2020年5月15日金曜日

ドイツ軍が、強制収容したベラルーシのNo.352捕虜収容所で、囚人のソビエト軍兵士を虐殺した多数の死体が敷地内に散乱した。

ナチス・ドイツ軍が、強制収容した東ヨーロッパのベラルーシに設置したNo.352 捕虜収容所で、囚人となったソビエト軍兵士を虐待して虐殺した多数の死体が敷地内に散乱した。
 1941年6月から1944年7月まで、ナチス・ドイツ軍はベラルーシのミンスク地方を占領した時から、ソビエト軍兵士に対する捕虜収容所No.352を開設した。No.352捕虜収容所は、ミンスク都市部とマシュコフシチナ森林部の2施設に分化した。開設した直後から、捕虜収容所はソビエト軍兵士の捕虜の囚人で過密となった。1941年9月頃からナチス・ドイツ軍の捕虜になったソビエト軍兵士は、天井のないワゴン車両で鉄道により多数のソビエト軍兵士が捕虜としてがNo.352に強制連行された。行進を拒否したり、ゆっくり歩行する捕虜は、その場で射殺された。収容する場所も乏しくなると、収容できない囚人は戸外で放置された。
 捕虜収容所に入る前に、すべての囚人は古衣服を奪われたて、再利用した陳旧式の収容服を着用させられた。収容所はさらに、出身地、階級、宗教的所属などに応じて区分された。ユダヤ人、ロシア人、ウクライナ人、将校のための別々の収容施設があった。有刺鉄線で取り囲んで相互を通行不能にした。越冬を考慮されず、暖房が欠如して厳寒であった。敷地内では寝台も乏しく、1人用で数人が見込んで、足の下は地面であった。囚人は夜間の移動や兵舎を離れることを禁じられた。ドイツ軍兵士の監視者らには、快適で暖房の部屋で、利便性、食事、休憩が与えられた。捕虜収容所の捕虜に対する食事は、ドイツ軍司令部の監察官により最低品質に管理された。泥水と、腐ったジャガイモのスープと、しばしばわらとおかくずを含むパン、カビや細菌からシラミで腐敗して、赤痢やチフスなどが流行した。強制飢餓による罰則による栄養と体調不全で、1日あたり約100人以上が病死して、1941年から42年で約5,5000人が病死した。
 労働を拒否したり、仕事が遅すぎる囚人は、刑務所に送られた。刑務所の床はコンクリートで、頭上には有刺鉄線が取り囲んだ。囚人は半身を曲げた状態で、横にも、立つこともできずに、悲惨な死刑判決となった。屈強で有能なNo.352捕虜収容所の囚人は、鉱物などを抽出するドイツ系の企業など、最も困難で、危険で、不潔な強制労働をした。貨車の積み下ろし、積み込み、線路の修理などの重労働もさせられた。収容所から脱走を図ると、巨大なフックに吊り下げられたままで虐殺された。疲れ果てた絶望的な囚人は、機関銃と有刺鉄線の餌食となった。解放されるまでに約80,000人以上もの死体が、グリニッシュ村の塹壕地に大集団で埋葬された。


