2020年7月29日水曜日

イタリア王国とオスマントルコ帝国との戦争中に、イタリア王国軍兵士が2人のリビア人の母親を、トリポリの海岸で銃殺した。

イタリア王国とオスマントルコ帝国との戦争中の1911年11月5日に、イタリア軍兵士が2人のリビア人の母親を、トリポリの海岸で銃殺して死刑を執行した。イタリア軍によるリビアの首都トリポリの占領に対して、2人のリビア人の母親の子供たちが抵抗運動に参戦した犯罪に対する報復として2人のリビア人を虐殺した。11月2日に、約1,500人のリビア人民間兵が、塹壕を構築していたイラリア軍を襲撃していた。10月23日には、リビアのシャラーシャトで、トルコ・アラブ軍がイタリア王国軍を襲撃して、約500人の歩兵軍団が虐殺された。報復として、10月24日から約3日間、その近隣のメチャオアシスで約4,000人のリビア人の民間市民が無差別に殺害された。
 イタリア王国とオスマントルコ帝国との戦争(伊土戦争: Italo-Turkish War)が、1911年9月29日から1912年10月18日まで勃発した。イタリア王国はオスマン帝国にトリポリタニアの植民地化を求めてリビアに侵攻した。数千人のオスマン帝国軍に対して、約2万人ものイタリア王国軍が直後に撃退して、リビアのトリポリを占領した。イタリア王国空軍は、1911年10月23日に世界で初めて戦闘機による攻撃をした。オスマン帝国軍が約2万8000人に対して、イタリア王国軍は約10万人が参戦した。砂漠地帯で、戦線は遅延して砂漠地帯での塹壕戦となった。イタリア王国軍兵士は約34,000人のうち戦死者は約3,431人であり、オスマン帝国軍塀は約28,000人のうち死傷者は約2万人にも達した。
 イタリア王国軍は、1912年2月24日からオスマン帝国の本土のベイルート港を襲撃してオスマン帝国軍の戦艦が一方的に撃沈された。イタリア王国が東地中海を制圧して、バルカン半島のオスマン帝国軍が弱体化した。ローザンヌ条約(1912年10月18日、ウシー条約)により、オスマントルコ帝国はトリポリおよびキレナイカに対するイタリアへの権利を認めた。1912年10月8日から1913年5月30日まで、ブルガリア、セルビアとギリシャはバルカン同盟を結成して、第一次バルカン戦争が勃発して、バルカン諸国が民族主義化を引き起こし、第一次世界大戦の火薬庫となった。


