2018年12月31日月曜日

シュトゥットホーフ強制収容所に取り残された火葬場には生身の左手から肘だけを伸ばした焼死体が残存していた。

 第2次世界大戦の末期に、ソビエト軍がポーランドを侵攻しても、ナチス・ドイツのシュトゥットホーフ強制収容所(Stutthof)は他の強制収容所のように退避しなかった。ソビエト軍が到着するまで、ユダヤ人や囚人らを殺害し続けた。 死の行進の先には、ユダヤ人や囚人に対する屋外の火葬場があり、火炎が灯るのを待たされた。取り残された火葬場には生身の左手から肘だけを伸ばした焼死体が残存していた。強制収容所が解放される間近の1月31日の朝にも、約5,000人のユダヤ人や囚人らは海に通じる2 kmの道を下らされた。 狭い浜辺では、ユダヤ人や囚人らは冬にバルト海の凍った海に入るように命じられて、 彼ら全員は機関銃で銃殺された。シュトゥットホーフ強制収容所には約127,000人が収容されて、約85,000人が虐殺された。
 その他のユダヤ人や囚人らは、ドイツ東部のラウエンブルクまで死の行進をさせられ、侵攻してきたソ連軍によって進路を塞がれた。ドイツ軍は、ユダヤ人や囚人たちをシュトゥットホーフに強制的に引き返させた。冬の厳しい気候条件での行進や、親衛隊の護衛兵のひどい扱いにより、死の行進中に数千人が虐殺された。1945年4月下旬に、シュトゥットホーフがソ連軍によって完全に包囲され、残っていたユダヤ人や囚人は海路でシュトゥットホーフから移動させらた。シュトゥットホーフ強制収容所は、ドイツ国外では最初に設置された。約25,000人以上の囚人が、最も遅く1945年5月9日に解放される直前まで虐殺された。

https://drive.google.com/file/d/1AoNr63fKr8kcv8RYe_BfV6HmDTlaC5Eq/view?usp=sharing

2018年12月30日日曜日

第2次世界大戦のユーゴスラビアにおけるパルチザン闘争により虐殺されたパルチザンの死体が溝に投げ込まれて散乱した。

第2次世界大戦で、ユーゴスラビアの民族対立と枢軸国に対するパルチザン闘争により虐殺されたパルチザンの死体が溝に投げ込まれて散乱した。1945年5月の全土開放まで継続した。クロアチア独立国内では、セルビア人とジプシーのユダヤ人が虐殺された。ユーゴスラビア全土でセルビア主義的な抵抗組織であるチェトニクによって、クロアチア人とムスリムが虐殺された。
 ユーゴスラビアは1941年3月25日に日独伊3国同盟に加入した。その直後の3月27日に反ドイツ軍クーデターで新政府が樹立された。4月5日にユーゴスラビアはソ連と不可侵条約を締結するも、その直後にはドイツ軍は4月6日に首都のベオグラード爆撃しながら国境を越えて侵攻した。ユーゴスラビア軍はわずか10日間で壊滅した。国王と政府は、イギリスのロンドンに亡命した。枢軸国により分割して占領して、民族対立を引き起こし、分裂統治した。クロアチアのみクロアチア独立国として承認されて、イタリアが引き立てたファシストのウスタシ・グループに支配させた。ドイツに対する抵抗運動を粘り強く継続したのは汎民族主義のパルチザンであった。東欧の諸国で唯一ソ連軍の占領を受けずに、ユーゴスラビアの自力で解放を成し遂げた。 



https://drive.google.com/file/d/1k_hVuZKp_0Z0n1QvlaSRbPrLOG-kYuwz/view?usp=sharing