2020年5月14日木曜日

沖縄戦で、アメリカ軍に殺害された日本軍兵士は自らの血だまりに横たわり、ハエはすぐに引き裂かれた肉にウジの卵を産み始めた。

太平洋戦争の沖縄戦は、アメリカ軍が、1945年5月29日までに首里城を占領した。アメリカ軍は日本軍兵士の夜襲などによる突撃に対して、日本軍兵士を殺害して壊滅した。アメリカ軍の沖縄司令部は、日本軍兵士による夜襲の突撃を検証した。アメリカ軍兵士、その夜襲に対抗して十分な殺傷力を持った軍用自動拳銃で射撃した。日本軍兵士の死体が横倒しに転がった道端には、不アメリカ軍司令部が設置されていた。アメリカ軍兵士は、道端に散乱して放置された日本軍兵士の死体を検死した。とても蒸し暑い沖縄の気候により、死体群は腐敗して皮膚に対数の斑点が表出していた。
 沖縄戦争の首里城の攻防では、爆発したアメリカ海軍の砲弾の炸裂によって、真夜中の沈黙は粉々になった。砲撃が止まるとすぐに、アメリカ軍の特殊偵察隊は装甲車両に乗って、沖縄への河口を駆け抜けを指令された。手榴弾が爆発して日本軍兵士自らの銃声は終わった。茶色の制服を着た日本軍兵士は自らの出血の血だまりに横たわった。ハエは直ちに引き裂かれた肉にウジの卵を産み始めていた。アメリカ軍兵士が家屋を囲みリン手榴弾で放火して、日本人が火炎に巻き込まれて射殺された。那覇近郊の先祖代々の墓には、日本軍兵士の一部は留まり、アメリカ軍兵士を待ち構えるも、掃討された。
 1945年5月27日に日本軍兵士の一部は、首里司令部を放棄して南部の摩文仁に撤退を始めた。沖縄南部にはすでに多くの沖縄の避難民が押し寄せて、ガマや壕はすし詰め状態となった。軍民混在となり、沖縄住民が戦闘に巻き込まれ、軍隊により避難民を壕から追い出などが発生した。5月29日には、アメリカ軍が首里城を突撃して占領した。6月2日に小禄・豊見城方面から日本軍兵士に侵入した。アメリカ軍の攻撃は、まず艦砲射撃や砲兵部隊、迫撃砲、戦車砲によって、日本軍陣地を徹底的に破壊した。その後にアメリカ軍兵士による火炎放射や火炎戦車による火炎放射による壕やガマへの攻撃は、内部にいる日本人は致命的な打撃を受けた。6月13日には、司令部部の塹壕内で日本軍上官が自決して壊滅した。


2020年5月13日水曜日

第ニ次世界大戦にて、連合軍はドイツのマグデブルクに約40回の大空襲をして、多数の住民の死体が道路の脇や廃墟に散乱した。

第ニ次世界大戦にて、連合軍はドイツのマグデブルク都市に約40回もの大空襲をした。空襲による死者は、多くの場合、女性、子供、老人であり、その死体群は道路の脇や廃墟の前に置かれて散乱した。空襲サイレンが住民らに警告したときには、すでに最初の爆弾が爆発していた。整備されていた防空壕の入口が閉鎖されると、防空壕まて避難することが困難となり、多数の市民が外部で被曝死や焼死した。マクデブルグの全体の破壊は約60%で、特に中心部は約90%にも達した。マルデブルグの在留者人口は第ニ次世界対戦前の約335,000人が、終戦時には約90,000にも減少した。約23校の学校は完全に破壊され、約17校は重度に破壊され、約20の学校は損傷された。    
   マクデブルクは第二次世界大戦中にイギリス空軍(RAF)とアメリカ空軍(USAAF)による約40回もの空襲で爆撃された。特に1945年1月16日の夜に行われたマクデブルグ市内中心部への無差別の空襲により、都市の大部分が破壊された。RAFはドイツ市民の戦闘士気を減弱するために、地域住民への無差別爆撃を指令した。ドイツ民間人の混乱を招くだけでなく、逆に反抗的な連帯感を引き起こした。約5,000機もの爆撃機が、約12,000トンの爆弾を投下した。さらに約650トンもの焼夷弾が投下されて火炎の嵐に包まれた。死者数は、ナチス・ドイツは約16,000人と喧伝して、戦後は約2,000〜2,500人と推定された。約6,000人が戦傷して、約200,000人が避難民となった。
     第二次世界大戦では、約410,000人のドイツの民間人が連合軍の空襲によって虐殺された。1944年7月から1945年1月までの間に、毎月平均13,536人が殺害された。RAFとUSAAFはドイツ市民の戦闘士気を減弱するために、地域住民への無差別爆撃を指令した。民間人の混乱を招くだけでなく、逆に反抗的な連帯感を引き起こした。緊急事態は独裁政権と国民とが互いを結びつけしまう。地域爆撃命令は、1907年のハーグ土地戦争法第25条では、無防備な都市、村、住居、建物への攻撃や発砲はいかなる手段によっても禁止されている。1949年のジュネーブ協定、特に1977年の追加議定書Iの第51条によれば、地域爆撃は国際的には戦争犯罪と見なれた。