2020年7月28日火曜日

朝鮮人原爆犠牲者慰霊碑と長崎追悼原爆朝鮮人犠牲者碑は、差別と偏見の象徴から、平和のシンボルと共生の象徴の願いが込めらた。

世界遺産である原爆ドーム(左)から元安川を挟んで対岸の広島平和記念公園内に朝鮮人原爆犠牲者慰霊碑(中)がある。強制労働等により広島原子爆弾で被爆した朝鮮人の慰霊と、再び原爆の惨事を繰り返さないことを願って建立された。朝鮮王家の李鍝公が原爆被災後に救出された場所の近隣の“ゆかり”から、本川橋を渡って西詰めに1970年4月10日に建立された。それは旧太田川の本流を挟んで対岸の広島平和記念公園と区別された。その後に広島平和記念公園内への移設を各方面から強い要望が出され、広島市等と協議により、1999年5月22日に広島平和記念公園内に移設された。広島平和記念公園内の北端にあり、付近には平和の鐘や原爆の像がある。移設後は、双竜を刻んだ冠の中に納めた死没者名簿は、韓国の銘石で韓国で制作された亀座部分前方地面の箱の中に納められた。死者の霊は亀の背に乗って昇天する故事から、亀の台座の上に碑柱が建ち、双竜を刻んだ冠を載せた。朝鮮人原爆犠牲者慰霊碑は、差別と偏見の象徴から、平和のシンボルと共生の象徴の願いを込めた。
 長崎県全体に在住した朝鮮人は約7万人など多数に上がった(内務省警保局発表)。長崎市周辺には約3万数千人が在住し、三菱系列の造船所、製鋼所、電機、兵器工場などの事業所や周辺地区の道路、防空壕、埋立て等の作業に強制労働させられた。1945年8月9日にアメリカ軍による長崎原子爆弾の投下と粗炸裂で、朝鮮人は約2万人が被爆し、約1万人が爆死した。ささやかな浄財を拠出して異郷の地長崎で悲惨な生涯を閉じた約1万余の朝鮮人のために、長崎追悼原爆朝鮮人犠牲者碑(右)を1979年8月9日に、原爆爆死朝鮮人追悼碑建設委員会が建設した(長崎在日朝鮮人の人権を守る会)。長崎市の平和公園とは約500mも南方に隔てた爆心地公園内に設置された。過去に日本は朝鮮を武力で威かくし、植民化し、朝鮮人を強制連行し、虐待酷使し、強制労働の果てに遂に悲惨な原爆死に至らしめた。戦争責任を、朝鮮人におわびすると共に、核兵器の絶滅と朝鮮の平和的な統一を心から念じる。
  広島原子爆弾と長崎原子爆弾で被爆した朝鮮人は、戦後に原爆症を伴って帰国して実数は明確ではない。広島原子爆弾と長崎原子爆弾によって被爆した朝鮮人は約7万人と推定される。そのうち韓国に帰国した被爆した朝鮮人は約2万人以上とも示唆される。被爆した朝鮮人は、徴用による強制連行から原爆症から苦難している。慰霊碑はスクリーンともなり、隠蔽するための遮蔽物ともなる。戦争と平和の記念碑には、戦争犠牲者を代賛する象徴となる機能も、戦争における強烈な記憶を隠す機能もある。朝鮮半島の非核化やアメリカと中国・北朝鮮の冷戦の緩和、南北関係の融和を願い、その実現は核を廃絶する道でもある。
  明治維新以後に、朝鮮支配を強めた日本は、1910年の日韓併合により朝鮮を植民地とした。生活基盤を失った多くの朝鮮人は職業と生活を求めて日本に渡たり移民となった。第二次世界大戦中には、日本は労働力不足を補うため、強制連行や徴用によって多くの朝鮮人が日本で強制労働させた。敗戦時には、日本には約300万人の朝鮮人がいたと推測された。1910年8月22日、日本政府は日韓併合条約を公布し、朝鮮は完全に日本の植民地下に置かれた。朝鮮人は自由も人権も、さらに貴重な土地も奪われ、生活の手段を失って、日本に流入した。その後、日本に強制連行され強制労働させられた朝鮮人は、1945年8月15日の日本終戦時には約2,365,263人に上った。






