2020年3月31日火曜日

ルソン島の戦いで、日本軍兵士は手榴弾を投げ込む直前にアメリカ軍が射殺して、手榴弾を手に持ったままで殺害された。

ルソン島の東海岸のポートリアルにあるアメリカ軍の野砲隊の観測地点に対して、1945年7月20日に日本軍兵士が切り込み突撃をした。日本軍兵士は手榴弾を投げ込む直前にアメリカ軍により射殺された。日本軍兵士は、手榴弾を手に持ったままで、仰向けに転倒して殺害された。ルソン島の戦いだけで、日本軍兵士は約205,538人、アメリカ軍は約10,380人が戦病死した。
 アメリカ軍とフィリピン軍が、水陸両用から攻撃をしてルソン島に上陸した。マニラ北東地区の日本軍部隊は、1945年2月3日からのマニラの戦い中に、1945年2月8日よりマニラ郊外で第一次総攻撃により連合軍と激戦を繰り広げた。アメリカ軍は2月23日から猛砲撃から包囲して攻撃をした。3月3日にマニラの戦いで、マニラはアメリカ軍に制圧された。日本軍部隊は、3月中旬頃にさらにマニラ郊外で第二次総攻撃をした。しかし、3月下旬頃になるとアメリカ軍に圧倒されて、マニラ郊外から撤退した。日本軍部隊は分断されて、6月頃には陣地も失って、分散してのジャングルや山林でのゲリラ持久戦に突入した。その約2ケ月後に、日本が1945年8月15日に連合軍に無条件降伏して終戦した。その後から、9月頃から11月頃にかけて終戦を知って降伏するまで、連合軍とゲリラ戦を行った。その日本軍部隊の生存者は、緒戦の約105,000名のうちで終戦以後に収容された13,000人と、フィリピンの戦いの終結までの捕虜約1,600人のみであった。 


2020年3月30日月曜日

ドイツ共和国軍と義勇軍の部隊が、ルール蜂起した復員兵の労働者を射殺した死体の前で鉄道の堤防からポーズを撮った。

ドイツ連邦議会から派遣された約45,000人の共和国軍と義勇軍の部隊が、1920年4月2日にデュースブルク近郊のメーレンで、ルール蜂起した復員兵の労働者を射殺した死体の前で鉄道の堤防からポーズを撮った。1920年3月31日に共和国軍とルール赤軍の銃撃戦が発生した。4月1日正午に、ハム・ペルクムにて共和国軍と赤軍が激突して、双方に多数の死傷者を出す激戦となった。4月2日に、共和国軍はルール赤軍を駆逐しつつ、西方からベルクカメンに向かった。4月の最初の週だけで約150人から約300人の労働者が死亡した。4月6日に共和国軍がルール赤軍の中枢であったドルトムントに到達して、ルール赤軍は事実上壊滅した。共和国軍は、鎮圧したルール地方からの反抗容疑者を野戦裁判所により大量死刑を執行した。
   第一次世界大戦はドイツは1918年11月11日に休戦協定から1919年6月28日にヴェルサイユ条約を締結した。1920年3月13日に強烈な軍縮に対抗しして右派の義勇軍がベルリンを占領したカップ一揆を、3月17日に左派の復員兵がルール赤軍として撃退した。社会運動を止まらなかったベルリンと中央ドイツを経由して、アッパーシレジアからルール地方まで、経済的および政治的ストライキが多発した。労働者は給与が削減され、賃金は1914年に比べて40%も減少した。失業は巨大になり、ミュンヘンで約4万人、ベルリンで約5万人の失業者に達した。1919年の初めに約300万人以上の失業者に達してより多くの暴動が勃発した。 
 ルール地域では、鉱山労働者と鉄鋼労働者は国有化に向けて、特に労働者の社会運動の参加と決意が高まった。1919年2月から4月にストライキは倍増した。最初の労働組合は、1919年3月30日にルール地域に設立された。ドイツ連邦議会派が労働組合を抑圧と弾圧を主導して破壊した。6月に再建されて、急進的な労働組合に拡大した。1920年には、組合員は約12万人以上にも達して、1920年3月からルール蜂起が勃発した。
 