2018年12月28日金曜日

B-29が東京都江東区に無差別の大空襲して、路上の至る所に黒化した焼死体が散乱した。

東京大空襲にて1945年3月10日午前0時8分からB-29が東京都江東区に無差別の大空襲して、路上の至る所に黒化した焼死体が散乱した。3月10日早朝から死体処理する各隊により、焼死体を集積してメモ書きして片付けた。
 太平洋戦争の初期の1942年4月18日からアメリカ空軍による日本の本土への無差別の空襲が始発した。1941年12月8日の真珠湾攻撃により太平洋戦争が勃発して、半年以内に空母ホーネットからB-25爆撃機が、東京、横浜。横須賀、名古屋、神戸の6都市を空爆して、約45人が死亡して、約162人が爆傷となった。超高空速のB-29大型爆撃機が、マリアナ群島の空軍基地から1944年6月16日に北九州を空襲した。その後に帝都の東京には、空襲が約130回にも及んで、死者は総計約115,000人にも達した。約6割は全焼した。特に1945年3月10日のB-29約321機による東京都江東区への東京大空襲により約100,000人もの死者を出した。B-29から約1,700トンと約1,000,000発もの無差別の焼夷弾により、約30分間の猛火で周囲全域を燃え尽くした。広島原子爆弾の次ぐ犠牲者を伴った。北風による火事風となり、密集した木造の家屋敷と人命が焼き尽くされた。焼夷弾で直爆撃で死亡、吹き出す油脂などで焼死、煙の一酸化炭素中毒死、川や運河で溺死などの無差別の大量虐殺となった。


https://drive.google.com/file/d/1ycXbPeBS2bSP9kscoeTqjc4iAgQmSB0t/view?usp=sharing

2018年12月27日木曜日

太平洋戦争のルソン島にて日本軍とアメリカ軍は、無差別に女性から子供も含めたマニラ大量虐殺に関与した。

太平洋戦争にて、アメリカ軍は1945年1月9日にフィリピンのルソン島の日本軍に侵攻した。フィリピン住民らは、アメリカ軍を支援して日本軍の情報を漏らして妨害した。日本軍には、近づくフィリピン人を射殺する命令が下された。日本軍は、無差別に女性から子供も含めて、マニラにおける大量虐殺に関与した。
 マニラ市内には約70万人のフィリピン市民が残存していた。その多くはアメリカ軍に協力的で直接ゲリラとして日本軍と戦闘した。1941年3月3日にアメリカ軍はマニラを制圧した。巻き込まれたマニラ市民の犠牲者は約10万人とされた。大戦の直後はアメリカ軍はマニラ市民の犠牲の関与を否定した。その後にアメリカ軍の無差別の重砲火によるマニラ市民の死者数は約4割に達すると推定された。


https://drive.google.com/file/d/1nh6Admv_rZ02Xd9C6cp5R3xGAsIbUYwV/view?usp=sharing

2018年12月26日水曜日

イタリア軍はリビア市民を含めた反イタリア抵抗勢力を、無差別に虐待、砲撃、毒ガス、地雷などあらゆる武力で虐殺した。

イタリア軍はリビアを植民地化を保持するために、多数のリビア市民を厳しく弾圧した。イタリア軍はリビア市民を含めた反イタリア抵抗勢力を、無差別に虐待、砲撃、毒ガス、地雷などあらゆる武力で虐殺した。
    北アフリカに対してイタリア王国は1911年にオスマン王国との伊土戦争に勝利して、リビアを植民地化した。イタリア人が入植するも、サヌーシー教団のオマール・ムフタールやベルベル人による激しい抵抗が繰り広げられた。1926年からイタリア王国はリビアに対して厳しい弾圧が行った。1931年9月16日にムフタールが絞首刑で殺害され、抵抗運動は衰退して、1932年にリビアはイタリアに占領された。第2次世界大戦中は北アフリカ戦線で、連合国と枢軸国で激戦が繰り広げられた。枢軸国のイタリアの敗北により、大戦後は連合国のイギリスとフランスが共同統治した。
  1949年の国際連合の決議により、1951年に連邦制によるリビア連合王国が独立した。サヌーシー教団の指導者であるイドリース1世が国王に即位した。1963年に連邦制を廃止してたリビア王国を樹立した。1969年9月1日にナーセル主義者であるムアンマル・アル=カッザーフィー(カダフィ, 27歳)大佐らによる軍事クーデターにより、イドリース1世は亡命して、カダフィ大佐が事実上の元首となった共和国が成立した。2010年のアラブの春の内戦により、長期独裁政権のカダフィ大佐は2011年に69歳で殺害された。


https://drive.google.com/file/d/1bioNH6kfvdW9ssCbqTNuOq4tuWdXtYU4/view?usp=sharing