2020年7月27日月曜日

太平洋戦争のガダルカナル島の戦いにて、アメリカ軍の集中砲火を浴びて日本軍兵士は全滅して、ジャングルに死体の山が築かれた。

太平洋戦争のガダルカナル島の戦いにて、日本軍兵士はアメリカ軍の集中砲火を浴びた。日本軍兵士は全滅して、ジャングルの戦場に日本軍兵士の死体の山が築かれた。約30人から約40人の日本軍兵士が殺害されて、一塊の集団の死体が散在した。1942年8月7日から1943年2月7日にかけて、南太平洋でガダルカナル島の戦いが暴発した。オーストラリアから北東に約3,300kmに位置して、膨大な日本軍兵士が餓死したので餓島と呼称される。日本軍がルンガ岬にルンガ飛行場を設置した直後に、アメリカ軍は1942年8月7日に襲撃して占領してから、ガダルカナル島の戦いが勃発した。アメリカ軍は1942年10月7日に攻撃を再開して、マタニカウ川をさらに南に渡って海岸に進み、日本軍の後退を遮断して、2つの丘に追い込んで砲撃を行った。何百人もの日本軍兵が爆破されて覆い殺された。この攻撃により日本軍はマタニカウ川の東岸を放棄して撤退した。 
 日本軍は、アメリカ軍が命名したヘンダーソン飛行場を奪還するために何度も突撃するも、撃退された。アメリカ軍の制空権の掌握により、必要な人材や物資から食料が供給できずに窮乏して膨大な餓死に至った。ガダルカナル島の戦いでアメリカ軍は約6万人中で約3%の約1,800人であるが、日本軍は約64%にも達する約2万人が戦死した。日本軍の死因の約3分の1が戦死で、3分の2が餓死や伝染病による病死であった。マラリアや赤痢などで、高熱による悪寒に震えて、下痢や下血して衰弱した。マラリアでは、さらに顔面から全身に浮腫が出て、青い透き通る外観となり末期を迎えた。
 戦場では、兵士たちは死の恐怖に怯える。アメリカ軍兵士は、救いを求めて神に祈り、常に最愛の家族を想起する。アメリカ軍塀は、死の恐怖を抑制できず戦争神経症となり、アルコールや麻薬などに依存した。日本軍兵士は、大本営より死の恐怖心を超克して玉砕を命じられる。狂気となる戦場では、上官は戦闘の指揮を緩めない。戦死者が出るも、上官は戦闘を奨励する。兵士は上官の命令に従うのみである。戦場は自然の弱肉強食として、上官は己の名誉のために、非情にも戦功と昇進を求める。上官の指揮のために、どれだけ非常に多くの兵士たちが死地に追いやられて無駄死にした。


2020年7月26日日曜日

イスラエル軍の対シェルター・ロケットによる一歳の子どもの犠牲者は、ラフート野戦病院による火傷の治療も虚しく虐殺された。

イスラエル軍の対シェルター・ロケットによる一歳の子どもの犠牲者は、ラフート野戦病院による火傷に対する治療も虚しく虐殺された。ベイルートのニア・イースト神学校内にラフート野戦病院は開設された。パレスチナ赤三日月社のガザ病院とアッカー病院の医療活動が爆撃を受けて、一部の緊急救護を代用して、一部の重傷者を収容した。国際赤十字委員会が、ジュネーブ条約によりる病院の爆撃を中止のアピールも無視された。不要な苦痛を与える兵器を禁じたハーグ条約も無効であった。当初は、犠牲者の約7割は兵士であったが、その後の連続攻撃から割合が逆転して、犠牲者の約8割が民間人となった。1982年7月25日から8月12日までの連続攻撃で、西ベイルートだけでも犠牲者は約29,506人に達した。犠牲者の約44%が感染症を併発した。四肢の挫滅と壊死に対する切断率は約6.8%となり、死亡率は約12.4%に達した。強力な兵器、高度の人口密度、包囲による供給停止、集中攻撃などが、感染率、切断率と死亡率が増悪した。停電と断水と医薬品などの不足により治療が困難になった。
 イスラエルの拡張主義による1982年6月9月29日のしバノン侵攻は、パレスチナ人との民族皆殺し戦争となった。難民キャンプの襲撃も、パレスチナ人難民として追放した。パレスチナ人組織であるPLOを襲撃した。イスラエル軍の犠牲者も膨大となり、経済も疲弊した。イスラエルとキリスト教のファランジストは、人口約60万人の西ベイルートを完全に制圧して包囲した。イスラエル軍は、レバノン人もパレスチナ人もいるベイルート市民を脅迫して逃亡を強要した。逃亡すらできず多くのベイルート市民は取り残された。イスラエル軍の爆撃は、軍事目標だけでなく、病院、教会、学校、民間住宅なども襲撃した。高速度に破裂した爆弾の破片がベイルート市民を殺傷した。弾丸が身体を貫通して衝撃の圧力で組織を剪断、破壊、破裂、切断する。衝撃弾がビルを貫通して炸裂して崩壊した。破片爆弾が、空中で炸裂して破片が広範囲に貫通して、人体は破裂して出血して失血死した。切断によって四肢の出血を止められた。シェルター・ロケットは三段階に破裂して、暴発、火炎、破片で殺傷した。燐弾による毒ガスが呼吸器を損傷した。クラスター爆弾が、小爆弾を広範囲の撒き散らした。