2020年3月29日日曜日

長崎原子爆弾に被爆した少年が、原爆症が発症して身体に紫斑が出現して、九州大学病院に入院した。

長崎原子爆弾に被爆した少年が、原爆症が発症して、九州大学病院に入院した。身体に紫斑病が出現して、原爆症が重篤となり、側臥位でベッドに横たわった。原子爆弾の放射線の被爆により、最も早期の原爆症は脱毛から始まり、紫斑は約1週間して出現した。同時期に出血性歯肉炎や口内出血も伴った。被爆後の約1週間から2週間に下痢症状が、3週間まで発熱と口腔内咽頭炎が生じた。多くの被爆者は約17日前後に死亡した。原子爆弾の被爆で、最も深刻な影響を受けた臓器は骨髄と腸粘膜であった。大量に放射線に照射された骨髄は脂肪と白く染色された細胞に置き換えられて、造血細胞の根絶した。放射線に曝された結腸は平坦になり、出血が出現した。病理学的所見では、急性放射線病または急性放射線症候群(ARS)と診断された。
 紫斑病は、血斑または皮膚出血とも呼称されて、紫色に現れた皮膚の斑点である。皮膚だけでなく、反転は口の内側の膜から臓器または粘膜にも出現する。紫斑は、皮膚の小さな血管が破裂して、血液が皮膚の下に溜まる。原爆症にて、血小板の減少、血管障害、凝固障害などの重篤な病態を呈する。身体無いに過度の出血をもたらす。「紫斑、すなわち皮下出血は、急性放射線疾患の症状の一つです。原爆被爆後数日から数週間にかけて、重度被爆者は発熱、吐き気、嘔吐、食欲不振、下痢を伴う血便、脱毛、紫斑または点状出血、のどまたは口内のただれ(鼻咽頭潰瘍)、歯ぐきの衰退および潰瘍(壊死性歯肉炎)を経験しています。これらの症状の発生時期はそれぞれ異なりますが、一般的に、重度被爆者においては早くから発生しました。 (日米共同研究機構、放射線影響研究所;1975年, 元ABCC(原爆傷害調査委員会 ;1947年)」


2020年3月28日土曜日

第二次上海事変で、宝山の戦地の中国軍陣地の塹壕下に、多数の中国軍兵士の死体が散乱して日本軍検閲部が掲載不許可にした。

第二次上海事変において、日本陸軍の第11師団の永津部隊兵士と田中隊兵士が、1937年9月20日に中華民国軍と奮闘した。宝山の戦地の中国軍陣地の塹壕下に、多数の中国軍兵士の死体が散乱した。大阪毎日新聞社の写真部が、9月23日に日本軍の新聞掲載の検閲を受けた。中国軍兵士の死体が撮影された写真のために掲載の「不許可」の赤字を左下に印章された。その他に死体の写っていない中国軍からの捕獲品と中国軍陣地の地形は、個人情報を削除した上で、掲載できる「検閲済」の赤字の印章を受けた。日本軍の検閲により報道写真には「検閲済」「不許可」などの印鑑や赤ペンでの修正指示が書き込まれた。毎日新聞社は戦後まで保管した日中戦争などの「不許可写真」を1977年に公開した。
 日本軍の第11師団は、9月末までに戦死者は約1,560人、戦傷者は約3,980人の犠牲を伴った。日本軍は、9月5日に上海から約25kmにある沿岸の中国軍の拠点であった宝山(Luodian)を包囲して占領した。宝山の地帯は悪路に加えて溝が網の目にめぐらされ、砲弾などの補充が困難となり、陣地から侵攻も困難であった。日本軍の砲撃が停止して、日本陸軍の突撃のみ前方に突進して、中国軍の死傷者率は50%にも達した。中国軍は、宝山がもはや保できず、9月15日に敗走した。宝山の周辺地域である羅店における中国軍と日本軍の悲惨な戦闘は「肉と血の粉砕機(血肉磨坊)」とも呼称された。第二次上海事変で、中国軍兵士は、約187,200人が戦死して、約83,500人が戦傷した。日本軍兵士は、約18,800人が戦死して、約35,000人以上が戦傷した。


