2026年3月22日日曜日

日露戦争にて倒れている人物は、行進する本隊に先んじて犠牲になった兵士、あるいは敵方の兵士である可能性があり、戦場の過酷さを象徴した。

 満州を行進するロシア軍の兵士の軍装と装備は、当時のロシア帝国陸軍の特徴である。兵士たちは横隊を組み、荒涼とした満州の平原を前進しています。倒れている人物は、行進する本隊に先んじて犠牲になった兵士、あるいは敵方の兵士である可能性があり、戦場の過酷さを象徴すした。日露戦争において、ロシア軍はシベリア鉄道を利用して膨大な兵力を満州に送り込みました。

 1904年8月30日。旅順の日本軍への陥落は目前と見られる。日本軍は周辺の要塞をすべて占領し、旅順の北東約250マイルに位置する遼陽の北側で、シベリア横断鉄道を事実上遮断した。港内では、本土からの魚雷攻撃や砲撃により、ロシア戦艦3隻が沈没しつつある。2万2千名を超える日本軍の増援部隊がまもなく旅順に到着する見込みだ。市内に残存する少数のロシア軍は、勇敢ではあるが結局は無益な突撃を敢行すると予想される。これらの損失は、今月初めのクロパトキン将軍率いる軍団の敗北と相まって、ロシアにとって壊滅的な打撃となった。

 日本軍の勝利は、奇妙な新戦術によるものかもしれない。夜間攻撃によりロシア軍は混乱に陥った。探照灯がロシア軍の野営地に集中照射され、兵士たちは目くらましを食らい、恐怖に陥った。日本軍は、戦略的施設をロシア軍の手に渡すよりは破壊することを選んだ。遼陽郊外では、ロシア軍が撤退した後、橋を焼き払い、鉄道駅を砲撃した。日本軍の戦略はあまりに不可解なため、ロシア軍将校たちはいかなる作戦も立案できなかった。ロシア軍が戦闘に勝利したとしても、その成果はほとんどなかった。日本軍の捕虜たちは自殺することで、ロシア軍に満足感を与えることを拒んだ。8月10日。ロシアの戦艦アスコルドは安全を求めて北へ航行し、旅順港を日本の征服者に委ねた。鉄道橋の崩落で数十人が死亡した。




2026年3月21日土曜日

二人の死んだ傭兵を前に、勝ち誇り悦に浸るシムバたちという描写は、それまで白人の兵士は無敵であると信じられていた神話が崩れた瞬間を象徴しています。

  二人の死んだ傭兵を前に、勝ち誇り悦に浸るシムバたちという描写は、それまで白人の兵士は無敵であると信じられていた神話が崩れた瞬間を象徴しています。シムバたちは呪術的な儀式によって自分たちは弾丸を通さないと信じており、敵の死体である特に恐れられていた白人傭兵の死体を晒し者にすることで、自らの正当性と力を誇示した。

 1960年代のコンゴ動乱(コンゴ危機)における凄惨な一場面を切り取った写真のキャプションです。冷戦下の地政学、アフリカの脱植民地化、そして「傭兵」という存在が持っていた狂気的な側面が凝縮されている。アルバートビル(現在のカレミ)への攻撃は、このシムバの反乱を鎮圧するために投入された傭兵部隊の初陣を指しています。

 コンゴ動乱とシムバの反乱は、1960年、ベルギーから独立した直後のコンゴ共和国(現コンゴ民主共和国)は、激しい内戦に突入し、コンゴ動乱が勃発した。1964年、東部でルムンバ主義(左派・反欧米)を掲げる武装勢力が蜂起した。彼らはスワヒリ語でライオンを意味する「シムバ(Simba)」と呼ばれ、急進的な反帝国主義を掲げてコンゴ東部の大部分を制圧しました。

 当時の傭兵の多くは、第二次世界大戦を経験した元兵士や、人種隔離政策下の南アフリカ、ローデシアから来た白人たちでした。彼らは「共産主義の浸透を防ぐ」という大義名分のもと、高額な報酬を目当てに戦場へ赴きました。しかし、彼らの実態は多分に無秩序で、現地住民への虐殺や略奪を繰り返すなど、極めて悪名高い存在でもありました。

