2018年5月9日水曜日

バルカン半島にてナチス・ドイツ軍兵士は、ユダヤ系市民を無差別に拳銃で公開して処刑により虐殺した。

ナチス・ドイツ軍は、1941年4月からバルカン半島を南下してユーゴスラヴィアに侵攻し、同盟したルーマニアやブルガリア軍も参戦して、直ちに占領した。同時にイタリアの要請からギリシアにも侵攻し、ギリシア軍は降伏して、イギリス軍はクレタ島からアレキサンドリアまで敗退した。ドイツ軍はバルカン半島全域と、アドリア海、イオニア海まで占領した。1942年1月20日に正式にユダヤ人絶滅がドイツ帝国の国家戦略となった。アドルフ・ヒトラー総督の側近として、ハインリッヒ・ヒムラー長官は、ナチズムの思想と規範を、支配したドイツ軍の親衛隊や秘密警察(ゲシュタポ)に強制した。1942年からドイツ軍が無差別の市民虐殺からユダヤ人を大量虐殺して絶滅するホロコーストを指揮した。バルカン半島にてドイツ軍兵士は、ユダヤ系市民を無差別に拳銃で公開して処刑により虐殺した。


2018年5月9日 Japan No War (Nonfiction) 日本平和の市民連盟 視聴回数 110,000回

2018年5月8日火曜日

済南事件により、中国の国民革命軍により、日本人も市民を含めて無差別に虐殺された。

日本政府は蒋介石の国民革命軍の北伐が侵攻するため、日本国民の邦人保護を名目に第2次山東出兵を行った。山東省の済南に、日本軍は占領した。1928年5月3日から11日にかけて、両軍の戦闘が勃発して、日本軍は23名、中国側の国民革命軍は約1,000名の戦死者を出した。日本軍は、国民革命軍に謝罪を求めるも、容れられないと中国人を無差別に兵士と市民を含めて虐殺した。中国の国民革命軍は「済南惨案」として、中国人側は憤激するも、蒋介石は日本軍との前面衝突を避けて、済南を迂回して、北京を目指した。済南城を占領した日本軍は、1923年3月末の和平交渉して、5月末に済南を撤退した。日本軍は日本人の保護のために出兵したが、最終的には日本の民間市民12名が死亡して、約50人が負傷した。日本軍は約500人、国民革命軍は死者約3,600人、負傷約1,400人の犠牲者に達した(中国側の発表、日本側と中国側で見解が異なる)。済南事件により、中国の国民革命軍により、日本人も市民を含めて、無差別に虐殺された。済南事件は日清戦争以来の軍事衝突であり、1931年の満州事変から日中戦争の起点となった。



2018年5月7日月曜日

朝鮮戦争にて、韓国南西部の全羅道で、韓国軍が朝鮮人のゲリラの死体を、棒に吊るして廃棄した。

朝鮮戦争にて、韓国南西部の全羅道で、韓国軍が朝鮮人のゲリラの死体を、棒に吊るして廃棄した。韓国軍は、1950年10月19日から中国が参戦した頃から、次第に戦闘するだけでなく、虐殺も始めた。北朝鮮によるゲリラ活動は、1951年1月に絶頂に拡大して活発化した。それに対抗して、韓国軍は大量虐殺として、1951年9月に韓国南部の居昌の市民を溝に追い込み、無差別に約600人を機関銃で虐殺したことが周知された。韓国軍とアメリカ軍はゲリラに対する「ねずみ退治作戦」で、1951年に数千人を虐殺したが、一掃することは不可能であった。1952年12月「ライフ雑誌」に女性写真家のマーガレット・バーク=ホワイトが「朝鮮における野蛮な秘密戦争」を公表した。





2018年5月6日日曜日

北アイルランドの市民デモに対して、イギリス軍が発砲して12名が即死し1名が重症後に死亡した。

北アイルランドの独立をめぐるイギリス軍との紛争にて、1972年にロンドンデリーで「血の日曜日事件」が勃発した。1月30日に北アイルランド公民権協会が計画した市民デモに対して、イギリス軍が発砲した。12名が即死して、1名が重症後に死亡した。平穏な市民による公民権運動に対して、イギリス軍が北アイルランド市民を虐殺して弾圧した。イギリス本土のオルダーショットで、血の日曜日に発砲したイギリス軍の落下傘部隊が、IRA(アイルランド共和国軍、Irish Republican Army)により報復攻撃を受けた。北アイルランドの反英行動に対して、アイルランド緊急法を制定して、3月24日からイギリス政府によるアイルランドの直接統治が勃発した。北アイルランドでは、イギリス軍の攻撃とテロリズムにより、約3,000もの犠牲者が出た。1998年4月28日に両国の市民権を有するベルファスト合意をした。北アイルランド和平構想は、1972年から長い交渉の末1998年4月に北アイルランド紛争に和平合意が成立した。国連や欧米諸国が軍事力でなく、多数派の意志決定が優先しない合意に対して1998年にノーベル平和賞を授与された。



