2019年11月2日土曜日

ブナ・ゴナの戦いの最終段階で、多数の日本軍兵士の死体がニューギニアのブナ海岸の波に横たわった。

ニューギニアの戦いで、北海岸の約16マイル(約25 km)に沿って、西はゴナ、東はブナ、中央はギルワ(サナナンダ)の3つの重要な軍事拠点があった。1942年11月16日から、アメリカ軍とオーストラリア軍は、ニューギニアで日本軍が占領する主要な海岸、ブナ、 ギルワ(サナナンダ)、ゴナを攻略した。ブナ・ゴナの戦いの最終段階で、多数の日本軍兵士の死体が1943年1月にブナ海岸の波に横たわった。 その背後には、破壊された上陸船があった。
 アメリカ軍は、ニューギニアのブナを占領した日本軍に甚大な損害を負わせた。ニューギニアのパプア地域における日本軍の最後の抵抗地点であるブナの戦いの海岸に、殺害された日本軍兵士の死体は、破壊された着陸船から近距離で散乱した。日本軍はこの戦闘で重度の損失を被り、最終的にアメリカ軍とオーストラリア軍によって完全に占領された。浜辺での多数の日本軍と連合国の死体から蛆虫が繁殖して、ブナは「Maggot Beach(蛆虫の海岸)」と別称された。
 ブナ海岸で死んだアメリカ軍兵士の死体の写真は、第二次世界大戦中にライフ誌で初めて発表された。ルーズベルト大統領は、アメリカ国民が戦争の犠牲に慣れることを恐れた。アメリカ政府は、戦争の初期は一般国民の人々の士気を低下させるために、写真の公開を禁止した。オーストラリアでは、ダグラス・マッカーサー司令官は、特派員に公式許可なしにインタビューを行った兵士を軍法会議にかけると脅した。
 太平洋戦争の勃発から21ケ月経過して、ルーズベルト大統領がその公開を承認した後に、ライフ誌の1943年9月20日版で3人のアメリカ兵がブナビーチで死んだブナ・ゴナの戦いの写真の公開できた。ルーズベルト大統領と国防省らは、アメリカ人が自分たちの少年たちが戦場に戦死したことを見るべきと決定した。