2020年7月25日土曜日

17歳の少年は爆心地から約2.7kmの長崎市内で、外出して立位で背部の全体は炸裂方向に、着衣は炸裂直後に燃え上がり、背中の全体が第3度の火傷を被爆した。

17歳の少年は長崎原子爆弾に被爆して、新興善救護所に搬送されて収容された。少年は爆心地から約2.7kmの長崎市内で、外出して立ち上がり立位の時に被爆した。特に、背部の全体は長崎原子爆弾の炸裂方向に向けていた。頭部は左側に回していた。少年は、夏シャツと夏ズボンを装着していた。シャツやズボンなどの着衣は炸裂直後に、炎を出して発火して燃え上がった。そのために、背中の全体が第3度の火傷を被爆した。おそらく頭部を回してしわが寄っていたために、頸部の周囲には不規則な火傷を被爆していた。写真は1945年10月頃に撮影された。少年は、長崎原子爆弾の炸裂後の爆風によって、殴り倒されたが、意識は消失しなかった。その後に、少年は脱毛を合併したが、その他の放射能による原爆症は発症しなかった。
  広島原子爆弾と長崎原子爆弾の両方で、熱による火傷の犠牲者が医療における主要な問題であった。広島原子爆弾では、熱傷より爆傷が多かったが、重傷の多くは火傷が原因であり、爆撃の日以降は火傷が全死者の半分以上を占めた。即時死の原因として火熱の重要性は推定です。しかし、それは、特に爆心地の内部地帯で、即時死亡の主な原因であったと推定される。
 炸裂した当日に死亡したのは閃光火傷と炎火傷の両方であるも、相対的な割合は不明である。爆風で負傷し、逃げられない人々の多くは、間違いなく火炎に取り囲まれた。閃光や火傷が同時に起こることもあった。多くの場合、閃光は衣類に火をつけ、深刻な火傷を引き起こす(本症例)。しかし、火傷を負った生存者の大多数は閃光火傷を負っていた。火傷の種類が正確に記録された1970年の長崎の報告症例では、閃光火傷は96%であり、火傷は4%しかなかった。同様に、大村海軍病院の患者の間で、閃光火傷が97%であった。火傷の発生率が低いことは、20日間の生存者の記録によって確認された。
  広島原子爆弾と長崎原子爆弾の両方で、熱による火傷の犠牲者が医療における主要な問題であった。広島原子爆弾では、熱傷より爆傷が多かったが、重傷の多くは火傷が原因であり、爆撃の日以降は火傷が全死者の半分以上を占めた。即時死の原因として火熱の重要性は推定です。しかし、それは、特に爆心地の内部地帯で、即時死亡の主な原因であったと推定される。
 炸裂した当日に死亡したのは閃光火傷と炎火傷の両方であるも、相対的な割合は不明である。爆風で負傷し、逃げられない人々の多くは、間違いなく火炎に取り囲まれた。閃光や火傷が同時に起こることもあった。多くの場合、閃光は衣類に火をつけ、深刻な火傷を引き起こす(本症例)。しかし、火傷を負った生存者の大多数は閃光火傷を負っていた。火傷の種類が正確に記録された1970年の長崎の報告症例では、閃光火傷は96%であり、火傷は4%しかなかった。同様に、大村海軍病院の患者の間で、閃光火傷が97%であった。火傷の発生率が低いことは、20日間の生存者の記録によって確認された。
 爆撃当日の火傷による死亡率は不明であり、非常に多くの人々が熱と電離放射線の両方に曝されたため、最初の週の死亡率も不明である。しかし、閃光火傷による死亡率は、広島原子爆弾では、比治山高校の51人の少女が爆心地から約762mの校庭にいた。全員が重度の火傷を負い、1週間以内の死亡率は100%であった。約956mで完全にばく露された193人の労働者の死亡率は95%であった。死亡の一部は電離放射線もあるが、数日以内に発生した死亡のほとんどは火傷が原因であった。


