日中戦争にて、日本軍の侵攻により、南京城内の国民党軍の中国人兵士が1937年12月12日午後から撤退し始めた。11日からの撤退命令が届かずに散乱して敗走した。唯一の脱出路となった船着場の下関に向かうも、不法脱出として同士撃ちともなった。日本軍は13日に城内に入り侵攻した。南京城内には、日本軍に撃滅された多数の中国人兵士と市民の死体が散乱した。南京戦における双方の犠牲者の詳細な史料は残されず裁判と論争となった。
太平洋戦争のニューギニアの戦いにて、アメリカ連合軍はギルワナの戦場で日本軍を追い込んだ。日本軍は緒戦のバザブアとブナでは全滅した。日本軍兵士が1943年1月12日にギルワ地域から撤退して脱出するために、アメリカ連合軍の橋頭堡を強奪を試みた。しかし、強奪できずに失敗して、銃殺されて死体は浮かびながら太平洋にも流れた。
日本軍は朝鮮半島をめぐり、ロシア軍と1905年2月8日から1904年9月5日まで日露戦争が勃発して権益を支配した。日本軍は、朝鮮半島から京釜鉄道の用地を略奪して、その鉄道の敷設や電信線を妨害した朝鮮人を銃殺した。「武威半島を圧す 鉄道線路妨害者の死刑執行」日本人の支配により朝鮮人が完全に被支配されて銃殺刑にされた。緒戦では韓国・清国を防御するとした日露戦争が、進展するほど逆に両国の支配権を一方的に拡大した。
インドネシアのジャカルタで1898年5月12日の学生運動に対して、スハルト政権の政府軍兵士がトリサクティ大学生4名を射殺した。翌日の追悼式には市民も参加して市内が暴動で内戦化した。各地で暴行や放火が華僑や市民にも向かいに巻き込まれて多数が死亡した。ジャカルタの5月暴動で黒焦げになって発見された娘の死体に母親が泣き崩れた。5月21日にはスハルノ政権が崩壊した。
中部アメリカ大陸のエネサルバドルの首都サンサルバドルにて、1980年3月24日にロメロ大司教暗殺され、その告別式の市民を政府軍が無差別に銃殺と虐殺した。10月に反政府のファラブンド・マルティ民族解放戦線(FMLN)が結成され、PKOによる1992年の和平至るまで長期間にわたる内戦状態に陥った。1981年1月からアメリカ軍と政府軍が干渉してFMLNに対抗して弾圧と虐殺をした。政府による1982年3月の制憲議会選挙を阻止するために、反政府勢力と激戦となり、市民を含めて大量の犠牲者が出た。政府軍は虐殺した反政府勢力や市民の死体を集めてはトラックに積み込んで処理した。
日中戦争にて、1938年3月3日に中支那派遣日本軍の後備歩兵大隊は、上海市郊外の松江区で、中国人の抗日ゲリラ(土匪)の抵抗勢力に対して警備と掃討した。銭家草の小部落にて、土匪だけでなく農民を含めた捕虜約75名を虐殺した。「何てしぶとい奴だろう。未だ死にあがらない早くくたばれと四方からズブリ良く通るでしょう。」と興奮しながら叫んだ。銃剣や機関銃で殺害して、土葬や焼却した。日本軍が土匪の掃討の記念日に写真班の助手が命がけ撮影した48枚の写真を焼きまわして極秘に家族に送付した。
イラク戦争が2003年3月20日からの5月1日にアメリカ軍は終結宣言した。その後も2004年3月から、占領後ファルージャで戦闘が勃発した。2004年3月31日に、イラクのファルージャでアメリカ人4名が、イラク人によって虐殺された。焼き焦げにした死体を、市内を引きずり回して、橋に吊られた。アメリカ5大新聞であるニューヨーク・タイムズが、2004年4月1日の第1面に、イラク人が歓喜して吊り下げた黒焦げのアメリカ人らの焼死体を公表した。報復からアメリカ軍は大規模な掃討をして膨大な犠牲者が出した。