  アルバートビルでの敗北と「歓喜するシムバ」は、前半にある「lakebourne attack(湖からの強襲)」は、タンガニーカ湖を渡ってアルバートビルを奪還しようとした作戦を指します。しかし、この初戦は傭兵側にとって悲惨な失敗に終わりました。

  キャプションの後半に登場する「ジークフリート・ミュラー」は、コンゴ動乱において最も象徴的かつ不気味な人物の一人です。彼は常に第二次世界大戦時の「鉄十字勲章」を胸に帯用し、ビールを飲みながら冷酷に戦況を語る姿がドキュメンタリー映画『アフリカのさらば(Africa Addio)』などで紹介され、世界中に衝撃を与えました。

「死んだ部下の墓を自ら掘り、装飾した」という記述からは、戦場における彼の奇妙な騎士道精神、あるいは死に対する耽美主義的な執着が読み取れます。彼は傭兵を単なる金目当ての集団ではなく、一種の「エリート戦士団」として演出しようとしましたが、その実態は凄惨な殺戮の連続でした。

「The Photo Source」「Agence Dalmas」といったクレジットは、この光景がメディアを通じて世界に配信されたことを示しています。コンゴ動乱は、戦場カメラマンが凄惨な死体や処刑の場面を至近距離で撮影し、それが週刊誌などを通じて西欧社会に娯楽半分、恐怖半分で消費された最初期の紛争でもありました。植民地支配が終わった直後のアフリカで、冷戦の代理戦争と、人種的な憎悪、そして「戦争のプロフェッショナル」を自称する傭兵たちの狂気が交錯した瞬間を切り取っています。アルバートビルの敗北から始まった彼らの物語は、その後コンゴ全土を血で洗う過酷な掃討戦へと発展していくことになります。




2026年3月15日日曜日

2026年2月28日にイラン南部のミナブの学校に対するアメリカ軍・イスラエル軍による空爆の跡である。100人以上のイラク人の女の子が死亡した。破壊された瓦礫から死亡した女の子の手が露出した。

 2026年2月28日にイラン南部のミナブの学校に対するアメリカ軍・イスラエル軍による空爆の跡である。100人以上のイラク人の女の子が死亡した。破壊された瓦礫から死亡した女の子の手が露出した。アメリカ軍とイスラエル軍によるイラン攻撃をめぐって、アメリカ国内とくにトランプ支持層(MAGA)の間で強い批判が起きている。

 2026年3月1日、アメリカ大統領のドナルド・トランプがイランへの軍事攻撃を実施した。この攻撃はイスラエルと共同で行われた。その際イラン南部ミナブの学校が攻撃されて、100人以上の子どもが死亡したと報じられた。この攻撃を「完全に嫌悪すべき邪悪な行為だ」と表現された。下院議員も激しく批判した。SNSで「有権者がイランとの戦争でどれだけの犠牲を受け入れるかを政府が調査しても、回答ゼロだ」と怒りを示した。トランプ陣営が掲げたアメリカ第一主義と外国での戦争を終結させる公約に反している。

 一方で、アメリカ政界の反応は分裂している。共和党の下院議員は、この攻撃は「アメリカ第一主義に反する」と批判した。共和党の上院議員や民主党の上院議員は、イランの核開発の脅威に対するトランプ政権の断固とした行動を支持しした。この攻撃は外交交渉の最中に行われた。イランの核開発問題は、オマーンの仲介で交渉が続いていた。前年のイスラエルとイランの12日間戦争でも、アメリカはすでにイランの核施設3カ所を攻撃していた。イラン攻撃がアメリカ国内の政治に深刻な分裂を生み出した。トランプが掲げてきた「戦争を避ける外交」と「アメリカ第一主義」が、今回の軍事行動によって大きく問われた。