2019年11月2日 
Japan No War (JNW) 日本平和の市民連盟 視聴回数 320,000回

2019年11月1日金曜日

ポーランド人により虐殺された8人のドイツ人女性の死体が、ブロンベルグの近郊のグリンケに散乱した。

ポーランド人により虐殺された8人のドイツ人女性の死体が、ブロンベルグの近郊のグリンケに散乱した。ポーランド侵攻の2日後の1939年9月3日「ブルンベルグ血の日曜日(Bromberg Bloody Sunday)」事件で約5,347人のドイツ人が殺害された。血の日曜日では、イエズス会教会の牧師たちが暴徒に武器を配った。ポーランド人は教会に行く前に、隣人のドイツ人に挨拶して、教会の後に発砲した。家や地下で射殺されなかったドイツ人は、他のドイツ人と縛られて、様々な方法で拷問、切断、殺害された。何日もの間、死体まだ畑や中庭や庭、あるいは彼らの家の前に横たわり、小枝や葉だけで覆われて、表面的に埋められた。死体は何日もの間、野原、庭や庭、家の前に横たわり、多くの場合枝と葉だけで覆われるか、浅い墓に埋めた。死体の多くは、街路に沿って2つまたは3つに集積された。犠牲者の多くは、後になって遠く離れた場所で発見された。
 ポーランド軍とボルシェビキ部隊は、1939年にダンツィヒ回廊にて約58,000人のドイツ人を虐殺した。少なくとも1939年4月からポーランド人は無差別にドイツ人を虐殺した。ナチス・ドイツ軍がポーランド侵攻に至るまでに、ドイツ軍はすぐに打倒できると確信したポーランド人とロシア内務人民委員部(NKVD)とユダヤ人らは、多数のドイツ人を大量虐殺した。1939年9月1日のナチス・ドイツ軍のポーランド侵略以前からの虐殺であり、推定では約58,000人のドイツ人市民が虐殺された。ポンツ、ロッツ、ワルシャワ郊外のドイツ人農民を殺害し始めた。ドイツ人の子供たちは納屋に釘付けにされ、女性は強姦され、侵入してドイツ人は処刑された。1939年9月3日のブロンベルグの血の日曜日事件は、殺人乱交の恐ろしい結末であり、ドイツ民族に対するポーランドの全滅キャンペーンの集大成であった。1939年のダンツィヒ虐殺は、ナチス・ドイツにポーランドを攻撃するための完璧な口実を与えた。ナチス・ドイツはポーランドの侵攻を、ドイツ国民に対して正当化した。「血の日曜日」という用語は、ナチス・ドイツのプロパガンダによって作成されて支持された。
 ブロンベルグとその周辺では、ポーランド人の殺人集団は、避難できなかった数千人のドイツ人を虐殺した。ポーランド人の襲撃隊が地域に居住したリストを持っていた。犯罪が容認されただけでなく指示された。殺人集団は、ドイツ系民族の家を捜索し、捕獲するか、その場で射殺した。ポーランドの聖職者は、1939年7月3日にポーランドの教会当局の命令によりドイツ語でのカトリック教会の礼拝が禁止された。司祭は教会の礼拝中にポーランド人がドイツ人を絶滅するように扇動した。血の日曜日に、イエズス会教会の聖職者が暴徒に武器を手渡した。ポーランド人が教会に行く前にドイツ人の隣人に挨拶し、教会を出た後にはドイツ人を撃った。家や地下室で撃たれなかった人は、束縛されるか、他の人に縛られ、街から連れ去られ、あらゆる方法で虐待され、切断され、殺害された。ポーランド軍隊でさえ、束縛されて捕縛されたドイツ人の殺害に参加した。


2019年10月31日木曜日

スペイン内戦時の首都マドリードの街頭戦で犠牲となったマドリード市民らの死体群が路上に散乱した。

スペイン内戦時の首都マドリードの街頭戦で犠牲となったマドリード市民らの死体群が路上に散乱した。その多数の死体を市民らが、街路から担ぎ出して処理した。マドリード攻防は、1936年11月8日から1939年3月28日まで継続した。
   反乱軍は、最も猛烈な攻撃により首都マドリードを1936年11月8日に侵略した。11月17日に午後には、約2,000発の爆弾がマドリードの中心部に投下された。榴散弾がスペシン広場などで炸裂した。焼夷弾が市民の居住地を炎上した。さらにドイツ群の爆撃機が、火災の焔を手がかりにして、一波に約12機で飛来して、爆弾を大量に投下した。マドリードには、防空壕も対空砲もほとんど皆無であり、甚大な犠牲を伴った。
 1936年7月17日に、左派の反ファシズム派である人民戦線政府に対して、フランシスコ・フランコ将軍が反乱を起こして、スペインは内戦状態に陥った。右派の反乱軍側がドイツやイタリアと日本などのファシズム政権から軍事援助を受けた。人民戦線側もソ連から武器を供与され、第2次世界大戦の前哨戦となった。近代兵器による戦争が、スペイン人同士の内戦によって勃発した。人民戦線側には反ファシズムを支持する約60,000人の国際旅団などの義勇兵も加わった。武力に勝る反乱軍側が有利に戦いを進めて、1939年3月にはマドリードが陥落して、1939年4月1日に内戦は反乱軍側の勝利で終結した。