2018年12月25日火曜日

フランスのダンケルク海岸にはドイツ軍の侵攻により多数のイギリス軍とフランス軍兵士の死体が散乱した。

フランスのダンケルク海岸にはドイツ軍の侵攻により多数のイギリス軍とフランス軍兵士の死体が散乱した。ダンケルクの大部分の街路を引火して火災により通行止めにした。イギリス軍の約68,111人が殺害または捕虜となり、約40,000人のフランス軍も捕虜となり、ダンケルクの民間人約1,000人も殺害された。
 第2次世界大戦の欧州戦線にて、連合軍はドイツ軍に追い詰められて、ダンケルク撤退は1940年5月26日から移動を開始して、5月28日に全連合軍にダンケルク橋頭堡へ撤退命令が出た。撤退には1週間以上もかかり、最終的に撤退した6月4日までに、イギリス軍約223,000人とフランドル地方に残存したフランス軍の約115,000人を含む約338,000人以上の兵士がイギリス本土に撤退した。港が非常に浅く大型船の接近は困難となり、ドイツの空軍の爆撃をイギリス空軍の犠牲で防御した。イギリス海軍は民間人に船の貸出しを要求して、約665の小型民間船を救助に使用した。頑強に橋頭堡を守った約26,000人以上が6月4日にドーバーの最後の船で救出された。イギリス本土のフランス軍は約3,000人が居残り、約120,000人がフランスに戻るも、フランスは6月22日はナチス・ドイツに降伏の調印をした。



2018年12月24日月曜日

カンボジアのポル・ポト政権下で虐殺された膨大な死体は急ごしらえの穴に埋められ朽ち果てて白骨化した。

カンボジアのポル・ポト政権下で死亡した人は約200万人に上り、虐殺された膨大な死体は急ごしらえの穴に埋められた。殺伐とした荒野には、多数の土穴が幾つも並び、その中に数十体の朽ち果てた白骨化した遺体が、無造作に放置されていた。大量虐殺の刑場の多くは切り開かれた土地に設置されて、犠牲者の死体が遺棄された場所は国内に約2万か所と推定された。
 ベトナム戦争によりアメリカ軍が、1970年に北ベトナムへの浸透ルートであるカンボジアを爆撃して、国土の多くが荒廃して国内が混乱に陥った。混乱に乗じて猛烈な農村ナショナリズムを伴う共産主義であるクメール・ルージュが台頭した。階級や格差の全くない原始時代の状態に戻す原始共産主義を浸透させた。1975年にクメール・ルージュ政権が樹立されると、都市住民を敵対して、数百万人もの市民らを農村部に強制連行した。クメール・ルージュは食糧増産を図る為、大都市の市民から知識階級などから一切の財産・身分を剥奪し、農村に強制移住させて、農業に従事させた。学校、病院および工場も閉鎖し、銀行業務から貨を廃止し、宗教を禁止し、一切の私財を没収した。酷い強制労働で虐待して、飢餓や過労死など大量の餓死者を出した。




2018年12月23日日曜日

エルサルバドルにて反政府デモ後に市街戦勃発し、警察により殺害された多数の男性の死体が聖ロザリオ教会内に散乱した

カンボジアのポル・ポト政権下で死亡した人は約200万人に上り、虐殺された膨大な死体は急ごしらえの穴に埋められた。殺伐とした荒野には、多数の土穴が幾つも並び、その中に数十体の朽ち果てた白骨化した遺体が、無造作に放置されていた。大量虐殺の刑場の多くは切り開かれた土地に設置されて、犠牲者の死体が遺棄された場所は国内に約2万か所と推定された。