2020年7月24日金曜日

オーストリア公共ラジオ放送局を襲撃したオーストリア・ナチス支持者が、警察・軍隊・準人事組織により、7月クーデターを鎮圧するために玄関で殺害された。

オーストリア公共ラジオ放送局(RAVAG)のウィーン放送局を襲撃したオーストリア・ナチス支持者が、親オーストリア政権の警察・軍隊・準人事組織により、1934年7月25日にクーデター(July Putsch)を鎮圧するために玄関で殺害された。オーストリア・ナチス支持者はRVGAから、オーストリア全土に向けて、オーストリア・ナチスの蜂起を呼びかけて、7月30日まで一部の地域でのみ勃発した。
 1934年7月25日 オーストリアの首都ウィーンで、オーストリア・ナチスの武装集団が、首相官邸や放送局などを襲撃した。陸軍兵士に紛争したオーストリア・ナチスとドイツ親衛隊兵士の武装集団の約154人が襲撃に参戦した。
勢力を拡大していたオーストリア・ナチスが、親ナチス政権に転覆するクーデターを挙行した。親オーストリア政権の警察・軍隊・準軍事組織により鎮圧された。10人のオーストリア・ナチス隊員が、首相官邸を襲撃して、エンゲルベルト・ドルフース首相を2発の弾丸で暗殺した。
 その後の日本で1936年の二・二六事件と同様に、クーデターは頓挫したが、その後にオーストロファシズム政権が樹立された。1939年4月14日に、オーストリアは解体されて、ナチス・ドイツに併合された。クーデターによる衝突で、ナチス勢力の約153人と、オーストリア政府側の約104人と民間市民の約13人で、総計で約270人が殺害されたと推定された。1934年7月26日の軍事簡略法廷でナチス反乱軍の約13人が死刑となり、約4,000人のナチ勢力が拘留された。その他の多くのオーストリア・ナチスは、ドイツ帝国に逃亡した。


2020年7月23日木曜日

ベトナム戦争中に、ベトナム人の民間人3人が、アメリカ軍兵士に殴打された後に、ソンミ村の道路に死体が横たわっていた。

ベトナム戦争中に、1968年3月16日ベトナム人の民間人3人が、アメリカ軍兵士に殴打された後に、ソンミ村のミライ第四地区の道路の真ん中に死体が横たわっていた。虐殺は何の警告もなく突発して全員が発砲した。アメリカ軍兵士は銃、銃剣、手榴弾などを使って無抵抗の民間人を虐殺した。最初の民間人は容赦のない弾丸によって殺害または負傷した。アメリカ軍は犠牲者も出さずにベトコンの128人を殺害と報告して、称賛して隠蔽された。アメリカ軍の一部にはベトナム人に対する故意の残酷さと優越感があった。
 1969年12月5日に、ライフ雑誌はソンミ村虐殺(アメリカではマイライ虐殺(My Lai Masacre)と呼称)の一連の写真を公開した。ベトナム戦争中の他のいかなる出来事も、ソンミ村虐殺ほど世界の人々を揺るがして、最悪の事件の一つとなった。戦争犯罪の写真が存在するという事実は、従軍していた写真家のロナルド・L・ヘーバーレの良心と献身によった。従軍中は撮影のソンミ村虐殺で2枚は射殺する直前のカラー写真を撮影していた。ソンミ虐殺後はアメリカ軍には守秘していたが、1年以上経過してさらに証拠の撮影写真を公表した。アメリカ軍には約40枚の白黒写真を渡して破棄された。しかし、約18枚の保持していたカラー写真をアメリカ軍に守秘して、ライフ雑誌等に提供したカラー写真は世界中に行き渡った。発信したソンミ村の記事にピューツァー賞が授与された。ベトナム反戦運動の象徴となり、国際的な批判からアメリカ軍の撤退の一因となった。
 1968年3月16日に、アメリカ軍のヘリミコプターが南ベトナムの中央海岸沿いのソンミ村到着した。アメリカ軍兵士がベトコンを殲滅するために、ソンミ村を取り囲んだ。ウィリアム・カーリー中尉は、兵士を射撃線に押し込み、村人を撃つように疑わしい敵のベトコンへの発砲を命じた。約4時間の掃討で、総計で約504のベトナム市民が虐待と虐殺された。虐殺の前に、拷問、強姦、殴打などの虐待を受けた。ほとんど死体は、子ども、女子、老人であった。ヘリコプターが目撃して殺害を中止させたが、司令部は虐殺の報告を無視して容認した。1971年に数名の将校が裁判されて、カーリー中尉のみ有罪で死刑となるも、恩赦にて1974年には釈放された。