2019年10月30日水曜日

ナチス・ドイツ軍は、1942年5月7日にベラルーシ共和国の首都ミンスクの路上で、約28人のユダヤ人らを絞首刑にした。

ナチス・ドイツ軍は、1942年5月7日にベラルーシ共和国の首都ミンスクの路上で、約28人のユダヤ人らを絞首刑にした。インデペンデンス街路とエンゲルス通りとの交差点で、抵抗勢力のユダヤ人らが絞首刑にされた。通りがかったドイツ人市民と役人が、絞首刑されたユダヤ人の死体を見上げた。さらに約250人が射殺された。カジッツ・イサイ・パブロビッチら約28人は武装抵抗による射撃で、数人のゲシュタポ将校を負傷や殺害したが、3月28日に逮捕されていた。
 ドイツ軍は、1941年6月23日に首都ミンスクを空爆して、6月27日に侵入した。建物が燃え上がり崩壊して、市内には死体が散乱した。占領直後にドイツ軍は15歳から45歳までの約40,000人ものすべての男性を登録した。ミンスク郊外のドロッディの畑で、ユダヤ人、赤軍人、非ユダヤ人民間人の3群に隔離された。非ユダヤ人を釈放して、数千人の知識階層のユダヤ人全員を、近くの森に連行して、機関銃で射殺した。1941年11月7日に約12,000人と11月20日に約5,000人のユダヤ人が、トゥチンカに連行されて殺害された。
   ナチス・ドイツ軍が占領しても、ミンスクの住民は、ユダヤ人迫害に関して無関心であった。ミンスクの人口約238,948のうちベラルーシ人は約51.9%で、ユダヤ人は29.7%も占めた。ミンスクはユダヤ人労働運動が発祥し発展した都市の1つでもあった。ベラルーシ人市民自身によるユダヤ人の浄化運動であるポログロムはほとんど発生しなかった。ドイツ軍は、ミンスクの北西部に、少なくとも約85,000人のユダヤ人を隔離居住区として最大のゲットーに強制居住させた。そのゲトー内で、ユダヤ人が抵抗運動の地下組織を結成した。非ユダヤ人とパルチザンとの連携も構築された。



2019年10月29日火曜日

23歳のベトナム人の男性は死ぬまで一生を、枯葉剤による病気と障害を伴ってしまう。

ハノイ平和村には、ベトナム戦争にてアメリカ軍の枯葉剤散布の後遺症で、2008年に23歳の青年が、ベッド上で寝たきりとなった。全身の奇形と変形、神経障害、臓器障害などで完全な要介護状態となった。23歳のベトナム人の男性は死ぬまで一生を、枯葉剤による病気と障害を伴って過ごす。ベトナムの首都ハノイ郊外のタイスワン地区には、枯葉剤の被害者の治療施設であるハノイ平和村がある。入所希望者が殺到して、定員の約1,000倍にも達する。ベトナムは1975年にベトナム戦争が終結してから約15年経過した1990年頃からやっと枯葉剤の全国調査が開始された。
 ベトナム戦争にて、アメリカ軍はベトナム中部から南部にかけて、非人道的な化学兵器となる膨大な枯葉剤を田畑地域や森林地帯に散布した。およそ約90,000キロリットル、散布面積は約2,400,000ヘクタールにも及んだ。1961年から1971年まで約10年間も散布された枯葉剤によって、植物だけでなく、生態系まで崩壊した。早朝に油の匂い嘔吐する枯葉剤の白煙を散布されると、夕方には植物はすべて枯れ落ちた。無差別な枯葉剤の散布によって、ベトナム人の被害者は約300万人にも達した。遺伝子にも異常な影響を受けて、胎児には先天異常である結合双生児、単眼児、無脳児などの重度の奇形なども伴った。
 アメリカ軍が散布した枯葉剤の主成分はエージェント・オレンジの製造過程で、高濃度の猛毒のダイオキシンが混在する。ダイオキシンは、人類史上で最も毒性が強い合成化合物である。わずか約80gのダイオキシンで、約700万人を殺害される。わずか約10億分の1gでも先天異常や異常出産を誘発させる。ダイオキシンは簡単に分解されず、脂溶性で脂肪に残存する。食物連鎖により、小動物から大動物へと濃縮されて、体内に蓄積する。神経から臓器までも侵害して、悪性新生物の発症、遺伝子までも破壊されて子孫まで悪影響が出る。
 枯葉在の被害者は、ベトナム人だけでなく、ベトナム戦争に従軍したアメリカ人、韓国人、台湾人、オーストラリア人らにも拡散した。アメリカの国内法では、戦争中の被害は国を訴えることが不可能である。1980年代に約16,000人のアメリカ軍帰還兵が、枯葉剤の被害補償を製薬メーカー7社に提訴した。1985年に裁判所が製薬会社に約1億8,000万ドルの和解金を提示して、責任の所在が不明瞭となった。ベトナム枯葉剤被害者の会は、2004年と2007年にニューヨーク連邦地裁に提訴したが、2005年3月と2009年にも却下された。