2026年3月14日土曜日

第一次世界大戦にて、ドイツ軍の毒ガス攻撃を受けた人々の死体が、フランス、ムーズ川沿いのダン近郊の森にて散乱した。毒ガス攻撃を含む戦争は人道に対する罪である。

第一次世界大戦にて、ドイツ軍の毒ガス攻撃を受けた人々の死体が、フランス、ムーズ川沿いのダン近郊の森にて散乱した。毒ガス攻撃を含む戦争は人道に対する罪である。女性平和連合(WPU)は、第一次世界大戦がもたらした人的犠牲をアメリカ国民に想起させるため、1920年代にこのチラシを配布しました。

第一次世界大戦後に平和運動団体であるWomen's Peace Union(女性平和同盟)が発表した反戦の呼びかけであり、戦争を「人類に対する犯罪」であると強く訴える宣言文である。文章は、戦争の悲惨さを理解している人々に向けて、平和のために行動するよう呼びかけてい。

まず戦争によって苦しめられている人類の現実を直視する人々に語りかけている。特に第一次世界大戦では約1000万人の兵士が命を落としたことを思い起こさせ、戦争がいかに大きな犠牲をもたらしたかを強調している。そして、戦争を「栄光」などと美化する感傷的な見方を捨て、残酷な現実を直視する勇気を持つ人々に対して、この訴えを届けた。

休戦協定が結ばれてから8年が経ったにもかかわらず、世界では依然として戦争準備が続けられている現状を批判する。もし再び戦争が起これば、前回よりもさらに残酷な方法で多くの人々が殺されるだろうと警告する。そこでは「死の光線」「毒ガス」「病原菌」「より恐ろしい機械」などの新兵器が使われ、男性だけでなく女性や子どもまでもが無差別に殺されると述べ、未来の戦争がさらに破壊的になる可能性を示している。そして、愛する家族もまたその破壊から逃れることはできないと訴える。

戦争という「不必要な死と苦しみの黒い疫病」を世界から取り除くために、できる限りの力を尽くすべきではないかと読者に問いかける。そして具体的な行動として、平和運動団体である女性平和同盟へ寄付を送るよう呼びかけている。

最後にこの団体の基本理念が示される。それは「暴力と流血は原理的に常に誤りであり、実際にも破滅的な結果をもたらす」という信念である。彼女たちは戦争を法律によって違法なものにし、世界平和を実現することを目標として活動している。戦争の悲惨さを強く訴え、平和のための社会運動への参加を促す強い反戦メッセージとなっている。














2026年3月14日  
Japan No War NGO  (JNWN)
日本平和市民連盟  
閲覧回数 1,000,000  

投稿数 3,251   

49,800 (2026年3月14日)
49000(UAS)

1,066,147 (2026年3月14日9AM)



2026年3月10日火曜日

以下:フランツ・フェルディナント暗殺後のオーストリアによる報復の犠牲となったセルビア人

 1914年8月、第一次世界大戦の東部戦線でロシア軍はドイツ領東プロイセンに侵攻した。ロシア軍は、レンネンカンプ将軍率いる第1軍と、サムソノフ将軍率いる第2軍の二方面から攻撃を行い、ドイツ軍を挟撃する計画であった。これに対しドイツ軍第8軍は当初プリットヴィッツ将軍が指揮していたが、後にヒンデンブルクとルーデンドルフが指揮を引き継いだ。

ロシア軍は湿地や湖の多い東プロイセンの地形の中を進軍したが、補給は不十分で、兵士たちは疲労し半ば飢えた状態であった。それでもサムソノフ軍はドイツ軍のフランソワ軍団と激しい戦闘を4日間続けた。しかし8月27日、ドイツ軍のフォン・ベロウ軍団がサムソノフ軍の北側面を攻撃し、さらにマッケンゼン軍団が続いて包囲網を形成した。

自軍が包囲されつつあることに気づいたサムソノフは撤退を決意したが、ドイツ軍は強く追撃した。特に攻撃的な指揮官フランソワは前進を続け、8月30日、ロシア軍の二個軍団を行軍中に奇襲した。その結果、約6万人の兵士が捕虜となり、最終的には捕虜の総数はほぼ10万人に達した。大敗北に絶望したサムソノフ将軍は戦場で自殺した。