太平洋戦争の後期におけるフィリピン戦では、アメリカ軍が1944年10月から1945年8月に日本軍が侵略したフィリピンを奪還した。アメリカ軍の上陸によって日本軍は追い詰められて、ルソン島のバタンガス州のリパ市付近で、多数のフィリピン人住民を無差別に虐殺した。日本軍兵士は1945年4月13日にフィリピン人住民らを後手に縛って銃剣と日本刀で殺戮していた。
太平洋戦争のガダルカナル島の戦闘にて、アメリカ軍の海兵隊員は日本軍からの狙撃によって仰向けにて即死した。1942年9月12日から14日のガダルカナル島のエドソンの丘やムカデ高地が血染めの高地となった。小道が繋がっている山腹には、多数の日本兵の死体だけでまく、海兵隊のも散在して、飢餓に追い詰められる緒戦となった。アメリカ軍には野戦医療が整備され、その他の海兵隊らは一命を留めた。
太平洋戦争にて、日本の約2倍もある広大なニューギニア島にて、ジャングルと飢餓にて苦闘となった。日本軍は初めて、ニューギニアに1942年3月8日から侵攻していた。アメリカ軍は初めて首都のポートモレスビーに近い日本軍のブナ地域を制圧して、緒戦にて日本軍は全滅した。アメリカ軍の砲弾により、くり抜かれて雨が溜まった池に、1943年1月8日に2人の日本軍兵士の死体が浮かんでいた。兵士1名は頭部が破砕されて上向きに浮かんだ。
イラク戦争が、アメリカ主体連合軍が2003年3月20日からイラクに強行に侵攻して、5月1日に一時的に戦闘終結を宣言した。占領するも、多くのイラク市民らが占領反対勢力に加わり、過激な破壊活動が勃発した。治安が悪化して、車による自爆テロや突撃爆弾が激化した。2005年5月27日にアメリカ軍兵士は、反占領勢力が車中にいると想定して、車中にいるイラク人運転手の頭部に向けて、頭部を狙撃して上半分が吹っ飛んで即死した。2006年6月頃からは反占領勢力の無差別な攻撃で、多数のイラク人市民が巻き込まれ犠牲者が発生した。
太平洋戦争の緒戦において、マッカーサー司令官はフィリピンのマニラ湾に面したコレヒドール島に司令部を配備した。日本軍は1941年5月6日に制圧した。"I shall return"と宣言してオーストラリアに撤退した。コレヒドール島の奪還に執着したアメリカ軍は1945年1月20日から1月28日まで本格的な空海軍による戦闘した。約5,000名の日本軍兵士は断末魔には肉親の名前を叫けびながら完全に壊滅した。生存者はわずかに約9名であった。
ベトナム戦争中の1967年11月19~23日に、南ベトナム国境付近のコントゥム省の中央高原地帯である875高地(Dak To)で激戦が勃発した。アメリカ軍は、北ベトナム軍と激戦となり、約4分1の戦死傷者を受けた。南と南東部の875丘の大部分で勃発した戦闘は、ベトナム戦争でも膨大な死傷者を出した。ダック・トー戦闘により、875高地にはアメリカ軍兵士の多数の死体が散在した。
ソビエトのペトログラードの近隣のクロンシュタット基地の水兵が、ソビエト独裁政権ではなく、自由選挙によるソビエト権力を求めて、1921年2月に最後の最大の反逆が勃発した。バルト海艦隊の拠点に対して無条件降伏を要求して、3月16日にソビエト赤軍は総攻撃による鎮圧に入った。氷結したフィンランド湾上では、多数の水兵が砲撃による犠牲となった死体が散乱した。深夜であるも白夜のため周囲は昼のように明るかった。
太平洋戦争の末期の沖縄戦は、アメリカ軍が圧倒的な戦力で1945年4月1日に沖縄本島中西部から上陸した。1945年5月23日からの首里攻防戦後に、その周辺には多数の日本軍兵士の死体が散在していた。アメリカ軍兵士が、多数の日本軍兵士の死体の検死を確認していた。6月23日には日本軍本部が壊滅して、アメリカ軍は嘉手納基地で終結の星条旗を掲げた。