2020年7月22日水曜日

カポレットの戦いの惨敗から、イタリア軍兵士が軍隊から脱走して、略式裁判のみで射撃兵により銃殺による死刑で射殺された。

第一次世界大戦にて、イタリア戦線にてカポレット(Caporetto)の戦いで、イタリア軍はドイツ軍に惨敗して撤退した。惨敗から、イタリア軍兵士が軍隊から脱走して、射撃兵により銃殺刑(Fucilazione, Shooting)で射殺された。脱走だけでなく、反乱、不服従、または単純な不満などに対して、威圧的な懲罰のために、頻繁に略式裁判だけで銃殺刑による死刑が増大した。カポレットの戦いは、第一次世界大戦中のイタリア戦線で、1917年10月24日から11月9日にかけて、カポレットで勃発した。イタリア軍によるイゾンツォ戦線の攻勢によって、オーストリア=ハンガリー帝国軍は弱体化した。再三のドイツ軍に対する援軍要請に対して、遂に援軍派遣を承認した。ドイツ軍は後方突破により、イタリア軍を惨敗に追い込んで、イゾンツォ戦線の戦況は一転した。イタリア軍が被った被害は甚大であり、人的損失から大砲、機関銃、迫撃砲も多くを失った。兵士たちは士気を落として、軍からの離脱者も深刻な情となった。カポレットの戦いの膨大な犠牲者は、中央同盟軍は、約70,000人が戦死傷して、イタリア軍は約13,000人が戦死して、30,000人が戦傷して、約265,000人が捕虜となった。
 銃殺刑は、1775年から1783年のアメリカ独立戦争から、主に捕虜と脱走兵に対して執行された。19世紀になり、銃殺刑が世界中に広がり、アジアや南アフリカでも銃殺刑が執行された。特に20世紀になってから、銃殺刑は頻繁に執行された。主に第一次世界大戦と第二次世界対戦で、銃殺刑が頻繁に執行された。第二次世界大戦では、ドイツ軍は約30,000人の銃殺刑による死刑が執行された。その内に約半数は、裁判もなく銃殺刑が執行されたと推定された。その他の毒物の致死的注射は大幅に増えるも、複雑な操作が必要となるために、確実な死刑である銃殺刑も一部で復活している。
 イタリアでは、銃殺刑が陸軍や海軍の軍事法に規定されて、最も重い軍事犯罪者に対する深刻な刑罰であった。軍事犯罪者が所属していた軍隊から銃殺隊が年功序列で抽出された。最高位の司令官は、銃殺隊を配備して、武器を提示して、銃殺刑の文面を宣告した。軍事犯罪者を座らせて目隠しをして、あるいは立位のままで目隠しなしで銃殺した。軍事犯罪者と銃殺隊は決してお互いを見ないように整列した。特に背後からの射撃は致命的で、極端に中傷する軍事犯罪に対して銃殺による死刑が執行された。銃殺刑の執行後に、司令官は、銃殺された軍事犯罪者に近づき、とどめをさすために、銃で頚の後部を撃ち抜いた。第二次世界大戦後の1947年3月5日にラスペツィアでファシスト国家であったイタリア社会共和国の3人の元指導者に銃殺刑による死刑が執行された。1948年1月1日に実施されたイタリア憲法により、平時におけるすべての一般犯罪及び軍事犯罪に対する死刑を廃止した。軍事刑法の死刑も、1994年10月13日に改定されて廃止された。
 カポレットの戦いは、第一次世界大戦中のイタリア戦線で、1917年10月24日から11月9日にかけて、カポレット(現スロベニアのコバリード)で戦われた。イタリア軍によるイゾンツォ戦線の攻勢によって、オーストリア=ハンガリー帝国軍は弱体化した。再三のドイツ軍に対する援軍要請に対して、遂に援軍派遣を承認した。ドイツ軍は後方突破により、イタリア軍を惨敗に追い込んで、イゾンツォ戦線の戦況は一転した。ドイツはオーストリアの崩壊を押し留め、西部戦線で新たな攻勢に専念する体制を整えた。 