一方、レンネンカンプ率いる第1軍はタンネンベルクの危機でサムソノフ軍を十分支援できなかった。孤立したレンネンカンプはマズーリ湖周辺の防御線に部隊を配置し、ドイツ軍の反攻に備えた。ドイツ第8軍は1か月にわたる戦闘の疲労から攻撃の進みが遅れ、ロシア軍は右側面の包囲を防ぎながら戦った。最終的にロシア軍はニーメン川方面へ撤退したが、秩序ある退却で完全な壊滅は避けた。

その後のマズーリ湖の戦いはドイツ軍の勝利となり、東プロイセンからロシア軍をほぼ排除する結果となった。タンネンベルクほど劇的ではなかったが、この勝利によって東プロイセンは解放され、兵力では劣るドイツ軍が東部戦線で主導権を握ることとなった。また、この勝利によりヒンデンブルクは国民的英雄として称賛される存在となった。

一方ロシアにとっては大惨事であり、第2軍は事実上壊滅し、指揮官も戦死した。タンネンベルクの敗北はロシア軍に深刻な影響を与えた。





2026年3月9日月曜日

同省の声明によれば、イスラエル軍は木曜日の夜明けに墓地へ侵入し、ブルドーザーで墓を破壊して遺体を掘り起こし、殉教者や一般の死者の遺体を持ち去ったという。

2025年7月、パレスチナ自治区ガザの宗教施設や墓地を管理するGaza Endowments Ministryは、イスラエル軍が南部の都市Khan Younisで墓地を掘り返し、遺体を持ち去ったとして強く非難した。

同省の声明によれば、イスラエル軍は木曜日の夜明けに墓地へ侵入し、ブルドーザーで墓を破壊して遺体を掘り起こし、殉教者や一般の死者の遺体を持ち去ったという。声明は、この行為を「恐ろしい犯罪」であり、「宗教的・人道的価値や規範を露骨に踏みにじるものだ」と批判した。さらに、こうした行為は人間としての最低限の倫理や国際的価値を超えるものであり、「死者の尊厳と神聖さを踏みにじる蛮行」であると強く非難した。

また同省は、イスラエル軍がさまざまな「口実」を用いてガザ地区の墓地を組織的に破壊していると主張している。ガザには約60か所の墓地が存在するが、そのうち40か所が意図的に破壊されたとしている。

この事件は、2023年10月以降続くガザでの戦闘の中で報告された出来事の一つである。イスラエル軍による攻撃により、これまでに約5万7800人のパレスチナ人が死亡したとされ、その多くは女性や子どもだと報告されている。継続的な空爆と軍事行動によりガザ地区の都市やインフラは深刻な被害を受け、住民の生活環境は著しく悪化している。食料不足も深刻化しており、一部では飢餓に近い状況が生じていると指摘されている。

こうした状況の中で、墓地の破壊や遺体の扱いをめぐる問題は、戦争における人道的規範や宗教的価値の観点から強い批判を呼んでおり、地域の緊張と国際社会の懸念をさらに高めている。




2026年3月8日日曜日

2022年ロシアのウクライナ侵攻の初期段階における戦況と人道危機を報じている。ロシア軍は侵攻開始から16日後、首都キーウ(キエフ)へ徐々に接近しながら、各地の都市で民間地域への攻撃を続けている。

   2022年ロシアのウクライナ侵攻の初期段階における戦況と人道危機を報じている。ロシア軍は侵攻開始から16日後、首都キーウ(キエフ)へ徐々に接近しながら、各地の都市で民間地域への攻撃を続けている。国際社会は「想像を絶する悲劇」が迫っていると警告しており、国際連合などはロシア軍が戦争犯罪を犯している可能性を指摘している。

   特に南部の港湾都市マリウポリではロシア軍による包囲が続き、12日間の攻撃で1500人以上が死亡したと地元当局が発表した。街は水道や暖房が止まり、食料も不足している。極寒の中で市民は脱出を試みているが、多くの人々が取り残されており、国境なき医師団は「数十万人が実質的に包囲されている」と述べている。街路には埋葬されない遺体が残るなど、状況は極めて悲惨である。

