朝鮮戦争は1950年6月24日に北朝鮮が38度線を越えて侵攻して勃発した。金州の一般市民等らは北朝鮮により悲惨にも大量に虐殺された。国連軍がソウルまで帰還してから、土中に埋められていた朝鮮人の遺体を家族らが1950年9月に掘り起こして探した。
日中戦争が、1937年7月7日の盧溝橋事件から、中国北部から南部に戦闘が拡大して、中華民国の首都であった南京は1937年12月13日に日本軍に陥落した。日本軍は、規模や内容は不詳であるも、中国軍の捕虜、敗残兵、ゲリラ戦闘員及び南京周辺の一般市民を大量虐殺をした。一部の日本軍兵士は中国人を日本刀で首切りで処刑した。
アメリカ合衆国に対して同時に多発テロが2001年9月11日に発生する。ボストン発のアメリカン航空11便は午前8時15分に、ユナイテッド航空175便は午前8時20分に同時にハイジャックされた。ニューヨークの世界貿易センターのツインタワーに向けて、アメリカン航空11便は午前8時46分に時速790kmで, 間もなくユナイテッド航空175便は950kmで突入し、爆発炎上した。ツインタワービルは、午前9時59分に崩壊し始めて、2,749人の民間市民が無差別に巻き込まれて死亡した。
レバノン内戦が1975年に起こった。イスラエル軍隊が、パレスチナ解放機構(PLO)を排除するために、1982年6月にレバノンのサブラ・シティーラ難民キャンプを包囲した。ファランジスト派のキリスト教徒の兵士が、1982年9月16日にパレスチナ人を大量に銃殺や斬る刺殺して死体を放置した。無差別に約3,500人の民間市民が虐殺された。当時のイスラエル国防相のアリエル・シャロンは辞任するも、2001年から2006年に首相に就任して、パレスチナに侵攻した。
シリアは1920年にトルコ帝国が独立したも、フランスが占領統治した。第2次世界大戦中に1940年にフランスが陥落して、1941年にフランス臨時政府に対してシリア共和国が独立を宣言した。独立戦争では 英国と自由政府軍に対する臨時政府軍の友軍間の戦闘でフランス軍兵士らが戦死した。1946年にシリア共和国は独立できた。
第2次世界大戦中において中国とビルマ(現在のミャンマー)の国境において、中国軍が多数の放置されていた女性の死体を土中に埋めた。日本軍により虐殺された朝鮮人女性の死体で壕の中は一杯となったと記録された。
米軍は1945年4月6日頃から沖縄の首里城の軍司令部を取り囲む日本軍の抵抗にあった。約40日以上の攻防戦の後に、米軍は首里城下にある軍司令部に5月11日から総攻撃を開始した。沖縄戦において首里城の城壁の付近で、米軍により銃殺された日本兵の死体が散乱した。
ハンガリーでは、ソ連の支配の政府に対して市民が1956年10月23日に動乱した。直ちにソ連軍が、数千名の市民を虐殺して、約25万人が難民として国外に逃避した。市民の動乱は短命となりソ連軍に弾圧され、恐怖政治を市民に受け入れさせた。ブタペストの動乱によって、国家保安局の兵士達の死体が散乱した。
イスラエル軍は、パレスチナ難民が避難していたジェニン難民キャンプを2002年4月に砲撃した。30台あまりの戦車で包囲して砲撃をして虐殺した。数週間にわたり、証拠隠滅のために、破壊して土砂で埋めた。土砂の中に埋められて放置されたパレスチナ難民の死体であった。
中国人民共和国とベトナム社会主義共和国の戦闘が、ベトナム戦争が1975年4月30日に終結してから、1979年2月17日から勃発した。ベトナムは西沙と南沙諸島の領有権、未確定の国境線、中国系ベトナム人への迫害、ソ連への接近、カンボジア侵略が中国と3月6日までの戦闘に至った。その後に1984年4月8日からの国境紛争により、中国軍は多数のベトナム軍を虐殺してベトナムの者陰山を侵略した。
アルメニア人は、トルコ帝国からの虐殺を回避するために、1918年にトルコに隣接してアルメニア共和国を建国した。首都のエレバンの路上では、家族らと難民して餓死した子供たちの死体が散乱した。国際的支援をを求めるも、注目されず無視された。共和国は1921年までにトルコとロシアに分割された。ソ連が崩壊した1991年に再びに共和国は独立できた。
レニングラードはドイツ軍の侵攻のため、1941年9月から1944年1月まで900日ほど包囲された。多数の市民が死傷して、死者は約120万人にも達したが、約67万人は餓死者であった。春の雪解けの中から、多数の死体が腐敗するために、多数市民らは死体を墓地に運んだ。
ヨーロッパ列強により18世紀末からアフリカは分割され植民地化した。イタリアのムッソリーニ軍事政権は、エチオピアを再度に征服するために1935年10月2日からエチオピア戦争をした。イタリア軍からの砲撃を受けてエチオピア帝国軍の兵士は戦死した。エチオピア軍は素足で、他のヨーロッパから買収した原始的な武器では、イタリア軍は1936年5月7日にエチオピアを征服した。
スリランカでは1983年から2009年にわたり内戦が起こった。多数派民族のシンハラ人による少数派民族のタミル人を虐殺した。第4次イーラム紛争により、タミール人の難民キャンプにも空爆が開始された。子供の犠牲者たちを集団埋葬のために2006年7月16日に遺体置き場へ集めた。
核兵器禁止条約は、核兵器の開発や保有、使用などを禁止する初めての国際条約である。国連本部交渉会議は2017年7月7日に採決した。NATOでオランダが反対し、122の国の圧倒的多数の賛成で条約は採択された。条約は9月から署名され50か国の批准から90日後に発効する。一方で、アメリカやロシアなどの核兵器の保有国や、核の傘の日本などは条約に参加しない。
日本海軍の潜水艦イ33号が、1944年6月12日に松山市の沖合で訓練中に事故で浸水して沈没した。1958年7月28日に約60mの海底から引揚げ作業がされた。102名の乗務員は窒息し溺死して、電動機室には遺書があった。「気圧が高くなる。息が苦しい。死とはこんなものか。」潜水艦内にて窒息により悶えて苦しんだ冷蔵された若い海兵の遺体があった。