2020年3月27日金曜日

グアテマラにて、1996年9月に2人の囚人を銃殺隊が銃撃してから、重態で生存した囚人の頭部に拳銃で射殺した。

グアテマラのエクイントラ市にて、1996年9月に2人の強姦致死罪の囚人を目隠して、銃殺隊が至近距離から銃撃して公開処刑した。一人の銃殺隊員が近づいて検死をすると、一人は即死していたが、もう一人は重態で生存していた。重態で生存している囚人の頭部に拳銃を押し付けた。頭部を直撃する発砲をして銃殺した。公開された残酷な銃殺による虐殺する死刑の執行手段が国内外から批判された。
  グアテマラ内戦でグアテマラ政府と闘った様々な左翼反政府勢力は、マヤ先民族が主体となった。グアテマラ政府軍1960年11月から1996年12月まで農村部の貧困層を内戦中にマヤ人民族と民間市民に対する大量虐殺をした。長期にわたる内戦中に、農村部の貧困層と対立するヨーロッパ系企業や外国企業との土地分配が紛争となった。1944年と1951年のグアテマラ革命民主的選挙は、左翼政府を導いた。冷戦に対抗したアメリカが支援して軍事クーデターを1954年に引き起こして軍事政権を樹立した。その後もアメリカの支援下で一連の右翼的な軍事独裁が続いた。1970年に軍事独裁者は、選挙詐欺を通じて、約12年間グアテマラの政治を支配した。1982年3月23日の軍事クーデターで新たな軍事政権が権力を掌握した。1970年代に社会的な不満が存続して、不平等な土地保有に対して先住マヤ民族や農民らが大規模な集団で反乱を引き起こした。1980年代にグアテマラ軍が約5年間にわたり独裁的な政府権力を握って、すべての社会政治的な反対勢力を排除した。
 内戦中に約20万人が虐殺されるか、行方不明と強制的な失踪と推定された。政府軍と反政府勢力間の戦いがあったが、1960年代半ば以降から、グアテマラ国家による民間市民に対する一方的に大規模な虐待と虐殺が執行された。国家の反対派および反乱分子の容疑者、および諜報機関による殺害および失踪に関与した。グアテマラ国家はラテンアメリカで、最初に広範囲にわたる強制失踪を執行して、1966年から1996年の終結までの失踪者数は約4万人から約5万人と推定された。反乱の拠点となった農村地域は弾圧されて、農民の大虐殺と村民全体の虐殺にまで至った。最初はイザバルとザカパ(1966–68年)の地域から、1978年以降は主にマヤ西部の高地を弾圧した。1980年代の初めには、軍、警察、諜報機関が大量虐殺に関与した。弾圧の犠牲者は先住マヤ民族を含み、政府反対派容疑者、帰国難民、反抗勢力の約93%が政府軍によって、約3%がゲリラによって犠牲となった。



2020年3月26日木曜日

沖縄戦の特攻により、水上機母艦の乗務員が殺害されて、翌日に艦上にて戦死者の死体を国旗に包んで葬儀を挙行した。

太平洋戦争における沖縄戦にて、カーティス(Curtiss)型の水上機母艦(Seaplane Tender)が、1945年6月21日に慶良間沖において日本軍の特別攻撃(特攻)を受けた。その特攻により、多数の水上機母艦の乗務員が爆死あるいは焼死した。その翌日の6月22日に、水上機母艦の艦上にて、戦死したアメリカ軍兵士の遺体を国旗に包んで葬儀を挙行した。海葬で艦上から海に乗組員の死体を投げ込み処分した。水上機母艦のカーティス型は太平洋戦線に、アーバマー型は大西洋戦線に参戦した。カーティス型は、沖縄戦で、日本軍の特攻隊の体当たり自爆攻撃で甚大な損傷と犠牲を受けた。特攻は、爆弾を積んだ攻撃機が標的に命中すること確実にするために若者の命を犠牲にした自殺的な自爆攻撃となった。1944年10月のレイテ湾の戦いで最初に特攻は登場した。
 太平洋戦争の末期の沖縄戦において、アメリカ軍に対して特別攻撃をする菊水作戦を遂行した。カーティス型水上機母艦に、6月21日に最後となる菊水10号の指令で、日本陸軍の特攻隊の「疾風」が激突した。6月23日に日本軍の司令官が自殺して、沖縄本島における日本軍の組織的戦闘は終結した。カーティス型水上機母艦は、約15時間も炎上して、アメリカ軍兵士は約41人と戦傷者約48人の犠牲を伴った。日本軍による1941年12月8日の真珠湾の奇襲攻撃により、カーティス型水上機母艦に爆弾の爆発して破片が格納庫が破壊され、激しい火災を起きた。カーティスの乗組員の約20人は、日本の特攻によって殺害された。1945年4月6日から6月22日の沖縄戦の菊水作戦において、日本海軍兵士の約2,045人、日本陸軍の約1,022人が自爆攻撃により自決死した。菊水作戦に対して、アメリカ軍の犠牲は、約4,907人が戦死して、約4,824人か戦傷した。日本軍の特攻の戦果は、主攻撃の目標であった正規空母を一隻も沈まなかった。日本軍は、菊水作戦の戦果により特攻以外には、アメリカ海軍には対抗は不可能であると覚悟した。