2019年10月28日月曜日

ソ連軍がウクライナの首都キエフを1943年11月6日に解放時に、ミハイロフスカ通りにユダヤ人の遺体が散乱した。

ソ連軍がウクライナの首都キエフを1943年11月6日に解放した。ミハイロフスカ通りにユダヤ人の遺体が散乱していた。ナチス・ドイツ軍は、キエフを1941年9月11日から約2年間も占領してユダヤ人と住民を大量虐殺した。キエフ北西部に約3.2kmのバビ・ヤール渓谷の虐殺は、歴史上で最大のユダヤ人の大量虐殺の地点となった。
 1939年以前にソビエト連邦の地域では、ユダヤ人の大量絶滅は、ナチス・ドイツ軍は、地域の占領後すぐにユダヤ人の大量虐殺が執行された。キエフでは、ナチス・ドイツ軍かが占領した1941年9月19日から29日までのわずか10日間で、ユダヤ人住民は大量絶滅に襲われた。バルバロッサ作戦の前夜に、ドイツが占領したポーランドの領土からの難民を含む約23万人のユダヤ人がキエフに在住していた。1941年9月19日にドイツ軍がキエフを占領した時、多くのユダヤ人が前線に徴兵されて、避難または脱出した後に、都市にはまだ約6万ものユダヤ人が残存していた。ほとんどは、女性、子供、病人、高齢者であった。
 ドイツ軍による占領した数日後の9月24日に、ソ連軍の分遣隊がキエフの中心部であるクレシャティクの建物を爆破した。9月26日に爆破の責任と罰として、キエフのユダヤ人に報復した。キエフとその周辺のすべてのユダヤ人に、1941年9月29日月曜日の午前8時までに指定場所に強制集合を命じた。ユダヤ人に激しい敵意のある地元のウクライナ人警察は、ユダヤ人をキエフ郊外のバビ・ヤール渓谷に連行した。ナチス・ドイツ軍により9月29日と30日の2日間で約33,771人のユダヤ人がバビ・ヤール渓谷で虐殺され埋められた。潜伏していた約17,000人ものユダヤ人が、10月1日から3日にもバビ・ヤール渓谷で虐殺され埋められた。1941年11月には、セント・シリル精神病院の約300人のユダヤ人患者も、バビ・ヤール近郊の果樹園で虐殺された。
 1943年8月に、キエフでユダヤ人の大量殺人の証拠を隠滅する1005作戦が開始された。シレック収容所の男性囚人のユダヤ人と非ユダヤ人は、バビ・ヤール渓谷で膨大な犠牲者の遺体を掘り起こし焼却した。1943年9月29日に約327人の囚人は反乱を起こし逃亡した。逃げて生き延びたのはわずか約18人で、残りはすべて射殺された。