2018年5月5日土曜日

多数のポーランド・パルチザンは公開の絞首刑の処刑をされ、ドイツ軍将校は死体のつなぎ目前で談笑した。

第2次世界大戦にて、ナチス・ドイツは1939年9月1日からポーランドとの緒戦から電撃的に侵略した。9月3日にイギリス・フランスが宣戦布告して第2次世界大戦が勃発した。1942年からのソ連に侵略する前に、ヒトラー総督は、ドイツ軍の司令官に対して、国際法による人道的配慮は不要であると宣告した。ナチス・ドイツ反抗勢力であるポーランド・パルチザンに対して、報復に虐殺をした。多数のポーランド・パルチザンを、公開の首吊りの処刑をした。その絞首刑された死体つなぎ前で、ドイツ軍将校は談笑した。ポーランド人は、1942年からナチスドイツの抵抗勢力である膨大なレジスタンス組織で国内軍などを形成した。ドイツの占領が原因で約300万人もの(非ユダヤ系)ポーランド人が死亡し、戦前の総人口の約10%に達した。約300万人のユダヤ系ポーランド人の虐殺を合わせると、ポーランドは本来の人口の約22%を失って、第2次世界大戦では最大の死亡率となった。


2018年5月4日金曜日

日本軍は、南京の中国軍兵士を虐殺した死体が放置して腐るために大量に焼却して長江の沿岸に遺棄した。

日中戦争により、中国人は約1,000万人以上、日本人は約350万人以上が悲惨な犠牲者と想定された。日本軍は民間人の中国人に対しても、三光作戦、南京大虐殺、731部隊の生体実験、強制連行労働、慰安婦などの悲惨な虐待と虐殺も繰り返した。1937年12月13日には日本軍は南京を占領して、約10万人以上に及ぶと想定される中国軍兵士と中国市民に対して南京大虐殺を執行した。日本軍は、虐殺した中国軍兵士(国民党)の死体が放置して腐るために大量に焼却して長江の沿岸に遺棄した。長江に向かって、日本軍が銃殺や刺殺された膨大な南京人の死体が転がり浮かび上がっていた。欧米通信社の新聞記事が12月中旬に、日本軍による南京占領の虐殺、虐待、略奪、強姦などの犯罪行為(Nanjing Atrocities)が報道された。





2018年5月3日木曜日

第1次世界大戦に西部戦線は、膠着した長期間の塹壕戦線となり、ドーバー海峡からスイス山岳地帯まで引き伸びた。

第1次世界大戦は、1914年6月28日のボスニアの首都サラエボで、オーストラリア皇太子夫妻の暗殺の直後1月後から勃発した。国際的に初めて経験したヨーロッパの全域を巻き込んだ戦禍により、広範囲の廃墟となり膨大な犠牲者を出した。約800年人の兵士が戦死して、約400万人の市民が犠牲死を伴った。機関銃により、塹壕地帯の突破は困難になり、迂回を阻止するため拡張を続けた。西部戦線は、ドーバー海峡からスイス山岳地帯まで引き伸びた。戦線は膠着して、互いに塹壕を築いて長期間の塹壕戦線となった。お互いに塹壕と鉄合網を張り巡らし、トーチカを築いた。膨大な兵隊たちは塹壕に立て籠もっては突撃を繰り返した。第1次世界大戦中の1918年1月8日にアメリカのウイルソン大統領は「14ケ条の平和原則」の第14条で「国際連盟(League of Nations)」の創設を提唱して、大戦を終結に導き、講和の基礎に至った。


2018年5月2日水曜日

シリア内戦にて、首都ダマスカスの北東部のドウマ市場で、自動車爆弾が炸裂した。負傷した子どもを抱きかかえて、父親が野戦病院に運んだ。

シリア内戦にて、首都ダマスカスの北東部のドウマ市場で、自動車爆弾が炸裂した。負傷した子どもを抱きかかえて、父親が野戦病院に運んだ。シリア政府軍は2018年2月28日から、残存している反対勢力が残存している東グータ地区のドウマに攻撃を強化した。シリア政府軍は、空爆から地上戦闘で東グータ地区の大半を占領した。ドウマ周辺のみに反対体制勢力が撤退せずに残存して、3月末までに民間人が約1,600人以上が死亡した。2011年3月15日から勃発した内戦は未だに終結もしないで、子どもは約1万9000人、女性は約1万2000人以上が死亡して犠牲となった。特に反体制派の拠点である東グータ地区では、約40万人の住民も巻き込まれて、シリア軍に包囲されて壊滅状態になった。2018年4月9日には、ロシアに支援されたシリア軍はドウマに化学兵器の毒ガス爆弾を再空爆して、少なくとも約70人以上の民間人が死亡した。対抗してアメリカ・イギリス・フランス軍は4月13日にシリア政府軍の軍事施設にミサイル攻撃をして泥沼化した。