2020年5月13日 Japan No War 日本平和の市民連盟
第二次世界大戦が200ラベルに達した。

2020年5月12日火曜日

第ニ次世界大戦のイタリア北部のクリーノ村にて、ファシスト軍団であるタリアメント大隊が、パルチザン組織であるジェミストの13人のうち9人を虐殺した。

第ニ次世界大戦のイタリア北部のクリーノ村にて、1944年5月8日にファシスト軍団であるタリアメント大隊が、パルチザン組織であるジェミストの13人のうち9人を虐殺した。クリーノ村民が9人の死体を埋葬地の周辺に運搬して、横並びに置いて埋葬させられた。
 イタリアのファシストに抵抗する共産党のガルバルディ旅団が1936年10月22日に結成された。旅団は首に赤いハンカチと帽子に赤い星を付けた。イタリアのレジスタンス組織であるガルバルディ旅団は、フランチェスコ・モラニーノが1943年9月からビエラで結成した共産党のパルチザンであるジェミストの結成に関与した。
 1944年の春にビエラでパルチザンを結成したジェミストは、第2ガリバルディ突撃旅団に集結した。1944年2月と3月にファシストのイタリア軍とドイツ軍とよる襲撃で、ガリバルディ旅団員は防御するのが難しい山地の基地を放棄して、ビエッラの丘陵地帯に在住した。ガリバルディ旅団の攻撃能力は、ファシスト駐屯軍への攻撃に不可欠な武装のほとんどを欠如していた。ファシスト軍がパルチザンの不在の期間に、パルチザンの情報提供のネットワークを構築して、活動する反乱を監視して清算した。
 1944年の初めの数か月間に屈強なファシスト部門であるタリアメント大隊が、反党派闘争により最も激しく冷酷で残忍な弾圧をした。4月下旬からガリバルディ旅団のジェミストのうち13人が、イタリア北部のビエラに向けて長距離の帰還をしていた。1944年5月8日にクリノ村に到着した。長距離の帰還に疲れ果てたジェミストは、農家の納屋に避難した。13人のジェミストのうち3人のパルチザンは店屋から食料とタバコを物色して、10人が居酒屋に入店した。居酒屋には恐怖に怯えた関係者と客も混在していた。ファシストのタリアメント隊員がすべての入口を閉鎖して、ジェミストの13人の集団と激しい銃撃戦をした。居酒屋内は最悪の戦場となり、タリアメント隊員は、重機関銃してジェミスト集団を次々に9人を射殺して、1人が捕獲され、3人が脱走した。ガリバルディは弾丸の不足で防御が困難となり、ファシストは機関銃を店の中に放った。タリアメント隊員は鎮圧した居酒屋から、ガルバルディの機関紙を持っていたジェミストに虐待と拷問を加えた。大量の出血の中で引き裂かれたジェミストの9人の死体が散乱した。クリーノ村の住人は、ファシストによって虐殺されたパルチザンの9人の死体を、荷車に積んで埋葬地まで強制運搬させられた。墓地の前で9人のジェミストのパルチザンを横並びして埋葬させられた。


