2020年3月1日日曜日

長崎原爆で家屋が炎上して焼失した瓦礫の中に故人の名前と地区を記した墓標を肉親が立てた。

長崎原子爆弾が、1945年8月9日午前11時2分頃に投下されて炸裂した。長崎市内は、ほとんど壊滅状態となった。原子爆弾による爆心地からの激烈な爆風、熱射、放射線の暴発により、ほとんどの長崎市の市街地は炎上して壊滅した。家屋が炎上して焼失した瓦礫の中に故人の名前と地区を記した墓標を肉親が立てた。散乱する多数の白骨の中で、肉親の遺骨も同定が困難であり、せめて居住していた家屋の付近に一つの木製の墓標だけを土中に立て掛けた。原子爆弾の被爆後から長崎市内の各地に原子爆弾で被爆死した被爆者を弔う致し方ない粗末な墓標が見られた。被爆後の49日頃には慰霊の法要を行う地区もあった。


 長崎市原子爆弾無縁死没者追悼祈念堂に、原子爆弾による被爆死した不詳や行方不明の遺骨、故人が同定されるも引き取り手がない無縁死没者の遺骨を奉納している。1947年に城山町の有志により、駒場町に「原爆殉難死者納骨堂」が設置された。爆心地の周辺に散乱した多数の被爆死者の遺骨を収集し奉納した。その後に長崎県の各地などに散在した無縁仏の遺骨を引き取った。1958年に長崎市が岡町に「原子爆弾死没者慰霊納骨堂」を建立した。1994年に平和公園の工事により、岡町に現在に至る新たな長崎市原子爆弾無縁死没者追悼祈念堂に建て替えられた。
 

2020年2月29日土曜日

ベルリンの戦いの戦闘にて、1945年4月30日にソビエト軍の攻撃によりドイツ軍兵士の戦死者と戦傷者が路上に倒れ込んだ。

第二次世界大戦において、ベルリンの戦いの戦闘にて、1945年4月30日にソビエト軍の攻撃によりドイツ軍兵士の戦死者の死体が路上に倒れ込んだ。その横で戦闘に疲弊したソビエト軍兵士が寝込んだ。
 連合軍がノルマンディーに上陸してから2週間後の1944年6月22日に、ソビエト軍はドイツに対して侵略を開始した。10月16日にソビエト軍はドイツ国境を越えた。ソビエト軍は、アメリカ軍の前にベルリンを侵略するのを急いだ。ソビエト軍は、第二次世界大戦後の有利な交渉を追求した。アメリカ軍はベルリンの占領よりも、ソビエト軍に太平洋戦争で日本軍に対する共闘を求めた。
 1945年4月16日に、ソビエト軍は単独でドイツの首都ベルリンに対する最終攻撃を開始した。ベルリンを包囲しようとしたが、ベルリンへの急速な突破は実現しなかった。ベルリンの東約70kmに位置するゼーロウ高地(Seelow Heights)の戦いを通過するのに、4月16日から4日間と多くの犠牲者を伴った。4月21日に最初のソビエト軍部隊がついにベルリンに侵入した。市街戦となり、ソビエト軍は必死のドイツ軍の白兵戦の抵抗に直面した。西側の連合軍は1945年4月16日に空襲を停止した。ソビエト軍は、ベルリンでの地上攻撃を支援する空襲を続けた。激烈化した戦闘により、ナチス・ドイツの象徴であった国会議事堂を占領するのに、4月27日から4日間も要した。ソビエト軍が要塞化された内務省の建物を占領し、最終的に4月30日の夜に国会議事堂を占領して勝利の旗を掲げた。遂に1945年5月2日に、ベルリンのドイツ軍守備隊はソビエト軍に降伏した。ベルリンの戦いの犠牲者は莫大となった。ソビエト軍は80.000人以上の死傷者を、ドイツ軍は約50.000の死傷者を伴った。