2018年5月1日火曜日

テキサス・レインジャーの騎馬隊は、国境地帯で逃亡したメキシコ人を投げ縄で捉えて、盗賊として虐殺した。

元はメキシコ領であったテキサスに、1821年からアメリカ人約300家族が移民した。入植地の拡大に伴って、自警団が必要になり、1823年に騎馬によるパトロール隊であるレンジャー部隊を組織した。1835年のテキサス革命で、テキサス共和国が独立した。テキサス・レインジャー隊は、国境周辺の無法地帯や騒乱を鎮圧して功績を讃えられた。アメリカ軍の指揮下で国境警備にあたる武装した騎兵部隊や警察ともなった。アメリカ白人による民族浄化により、先住民であるインディアンや、国境を接するメキシコ人達に対して虐待や虐殺した。しばしば集団でメキシコへ越境しては、無差別にメキシコ人多数を銃で撃った。テキサスレインジャーの騎馬隊は、国境地帯で逃亡したメキシコ人を投げ縄で捉えて、盗賊として虐殺した。特に1859年のコルティナ反乱ではレインジャー部隊はメキシコ人を無差別に大量虐殺をした。




2018年4月30日月曜日

日本兵は支那兵捕虜を銃剣で突いて、胸部から出血して、銃弾で頭部を粉砕して眉間から脳髄が滴下した。

日中戦争の徐州作戦にて、日本軍は山東省南東部と江蘇省の長江以北の地域であった徐州を1938年5月18日に占領した。その後に河南省商丘市にて、捕虜にした武器を持たない炊事兵を虐殺した。まず銃剣で突かれ胸部から出血して(No.13)、銃弾で頭部を粉砕されて、眉間から脳髄が突出して滴下した(No.14)。日本軍による中国人捕虜を、豚のように遠慮なく虐殺することを、師団長は日本軍兵士に迫った。小林太郎上等兵が、1938年5月28日に支那兵が「一突き後(N0.13)」と「銃殺後(No.14)」と日誌に撮影記録して、戦後に密かに持ち帰り家族が公表した。その後の日誌には、10月8日、敗残兵2名を銃剣で刺殺した。11月20日、トーチカより引き出した16名の支那兵は頭部を切断して、13名の男性市民は銃殺したなど、無差別の虐殺を記録した。




2018年4月29日日曜日

アフガニスタンの10歳の男子も、ソ連の小型爆弾に被爆して、両手が破裂して両目も失明して両下肢に重度の火傷を受けた。

アフガラスタンの抵抗勢力に屈服したアミン政権が軍事支援を要請して、1979年12月にソ連のブレジネフ大統領はアフガニスタンに侵攻した。イスラム原理主義の革命が、ソ連にも波及するために侵攻をした。ソ連は、アミン政権を収拾勢力が無く、KGBが殺害して、新たな大統領を立て、ソ連の親政権を維持した。パキスタン経由でアメリカはパキスタンを経由して、ムジャーヒディーンを支援して、ソ連の侵攻に対して紛争をした。異教徒からの攻撃からイスラム共同体を守るイスラム戦士と民兵組織とソ連の双方が攻撃を過激化した。ソ連軍は苦戦を強いられ、駐留は長期化して犠牲者と財政支出も膨大となり、最終的にゴルバチョフ大統領はソ連軍の1989年2月に完全撤退をした。ソ連邦は2年後に崩壊した。ソ連は、地中に地雷を埋没した上に、玩具様の小型地雷や爆弾も地面に投下した。多くの子どもが、ソ連製の小型地雷や爆弾を拾って被爆した。10歳の男子も、1985年に小型爆弾で、両手が破裂して両目も失明して、両下肢に重度の火傷を受けた。病院にて切断された息子に両親が悲嘆に暮れた。