2020年5月11日月曜日

太平洋戦争にてギルバート諸島のタラワ環礁のビーチに、アメリカ軍兵士の死体が猛烈な戦闘後に多量に散乱した。

太平洋戦争により、ギルバート諸島のタラワ環礁のビーチに広がったアメリカ軍兵士の死体は、1943年11月20日からの砂浜の猛烈な戦いで、戦闘後に散乱した。アメリカ軍部隊が上陸したとき、サンゴ礁、砂州、その他の障壁などの水中の障害物により、着陸船が海上で停滞した。海岸の上陸までに行き詰まったアメリカ軍兵士は、日本軍からの機関銃の射撃中に数百ヤードにわたり胸まで浸かり深い海中を歩いた。海岸までたどり着けたアメリカ軍兵士は、日本軍の機関銃の弾丸が海水に向かって身体の右に数インチ、あるいは左に数インチ銃音を立て逸れた。最終的に海岸に到着しても、最高標高が海抜約10フィートであるベティオ島で防御壁に苦難した。アメリカ軍は有刺鉄線、対人地雷と対戦車地雷の障壁に侵撃を阻止された。
 1943年11月20日に、約18,000人のアメリカ軍兵士は、環礁の南西端にあるベティオ(Beti)島に上陸した。日本軍により要塞化したベティオ島で、最も過酷な約76時間にわたる激しい戦闘が勃発した。約4,600人の日本人兵士が、アメリカ軍の上陸地点の水際で最も厳しい攻撃をした。ベティオ島全体の塹壕から銃撃と射撃を受けた。1943年11月23日に76時間の戦いの後、ベティオの戦いは終結した。アメリカ軍が上陸して3日目までに、絶望的で狂信的な日本軍兵士は自殺的な万歳突撃をした。日本軍の集団が戦車を急襲した時に、狂気の集団の真ん中に爆発性の高い砲弾を発射した。約1,000人以上のアメリカ軍兵士が殺害されて、約2,300人が戦傷した。約4,600人の日本軍兵士は全滅して約97%が殺害さたれ。生存して捕虜になった日本軍兵士はわずか146人で、そのうちに17人が韓国人労働者が含まれた。捕虜を忌み嫌い多数の自殺者も出た。



2020年5月10日日曜日

太平洋戦争の沖縄戦にて、義烈空挺隊員は、アメリカ軍の占領した飛行場に強行胴体着陸した戦闘機内で約3人が殺害された。

太平洋戦争の沖縄戦にて、義烈空挺隊員は、アメリカ軍の占領した飛行場に強行胴体着陸した戦闘機内で約3人が殺害された。戦闘機内の待機場所から機銃座への通路上で殺害されていた。アメリカ軍の撃墜により沖縄北部の読谷飛行場に強行胴体着陸した義烈空挺隊員の約13人が殺害されて戦死した。その内の約3人が強制胴体着陸した戦闘機の機内で殺害された。日本軍の戦闘機内で機関銃の操作兵士らが殺害された。日本軍の戦闘機内の待機場所から機関銃座位への通路内に、軍服をまとって殺害された死体が倒れていた。
 義烈空挺隊とは、飛行場に戦闘機で強行着陸して、航空機と飛行場を破壊する空挺隊員で編成された特殊部隊である。1945年5月24日の午後6時50分に、義烈空挺隊の12機の爆撃機が、沖縄戦に向けて熊本飛行場を離陸した。5月24日の午後10時ころに沖縄の北部のアメリカ軍が占領した読谷飛行場に、日本軍の攻撃機の6機うち2機が強制胴体着陸した。2機は中部の嘉手納飛行場に強制胴体着陸を示唆した。中部の嘉手納飛行場は一時時に閉鎖されて、アメリカ軍の戦況の記録は不詳である。残りの4機は沖縄の飛行場に到着できずに帰還した。
 アメリカ軍は、北部の読谷飛行場に侵攻した6機のうち4機を撃墜した。胴体着陸した日本軍の攻撃機から日本軍兵士の約10人が突撃して手榴弾などを、アメリカ軍の飛行場に投下した。アメリカ軍の攻撃機の約26機体が爆破されて、ドラム缶で約600本に相当する約70,000ガロン(約265キロリッター)のガソリンが炎上した。アメリカ軍兵士は約20人が戦死傷した。義烈空挺隊は撃墜された4機を含めて約69人の全員が殺害された。義烈空挺隊員は、沖縄北部の読谷飛行場で突撃した約10人の義烈航空隊の全員が殺害された。攻撃機の機内で約3人が殺害された。その周辺で撃墜された4機はすべて落下して炎上して約56人の全員が墜落死した。