2020年2月28日金曜日

アンネ・フランクは約2年間のナチス・ドイツ軍の大量虐殺の下で秘密の小部屋の生活を描いた。

アンネの日記は、1942年6月12日に、オランダの13歳のユダヤ人の少女であるアンネ・フランクは、誕生日プレゼントの日記を受け取った。アンネの日記は、赤と白の市松模様の日記であった。それから彼女の約2年間のナチス・ドイツ軍の大量虐殺の下での秘密の小部屋の生活を描いた。日記の末期でも「なぜなら今でも信じているからです。たとえ嫌なことばかりだとしても人間の本性はやっぱり善なのだと(1944年7月15日)」と記載して、8月1日に途絶えた。
  1939年9月1日、アンネが10歳のときに、ナチス・ドイツ軍がポーランドに侵攻して、第二次世界大戦が勃発した。間もなく、1940年5月10日に、ナチス・ドイツ軍はオランダにも侵攻した。ユダヤ人狩りから逃れるために、1942年7月6日からアムステルダムの3階の屋根裏の隠小家に合計8人で潜伏した。約2年後の1944年8月4日に警察官によって発見され、逮捕された。最初に、1944年9月6日にアウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所に移送された。
 1944年11月上旬に、アンネは、姉のマルゴと一緒にベルゲン・ベルゼン滞留収容所(下図)に強制送還された。滞留者が約5万人にも達して、密集して不衛生な栄養失調で、アンネは発疹チフスにかかり、姉のマルゴーの死の数日後の1945年3月31日頃に死亡した。ベルゲン・ベンゼン滞留収容所では4月15日にイギリス軍が開放するまでに約12万469人が虐殺された。父親のオットー・フランクがアンネの日記を編集したオランダ語の初版である「後ろの家」が1947年6月25日に出版された。




2020年2月27日木曜日

第2次世界大戦にてドイツ軍は、ユーゴスラビアのクラグイエヴァツの周辺で約2,700人のセルビア人住民を大量虐殺した。

第2次世界大戦にてドイツ軍は1941年10月21日に、ユーゴスラビアのクラグイエヴァツ(Kragujevac)で約300人の高校生徒と靴職人を含む見習いの約15人の少年、クラグイエヴァツとその周辺の約2,700人のセルビア人住民を大量虐殺した。クラグイエヴァツ市民自身に塹壕を掘らせて、膨大な虐殺された死体を土中の墓に積み重ねて埋めた。セルビア人の死体群を、土手の上からドイツ軍将校が見下した。
 ドイツ軍によるセルビア単独の占領に対して、1941年夏頃から勃発したセルビア人の蜂起に対して、残忍な措置が執行された。1941年10月16日にセルビア中央部のクラグイエヴァツの周辺で、ドイツ軍の歩兵連隊に対するセルビア人のパルチザンの攻撃で、約10人のドイツ軍兵士が殺害された。ドイツ軍は報復するために、殺害されたドイツ人数と殺害するセルビア人数を1対100の比率と、ドイツ人の負傷者数は1対50の比率の虐殺命令が宣告された。クラグイエヴァツ市民の無実の男性、女性、子供は、理由もなく、家や学校から連れ出され、路上で捕獲されて、虐殺された。射殺された約2,700人のうち、約301人の子供が虐殺されて、そのうち約40人が15歳未満であった。ある高校生は「撃て、私はまだ授業を続けている」と絶叫した。ドイツ軍によるセルビア人の大量虐殺が、逆にセルビア人を武装反乱軍に追いやった。


2020年2月26日水曜日

ナチス・ドイツ爆撃機がドイツ本土の都市フライツブルグに対して、突如に無差別に爆弾を投下した誤爆で約57人が殺害された。

第二次世界大戦にて、ナチス・ドイツ軍が1940年5月10日にベルギー、ルクセンブルク、オランダに侵攻を始発した。その当日5月10日に、ドイツ空軍がフランスの都市ディジョンを爆撃する戦略に、爆撃機はドイツ空軍基地から離陸した。フランスに向かえずに、行方不明となった爆撃機がドイツ本土の都市フライツブルグに対して、突如に無差別に爆弾を投下して空襲した。約69個に及ぶ爆弾が、空襲警報も鳴らずに、フライツブルグ駅の付近で落下して炸裂した。ナチス・ドイツ軍による無差別の空爆により、総計で約57人が殺害された。投下された爆心地は、ヒルダ遊び場の近くで、約20人の子どもらが、空爆によって爆死した。その他に、約13人の女性、約11人の男性、約11人の兵士が巻き込まれて死亡して、約150人が負傷した。ナチス・ドイツ軍は、連合軍による空襲のテロ攻撃であると転嫁して、非武装の市民を無差別攻撃と喧伝して、残忍な虐殺として非難して市民に復讐を誓わせた。直ちに、フライツブルグでの葬儀と破壊の残酷な映像がプロパガンダとして、ドイツ全土に流布させた。