2019年10月27日日曜日

ポル・ポト派のクメール・ルージュにより虐殺された骸骨が、チェンエク処刑場博物館で極悪な非情さを展示した。

ポル・ポト派のクメール・ルージュによる罪なき市民らの虐殺された頭蓋骨、骸骨が、チェンエク処刑場博物館で展示されて、極悪な非情さを示した。カンボジアの首都であるプノンペンから南西約15kmに位置するチェンエク村に、クメール・ルージュの秘密刑務所部局S21(mandir S 21)で拷問を受けた囚人たちが、1977年から1979年まで夜間にトラックで運搬された。刀や剣類で、後頭部への鍬の一撃で殺害された。約20,000人ものカンボジアの住民が死刑となり、死体が共同墓地に投げ込まれた。1979年に侵攻したベトナム軍により発掘されて、保護措置された。非行の死の記憶として処刑場博物館が1988年に整備された。共同墓地から死体を掘り出して、約9,000人もの頭蓋骨が、一連の木床に段々に並べて約10mもの高さに及んだ。カンボジアにおける大量虐殺の処刑場は、キリング・フィールドとも呼称された。囚人は24時間待機した後、頭部に一撃で殺害されて、その後喉元が切断された。赤ちゃんは頭を木にぶつけて殺害された。男性用、女性用、子供用に別々の86の集団墓地があり、そこから8,985人の男性、女性、子供がクメールス・ルージュの解放後に発掘された。頭蓋骨、骨、衣服の一部は近くの巨大な仏塔に保管された。外国人の死体は、骨を残さないように焼失した。
 秘密刑務所部局S21(mandir S 21)は、カンボジアのクメール・ルージュの拷問絶滅施設であった。1979年1月に、ベトナム軍がプノンペンに侵入して拷問施設を開放した。切断された死体が、床や金属ベット上に放置されていた。鉄格子、独房、鉄鎖などが虐待と虐殺の痕跡となった。暗号S21の秘密裏な代表的な施設は、地名からトゥール・スレンと呼称されている。1976年から1979年にかけて約20,000人が収容されて、生還者は約12人のみであった。



2019年10月26日土曜日

第一次世界大戦後のギリシア・トルコ戦争にて、トルコ軍によって虐殺されたギリシア軍兵士の多数の死体が原野に放置された。

第一次世界大戦の終結後に勃発したギリシア・トルコ戦争によって、1922年にトルコ軍によって虐殺されたギリシア軍兵士の多数の死体が原野に放置された。トルコ人農民が、荒野に散乱したギリシア人の死体を通り過ぎた。
 第一次世界大戦の終結に1918年10月30日に同盟国であるオスマン・トルコ帝国は、連合国と休戦協定を締結して降伏した。オスマン・トルコ帝国から1830年に独立したギリシアは、降伏後にギリシア人居住地の併合を挙行した。1919年5月15日にギリシア・トルコの戦いが勃発すると、キリスト教徒とイスラム教徒が相互の残虐行為が激化した。トルコの海岸都市のスミルナに上陸したギリシア軍は、武器を持たないトルコ人を大量虐殺した。トルコ軍は、ギリシア正教会の村人を念入りに焼き払い、ギリシア人を虐待して虐殺した。
 1921年3月23日にギリシア軍は、トルコ内陸部のアナトリア侵攻するも、トルコのケマル軍によって直ちに撃退された。ギリシアは6月22日に連合国の調停を拒否した。7月10日にギリシア軍は、トルコに再侵略した。ギリシア軍はサカリア川を渡河すると、補給を絶たれて、9月14日に再撤退した。ギリシア軍は、1922年8月26日にトルコ軍にギリシア軍の南部戦線を撃退されて撤退した。ギリシア軍のトルコからの撤退により、宗教と民俗主義によるトルコ軍の復讐により、特にギリシア人地区とアルメニア人地区で大量虐殺が勃発した。1922年にトルコから約150万人ものギリシア人難民が避難した。10月11日に休戦協定が合意された。11月にトルコ大国民会議がスルタン制を廃止して、約500年間も中東を支配したオスマン・トルコ帝国が崩壊して、1923年にトルコ共和国が建国された。1923年のローザンヌ条約による講和により、宗教と民族の交換をして、トルコからギリシアに約110万人のキリスト教徒、ギリシアからトルコに約38万人のイスラム教徒は、移民交替を強要された。



