アメリカ同時多発テロが、2001年9月11日に4機の航空機を用いた同時期にテロ事件が勃発した。その内の2機は世界貿易センタービルの北棟には午前8時46分に、南棟には午前9時3分に突入して大炎上した。世界貿易センタービルの北棟タワーからは、まっさかさまに飛び降りた人は、頭部から地面に向けて落下していった。南棟は午前9時59分に、北棟は午前10時28分に崩壊して、約2,602人が犠牲者となった。その仇討のために、アメリカ軍等は2001年10月7日のアフガニスタン紛争から2003年3月20日のイラク戦争に報復侵略した。
ナチス・ドイツ軍は1939年9月1日に、ソ連軍が9月17日にポーランドに侵攻して第2次世界大戦が勃発した。ドイツ軍は、直ちにユダヤ人とポーランド人あわせて約87,000人が、ポーランド占領地域からワルシャワなどの各都市のユダヤ人街へ送致した。囲い込みから送致して絶滅を目指す大量虐殺のホロコーストを実施した。1939年9月11日に、ナチスドイツ軍が抹殺した死体を、ポーランドのワルシャワで露天墓地に集積して山積みにした。
クメール・ルージュにより1975年5月13日にポル・ポト政権が樹立し、国号がカンプチアに改名された。カンプチアの約4割におよぶ約200万人以上もの市民の大虐殺された。犠牲者は女性や子供までに及んだ。ベトナムは軍事介入するも1979年2月17日には中国と直ちに軍事衝突して大虐殺は秘密裏にされた。熱帯林に埋もれた白骨の山だけでなく、犠牲者はプノンペン市内の元高校内でも見出された。
アメリカからの独立革命で、キューバ政権が1959年1月1日にカストロらにより樹立された。アメリカと対立して独裁化するために農地接収をする4月の農地改革法による集団農業で一部の農民らは難民となった。その直後から反カストロ政権は多数の政治犯らを刑務所に送還して牢獄して家畜なみに虐待と虐殺した。首都のハバナのエクアドル大使館に逃げ込んだキューバ農民が、すぐさまキューバのカストロ政権の秘密警察によって射殺された。
76年前の日本時間1941年12月8日に宣戦布告の直前に、太平洋戦争の緒戦となった日本軍による真珠湾攻撃が、ハワイ準州オアフ島のアメリカ海軍の基地と艦隊に対して奇襲をした。アメリカは12月11日にはドイツ・イタリアにも宣戦をして地球規模の第2次世界大戦に参戦する口実となった。アリゾナ戦艦は日本空軍から膨大な空爆をされて、アメリカ軍兵士1,177名のうちに1102名が戦死して沈没した。その他に戦艦8隻と船舶13隻も沈没した。
フィリピンは、1896年からスペインの植民地から独立運動をした。スペインが1989年5月1日を敗北するも、アメリカ合衆国が植民地とした。アメリカ軍はフィリピン人の独立運動を掃討すめため、1902年までに少なくとも約20万人を虐殺した。1900年11月にはフィリピン人市民に対しても殺人、強姦、水責めなどの残虐も行われた。アメリカ軍は降伏している無抵抗のフィリピン人捕虜も連行して、銃殺してはちの巣になった死体を塹壕などに散在した。
ベトナム戦争にて、1968 年5月5日に南ベトナムのサイゴン政府軍のみはサイゴン市のダカオに潜伏した北ベトナムの開放戦線を掃討した。南ベトナム政府軍は、グエンディンチュー通りに潜伏していた解放戦線の一人の兵士を銃殺して、死体に集合して検視した。北ベトナムの開放戦線は、1968年1月31日から都市部に対するテト大攻勢により、既に3月31日にはジョンソン大統領は次期不出馬を表明してアメリカ軍は敗退を決定していた。
第2次世界大戦中に、ルーマニア人自身がユダヤ人の虐待者となった。1941年6月28日のルーマニアのヤーシで、ルーマニア人によるユダヤ人の大量虐殺が行われた。大勢のユダヤ人々をヴルトゥールの森を行進させた後に、10人づつ一緒くたにされて、次々と銃殺された。ルーマニア軍は、ユダヤ人は約14,000人を虐殺し、その中には母親や子どもたちも大勢含まれていた。2004年になってルーマニア自らユダヤ人の大量虐殺を公式に認めた。
長崎原子爆弾が1945年8月9日午前11時2分に炸裂して14歳の女子の学徒が長崎市内にて全身の熱傷と放射能の被爆をした。爆心地より約17km離れた大村海軍病院に8月10日に搬入された(写真上)。重傷な壊死したやケドであるも十分な手当もできずに、8月12日には急速に重篤となりベッド上で点滴するも死亡した(写真下)。
広島原子爆弾が1945年8月6日午前8時15分に炸裂して被爆した重傷者は、広島宇品港から約4kmと近海にある似島の陸軍検疫所に搬送された。似島で8月7日に全身が焼きただれて熱傷した重症の被爆者が似島で撮影された。撮影された重傷の被爆者の写真には、「原子爆弾熱傷(重症)死亡」と記録された。
日中戦争にておいて、1937年8月13日からの第二次上海事変から日本軍の戦線が中国各地に拡大した。中華民国の国民党が遷都した南京を12月13日に攻略して占領した。その後に日本軍は約2ケ月間にわたり、中国人兵士から捕虜、南京から周辺住民を巻き込んで暴行と虐殺をした。日本軍は、諸説はあるものの膨大な中国人市民を虐殺した。日本軍兵士がその死体を塹壕に集積して検死した。
第2次世界大戦中に、日本軍の1940年からのベトナム侵攻による食糧の略奪から、それに対するフランスの植民地政策やアメリカ軍の空襲等から不順な天候で、1944年9月から1945年5月に北ベトナム周辺で大飢饉が発生した。その大飢饉による餓死者の推定は、最大で約200万とも推定されている。あらゆるベトナム市民らの餓死した死体は路上に散乱して集積された。
ヨルダン空軍のカサースベ中尉は米軍主導の対イスラム国の軍事行動に参戦した。2004年12月24日にシリア領空でイスラム国のミサイル攻撃を受けて墜落して身柄を拘束された。イスラム国は2005年2月3日に、拘束した中尉を火焼ぶりで殺害した残酷な映像をネット上で公開した。中尉は屋外に設置されたおりの中で、生きたまま火をかけられ、焼け焦げになった(DABIQ7_p8)。ヨルダン軍は直後に映像は本物として、懲罰と報復の声明を出した。
【閲覧留意】
清国にて儒教の孔子の生誕地である山東省身の曲阜から外国を排外する義和団の乱が1900年に勃発した。西太后政権が支持して宣戦布告したために、海外から8カ国連合軍 (ドイツ・イタリア・日本・ロシア・イギリス・アメリカ・オーストリア)が中国に干渉するために7月14日に天津を侵略して、8月15日から翌年の9月7日まで北京を占領した。天津では、8カ国連合軍により扶清排外する義和団や疑われた膨大な中国人市民が虐殺された。
パレスチナはシリア南部の地域的名称であった。第2次世界大戦後に1947年11月29日にパレスチナ分割決議案が国連で採択され、1948年5月14日にユダヤ人のイスラエルが独立した。対抗したアラブ諸国との中東戦争から、イスラエルはヨルダン川西海岸とガザ地区を侵略した。1987年12月6日にイスラエル軍と衝突してパレスチナ人が死亡した。反乱が蜂起するインティファーダにより内戦が続いた。それをイスラエル軍は圧倒的な武力で弾圧した。内戦の犠牲者となったパレスチナ人は子供らを救護しながら逃避した。