2020年7月21日火曜日

第一次世界大戦直後の1919年当時は、メープル・カプスの戦場に戦闘で破壊された十字架の残骸の一部が残存して散乱していた。

第一次世界大戦にてベルギーのジルベケ地域では、第一次世界大戦のほとんど期間にわたり、最前線の塹壕が通過していた。第一次世界大戦直後の1919年当時には、メープル・カプスの戦場には、戦闘により破壊された十字架の残骸の一部が残存して散乱していた。1914年から1918年にわたる第一次世界大戦の筋違いの戦略により、埋葬された戦死者の遺骨は発掘が困難となった。第一次世界大戦の会戦とその後の戦闘で、仮の墓地はほとんど破壊された。死体の北側にある墓地の戦死者の遺跡は、一時休戦した後に再び戦場として崩壊した。そこにはわずかに一部の墓が残存して、とても少ない遺骨のみが残存した。
 メープルコ・カブスの墓地は、ジレベケ地域の東部に約900メートル、サンクチュアリ森林のすぐ西部にある小さな農園に対して、イギリス軍が名付けた名称である。この場所は仮の救護所として使用され、1916年6月2日から6月13日まで勃発したソレル山の戦い(Battle for Mount Sorrel)の中に連合軍の戦死者が仮埋葬が行われた。その戦場となった地域に、メイプル・カプス墓地(Mayple Copse Cementry)が、大戦後にベルギーのジルベケに建立された。第一次世界大戦の約308人の戦死者の遺跡が建立された。それには約115人のイギリス軍兵士の戦死者と約143人のカナダ軍兵士の戦死者が含まれる。発掘できた約78の遺骨の埋葬のうちで、わずか約26の遺骨のみが特定された。墓地から遺骨が発掘できず特定されない約230人の戦死者には区別された別途の遺跡とされた。
 ソレル山の戦いは1916年の春からカナダ遠征軍が、イープルの街を指揮する30メートルの丘であるソレル山を防御していた。樹木が茂った標高は、イープルの重要な道路を見渡せた。ドイツ軍の砲撃が6月2日から、激しい雨と絶え間ない水溜まりの地面の塹壕を打ちのめした。塹壕が爆破されて、爆発により数百人のカナダ軍が殺害された。—連隊の部隊の約89%が戦死または戦傷した。防御していた約702人のカナダ軍兵士のうち、76人だけが戦闘の終わりまで無傷であった。カナダ軍の地下に掘った塹壕も爆発させて、ドイツ軍歩兵は、破壊された平原とソレル山を越えて掃討した。ドイツ軍は直後からカナダ軍の守備隊を圧倒して、ソレル山を占領した。カナダ軍は6月3日にソレル山を攻撃するも、攻撃は雨が多く風の強い日で、ドイツ軍に撃退された。
  連合軍はソレル山を取り戻すため、イギリス軍が援軍をした。何度も破壊された塹壕を補強することは困難であり、固まった土は雨で泥だらけになり、多数の塹壕の穴は水で満たされた。6月9日から連合軍が、ドイツ軍のソレル山の頂上部を大砲で攻撃した。6月13日に連合軍は、煙幕の覆いの下で歩兵攻撃を行った。暗闇の激しい攻撃からカナダ軍とイギリス軍兵士は風と雨の中を押してソレル山を奪還した。
 ソレル山の戦いの6月2日から6月13日までの犠牲者は、ソレル山で約1100人以上のカナダ軍兵士が戦死して、約2,000人以上のカナダ軍兵士が行方不明となり、さらに数千人が戦傷した。合計で約8,430人のカナダ軍兵士が戦死、戦傷、または行方不明の犠牲者が出た。ドイツ軍兵士は、約5,765人が死亡、戦傷、行方不明の犠牲者が出た。ソレル山の戦いから約3週間も経たないうちに、連合軍が第一次世界大戦の最大の会戦となるソンムの戦いを7月1日から勃発した。