2020年5月9日土曜日

第五福竜丸無線長の久保山愛吉は、水爆に被曝してベッドに寝込んみ、家族の見舞いを受けて約20日後に水爆症死した。

第五福竜丸無線長であった久保山愛吉は、1954年3月1日のビギニ環礁におけるアメリカ軍のキャッスルブラボー(Castle Bravo)の水爆実験により放射能を大量に被曝した。最も重篤な40歳の久保山愛吉は国立東京第1病院に入院中に、8月29日に骨髄炎を併発して、1954年9月1日にベッドに寝込んで家族の見舞いを受けた。水爆を被曝した直後から、嘔吐、食欲不振、頭痛、めまい、下痢と倦怠感などが出現した。約3日目から外皮膚が赤くただれ、約10日目から水疱化して、頭髪が大量に脱毛して、急性水爆症に罹患した。3月14日に焼津協立病院で加療されて、重態の2人は3月15日から東京大学病院に転院した。は異変を併発して1954年9月23日に、「原水爆による犠牲者は、私で最後にして欲しい」と遺言して国立東京第一病院で水爆症死した。
  第五福竜丸は156トンの漁船で、焼津港から南太平洋でマグロ延漁をしていた。第五福竜丸は、3月1日午前4時12分に南太平洋のビギニ環礁にて操業中に水爆実験の放射能降下物に被曝した。その他にも、マーシャル諸島の住民なども水爆の被曝に巻き込まれた。3月14日に焼津港に帰港して、3月16日に第五福竜丸事件が発覚して報道された。その事件後も、アメリカ軍の水爆実験のキャッスル核兵器作戦は、継承されて3月27日から6月20日まで5回の水爆実験が強行された。第五福竜丸は、アメリカ軍が設定した立ち入り禁止区域よりも遠方であるも、想定以上の水爆の威力により被曝した。
 第五福竜丸の船員は、突然に南西の海面から火炎のきのこ雲の噴出を目撃した。それから凄まじい爆発音、爆風、熱風が第五福竜丸を襲った。閃光から約3時間経過した午前7時頃から放射能降下物である死の灰が甲板一面に降り積もった。爆心地であるビギニ環礁から北西約168kmで、第五福竜丸の船員23人の全員が約300R以上の被曝した。直ちに午前10時30分頃に延縄を引き上げて、時速9Kmで約3,000km離れた焼津港に帰還した。第五福竜丸の船体は、東京都の夢の島公園に「第五福竜丸」に展示されている。
 アメリカ政府の公式な見解では、水爆には放出される放射能の同等の増加は伴わず、乗組員が放射性降下物の影響を受けたことを否定した。水爆の核分裂の最終段階が、広島原子爆弾と長崎原子爆弾に対して、放射能量が約1,000倍にも膨大した脅威が示唆された。日本政府のアメリカ軍の抗議で、外交関係が緊張して、「第二の広島」と呼称された。日米両政府はすぐに収束して、犠牲者に被爆者の地位が与えないことも合意した。金銭的補償としてアメリカ政府から日本政府に15,300,000ドルを転嫁して政治的和解に達した。生存した各被爆者には、1954年には5,550ドル、2020年までに約52,800ドルを補償で終結した。




