インドのラジブ・ガンジー首相らは、タミル人系のスリランカ新政府組織(LTTE: Liberation Tigers of Tamil Eelam)に干渉して、1987年にインド軍を進駐させた。シンハラ人系のスリランカ政府が、約3割のタミル人を殺戮して紛争が勃発していた。タミル人が出移民したタミルナドゥ州の南マドラス近郊で、1991年5月21日に遊説中に爆弾テロの犠牲となった。タミル人女性がタミル・ガンジーに最敬礼して足に触れた瞬間に自爆した。頭部が吹き飛ばされて46歳で即死させた。
東京大空襲により、1944年11月24日から1945年8月15日まで、東京の都心は118回の空襲を受けた。来襲した航空機は約4,317機、投下爆弾11,642発、投下焼夷弾389,241、死者は約95,966名と負傷者は70,971名に及んだ。B-29から投下された焼夷弾により、火事嵐が起き、全ての人も物も、生命と財産を、焼失した。母がちぎれかかった娘の幼児を抱えながら、共に焼け死んだ。それらの死体は、完全に焼け焦げて黒化して硬直したままで散在していた。
ベルリンの壁が崩壊した1989年11月9日から、東ヨーロッパでは民主化による自主独立の内戦が勃発差した。ほとんどの国々は無血で民主化された。しかし、ルーマニアだけは、チャウシェスク社会主義政権が大規模デモに対して軍隊が12月17日から21日に発砲して市民を死傷した。起点となったティミショアラでは、政権側軍隊が膨大な市民を大虐殺して、約4,000人の死体を地中の墓に埋めた。12月25日に大統領が直ちに死刑で処刑されて、ルーマニアは民主化の過程に入った。
スエズ動乱が、エジプトのナセル大統領がスエズ運河の国有化の宣告した1956年7月26日から勃発した。10月29日にイスラエル軍がシナイ半島に侵攻した。シナイ砂漠ではエジプト軍兵士の死体が散在して放置された。10月31日にイギリス軍とフランス軍は、スエズ運河に侵入し、カイロ周辺を空爆した。11月にはアメリカさらにソ連と中国がエジブトに武力援助を公表した。イギリス軍とフランス軍が12月22日に撤退してスエズ動乱は終結した。
ユーゴスラビアから独立後の1992年3月3日から1995年10月31日までボスニア・ヘルツェゴビナ紛争が勃発した。2日間の停戦中であった1992年5月27日に、セルビア人勢力からサラエボに砲撃した3発により、中心部のパン屋に買い出したイスラム教のボシュニャク人らの20名が死亡した。食料不足で命がけの買い出しのサラエボ市民にパンを与えない飢餓作戦の一貫として虐殺した。その後も各々が民族勢力圏を拡大する民族浄化により、虐待や虐殺をして、その犠牲者から膨大な難民らが発生した。
ツチ族のルワンダ愛国戦線が、1994年7月にルワンダを制圧して、フツ族を大量虐殺した。膨大なフツ族の難民が発生して周辺に逃避した。ザイール・ゴマにおけるルワンダ難民キャンプでは、1994年7月21日に衛生と栄養状態の悪化により、細菌性のコレラの感染で大量のルワンダ難民が死亡した。夫がその妻の遺体を、死体の集積所に横たえた。
太平洋戦争にて、1943年5月12日にアメリカ軍はアッツ島に上陸して、日本軍は17日間の戦闘して玉砕により全滅した。アッツ島のチチャゴフ湾方面に膨大な日本軍兵士の死体が散在していた。マサカ湾とチチャゴフ湾と間の約3kmの地帯には、約1,000人以上もの日本軍兵士は無残な死体となった。アメリカ軍との戦闘だけでなく、多くの日本軍兵士は万歳を叫んで集団で自決した。日本軍の損害は戦死2,638名、捕虜は27名で生存率は1パーセントに過ぎず、アメリカ軍損害は戦死約600名、負傷約1,200名であった。