2020年3月25日水曜日

米比戦争にて、カンザス州のアメリカ軍志願兵が銃撃されて、周りの兵士が、止血帯を巻き口から水分を補給した。



アメリカ合衆国とフィリピンの戦いが1899年から1902年に勃発した。カンザス州からの志願兵であるアメリカ軍兵士が銃撃されて重態となった。周りのアメリカ軍兵士が、出血を止める包帯を巻いて、口から水分を補給した。この戦いによって、推定で約20,000人のフィリピン人が殺害された。、その多くが戦闘に巻き込まれたフィリピン人の一般市民が犠牲となった。フィリピンの首都マニラに対抗したアメリカ軍兵士の多くは、ミシシッピ州よりも西部の州からの志願兵であった。
 プロパガンダ映画により、ルソン島のマニラ郊外のカロオカンで戦闘をアメリカ人国民に喧伝した。フィリピン人ゲリラ集団は密集しているジャングルの下草から一斉射撃しながら突撃した。フィリピン人ゲリラは、反乱の最も激しい血の戦いになる地帯で、カンザス州からのアメリカ軍志願兵を警戒していた。塹壕や遮蔽物もないジャングルの中から、猛烈に突撃するアメリカ軍部隊が、フィリピン人ゲリラの前に出現した。アメリカ軍兵士は射撃しては、弾丸を付け替えて発砲するために一時停止した。撤退するフィリピン人ゲリラに対するアメリカ軍兵士の射撃で、周囲に白煙が立ち上り、銃声が鳴り響いて、フィリピン人ゲリラはは鋭気を失って撤退した。白兵戦により両軍は突撃に従軍して、煙と後退する戦いの喧騒で双方に多大な犠牲者が出た。アメリカ軍兵士とフィリピン人ゲリラは、正面に向かって白兵戦で直撃した。


ページリンク: http://www.loc.gov/item/98501192/

(下記の動画は、Edison Manufacturing Co.が、ニュージャージー州警備隊によって再現して映像化した。1899年5月に製作した。画面で行進するアメリカ軍兵士の突撃は非常に興奮させた。最後までとても興味を持たせる衝撃的な戦闘の場面であった。)


2020年3月24日火曜日

エルサルバドルでエル・モソテ大虐殺が起き、エルサルバドル軍兵士が、反左翼ゲリラ作戦で約1,000人の民間人を虐殺した。

エル・モソテの虐殺は1981年12月11日にエルサルバドルのモラサン県エルモソテ村で起き、アメリカ軍から訓練を受けたエルサルバドル軍兵士が、反左翼ゲリラ作戦で少なくとも約1,000人の民間人を虐殺した。エルサルバドルのエル・モソテ村の周辺でアメリカに訓練され武器を供与された一団が虐殺を起こした。1981年3月15日から政府軍は、ゲリラに対する掃討と焦土により、各地で無差別虐殺を執行した。1993年、国連のエルサルバドルのための真実委員会は、エルモソテで約5,000人の市民が「故意にそして組織的に」殺害されたと結論付けた。レーガンの政権下で、エルサルバドルには莫大な武力援助が行われた。その間には、エルサルバトルで破壊と殺戮が続き、死者は7万人に上った。翌年にアメリカの報道機関が虐殺を広報した。レーガン政権と大使館とエルサルバトル政府は直ちに否定した。約20年経過した2011年12月に、エルサルバドル政府は、エル・モソテの虐殺を公式に謝罪した。
 エルサルバトル軍は当日にエル・モソテ村人を町の広場に連行して、男女を分別して、教会と修道院に子供らを閉じ込めた。兵士らは、3日間にわたり、村人全員を無差別に射殺した。少なくとも約143人以上の子供らも弾丸で建物を発火して焼死した。男性は尋問されて、拷問されて虐殺された。若い女性と少女はレイプ後に射殺された。
 エル・サルバドルの社会的経済格差の拡大と隷従などから、1979年10月15日から政府は民族解放戦線(FMLN)と内戦が勃発した。アメリカ政府のレーガン政権は、政府に軍事援助をした。政府軍とFMLNのゲリラ戦に、一般市民が巻き込まれて混乱して対数の犠牲を伴った。政府軍は約20,000人以上、FMLM勢力は約7,00人、市民は約75,000人か死亡した。1992年1月16日に国連を通じてチャプルテペック和平で内戦が終結した。