2020年5月8日金曜日

第二次世界大戦でソビエト軍がネマースドルフの虐殺で避難を求めた2人のドイツ人の子供を射殺した。

第二次世界大戦の東部戦線において、ネマースドルフの虐殺においてソ連軍は住民に対して無差別の殺害を実行した。ナチス・ドイツ軍は、ソ連軍の大量虐殺を残虐な写真画像を公表して喧伝した。ネマースドルフ(今日のロシアのマヤコフスコエ、カリーニングラード州)で1944年10月に虐殺された2人のドイツ人の子供の写真を提示した。ソビエト軍が撤退している10月22日に、トンネルへの避難を求めていた2人のドイツ人の子供が射殺された。
 ネマースドルフ虐殺は、1944年10月21日に当時ドイツのネマースドルフ村で勃発した。ソ連軍の調査では、ソ連の赤軍が町に侵攻したときに、最大で約30人の住民を虐殺した。今日でも虐殺の規模はまだ不明のままである。写真画像の裏面にドイツ語でナチスニュースレポートが記載された。再占領された東プロイセンの町では、ナチス軍の最高司令部(OKW)の報告書によれば、ドイツ軍の反撃によりソ連軍はゴルダップとガンビネンの近隣に撤退した。再占領して解放された地域では、ドイツ軍兵士がソビエト軍の恐ろしい虐殺と無差別殺人に遭遇した。殺害されたドイツ系住民は、ほとんど顔面を射撃された。
 1944年10月21日、ソビエト軍がドイツの東プロイセンの境界にあるネマースドルフの村の近くに侵攻して、近くのアングラパ橋を占領した。ドイツ軍の空襲よる反撃で、ソ連軍の一部がネマースドルフの住民によって建設された爆弾シェルターに逃げ込んだ。ソビエト軍兵士が避難所にいた民間人を虐殺した。他のソ連軍の部隊もまた、ネマースドルフ村自体の中で住民を虐殺して防御場を築いた。10月22日が夕暮れ後に、ソビエト軍は橋を渡って撤退して、アングラ橋の橋頭を破壊した。ナチス・ドイツ軍は10月24日にネマースドルフに戻り再占領した。多数のネマースドルフ住民の虐殺を発見した。ソビエト軍の戦車に押しつぶされた住民やと町の外に出る橋で機関銃の射撃によって虐殺されたとナチスドイツ軍は公表した。
 ナチス・ドイツ軍のプロパガンダは即座に、残虐行為の証拠を引用して、ソ連の残虐行為を10月27日から喧伝した。ナチス・ドイツ国内では、この喧伝戦の効果はかなり偏っていた。喧伝戦により、反撃軍の徴兵を支援した一方で、東プロイセンと他の東ドイツの住民は、ソ連軍による大量虐殺を回避するために、西部に向けてソ連地域からドイツ系住人が大量に逃げ始めた。ドイツ系の大量難民により主要な交通機関の接合部の妨害となり、部隊と物資の移動に悪影響を及ぼした。ナチス・ドイツ軍はネマースドルフの大半の住民となる約653人が虐殺されたと主張した。ソビエト軍の記録では約20から30人の殺害数であった。一般に、ナチス・ドイツ軍は死者数を膨らませて、他の孤立した残虐行為の証拠を膨らませてネマースドルフ虐殺の規模を誇張した。ドイツ軍はアングラ橋などを攻撃して、ネマースドルフ住民がソビエト軍によって殺される状況を作り出した。逆にソビエト連邦は公式の国家記録でさえ偽って書き換えした。ナチス・ドイツ軍は約653人とソビエト軍は約20から30人だけとおそらくその中間の虐殺と推定された。


