939年9月1日からポーランドとの緒戦から電撃的に侵略した。9月3日にイギリス・フランスが宣戦布告して第2次世界大戦が勃発した。1942年からのソ連に侵略する前に、ヒトラー総督は、ドイツ軍の司令官に対して、国際法による人道的配慮は不要であると宣告した。ナチス・ドイツ反抗勢力であるポーランド・パルチザンに対して、報復に虐殺をした。多数のポーランド・パルチザンを、公開の首吊りの処刑をした。その絞首刑された死体つなぎ前で、ドイツ軍将校は談笑した。ポーランド人は、1942年からナチスドイツの抵抗勢力である膨大なレジスタンス組織で国内軍などを形成した。ドイツの占領が原因で約300万人もの(非ユダヤ系)ポーランド人が死亡し、戦前の総人口の約10%に達した。約300万人のユダヤ系ポーランド人の虐殺を合わせると、ポーランドは本来の人口の約22%を失って、第2次世界大戦では最大の死亡率となった。


2018年5月4日金曜日

日本軍は、南京の中国軍兵士を虐殺した死体が放置して腐るために大量に焼却して長江の沿岸に遺棄した。

日中戦争により、中国人は約1,000万人以上、日本人は約350万人以上が悲惨な犠牲者と想定された。日本軍は民間人の中国人に対しても、三光作戦、南京大虐殺、731部隊の生体実験、強制連行労働、慰安婦などの悲惨な虐待と虐殺も繰り返した。1937年12月13日には日本軍は南京を占領して、約10万人以上に及ぶと想定される中国軍兵士と中国市民に対して南京大虐殺を執行した。日本軍は、虐殺した中国軍兵士(国民党)の死体が放置して腐るために大量に焼却して長江の沿岸に遺棄した。長江に向かって、日本軍が銃殺や刺殺された膨大な南京人の死体が転がり浮かび上がっていた。欧米通信社の新聞記事が12月中旬に、日本軍による南京占領の虐殺、虐待、略奪、強姦などの犯罪行為(Nanjing Atrocities)が報道された。





2018年5月3日木曜日

第1次世界大戦に西部戦線は、膠着した長期間の塹壕戦線となり、ドーバー海峡からスイス山岳地帯まで引き伸びた。

第1次世界大戦は、1914年6月28日のボスニアの首都サラエボで、オーストラリア皇太子夫妻の暗殺の直後1月後から勃発した。国際的に初めて経験したヨーロッパの全域を巻き込んだ戦禍により、広範囲の廃墟となり膨大な犠牲者を出した。約800年人の兵士が戦死して、約400万人の市民が犠牲死を伴った。機関銃により、塹壕地帯の突破は困難になり、迂回を阻止するため拡張を続けた。西部戦線は、ドーバー海峡からスイス山岳地帯まで引き伸びた。戦線は膠着して、互いに塹壕を築いて長期間の塹壕戦線となった。お互いに塹壕と鉄合網を張り巡らし、トーチカを築いた。膨大な兵隊たちは塹壕に立て籠もっては突撃を繰り返した。第1次世界大戦中の1918年1月8日にアメリカのウイルソン大統領は「14ケ条の平和原則」の第14条で「国際連盟(League of Nations)」の創設を提唱して、大戦を終結に導き、講和の基礎に至った。


2018年5月2日水曜日

シリア内戦にて、首都ダマスカスの北東部のドウマ市場で、自動車爆弾が炸裂した。負傷した子どもを抱きかかえて、父親が野戦病院に運んだ。

シリア内戦にて、首都ダマスカスの北東部のドウマ市場で、自動車爆弾が炸裂した。負傷した子どもを抱きかかえて、父親が野戦病院に運んだ。シリア政府軍は2018年2月28日から、残存している反対勢力が残存している東グータ地区のドウマに攻撃を強化した。シリア政府軍は、空爆から地上戦闘で東グータ地区の大半を占領した。ドウマ周辺のみに反対体制勢力が撤退せずに残存して、3月末までに民間人が約1,600人以上が死亡した。2011年3月15日から勃発した内戦は未だに終結もしないで、子どもは約1万9000人、女性は約1万2000人以上が死亡して犠牲となった。特に反体制派の拠点である東グータ地区では、約40万人の住民も巻き込まれて、シリア軍に包囲されて壊滅状態になった。2018年4月9日には、ロシアに支援されたシリア軍はドウマに化学兵器の毒ガス爆弾を再空爆して、少なくとも約70人以上の民間人が死亡した。対抗してアメリカ・イギリス・フランス軍は4月13日にシリア政府軍の軍事施設にミサイル攻撃をして泥沼化した。