2020年2月25日火曜日

日清戦争後に日本軍は侵略に反乱する台湾人を襲撃しては殺害して土中に積み重ねた。

日本軍は侵略に対抗する台湾人を残酷に弾圧した。1895年に日本軍は侵略に反乱する台湾人を襲撃しては殺害して土中に積み重ねた。1896年には、日本軍は台湾の台北の南門付近でも反乱する台湾人を掃討した。
 1894年7月25日からの日清戦争を終わらせるために、腐敗した清政府は、日本帝国主義の下で1895年4月17日に屈辱的な馬関条約に署名した。馬関条約の締結により、台湾は日本軍に占領された。日本が台湾に侵攻した後、最高統治機関として知事室を設置し、警察制度、司法制度、台湾の武装制度を確立および強化して、台湾人を弾圧した。台湾人の土地を奪って、経済的略奪を断行した。台湾人は、台湾が割譲された時から、日本の侵略と植民地支配に対抗する闘争を始めた。
 日本軍が1895年5月29日に台湾に上陸して、日本軍は台北を攻撃し始めた。台湾の有力者らは、日本軍の侵略と戦うため直前に、1895年5月25日に台湾民主国を設立した。台北地域における日本軍の侵略は、台湾人との乙末戦争にて破竹の勢いとなった。台湾人は劣悪な武装を使用して、1895年5月29日から10月21日まで日本軍と約5か月間戦った。日本軍約37,000人で死傷者は約5,321、台湾民主国軍約45,000人で死傷者は約14,000人の犠牲者に及んだ。
 台湾における日本軍の植民地支配は、主に軍隊、憲兵隊、警察によって、台湾社会と台湾人を支配して維持した。1897年には、警察法を策定して、山間地域の法律と秩序は軍隊と憲兵隊が担当して、村の法律と秩序は警察が担当して、山間と村の間では警察と警察が共同で担当を定めた。まず、日本から募集された最初の700人の警察官は1896年に台湾に到着した。台湾人の抗日武力抗争は1915年までに収束して、それ以後は抗日社会運動が展開された。


2020年2月24日月曜日

第一次世界大戦終結前にオーストリア第一共和国を宣言した国民議会を襲撃した武装民兵と共和国軍との銃撃戦で犠牲者が出た。

第一次世界大戦の終結にて、オーストリア=ハンガリー帝國は1918年11月3日に休戦して11月10日に帝國皇帝が退位した。オーストリア共産党による社会的反乱が数回燃え上がった。 1918年11月12日にドイツ系オーストリア国民会議が第一共和国を宣言した。国民議会を襲撃したレッドガードの武装民兵は、共和国軍との銃撃戦があった。共和国軍と共産党デモ参加者が、ウィーン大学前でも武力衝突した。銃撃戦となり共産党デモ参加者が銃殺された。1919年4月17日と6月15日のクーデターも未遂となった。1919年2月に、第2都市のグラーツでも暴動が起きた。
 オーストリア共産党(KPÖ)は、1917年10月25日のロシア10月革命から世界最古の共産党の1つとして、1918年11月3日に正式に設立さた。第一次世界大戦中の連合国軍の海上封鎖により、大戦末期になるとオーストリアで物資から燃料不足と食料不足から飢餓が発生し、各地で労働者の抗議運動が生じた。抗議行動には1918年のイェーナシュトレイクなどのストライキも含まれた。オーストリア労働者運動の左翼がKPÖを結成した。レッドガード(Rote Garde)武装民兵が形成されて、すぐに人民防衛軍(Volkswehr)に統合された。1918年11月12日に、オーストリア共産党はクーデターを試みが、専門的に組織化されておらず、数時間のうちにクーデターは敗北した。
 ナチス・ドイツと1938年3月にオーストリアは合邦となり約7年間も支配された。3月12日にドイツ軍の侵攻に対して、オーストリアは迎合した。ナチス・ドイツは、オーストリアの政敵を粛清して、ナチ党に勧誘して、ユダヤ人の迫害を強要した。


2020年2月23日日曜日

ベトナム戦争にて、8歳の農民の娘が1964年にビンディン省で狙撃されて殺害され、父親が死体を抱きしめて慟哭した。

ベトナム戦争において、ベトナム人の8歳の農民の娘が、1964年にビンディン省で狙撃されて殺害された。殺害されて死後処置された8歳の娘の死体の頭部を抱きしめて、ベトナム人の父親の農民は慟哭しながら道端で喪に服した。ビンディン省は、ベトナムの中央部で南シナ海に面している。
   ベトナム人にとり生まれた故郷は、原則として、可能な限り死の時期が近づいたときにそこに戻るべきだと感じている。ベトナム人は故郷の村を、que cha, que me, dat toと呼ぶ。それぞれ、que chaは父、que meは母、dat toは祖先の土地の発祥地を意味した。これらの呼称は、ベトナムの祖先または祖国という用語に類似した広い意味も持った。ベトナム人の祖先の墓は、彼らの家と畑が占める同じ土地にあった。ベトナム戦争中に執行した鎮圧作戦中に適用された焦土作戦は、西洋の意味では教会の冒涜よりもさらに深刻な屈辱となった。ベトナム南部の何千もの村と村落では、政略的戦闘が日々さまざまな形で発生した。または紛争地域では、異なるアメリカ軍と南ベトナム軍の軍事活動が、政略的戦闘が採用された。単一の村では、特定の日にさまざまな形態の政略的戦闘が同時に展開された。
 アメリカ軍の消耗戦争とその鎮圧作戦はベトナム戦争で惨めに失敗し、南ベトナム開放戦線(ベトコン,NLF)が南部の農村地帯の大部分を支配できた。北朝鮮に対する爆撃の停止と引き換えに、南部におけるベトコン攻撃を中止することを応じるように、1967年を通じて、前例のないレベルまで猛烈な北爆を執行した。アメリカ軍の主要な敵と問題は、北ベトナムではなく南ベトナム領域にあることを、アメリカ軍に気が付かせるために、南の都市部に対するテト攻撃が1968年に展開された。1968年のベトナム正月に開始されたため、南ベトナム側ではテト攻撃と呼び、アメリカ軍は、北ベトナムへの爆撃を中止させられて、南ベトナムにおける虐待と虐殺に追い込まれた。