2020年5月8日 Japan No War (JNW) 日本平和の市民連盟 視聴回数 390,000回 

2020年5月7日木曜日

朝鮮戦争において、殺害されたカナダ軍兵士の死体から、北朝鮮軍側がブーツを剥奪した。

朝鮮戦争において、殺害されたカナダ軍兵士の死体から、北朝鮮軍側がブーツを剥奪した。これらの殺害されたカナダ軍の兵士たちは、アジアの朝鮮戦争でソビエトの戦略的陽動作戦の犠牲者であった。その後に西ヨーロッパにおいてソビエト連邦の全面的な侵略が勃発した。朝鮮戦争から、NATOは軍隊を地上に後押して、ソビエト連邦に対して大規模な報復の抑止力を行使した。アメリカ合衆国のワシントン政府は、必死に核軍備の拡大に真っ向から突入した。北朝鮮軍兵士たちらは、軍需品と食糧の欠乏に苦悩した。軍靴も支給されず、厳寒の雪道を裸足で歩くしかなかった。韓国軍側兵士の死体から軍靴などを略奪した。
    カナダ軍は、 1950年12月から1953年2月まで国連軍として朝鮮戦争に関与した。約26,791人のカナダ軍兵士が国連側に参戦した。約516人のカナダ軍兵士が死亡して、そのうち約312人が戦闘により殺害され、約1,200人以上が戦傷した。カナダは、アメリカ・イギリスに次いで3番目の参戦数となり、世界大戦に次いで第3番目の戦争の犠牲者数となった。さらに7,000人のカナダ軍が1953年の休戦後も38度線を警備した。カナダは国連(UN)と北大西洋条約機構(NATO)に属していた。アフガニスタンでの十数年以上の戦闘では、約4万人を超えるカナダ軍がさまざまな地域で参戦した。
 北朝鮮は反乱によって朝鮮半島を統一を想定した。大韓民国が反乱を鎮圧したので、北朝鮮は軍事力で統一を必要性をを認識した。北朝鮮は日中戦争の満州戦線において、戦闘経験を保持した軍隊を拡大した。北朝鮮人民軍(KPA)が1950年6月25日に38度線を横切り朝鮮戦争の内戦が始まった。朝鮮戦争におけ韓国軍を除いた国連軍の犠牲者数数は、約150,000人であった。そのうち、約140,000人がアメリカ軍軍兵士であった。『北韓30年史』は、国連軍の戦死者数は約35,000人、戦傷者数は約115,000人、行方不明者は約1,500人で、合計で、約151,500人と推定した。『統一朝鮮新聞』は、国連軍の戦死者数は約36,813人、戦傷者数は113,816人、行方不明数者は約6,198人、総計157,827人と推計した。


2020年5月6日水曜日

イギリス軍兵士が、1953年1月にマウマウ蜂起に巻き込まれて殺害された植民地政府のケニア人兵士を検死した。

イギリス軍兵士と植民地政府のケニア人兵士が、厳しいアフリカのジャングルや熱帯野において、マウマウ蜂起を鎮圧した。イギリス軍兵士が、1953年1月にマウマウ蜂起に巻き込まれて殺害された植民地政府のケニア人兵士を検死した。イギリス軍兵士は、植民地化に反抗する数万人のケニア人を拷問して虐待と虐殺していた。懲戒処刑したケニア人の反逆者は、約11,500人に達した。イギリス軍は、ケニア人によるマウマウの蜂起を非難して、マウマウに対するケニア人の支持者を減弱した。ケニア人に対する過度の残酷な非難、民間人に対するケニア人の報復など、マウマウ蜂起の活動に対する否定的な情報を絶えず拡散した。ケニア人のマウマウ蜂起では、民間人の報復はヨーロッパ系農民の約32人とインド人約49人だけに留まった。しかし、イギリスの植民地政府に加担したケニア人に対しては約18,000人も殺害した。マウマウ蜂起で、イギリス軍兵士は約200人と地元の植民地軍団の約500人が殺害された。
 1920年にイギリス直轄の植民地となったケニアから、アフリカ大陸では最大の反植民地運動となったマウマウ蜂起が1952年から勃発した。マウマウは、ケニアの最大数であるキクユ族に対する野蛮な蔑称であった。イギリスによるケニアの植民地化で、ヨーロッパ系農民が移民して農地を占領された。キクユ族らは小作農、難民、貧困、スラムに陥った。1920年から地元のケニア人による反イギリスのキクユ運動が勃発した。ケニアでの反乱運動であるマウマウ蜂起は1948年から勃発した。イギリス軍は、地元の犯罪者と恩赦を受けた反逆者により対ゲリラ部隊を組織して、ケニア社会を分断した。イギリス食民地当局の厳しい弾圧により、ケニア人の反逆者の数は大幅に減少して、1956年に壊滅した。マウマウ蜂起により、白人移住者がローデシア、南アフリカ、オーストラリアにケニアから撤退した。1960年のランカスターハウス会議で、イギリス本国政府から打ち出した1963年12月にケニア独立の計画が出て、ようやく独立が公認される次第となった。ケニアは1963年12月12日に独立宣言をした。イギリス政府は2011年に初めてマウマウ蜂起の弾圧の機密を解除した。