 ベトナム戦争によりアメリカ軍が、1970年に北ベトナムへの浸透ルートであるカンボジアを爆撃して、国土の多くが荒廃して国内が混乱に陥った。混乱に乗じて猛烈な農村ナショナリズムを伴う共産主義であるクメール・ルージュが台頭した。階級や格差の全くない原始時代の状態に戻す原始共産主義を浸透させた。1975年にクメール・ルージュ政権が樹立されると、都市住民を敵対して、数百万人もの市民らを農村部に強制連行した。クメール・ルージュは食糧増産を図る為、大都市の市民から知識階級などから一切の財産・身分を剥奪し、農村に強制移住させて、農業に従事させた。学校、病院および工場も閉鎖し、銀行業務から貨を廃止し、宗教を禁止し、一切の私財を没収した。酷い強制労働で虐待して、飢餓や過労死など大量の餓死者を出した。


2018年12月22日土曜日

広島原子爆弾で額面の周囲を火傷して、眼球の周囲にケロイドの瘢痕により、眼瞼の開閉が制限された。(広島)

広島原子爆弾が1945年8月6日午前8時15分に投下された。直後に炸裂して、爆心地より爆風・熱線・放射能が無差別に市民らに突き刺さった。原子爆弾に被爆して受傷した膨大な被爆者が、原爆症で苦悶しながら原爆死した。熱戦による火傷だけでなく、その後に醜いケロイドの瘢痕が残存した。特に顔面の周囲を火傷して、その後に眼球の周囲にケロイドの瘢痕により、眼瞼によるまぶたの開閉の可動域が制限されて診療を受けた。右目は、眼球が乾燥してまぶたも焼ただれて失明した。
 ケロイドは、特に露出部の皮膚への熱傷の後、傷面の修復のため形成される瘢痕組織が過剰に増生して、不規則な隆起を生じた。爆心地から約3km以内の被爆者に、被爆後4ヵ月頃より発生し、6ヵ月~1年2ヵ月後に最も顕著となった。原爆白内障が被爆後の約3か月から約10年ほど潜伏した後に発症する放射線により発症した。
 原子爆弾投下に際し、被爆者の中にケロイドを発症する人が多発した。爆発時の強力な輻射熱によって深部に達する火傷を負った部分が肥厚性瘢痕した。手術により切除しても再発して難治性で、顔面部から四肢の可動部のケロイドは、日常生活や社会生活にも大きな障害伴った。


2018年12月21日金曜日

スターリンの秘密警察は、レンベルクの刑務所で多数のユダヤ人の囚人から市民まで無差別に虐殺した。

第2次世界大戦にソ連軍が東部戦線から撤退する前に、スターリンの秘密警察(NKWD)は、レンベルクの刑務所で多数のユダヤ人の囚人から市民まで無差別に虐殺した。1941年6月30日に市民らは異臭が漂う親族の死体を探し求めた。
 第二次世界大戦は、ドイツ軍が1939年9月1日にポーランドに侵攻して勃発した。ドイツ軍は、その後まもなくウクライナ北西部のレンベルクを包囲した。ポーランド兵の率いた蜂起は失敗し、レンベルクは1939年8月23日の独ソ不可侵条約であるモロトフ・リッベントロップ協定にもとづきソビエト連邦に引き渡された。1941年6月22日に始まった独ソ戦の緒戦でレンベルクはドイツ軍に占領された。ドイツ国民がソ連に対する敵愾心を植え付けるために、東部戦線のレンベルクでのソ連の秘密警察の死体群を大々的に喧伝した。さらにユダヤ人によるレンベルク大虐殺と誤報して、ドイツ国民の世論をユダヤ人に対する集団的迫害行為であるポログラムを正当化させた。ユダヤ住民による虐殺の噂が、ドイツ軍内のポログラムに対する抵抗が、噂が一線を越えてしまうと正当化された。
 レンベルク・ゲットー(ユダヤ人隔離居住区)はユダヤ人をする絶滅ラインハルト作戦で絶滅収容所に最初の1942年3月から移送されたゲットーのユダヤ人であった。1942年8月から大量の移送が行われ、約65,000人のユダヤ人がベウジェツ絶滅収容所へと移送された。数千人だけがレンベルク=ヤノフスカ強制労働収容所にも移送されて強制労働を強要された。1944年7月にソ連赤軍が再びレンベルクルを侵略すると、レンベルク・ゲットーにはもはや数百人のユダヤ人しか生存しなかった。