2020年2月22日土曜日

広島原爆の救護所が8月12日に竹やぶの中でも被爆者が搬送され救護された。

広島原子爆弾が1945年8月6日に投下されて炸裂してから、広島市三滝町に臨時救護所が設置された。8月12日に竹やぶの中にも被爆者が搬送されて救護されていた。救護所、応急処置所、避難所、収容所など機能を特定するのは困難であった。三滝町は、広島原爆の爆心地から約2.5kmに位置した。三滝橋付近には広島第2陸軍病院の三滝分院が、8月6日に設営されて約700人の被爆者を収容していた。爆心地から約半径2km以内ではほとんど家屋が全焼していた。多くの被爆者が道路の両側にいっぱいに倒れて原爆死していた。しかも、死体が約70cmの高さで、両脇に積み重ねられた。どうにか動ける被爆者たちが病院や救護所を求めて避難された。その途中に力尽きて倒れて死亡した。死体が道を塞ぎ通れないため、人々が死体を両側に寄せて積み重ねた。やっと大八車1台が通るほど道幅が狭くなった。
 25歳の女性は、8月6日の夕方に地獄の広島市内から歩けぬ人々を励ましながら、やっと三滝近くの線路土手にたどり着いた。三滝橋を渡ると、太田川放水路の南方の猛火の町と太田川の死体は散乱して漂っていた。己斐方面から歩いて来た男性がそばに来て「広島は大変なことになったけども、助かった今の命をどんな時にでも大切にするんだよ」と私達を励ました。「これをあげます。」と云って、私の水筒にサイダーを入れかえてもらった。死体を前に生き地獄で見た男性からビスケットもたくさんもらった。人情に唯々嬉しく涙こぼれてお礼を申し上げた。広島原爆で亡くなられた人々に合掌した。


2020年2月21日金曜日

第二次世界大戦の緒戦で、イギリス海軍はフランスのダンケルク戦艦に対する砲撃で、甲板上にフランス軍兵士の死体が散乱した。

第ニ次世界大戦の西部戦線の緒戦にて、1940年7月6日にイギリス海軍によるフランス海軍のダンケルク戦艦に対する砲撃後には、甲板上では多数のフランス軍兵士の死体が散乱した。ダンケルク戦艦では、約210人のフランス海軍兵士が殺害された。
 ナチス・ドイツ軍の電撃戦により、6月4日にダンケルクの戦いでイギリス軍とフランス軍が撤退して、6月22日にフランスは占領されて降伏した。イギリスは本土と海上の防衛のために、フランス海軍の艦隊をナチス・ドイツ軍に占拠されないようにメルセルケービル海戦で壊滅した。イギリス海軍はフランス海軍の戦艦を一部を壊滅しただけで、逆にフランス国内はイギリス軍による連合軍の裏切りとして強烈な不信感と不満が溢れた。フランスは7月8日にイギリスと国交断絶した。7月13日にヴィシーでフランス第三共和国を設立してイギリスと対立した。  
 1940年7月3日の夕方にイギリス海軍は宣戦して、フランス海軍の戦艦に対して、メルセメケービル海軍基地で海戦が勃発した。イギリス海軍の巡洋艦がオラン付近で、武装解除されていたフランス海軍の戦艦を攻撃した。短時間の海戦で命中した約36個の砲弾で、約1,297人のフランス海軍兵士を殺害した。それ以降は、イギリス軍とフランス軍の間の衝突が増大した。イギリス遠征軍は、早期にフランス国内からの撤退の対象となった。フランス海軍兵士は、ダンケルク戦艦からの救助の対象から除外された。ナチス・ドイツ軍らの枢軸軍がフランス艦隊を占領して、イギリス軍は深刻な脅威にさらされないように、フランス艦隊を壊滅した。