治安維持法が、第50回衆議院おいて1925年2月19日に緊急に上程された。その直前に日本では治安維持法に反対する市民による大規模な示威運動が行われた。1925年2月11日に治安維持法ならびに労働争議調停法などに反対する約3,000人の市民集会が、東京の芝赤羽の有馬ヵ原で集会をした。1925年3月15日には衆議院で可決されて、その直後の3月19日に貴族院でも可決された。「第1条 国体を変革しまたは私有財産制度を否認することを目的として結社を組織しまたは情を知りてこれに加入したる者は十年以下の懲役または禁錮に処す。前項の未遂罪はこれを罰す。」
第1次世界大戦で、猛毒の毒ガスが使用された。1918年4月10日のエスタインの戦闘で、ドイツ軍の毒ガスで視覚障害となったイギリス兵士たちが、盲目に失明したために、応急手当て救護所へ一列に隊列を組んで行進した。盲目の兵士たちは、両手を前方の兵士の両肩で支えながら、隊列を組んでゆっくりと救護所まで恐る恐る歩行しながら移動した。
ベトナム戦争において、サイゴン市から南約135kmのヴィンロン省において、アメリカ軍の第25歩兵師団の兵士らが無差別にベトナム人を掃討した。1970年8月に第25歩兵師団の兵士がライム収穫中であった若年のベトナム人農民らを殺害した。ベトナム派遣中には、第25歩兵師団は22個の名誉勲章を拝受されて、その中隊の一部が映画「プラトーン」の題材になった。
ナチス・ドイツが1939年9月1日にポーランド侵攻して第2次世界大戦が勃発した。まずユダヤ系市民から悲惨な虐待を受けた。彼らは1939年10月から強制労働を強要され、1940年1月に財産権を失い高率な税負担があり、度々に大衆による虐殺運動であるポログロムにも巻き込まれた。1940年1月から移動が制限され、隔離地域であるゲトーに閉じ込められた。ドイツ当局の命令を執行する組織により、極端な劣悪な環境で死亡率が平時の16倍にも達した。ポーランド市民らはゲトーで殺害されたユダヤ人の死体を集積して処分させられた。
日中戦争において、80年前の1937年12月13日に南京に入城した日本軍は、中国人に対して大量の虐殺事件を引き起こした。無抵抗の非戦闘員である投稿兵から捕虜さらに婦女子から市民を含めて、虐殺だけでなく、略奪から強姦の残虐行為を繰り返した。城外を出て、長江を渡って退避する途中の市民らが銃撃を受けて大量に虐殺された。日本軍は殺害された大量の市民らを処理して、黒焦げになった死体が長江に流され下関の岸に堆積した。
ナガランド州はインドとビルマの国境に広がる山岳地帯にナガ族が暮らしている。イギリスによる植民地支配から1947年8月15日に独立したインドと1948年1月4日に独立したビルマ連邦に山岳地帯は割譲された。インド領となったナガランド州では長期間にわたり激しい独立運動が行われた。インド軍はナガ族に対して弾圧や虐殺を継続している。紛争により弾圧と虐殺された頭蓋骨が散在して放置された。ナガランド州の独立運動に対するインド軍の弾圧によってナガ族は内戦した。和平会談にも失望したナガ族は中国に兵士を送り内戦の協力を受けた。
アメリカ同時多発テロが、2001年9月11日に4機の航空機を用いた同時期にテロ事件が勃発した。その内の2機は世界貿易センタービルの北棟には午前8時46分に、南棟には午前9時3分に突入して大炎上した。世界貿易センタービルの北棟タワーからは、まっさかさまに飛び降りた人は、頭部から地面に向けて落下していった。南棟は午前9時59分に、北棟は午前10時28分に崩壊して、約2,602人が犠牲者となった。その仇討のために、アメリカ軍等は2001年10月7日のアフガニスタン紛争から2003年3月20日のイラク戦争に報復侵略した。
ナチス・ドイツ軍は1939年9月1日に、ソ連軍が9月17日にポーランドに侵攻して第2次世界大戦が勃発した。ドイツ軍は、直ちにユダヤ人とポーランド人あわせて約87,000人が、ポーランド占領地域からワルシャワなどの各都市のユダヤ人街へ送致した。囲い込みから送致して絶滅を目指す大量虐殺のホロコーストを実施した。1939年9月11日に、ナチスドイツ軍が抹殺した死体を、ポーランドのワルシャワで露天墓地に集積して山積みにした。