2019年10月25日金曜日

日本軍による空襲により、広東の多数の子どもが犠牲となり、死体が道端に並べられた。

日中戦争にて、1938年の夏に、日本軍は広東と武漢に猛烈な爆撃をして、市内は崩壊した。日本軍は、広東省広州市を1937年8月31日から10月21日まで、日本軍の爆撃機は約56回に及ぶ爆撃した。1938年初頭には日本軍爆撃機は連続10日間の爆撃を敢行した。広東省広州市の爆撃による死者は約7000余人にも達して、甚大なる爆破を受けて焼失した。無差別な爆撃により、市民を含む多数の死傷者が出た。日本軍による空襲により、広東の多数の子どもが犠牲となり、その死体が道端に並べられた。日本軍による無差別な都市爆撃に対して、日本は列国から国際的非難を受けた。
 1938年4月に大本営は徐州での軍事作戦を命じ,5月19日に徐州を占領,華北と華中をつなぐ要衡ルートをつくりあげた。徐州作戦に続き大本営は武漢と広東を攻略する積極方針をとり,華北,華中から華南へと中国全土制圧に向けさらに踏み込んだ。10月21日には広東を,11月には漢口など武漢三鎮を占領した。この武漢作戦で日本軍は秘密裏に毒ガスを使用した。約50万人にも及ぶ日本軍兵士が中国に送られ,戦死者と戦傷者の数が激増した。日本海軍は香港近海の萬山群島を海上封鎖し、4月に三灶島を占領して第六航空基地を建設し、中国本土に向けて爆撃を繰り返した。10月21日には広東が陥落し、12月には香港に隣接する深圳も陥落して、香港には大量の難民が押し寄せた。1937年12月に日本軍が南京国民政府を侵略するも、ますます戦線が拡大した。1938年10月に広東と11月に武漢を攻略するも、大兵力をつぎ込むほど犠牲者が増す果てしなき日中戦争に陥った。


2019年10月24日木曜日

日中戦争における南京大虐殺の写真は、上海市公文書館により解放日刊紙に掲載された。

日中戦争における南京大虐殺の写真は、上海市公文書館によって提供されて、1982年8月6日の解放日刊紙に掲載された。日本軍の兵士による虐殺、強姦、略奪された。写真は旧フランス租界の監督局のものであると掲載された。撮影された時間と場所の詳細は不明である。1945年に日本が降伏した直後に、南京大虐殺に関する日本の軍事記録のほとんどが破棄された。大虐殺の死者数を正確な推定は不可能となった。極東国際軍事裁判東京では約20万人以上と1946年に推定した。中国は公式に、1947年の南京戦争犯罪法廷に基づき約30万人以上と推定した。1980年代以来、死者数は論争されて、政治問題となり日中関係の障害となっている。日本歴史的否定主義者と日本民族主義者は、中国政府は日本軍による死者数などの虐殺の側面を誇張するプロパガンダと主張している。虐殺を取り巻く論争は、韓国などの他のアジア太平洋諸国との日本の関係にても中心的な問題であり続けている。
 1937年12月13日に日本軍が南京を侵略してから、1938年2月初旬までの南京大虐殺によって、多数の中国人が虐殺された。死体は川の近く、木立の近く、肥溜めの穴の近くにも散乱していた。家の痕跡の中には焦げた死体があった。多数の死体がすべて完全に腐敗して、後から戻った人々は肉親の死体の遺体を回収しながら泣き回った。何もないので、両親の死体を草のマットで巻き上げて、燃え尽きた家の廃墟の近くに埋めた。
 日本軍兵士が突入したとき、部屋の周りには、屋根裏部屋、ベッドの下、ストーブの後ろを除いて、隠れる場所はなかった。ベッド下に身を潜めるも、すぐに銃剣で殺害されて床に転落した。屋根裏部屋の人々も次々と銃剣で殺害された。ストーブの後ろから衝動的に逃げるも、日本軍兵が隠れ場所に戻る姿を見ると背中から刺殺された。日本軍兵士たちは、銃剣で両親の心臓を貫通して刺殺した。息子は頭部と右肩を銃剣で刺されて、意識を失った。息子は、真夜中に意識を取り戻した。彼の頭、首、肩からも出血して、下半身はすでに死んでいた両親の血液でべとついた。日本軍兵はまだ周辺で掃討していた。夜明けを待つ間に、出血を止めるために灰をこすりつけた。銃剣は彼を鎖骨の下に突き刺し、重要な臓器の貫通を逃れて、失血は致命傷にならなかった。部屋を調べると、他の約12人が死んでいるのを見た。