2018年5月1日火曜日

テキサス・レインジャーの騎馬隊は、国境地帯で逃亡したメキシコ人を投げ縄で捉えて、盗賊として虐殺した。

元はメキシコ領であったテキサスに、1821年からアメリカ人約300家族が移民した。入植地の拡大に伴って、自警団が必要になり、1823年に騎馬によるパトロール隊であるレンジャー部隊を組織した。1835年のテキサス革命で、テキサス共和国が独立した。テキサス・レインジャー隊は、国境周辺の無法地帯や騒乱を鎮圧して功績を讃えられた。アメリカ軍の指揮下で国境警備にあたる武装した騎兵部隊や警察ともなった。アメリカ白人による民族浄化により、先住民であるインディアンや、国境を接するメキシコ人達に対して虐待や虐殺した。しばしば集団でメキシコへ越境しては、無差別にメキシコ人多数を銃で撃った。テキサスレインジャーの騎馬隊は、国境地帯で逃亡したメキシコ人を投げ縄で捉えて、盗賊として虐殺した。特に1859年のコルティナ反乱ではレインジャー部隊はメキシコ人を無差別に大量虐殺をした。




2018年4月30日月曜日

日本兵は支那兵捕虜を銃剣で突いて、胸部から出血して、銃弾で頭部を粉砕して眉間から脳髄が滴下した。

日中戦争の徐州作戦にて、日本軍は山東省南東部と江蘇省の長江以北の地域であった徐州を1938年5月18日に占領した。その後に河南省商丘市にて、捕虜にした武器を持たない炊事兵を虐殺した。まず銃剣で突かれ胸部から出血して(No.13)、銃弾で頭部を粉砕されて、眉間から脳髄が突出して滴下した(No.14)。日本軍による中国人捕虜を、豚のように遠慮なく虐殺することを、師団長は日本軍兵士に迫った。小林太郎上等兵が、1938年5月28日に支那兵が「一突き後(N0.13)」と「銃殺後(No.14)」と日誌に撮影記録して、戦後に密かに持ち帰り家族が公表した。その後の日誌には、10月8日、敗残兵2名を銃剣で刺殺した。11月20日、トーチカより引き出した16名の支那兵は頭部を切断して、13名の男性市民は銃殺したなど、無差別の虐殺を記録した。




2018年4月29日日曜日

アフガニスタンの10歳の男子も、ソ連の小型爆弾に被爆して、両手が破裂して両目も失明して両下肢に重度の火傷を受けた。

アフガラスタンの抵抗勢力に屈服したアミン政権が軍事支援を要請して、1979年12月にソ連のブレジネフ大統領はアフガニスタンに侵攻した。イスラム原理主義の革命が、ソ連にも波及するために侵攻をした。ソ連は、アミン政権を収拾勢力が無く、KGBが殺害して、新たな大統領を立て、ソ連の親政権を維持した。パキスタン経由でアメリカはパキスタンを経由して、ムジャーヒディーンを支援して、ソ連の侵攻に対して紛争をした。異教徒からの攻撃からイスラム共同体を守るイスラム戦士と民兵組織とソ連の双方が攻撃を過激化した。ソ連軍は苦戦を強いられ、駐留は長期化して犠牲者と財政支出も膨大となり、最終的にゴルバチョフ大統領はソ連軍の1989年2月に完全撤退をした。ソ連邦は2年後に崩壊した。ソ連は、地中に地雷を埋没した上に、玩具様の小型地雷や爆弾も地面に投下した。多くの子どもが、ソ連製の小型地雷や爆弾を拾って被爆した。10歳の男子も、1985年に小型爆弾で、両手が破裂して両目も失明して、両下肢に重度の火傷を受けた。病院にて切断された息子に両親が悲嘆に暮れた。