2020年7月20日月曜日

第一次世界大戦にて、フランス軍兵士がドイツ軍に射殺されて戦死して、死体は飯盒の側で苦悩して転倒して仰向けとなっていた(フリードリヒ, 戦争と戦う!, 1924年)。

第一次世界大戦にて、フランスとベルギーの国境のフレリンギエンと呼ばれる場所の周辺で、フランス軍兵士がドイツ軍に射殺されて戦死していた。その死体は飯盒の側で転倒して仰向けとなっていた。顔面は苦悩したように開口して、左膝を曲げて、左手を握り挙上して、右手は弛緩して垂れ下がっていた。
 1924年にドイツの反対軍事主義と平和主義であったエルンスト・フリードリヒ(Ernst Friedrich)によって発行された「戦争と戦う!」(Krieg dem Kriege!, War against War!)の写真集に上記の戦死した兵士の死体が掲載された。第一次世界大戦の真実を取り扱った。明かにした戦争の主題と画像のために、数年後に物議をかもした。戦争に対して負の印象の影響を与えた。軍隊兵士の戦死、戦傷、病気、または切断された兵士や障害者となった兵士を示した。その他には、売春宿で撮影された写真があり、兵士は性行為で士気を高めて、戦争中は推奨されない行為でもあった。兵士はまた、下肢を切断されて脚なしで、または顔や身体の大傷でともて外観を損ねて醜く現れた。各写真の下部には、軍事用語に関して4つの言語(ドイツ語、フランス語、オランダ語、英語)で皮肉を込めた短文で解釈していた。明らかに、これらの恐ろしい写真集はドイツ政府によって非難されるも、左翼の知識人によって擁護されて、物議を高めた。
 フリードリヒの写真集を通して、戦争の真実が明らかにする強力な手段を示した。戦争の大災害は、それぞれの想像力や思考にさらされているため、何かの表現は完全に一致しているとは言えない。戦争写真は芸術的な手段であるだけでなく、戦争の真実を示す強力な手段でもある。戦争写真が戦争の恐怖を明らかにしている。
 第一次世界大戦では、愛国心が強いポスターや勇気の物語を超えて、戦争の真実を明らかにした写真がすでにあった。第一次世界大戦の終戦後りに、「戦争との戦い!((Krieg dem Kriege!, War against War!)が1924年に登場し、これまでに見たことのない戦争写真が出版された。名誉とされた戦場には、男性兵士の死体が散乱した。英雄として大量の墓に向かう運命の死体を伴っていた。恐ろしい戦争の真実を観察することで、戦争に関与する恐怖と驚きを想像できる。戦争の真実に反対し、戦争に伴う宗教的および人間的価値に反対した。戦場での破壊や虐殺だけでなく、暴力によって変形した顔の醜い負傷者も掲載された。
 フリードリヒは、第一次世界大戦中は、良心的兵役拒否のために精神病院に入院した。ナチス・ドイツの到来で、フリードリヒは迫害され始め、何度か刑務所に入れらた。1925年にフリードリヒが設立した反戦博物館は、1933年にナチス・ドイツの突撃隊(SA)によって破壊された。破壊で反戦博物館を侮辱して、博物館の建物はSAの待機場となり、ベルリンで最も悪名高い拷問室の1つとなった。ドイツの補償金を受けて、ポーランド系フランス市民としてフリードリヒはパリ近郊で、1954年に平和の待ち合わせ場所である「イルドラペ」を設立した。1982年にベルリンの反戦博物館は再開された。