2018年4月28日土曜日

イギリス海兵隊は、アデン危機でクレイター地区を防御していたアラブ人兵士の10人を射殺した。

イギリスのアデン保護領と南アラビア連邦で1963年12月10日から1967年11月30日の戦闘によるアデン危機から、南イエメンがイギリスから独立した。エジプト及びソ連が、南イエメンの独立軍を支援した。1967年1月19日から20日、NLF(イエメン国民解放戦線)はアデン街頭で抵抗運動を仕掛けた。派遣された保護領のイギリス軍はNLFの抵抗運動を粉砕した。FLOSY(南イエメン解放戦線)がNLFに代わり、抵抗運動とイギリス軍の戦闘は2月まで続いた。1967年6月には第3次中東戦争が勃発して、アデン危機は更に悪化した。6月20日、エジプトに呼応した南アラビア連邦の警察官が、イギリス軍に反旗を翻した。蜂起はアデン武装警察にも広がり、22人のイギリス軍兵士を虐殺して、ヘリコプターを撃墜し、クレイターを獲得した。イギリス海兵隊が高所からアラブ人兵士を10人射殺した。アラブ人兵士は約400人でクレイターを防衛した。 NLFとFLOSY兵士は市街地で銃撃戦を始めたが、放火や強盗、殺人等も発生した。イギリス軍はクレイターの主要な出口を2つ封鎖した。11月下旬、度重なるNLFゲリラの攻撃により、イギリス軍はアデンから撤退して、NLFはイエメン人民民主共和国(南イエメン)を独立した。





2018年4月27日金曜日

日本人兵隊は一銭五厘の郵送料で赤紙を送れば徴兵でき、兵隊の命は一銭五厘の価値しかないと比喩された。

日本帝国の兵役法による召集令状で、膨大な日本国民の男子が徴兵されて、戦場に駆り出された。日本人兵隊は一銭五厘の郵送料で赤紙を送れば補充がきく、兵隊の命は一銭五厘の価値しかないと比喩された。実際は役場の職員が直接に赤紙を持って行くのが原則であった。第2次世界大戦では、召集令状により、実際に約2,500,000人の生命を、南方の洋上と諸島から北方の極寒の大陸で奪い去られた。帝国陸海軍の召集令状等の色から赤紙などと呼ばれた。陸軍省の大半の召集は赤色が使われて、当初は真赤だったが、戦時の物資不足による染料の節約で次第に地色が薄くなり、太平洋戦争ではピンクとなった。海軍省の召集も同じ色が使われたため、陸海両軍の令状を混合して赤紙と呼称された。1873年に陸軍省から発布された徴兵令が、日本国民の男子に兵役の義務を課すために全面改正して、兵役法が1927年4月1日に公布されて12月1日に施行された。兵役法はポツダム命令により、1945年11月17日に廃止された。




2018年4月26日木曜日

ヨルダン川西海岸地区のキリスト生誕地のベツレヘムで、1988年に占領軍のイスラエル人兵士が、パレスチナ人によって銃殺された。

ヨルダン川西岸地区は、1948年5月14日のイスラエルの独立宣言から勃発した第一次中東戦争で、ヨルダンによって占領されて、1950年にはヨルダンは東エルサレムを含む地域を併合した。同地区は1967年までヨルダンの一部を構成していたが、1967年6月の第三次中東戦争でイスラエル軍によって占領された。ヨルダンは1994年に領有権を放棄して、現在はイスラエル軍とパレスチナ開放機構(PLO)の自治政府によって統治されている。ヨルダン川西岸地区は、国際連合からはイスラエル占領地として認められた。ヨルダン川西岸地区にはパレスチナ人やユダヤ人および他の少数民族グループが居住している。同地区の大多数を占めるパレスチナ人は、第一次中東戦争よりイスラエルからの難民あるいは直系の子孫である。キリストの生誕地であるベツレヘムを含む同地区で、1988年に占領軍のイスラエル人兵士が、パレスチナ人によって銃殺された。



2018年4月25日水曜日

日本軍がマニラから完全にアメリカ軍に掃討されるまでアジアで最大の大規模な市街戦により、マニラ市民は灰燼の犠牲者に帰した。

太平洋戦争にて、フィリピンのルソン島のマニラ戦は1945年2月3日から3月3日の4週間も続き、最も悲惨な犠牲となった。日本軍のマニラ海軍防衛隊と残置陸軍部隊は、建物や民家を陣地化して徹底抗戦をはかった。アメリカ軍が完全に包囲するなか、マニラ地区では成人男性の大多数が日本軍により逮捕拘留され、銃剣や機銃掃射で殺戮され続けた。全地区にて婦女子が組織的に強姦された。アメリカ軍は、狙撃による兵員の損害を抑えるために重砲火の無差別砲撃で街区を次々と破壊した。民間市民被害者の6割を日本軍による殺戮、4割をアメリカ軍の重砲火による死亡と推定された。アメリカ軍記録では、日本軍はほぼ全滅(1万6665名の戦死)、アメリカ軍戦死は1010名であった。最大の犠牲者はマニラ市民で、食糧と水が欠乏する状態と無差別砲撃で民間人犠牲者の総数は約10万人にも達した。日本軍がマニラから完全にアメリカ軍に掃討されるまでアジアで最大の大規模な市街戦によって、マニラ市民は灰燼の犠牲者に帰した。