    ウクライナの大統領ウォロディミル・ゼレンスキーは、NATOに軍事介入を求めているが、米国大統領ジョー・バイデンは、核保有国ロシアとの直接衝突は「第三次世界大戦」を招くとして軍事介入を拒否した。その代わり米国と欧州連合はロシアへの経済制裁を強化し、通常貿易関係を停止し、ウォッカ・海産物・ダイヤモンドなどロシア産品の輸入禁止や高級品の輸出停止を決定した。

    戦争の影響で避難民は急増し、約250万人が国外へ逃れ、国内でも約200万人が避難生活を余儀なくされている。第二の都市ハルキウや工業都市ドニプロでもミサイル攻撃により住宅や幼稚園などの民間施設が破壊され、子どもを含む多くの市民が被害を受けている。






爆弾を詰めたバッグが設置され、遠隔操作で起爆された可能性がある。現場では突然の爆発により群衆がパニックに陥り、逃げ惑う混乱が広がった。死者数は当初100人以上と報じられたが、その後84人に修正された。

2026年3月4日水曜日

戦死したアメリカ軍の戦友が、1968年のテト攻勢中に、サイゴンでベトコンの攻撃を受けたアメリカ軍の独身将校宿舎の瓦礫から掘り出されたアメリカ軍将校の遺体が搬送された。

戦死したアメリカ軍の戦友が、1968年のテト攻勢中に、サイゴンでベトコンの攻撃を受けたアメリカ軍の独身将校宿舎の瓦礫から掘り出されたアメリカ軍将校の遺体が搬送された。

 1968年のベトナム戦争はテト攻勢により決定的な転換点を迎えた。旧正月(テト)の休戦を破って敢行された共産側による一斉攻勢であるテト攻勢は、軍事的な勝敗を超えて、アメリカ国内の世論とアメリカ軍の士気に傷跡を残しました。サイゴンのアメリカ軍独身将校宿舎(BOQ)における被害とアメリカ軍将校の遺体搬送は、戦線が消滅して、安全なはずの後方が地獄に化した混沌を象徴した。

 1968年1月31日未明のテト攻勢の衝撃により、北ベトナム軍(NVA)と南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)は、南ベトナム全土の主要都市や軍事施設を同時多発的に襲撃した。勝利は間近であるアメリカ軍上層部の報告を信じていたアメリカ国民にとって、首都サイゴンの中心部、さらにはアメリカ大使館までもが戦場となった衝撃を与えた。

 特にサイゴン市内に点在していた独身将校宿舎(BOQ: Bachelor Officers Quarters)や軍事宿泊施設は、ベトコンの都市ゲリラにとって絶好の標的となった。前線から離れ、休息や事務作業に従事した兵士たちは、突如として瓦礫の下に閉じ込められ、不意打ちを受けた。サイゴン市内の将校宿舎(BOQ)への攻撃は、多くの場合、爆薬を満載した車両の突撃や、近隣の建物からのロケット砲(B-40)による狙い撃ちされた。宿舎は要塞ではなく、居住施設であった。瓦礫の中から戦友を掘り出すアメリカ軍兵士は、敵への怒り以上に、安全が崩れ去った困惑と、仲間を失った深い喪失感が刻まれた。建物が密集する市街戦のサイゴンでの戦闘は、敵味方が入り乱れる混戦となった。瓦礫から掘り出される遺体は、戦線となった。

 遺体の帰還がメディアを通じてアメリカ米本土の報じられた。アメリカ軍は軍事的にはテト攻勢を撃退し、共産側に甚大な損害を与えた。宿舎の瓦礫から運び出されるアメリカ軍兵士の遺体、見守る戦友たちの映像や写真は、衝撃を与えた。

 失われた戦友は、第二次世界大戦以来の「正義の軍隊」とアメリカ軍の無敵性の喪失を示唆した。1968年のテト攻勢におけるBOQの悲劇は、現代の非対称戦争における「後方支援施設の脆弱性」を先取りした事例でもある。瓦礫の中から搬送される遺体は、兵士一人ひとりの命の喪失と、戦争の残酷な真理を提示した。