2020年3月23日月曜日

関東大震災により朝鮮人が日本人により大虐殺されて、東京の墨田川にかかる永代橋の付近に水死体が浮いていた。

関東大震災により朝鮮人が大虐殺されて、東京の墨田川にかかる永代橋の付近に朝鮮人と示唆された水死体が浮いていた。死体が杭に縛りつけられていた。虐殺が大きくなるほど、東京の隅田川や荒川の支流に血染めの水死体が浮かんだ。(2013年8月22日の北東アジア歴史財団が公開した。広島原子爆弾による太田川の死体ではない。爆心地から約2km以内は陸軍の暁部隊により極秘に完全に封鎖された。)
 1923年9月1日午前11時59分に、東京を震源地とした関東地域に最大7.5級の超強力な大地震が発生した。ちょうど昼食時に当たり、地震の余波で、直ちに大火災に引火した。東京は約6割から横浜は約8割など関東地域を中心壊滅した。日本気象庁は、死者は約99,331人、行方不明が約43,476人、被災者は約340万にも及び大規模な災害となった。家屋の全壊は、約128,266棟、半壊は約126,233棟、焼失は約447,128棟、流失は約860棟に達した。
 災害中に、日本政府の内務省から戒厳令が発令されて、警察署に治安維持を指令した。社会不安が高まり、恐怖で関東地域に噂やデマが飛び交った。そのデマの中に、「朝鮮人が暴動を起こす」「朝鮮人が放火した」「朝鮮人が略奪した」「朝鮮人が日本人を襲撃した」「朝鮮人が爆弾を仕掛けた」「朝鮮人が井戸に毒を入れた」「朝鮮人の背後は、社会主義者である。」などの根拠もないデマが拡散した。さらに複数の新聞が、在留の朝鮮人に関する過激な敵意を掲載してあおった。日本人団体ら警察組織や自警団にも浸透して、容疑を掛けられた朝鮮人や中国人が虐待と虐殺された。組織された自警団により、約3,689人の朝鮮人が虐殺したと示唆された。竹槍、こん棒、拳銃、刃物などで執行した。警察は、自警団による朝鮮人の虐殺を消極的に対処して傍観してた。韓国併合により、特に日本に移民して来た朝鮮人労働者や留学生が犠牲となった。日本政府は関東大震災を、安全地帯をを求めて、積極的に中国を侵略する口実とした。


2020年3月22日日曜日

第一次世界大戦のカポレットの戦いで、ドイツ軍とオーストリア軍の突撃により殺害されたイタリアの兵士の死体が散乱した。

第一次世界大戦のカポレットの戦い(Battle of Caporetto)が1917年10月24日から、チヴィダーレ近隣の山で、ドイツ軍とオーストリア軍の突撃により殺害されたイタリアの兵士の死体が散乱した。ギターを含む持物が、死体の周辺に散在した。ドイツ軍とオーストリア=ハンガリー軍は、イタリア北部で11回も繰り返し戦闘したイゾンツォの戦いは、イタリア軍はオーストリア軍の防衛線を破れず、戦争は西部戦線と同様に血まみれの膠着状態となった。次いで近隣の小さなカポレット町(現スロベニアのコバリード)で、カポレットの戦いが勃発した。ドイツ軍とオーストリア軍は、毒ガスと砲撃などにより占領した後地に、塹壕の中にはイタリア軍兵士の死体が満載した。11月9日には、最後にはイタリア軍は崩壊してピアベ川を越えて後方に撤退した。約20万人以上のイタリア軍兵が塹壕から登り、ドイツ軍とオーストリア軍に向かって、白い旗で降伏した。イタリア軍の大敗は、イギリスとフランスの共同司令部にとり非常事態となった。イタリア軍が救護に間に合わないと、イタリア軍は戦争から撤退する可能性があった。イギリス軍とフランス軍は、ドイツ・オーストリア同盟の攻撃に耐えるように、激烈な西部戦線からイギリス軍5師団とフランス軍6師を増援した。
 カポレットの戦い全体で約17日間継続して、イタリア軍兵士は約13,000人が殺害され、約30,000人が戦傷し、約265,000人は同盟軍に降伏した。この割合は、人類の戦争の全歴史において非常にまれです。ドイツ軍とオーストラリ=ハンガリー軍は、犠牲はより軽微で、約5,000人が殺害あるいは行方不明で、約45,000人が戦傷した。第一次世界大戦において、イタリアは1915年5月23日にオーストリア=ハンガリー帝國に宣戦布告した。1917年後半までに、戦争の進展に変化がなく、死傷者は多くなり、相互の経済はひどく落ち込んだ。